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NO.10

2006年 8月 28日           虎のように、龍のように 

                     


 
甲子園の感動などを残して、夏休みも終わろうとしています。子供の頃、あれほど長く楽しく感じた夏休みは、大人になった今ではとても短く感じます。その「当事者」ではないので、仕方がないのかもしれませんが、密度の薄い時間を過ごしているんだなあ、と、あらためて感じてしまいます。

 さて、タイトルの虎と龍についてですが、私は、現存する動物の中では虎がもっとも好きな動物です。もちろん、ペットとして考えれば猫や犬も可愛いくて良いなとも思います。しかし、私が虎に対して描くイメージは、群れを成さず孤高な雰囲気です。孤独を恐れず、迎合することを良しとしない、そんなところが好きな理由だと思います。実際のところ、生態について熟知しているわけではありませんが、私はそのように捉えています。

 それから、その身体の模様の美しさも、敬意を表する理由のひとつに挙げられます。まさに、強さと美しさを併せ持った生き物といえるでしょう。そして、その美しい縞模様は、人間の指紋と同じように成長しても変わることがなく、固体の識別にも利用されているようです。言い換えれば、それぞれが個性を持って存在を主張しているともいえるのです。

 余談ですが、私には百獣の王が何故ライオンなのか理解できないところがあります。ライオンについては、メスを中心にして群れを作り、オスはあまり働かない様子を、アフリカの草原などにおける映像で良く見ます。それに対して虎は、メスが子育てをするのは同じですが、群れを成しているのは見たことがありません。もっとも、草原のような広いところを主な生活圏としない虎は、群れる必要がないというか、群れるほどの餌場がないのかもしれませんが。

 そのせいか、虎の子供には明確に序列があり、確実に一頭が成長できるように、上の子(力の強い方)から餌を与えられます。それだけ、虎が生息していく環境の方が、ライオンの生息している環境よりも厳しいのかもしれません。現実に、環境破壊や無秩序な開発・密漁などにより、その将来が明るいとはいえないのだろうと思います。

 中国古来からの方角で言えば、西の方向に位置(白虎)し、東に位置(青龍)する龍と対局におかれています。龍・鳳凰・麒麟など想像上の動物の中に割って入り、その地位を占めていることが、強いものを尊崇してきた人間が、虎にその称号を与えてきた理由に違いないと思います。そのような意味からも、畏敬の念に似た感情も内在しているように思います。その一方で私は、何となくとっつきにくく、無愛想な風貌の下に、結構人懐っこく優しくて涙もろい一面を、虎の中に感じ(求め)ているようなところもあります。

 一方、竜虎と称され、強く大きな力を持つものの代表として、龍の存在があります。龍は王の象徴とされ、皇帝の持ちものや住居の装飾に用いられたりしてきました。また、数多くの伝説や物語が生み出され、今日まで伝えられています。水に関係が深く、日本のみならず、たくさんの場所において龍神伝説などが残されています。

 しかし、私が龍という文字で最初にイメージすることは、坂本龍馬という人物についてです。私のなかで、尊敬と憧れの対象であり、もっとも好きな日本人の一人です。まさに、その「日本人」という意識を持って、この国に生きた最初の人物ではないかとも考えています。薩摩や長州という単位ではなく、また、武士とか商人という分類にもよらず、日本人として明治維新を成し遂げた功労者だと思います。

 もちろん、龍馬の存在がなくても、維新は訪れたことでしょうが、時間的にはかなり遅れることとなり、もしかすると、列強の植民地支配を受けたかもわかりません。本当に、多くの偉人達によって明治維新は成し遂げられ、我が国の今日の繁栄の礎となっています。しかし、藩のためや天皇のため、または武士としての誇りをかけてなど、様々な動機を持ち人々が活動した中で、おそらく、坂本龍馬だけが、日本人のための明治維新を目指していたのではないかと思います。

 少なくとも、私はそのように考えています。上士でなく郷士の家に生まれ、商家の縁戚に馴染み経済的感覚や、独特の世界観を備えながら育った龍馬には、封建的な幕末の日本が息苦しかったのではないかと思います。「アメリカじゃあ子守(ベビーシッター)が将軍(大統領)を決めるんじゃ」と司馬遼太郎は語らせていますが、本当に、そんな感覚を持っていたのではないかとも思います。

 船中八策の作者としての信憑性など、多くのなぞや史実と人物像の乖離を指摘されたりもしています。しかし、それだけ多くの人々が、研究の対象とするだけの存在感が龍馬にはあるのだと思います。まさに、時代に求められて登場し、役目を終えてさっと舞台から去ったという印象の33年間の生涯であったように思います。

 一度ならず二度も脱藩し、独自の判断で行動し、道を切り開いていくところなどは、まさに、虎のような強さを持っていたのだと思います。一方で、坂本の長泣き息子と言われた少年時代や、相手を魅了する人懐っこさなど、溢れるほどの人間的魅力も感じさせます。私は、自由に考え自由に思うところを述べる、そして、たとえ一人でも信念を貫く、そのような、龍馬の虎のような生き方が好きなのです。そのことが、私が虎に惹かれていった要因の、一角をなしているのかもしれません。

  「我が成すことは我のみぞ知る」そうつぶやきながら、虎のように、龍のように生きていけたなら……


2006年 8月 15日           お盆ですが、あえて一言  

                     


 
遅い梅雨明けを挽回しようとするような、暑い日が続いています。田舎においては、非常に重要な行事といえるお盆を迎えました。多くの行事が新しい暦になっても、やはり、お盆は八月のこの時期でないと、いけないような気がするのは、私だけではないと思います。

 事ほど左様に、今日我が国にあるしきたりや文化は、長い間にわたる私たちの祖先から培われた、日本人の生活の積み重ねの中から紡ぎだされたものであると思います。しかしながら、人を慮り、恥ずかしいことを良しとしない日本人の精神性は、近年、特に薄れてきているように思います。

 そのようなことは、先の戦争を体験された世代から見ると、まさに「お前たちから悪くなったのだ」といわれそうな気もします。おおよそ、真面目とは程遠い感じの思春期以降を何年も過ごした私が、このような嘆きを綴っていること事態が残念なことなのです。このことは、今までにも何度も述べましたが、この国の将来を思う時、現状に看過できない程の危険な匂いを感じるからこそ、繰り返し述べているのです。

 まず、インターネットなどに氾濫する情報の中で、それを吟味・咀嚼して自身の判断を下したり意見を述べようとしている人が(特に若い人)あまりにも少なすぎるように思います。また、その溢れる情報やニュースの中で使われている言葉が、あまりにも軽すぎる気がしてならないのです。特に、インターネットの掲示板や、電子メールのやり取りに見るその傾向は顕著です。

 その延長かと思いますが、小ざかしく立ち回る人間が「賢い人」のように扱われたりする傾向も強く感じています。表面的な美辞麗句をならべることや、多くの言葉で能書きを並べる曲学阿世の人を、理論武装した知識人のように持ち上げる傾向も見受けられるようにに思います。とはいえ、このようなコラムを書いているお前は何なのか?といわれると、私も偽善的・独善的で、自己満足を遂行しているだけの、人間でしかないのかもしれませんが……

 お盆を迎え、先の戦争に関係したテレビ番組がたくさん放送されている中、先人達の体験を語り継ぎ、この先再びそのような歴史を繰り返さないために、述べなければならないことがたくさんあるはずなのに、あえて、このような文章を書いています。私は、終戦から一回り程の年月が流れた頃に生まれ、奇跡的な発展を遂げる日本の中で、好きなことを考え、思うように語ってこられたこと(誰憚ることなく)を考える時、何と幸運であったのであろうとさえ感じてしまいます。

 だからこそ、しっかりと地に足をつけてものを見据えるスタンスと、本来の日本人が備えていた筈の倫理観が失われていくことを憂うのです。マスコミは強大な力を持っています。しかし、一旦戦争に向かって世の中が動き出せば、それをとめるほどの力を持たないことは、先の戦争でも明白でしたし、朝鮮中央通信をみていればよくわかるはずです。

 今日のテレビでは、政治問題を面白おかしく議論する番組などが放送されています。終戦記念日における小泉首相の靖国神社への参拝についても、たくさんの番組が制作されています。視聴率獲得などと斜めから見ないでも、大切な問題提起であり、きちんと議論すべき問題であると思います。しかし、それが議論できない時代もあったのです。また、そのような時代が来ない保証などはありません。

 話がとんでいるように見えるかもしれませんが、現代における言葉の軽さや、あまり物事を深く考えない風潮は、平和であることに慣れすぎ、その有り難さを忘れてしまっているところに元凶があると思うのです。私達が子供の頃受けた教育が良かったのか悪かったのかは解りませんが、少なくても、今よりは戦争や平和について、熱心に語る先生や大人は多かったように思います。

 ひっくるめて語ることは適さないかもしれませんが、習得に年月を要する職人の技を発揮する仕事や、使命感や心意気に根ざした仕事が疎んじられ、小ざかしく要領よく金を稼ぐ人間を勝ち組と持ち上げる風潮が、言葉の軽い人々や物事を深く考えない若者を増やしているように思われてならないのです。言葉は、時代と共に変化するものです。まさに、今の時代の浅薄な世相を反映しているのではないでしょうか。

 私は、偉そうなことをいえる人間ではありません。しかし、頑固者といわれても、職人や技術者の魂について語り続けたいと考えています。また、戦争や平和・言葉の大切さについても同様です。そして、そのような時、自分自身からこみ上げてくる気持ちを大切にして、素直な気持ちを述べていきたいと考えています。そのことを、誰憚らずやっていきたいと思いますし、そのような世の中であり続けて欲しいと思います。

 それから最後に一言言えば、そのような私の「思い」について、インターネットにおける掲示板などで、議論などをする気持ちは有りません(どこかに書き込みをしたこともありませんし、するつもりもありません)。マイペースでこのコラムを綴っていこうと考えています。


2006年 8月 3日       独断的ボクシング観戦記  


   

 
梅雨明け宣言と共に、暑い夏が訪れたように思います。本来、「梅雨明け」などと人間が決めなくても、この夏空は時期を得て広がっているだけのはずなのに、夏が来たなあと空を仰いだりしています。

 さて、今回も少しボクシングの話をしてみましょうか。まずは、昨夜のWBA世界ライトフライ級王座決定戦、浪速の闘拳こと亀田興毅選手が、12R判定勝ちで世界タイトルを手にしましたね。私のまわりの人達もそうですが、多くの方々が首をかしげたのではないかと思います。WOWWOWエキサイトマッチ仕込みの私の判定では、パナマのジャッジと同じ115-112でランダエタ選手の勝利という結果でした。

 少し亀田選手をかばえば、「明らかにおかしい」というほどではないかもしれません。しかし、試合終了時の両者の表情も見ましたが、ランダエタ選手は勝利を確信し、亀田選手は明らかに負けを覚悟していた感じでした。また、スタミナも使い果たした印象で、勝負事に「たら」はありませんが、もし13ラウンドがあれば、倒されていたのではないかという懸念さえ抱かせました。

 瞬間最高52.9%という高視聴率を獲得したTBSは、弁護したりもちあげたりするのに必死のようにも見えました。私は、あのようなボクシング中継をしているようでは、いつまでたってもボクシングに関して日本は、一流になる事は出来ないように思いました。とにかく、日本選手が勝てば良い、日本選手の良いところだけをクローズアップするという風な実況中継は、見ている人間を帰ってしらけさせてしまいます。

 少し宣伝になるかも知れませんが、私が眼力を養っていると考えているWOWWOWエキサイトマッチでは、解説のジョー小泉さんが、各種団体ごとの採点基準を明確に説明し、それぞれの試合において、採点の根拠を示しながら各ラウンド毎に自身の考え方を説明してくれます。手前味噌ですが、長くそれを見続けることにより、私の目も多少は養われてきたように思います。

 一方、ホームタウンデシジョン(地元贔屓)とか、人気選手に甘い判定が下るという結果は、意外に良く見かけるものでもあります。厳選された試合をみられるその衛生番組でさえ、首をかしげるような内容でもスーパースターと呼ばれる人気のある選手が勝ったりすることが有ります。そういう視点から見ると、昨夜の試合も頷けなくはないようにも思います。

 ところで、亀田戦の2日前に、私は、その衛生番組で楽しみにしていた試合を見ました。ライトヘビーに上がったバーナードホプキンスと、これを迎え撃つあのロイジョーンズを2回破っているアントニオターバーの試合でした。41歳のホプキンスのラストファイトとなるかもしれない試合でしたが、期待を裏切らず良い試合でした。気合負けか貫禄負けなのか、ターバーのアグレッシブさに欠ける試合でしたが、ホプキンスが見せ場も作り、圧倒的な判定で勝ちました。

 そのような試合を見た後だから、余計に昨夜の試合がつまらなかったのかもしれませんが、のぞき見スタイル(両腕で顔面をがっちりガードして前にでる)の亀田には、目を見張るようなスピード・パンチ力・テクニックなどを感じる事はできませんでした。私の知る限りでは、今回の相手は世界を狙うためにおいて、現在考えられる中で、1番やりやすい相手であったのではないかと思います。

 おそらく、探しに探し、選びに選んで対戦相手を見つけ、大事な金の卵を育ててきたのだと思います。そのようなケースは、アメリカでもありますし、ここまではそれでも良いかもしれません。しかし、このような試合をしてしまった以上は、次からが正念場となるでしょう。練習量も素質も、こき下ろされるほどひどくはないと思いますから、今後の成長を見守りたいと思います。

 しかし、具志堅さんを始め多くの先輩ボクサーが眉をひそめるのは何故かということを、本人は(家族や指導者も)良く考えてみる必要があるのではないでしょうか。以前にも述べましたが、ボクシングは喧嘩ではありません。スポーツであり格闘技です。勝てばなんでもヒーローにしてしまうマスコミにも問題があると思います。礼儀や人としての成長が見られなければ不毛な限りです。

 ラスベガスのリングに登場するような選手たちは、試合前にどんなに言葉でやりあっていても、試合終了のゴングが鳴れば、すべてを水に流して抱き合います。敗者は相手に敬意を表し、勝者は相手を許し労をねぎらいます。試合後、手を広げて抱き合おうとしたランダエタ選手を無視し、「どんなもんじゃー」と叫ぶ姿に、王者の風格は窺えませんでした。まず、どんなもんじゃというほどの試合でもなかったことは、見ていただれもが感じたことだと思います。

 重ねて言いますが、ボクシングは喧嘩ではありません。スポーツなのです。そして私は、最も美しい格闘技だと思っています。奇しくも同じ日の夜、日本人で初めて世界チャンピオンになられた白井義男さんのお話がNHKで放送されていました。アメリカ人コーチの指導を受けれ、どつき合いではないボクシングを目指した、白井さんの穏やかな人柄が偲ばれます。

 そういえば、昔はTBSも白井さん郡司さんの解説で、ボクシング中継をやっていたような……


2006年 7月 19日          畦の草は、刈らなければならない。




 
蒸し暑い日が続いています。梅雨らしい雨も十分に降りました。高校野球の予選も始まっています。青い空に入道雲の湧き上がる景色が、もうすぐ見られるはずなのですが。目に付くのは、雑草の伸びばかりのような気もします。

 雑草といえば、例によって作楽神社というお宮の草刈(1年に3回)や、これも町内会で受け持っている吉井川という川の堤防の草刈など、毎週のように、早朝から汗をしぼってこなしてまいりました。もちろん、一緒に汗を流していただける皆さんが、有ってこそできることではありますが、それ以外の作業などもあり、町内会の役員というのも中々しんどいところがあります。

 特に、夏場の草刈は、刈っても刈ってもすぐ伸びてくるようで、また、その草の力も強く(刈ってみるとそんな感じ)、二時間程度も草刈機を振り回せば、全身水をかぶったように汗びっしょりとなります。証拠写真(それぞれに作業状況などを撮影しますので)を撮るためのデジカメが、ポケットに入れていたために故障したこともあった位です。

 ところが、そのような反面、自分の家の田圃の畦草刈りの方は、滞りがちとなってしまいます。「うちの田圃の畦が、目立ちだしたなあ」という、年老いた母のそれとない一言を耳にしながら、わずかばかりの(本当に、趣味の延長のような耕作面積ですが)畦畔の草刈に赴く始末です。

 草刈機の混合油を二回使い切ると、大体作業終了となる程度ですから、作業量はしれております。時間にして約1時間半位でしょうか。それでも、私の家の田圃などは比較的条件が良く、田圃どうしの落差がほとんどありませんから、田圃を区別するために畝状になった幅60cm~80cm程度の畔の上面を刈って行くだけですみます。

 これが、田圃と田圃に落差があると斜めの法面まで刈ることになりますから、作業もしにくくなりますし、必要とする時間と労力も格段に増していきます。そのような草刈ですが、気に留めるでもなく(見ないふりをしているようなところもありますが)観察しておりますと、概ね2~3週間すると、もとの長さになっているようなので、それ位の頻度で作業をする必要がでてきます。

 放っておくという手もありますが、近所の目も気になりますし、何よりも、蛇などが隠れているような事にもなりかねなくなります。それも、気持ちは悪いですが、普通の種類であればまだ良いのです。しかし、蝮などに遭遇しますと、生命の危機にもなりかねませんので、割とのんきに田圃に入り、草を抜いたりする母のことを考えますと、手を入れないわけにも行かないというのが正直なところです。

 そのようなことで、人間と雑草のいたちごっこのような、草刈作業が繰り返されるのです。しかし、考えてみるとこの「いたちごっこ」良く出来ているのです。第一に、田圃の畦畔には、雑草が根を張ることにより強度を増しているのです。また、それは適度に刈り込むことにより均衡を保たれてもいます。一方で、良好な景観を形成するという、農業の多面的機能という視点からも意義深いといえます。

 それは、我が国において水田農業が営まれるようになったころから、続いているのではないかとも考えたりします。また、それに付随していえば、田の畦で刈り取った草を牛に食ませたり、雑草を刈り取った畦畔で豆類を栽培したりして、私たちの先祖は暮らしてきたのではないでしょうか。

 目の前の、風倒木が放置されて痛々しい山を見ても思いますが、かつては人の手が入って(柴かりなど)里山の風景や機能を果たしていたのだと思います。人が手を入れることによって初めて、ただの山は良好な二次的自然として、子供たちが遊ぶ事も出来るものになったはずです。ところが今は、足を踏み入れる事さえ難しいような状態です。

 少なくても、私たちが子供の頃までは、目の前の川は泳ぐ事も出来たし(今は学校が禁止しなくても、泳ぐ気になれるような水質ではなくなりました)。里山で遊ぶ事もできました(今は、そのような遊びも学校が認めないのかも)。田圃の畔も同じで、草を牛にやったり、豆を植えたりすることは無くなりました。しかし、それでも草は刈らなくてはなりません。

 上手くしたもので、それが面倒だとコンクリートの畦畔にしてみても、トラクターは目一杯に耕運できないので、管理機などで一手間かけて、コンクリート畔の縁を耕す必要が出来てしまいます。また、除草剤などを撒くというのでは、本末転倒のようなことになってしまいます。横着は出来ないようになっているのです。耕作を放棄してしまわない限り、田圃の畦畔の草刈からは解放されません。

 しかし考えてみれば、それは人間と自然にとって、ほど良い関係のようにも思います。手間を惜しまず手をかければ、それなりのものを与えてくれるのが自然であり、人間だけの都合では、けっして折り合えないのが自然なのではないでしょうか。


 
 

2006年 7月 5日          何故、無料なのか


  

 忙しさに紛れて暮らしているうちに、あっという間に1年の半分が過ぎてしまいました。少年ではありませんが「老いやすし」が身にしみ、「学成りがたし」と嘆息しています。

 さて、今回は「志」なるものについて述べてみたいと思います。2002年11月にこのHPを立ち上げましたから、11月が来れば満4年を迎えることとなります。自分なりには、良くここまで続けてこられたなあと思います。感情が上滑りしたり、落ち込んだりする時もありました。しかしながら、自分の「思い」の方向性にはぶれがなかったと考えています。

 どのような思いでこのHPを立ち上げ、どのようなことが伝えたかったのかについては、このコラムがすべてのように思います。最初から通して読んでいただければ、私の考え方やスタンスは理解していただけるのではないかと考えています。求められる技術者像についてイメージを深めていくために、様々な話題を基に、話しをしている感覚で書いています。

 また、「世の中の役に立つものづくり」を目指す技術者をそだてたい、という思いがあり、自身の受験勉強の苦労を鑑み、そのような「志」を持った、または持てる人の役に立ちたいというのが、建設塾運営の動機でありテーマです。そして私は、その「志」というものを大切にしたいと考えています。そのような思いから、添削・受験指導は無料で行っています。

 しかしそれは、私の描く求められるべき技術者像ですから、私の独断と偏見に満ちているものかもしれません。実際に、多くの方々の添削・受験指導などを通して感じたことは、人の思いには個人差・温度差がかなりあるということです。私の求める「志」を十分に理解していただける人は、わずかだったようにも思います。

 それでも、自分のときの苦労を思い出すと、むげに断る事も出来ずに多くの論文添削・受験指導をこなしてきました。またその間に、、技術士受験に関する制度は何回も変わりました。印象として、技術者としての臨戦的な応用力や、経験の奥行きを問うような意味合いは薄れてきたと思います。まさに、受験テクニック重視の方向性は、強まってきたと感じています(是非は別として)。

 もともと、独りよがりともいえる自分の思いで始めたことです。また、だれでも支援するというスタンスでもありません。ですから、たとえ文書のやりとりであっても、自分が感じたことについて、率直に意見を述べさせていただいております(多少、厳しい表現ととられる方もおられるかもわかりませんが)。そのような意味からも、添削・受験指導は無料としています。そのため、協力してくれている技術士仲間には感謝している次第です。

 当HPにしましても、ヤフーのコマーシャル付のままです(グレードアップしていくのが面倒くさいというのが本音かもしれませんが)。いずれにしても、わかる人にだけわかってもらえれば良いと考えています。それでも、尊敬する先輩技術士の方からは、「顔も見ずにやるのは、感心せん」と苦言をいただいたりしています。

 今後は、さらにその方向性を強めて行こうと考えております。丁度、来年からまた試験制度が変わり、経験論文は筆記試験合格からの作成で良いことになるようなので、あまり需要もなくなるかもわかりません。専門論文・一般論文などについても、キーワード重視の広く浅い知識の集積を問う傾向が強まっていますので、「あなたの意見」へのこだわりは薄れていくように思います。

 それにしても、年々受験される人の「志」は低くなっているように思えてなりません。また、合格するための情熱などについても、「熱い」人が少なくなってきているように思います。「石にかじりついても」というわりには、一回目の添削で怯んでしまったり、あまり推敲もしないものを何度も送りつけたりする人が増えました。以前にも述べましたが、どのような気持ちで技術士になりたいのか?という問いに、合格のための60点を取れば良いと考えています、などという答えをしてくる人もいました。

 今日、建設部門を取り巻く環境は、私がこのHPを始めた頃よりもさらに厳しくなったように思います。現場や実戦に強く、その上で知識の充実に強い意欲を持ち続け、本当に世の中の役に立つものをつくろうとする意識を持った技術者こそが、そのような時代に生き残るべきであると私は考えています。

 また、能力主義・成果主義などと称し、実態は派閥主義だったりするような組織は、最終的には淘汰されるのではないかとも思います。建設投資額の増加が望めない今、「値打ち」のないものは生き残れないと考えています。その値打ちという概念が、求められる技術者象と合致してこそ、建設部門の将来が見えてくるのだと思います。

 少し大きな話になりましたが、とにかく私は、だれでもかれでも合格させて、後から志を身につけてもらおうとは考えておりません。まず「志」が先にあるべきだと考えています。

 

2006年 6月 21日          名前をつければ解決するのか


 

 
幼い子供が殺されるような、理不尽な事件が後を絶ちません。また、子が親を殺し、親が子を殺すような事件も頻発しています。おおよそ、「殺人事件」というような言葉を聞いても、驚かなくなってしまっていることが、自分自身を考えても恐ろしいような気がします。

 そのような時、テレビのワイドショーなどではその道の専門家なる人が出てきて、加害者は演技性人格障害であるなどと言い、したり顔で解説をしているのを良く見かけます。また、パチンコに夢中になって、駐車場の車に我が子を置いてけぼりにし、死なせてしまう事件も毎年耳にしますが、この親についても「パチンコ依存症」という命名をし、専門の医師などがテレビでコメントしています。

 たしかに、アルコールや覚せい剤などのように、パチンコにも依存症というのが存在するのだとは思います。また、いじめにあった体験や、子供の頃に十分に愛情を受けられずに育ち、障害とはいえないまでも心に傷をもつ人はたくさんいると思います。しかし、私が言いたいのは、それらの人が全て犯罪に走るのではないということです。

 にもかかわらず、最近のマスコミなどの取り上げ方を見ると、○○障害だからだとか、□□依存症だったからだとかいう風に、傍観者が名前をつけ、ジャンル分けなどを行い解説をしています。見ている方も、その「病名」を聞くことで事件の起きた理由を知り、あたかも全貌を知りえた気分になり、納得しているような妙な風潮を感じてしまいます。

 「幸せな家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」と、トルストイはアンナカレーニナを書き出しています。それぞれの事件には、それぞれの背景やいきさつがあるはずです。また、殺人などを犯すときの人間の精神状態が、普通であるはずは無いのだと私は思います。

 まして、完璧な人間などいるはずもなく、現代のようにストレスのかかる社会では、誰もが精神の安定を欠き、アンバランスな状態になっているのだと思います。衝動的に犯罪を犯す危険性は、どんな人にも秘められていると考えられます。それでも、家族・友人を始めとしたまわりの人達との関わりの中で、自分の位置と行動を修正・確認しながら、人は暮らしているのだと思います。

 「そんなことをするようにはみえなかった」と、ワイドショーなどにみる事件に関するインタビューでは、上司・教師・同僚・近所の人々が、容疑者について異口同音のようなコメントをしています(昔に比べ、良くしゃべるようになりましたね)。言い換えれば、どんな人間でも事件を起こす可能性があるのだということです。もとより、人の持つ人格は多面体ですから、通り一遍の付き合いや表面をみただけでは、その人の内面までを図り知ることは難しいでしょう。

 また、別の見方をすれば、悪人を一人つるし上げ、徹底的に攻撃することで、マスコミは大衆の溜飲を下げさせ、さらに、その世論をになっているかような、幻想に陥っているようにも思えます。事実を客観的に見据え、何故、そのような事件が起き、どこに問題があったのかについて、社会や時代背景まで踏み込んで分析しなければ、真相をしることは出来ないと思いますし、それでも、真実は当事者にしかわからないものかもしれません。

 さらに、見ている側について言えば、物事を自分で考えようとする力が衰退しているように危惧されます。様々な情報を自分で吟味して、自分なりの判断をしようとしている人がどれだけいるでしょうか。報道する側にも問題がありますが、テレビのワイドショーが1番影響力がある、というのが現実だと思います。再現VTRが真実の映像と勘違いしている人は、本当にたくさんいるのではないでしょうか。

 30年前、沖縄の返還や基地の問題について、渋谷の該当で若者にインタビューをしていました。ほとんどの人が、自分の考えを持っていて、真面目な意見を述べていたと思います。今、渋谷で米軍基地についての質問をしたとして、どれだけの若者が真面目にそれに応えるのだろうと、思うと寒々しい気持ちになってしまいます。自分の考えや真面目な意見などについて、期待するような気になれないのは、私だけではないと思います。

 おおよそ、真面目とは縁遠かった私たちでも、茶化して良いことと、真面目に考えて答えなければいけないことの、区別はついていたと思います。大人が子供の顔色を窺い、逆に子供は、大人にならなければ出来ないことがどんどん減る中で、いつの間にかそうなってきたように思いますが、自分もその中で、流されて生きているのが現実です。きちんと物事を考えると、きちんと生きなければいけないから、とりあえずほどほどにして、テレビで言っていることを自分の意見にしておこう、そんなイメージの人が多くなっているのではないでしょうか。


  本当にそれで良いのでしょうか?大切なのは「病名」を知ることではない筈です。


2006年 6月 6日          桜の森と夜長姫(坂口安吾生誕100年)


  

 
雨模様の日が多く、日照不足の5月でした。田圃のコンディションはいまいちでしたが、何とか、兼業農家にとって上半期最大イベントである田植えを済ませました。やれやれという感じです。

 さて、疲れる日々には変わりは無いのですが、最近少し喜んでいる事があります。それは、近所のショッピングセンター内の本屋が模様替えをしたことです。それが、単なる模様替えではなく、スペースを拡張すると共に、事務用品や文具などのコーナーの規模を縮小し、文庫本など所謂「本」の蔵書を大幅に増やしたのです。

 これは、私の身の回りでは画期的なことでした。郊外に、ブックセンターなどと称して広い駐車場を備えた本屋が増えていく中で、それまで老舗といわれていたような商店街の本屋は、斜陽の一途を辿っていたのでした。おそらく、地方都市においてはどこでも同じような状況だと思います。一見、広いスペースを備えた郊外型の本屋は、目先の売り上げを重視しているのか、雑誌などはたくさんありますが、私の読みたいような本の蔵書は意外と少ないものです(特に文庫は)。

 繁盛している郊外型の本屋ですらそのようなことですから、昔馴染みの商店街の本屋の凋落ぶりは目を覆うばかりでした。これは、本屋に限りませんが、昔に比べ大きなショッピングセンターや垢抜けた店舗が増えましたが、本当に欲しいものは手に入りにくくなったように思います。何でもあるけれど、それは似たようなものでしかなく「本物が無い」という感じがしてしまうのです。

 そんなようなことでしたので、この地方の時代の流れに逆行しているような、その本屋の拡充に、驚くと共に喜びを禁じえませんでした。といっても、一通り眺めてみると「もう少し並べて欲しいなあ」という欲がでてしまうのが、本音ではありましたが。ともあれ、楽しみが増えたことには変わりはありません。

 その、改装されたばかりの店内を歩いておりますと、一冊の本が目に留まりました。「桜の森の満開の下」という文庫にしては高い値段のその本を書棚から抜き出すと、帯に坂口安吾生誕100年とかかれておりました。これは真面目な話ですが、私には良くこのようなことがあります(勝手に自分が思いこんでいるだけですが)。自分が意図しなくても、啓示のようなことがあり、それに促されて映画を見たり本を読んだりすることが度々あります。

 そして、それは後から考えてみると、やはり必要な事であり、かつ、絶妙のタイミングであることが多いのです。というか、自分で勝手にそのように解釈しているのかもしれません。ところで、物語として傑作といえる「桜の森の満開の下」という小説は、何度も読んだ事がありました。ですから、本当に何気なく「坂口安吾か」という感じで引き抜いてみただけでした。その結果、図らずも生誕100年ということを知りました。そうなれば、買うしかないなと思った次第です。

 坂口安吾については、強烈な印象として残っていた桜の森の……の他には、「堕落論」と「白痴」ぐらいしか知りませんでした。厭世的で難解な印象を抱いていたのですが、この本は一気に読み終えてしまいました。何といっても、納められている短編の物語は文句なしに面白く、「土の中からの話」や「二流の人」などの歴史小説における、歴史上の人物の人物像の把握と分析力に驚かされました。
 

 またそれは、私の描いているイメージと極めて近いもので、なるほどと、頷かされるものばかりでした。。そのことが、一層その深い人間観察力について、私に印象を強く抱かせたのかもしれません。それにしても、夜長姫が耳男にたくさんの蛇を集めさせ、楼閣の天井に飽かずに吊るす件は、「桜の森」の女が男に、都において夜な夜な生首を所望するのと極めて似ています。読みながら、ぞっとするような恐ろしさがこみ上げてきます。


 現代のように、小説よりも日常の世界の出来事の方が過激なことが多い時代でも、いや、むしろ今のような時代だからこそ、坂口安吾の短編にこめられた寓話性が必要なのではないかと思いました。それは、人間の持つ内なる悩みの深さと、心のありようについて問いかけてくる思いが、強く込められている感じがするからです。人間でなければ考えられないことであり、人として生きている限り逃れられない悩みを映し出しているように思います。

 1906年生まれの坂口安吾は、1955年に亡くなっています。享年48歳ということで、奇しくも現在の私と同じ年であります。そのような点からも、「啓示」を感じるわけですが、女帝の時代や背景などを通して見た、我が国における天皇制についての話、道三・信長・秀吉・家康・如水などの人物評価など、会って直接話が聞きたくなる気がしました。

  あらためて、その才能の凄さと奥深さを感じさせられました。また、本当に良いものは、時代など関係ないのだとも思いました。



2006年 5月 25日          見るものを感動させるファイターたち


 

 
梅雨の前倒しなのかと、乾かぬ田圃にうんざりしながら過ごしておりました。何故とは無く、どことは言えず、地球も人の世も、少しずつ狂いが生じているように思えてなりません。とはいえ、ここのところぼやく機会が多くなってしまいまして、我が志を問い直すとともに、反省をしているところです。

 というわけでもありませんが、今回は、最近見たボクシングの試合について触れてみたいと思います。やはり何といっても、5月7日に行われたデラホーヤ対マヨルガ戦が圧巻でしたね。さすがに、スーパスターの名に違わぬ試合振りで、ゴールデンボーイ、オスカー・デラホーヤが、ニカラグアの強打者リカルド・マヨルガを6回TKO勝ちに仕留めました。

 私はこれまで、どちらかというとこのスーパースターに対しては、その人気ほどの評価はしておりませんでした。フェリックス・トリニダードに判定負けした選手、また、そのトリニダードを葬り去ったバーナード・ホプキンスに挑み、ボディブローでKOされた姿や、シェーン・モズリーに2度も敗れていることなどが、その理由であったと思います。

 しかしながら、20ヶ月振りとなる今回の試合で(04年9月のホプキンス戦以来)、ぞっとするような強打を振り回す、荒っぽいチャンピオンのマヨルガを終始翻弄し、1ラウンド目からいきなりダウンを奪うなど、文句なしの試合運びでTKO勝ちを納めました。チャンスと見れば、怒涛のように繰り出す連打は、全盛期の輝きを彷彿させるものでした。

 なんといってもデラホーヤの魅力は、観客が求めるファイトをやるところだと思います。強い相手に勇敢に立ち向かい、ラッシュして欲しい時にラッシュしてくれる、そんなボクシングを展開するところが、普通のスター選手と違うところだと思います。同じマヨルガを再起戦に選び、勝利したものの危うさが見られたトリニダードの試合とは、かなり違った印象を受けました(その後、私の愛したフェリックス・トリニダードはドナルド・ライトに判定負けしてしまいました)。

 やはり、デラホーヤにはスーパーウエルターという階級がマッチしていたのでしょう。再起の際、2試合で引退すると表明していますから、目下パウンド・フォー・パウンド(全階級を通じての最強)の呼び声高いスピードスター、フロイド・メイウェザーとのマッチメイクが期待されるところです。

 一方、ついこの前の5月21日に行われたWBC世界ライト級暫定王座決定戦は、日本の稲田千賀選手がメキシコのサンタクルス選手に6回TKO(レフリーストップ)で破れました。試合前に、絶好調が伝えられていただけに、世界初挑戦が実らず残念な結果となりました。「持っている力が全然出せなかった」と振り返っていましたが、フィジカル面でも少し厳しい感じも受けました。

 その日は、メインの試合で、これも私の好きな選手の一人である、童顔の暗殺者マルコ・アントニオ・バレラが登場しました。今や、ボクシング王国メキシコを代表する選手となったバレラですが、元オリンピック銀メダリストの挑戦者リカルド・ファレスは、攻守にバランスの取れた素晴らしい選手で、大苦戦を強いられることとなりました。結果的に、日本の森田ジャッジがキャスティングボードを握り、2対1の僅差の判定でWBCスーパーフェザー級のタイトルを防衛しましたが、本当に甲乙つけがたい試合だったと思います。

 しかしながら、バレラの凄いところは、絶対に試合をあきらめない姿勢だと思います。相手のパンチも強く、鼻血を出すなど不利な条件となっても、とにかく、必ず見せ場を作り打ち続ける姿勢が、誇り高きチャンピオンの姿となって、、見ているものに伝わってくるような気がしました。もちろん、それはデラホーヤにも言えることではあります。

 といっても、ボクシングは喧嘩ではありませんので、根性だけでは勝つことは出来ません。世界戦12ラウンドでもわずか36分間の試合時間(休憩が合計11分ありますが)をこなすための、人の目に触れないところでの精進が試されるのだと思います。もちろんそれには、その精進を試合で発揮するために必要な、精神力やコンディショニングも含まれますが。

 そのように考えると、屈辱のKO負けから1年8ヶ月振りに試合をし、あれだけのボクシングを見せるオスカー・デラホーヤは、やはり凄い選手だなあと思いました。また、誇り高きマルコ・アントニオ・バレラの今後も大いに期待したいと思います。デラホーヤのラストファイトの他、ミドル級では、10年王者ホプキンスからタイトルを奪ったジャーメイン・テイラーとドナルド・ライトの試合、ライトヘビー級のアントニオ・ターバーと、テイラーにミドル級のタイトルを奪われたホプキンスの試合など、面白そうなカードが予想されるところです。

 いずれにしても、見るものを酔わせ、感動させるような試合をしてくれるからこそ、彼らがスーパースターと呼ばれるにふさわしいのだと思います。しかも、それを支えているのは、想像を絶するトレーニングと節制の日々ではないでしょうか。ダーティを売り物にし、悪ぶってはいますが、40を過ぎたバーナード・ホプキンスの体躯を見るとき、ストイックな生活を想像したくなるのは私ばかりではないと思います。

 他にも、ミゲール・コット、マニー・パッキャオ、モズリー、バルガス、シュトルム、メイウェザー……数え切れない位見たい選手がいますが、何故か、日本における亀田3兄弟の、異常な人気ぶりが理解できないのも事実です。


2006年 5月 12日          天道は是か非か……


 

 
今だに、手がつけられていない無残な風倒木が、横たわる杉林を尻目に、広葉樹が中心の雑木林は、日に日に色づいていきます。その気持ちの悪いコントラストを、ため息をつきながら眺めています。

 さて、行きがかり上というか、仕方なく引き受けたのが始まりの自治会役員ですが、その役職が重くなるにつれ、時間的な拘束時間は増えるばかりです。自分では不埒者程度の意識しかない私ですが、責任感と無力感のジレンマにさいなまれ、自分で考えている以上に、ストレスが溜まっているのだと思います。何もしたくなくなるような日が、最近増えたように感じます。

 大体、外角低め(アウトロー)に近い人生を送ってきたように考えている私が、地域社会の中で範をたれるような、町内会長の任にあたること自体、おこがましくお尻がこそばゆいことなのです。しかし、目を覆うような状況(私から見れば)の中で、生意気にも思うところを述べていきますと、結果的にその言葉の裏づけをしていく羽目になったというのが、実際のところであるように思います。

 町内会とか自治会という組織は、その名の通り、住民の自治を目的とした集まりです。しかし、今日の我が国の社会においては、極めて不安定な状態にあると思います。もちろん、積極的に活動され、そこに住みたくなるような地域の話もよく見聞きはします。しかしながら、法律的にいう個人の権利とか義務というような発想では、うまくいかない集まりでもあります。

 冠婚葬祭から、ゴミの分別・収集の問題、公園や道路・水路の清掃など、様々な課題に取り組む時、地域住民の自然発生的な協力がなければ、上手くいくものではありません。地方都市において、農家(といってもほとんどが兼業ですが)と非農家の混住が進み、核家族化の象徴である若い共稼ぎの家庭が増えている現在、その傾向は一層強まっています。

 地域内にあるお宮やお寺の掃除や維持、それらの祭りや関連行事など、誰に教えられることもなく、当然のように私たちは手伝いに行き、その行事に参加して育って来ました。しかし今日、私から見れば当然と思えるそれらの行事に、いそがしいとか仕事があるとか、あれこれ理由をつけて参加しない人が増えたと思います。そればかりか、そのような関わり合い自体を、疎んじる人も多くなったと思います。

 一方で、おおよそ地域住民のことなどは眼中にないくせに、自身への利益誘導や利権を得るために、これらの役職に固執する人がいるのも事実です。やってみると分かりますが、財政難が叫ばれる中で行政サイドは、何かと地域の自治会などへ物事を委嘱することが多くなっています。当然、地域における意見集約の労をとる代わりに、多くの情報を得ることができ、事業実施などに関して発言力を持つことができるようになります。

 本当にわずかな清掃や草刈をはじめとした委託業務から、道路や施設などの社会資本の整備まで、その事業実施に関して口を挟める場面はいくらでも出てきます。そのような状況の中で、私の住んでいる地域では、首を傾げたくなるようなことが度々起こりました。しかし、普通に暮らしていると、そのからくりは見えてこないのです。行政主導の判断と思われていたことの多くが、自治会組織における、一部の実力者による専横であったりします。

 一般に、話し合いで何でも決めていくことが多い自治会組織では、長いものには巻かれろ的な人が増えていきます。公の決め事は、直接の利害関係が少ないので仕方がないことです。しかし、誰かが主導してそのようなことを取り決めていく中で、実績のようなものができてしまい、何でもその人に逆らえなくなる空気が生まれてしまいます。それが長い間続けば、不思議な位強い力となってしまうのです。

 流れない水が淀む中で、市民から集めたお金や血税が不透明に使われることもあるのです。しかし、そのような「邪な世話役」と思える人間のほうが、弁舌爽やかであり、自己を正当化する術に長け、会議を牛耳る根回しが上手いというのが実際のところです。それでも、私の見ている限り、罰があたるような気配もありません。「天道に親なし、、常に善人に組す」といいますが、司馬遷のいうように「天道は是か非か」と嘆きたくなるのも事実です。

 本来なら、定年退職された人達の中から、その地域で人望の厚い人がその任にあたるのが普通です。少なくても私が子供の頃は、誰が見てもふさわしいような人のところにおさまっていたように思います。そして、その頃の私たちの町には、まずまず常識的な流れがあったように思います。史記の冒頭に、周の禄を食まず蕨を食べて死んだ白夷と叔斉の「白夷列伝」を記し、李陵事件に遭遇し、自身の信念に従い無念の宦官となった司馬遷の胸中に、私の気持ちなどは遠く及ばないし、比較てきるような話でもありません。

 それでも、やらなければならない課題とそれを遮る障害を考える時、「天道は是か非か」などとつぶやいてみたくなるのです。


2006年 4月 26日        良い映画は、テレビででもみよう



 先日、黄砂で霞む晴れの日の午後、岡山では最後ともいえる新庄村のがいせん桜を見に行ってきました。多忙な日々を過ごしていればこそ、強引にでも心を憩わせる時間をとる必要があるように思います。

  これは以前にも述べたことですが、衛星放送の普及や電波のデジタル化などもあって、内容はともかく、最近のテレビは、提供される情報量が圧倒的に増えました。自然と私も、リモコンを持って寝そべる機会が増えています。そんな中で、やはり良く見るのはスポーツ中継と映画の放送です。劇場に足を運んで、映画を見る機会がほとんどなくなっている私には、衛星放送で見る映画が、貴重なものとなっています。

 公開と同時に見ることはできませんが、逆に言うと、世間の評価を受けた状態のものを見ることができるといえるかもしれません。実は、私は本を読むときも、知識として直に欲しいもの以外は、新刊など新しいものは買いません。文庫本になったものを買います。というか、本は文庫で読むことにしています。小説などは特にそうですが、大衆に支持される作品は必ず文庫になっていると思います。もちろん、大衆に支持されることが、私の読書の条件ではありませんが。

 さて、そんなわけで、最近テレビで見た映画の話をしてみたいと思います。その中でも、3本ほど印象に残った作品がありました。ミリオンダラーベイビー、ミスティックリバー、猟奇的な彼女の3作です。前2本は、クリント・イーストウッド監督の作品で、猟奇的のほうは、チェ・ジヒョンを一躍有名にした韓国映画のヒット作です。まったく、出会い頭というか統一性などはありません。

 ローハイドの時の頼りなさそうな声(最も声は山田康雄ですが)を聞いて以来、クリントイーストウッドは私の心に残っているハリウッドスターの一人ですが、話し出すときりがないので、今回は突っ込まないことにします。また、映画の内容については、ご存知の方も多いと思いますし、あまり話しすぎると興ざめしますので、簡単に触れるだけにとどめたいと思います。

 一昨年、あのロードオブザリング/王の帰還の前に、イーストウッドがアカデミー賞(作品賞・監督賞)を逃したミスティックリバーは、彼が監督に専念した映画です。原作のベストセラー小説を、ショーン・ペン、ティム・ロビンス、ケビン・ベーコンなどの名優を揃えて映画化したもので、重厚なタッチでミステリーの要素も含んでいます。ボストンの貧困地区で育った3人の幼馴染の少年たちが、子供の頃に遭遇する事件と、25年後に起きる殺人事件とに絡んで織り成すドラマです。

 犯人を捜す謎解きや、筋書きを追うことよりも、それぞれの生い立ちや、そのことによる心の動きや有り様を描くことに、力が注がれていると思います。アメリカ社会の抱えている悩みが色濃く投影され、人間の持つ弱さや脆さをボディブローのように、突きつけられる感じがしました。また、登場人物側から立場を変えてみれば、色々な見方も出来る作品だと思いました。

 一方ミリオンダラーベイビーは、ミスティックリバーで逃した作品・監督賞を、イーストウッドが翌年に受賞した作品です。私の好きなボクシングに題材をとっています。選手時代からの因縁で、ボクシングジムを手伝うスクラップ(モーガン・フリーマン)の語りによって、淡々と進んでいく展開です。不遇な生い立ちの女性ボクサーマギー(ヒラリー・スワンク)と、老トレーナー兼マネージャーフランキー(クリント・イーストウッド)のお話ですが、生きる事と死ぬ事について、強く考えさせられる映画だと思います。しかし、モクシュラの意味を始めとして、語り過ぎないことが良いように思います。

 最後に、韓国映画の秀作猟奇的な彼女ですが、お人よしで気の弱い男性主人公が、気が強くタフだけれども、心に傷をもっている女性主人公に出会い、振り回されていく展開の映画です。随所に工夫が凝らされており、頷きながら笑いながらも、どんどん引き込まれていき、切なさも主人公と一緒に共感できる作品だと思います。少し、出来すぎていると感じる人がいるかもしれませんが、私は、救われる感じがして良い作品だと思いました。

 これらの作品の良さは、何といっても人の心の中を見事に描いているという点だと思います。さらに、一歩踏み込んでいえば、心とか魂という部分における人間の葛藤や、感動を捉えて巧みに表現できている映画だと思いました。出会いや別れ、愛し合いまた憎み合う人間同士の繋がりを通して、一人では生きていけない人間の、一人で死んでいかなければいけない人生について、しっかり考えさせられる映画になっています。

 特に、後の2作品などは、過激なラブシーンなどなくても、胸を打つ愛情表現ができるのだということも痛感させられました。現在、映画やドラマの世界においては、過激なシチュエーションを競い、人の命をいとも簡単にやり取りするような傾向が見られます。しかし、そのようなことをしなくても、人の心に感動を与える作品は、作れるのだということを強く感じました。

 感動できる映画は、出来れば劇場で見たい、というのが本音ではありますが。テレビで見ても、良いものは良いといえるのではないでしょうか。


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