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これまでのコラムが納めてあります。
できれば、通してお読みください。(根底に流れるものを、くみ取っていただけると思います)

                     

               鶴山の夜桜        納涼花火大会(絶好のポジションから)

NO.40    

2019  8月  19日   繋げていこう

 

 お盆が過ぎました。心配された台風ですが、「こんなこと・・・」と拍子抜けする位の影響で済みました。ぶり返した暑さにも、文句が言えない気がします。今更ながら、平穏な日々を有難く感じます。

 本当に、そうですね。平和で安穏とした日々ほどありがたいものはありません。また、毎年この時期になると、改めて平和の有難さを噛みしめる気持ちになります。そして、戦争の無い世を次世代に引き継いでいかなければならないことに対する責任を、強く感じるのも事実です。一方で、先の戦争から既に74年の歳月が流れた今、その体験を語れる人の数は大きく減少しています。

 また、余りにも過酷で悲惨な体験は、多くの人が口にすることさえためらい、今日に至っているのが実際のところだと思います。そのような状況下、それまでの自らの考えを変えてでも、貴重な体験談を語り始められた人もおられるようです。しかしながら、その言葉に耳を傾けなければならない若い世代においては、どのような受け止め方をしているのかと、気を揉まざるを得ないのが実情です。

 かくいう、私達の世代でさえ、父や母、或いは祖父・祖母の口を通して語られた戦争に関するエピソードなどについて、どれ程自らの身体の中に刻み付けているかといわれれば、自信が持てないのが正直なところだと思います。それでも、私の父は、自らが終戦間際に徴兵された体験のことや、その当時の風俗・情勢などについて、幼少期からことある毎に私に語ってくれました。

 手前味噌になりますが、父は、とても話し上手な人でしたので、一つ一つの話が、私の脳裏には映像のように焼き付けられていきました。さらには、テレビや書籍などを通して見聞きした戦争やそれに纏わる映像・資料などとあいまって、私の記憶の中に、疑似体験的に蓄積されてきたように思います。もちろん、実際に戦争を体験された人に言わせれば「そんな甘いもんじゃない」ということだとは思います。

 それでも、実際に体験していない世代に対して貴重な体験や思いなどを語り継ぐことは、本当に大切なことだと思います。特に、大人達が子供らに対して、幼少期から繰り返し語りかけていくことが重要だと思います。自分でいうのはおかしいですが、私は、どちらからというと(かなりかも)多感な少年であったと思います。そのような、自らの成長過程を振り返っても、意義深いことのように思います。

 今、この国においては、急速に進む少子高齢化を背景として、連綿と続いてきた営みや伝統行事が途絶えようとしている、と、いうニュースなどを良く耳にします。また、人口減少社会における危機意識もあるのか、子どもに阿るような風潮は強まるばかりです。私は、いくら子供が増えても、「良い人間」が増えなければだめだと考えています。所謂「悪い人間」が増えては、逆効果だと考えています。

 ところで、今、私が述べた「悪い人」というのは、小欄を通して読んでいただいている方々には、良くご理解いただけるものだと思います。まことに、人の善悪を語るというのは難しいことでありますし、定義づけて論じることも容易ではありません。しかしながら、私が小欄を通して長い間語り続けていることは、ある程度共通した概念であり、普遍的なものとなっているように思います。

 さらにいえば、本来の日本人が備えるべき精神性などという言葉で表している内容は、強ち的外れではないものだという自負もあります。そのことは、日頃取り組んでいる自治会活動や地域での取り組みの中で、共に汗を流していただいている方々からかけていただく言葉や励ましの中に、しっかりと感じ取ることができます。本当に、有難いことだなぁと思います。

 先人達に感謝し、その思いをしっかり汲取って次世代に語り継いでいくことは、本当に大切なことだと思います。今年も、地域の公民館で子ども達のために「わくわく教室」を開催しました。6年目の今年、卒業生が手伝いに来てくれるようになりました。地域の伝統になって欲しいと願っています。気の遠くなるような、遠大な計画かもしれませんが、そのようにして「良い人」を育てて行きたいと考えています。

 今年も、お盆という行事がある国に生まれたことに感謝しながら、縁のあるお墓にお参りしてきました。もちろん、「お山のお寺」に眠る祖母のお墓にも行ってきました。そんなことが、有難く癒されるような年になったのかなぁ、と、思っています。



2019  8月  5日   いつも言うことですが



 盛夏というのでしょうか。暑い日が続いています。昨夜は、このまちの夏の一大イベントである花火が催されました。いくつになっても、夜風に漂い流れてくる花火の火薬の匂いには、郷愁をそそられます。

 夏の思い出。夜の帳を打ち破るように開く大輪の花、その耀きからしばらく遅れて聴こえるドンという響き、さらにその後からその音の源である火薬の匂いが漂ってきます。もちろん、歩を進める周囲からは、たこ焼き・たい焼き~夜店で扱う食べ物の醸す強めの匂いが直線的に鼻腔を刺激してきます。視覚からも、かき氷や冷やし飴といった涼を誘う飲み物が、誘惑の視線を送ってくるのでした。

 そのような光景が、例えば夏祭り、お宮のお涼み~大きなイベントから小さな催しまで、誰の胸にも子供の頃の忘れ得ぬ記憶として残っているのではないでしょうか。現在でも、地域や自治会などにより納涼祭などが行われています。本当に、携わっている方々の御苦労が偲ばれます。それでも、あの胡散臭いような、何となく得体の知れないような夜の賑わいの雰囲気とは違う気がします。

 時代と共に、世の中はどんどん明るくなり、何でもつまびらかにして行くことが正義であるという風潮が強まって行くように思います。それはそれで良いこともあり、仕方のないことなのだと思いますが、わくわくすることやイメージを膨らませ深く想像する能力は、確実に弱くなって行くのだと思います。また、多様なニュースソースを吟味して、事象を判断したり方向性を探る力も衰退し続けているように思います。

 そのことは、テレビやネットから流されるまことしやかなコメントが、世論の形成に大きく影響していることを見れば明らかなことだと思います。それでも、この国の状況はまだましな方だといえるのかもしれません。自らの行状を棚に上げて、大騒ぎしている隣国の様子を見ると、つくづくそのように思います。一方で、教育の大切さと恐ろしさについても、改めて考えさせられます。

 そのような視点から見れば、反日教育と、それに基づく盛り上がりを期待した、総選挙をにらんだ隣国の大統領の作戦がまんまと成功している状況だと言えるでしょう。実際、ついこの前までは、北の三代目からないがしろにされ続け、浅薄な外交により八方ふさがりの様子を呈していましたが、現在は、低迷し続けていた支持率は驚異的に回復し、急激な上昇傾向を見せています。

 一方で、どこの国の報道機関かと首を傾げるようなスタンスで、彼の国への配慮などを促す論調と報道姿勢を示すマスコミもあります。思えば、物事をしっかり考え吟味したうえで毅然とした姿勢でことにあたるという人が、減少し続けているのがこの国の現状です。曖昧さを残し、黒白をはっきりつけない文化は、武士道に代表される日本人の高い精神性があってこそ成り立つはずのものです。

 やはり、大きな意味での教育ということが大切なのだと思います。回り道であっても、良い人を育て、良い大人になって貰い、その人達に次世代を託していく取り組みをしていくしか術がないのだと思います。今年も、私達は地元公民館において夏休みわくわく教室というものを開催します。それは、本当に小さな取り組みですが、実践することの大切さという視点に立てば意義があるものだと考えています。

 地域の大人や卒業生、その他、好意的に支援していただける人々の手によって取り組んでいます。子供たちは、午前中夏休みの友や宿題を持ちより、各々勉強に取り組みます。この際、先ほど述べた元教師の方や塾経営者をはじめとする地域及び関係者の方々により、見守りながら指導・支援を行っていただきます。さらには、このまちの高校生などによる工作の制作指導も行われます。

 その後、お昼には民生委員・愛育委員の方々をはじめとする支援者が、心を込めて作った昼食を皆で食べることになります。メニューは、カレーや五目御飯などといったありふれたものですが、大勢で食べると一層おいしく感じられることについて、異論を挟む人はおられないと思います。さらに、今年は7日(3日め)だったと思いますが、竹を切った設えでソーメン流しも行う予定です。

 既に、この催しも6年目を迎えました。本当に、地域における小さな催しだと思います。それでも、小学生の時に公民館で食べたカレーの味は、大人になっても記憶に残る筈です。解らない問題に頭を抱えていたら、知らないおじさんが教えてくれた思い出もきっと心に宿る筈です。そのことにより、その記憶に誘発された人たちが、この取り組みを担う人になってくれるのではないか、と、願っています。

 おそらく、一緒に取り組んでいただいている方々も同様の想いを抱いているのだと思います。本当に、いつもの繰り返しになりますが、人が良くなければ、人さえよければ~、が、一番いいたいところです。


2019  7月  22日   歴史と文化で



 海の日を過ぎ、子ども達は夏休みに入りました。朝露の中、若い叔父さん(一回り上)に連れられ、母の実家の近くの林で捕まえた大きなミヤマクワガタの夢は、今でも見ることがあります。本当に、わくわくした思い出です。
 
 そうですね。思い出してみると、少年時代の一日は今よりもとても長かったように思います。そして、夏休みにも、たくさんの思い出があります。楽しかったことや、悲しかったことなどが瞬時に思い出されるのは、それだけ強く印象に残っているからだと思います。今でも、思い出すと顔が熱くなるようなエピソードもあります。それだけ、感受性の強い子供であったことは否定するものではありません。

 さて、昨日の日曜日は洋学資料館にでかけてきました。、変更になった企画展示スペースの、箕作家の歴史研究-西洋史は同つたわったか-を見て来ました。その生涯において、160冊を超える著作書を現わした箕作阮甫の養子省吾は、世界の国々の歴史を主体に紹介する著述を現わしました。しかしながら、彼は地理書「坤輿図識」の訳術し、その補編を執筆中に病没してしまいます。

 このことにより、江戸時代の後期において、諸外国の船が相次いで日本にやってくる状況下、日本人が世界に視野を広げていくための好奇心や関心を大いに満たす成果が挙げられたのだと思います。
さらに、阮甫の初孫である麟祥により世界に歴史を綴った「万国新史」が刊行されました。彼は、徳川昭武が赴いたパリ万博にも随行した法制官僚として、多大な功績を遺したといえるでしょう。

 さらに、阮甫の孫で麟祥の従兄弟である元八は、二度のドイツ留学を経て現在の東京大学の西洋史学科の教授となりました。彼は、「フランス大革命史」をはじめ多くの歴史書を著しました。それらの本を皇太子時代に愛読された昭和天皇が、のちに「最も知的影響を受けた」と人物であると語られたというお話も、史実として語り継がれています。

 このお話には、後日談として、岡山を植樹祭か何かで訪れられた昭和天皇が「箕作は如何しているか~」と随行している県の役人に尋ねられたというお話があります。しかしながら、当時、既に拠点を東京においていた箕作家の人々について、理解し把握している人間が地元に居なかったということです。陛下の質問を聴き、随行者たちが大いに慌てたということで、その光景が目に浮かびます。

 いずれにしても、江戸時代から明治・大正・昭和にかけて箕作家の人々が、どのように西洋史研究に取り組み、そのことがこの国の知識人に与えた影響の大きさについて、改めて感じさせて貰いました。いつもながら、説明にあたってくれる学芸員や資料館職員の見識の高さに敬意を表したくなります。また、、彼らの歴史に対する質の高い好奇心に嬉しさのような共感を覚えます。

 余談ですが、箕作元八の墓は東京の谷中にあるそうです。したがって、あの美濃部東京都知事も縁繋がりとなる箕作家の拠点は、早くから江戸~東京にあったことは事実です。しかしながら、我が津山にその起源を持つ家系であることも紛れもない事実です。そのことに対するシンパシーは、私のみならず多くのこのまちの人達の胸に湧き上がる感情であると思います。

 少し話がそれますが、私は先の6月議会において、このまちの進むべき方向性として歴史と文化に基づくまちづくりの重要性と、それを実践していくことにより高い住民意識の醸成が図られるという、いわば二次的成果についての提言を行いました。全国、どこの自治体においてもいわれている急激に進む少子・高齢化の中で、他都市と同じような施策を展開していたのでは、生き残れないという主旨からです。

 例えば、昨今喧しく叫ばれているsdgsという言葉ですが、私が技術士受験を志していた20年前には持続可能な開発計画の必要性が論じられていました。私は、世の流行や国の意向などに依るのではなく、このまちの特性を活かし、独自の施策を進めて行くことが極めて重要だと考えています。ここでいうこのまちの特性が、豊かな自然環境に恵まれた歴史と文化ということです。

 古来、歴史的に意義深い多くのエピソードが残り、この国の根幹を支えるような人物を多く輩出した土壌こそが、このまちが生き残って行くための大切な資源となるのだと思います。まずは、私達大人がそのことを十分に認識し、故郷の歴史を勉強し親しむことが大切です。そして、このまちの夫々の家庭において、日常的な話題として地元の歴史が語られるようになることが望まれます。

 そのような家庭が増えて行けば、故郷を誇りに思える子どもが多く育つはずです。そのような状況を創ることができれば、学力の再生は容易に図れるはずです。また、繰り返しになりますが、その過程を通して高い住民意識の醸成も見込めるでしょう。良い人を育て、良い大人になって貰い、このまちをになって貰う、そのために、ほんの少しずつでも出来ることをして行きたいと考えています。



2019  7月  8日 自分がすべきこと




 昨年の、豪雨災害から一年が経ちました。足下に迫る、吉井川の濁流に息を飲みながら、消防団員や行政職員たちと連携しつつ、被災防止にあたった夜が昨日のようです。無事であればこそですね。

 実を言いますと、当日は空模様を気にしながらも、技術士仲間で師匠をお招きして、楽しい宴を催すために岡山まで出かけていたところでした。夕刻の、宴会開始時刻に踏ん切りをつけ、地元への帰路につきました。結果的に、これがぎりぎりのラインであったように思います。渋滞する岡山市街を抜けるのに小一時間の時を要し、急いで走り抜ける国道53号は、私が通った後から通行止めとなる状況でした。

 本当に、帰り道の道路わきに迫る旭川やその支流、さらには、水系が変わって吉井川水系になっても同様に溢れんばかりに迫りくる水の流れを横目に見ながら、必死で地元に帰ってきたと言う感じでした。そして、先ずは地元公民館を訪れ、避難場所としての状況や体制を確認し、折から詰めていた市の職員や公民館長と打ち合わせをしてから自宅に戻りました。

 その間には、電話で自宅や地元消防団員とも連絡を取り合っておりましたので、帰宅して臨戦体制の衣服に着替えて、堤防で水位を見守る消防団員と合流し、吉井川堤防に設置されている水門を点検・確認しながら開けておくものと閉めるものを見極め、その処置を施しました。その間にも本川に流れ込む支流の水位が上がり、所謂バックウォーターが起こる寸前の状況でした。

 それから、待機する消防団員に無理をせず対応するよう指示をして、未だにその状況に気付かないで自宅にいる地元の人々の家(水につかり、被災する可能性があるお宅)をまわり、非難を呼びかけました。それでも、ほとんどの人が「逃げなきゃいけないの?」というような感じでした。私は、根気よく「水は、もう堤防一杯まできていますよ」と告げながら非難を呼びかけました。

 それでも、中々動こうとされない人が多かったのが事実です。そこで、「命が助かるだけで良いなら、地元の公民館の分館を開けておきます。毛布や水が必要なら、公民館まで逃げてください」と声をかけて回りました。結果的に、そのことが功を奏したのか、普段(これまで)は避難所として開設されても実際には非難する人がいなかった公民館に、数名の方が避難しておられるのをみました。

 主に、私の地元の町内会の人達でした。この人達は、その後の警報が発令された際にも公民館に避難されており、水害に対する危機意識は向上していると言えるのだと思います。そのように、少しでも地域住民の危機管理意識が高まることは、良いことだと思います。一方で、災害に対する住民の危機管理意識については、自治会活動として行っているまちづくりにおいても、常に話題になることです。

 例えば、先頃放送された昨年の西日本豪雨に関するテレビ番組の中でも、避難勧告が出されたことを知っていた人が避難した割合僅かが8%であった、と、いうようなことが報道されていました。この現実は、防災活動における大きな課題であると思います。現在、私達が進めている持続可能なまちづくりへの取り組みでは、福祉部会と防犯・防災部会等の部会を設け、実践的な活動を目指しています。

 その中で、水害などの緊急時における有効な(実際に機能する)避難体制の構築などが常に話題になります。その話の中で、良く取り沙汰されるのが地域住民の皆様の危機管理意識と、個人情報保護の壁による要支援者等の実態把握の難しさなどです。このことは、自助・共助・公助といわれる身を守る手段の中において、行政から共助の充実を求められる地域における自治活動では大きな課題です。

 さらにいえば、私達は、行政から共助の充実を求められる以前から、身近な人同士で助け合うことを基本とした「近助」という考え方を念頭に置き、これまで取り組んできました。また、これからも、そのようなスタンスで取り組んで行こうと考えています。とはいえ、本当に地域におけるまちづくりでは、行政から様々な組織作りや活動を求められます。そして、夫々に補助金の申請書や報告書が求められます。

 その背景には、国などから支給される補助金を管轄する官庁が異なることが挙げられます。一方で、地域で活動しているメンバーは、どの組織も同じようなメンバーがその任にあたっています。だから私は、行政の縦割りを排し、多様な補助金などを取りまとめ、地域でまちづくりをする人々の負担を軽減して行くための施策を提言しています。また、その活動拠点となる公民館の運用に関しても同様です。

 行政のサポート体制と、、その拠点となる公民館の活用については、フレキシブルで柔軟な運用が図られることが必要不可欠です。このことは、私のライフワークの一つとして、これからも積極的に取り組んで行くつもりです。
     
      
             
                             

2019  6月 24日 やっぱり、歴史に学ぶべき

           
 
 夏至を過ぎました。昼の時間が短くなることに、何故か少しさびしさを覚えます。それは理屈ではなく、感覚としてのものです。また、幼いころ夏至と冬至をのことを知ってから、持ち続けている感覚です。

 さて、昨日(6月23日)は沖縄県が制定した慰霊の日でした。今年も、糸満市摩文仁の平和記念公園で沖縄全戦没者追悼式が開催されました。混迷する、普天間基地の辺野古への移設問題の中で、県知事と総理のコメントには大きな差があったように思います(テレビのニュースで、切り取られた一部を見ただけですが)。しかし、改めて平和の尊さを考えさせられる一日でもありました。

 戦没者追悼式というのは、我が国においても色々な場所で多様な形で営まれます。一般的には、兵士などとして闘うために戦地に赴かれた方々の、御霊を追悼する行事が多いのだと思います。津山市が主催して行う戦没者追悼式も、そのような形です。しかしながら、沖縄県で行われる全戦没者追悼式の主旨を読みますと「一般市民をも巻き込んだ悲惨な地上戦」という言葉が見えます。

 また、同主旨分には「冷厳な歴史的史実」という言葉で語られていますが、本来の自らの意思に反して戦場に赴き犠牲になられた方々ばかりでなく、何の罪もない多くの一般人が悲惨な運命に晒され命を落とされたことに言及されています。ここに、全戦没者という言葉の意味が込められているのだと思います。1945年6月23日に組織的な戦闘が終結したことに因んで定められたものです。

 私も、平和記念公園には何度か訪れたことがあります。園内には、各県の慰霊碑があります。岡山県の岡山の塔の前では、自然と敬虔な気持ちになります。また平和の礎では、思い当たる名前などがないか気にしながら石碑に刻まれた名前を見たりしました。何度訪れても、私達日本人が何時までも忘れてはいけない出来事であり、それを象徴する場所なんだなぁという思いにさせられます。

 しかしながら、今日の世界情勢をみてみれば、目先の不満に我慢できない人々の欲求に阿るポピュリズムに流れる傾向は続いており、彼方此方で自国至上主義的な政権が増える傾向が見られます。いうまでもなく、範を垂れるべき大国の米・中両国は貿易摩擦を背景に、また、世界的な存在感の誇示と覇権獲得の野望が透けて見える争いを続けています。

 中国については、川下りで有名な桂林、兵馬俑を見るために訪れた西安、203高地の大連、万里の長城と紫禁城の北京、上海の夜景…数多くの足を運んだ思い出があります。そして、その度に思い感じたことは、中国人民は普通の人が多いという印象でした。もう少し言えば、シンプルに経済の法則にもとづいて行動しているという感じでした。優しい人も胡散臭い人も、普通に存在しています。

 ところが、国家としてみれば頷けないことばかりですし、違和感を超えた恐ろしささえ感じてしまいます。
つい先日も、香港における大規模なデモのニュースが話題になりました。犯罪容疑者に関して、中国本土への引き渡しを認める趣旨の条例改正案に反対するものです。そのこと自体も、大きな懸念材料ですが、香港市民が示す拒否反応の背景にはもっと多くの理由があるのだと思います。

 その部分に触れると長くなってしまいますが、返還から50年は一国二制度を維持するとしていたにもかかわらず、中国本土からの締め付けは目に見える形で強まっていることは確かです。先程も述べましたが、反日教育が施されているという割には、実際に訪れてみると中国の人(香港・マカオを含め)も韓国の人も、私の印象では所謂普通の人が多いと思います。

 本当に、夫々の国で人々(一般市民)と触れあい会話してみれば、それ程の違いなどは感じないものです。そのような意味から言えば、1人の人間としては、平和の有難さや大切さが身に沁みて解っている筈なのに、国家というような単位になると、こうも難しくなるのかと首を傾げたくなるのは私だけではないのだと思います。それは、人類の歴史を通していえることでもあります。

 実は、一人の人間の野望のようなものに基づき「国家」が誕生し滅びて行ったのが、人類の歴史であるともいえるでしょう。例えば、国家の成立とは、誰かが統一し治めようと志した結果に起因するものだと思います。その時には、大義があったとしても国家が成立した後は状況が変わり、他国との利害関係などで戦争も起こります。本当は、国家の名を借りた権力者の欲望の追及なのかもしれません。

 日本の片隅で、ぼやいているだけの私ですが、少しでも後に続く人達に歴史に学ぶことを伝えたいと願っています。


2019  6月 12日 例えば、歴史文化



 梅雨ですね。暦では11日が入梅ですが、中国地方はまだのようです。とはいえ、まぁ、梅雨のような天候です。今年も、一時に大雨が降るようなことがないように祈るばかりです。

 相変わらず、多忙に過ごしています。色々な組織の総会や懇親会等の間を縫い、6月議会への準備を進めています。今回は、このまちの歴史と文化を活かしたまちづくりの方向性について、市長をはじめとする執行部の考えかたを確認したいと思います。さらに、そのことを前提とした教育の再生による学力向上と、高い住民意識の醸成のための施策提言などを行う予定です。

 また、この6月議会での一般質問は、4月の改選後初めての一般質問となります。これまで通り、日頃から耳にする市民の思いや考えていることを代弁し、このまちの将来に資するための施策実現などに取り組んで行きたいと思います。さらに、これまで以上に筋を通す生き方は貫いていきたいと考えています。そのうえで、市民から付託された二元代表制の権能を果たす責務を果たしていくつもりです。

 さて、前回は地元作楽神社に纏わる唄である、忠義桜について述べました。このことに限らず、本当にこのまちには、豊かな自然環境に育まれた歴史と文化が数多く残されているのだと思います。私は、このことを活かしたまちづくりの必要性を提唱しています。そのことが、最もコストがかからないまちの活性化への取り組みだと考えています。

 これは前回も述べたことですが、津山市の多くの家庭において、朝晩の食事時等の場面で宇多川家の話や箕作家の話などが普通に語られるような状況になれば、子ども達は、このまちが輩出した多くの偉人や、彼らが歴史の中で果たしてきた役割を幼いころから知ることになります。そのようにして育った子ども達は、自然に故郷を誇りに思えるようになるのだと思います。

 今、本市に限らず岡山県下の小中学校では、教室に入れない子どもや落着けない子どもの話をよく耳にします。かつての教育県岡山の低迷は、実はそのようなところに真因があるのではないでしょうか。対象をこのまちに限って考えても、先ほど述べたような故郷を誇りに思える子ども達が増えて行けば、自然と子ども達は落ち着き、教室にも勉強に勤しむ空気が漂うのだと思います。

 そのような状況をとりもどすことができれば、学力の向上は難しい課題ではないのだと思います。さらにいえば、そのような取り組みをして行く過程において、市民の中にも高い倫理観や価値規範が醸成されることが想定されます。このことは、これから私達が取り組んで行かなければならない持続可能な地域づくりを支えるために必要な、質の高い人と人との連携を支えるために非常に大切です。

 一方、このまちが備えた歴史と文化を観光資源という視点から見れば、そこに住む我々市民がまず故郷を愛し誇りに思えるようになることが大切だと思います。そのことが、来訪者に対して暖かいもてなしをすることに繋がります。そのもてなしの中には、ここにくればまちを歩く子ども達でも、このまちの歴史や文化について来訪者に説明できるというようなことも含まれています。

 実際、萩に行けば誰でも松陰先生と吉田松陰を呼び、小浜では多くの人が杉田玄白を玄白先生と呼びます。少し話がそれますが、先日洋学資料館を訪れ、杉田玄白縁の小林令助の展示を見る機会を得ました。蘭学事始めに関する「うずたかきもの」のエピソードなど、楽しく解りやすく説明していただきました。説明してくれた、田中学芸委員にお礼をいいたいと思います。

 考えてみれば、私自身知らないことがたくさんあります。また、それだけこのまちの歴史や文化は奥深いものがあるのだと思います。一方、名古屋山三郎のモデルである名古屋九衛門と井戸右衛門の刃傷沙汰の跡である「にらみ合いの松」が、私の家の裏の公園にあります。私は、ここで生まれこの年になるまでここで暮らしてきました。この頃では、山三郎の生まれ変わりなどと嘯いたりしています。

 蒲生氏郷に女と見間違わせた美男子にちなんで、そのような戯言を語ったりするわけですが、ここに生まれ育ったことを誇りに思う気持ちは年々深まっていきます。また、院庄には前回も述べた作楽神社があります。児島高徳や後醍醐帝、道家大門や川上音二郎、さらにはこのお宮がある院庄館跡に関することなど、考えるだけでも多くのロマンが広がります。

 そもそも、院庄の「院」は誰を指すのか。これまでの定説である後鳥羽院ではなく、後白河院ではないのかという説も聴きました。それだけ遡れば、平清盛などまで話は膨らみます。そのようにして、多くの人に興味を持ってもらいたいと思っています。そして、そのことを繋いでいきたいと考えています。


2019  5月 25日 繋がり、過去・未来・人




 五月も終わります。いつもながら、時の流れの早さを感じてしまいます。また、その速度は年齢と共に増すばかりです。やるべきこと、できることを考え、精査していかなければならないのだと思います。

 さて近況を述べれば、選挙の事後処理や片付、それから、滞っていた農作業、さらには、「よっこ」しておいた身の回りの雑務をこなす日々を、本当に忙しく過ごしております。そのような中、母校の小学校で、これまた母校の中学校のブラスバンド部が演奏会をするというお知らせをいただきました。早速、院庄小学校の体育館で行われた「吹奏楽を楽しむ会」を聴きにいってきました。

 本当に、アットホームな演奏会だったと思います。例えば、小学校の児童たちにブラスバンド部の顧問の先生が、楽器の名称をクイズで尋ねるなどのやり取りもありました。しかし私にとっては、何といっても「忠義桜」という作楽神社に纏わる名曲を演奏してくれたことが、最も喜ばしいことでありました。桜ほろ散る院庄~という唄い出しの忠義桜は、私達より上の世代では全国区の歌だと思っています。

 多くの先輩方から、進学先や就職先で披露した際「その歌知っている」といわれたエピソードを聞きました。実際に、メロディ・歌詞ともに一度聴いたら耳に残る名曲であると、私は思っています。ご存知の方も多いかと思いますが、隠岐に流される後醍醐帝を救出奪還しようと院庄館へ来たものの、警備が厳しくそれが果たせなかった為、桜の幹を削って十字の詩を認めた児島高徳の忠義を歌にしたものです。

 ところで、このエピソードは戦前の教科書に載ったため、全国的に有名になったようです。また、創建が靖国神社と同じ明治二年の作楽神社の性格上、それまでの反動のような戦後教育の流れの中でどんどん廃れて行ったというのが実情です。本当に、私が地域の自治会活動に本格的に取り組みだした15年前には、春の大祭も寂しいものになってしまっていました。

 とはいえ、住宅と農地が混住する地域において約3haもの境内地を擁し、地域社会の人々に親しまれてきたお宮を守ることは、本当に大切なことです。私はそのように考えました。そこで、氏子のいないこのお宮を地元自治会が中心となり、守って行くことを提唱して来ました。その一環として、春の大祭に合せて児島高徳を顕彰する「たかのり祭り」を開催するようになって、早15年が経ちました。

 その月日の中で、徐々に地域住民をはじめとする支援者や訪問者が増え、今では、春の院庄の一大イベントとして定着しています。今後も、次世代に継承していくために盛り上げて行きたいと考えています。しかしながら、そのためには地域の人々がきちんと歴史を顕彰し、故郷を愛する気持ちを醸成していくことが大切です。これは、院庄に限らず津山全体にいえることでもあります。

 歴史と文化という視点に立てば、このまちには本当に多くの遺産や資源が遺されているはずです。私は、この資源を生かして教育の再生を図って行くことが、極めて重要なことだと思っています。また、そのことが、お金をかけずにこのまちを活性化していく手法であると考えています。 例えば、各家庭の日常生活における場面において、箕作家や宇多川家の話が普通に語られるようなまちの姿です。

 そのようにして育つ子ども達が、自らを名古屋山三郎に例えたりしてロマンを語るような場面が増えて行くことが大切だと思います。そのような子ども達は、このまちの歴史や文化を誇りに思うでしょう。そのことが、郷土愛の醸成に繋がります。また、そのような子ども達が増えることにより、教室で落着けないような子どもの数は減少するはずです。そうなれば、学力テストの結果も必然的に向上します。

 そんなまちづくりを行い、都会に行かなくてもこのまちで子育てをすれば偏差値が上がる~ということになれば、移住・定住促進の大きなインセンティブになります。これを踏まえ、私は、議員定数を削減して浮いたお金を子供たちのために使いませんか~ということも提唱し続けています。このことは、単に定数削減による財源確保だけでなく、津山の大人の教育に対する姿勢を示す意味で意義があります。

 冒頭、多忙な日々と述べましたが、その中には多くの友人知己との慰労やお祝いの集いなども含まれています。本当に、多くの熱い仲間の存在は有難い限りです。おこがましくて比較にはなりませんが、竜馬と慎太郎、また海舟・西郷・春嶽…と連なる、熱い志の連鎖を想起出来るような気がします。一方、静かでありながら質の高い会話ができる知り合いも増えました。これも、本当に有難いことだと思います。

 つい先日も、そのような方と語り合う機会を得ることができました。思いがけず、暖かい心遣いをして戴く場面もありました。心から、有難いことだなぁ~と思いました。そのような、人の繋がりに感謝しながら、信念を貫いていきたいと思っています。

2019  5月 14日 田圃で考えたこと

 

 五月晴れ。その言葉通りの好天が続いています。むしろ、暑い位の日もあります。いずれにしても、農家には忙しい時機でもあります。

 本当に、中山間地の地方都市に暮らす兼業農家には忙しい季節です。私も、例にならい僅かばかりの田圃を耕してきました。選挙後の多忙なスケジュールをかいくぐり、また、適度に圃場の乾くタイミングを見極めながらの作業です。もちろん、今年もヤンマーの赤トラに跨り(乗るというよりは、跨るという感じ)5月になって2回目の耕運を昨日こなしました。

 概ね、2時間半~3時間の作業時間です。長方形の田圃を行ったり来たりのターンを繰り返す単純な作業ですが、何となく気持ちが落ち着くというのか、私にとってはむしろ安らげるような一時でもあります。このことは以前にも述べましたが、私にとって、亡くなって20年以上が経つ父と対話をする一時でもあります。昭和44年製のヤンマーは、父が購入した時に、既に十数年落ちの中古であったと思います。

 その、ロートルトラクターに跨り、無一文(相続財産なしの状態)から父が手に入れ残してくれた僅かな田圃に赴き、単純な耕運作業を繰り返す時、私は、父親と会話しているような気持ちになります。昨秋、稲刈りの後の作業でぼやいていたことから、今日までの自らの生き方を問いかけてみたりします。「それで、ええんじゃ~」トラクターのエンジン音の中に、そんな父親の声を聴いたような気がしました。

 抜群の切れ味と性善説的価値規範を持ちながら、その割に報われることも無く、早めに(72才は、今の時代では早いように思います)病を得て他界した父の晩年は病気続きだったこともあり、長男の私は、かなり若いころから我が家の農作業を担っておりました。そんな、安月給の息子に対して、自分が作業に携われない罪滅ぼしのような気持ちで買ってくれたのが、件の赤トラだったのだと思います。

 周囲が、勝てばよい(実際には、勝っていないのですが)という風潮の中で、財産を形成していく中で、所謂普通の価値規範を備えていた父親は、子どもに対して、金銭的なものはそれ程残してくれたわけではありません。それでも、耕作すれば食べるに困らない田圃と、今も私が住んでいる家屋敷を残してくれました。これだけでも、そもそも何もない状態からですから、有難いことだと思っています。

 一方で、「なんだ、あいつの子か~」といわれるようなことも無く、むしろ「やっぱり、親父さんの子どもじゃなぁ~」といわれるような信用は残してくれたと思っています。実際には、そのことの方が本当に有難いことだと考えています。まさに、世の中は一寸先は闇であり、信じられないような逆風が吹き荒れたりします。それでも、田圃を耕していると「毅然としておれ」という父の声が聴こえたりします。

 まことに、そうだなぁと思います。これまで通り毅然として、当たり前のことをちゃんとやり、筋を通す生き方を貫いて行こうと思います。今、まさに議会構成などという名のもとに、本当に難解な駆け引きが行われています。それほど議長になりたいのか~などと、訝しい気持ちになったりもします。私としては、付託を受けた市民の皆様が納得されるような、シンプルな行動をとろうと考えています。

 実際、それで良いのだと思います。また私は、旧態依然としたしきたりや申し合わせなども不要だと考えています。その時々で、能力や資質のある人がやれば良い筈です。ベテラン議員の方々に対しては、甚だ僭越で生意気な言い方かもしれませんが、僅か一期ながらではありますが、私が議員生活で体験したことから言わせて貰えば、先程のような表現になると思います。

 そのようなことも、田んぼでの作業において父と話す事柄の中に含まれています。そして、その会話の後には、決まって家族のことや友達のことなどが想起されてきます。同時に、熱く励ましていただける先輩や支援者の方々の顔も浮かんできます。本当に、有難いことだと感じる一瞬です。また、独りじゃないんだなぁ、と、感じる一時でもあります。その時「それで、ええんじゃ~」が聴こえるような気もします。

 ところで、我がヤンマーの赤トラは今年ロータリーの刃を交換したので、極めて作業が順調でした。まさに、道具は道具ということだと思います。また、ディーゼルエンジンの宿命か、多少馬力は落ちた気がしますが、我が家の規模であれば全く問題ありません。身の丈に合せた生き方も大切なのだと思います。一方で、周囲の皆さんの作業の進行状況などから、地域の様子を理解することもできました。

 実は、地方における集落機能の維持は大変な状況です。そのことは、トラクターに跨り田圃を耕している自分だからこそ、一層実感されることだとも考えています。何とかしなくては~、或いは、何とかならないものかとの思いを強く持ち、出来ることを頑張っていきたいと思います。


2019  5月 4日 取り戻すべき精神性と矜持



 
 史上初の10連休も、あと数日です。好天が続いています。花は桜から牡丹へと移り、地元の清眼寺も多くの見物客で賑わっています。その傾向は、年々顕著でもあります。有難いことだと思います。

 世はまさに、改元の話題で持ちきりですね。令和という元号の響きが、良いのか悪いのかさえ判断が付きませんが、平和で安寧な時代であって欲しいとは思います。しかしながら、元号が変わったからといって人の営みが変わるということではなく、これまで通り筋を通す自分の生き方を貫いていきたいと考えています。また、取り戻すべき日本人の精神性に関しても、提唱し続けていきたいと思います。

 そうですね。それが、私のライフワークでもあります。実際、HPを立ち上げ本コラム欄を書き続けている動機の根源は、そこにあると言っても過言ではありません。これまでにも、随分日本人の精神性(本来の日本人が備えていたもの、また、日本人が持つべき精神性)という言葉に言及して来ました。しかし、残念ながらこの国の状況は、私が約17年間訴え続けて来た方向に進んではいません。

 また私は、技術士会や講演会、或いは勉強会などにおいて請われてお話をする機会に際し、世の中の役に立つものづくり、そして、その根底にあるべきものとして日本人の精神性の大切さを語り続けてきました。いまでも、そのような私の考え方に賛同していただき、交流を続けている多くのエンジニア仲間が居りますし、かけがえのない友人として大切に思いあえる人もできました。

 一例を挙げれば、かつて高専のロボコン審査に陪席した時にも、そのような趣旨の講評をさせていただきました。その時は、二足で歩くロボットという規定があったのですが、そこのところを都合よく解釈した提案がありました(細かいことは、いえませんが)ので、私はルールを都合よく解釈することに腐心するよりも、提案した技術がどのように世の中の役に立つのかを考えることが重要であると述べました。

 一方で、そのような世の中の役に立つものづくりなどということは、言葉では簡単ですが中々難しいものでもあります。まず、そのような考え方の基本になる日本人の精神性を磨く必要がありますし、それを次世代へときちんと伝承していくことも必要です。因みに、私が小欄において警鐘を鳴らし始めてからも、各場面において先輩から後輩への伝承ができていないなぁ、と、感じる場面が多々ありました。

 これは、私がいつも述べていることですが、技術者や職人というものは一朝一夕には育たないということです。例えば建設部門では、長引く建設不況や公共事業への厳しい世論などを背景に投資額が減少し、多くの技術者や職人と呼ばれる人達が淘汰されてきた経緯があります。一方で、昨年の豪雨災害等のような事態が起これば、たちまち復旧を担う技術者や施工業者の人員不足が露呈してしまいます。

 いくらマニュアルを整えておいても、建設部門における技術者としての判断は簡単にできるものではありません。また、佐官・鉄筋工・型枠大工・重機オペレータ…多くの職種において、熟練が求められる職種ばかりです。まさに、短期的な需要と供給というような経済的根拠を背景にした、市場原理のような考え方に委ねているだけではいけないのではないでしょうか。

 かつて、小欄においても職人がやって行けない国の危機について言及したことがありますが、いまさらながら、その思いを強くしています。その、職人気質を支える根拠としても、日本人の精神性というものがあったはずです。それは、極東の端にありながら、洋の東西から流れ込んでくる多様な文化のエッセンスを上手く集約して、独自に高めてきたこの国の先達の素晴らしさです。

 例えば、仏と八百万の神が矛盾なく同居でき、そこに論語(儒教)や道教の教えがちりばめられるような文化は、日本にしかないものだと思います。さらには、疑念を持たれる位なら腹を切るというような、凄絶な覚悟を持った武士の矜持などもその根底に流れるものだと思います。だからこそ、新渡戸稲造はあえて英語で武士道を書き上げたのだと思います。

 かつて、欧米人の宣教師に、何故一つの宗教を持たない日本人の倫理観や道徳観がそれほど高いのかと問われ、新渡戸は英語で武士道をしたためたといわれています。本当に、一神教的考え方では理解できないのが日本人の精神性す。また、そのような本来の日本人の精神性のような考え方によらなければ多様な国民性や宗教的価値観を理解できず、真の平和など望めないように思います。

 その昔、反映していた頃のローマは多神教を認め、法に依る統治を行っていました。皇帝の座を神から戴くようになって、ローマの衰退(滅亡への歩み)が始まったのだと思います。高い価値規範を備えた人々による公正なルールの援用、それこそが民主主義の理想ではないでしょうか。

2019  4月  25日   未来志向改革


 

 花冷えというには、寒すぎるような日々が続きましたが、そのせいか今年の桜は長持ちしました。私事ですが、この度の津山市議会議員選挙では皆様に大変お世話になりました。これからも、筋を通す生き方を貫いて行こうと思っています。何卒、よろしくお願いいたします。

 本当に、桜を愛でることを楽しみにしている私にとっては、長く咲いている姿を眺められたことは幸いでしたが、宴に興じる暇がなかったことは多少残念な気持ちもします。それでも、選挙カーに乗って津山市の端っこといわれる地域にお邪魔しますと標高500mという地点もあります。そのような場所では、見ごろの桜を眺められました。また、名前の付いたような桜がまだ咲いていない状況も見られました。

 選挙戦の殆どは、そのような穏やかな、或いは暖かい陽気に恵まれた日々でした。しかしながら、出陣式となる告示日は雨模様で非常に寒い一日でした。私の信念として行っている窓から出した左手を下げないという姿勢は貫きましたが、その手は痺れ体中が冷え切りました。告示日に関していえば、立候補の受付手順等がもう少しスムーズに行われる工夫が必要な印象を受けました。

 何というのか、抽選でその順番になることは仕方ないと思いますが、1番と最終の人では選挙カーのスタート時刻は大きくかけ離れてしまうのが現状です。私の場合は26番でしたが、予定より30分以上遅れてのスタートとなりました。出陣式における間延びや、その後の行程への影響が発生し、対応に苦慮する場面もありました。もう少し、合理的で公平になるような仕組みが求められるところです。

 さて、この度の選挙戦ですが、私は「津山の豊かな自然環境に育まれた歴史と文化に根差したまちづくり」を大きなテーマとして掲げ、公約的な施策としては・教育改革(郷土愛と高い住民意識の醸成にもとづく学力の向上)と子育て支援・子どもから高齢者まで地域で見守り支えあえる住民福祉施策の充実・定数削減をはじめとする行、財政改革の推進

 ・津山の特性を活かした効果的な観光施策、産業振興の推進の4項目を提示させていただきました。そして、その中でも最も力を入れて訴えたことは議員定数の削減です。これは、新聞等にも掲載されていますが、私は津山市の人口や地方都市の規模から考えて議会における定数は20~21名程度で十分であると考えています。このことは、同程度の規模の他都市と比較してもいえることです。

 定数削減のメリットとしては、第一に議員報酬等の削減によるコストカットが挙げられます。例えば、現状から8人減らせば、津山市の場合ざっと年間8,000万円位の税金が浮くことになります。このお金を、前述した公約の実現や意義のある施策実施に使うことが考えられます。しかし、議員定数の削減によるメリットは、そのような一義的なコストカットだけではありません。

 定数が少なくなることにより、立候補する議員の資質向上が促されることになります。より市民の声に耳を傾け、市民の思いを形にして行く努力をして行かなければ選んでもらえない状況を作り出すことが必要だと思います。そのことが、競争を促し議員一人ひとりが資質向上為の努力をして行くことに繋がるのだと思います。さらには、日常における資質向上のための勉強も必要です。

 また、定数が少なくなるということは、市民の側から見ても選択肢が狭められるということになります。誰がやっても同じというような、政治への無関心を食い止めるためにも意義があることだと思います。かつて、地元地方紙のコラム記事に掲載されていた「地縁血縁などのしがらみ選挙のような投票行動をしておいて、『議員が仕事をしない』とこぼすのは愚の骨頂だ」という記事が思い出されます。

 また、議員として立候補する人にしても、何のために立候補するのかという明確な目標を市民に示す必要があると思います。議会に出て、こういうことをやるのだという意思の表示です。基本的には、皆一様に公約として施策を並べて立候補するわけですが、僅か一期の任期中に私が感じたことは、掲げた公約の実現に向けて研鑽している人の姿は極めて少ないというのが印象です。

 もちろん、私自身についても偉そうなことが言えるわけでなく、抱いている志の実現にはまだまだだと痛感しています。しかしながら、より市民の声を聴き、思いを形にして行こうという姿勢は貫いているつもりです。なによりも、このまちの未来を担う子供や孫達のために資する施策の提案や実現を目指しています。そのために、筋を通していくことは当然のことだとも考えています。

 これからも、未来志向の改革を念頭に、地域での活動や議員活動に取り組んで行きたいと考えています。よろしくお願いいたします。


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