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※これまでのコラムが納めてあります。
できれば、通してお読みください。(根底に流れるものを、くみ取っていただけると思います)

                     

               三国志展から                  白桜十字の詩(作楽神社)                院庄観月会            徳守神社神輿        ビーナスの誕生(大塚美術館)

NO.41       

2020  1月  6日  年頭に当たり一言

 

 明けまして、おめどとうございます。本年も、抱いた志を大切にし、筋を通す生き方を貫いていきたいと考えています。小欄をお読みいただいている皆様、また、ご支援いただいている皆様方、何卒よろしくお願いいたします。

 新年の幕開けは、穏やかな天気で始まりました。大晦日、作楽神社で迎春準備の時に吹いた北風からは、雪の正月さえ連想されましたが、拍子抜けするような暖かい元旦でした。今年は、東京で56年振りのオリンピック・パラリンピックが開催されますが、その期待も膨らむような柔らかな新春の日差しでした。真面目で優しい人達に、当たり前の如く日が当たるような年であって欲しいと思います。

 そして、病を得て臥せっていた昨年の今頃のことを考えれば尚更ですが、健康のありがたさが切実に感じられます。さらにいえば昨年は、どんな人も一寸先は闇というか、明日の命は約束されていないのだ、と、いうことを考えさせられた一年でもありました。その上で、本当にやりたいことをやらなければいけないなぁ~と思うようになりました。また、そのことは、ためらわずに貫けば良いのだと考えています。

 さて、そのよう「透徹」とまではいきませんが、ますますシンプルになった感じの人生観に基づき、一年振りに年越しから新年へという行事をこなしました。あらためて、我ながら良くやっているなぁと思うような部分も感じました。とはいえ、他の政治家の人のように、がむしゃらに彼方此方に顔を出すという風でもありません。私は、そのようなことはできるだけ少なくするよう心掛けています。

 その理由は二つあり、一つは自らへの負担が大きくなるのを避けたいという思いからです。そのようなことに心身をすり減らしていては、本来やらなければならないことが疎かになると考えるからです。第二は、少しおこがましいとは思いますが、私自身が評価される判断基準は、こまめにイベント等に顔を出すとか出さないというようなところにあるべきではないと思っています。

 そんなこんなではありますが、本当に、年末まで待ち構えていたような、コアなメンバーとの忘年会を年の瀬に相次いでこなし(実際は、こなすというようなものではなく、とても楽しいものなのですが)、それから、30日には夜警でお世話になっている消防団の方々にお礼の挨拶回りをしました。もっとも、その最大の目的は、親しくして頂いている志ある人達との楽しい宴に参加することです。

 そのようなひと時、いつもながら感じることですが「良い人」に囲まれていることの幸せを実感します。当たり前の事柄を、当たり前のように語り合える仲間がいることは、本当に有難いことだと思います。できれば、そんな人達だけと関わって生きていければ…と思いますが、そうとばかりもいかないのが人生でもあります。それから、その次の日である大晦日が、冒頭お話した作楽神社の迎春準備でした。

 創建が明治二年で、一般的にいう氏子が居ないこのお宮では、地域の自治会役員が中心となって迎春準備を行います。大晦日の朝、神社の境内に集合して、テントの設営から紅白の幕張り、灯光器などによる仮設の照明設備の設営などを約半日かけて行います。その後、自宅に戻り我が家の片付などをして、細やかながら家族と顔を合わせてお互いを労い合うのがいつものパターンです。

 それから、毎年大晦日に恒例の花火を打ち上げておられる場所にお邪魔させていただき、蕎麦やぜんざいを御馳走になり、とんぼ返りで作楽神社~八幡神社へと初詣に回るのが私の年越しの流れです。割とタイトですが、充実しているようにも思います。それから、翌日の元日は、11時から行われる商工会議所主催の互礼会に出席します。以後、1月一杯は彼方此方にご挨拶に回ることになります。

 まことに多忙ですが、それでもいつもの気の置けないメンバーによるつつましい麻雀の会や、心を通わせ会えるメンバーでの宴もあります。もちろん、録画も含めて観たいスポーツ番組のチェックもやりました。ラグビーでは、関西の雄天理大の健闘を期待しましたが、予想通り大学選手権の決勝は早明戦になりました。とはいえ、東海大の頑張りにより明治もタジタジという場面もありました。

 ラグビーに関していえば、個々のスキルや総合力が随分レベルアップしたように思います。また、原監督のやっぱり作戦通りに、新記録で箱根を制した青学大の強さが光りました。私の印象では、花の2区で好走した岸本選手の貢献度が高いように思います。当然ですが、優勝はチーム全員の力によるものです。もちろん、全員とはラグビーもそうですが、控え選手やサポートメンバー含めてのことです。

 今年も、そのような陰日向なく努力できる人達と同じように、自らの道を貫いていかなければと考えています。そして、同じような志を共有できる人達との輪を、拡げていきたいと願っています。



2019  12月  25日  一年を振り返り一言




 いよいよ、今年もあと僅かとなりました。振り返れば、あっという間の一年でしたが、世の中も、私にとっても色々なことがありました。人生観や価値観さえも、考え直す年にもなりました。。

 本当に、今年は色々なことがありました。まず、平成が30年の歴史に幕を下ろし、令和の世が始まりました。とはいえ、崩御ではない天皇の譲位は異例といえるものでした。基本的に、主権在民の時代における象徴天皇としての務めを果たされ、上皇となられた平成天皇ご夫妻のご意志に基くものです。お二人が、これほどまでに国民に敬愛される皇室を築かれた功績は、本当に素晴らしいものだと思います。

 続いて思い浮かぶのは、千葉県や長野県、東北地方などを襲った風水害による甚大な被害の状況です。日本列島を直撃する台風の規模は、年々大きく強くなっています。また、線状降水帯などという言葉が一般に定着する程、信じられないような大雨が狭い範囲に降るようにもなりました。百年に一度というような雨が毎年どこかで降るような状況下、防災に対する考え方も根本的に見直す必要があります。

 事ここにいたって、そのような気象の変化の要因が地球温暖化であることに異論を唱える人はいないのではないでしょうか。スゥエ―デンの少女グレタ・トゥーンベリさんが、厳しい表情で大人達に発したメッセージは、世界中に大きなインパクトを与えました。この地球は、大人達のためにあるのではなく、未来の大人である子ども達のものでもあるという主張は、当然過ぎるほど当たり前の主張でもありました。

 それに対して、まさに大人げなくツイートで揶揄する超大国の大統領は、何とも浅はかな人間にしか見えませんでした。因みに、COPは今年で25ですが、私が技術士試験を受験していた頃COP3が京都で開催されました。当然ですが、建設一般科目の論文ではこれに関する論述が求められたと思います。しかし、当時私は大国のアメリカが積極的に取り組まなければ意味がないと考えていました。

 そのことは、今でも変わりません。現在でも、アメリカと中国が消極的な姿勢を示していることに強い違和感を覚えます。基本的に、各国がGDPに合せて応分の負担をするべきであると思います。経済活動により得られた生産額に併せて、環境保全のための経費を拠出するのは当然です。一方で、限りあるこの地球上で、成長し続けなければ成立しない経済システムをいつまで続けて行くのかとも思います。

 さて、一年の終わりといいながら、厭世的なボヤキを続けるのもいかがなものかと思います。何といっても、今年42年振りに海外メジャーといわれる全英オープンに優勝した渋野日名子選手は、岡山県の出身です。さらにいえば、私達のまちにある作陽高校のゴルフ部の出身です。その、飾らない天然の素直な人柄が、多くの人に愛される理由だと思います。岡山縁のスマイルシンデレラの誕生でした。

 岡山県勢ということでは、つい先日の高校駅伝では、男子の倉敷が惜しくも連覇を逃した2位と、女子の興譲館が3位に入る健闘を見せてくれました。また、物議を醸したオリンピックのマラソンでは、天満屋の前田穂南選手がMGCで代表の座をつかみました。因みに、そのMGCでは天満屋の小原怜選手が3位に入り、ことによると天満屋から二人のオリンピック代表がでるかもしれません。

 まことに、今年は岡山県に関するスポーツの話題が盛り上がったなぁ、と、いう印象があります。一方、日本という視点でみれば、何といっても「ワンチーム」で日本代表がベストエイトに入ったラグビーが胸を熱くしてくれました。やんちゃな高校時代の私の思い出や、ラグビー部に誘われたエピソードは以前にも述べましたし、何故か、私の友人にはラグビーや応援団系の人が多いという話もしたと思います。

 やはり、人がつながるためには似たようなインターフェイスを備えていることが必要なのだと思います。振り返ってみれば、「類は友を呼ぶ:」という言葉を裏付けるような人間関係が私の周りに築かれているように思います。本当に、厳しい体験や残念な思いもした1年でしたが、多くの仲間や理解者に支えられてここまでやって来られたのだと思います。周りに感謝しながら、自らの歩みと方向性に頷いています。

 さて、残り少ない紙面ですが、ボクシングは私の最も好きなカテゴリーの1つです。また、真摯に取り組む選手は美しくもあります。今年も、ワイルダーや井上尚弥の他にも、良い試合を観ることができました。テレンス・クロフォード、ジャーマル、ジャーメルのチャーロ兄弟(双子)、エロール・スペンスとショーン・ポーター……、あと、村田涼太の鮮やかな左フック(上手くなった)によるTKO防衛もありましたね。

 まさに、昨年末からほぼ1月一杯というような人生初の入院生活、その直後の苛烈な選挙戦など、波乱に満ちた1年を過ごしたと思います。そのような中、改めて感じたことは、人の情けや理解し支えてくれる人のありがたさ、そして、筋を通して生きることの大切さであったと思います。これからも、ぶれずに生きていきたいと思っています。

 ここまで、お読みいただきました多くの皆様に一言、今年1年ありがとうございました。良いお年を。


2019  12月  11日  記憶の中の感性を考える


 

 12月に入り、早10日が過ぎました。歳と共に、一年の速さを強く感じるようになって行きます。だからこそ、時間の大切さも痛感されるところです。

 相変わらず多忙にしています。好むと好まざる(行きたいとか、それ程でもない)を別にして、忘年会などの宴席も詰まっています。考えてみれば、この十年来、そんな暮らしをしてきたのだなぁと思います。丁度、去年の今頃から体調がすぐれず、結果的に人生初の入院をすることになりました。おかげさまで、無事に回復し今日に至っております。そしてまた、今述べた多忙の日々に身を置いています。

 文字にすれば、たったそれだけのことではあります。しかし、何となくぼぅっとしているというのか、不摂生でもあり我が身を省みずという風な、気持ちだけでハードスケジュールをこなしていた以前の日々が嘘のような気がします。とこか、遠い昔の出来事のような気もしますし、つい昨日のような気もします。いずれにしても、そんなに無理はできないなぁ、と、考えるようになった自分がいることは確かです。

 そして、健康のありがたさについては、身に沁みて解かったような気がします。そのことが、無理できない~という風な思考回路ができた大きな要因でもあるでしょう。実際、健康に関していえば、「自分だけは大丈夫」と思っている人が大半だと思います。まさに、私自身がその典型でした。病に伏して、改めてその有り難さを感じられるようになったのだと思います。最近は、結構我が身を労わっています。

 そんな日常の一コマ、随分昔に見たアランドロンの映画をBSの再放送で見ました。「サムライ」という1967年制作の映画です。車を盗むために、たくさんの合鍵を持ちシトロエンのキーボックスに一つ一つ差し込み合う鍵を探すシーンが、何故か私の脳裏に焼き付いていました。おそらく、その時のドロンの沈着冷静な仕草が印象的だったのだと思います。一般的な、車を盗む場面とあまりにも違っていました。

 また、殆どストーリーは記憶していませんでしたが、そのシーンを含め度々登場するシトロエンの粋なシルエットと、あっけない最後のシーン(ネタバレするので、詳細は述べませんが)が、若い私の感性の中に刻み込まれていたことは確かです。改め見た映画の感想は、微塵の無駄も無いというか、素晴らしい緊張感と展開にうならされたというようなところです。やはり、良い映画だったんだなぁと思います。

 一方で、パリが舞台のフランス映画なのに何故サムライなのかということは、解るような解らないような感じもしました。実際、武士道や侍を想起させるような直接的な演出がある訳ではありません。何というのか、殺し屋が依頼主を秘匿するような設定にサムライのイメージが込められている(暗喩として)のかもしれません。いずれにしても、アランドロンの魅力が存分に発揮されています。

 ところで、その映画をみたことで思い出したのは、記憶と感覚に関する概念です。といっても、日常において私が頼りにしているのは、そのような古い記憶や遠い過去に学んだことばかりではあります。上手くはいえませんが、人間にとって幼少期を含めた柔かい感性の時代に得た体験や記憶が、いかに大切かということだと思います。その際、知識というデータも併せて蓄積されます。

 私が思うところでは、そのデータとしての知識は、感性という情緒感に支配された感覚と連携して入力される時に、より深く記憶というサーバーに定着されるのだと思います。そのような意味において、あまり人生における体験がなく感性が柔かい時代に受けた印象や、その頃与えられた知識や慣習が、その人の人格形成に大きく影響し、その後の人生を左右するようなことも多いのだと思います。

 当然ですが、私の人生にも結構色々なことがあり、過酷というか辛い部分もたくさんありました。特に、現在の日常ではそのようなことが多いと感じています。同時に、良いこと(正当に報われるというような意味で)も悪いこと(不当に理不尽な扱いを受けるという意味で)も経験してきたつもりです。そのような中においても、私は、所謂悪い人(妬み嫉みを根源に、他者を貶めようとするような)にはなれないのです。

 もちろん、私も人間ですから「受けた恩とされた仕打ち」は忘れるものではありません。しかしながら、私のことを理解したうえで取り巻いていただいている人達に共通している概念は、先ほど述べた悪い人の反対の概念なのです。つまり、良い人達の価値規範だと思います。私の、幼少期から今日まで振り返ってみる時、私は、そのような良い人達の持つ感性に育まれて生きて来たのだと思います。

 そして、今私が思うことは、そのような感性を持ち続けながら生きていきたいと願う気持ちです。


2019  11月  25日  根底にあるべきもの


 
  小雪を過ぎました。まさに、「県北」という言葉の意味を強く感じる季節です。とはいえ、県南(岡山市)の人に言われるほど「秘境」でもありません。結構、生活するための条件は良いところです。

 さて、あっという間に11月も終わりそうですが、実は、今月は視察・研修を含めて色々な場所に行きました。また、ラグビー、ボクシングなどスポーツ観戦(テレビですが)もたくさんしました。その中で、ボクシングに関していえば、24日(昨日)のディオンテイ・ワイルダー対ルイス・オルティス戦は、スリルがあり面白い試合でした。本当に、ヘビー級ならではの迫力と魅力に溢れた試合であったと思います。

 この試合は、前回、王者ワイルダーをあと一歩というところまで追いつめながら息切れしてKO負けしたオルティスが、ワイルダーとの再選にあたり研究に研究を重ね、さらには十分なスタミナ対策の練習もこなして臨んだ試合です。ルイスは、思惑通りの素晴らしい内容の試合を展開しましたが、7ラウンド終了間際のワイルダーの右一発で試合は終わってしまいました。まさに、これぞヘビー級という一撃でした。

 少しずつ、距離感やあて感を探るワイルダーと、周到な戦略の基でワイルダーの右をかわして左カウンターを狙うルイスの間で行われる水面下の攻防は見ごたえがありました。一方で、前回勝利しているワイルダーが、本来は受けなくても良いリマッチを受けた理由として、まずオルティスをリスペクトしており、お互いに娘がいて、オルティスの娘が病気であることなどが、中継の中で紹介されていました。

 そこには、ペーパービューによる高額なファイトマネーが約束される試合なので、オルティスの娘さんの治療費に充てて欲しいという思いもあったようです。試合の時に見せる野獣のような振る舞いからは、少し考え辛いワイルダーの人間性を見たような気がしました。そのことは、意外に静かで慎重な試合前の準備や、ガウンを脱いだ時に解る十分なトレーニングと節制を窺わせる身体が裏付けていました。

 やはり、ラスベガスのリングで闘い、ペーパービューで配信されるような選手の試合は面白いと思います。奇しくも、前夜友人の店で会った若い人と格闘技談義をした時に、格闘技は根性だけでは勝てないという話をしたことを思い出しました。まさに、その一流の舞台に日本の井上尚弥選手も登場してくる(トップランク社と契約)のだと思います。素質を努力で磨き上げた人だけが立てる舞台です。

 少しだけ、辛口でたらればの話をすれば、リゴンドーにスピード負けする前のドネアとやらせてみたかったと思いました。一方で、井上選手もドネアをリスペクトしていたのだと思いますが、正直に正面から打ち合い過ぎるリスクも感じました。もちろん、ラスベガスのリングでは魅せる試合をする必要がありますが、負けないことも大切なことです。冷静に相手を分析することや、勝負に対する厳しさも必要です。

 そのような意味で言えば、私自身はあまり好きではありませんが、メイウェザーのような「打たれない」ディフェンス力を備えたボクサーでなければ、トップの座を長く保てないことも認知されてきました。とはいえ、一発で相手を仕留める力を持った選手がどのクラスであれ人気を博すことはいうまでもありません。そして、そのような舞台では、自国の選手に極端に肩入れしたような実況中継は行われません。

 あのパッキャオが、世界のマニー・パッキャオとなれたのも、どこの国の人間であれファンの期待に応えられるファイターが正当に評価される舞台だからなのです。そのような意味において、ラスベガスのリングが高く評価され、また、そこで行われる試合にファンが魅了されるのだと思います。当然ですが、そこで評価された選手はそれなりのファイトマネーを得ることになります(もちろん、ごく一部ですが)。

 ほんの少しのつもりが、ついボクシングの話になると、あっという間に誌面を費やしてしまいましたね。他にも、この秋にはラグビーの胸が熱くなるような試合や、我が岡山の、そして作陽高校出身の渋野日名子選手のゴルフに関する話など、触れたい話題は色々ありましたが次の機会に譲ります。そもそも、時々の話題を私なりの切り口で、私なりの価値観を添えて述べるのがモチベーションの小欄です。

 独りよがりの視点や、偏ったものの見方もあるかもしれません。しかしながら、胸に手を当てて物事を考え、自らの行動や価値規範を確認するような、本来の日本人の精神性への回帰のようなものが、私のものの見方の原点に据えられていることは変わりません。いつの時代であっても、人さえ良ければ~という思いと、少しでもそのような人を育て絆を繋ぐ生き方を貫いていきたいと考えています。

 今回も、視察でお訪れた長野県の各市で感じた、地域住民自治活動に関する意識の高さなどに触れる時、その考え方が間違っていないことを確認しました。この年末・年始も、「良い人達」と盃を重ねたいと思っています。



2019  11月  11日  惜別(師匠を思う)




 朝夕は、めっきり寒くなりました。そのせいか、今月に入ると訃報を聞く回数が増えました。私が、敬愛して止まない師匠も逝かれました。人の世の、無常と虚しさを感じています。

 その方は、岡山県の技術士会において、誰からも尊敬を集める人でした。全国にも、多くの弟子や薫陶を受けた技術者が存在し、I先生に敬慕の念を抱く人は日本中にたくさん居るのだと思います。私は、これまでにも小欄や寄稿文などを通じ、折に触れて先生に関する思い出話などを語ってきました。本当に、技術士として多くの影響を受けた人であり、不思議なご縁を感じる人でもあります。

 まことに、どこから話せば良いのか解りませんが、私が技術士になり「世の中の役に立つものづくり」を標榜して生きるようになる根本のところで、深くI先生の薫陶を受けたということは間違いありません。一方で、技術士という視点に立つと、私には二人の師匠というものがあります。さらにいえば、この度I先生が亡くなられ、私の師匠(技術士の世界における)は、この世から居なくなりました。

 その、もう一人の師匠についても、何度か小欄で語らせていただいています。私に受検を促し、背中を押し、添削など直接的な指導を受けたという意味では、ミスターW社といわれる程に内外から人望を集めていたTさんが、私の師匠にあたります(2011年9月29日付小欄参照)。私より、僅か二才上の人でしたが、懐が深く大きな人物でした。もちろん、この度亡くなられたI先生とも深い親交がありました。

 当時、岡山県の技術士会においては、W社のTさんとE社のIさんが人望を集めており、私が入会させていただいた2000年の数年前に岡山で全国大会が開催され、その中心で汗をかかれたのもお二人であったとお聴きしています。思い返せば、初めて岡山県技術士会の席に座を連ならせていただき、懇親会等で交流させていただいた時のメンバーは多士済々で、本当にすごい人達ばかりでした。

 ところで、私はI先生のことを師匠と呼んでおりますが、受験にあたって直に指導を受けた訳ではありません。元々は、初めて参加した懇親会でお目にかかった時から、その人柄に魅かれ私が勝手に師と慕い、衆目を憚らず「先生」と呼ぶようになった関係です。とはいえ、最初はその凛とした立ち居振る舞いもあり、中々新参者が声をかけられるような感じではありませんでした。

 何とかして、親しくお話させていただきたい、と、いう思いから、I先生に関する情報を集めている中で、「大陸の花嫁」という満州から苦労して引き上げてこられた方の自叙伝に対する、寄稿文の中に先生の名前を発見しました。その時、I先生ご一家が戦後の一時期を平壌の収容所で過ごされたこと、元々6人だった家族が3人になり、15才の先生が10才の妹と5才の弟を連れて日本に帰られたことを知りました。

 ある時、技術士会の宴席があった機会に側に座り、そのお話をきっかけに親しくお話しすることができるようになりました。以来、勉強会や多くの酒席などを通して石井イズムともいえる、先生の人柄や志に何度も触れさせていただきました。単に徒党を組み群れることを良しとせず、本質を見極めようとする視点を失わない人であったと思います。そのことを彷彿するエピソードもたくさんあります。

 例えば、東日本大震災の時の東京電力の対応の拙さと、電力会社というものの体質そのものに関する感覚的な懸念などは、本当に心から頷けるものでした。先生は、もともと電力会社におられ、内部で感じていた組織の有り様に関する懸念について、肌で感じる違和感のようなものを語っておられたと思います。その時にも、本来技術者が持つべき精神性に関する示唆を強く感じました。

 私が、小欄のHPを立ち上げ、インターネットを通じて論文添削など技術士支援を行っていると知り、「顔も見ずにやるのか」という心配の言葉をいただきました。実際、I先生は対面しながらの直接的な指導を行い、所属した会社はもとより全国に多数の技術士を育てた人でした。以来、私は受け入れ人数を減らし、繰り返し質問をやり取りしその人の「志」を確認してから支援を行うようになりました。

 また、不思議なご縁というのか、15才のI先生が引き上げてこられた本籍地は私の母と同じ場所でした。さらに、収用所時代に一緒に暮らした人の中に、私の近所の人の名前があったことも奇遇でありました。そういえば、そのことを懐かしまれこちらに来られたのが、我が家への最初の訪問でした。「あんたには、教えとらん」そう言いながらも、「友として~」と仰っていただき目をかけていただきました。

 二級下に、五木(五木寛之氏)がいたなぁ~という話や、他にも多くの思い出がありますが少ない誌面では語りきれません。毎年春には、津山の桜を眺めながら酒を酌み交わしました。その時の、優しい笑顔が偲ばれます。感謝をこめ「先生、ありがとうございました」と心から言わせていただきます。合掌。


2019  10月  28日  生き方と出会いで結ぶ縁



  霜降を過ぎました。ようやく、一日毎に肌寒さを覚えるようになりました。一方で、秋祭り・文化祭など、地域でのイベントが目白押しです。体調には、気を付けたいものです。

 さて、この週末も地域で行われるイベントやお祭り、また、このまちのために意義深いと思われる、シンポジウムにも参加してきました。さらには、私が参加することを待ちわびてくれていた、有難い友人知己との宴にも幾つか参加させていただきました。まだまだ手探り状態ではありますが、ようやく軽くなら飲めるようになってきました。やはり、酒酌み交わしてこそ、腹を割った話ができるような気がします。

 もちろん、酒を飲まなくても心を通わせてくれる仲間もいます。ただ、私の周りには酒が好きな人が多いのも事実です。ところで、冒頭述べたように、この二週間も色々なことがありました。感動の試合を勝ち抜き、ベストエイト進出を果たしたラグビー日本代表は、惜しくも南アフリカに敗れました。それでも、彼らが与えてくれた感動は、私達の心に大きな力をくれたと思います。特に、私には響くものがありました。 

 話は変わりますが、先日、今年が創建150周年を迎える作楽神社に、はるばる東京から歴史画家の先生がお尋ねくださり、1.8m×3.6mもある大きな絵を奉納していただきました。「白桜十字詩」という児島高徳を描いたもので、闇に紛れて桜の幹を削り、天莫空勾践時非無范蠡(天勾践を虚しゅうするなかれ、時に范蠡無きにしも非ず)という十字の詩を記す児島高徳を書いた大作です。

 作者の、内田青虹先生は、萩生まれ萩育ちということでした。それに違わず、「松陰先生」と吉田松陰のことを呼ばれる人でした。また、明智家の末裔とかで、本能寺の後毛利家に身を寄せたことなどを伺いました。また、山中鹿之助を描いたことから月山富田城に招かれ、自分のルーツを確信したというお話もしていただきました。そのようなことも、歴史画を描いていた縁であるとも語られていました。

 2007年の春、自宅の前の桜が切られることとなり、丁度その時後醍醐天皇の行在所が焼けるというニュースを耳にして悲嘆にくれた時に、ふと口を突いて出たのが「船坂山や杉坂と御あとを慕いて院庄~」という幼少期に唱歌として口ずさんだ児島高徳を歌った唄であったそうです。そして、五月の展覧会に間に合わせるために懸命に二か月で書き上げたのがこの作品だということでした。

 併せて、地域にご寄贈いただいた画集には、明智家に因んで細川ガラシャを描いたものもありました。当日は、短い時間でしたのでそのようなお話に踏み込めなかったことが、少し心残りではあります。それでも、「先生は、歴史の絵を描かれる宿命を背負っておられ、またそれ故に、この作楽神社にご縁を結んでいただくようになっていたのだと思います」と、お礼の言葉と併せてお伝えしました。

 本当に、目に見えないご縁のようなものを感じました。有難いことだと思っています。これは、これまでにも思ってきたことですが、この国の歴史や人物についてきちんと顕彰し、次世代に継承していくことの大切さを改めて感じました。強めの雨が降る日したが、清々しさが胸にの残る一日でした。そのような中、この土曜日には、森林を考える岡山県民の集いで橋本大二郎前高知県知事の話を聴きました。

 森林(もり)は生きている~というタイトルで、林業を単に一次産業と捉えず総合的な視点から支援していくことの必要性や、法規制などに関する全国一律適用への疑問など、近畿中国森林管理局長へ「苦言を呈する」と前置きしながらの講演でした。行政が、森林所有者と林業経営者を繋ぐシステムの構築や、森林の所有権や相続に関して国土保全上の特例を設けることの必要性なども語られていました。

 そして、日曜日は先の即位の礼の際にもだんじりの集結が見られた津山祭りのメインである徳守神社を訪れ、神輿の担ぎ手として毎年貢献されている友人知己の顔を見に行きました。さらには、会えばいつも励ましていただける先達の方にもお目にかかりました。いただいた言葉などから、ここまでの生き方や姿勢について、少しは自信を持つこともできました。これも、有難いひと時でした。

 そして午後からは、このまちが誇る名園衆楽園の迎賓館で行われた特別シンポジウムに参加してきました。13時から始まり、16時45分までみっちりの内容でしたが、普通では、中々考えられないような方々が集まっておられ、高い見識からこのまちのこれからの進むべき方向性などを語られていました。誌面が少ないので内容は語れませんが、面白いお話jもたくさん聴くことができました。

 あえていえば、歴史と文化を活かしたまちづくりの大切さなど、私が考えて来た方向性と重なる部分も多くありました。一点、PR不足の指摘とその重要性はその通りだと思いました。また、余談ですが、キリスト教会を設計した祭、出江寛氏が信者に告げた「宗旨は浄土真宗である」という話は面白かったです。


2019  10月  14日  胸を熱くするものは




 過去に例を見ないほどの台風~最近では何度も聴く言葉です。そして、またも広い範囲で甚大な被害がもたらされました。まさに、スウェーデン人少女の唱える警鐘が、切実に思い出されます。

 先の15号台風によって、千葉県を中心とした関東地方が受けた被害の爪痕も癒えないところに、この度の19号台風による風水害がさらなる追い打ちをかけました。また、今度の台風が運んできた膨大な雨雲は東海から東北にかけた広範囲な地域に大量の雨を降らせました。そのため、彼方此方で河川堤防の決壊や浸水被害が続出し、多くの犠牲者・行方不明者を出すこととなりました。

 身近なところでは、私の知り合いにも被害者はいます。改めて、この度の災害に遭われた皆様に心よりお見舞いを申し上げたいと思います。そして、残念ながら命を落とされた方のご冥福をお祈りしたいと思います。さらには、この国の置かれた位置や地球環境の変化に警鐘を鳴らしたい気持ちです。また、そもそも脆弱極まりない国土で、私たち日本人が綱渡りのように生きて来たことを実感しています。

 そのような状況下、開催そのものが危ぶまれたラグビーワールドカッププールA予選最終戦となる、日本対スコットランド戦が横浜国際総合競技場で行われました。日本代表チームは、本当に素晴らしい試合を見せてくれました。28対21という、ワントライ・ワンゴール差の僅差の勝利でした。また、過去の戦績1勝10敗という強豪スコットランド相手に、4トライを奪いボーナスポイントも獲得しました。

 結果的に、プールAを1位という成績で予選通過する快挙を成し遂げてくれました。私も、テレビの前から離れることができませんでした。もちろん、今回のワールドカップにおける日本代表の試合は全部見ていますが、夫々に素晴らしい試合だったと思います。そのうえで、その度にに胸が熱くなるような感動を貰いました。そして、昨夜の最終予選の熱戦は、私の感動の高まりを最高潮まで高めてくれました。

 どうして、ラグビーの一本(トライ)はあれほど見ているものを感動させるのでしょうか。これは、私の独断ですが、同じ一本でもサッカーのゴールより胸を熱くします(これは、サッカーを軽んじて述べているのではありません)。そもそも私は、中学3年生の冬休みに見た早明戦(もちろん、テレビ観戦ですが)以来、ラグビーファンを自認しています。したがって、これまでにたくさんの試合を観てきました。

 松尾の明治、大八木・平尾の同志社、新日鉄釜石の七連覇、同じく神戸製鋼の7連覇等多くの名勝負も見て来ました。一方、多くの皆さんが感じていることだと思いますが、ラグビーは観るスポーツだと思います(実際やると、本当に痛みを伴う競技です)。実は、私の母校はラグビーの強い高校でした。また、体育の授業の担任はそのラグビー部の監督で、県教員チームの代表選手というような人でした。

 その人から私は、一年生の時から多少やんちゃにしていたこともあり、授業中ふざけていたところをやんちゃのコンビを組んでいた相方と二人並べられ「人間が飛ぶ」感覚を味わう程の平手打ちをいただいたことがあります(このことは、後日、退職された先生に、同級生の割烹でその良き思い出を語ったところ「生徒は殴っちゃいけません」と好々爺とした表情で答えられましたが…)。

 また、その先生からは「9番でも10番でも出来る」といわれ、ラグビー部への入部を勧められたこともありました。結果的には、痛いのが嫌だったこともありソフトテニスを選びましたが、三年生になり、インターハイ出場を決めた後、転任された高校で再開した時には、先生が相好を崩し「よかったなぁ」と心から喜んでくれたのを覚えています。因みに、当時の我が校の運動部の練習量はどこも凄いものでした。

 どの部活も、水を飲んではいけないなど、今からは考えられないような不合理で根性だけを養うような練習をやっていましたが、殆どの部活がインターハイや全国大会に出場するような成績をおさめてもいました。丁度、やけっぱちなところもあり、勉強などする気も無かった私ですが、何故か部活だけは辞めずに卒業しました。結果的に、共に汗を流した仲間は今でも財産となっています。

 さらには、同じ部活の人達だけでなく、応援団やラグビーといったような、あくの強い面々との繋がりが今も強く残っています。そして、私がこれまで生きてきて培って来た人間関係や友人知己のことを振り返ってみると、不思議にラグビー的精神を内在し理解する人が多いように思います。例えば、密集に飛び込む仲間を見て「放っておけない」と思うような感覚を備えた人達です。

 やはり、人の胸を打つのは言葉ではなく、身を持って行動することなのだと思います。その根っこにあるべきものが知行合一のようなことだと思います。これからも、熱い仲間と繋がっていたいと思います。


2019  9月  30日   言葉で語るより…




 9月が終わります。稲刈り、運動会、秋祭りの準備…当たり前のように繰り返される行事をこなしながら、ふと、いつまでこの光景が続くのだろう、などと考える時があります。少年老い易く、ではあります。

 本当に、そうですね。若い町内会長~といわれ、廃れてしまっていた自治会の民主主義に取り組み始めてから、早、15年以上の時が流れようとしています。結果的に、現在この地域では市内のどこよりも、民主的な自治会活動が行われるようになりました。権力者・有力者を通じて行政に物申すのではなく、地域のことは地域で考え、話し合いながら行政機関に要望していく仕組みも根付きました。

 また、そのような仕組みは、本市の行政機関においても定着してきました。例えば、以前は有力議員の自宅付近の道路や、有力者といわれる人の意向を反映した社会資本の整備が優先されてきた歴史があります。一方で、そのようなことは、地域の理解やコンセンサスとは関係なく行われていたのが実情です。現在では、例え議員が仲介の労を取っても、地元自治会の要望書は必須となっています。

 そのようなことは、本来は当たり前のことだと思います。しかし、そんな当たり前ことともできていなかったともいえるでしょう。むしろ、行政を呼びつけ声高に要望を押し付ける、さらには、それを実現させるような人のことを「力のある人」と呼ぶような風潮もありました。さらには、そんな人のところに群がり、個人的な利益を得ようとする人もいました。逆にいうと、刃向えばきつい仕打ちを受けるということです。

 このまちでは、そのような空気が長い間続いており「当たり前のこと」がないがしろにされていました。また、高度経済成長期から続いていた長いものには巻かれるという役所と地域の関係性が、そのことの背景にあったのだと思います。さらには、それを可能にするだけの財源が、行政にあったことも事実です。反対に、財源の無くなった現在では、共助の名のもとにあらゆる負担が地域に委ねられています。

 急速な少子高齢化が進み、人口減少社会に突き進んで行く地方都市においては、身の回りのことは出来るだけ自分たちでやって行かなければなりません。そのような、地域での住民自治活動に対して、持続可能な形で維持していかれるように、どのように支援していくのかが行政に求められるところなのです。また、地域においても補助金などに依存する姿勢では持続可能な将来はのぞめません。

 私は、そのようなことも踏まえ、本当に地域で話し合い協力し合いながら、維持していけるまちづくりを模索してきました。一方で、その過程は闘いの連続でもありました。前述したような有力者・権力者といわれる人が牛耳っている状況の中で、本当に地域の人が考え望んでいることは何かを念頭に、それらの人々と対峙してきたからです。その中には、縁戚関係や濃い人間関係にある人も含まれていました。

 別の視点からいえば、そのような立場や環境にいる自分にしかできないことをしてきたのだと思っています。しかしながら、そのような個人的な縁故や人間関係を排してでも、公益を優先し筋を通して来た私のやり方に対しては、結果的に快く思わない人や反発する声も聞こえてきます。当然ですが、私情を排し公益を考える私のやり方は、利己的な考え方の人が持つ利害関係を阻害することもあります。

 そのような人から見れば、邪魔をされたと考えることもあるのだと思います。まことに残念ですが、そのような思惑に基づき、根拠のない誹謗・中傷を受けることもあります。さらには、それに妬みや嫉みなどという感情が交じり、残念な行動をとる人にあうこともあります。繰り返して言いますが、私の行動の規範は、地域の人やこのまちの人が何を考え望んでいるのかを考えるところにあります。

 また、子どもや孫たちにこのまちを託すために、何をすべきなのかということがその規範の根底あります。一方で私は、それらの事柄に関しては、これまで自ら語ることをできるだけ避けて来ました。それは、どんなことも言葉にすれば、また文字にすれば、本意からずれてしまいがちだということがあります。さらには、その言葉の端々を捉え上げ足を取ることなどは、容易なことだと思うからです。

 本当に若いときは、日本語が解らない人には日本語を教えてでも正義や大義を語ろうと考えていました。しかしこの頃思うことは、言葉の通じない人とは話したくないという思いです。一方で、人がどのように何を語ろうが、その奥を見ている人は必ずいるのだと思います。だからこそ、私は、自らのやっていることを見てもらうだけだと考えています。そのことを、ぶれずにやって行きたいと思います。

 余談ですが、これまで述べてきたような思いが、私個人の私生活を晒すようなSNSなどによる発信を出来るだけさけている理由なのかもしれません。生き様を見て貰うだけだと考えています。


2019  9月  16日   津山の月


 
 またしても、関東地方で台風による大きな被害が出ました。無残に倒れた鉄塔の様子を見て、改めて人の力の限界を感じました。今回が、懲りない人類への何度目の警告なのでしょうか。

 9月になっても、猛暑日を記録するような暑い日が続いています。とはいえ、雷が鳴ったりにわか雨が降ったりしますので、稲作に取り組んでいる方々は慌ただしく収穫に追われている状況です。かくいう私も、兼業農家の端くれとして僅かばかりではありますが、我が家の田圃の収穫をこなさなければなりません。ですが、天気任せの作業スケジュールに手を焼き、一昨年から専業の方にお願いしています。

 もちろん、圃場の耕運から田植え、その他、水をはじめとする管理には我が家で取り組んでいますが、そちらの方も、何時まで続くかなぁという感じになってきました。本当に、第一義的には周囲に迷惑をかけられないという責任感だけで「持ち出し農業」をやっている人達に、高齢化という大きな壁が立ちはだかっているというのが、地方の農業集落社会の実態なのだと思います。

 実は、この9月議会の一般質問でも、持続可能な地域住民自治活動の支援策について議論を深める中で、農業分野における多様な支援策(多面的機能支払交付金や、中山間地直接支払制度等)を過疎化・高齢化が進む地域社会において、集落機能を維持していくための自治活動に活かせるような支援策の必要性について提言を行いました。本当に、「美しい里山」は疲弊し悲鳴を上げています。

 さて、翻って我が身を見れば、火曜日からは委員会審議があります。これには、厚生委員長として適正な審議が行われるよう、しっかり取り組むつもりです。また、議会運営に関してはいくつかの課題もありますので、議会運営委員会の場において的確に意見を述べるつもりです。その他、地域行事や資質向上のための取り組みなど、やるべきこと、やらなければならないことが山積しています。

 相変わらず、そのような多忙な日々を過ごしています。それでも、心通い合う人との僅かな会話や、こなしていく行事等の中で交わす何気ないやり取りの中で、癒される気持ちと貫いている生き方への確信を感じさせていただける時があります。本当に、有難いことだなぁと思います。さらには、これからも筋を通す生き方を貫いていきたいと思います。またそのことは、宿命のようにも感じています。

 そういえば、地域の観月会(満月の一週間前の7日(土)に行いました)では、月齢7.7ながら綺麗な半月を眺めながら、地域で茶道を嗜んでおられる方々によって屋外の茶席でお茶をたてていただきました。午後から吹いていた強い風が嘘のように止み、村雲というほどではありませんが、時々美しい月を見え隠れさせる演出効果を果たしてくれたように思います。

 これも、日頃から何くれとなく汗を流して地域行事に取り組んでいただいている、自治会役員や関係者の皆さんの精進の賜物ではなかったかと思います。月明かりの下で、本格的なお茶の御点前をいただき、公民館活動で日頃腕を磨いている方々による大正琴の演奏に耳を傾ける皆さんの顔は、夫々に穏やかな安らぎを浮かべておられたように思います。

 その、大正琴の演奏の後には、甚だ僭越ですが私が名古屋山三郎(名古屋九衛門、森家先代実録には山三郎と記載)に関するお話をさせていただきました。とはいえ、頭の中にあるうろ覚えの記憶を披瀝する即興話ですから、やや取りとめのない状況になってしまいました。内容としては、清元節の浄瑠璃話にある津山の月の創作エピソードから、主役である山三郎と出雲の阿国のロマンスなど。

 また、この院庄の地を舞台とした、非業の死を遂げる名古屋山三郎と井戸右衛門に纏わるお話などです。さらには、藩主であった森忠政と叔父にも当たる重臣林長兵衛為忠のことなど、時間がないので中途半端で舌足らずの説明になったことは否めません。そのうえ、例によって(時々、度忘れして名前が出てこないことがある)林為忠が身を寄せた広島の福島正則の名前が出てこない場面がありました。

 それらのお話を説明するには、数多くの誌面を要しますので省きますが、名古屋九衛門と井戸右衛門が祀られている「睨みあいの松」は、現在は私の家の裏の公園内にあります。また私は、生まれてから今までここを離れたことがありません。そのような意味から、山三郎の生まれ変わりなどと標榜しています。もちろん、彼の類稀な美貌になぞらえ笑いを取るためですが、深い縁があるとも思っています。

  実は、観月会の話題に関しては思うところもあり「どうしようかな」と考えましたが、あえて書きました。地域の歴史と、それをきちんと顕彰し次世代に繋ぐためには、本当に人の繋がりが大切だと考えたからです。これからも、大きな話題から小さな話まで、私なりの視点で語り続けていきたいと思います。


2019  9月  2日   志なくば…




 9月になりました。戻り梅雨のような前線が、またしても大雨をもたらしました。これまでも、脆弱な国土に住んでいる印象でしたが、その気持ちが一層深まり、空恐ろしさのような感覚も覚えます。

 さて、相変わらず多忙な日々を過ごしておりますが、その間隙を縫い、様々な用事を総合しながら、東京まで足を延ばしてきました。その目的の大きなものとして、上野の国立博物館(正確には、その中の平成館)で行われている三国志の特別展の見学がありました。想像はしておりましたが、休日の来館者はその数も多く、また、多様な人種の人々で賑わっておりました。

 そのようなこともあり、また、十分な時間を持ち合わせてもおりませんでしたので、イメージを膨らませ堪能するような見方はできませんでした。それでも、近年その墓が発掘され、人物像に関しても大きく評価が高まっている魏の曹操縁の展示物など、目星をつけていた展示物については、実物をしっかり見ることができました。さらに良かったのは、場内すべてにおいて撮影が許可されているということでした。

 三国志といえば、後漢の終わりに起こった黄巾の乱から始まる魏・蜀・呉の三国による覇権争いを描いたものです。これには、正史三国志(西晋時代、陳寿作)と三国志演義(作者不詳)があります。しかしながら、一般的に読まれており、漫画などでも私達になじみが深いのは三国志演義の方になるかと思います。私も、若かりし頃熱をあげて読み耽った記憶があります。

 ところで、私が読んだものは所謂「吉川三国志」というもので、あの吉川英治の手によるものです。1巻が300頁を超える本が10巻続くというものですが、本に対する私の習い性を差し引いても、最初の頁を捲ったら最後、巻末まで読み終えなければいられないような衝動に駆られる本であったことは事実です。主に、劉備元徳・関羽雲長・張飛翼徳(※もとは益徳、私が読んだ本では翼徳)が主役です。

 もちろん、ここに三顧の礼により軍師に迎えられる諸葛亮孔明が加わり、物語は面白さをさらに増していきます。基本的なえがかれ方として、桃園の契り(正史三国志では、その記載がない模様)を結んだ三人が漢王朝末期の混乱を鎮め、再び再興することを目指すストーリーとなっています。このことは、多くの方々が小説や漫画などを通して良くご存じだと思います。

 三国志演技においては、かれらが蜀の国を興し、漢王朝復活のための闘いを進めて行く中において、敵役というのか、悪役としてのイメージで魏の曹操が大きく立ちはだかる役を演じています。このことは、それ以前においても、またその後の中国歴代王朝においても尊重され、規範とされるべきものと位置付けられた儒教の教えが、大きく反映しているといえるでしょう。

 しかしながら、前・後約400年も続いた漢王朝は、その儒教精神により滅んだとする見方もあります。いずれにしても、政権や王朝が長く続くと、様々な弊害や機能障害が生まれるのが世の常でもあります。例えば、皇帝や君主の弔いを盛大・豪華に行うことは義にかない孝にあたるとする儒教の教えが、皇帝の墳墓の壮大さに拍車をかけ、豪華な副葬品の埋葬が競われるようになりました。

 このことは、経済的に多大な負担となるため、歴代王朝を苦しめる一因でもありました。そのような状況を鑑み、魏の武王曹操猛徳は、自らの墓の簡素化を命じたといわれていました。一方で、長い歴史を通じて中国社会では、三国志の悪役として位置付けられていた曹操のことですから、この説にも異論が唱えられていました。ところが、近年この曹操の墓が発見され、正式に確認されました。

 結果的に、その埋葬品からは、生前の曹操が標榜していた通り質素な品物しか出て来ませんでした。もちろん、祭祀などに必要なものなどは適正におさめられていますが、例えば鼎にしても青銅ではなく陶器でこしらえられているという具合でした。何事においても、合理的なものの考え方を貫いた曹操の生き様を示すものでありました。そのようなこともあり、現在の曹操の評価は一変しています。

 まず民を思い、合理的な統治を目指した名君として再評価されています。そのようなこともあり、今回の三国志展は是非とも見たいと考えておりました。行ってみると、曹操の魏だけでなく、蜀・呉の文化や風土を感じさせてくれる展示がたくさんありました。一方で、五丈原に赴く孔明の志にうたれる出師の表や、赤壁・定軍山・樊城…など闘いの足跡をたどれば、夜通し読んだ記憶が想起されます。

 本当に、時間があればなぁ~というひと時でした。また、自らの生き方の標としてしてきたはずの志という言葉が、改めて脳裏に浮かんできました。やはり、志なくば~なのだと思います。

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