本当に、今年は春が来るのか、と、言いたくなるような3月のお天気でした。それでも、その寒さに耐えた分だけ、私の愛する桜は長く咲いてくれたように思います。
この国に暮らす大勢の人が愛するように、私もこの花に魅了された人間の一人です。時期になれば、色々な人たちに声をかけ、様々な趣向で咲き始めから散りゆく時まで、足しげくその姿を追いかけてまいりました。しかしながら、諸事情があって今年は思うに任せない状況です。といいつつ、まるで逢引きでもするように、密かに一番好きな場所で妖艶な美しさに浸ってはきました。感慨もひとしおでした。
繰り返しますが、桜の花は私の最も好きな花です。そして、このことはこれまで小欄においても何度も綴ってきました。まるで、その根元に死体が埋まっているのではないか~というような、文人墨客達が残した桜に纏わるお話も、その中で幾度も取り上げて来たと思います。しかしながら、この頃では一つ一つのエピソードがぼやけてしまい、直ぐには出てこないようなこともあります。
一方で、私の場合、桜といえばどうしても夜のイメージが想起されます。夕闇の中で雪洞に照らされ、幽玄に広がる桜の海に、魅了され続けて今日に至っています。もちろん、日が沈み始める頃の浅い夕暮れの情景も良いですし、すっかり暗くなって闇が深くなった時に見せる妖艶さも美しいものです。またそこには、先人がこの花を物語のモチーフとして取り上げてきたことの意味がよく解ります。
古来、人は、人間の力ではどうにもならないものに対して畏敬の念を持ち、創作意欲をかきたてられてきたのだと思います。この、どうにもならない(できない)ことの範疇に、地球の自転はコントロールできない→夜の闇も気象も人の手ではどうすることもできない現実があります。同様に、桜を無理やりに咲かせることは出来ず、散っていくのを止めることもできないということもあります。
その、どうにもできない夕闇の中に、時期を得て一同に咲き競う桜の海を見る時、人は己の無力さと自然の力の偉大さを痛感するのではないでしょうか。細やかに雪洞の灯りをともしてみたりはしますが、月の灯り程の演出効果を求めるのは難しいともいえるでしょう。いずれにしても、思うようにならない世の中で営まれる人の暮らしなどには目もくれず、桜は咲き散っていくのです。
その様を見て、何か言葉が欲しい~と考えるのは人間が持つ自然な情感といえるかもしれません。だからこそ、お話や物語が生まれるのだと思います。少し冗長になりましたが、簡潔に言えば私は夜桜が好きです。そして、私の住んでいるまちにはその夜桜を楽しませてくれる場所があるということです。これまで、数限りなくその場所で桜を眺めてこられたことに心より感謝したいと思います。
振り返ってみれば、子供の頃は明るい春の日差しの中で、優しい家族に連れられてお花見をしてきました。そのことは、少し大きくなった少年期も同じような感じでしたが、思春期を過ぎた頃から何故か夜の闇に咲く桜に惹かれるようになっていきました。そうですね。夕闇が醜いものを消していく作用をするのかもしれませんね。そしてそんな気持ちは、長じてたくさんの経験を積むと確信へと変わりました。
考えてみれば、開花から散っていくまで約一週間~十日という花です。私達は、その十日間を一年かけて待っている訳です。本当に、桜は不思議な花です。まぁ、人の世も同じようなものかもしれません。何年生きるかよりも、どのように生きたかということなのだと思います。記録に残ろうが残らまいが、必ずその人の生き様は誰かがみているはずです。そして、それが多くても少なくても関係ありません。
私が、小欄を開設してから常に述べ続けて来たことは、日本人の精神性への回帰ということですが、改めてどのように生きるかということだったんだなぁと思います。そのために、基本的に持つべき価値観が、何事も胸に手を当てて考え、恥ずかしいと思うことはやらないという考え方です。もちろん、叩けば埃だらけの身体(これも常に述べてきましたが)の私が、したり顔で語ることではありません。
それでも、ご縁をいただいた師匠や恩師に導かれ、まず「世の中の役に立つ」という考え方を思考と行動の原点に据えるようになってからは、この「本来の日本人の精神性への回帰」は、どうしても語り続けなければならないものと考えるようになりました。そうして、2002年から約23年間小欄を綴ってきました。小さな音であっても警鐘を鳴らし続けてきたつもりですが、成果は良く見えません。
本当に、微弱で細やかな営みであったと思いますが、やらないではいられないことでもありました。また、やり続けてきてよかったなぁと考えています。できれば、これからも良い人と巡り合い、語り合いながら世の中の役に立つ~を考えていきたいと願っています。