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これまでのコラムが納めてあります。
※バックナンバーはNO.1~NO51です。できれば、通してお読みください。
  (根底に流れるものを、くみ取っていただけると思います)
                                           


                    衆議院本会議場                  自動運転バス                福山城

NO.51      

2023 10月1日  視野を広げる 




 10月ですね。まだまだ、秋の気配を感じる機会は少ないですが、朝夕などに涼しい風が吹き、随分過ごしやすくなってきました。結果的に、どこかに行きたいなぁというような思いが湧いてきます。

 だからという訳ではありませんが、今日から同級生達とバスツアーに出かけます。これは、還暦頃から始めた取り組みなのですが、あまり楽しいので、毎年出かけるようになっています。とはいえ、各自が多忙な毎日を過ごしていますから、スケジュール調整など中々難しい面もあります。さらに、持続可能性とあまり疲れないようにすることを考え、一泊から二泊で行ける範囲で行先を決めるようにしています。

 また、予め大まかな行程は決めますが、皆の意見で予定外のところに立ち寄ることもしばしばです。この点は、貸し切りバスツアーの良い点です。そのようにして、まるでミニ版の修学旅行のような珍道中が展開される訳です。これは、いつも述べておりますが、学校教育法に定められた期間(4月2日~翌年の4月1日)に、だいたいこの地域に生まれただけの関係は、50年もすると得も言われぬ関係になります。

 そこには、勉強ができたやつもできなかったやつも、やんちゃも真面目もありません。その中にいると、本当に良い仲間達に恵まれたなぁという気持ちになります。心から、そのことに感謝し、人との出会いの大切さを感じる一時です。一方、出会いという意味では、新たな出会いや視野が拡がるような機会もあります。例えば、先週の日曜日には、ボクシングの試合を生で見ることができました。

 日常、ボクシングファンを自認し、うんちくや能書きを語っている私ですが、実際にリングサイドでボクシングを見たのは初めての経験でした。やはり、テレビ(私の場合、ボクシング番組を見るために、有料放送を契約したような部分があります)とは違い選手の息遣いやパンチの当たる音、さらには観衆の声援など臨場感があり、とても楽しむことができました。どうですか~と声をかけてくれた人に感謝です。

 改めて、現場で見ると、鍛え上げられたボクサーの身体は美しいものです。その上でいえば、そこにはその人の努力の程度による微妙な差を垣間見ることができます。しかしながら、ボクシングの残酷なところは、その努力が結果に結びつくとは限らないところです。また、ボクシングは崇高なスポーツであり喧嘩ではありませんので、努力と才能の裏付けが無ければ相手に勝つことは出来ません。

 他方、昨今は過剰な演出や、喧嘩の延長を助長するようなものも観られますが、そのような風潮が隆盛を極めるようなことは無いと思いますし、私は強い違和感を覚えます。基本的に、人間の尊厳や命の大切さを重要に考えていないものは邪道です。もう少し言えば、日常において厳しいトレーニングとストイックな生活を自らに課す格闘家たちには、そうした精神面も養って欲しいと思います。

 実際には、メイウェザーのように、ボクサーであっても金さえ稼げばよいのか~と思う人物や、低ランカーであってもわかってないなぁ~と思う選手を見かけることはしばしばあります。それでも、基本は先ほど述べた通りです。また、今回現場を見て、そのような選手をサポートするジムの会長やスタッフが、かいている汗の尊さのようなものも感じました。そのような意味で、少し視野が広がったように思います。

 一方、視野を広げるという視点でいえば、新しいことをするばかりでもないかもしれません。先日も、洋学資料館を訪れ、明六社に関する企画展を見てきました。また、ついでと言ってはいけませんが、その後郷土博物館に行き、この21日(土)に行われる山本博文追悼シンポジウムの申し込みをしておきました。いうまでもありませんが、3年前他界された山本博文さんは、本市出身の著名な歴史学者です。

 いつだったか、何かの講演の後の懇親会でお話させていただいたことがありますが、穏やかで優しい語り口が印象に残っています。実は、私は一学年下の世代で、当時のまちの風景などについても、思い出を披歴していただきましたが、少し疲れた様子も窺がわれました。振り返れば、既に病魔に侵されておられた時期だったことが偲ばれます。後から、行っておいてよかったなぁと思うイベントでした。

 それは、まさに会いたい人に会い、見たいものを見て、読みたいものを読むライフスタイルから得られた果実であると、私が自負する部分でもあります。一方、縁というのかタイミングも重要です。実は今日、友人たちと過ごしている間に、カネロ(サウルアルバレス)対ジャーメルチャーロの試合があります。端末を使えば生でも見られますが、野暮なことはしたくないので帰ってから録画でみるつもりです。

 また今月は、本市文化センターで行われる「沼の中の淑女たち」という舞台を鑑賞する予定です。少しでも視野を広げ、感性も豊かにしていきたいと考えています。それては、行ってまいります。



2023 9月18日 例えばテレビ




 まもなく、秋のお彼岸です。とはいえ、まだまだ日中の暑さは続いています。気候にも社会情勢にも、色々な違和感はありますが、私は自分の思いに従い、自らのペースでやっていこうと考えています。

 それは、会いたい人に会い、見たいものを見て、読みたいものを読むという、基本的な私のポリシーに基づいた行動パターンです。それでも、やらなければならないことは山積し、果さなければいけない責任も多々あります。したがって、その都度最適(と思われる)な判断をしながら、取り組んでいくつもりです。そのうえで、小欄を通じて、少しでも言いたいことや言うべきことを述べていきたいと考えています。

 さて、これまでもそのようにして、小欄において触れてきた話題の一つですが、ジャーナリズムというのか報道機関が持つべき責任について、少し述べてみたいと思います。かつては、新聞やテレビから伝えられるニュース報道には、今よりもはるかに重みや権威があったように記憶しています。しかしながら、今の現状を概観すれば、その重みや権威が感じられなっていると思う人は、たくさんいるはずです。

 まったく、何時頃から、現在のような体たらくになってしまったのかと嘆くばかりです。基本的に、その背景には急速に進化(といって良いかどうかわかりませんが)と発展を続けるネットメディアの持つ力が、どんどん大きくなっていく現状があります。そして、私は、そうしたメディアの有り様が反映されて怪しく変容する、社会常識や通念などを母体として形成されていくこの国の世論にも危惧感を抱いています。

 何といっても、とにかくバズれば良いという風潮で、SNSによる発信競争のような展開が繰り広げられる状況に危機感を覚えます。また、急速に普及して社会を席巻していくネットメディアを巧妙・狡猾に使い、情報操作や意図的な誘導、さらにはサイバー攻撃など、大国・小国を含めた国際規模の暗躍が展開されていることを疑う人はいないと思います。その他、企業や組織などによる企みもあるでしょう。

 そうした現状において、溢れかえる情報を的確に精査して、適正な価値規範に基づいた判断をしていくことは中々困難なことだと思います。例えば、公職の立場にある議員でさえ、明確なエビデンスを持たぬままネット情報を振り回して、不毛な議論を仕掛ける光景などはよく見かけることです。そもそも、そのような人たちからは、解っていてやっているような確信犯的な匂いさえ感じてしまいます。

 その上で、彼らはその相手方に対して、ネットに出ている疑惑を払拭する責任を求めたりします。しかし、一方的に興味本位のような形でネットメディアに取り上げられた噂のようなものについて、噂をたてられた側が疑惑とされる部分について、自らが払拭しなければならないような責任は無いはずです。もう少し言えば、一旦アップされた書き込みや画像・動画などを消し去ることは、ほぼ不可能です。

 そうであるにも関わらず、このような記事がネットメディアに出ていた~という調子で、口角泡を飛ばす議論を吹っ掛ける行為には、本当に疑問を感じます。ネットに出ていたといえば、河童も存在するだろうし、50年前に否定されたネッシーもネス湖の中を泳ぎ回っているといえるのではないでしょうか。他にも、今夜も座敷童と語り合ったという人の話も、簡単にネタ元ということになってしまいます。

 エビデンスについては、以前からエンジニアとしての立場から語ってきましたが、どのような分野から述べたとしても、そこには事実と検証により、明確に裏付けられた根拠というものが必要であるということです。例えば、自分がみてそう思ったら「誰が見ても」などと発言して良いものではありません。それは、市民から付託されて、二元代表制の権能を果す責務を持つ議員なら当然理解しておくべきことです。

 実は、今述べてきたようなことは当たり前のことです。そして、少なくとも私が育ってきた時代には、ジャーナリズムとしての報道機関が持つべき権威と影響力が、まだ残されていたように思います。やはり、私は、新聞とテレビの凋落が否めないと思います。かつて、佐藤総理の引退会見場から追い出された新聞をしり目に、世論形成の核を担ってきたはずのテレビは、今ネット情報の後追いばかりです。

 他方、かつて徹底した取材に基づき、他社をすっぱ抜くことを誇りにしていたはずの新聞などは、発行部数の減少で青息吐息です。そんな彼らがやることは、統一教会にしろジャニーズ問題にしろ、ネットメディアで火が付いたものについて、あたかも今発見したかのごとく、俄か正義を騒ぎ立てるだけではないでしょうか。しかもそこには、本来のあるべき論や未来を見据えた提言も聴こえてきません。
 
 それでも、まだまだテレビを見る人は多く、大きな影響を与えるメディアです。また、ドキュメンタリー番組等、意義ある番組制作もみられます。だからこそ、あえて言いたい「テレビよしっかりしろ」と。「本当だよ。昨日テレビで言っていたもの~」と少年時代に友と語り合った記憶が、セピア色に甦ります。



2023 9月4日 がむしゃらさの大切さ 




 9月になりました。まだ、暑い日が続いていますが、個人的には8月28日の朝その気配を感じました。何というのか上手く言葉にできませんが、あの感覚が所謂秋の気配であったと思います。

 これも、いつも語っていることですが、私は、理屈ではなく肌で感じることが大切であると考えています。まさに、先程述べたような「気配」のようなことが、それにあたります。例えば、それは春の花の咲く予兆であり、目には見えねども~という秋の気配でもあります。また、人との出会いの中で感じるものでもあるでしょう。もちろん、私に特別な才能がある訳ではありませんが、時々感じる感覚です。

 具体的には、日頃影響されたり良いなぁと思っている人と、思わぬシチュエーションで出会うこともあります。一例ですが、BS番組の酒場放浪記で、毎回美味しそうにお酒を飲んでいる人や、NHKのドキュメント72時間のテーマ曲を歌っている彼女などとの出会いがあります。その他、我が2人の師匠を含め、心惹かれる私の気持ちが何となく(意図的な場面もありますが)伝わるようなことがあります。

 一方で、私は、なるべく先入観なく人と会うようにしています。特に、初対面の人の時には、そのように心がけています。以前、それでも噂は85%~90%合っていると述べましたが、今の私の交友関係の根拠となっている人達は、そのような先入観を排除して向きあった人達ばかりのように思います。逆に言うと、私の方が先入観やイメージなどにより、理解されづらいところがあるからかもしれません。

 そんな私ですが、相変わらず多忙な日々を過ごしています。それでも、請われて知人の表彰祝賀会に出たり、心通い合う友人との会食など、有難いなぁと感じる交流の機会をもつことができていると思います。昨日(9月3日)も、鹿児島から声の便りをいただきました。相次ぐ集中豪雨などに見舞われたことなど、本来は私から様子をお尋ねすべき人でした。それでも、心温まる会話ができ感謝しています。

 それは、本当に有難いことであり、これからも続けていきたい大切なつながりでもあります。何よりも、そうして、桜が咲けばその花の向こうに、旅に出れば旅先で、あるいは人生の節目に思い出す人がいることは、とても幸せなことだと思います。また、おかげさまで、頭でっかちでやんちゃな少年時代から今日まで、お互いに「得も言われず愛おしき~」と思い合える人達には恵まれていると思っています。

 ただ、自分では、思いつくままに思いつくことをしてきただけのつもりですが、その中に少しは真摯な気持ちが伝わる部分があったのかなと、最近では考えるようにしています。もちろん、それはがむしゃらで独りよがりの歩みだったかもしれません。しかし、何事も、結果など考えずがむしゃらにやってみることが大切なのではないでしょうか。特に、若い時には、そうした体験が必要だと思います。

 例えば、それは読書などにもいえることです。手前味噌ですが、私は、量的にはたくさん本を読んだ方だと思います。それは、日常に馴染めない感覚の幼少期から、ジャンルを問わずに読みました。どこか、本の世界に逃避するような気持ちもあったのかもしれません。どちらかというと、手当たり次第という感じでしょうか。結果的に活字が好きになりました。また、いつも述べていますが日本語が好きです。

 ところが、ある程度年齢を重ねてくると、がむしゃらな読書から得られた知識や感動が収斂されてくるのでした。それは、私が勝手に収斂されてくると感じているのかもしれませんが、歴史に関することが、哲学に関することが、宗教に関することが、その他あらゆることが年齢と共に繋がってくるような気がします。その結果が、今の私の価値観を形成しているともいえるでしょう。

 一方で、本当にそれは好きなジャンルを好きなだけ~という感じですが、結果的に読むべき本を読んで来たようにも思います。私は、カミュやカフカで2冊上げろと言われれば、異邦人・ペスト、変身・城と答えますが、それらは必須だと思います。そしてほんの少ししか読んでいない作家に小松左京がいますが、復活の日は外していません。その他、作家を挙げればきりがありませんが、そのように思います。

 まぁそれは、それらの本が私のアイデンティティを支えているので、そう思うのかもしれませんね。そんな思考形態だからか、私は、やってきたことに後悔することはあまりありません。それは、結果が報われるとか報われないということには関係ありません。それでも、幾つかは「あの時、こうしておけば~」というのはあります。その1つが、初めて技術士試験の口頭試験に赴いた時のことです。

 それは、偶然同じ新幹線に乗っておられた、河合隼雄さんにご挨拶できなかったことです。普通の人はまず気が付かないと思いますが、一瞬同じホームに立ち私は気づきました。その時、河合さんは「気付いた?」と微笑まれたような気がしましたが、お声がけする勇気がありませんでした。本当に、ほんの一瞬のことでした。今でも時々、惜しかったなぁ~と、思う一コマです。まぁ、それも人生ですね。



2023 8月21日 旧盆雑考(例えば情緒感)




 お盆を過ぎ、台風も来ましたが、まだまだ暑い日が続いています。また、その暑さは尋常なものでは無く、本当に私達の身の回りの環境は大きく変わってしまったなぁと思います。

 まことに、数十年に一度や百年に一度~という異常気象が日常のようになり、毎年、風水害による大きな被害が彼方此方で発生する地球環境となっています。そこには、人類が責任を持つべきことや、早急に取り組まなければならないことがあるはずです。しかしながら、私達人間の持つそうした責任感や他者への思いやりが、人類の進化と共に深まっているとは思えないのも、正直な気持ちです。

 そして、理屈を超えた情緒感の共鳴により、相互理解が深まるというようなことも少なくなったように思います。そんな世の中ではありますが、お盆の間に身体に沁みこんだような行事をこなし、亡き人等を偲ぶ行動を取ることは、意義深いことだと思います。またそれは、私にとっては大事にしたい営みでもあります。もう少し言えば、そのような風習や伝統が守られるような世の中であって欲しいと願います。

 一方で、年齢を深めるにしたがって、基本的な私の宗教観は無宗教的な色合いが強まっていくばかりです。それは、そのようなことを「神がお許しになるのか」というような不条理を目にする機会を多く持ち、身の回りなどを見ても、何をしても罰(ばち)等はあたらないんだなぁと感じる機会が多いからです。他方、「本当に神がおられれば、こんな酷いことはしない」と言われた横田滋さんからも影響を受けました。

 元拉致被害者の会代表の横田滋さんは、敬虔なクリスチャンである奥様から洗礼を進められましたが、先程の言葉を告げ、頑なに洗礼を受けることを拒んだ~という話を聞いたことがあります。さらには、こちらも年齢を重ねる程に薫陶を受け、その考え方に私が傾倒していった、立花隆氏による「死後の世界などはない」という徹底的な取材に基づく発言などからも、影響を受けていると思います。

 特に、再発した自らの癌を一つのテーマとし、哲学的な見地から冷静に検証を行いながら、人間だけが持つDNA以外による次世代への知の伝達ということの意義を通して、独自の死生観を確立していく思索過程には圧倒的な共感を覚えました。その結果、死んだら死体はごみとして処分しろ(実際にはできませんが)といい、あれだけ大切にしていた本の山は、猫ビルから一冊も無くなってしまいました。

 一方、その過程を描いたドキュメンタリー番組の中で、自らの考えについてこられない担当ディレクターに苛立つ様子や、筑紫哲也氏など同士のような人達の訃報に接しカメラを憚らず絶句する様子に、挑むような眼でロッキード事件に取り組んでいた姿とのギャップを感じました。さらに、この人の持つ生来の優しさを感じながら、人間は良くも悪くも変わっていく(変われる)のだということを噛みしめています。

 そのうえで、立花さんがたどり着いた、知識の知の一つとして前代と次世代の間を繋げられたことに感謝することができれば救われるのかもしれないという言葉に、今、大きく頷いています。ところで、その番組では、現代社会においては、例えば医学の世界でも専門化がどんどん進み、それが人間の体の中でどのような意味を持っているかという点が見失われているという話もされていました。

 まさに、AIやICT技術を活用した専門的な研究が急速に進む中で、本来、人間が人として考えなければならないことが置き去りにされているのだと思います。簡単に言えば、木を見て森を見ずというようなことでしょうが、そんな単純な話でもありません。例えば、再生医療のための新たな細胞の創出・形成と、クローン人間を生み出す過程などは非常に近い関係にあり、高い倫理観の裏付けが求められます。

 私は、そのような生命倫理等に関わる判断をしていくときにこそ、古来、人類が生き残るために育み培ってきた人間の情緒感というものが、とても大切になってくるのだと思います。あえていうまでもなく、人は物ではなく、一人一人に人格があります。一般的な社会の物差しや、或いはイデオロギー等に基づいて、有益とか不用という風なレッテルが貼られるべきではありません。

 またそれは、国籍や人種により判断されることでもありません。夫々の文化やアイデンティティは等しく尊重されるべきものです。物事を判断していくときに、そうした人間らしい考え方をしていくために、お盆の行事を素直に受け入れられるような情緒感が必要なのではないでしょうか。今年も本当に暑いお盆でした。それでも、縁の人達のお墓に線香を手向ける時、得も言われぬ安らぎを感じました。

 当然ですが、人間には知識や智恵が必要です。その、知識を積み上げ、智恵を生み出す過程においても、豊かな情緒感に裏付けられた高い人間性が求められるのだと思います。



2023 8月7日 まっとうな人達との繋がり




 昨日は、原爆忌でした。ロシアによる泥沼のような進攻の中、核をちらつかせた脅しなどを見ていると、人類にとって決して忘れてはいけない日があることを痛感しながら、ため息をついてしまいます。

 今年も、本当に暑い日が続いています。所謂35℃以上の猛暑日などはざらで、40℃に近い最高気温に達する場所さえ出てきました。また、沖縄地方を中心に長く居座り、今までに見たことも無いような軌道を取ろうとする台風など、異常と思われる気象状況から、地球の悲鳴が聴こえるような気がします。もちろん、温暖化の要因と責任は人類にあり、日本だけでどうにかできることではありません。

 そのような暑い日々の中、2日~4日まで東京方面へ視察に行ってきました。というか、東京に拠点を置き、茨城県境町の自動運転バスやその運行に関する取り組みと、大田区立御園中学校未来教室で取り組まれている、不登校対策の実態について詳細に勉強してきました。また、地元選出国会議員のお世話で、6人の国交省職員から地方公共交通に関するレクチャーを受け、意見交換もしました。

 結果的に、猛暑の中たくさんの汗を流したかいがあった視察・研修であったと思います。早速、会派のメンバーと相談しながら、このまちの未来に資する為に活かしていきたいと考えています。そして、いつもながらのことですが、虚心坦懐に学ぶ事の大切さを感じました。さらに、そのことは、血税の執行を担い、行政に携わる人間全てが持つべき姿勢であり、とても大切なことだと思います。

 一方で、市政に関することなどについて、或いは、真面目な日常生活を送りながら実感した矛盾や手を入れるべき点などについて、何人かの人から問題提起や相談も受けました。内容を分析し、手段や手法を考えながら、真摯に対応していきたいと考えています。さらには、土曜の夜のパトロールなど、地元で行われる目立たない取り組みにも、出来るだけ参加しています。

 考えて見れば、当たり前のことを当たり前にこなしていくだけですが、結構忙しい生活にはなります。それでも、そのような日々の中ではあっても、まちづくりやこのまちの進むべき方向性などについて考え方を共有できる人や、処世感そのものが似ている友人達と語り合い、リフレッシュする機会も持つことができていると思います。さらにいえば、「話を聴きたい」とお声がけいただくことも増えました。

 それらすべてが、有難いことだなぁと思います。やはり、人と人のつながりというものは大切なものだと思います。もう少し言えば、そのつながりや関わり合いの中において、自分自身が磨かれていくのだと思います。また、その結果として、価値観や信条を共有できる人間関係が形成されていき、そこで取り残されない為にも、継続した自己研鑽と柔らかい感性の維持が大切なのだと思います。

 ところで、夏休みは今が佳境です。あちらこちらで、納涼祭や花火大会が開催されています(規模の大小を問わず)。私自身も、そうした夏の風物詩を通して甦る甘い感傷や、ほろ苦い思い出などが幾つも浮かんできます。またそれが、夏という季節が持つ特性であり、人々の活動に影響を及ぼす大きな力です。例えば、あの夏のせいだとか、あの夏はどうかしていた~という声はよく耳にします。

 日常に話を戻せば、地域における住民活動などで汗をかく機会は、夏になるとどうしても多くなってしまいます。単に、催しを楽しんだり眺めたりする分には良いと思いますが、夫々のイベントに携わる人達は本当に大変です。そのような意味からいえば、例えばそれは、日常的に行われている小さな行事であっても、子ども達をはじめとする地域住民の為に流す汗は尊いものだと思います。

 さらにいえば、むしろ日常生活の中で営まれる、一つ一つの小さな取り組みこそ根気が必要です。実は、これを当たり前のように続けていくことが大変なのです。そこには、地域の子どもは地域で育てていくんだ~というような、高い住民意識の裏付けも必要です。一方、そうした表には現れにくい地道な努力の積み重ねが、結果的には地域の良き伝統となり、次世代に受け継がれていくのだと思います。

 しかしながら、急速な人口減少と高齢化の進行などにより、そのような地域における活動は厳しくなっています。また、本来伝統をしっかりと受け継いでいなければならない若い世代の意識も、随分変わってしまいました。成長に合わせて、本来育まれている筈の郷土愛や地元意識などというものについても、違和感を覚えることが多くなりました。本当に、大きな意味で教育の大切さを痛感しています。

 そして、小欄を通じて私が鳴らし続けてきた警鐘の響きが、中々共鳴していかないなぁというもどかしさも感じます。それでも、私は、まっとうな人たちと共に、真面目な人や弱い人のために皆で考える世の中の実現を信じたいと考えています。たとえ、何があろうとも。




2023 7月24日  精神と肉体(三島考)




 7月、最終週です。この20日には、気象台から「中国地方が梅雨明けしたとみられる」というコメントが出されました。次代を担う多くの児童・生徒・学生達が、充実した夏休みを過ごせることを祈ります。

 さて、先程気象台による梅雨明け宣言に言及しました。確かに、昔は公的機関(お上)が梅雨入りや梅雨明けを宣言していたように思います。しかしながら、梅雨入り宣言しても雨が降らないとか、梅雨明けしたはずなのに長雨が続くようなことが多々あり、宣言などはしなくなりました。そもそも、勝手に自然現象に名前を付け、その始まりや終わりを宣言する行為自体が人間の奢りといえる気がします。。

 一方で、個人的な実感としては、季節の移ろいを身体で感じることはあります。それは、広島気象台が中国地方の梅雨明けに言及する、1日前の19日の夕方のことでした。私は、予報通り、同じ県内であっても場所によって雨が降ったり降らなかったり、またその量も異なるという一日の所用を終えて、自宅に帰りました。そして、車を降りたその時に、肌に感じた風の感覚から明確な梅雨明けを感じました。

 それは、定量的には表現できませんが、明らかに湿気の少ない心地よい風でした。明確な言葉にはできませんが、しっかりと肌に感じた感覚というものでした。私は、その肌で感じる感覚というものをを、とても大切にしています。また、私のそうした思考形態は、先入観を持たずに世の中の事象にあたり、フラットな状態で判断していこうという、私の信条が定まっていく過程で深まり続けてきたものです。

 とはいえ、そのような思考形態が構築されていくためには長い時間がかかり、多くの友人知己等から影響を受けたことは間違いありません。一方で、そのような私の人格と思考形態の形成過程においては、子供の頃から所謂頭でっかちで、知識偏重の幼少年期を生きて来たことに対する反動と、実は生来備えていたと考えられる私自身の気性への回帰があり、時々に葛藤を繰り返してきたことも事実です。

 恐らくそれは、誰にも共通することではないでしょうか。大人になっても、どうしても逃れられないのが、人格形成の基本にあった幼少年期の記憶や体験だと思います。今回は、そのような意味から三島由紀夫に触れてみたいと思います。私は、最近何冊か三島由紀夫に関する本を読みました。もちろん、手にしたのはいつものように文庫本ですし、会合の合間の時間つぶしで寄った本屋で求めたものです。

 その時、いつもの天啓(大袈裟ですが)により「太陽と鉄・私の遍歴時代」と、「文章読本」という2冊が目に入りました。また、当然ですが、それらはまだ私が読んだことが無いものでもありました。早速、手に取りレジに向かったのですが、文庫本2冊で1900円以上したことに驚きました。以前から、文庫本の値上がりについては感じていましたが、思わず丸善のお兄さんに値段を問い返してしまいました。

 話を元に戻します。私は、高い見識を備えた人にはイデオロギーなどに関係なく頷ける部分や、参考とすべき考え方があると思っています。そのような意味からも、私にとって三島由紀夫は深く興味をそそる人物です。三島由紀夫といえば、何といっても1970年11月の割腹自殺が衝撃的でした。それは、当時中学一年生の私などには、何が起きているのか解らないような出来事でもありました。

 一方、中学生になって初めて違う小学校から来た友人ができ、深夜放送に夢中になり、学生が世の中を変えるのではないか~というような世の中の空気に触れ、先駆的な感情に浸ろうとしていた頭でっかちの少年には、とても多きな衝撃であったと思います。そもそも、それまで人が命を賭して何かを訴え、本当に腹を切るなどということは歴史や故事の話であり、見たことも聞いたこともありませんでした。

 実際には、そのようなセンセーショナルな事件が度々起こる訳ではありませんが、そこに向かっていく三島由紀夫の心中を知る機会や資料に触れることが多くなるほど、私自身の中に、感情移入するような共感と人が生きていくことの切なさを感じる気持ちが深まってきたと思います。それは、太陽と鉄・私の遍歴時代による、三島氏の真摯で切実なまでの自己分析と生き方に対する説明に頷かされます。

 同書には、「三島由紀夫最後の言葉」という対談が納められています。そこには、天皇陛下万歳という三島とは相容れない立場としながら、東大全共闘との討論以来三島を好きになったという古林尚氏との間で、質の高い議論を含めた意義深い対談が行われています。若き日の徴兵検査不合格を医師の誤診であったとし、懸命に身体を鍛えて戦後を生きる糧としていた三島氏の純粋さも感じました。

 自死直前のロングインタビューでもありました。一方で、人の人格は精神と肉体により形成されることを強く感じました。また、「私の遍歴時代」の中には、太宰治との対面に関する記述があり、初対面で「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と告げるシーンの部分はとても面白く読みました。



2023 7月10日  赤色の連想 




 間もなく夏休みですね。今の子ども達は、どのように過ごしているのでしょうか。大人になっても思い出すような、そんな思い出がたくさん作れるような夏休みであって欲しいと思います。

 これは、何時も繰り返し述べていますが、人間にとって幼少期の体験は本当に大切です。また、大人になって必要なスキル(あらゆる意味における)は、幼少期を含めた若い時代に得た知識や体験がベースになって出来上がるものです。したがって、その時代の経験は多様で濃い方が将来には役立ちますし、人間的な厚みを構成するという意味においても、とても大切な時期だと思います。

 考えてみれば、今日、私が使っている知識の原点は、幼少期から青年期において身に着けたものがほとんどです。それをベースに、量・質的な補強やブラッシュアップを図りながら、与えられた課題や諸問題に対処してきたといえるでしょう。また、そうした補強やブラッシュアップをしていくためには、痛みに耐えられる柔らかさを備えた感性が必要です。そのためにも、若い時の過ごし方は大切です。

 もちろん、そのようなことは後になって解ることで、当事者である若い時代にはあまり意識しない(できない)ことです。一方、生まれた環境や育っていく過程など、運命的な要素が影響することはいうまでもありません。そんなことを念頭に振り返れば、本当に多くのことが思い出されます。大半は、思わず顔が赤くなるような恥ずかしい思い出ですが、心をときめかせた記憶は忘れるものではありません。

 ところで、昨今の話題で明るいものの代表といえるのが、エンジェルスの大谷選手の活躍だと思います。投手として打者として、さらには走塁を含めた野球選手として素晴らしい活躍ぶりです。本当に、スキルが高いメジャーリーグの中にあっても、一段抜けた存在といえるでしょう。彼が、赤色の帽子とアンダーシャツのユニフォームで活躍する姿を見る時、素直に頼もしく誇らしい気持ちになります。

 さて、赤色のユニフォームといえば、やはり、私にとっては広島カープということになります。1975年の初優勝を機に変節してから、50年近くのファン歴を続けています。元々は、V9時代のジャイアンツと共に育ったジャイアンツファンでしたが、前年の長嶋引退と、セリーグのお荷物球団であったカープの初優勝を機にカープファンになりました。予断ですが、私は、王・長嶋を実際にこの目で見ています。

 因みに、私は、王選手が高校三年製であった時に生まれ、その年が長島選手のデビュー年です。そして、ラジオやテレビが主に巨人戦しか中継しない時代に育ちました。結果的に、人並な巨人ファンとして育ったのだと思います。話を赤色に戻しますが、今年は、元広島カープのエースであった、北別府投手が無くなりました。奇しくも、こちらは同級生という世代ですので、思い入れもたくさんあります。

 北別府投手といえば、精密機械といわれたコントロールを武器に通算213勝を挙げています。黒田博樹投手が、メジャーリーグの勝ち星と併せて達成していますが、カープ一筋で200勝を達成しているのは北別府投手だけです。少し話がそれますが、江川・掛布というような派手な二級上(芸能界では、さんま・千春等)とは異なり、篠塚・北別府のような渋い感の光を放つのが私達の世代のヒーローでした。

 因みに、北別府投手には86年に優勝したゲームにおいて、8回まで投げた後最終回をあえて後輩の津田投手に任せ、胴上げ投手を譲ったという美談もあります。私の中では思い入れがある人ですが、ただ同級生の学年であったというだけの関係性です。それでも、岡山県の北のほうからですが、心よりご冥福をお祈りしたいと思います。

 一方、赤色といえば政治的には、やはり左側ということになるかと思います。私は、共産党はなくなれ~などとは思いませんが、天安門広場やクレムリンにはためく赤色の旗を見ると、どうしても幾ばくかの恐怖心を覚えてしまいます。政体のシステムは、その国の国民が決めるべきもので、コミュニズムでもキャピタリズムでも構いませんが、国民が満足出来ない時、直ぐに替えられる必要があります。

 その意味において、赤色の旗を振り回しながら、全体主義を押し付ける国に恐ろしさを感じるわけです。また、多くの市民や弱者の声を踏みにじり、体制を批判する者を取り締まるやり方にも恐怖を感じます。幸いなことに、この国においては、夫々の主義に則り思うことが述べられます。とはいえ、何でも言いっぱなしで良いという事ではありません。そうした場面では、嫌悪感と警戒心が強く湧き上がります。

 本来、議員として発言に責任を持つべき人が、そのような振舞をしているのを目にすると嘆息するばかりです。さらにいえば、きちんとしたエビデンスもなく、同調し議会の混乱を図ろうとする人をみると、尚ため息がでます。せめて、自分で質問原稿を書き、そこに責任を持つ議員でありたいと思います。



2023 6月26日  発言することの責任




 既に、夏至を過ぎました。とはいえ、暑さも夏休みもこれからです。はしゃぐ人々を横目に見ながら、何となく日が短くなっていくことへのアイロニーに似た感情を抱く自分が居ます(子供の頃からですが)。

 さて、少年期からやや世の中を斜に見て、アイロニーとかシニカルという言葉に馴染んでいた私ですが、長じる程にてらわない生き方や素直な姿勢でいることの大切さの方に、自身の感性のウエイトがシフトしてきたのも事実です。さらにこの頃では、なるべくシンプルに物事を考えたいという気持ちが一層強くなり、予断を持たずに人と接することや、冷静な判断をしていこうという姿勢も強まりました。

 そのようなスタンスに立ち、世の中を見ていてこの頃思うことがあります。それは、何でも言ったもの勝ちではないだろう~という思いです。本当に、現代社会における情報通信技術の進歩は物凄いスピードで進んでいます。それと共に、どんな人でも簡単に情報を発信できる機会が増えています。また、そのツールや形態に関しても多様なものがあり、正直ついていけないなぁという気がしています。

 一方、発信形態やツールなどが目覚ましく進歩していく中で、個人情報の保護や他者を傷つけないための配慮などに関する、モラルハザード作りなどはどうしても遅れがちです。それどころか、闇バイトの犯罪が横行するなど、所謂ネット社会の抱える問題は深刻なものがあると思います。そして、その基本的な問題として、ウェブ上の発言に対する責任の裏付け担保されないということがあります。

 私は、そのようなインターネットメディアに対する懸念から、情報を受け取る側における、見極める力などの資質向上の必要性について、警鐘を鳴らし続けてきました。しかしながら、今思うことは、それだけでは足りないなぁという思いです。やはり、情報を流す側における、きちんとしたモラルハザードの確立や、情報発信に関する明確な責任の所在、そして厳正な罰則の制定などが必要だと思います。

 そのことは、日々の暮らしの中で感じていることではありますが、状況は時が経つ程悪くなっている気がします。例えば、私が選挙に出るようになった頃と比べても、所謂「言ったもの勝ち」という風潮は強まったように思います。きちんとしたエビデンス(本来は、厳格に裏付けれらた証拠に基づく根拠という意味)に基づかないことを軽率に流したり、あえて騒ぎを起こすために流す人が後を絶ちません。

 時には、2チャンネルなどにおけるそのような書き込みから、根も葉もない事実が「根拠」となり、危ない世論が形成されることさえあります。一方、減少し続ける投票率を見ればわかりますが、現代社会では、政治に対する関心は下がり続けています。背景には、様々な問題があると思います。付託された義務に誠実に答えようとしない政治家が多いことも、一つの理由と言えるでしょう。

 さらには、世界的なグローバル化の中で、我が国においても格差社会は広がっています。そうした状況下、厭世的な気分や無力感が、市民の間に澱のように溜まっていることも事実です。その上でいえば、そのような状況だからこそ、事実を曲げて自分の都合の良いように伝えたり、明確な根拠もないままに誰かのスキャンダル垂れ流しす人が多くなるように思います。

 本当に、様々な理由はありますが、インターネット社会を悪用する人、或いは悪用しようとする人は増え続けていると思います。改めて、今述べた悪用」の定義に言及する必要は無いと思いますが、私の廻りでも多くの責任ある立場の人物や、本来は人々から信頼を受ける立場ににあるはずの人が、「首を傾げる」ような程度を超えた書き込みや発信をしていることを見かけます。

 それは、本当に目を疑うようなことですし、非常に残念な気持ちがします。実は、地方都市においては、そうした怪しい書き込みがもとで、本来の姿(客観的に見た)が歪められて拡がることがあります。そのようなことが、選挙の時などに起これば、一過性の感情的な盛り上がりによって、本来しなければならないはずである、まちの将来像や進むべき方向性に対する議論などは簡単に吹き飛んでしまいます。

 それは、民主主義社会を脅かすもので、大きく懸念されることです。しかも、本来はそのような振舞を諫める立場にある人や、充分にそれを認識してるはずの経験者が、逆に先頭を切ってやっているのを見ると情けない限りです。何でも、都合の良いところを切り取って、議論をすり替え自説を吹聴するのは簡単です。しかしながら、公に向かって発言するからには、それ相応の責任を持つべきです。

 もちろん、言論の自由はありますが、現状を見ているとあまりにも酷い状況があります。もちろん、いつも述べているように、私達一人一人の見極める力も重要ですが、「発言することの責任」はきちんと担保されるべきです。


 
 

2023 6月12日  世の人へ




 6月も、早半ばです。つい、この前植えたばかりの苗が、既に田圃に馴染んで見えます。自然も植物も、人の世の思惑や都合などには関係なく、黙々とその営みを繰り返しているようです。

 まさに、人間の世界は、夫々の思惑や都合で回っていくのだと思いますが、世界の潮流もこの国の有り様も首を傾げることばかりです。また、そのような違和感は、恐ろしく速くなった時の流れの中で、深まり続けていくばかりです。少なくとも、小欄を立ち上げた20年前とは随分変わりました。何というのか、本来備えられていたはずの地域力は弱まり続け、地域社会の脆弱化が一層進んだ気がします。

 私は、当時でさえ希薄化する日本人の精神性に強い危機感を抱いていました。しかしながら、鳴らし続けて来た警鐘と世の変化を振り返り、虚しい気持ちが募ります。例えば、向こうが透けて見えるような鉋屑を飛ばせる大工の日当が、新人の銀行女子職員より安いというような例を引き、職人がやっていけない国の危うさを訴え続けてきましたが、今では、そんな大工さんを見ることは難しくなりました。

 一方で、情報通信技術の飛躍的な進歩により、SNSなどによって誰もが簡単に日々の日常などを発信するようになりました。そのことが、他者にどのように見られるかということを過度に意識する人を増やす傾向を作り出しています。実際、自身の幸福感を内面から見つめたり考えるのではなく、他者の目から見たそのことに対する評価を求め、画像や動画を投稿する人は非常に多いのではないでしょうか。

 また、圧倒的な情報通信技術の進歩に、それを使う側のモラルハザードの構築ややルールづくりが間に合わないのが実状です。結果的に、とりあえず言ったもの勝ちのような傾向は高まります。さらには、取り締まるべき法律が後追いになり、ガーシー容疑者のような安易な犯罪行動が誘因されることにもなります。そのような、とりあえず言ったもの勝ちという傾向は、地方社会でも顕在化しています。

 きちんとしたエビデンス(検証された明確な根拠)がなくても、他者を非難の的に上げ、騒ぎを起こそうとする人はいるものです。残念ながら、そのような言動に対してしっかりと検証しないまま信じる人が、地方の社会にも相当数存在するのが実状です。そのことは、前回も述べましたが、どこを見て何を考えるのか~という点において、まことに頼りない気持ちにさせられます。

 のみならず、適正な民主主義社会の構築と維持という視点からは、とても危険なことだと思います。他方、現在の「何も変わらない」とか「誰がやっても同じ」という政治に対する無力感と不信感は高まり続け、継続に投票率が低下している大きな理由だと思います。しかしながら、そのことが最終的には私たち自身にかえって来ることについて、私たち自身が再確認しなければならないのも事実です。

 例えば、どんな小さな組織や協議体であっても、役員や代表者を選出する立場にたてば、それなりの責任が生じることを忘れてはいけません。そして、そのことによる成果はかならず自分達にかえってきます。実感できないかもしれませんが、「まぁ良いか」の繰り返しが、ロシアによるウクライナ進攻につながるのです。だからこそ、自治会長であれ・地方議員であれ、真剣に考えて選ぶ必要があります。

 その際、前述したような、ネットで見たとか疑いなくSNSを信じるというような安易なやり方ではなく、多様な角度から物事を判断することが大切です。良く、情報発信の大切さが叫ばれますが、果たしてそれだけで良いのでしょうか。何でもかんでも、所謂言ったもの勝ちのように情報が溢れる現代社会では、むしろ、発信された多くの情報を吟味する能力を磨くことの方がはるかに大切だと思います。

 例えば、知りたい人や興味を持った人があれば、実際に会って話を聴くことが一番です。また、面会することが難しくても、関係する色々な人から意見を聴くことはできるはずです。この時大切なのが、一元的なものに留まらず、できるだけ多くの人から多様な意見を求めることです。このこともいつも述べていますが、私は、出来るだけ噂や先入観を排して人と会うことを心掛けています。

 先程、情報を発信していくことの大切さに触れかけましたが、確かに積極的にアピールするとは大切だと思います。しかし、そのことに意識が行き過ぎると、過剰で過大な表現や自身に都合の良い訴えをしてしまい易くなります。私は、そのような点を戒めたいと考えています。もちろん、言いたいことや言うべきことはしっかりと述べていくつもりですし、何よりも、自らの行動で示したいと考えています。

 実際、そのように考えながらこの20数年を生きてきました。私個人としては、見てくれている人の数や質に満足感と感謝の気持ちを持っています。一方で、周りを見渡すと、残念な気持ちが浮かぶのも事実です。改めて、「世の人へ」問いたい気持ちが浮かびます。



2023 5月29日  どこを見て何を感じるか




  5月も終わります。何やら、台風の襲来なども予想される中、入梅の知らせも届いています。そのような状況下、今朝、早起きして僅かばかりの田圃で田植えをしてきました。

 まことに、農作業の日程というものは、人間の営みなどは斟酌してくれないものでして、気候や水の具合などに併せて、タイミングを計る以外にありません。時として、最適なタイミングを逃すことがしばしばです。一方で、最低限必要な作業を許容範囲の期間内に実施することが、何より大切なことになります。今回の代掻き及び田植え作業は、そのようなタイトなスケジュールであったと思います。

 その際、今日の天気予報の精度がとても参考になります。特に、明日から雨が降る~というような短期的な予報は、本当に精度が上がりました。そうした、今週の雨や台風接近のニュースなどを踏まえ、急遽、日曜日に代掻き作業を行いました。ここで少し説明しておきますが、我が家の田圃は吉井川に近いところに位置しておりまして、砂質土の成分が多いので、代掻き後の沈殿が早く収まります。

 そのようなことから、この地域で一般的に言う「早くしまる」田圃ということになります。したがって、代掻き作業の翌日には、田植えができるということになる訳です。もちろん、同じ津山市内でも、代掻き作業から1週間位置かないと植えられない地区もありますし、2~3日は必要だという地域もあります。つまり、圃場のある場所の土質によって農作業の営みも変わってくるということです。

 少し話がそれましたが、そのような事情から、今回は、小欄への書き込みを午後になってからやっているところです。これも説明になりますが、だいたい私は、リアルタイムに近い形で小欄(コラム欄)を更新しています。読みたいもの読み、観たいものを見て、会いたい人に会い、その延長線上に浮かぶイメージの想起をもとに、キーボードを叩きたいと考えているので、自然にそのような流れになります。

 とはいえ、スケジュール的に余裕がある時(無い時もそうですが)や、書きたいイメージが湧いた時などは早目に書いておいて、更新日程に合わせてアップすることもあります。時折、小欄が前日夜に更新していることがあるのは、そのような背景からです。それでも、基本的には時々のリアルな思いを綴りたいと考えています。一方で、書きはじめてから内容が変わることは、本当に良くあることです。

 つまり私の場合、実際にキーボードを叩いていると、予め想起していたイメージから離れ本来言いたかったことや、伝えたいと思っていたことに考えが集約されてくる気がします。なんというのか、本当に言いたいことが浮かび上がてくるというような感じです。一見、そのような書き方は行き当たりばったりのようにみえるかもしれませんが、私自身では、自分の内面がより正直に出てくるように思います。

 一方で私は、そもそも文章というものはそのようなものだと考えています。言い換えれば、文章は書いているうちに磨かれてくるものだと思います。本来は、推敲に推敲を重ね「乾坤一擲」というようなものにして、読んでくださる方々の胸に突き刺さるようなものにしたいところですが、中々そのように行かないのが現実でもあります。せめて、ニュートラルな視点で世情をを見ていたいとは思います。

 実際、日常にそれ程アッと驚くエピソードがある訳でもありません。また、殺伐としたニュースが日常茶飯となった現代では、情報を受け取る側における頽廃的な感じや虚無感が拡がる傾向にあると思います。というより、既にそのような感覚は巷に広がっていますし、興味本位や無責任な情報が溢れかえる現状では、何を信じどのよう判断していくのかというこについても極めて懸念される状況です。

 そのような状況に鑑み、この頃特に感じることがあります。それは、本来見なければならないところを多くの人が見ていない、ということです。本当に、どこを見て判断しているのだろう~と思うことが多くなったように思います。もちろん、発信する側の問題や責任はあると思います。しかしながら、薄っぺらい情報や噂話の延長のようなものが、まるでエビデンスのように扱われていることをよく見かけます。

 先程、発信する側の問題にふれましたが、まるで「言ったもの勝ち」のような状況下、本質を見極められる人がどれだけいるかは甚だ疑問です。本当に、残念な風潮であり、大変危険な傾向だと思います。そうした状況を背景に、私の中の虚無感や虚しさは益々募ります。とはいえ、それも最近始まったことではありません。一方で、それは私が積極的に日常を晒さない理由の一つにはなっています。

 他方、私はどんな噂の人(悪評の人)であっても、実際に会って話をしてから評価することにしています。実際、8~9割は噂の通りです。一方で、残り1割というような人に強いシンパシーを覚えました。私自身「どこを見て、何を感じて貰うか」というスタンスを変えず、筋を通して行きたいと考えています。




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