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NO.11

2007年 1月 19日         みんなのお金の使い方 

                     


 作陽高校サッカー部、本当に良くやってくれました。日本の高校生として、一番最後まで公式戦を戦い、岡山県の県北の地方都市の名を全国に広めてくれました。
惜しくも準優勝ですが、それでも日本の二位です。女子の高校駅伝・全国女子駅伝(こちらは全県の話題ですが)共々、地元に明るい話題をもたらしてくれました。

 とはいえ、平成の大合併を経た今、旧役場として利用されていた庁舎などを訪れてみると、広いスペースのほんの一部しか使われていなかったり、一棟丸ごと倉庫になってしまっていたりしている光景を目の当たりにします。合理化というのか、人員削減ということなのかわかりませんが、だだっ広い箱物庁舎の一部に、職員が肩を寄せあっている姿は、何となく切ない感じさえします。

 いわずもがなですが、本来、合併の目的は、全体としての経費を削減することです。それに基づき、人口のウエイトに応じた予算執行をすれば、当然、都市部よりも田舎の過疎地の方が、手薄になることはわかりきったことです。公共事業にしても、その例にならうことになります。結果的に、益々地方はさびれ、都市への人口流出が続くのではないでしょうか。

 さらに、今日の世界的なグローバル化や、加速度的な通信技術などの進歩により、東京への一極集中は、さらに進むように思われます。現に、大阪という都市の位置付けの低下と地盤沈下が、そのことを物語っているように思います。例えば、そのうち韓国のソウルのように、我が国の四分の一が東京都民で、二分の一が東京圏域住民となるようなことも、起こらないとはいえないのではないでしょうか。

 なにしろ、財政再建団体となることが決まった夕張市では、すでに市役所職員の半数が、早期退職を希望しているという話です。その人達は、負担ばかり大きく、住みづらい夕張に留まり続けるのでしょうか?病気や老後のことを考え、なるべく高い公共サービスの得られる自治体へ、移り住みたくなるのではないでしょうか。もちろん、一時的な故郷への郷愁や愛着はあっても、背に腹は代えられない時がくるはずです。

 そのようなことが、ドミノ倒しのように繰り返されていけば、いつの間にか、地方や田舎に生活する人の数は極端に減って行き、益々過疎化が進んで行くことは想像に難くありません。しかし、本当に、それで良いのでしょうか。今でも、熊や猪が度々出没し、里山や山林の荒廃が叫ばれている私達の身近な自然環境は、そのことにより、さらに悪化し荒廃していくのではないでしょうか。

 また今よりも、都市部に人口が集中し地方の過疎化が進み、人の少ない所に手が入らない状況が進めば、台風・地震など自然災害に対しても脆弱さは増して行きます。一方で、都市部の温暖化はさらに進み、地球環境の悪化も進んでいくでしょう。なによりも、私達日本人のの常識・文化を支えてきた感性は、さらに変化してしまうでしょう(今でも、本来の日本人はどこに行ったのか?と嘆かれる人は多いと思いますが)。

 お金を平等に使うとういことは、人間の頭数に応じて配分するということになるでしょう。一見、それは正しいことのように思えます。しかし、今日までの日本は、ただそれだけではないやり方をしてきたはずです。また、二酸化炭素を吸収する森林などは、都市部以外の場所にあります。棚田を始めとした農耕地及び農業用用排水施設など、良好な環境や景観を維持するために重要な場所も、多くは都市以外の地方部に存在しています。

 それらに対して、都市部で効率的な経済活動を行い、その恩恵を享受している人達が、応分の対価を支払うということは、本当の意味で平等といえるのではないかと思います。ただ、その支払方法や徴収のしかたについては、たくさんの議論が必要なのだとは思います。そのようなことは、国家としての食料自給を踏まえた食の安全保障という視点からも、同じようなことがいえるでしょう。

 例えば、アメリカがだめならオーストラリア、それがだめならまた別の国……というように、食料を輸入する相手国について、状況や条件に応じて、場当たり的に選んだりしているだけでは、本当に、いざという時の食糧確保などおぼつきません。さらに、それを支えている経済の状況は先行き不透明です。いつまで、現在の(見た目の)豊かな食生活を支えてくれるのか保証などありません。

 そのように考えると、国土の保全(環境を含め)や食料の安全保障の視点から、都市部から地方部に対する経済的な支援があっても良いのではないかと思います。いいかえれば、田舎にいても暮らしていける国でないと、私は、いけないと思うのです。実は、自治会活動などを通してみますと、過疎化・高齢化などに加えて、雇用・就業条件の悪化など様々な理由から、地方における集落社会や地域社会の持つ力は、著しく低下していると言わざるを得ません(崩壊寸前ともいえる)。

 また、これまでは、地方でも恵まれた条件であったはずの、公務員や公共施設で働く人達にしても、道州制の導入などが議論されていくような状況の中で、また、夕張市のような財政悪化した自治体が増えていく中で、安穏とはしていられなくなるのではないでしょうか。がらんとした、大きな箱物の旧庁舎のほんの一角で、細々と(見た感じ)業務を遂行している姿を見ると、こんなことになるのなら、なんでこんな大きな建物をつくったんだろう?などと考えるのは、私だけではないと思います。

 こと、ここにいたって、言うことではないかもしれませんが、限られた財源(みんなのお金)について、将来を見通した上で、血の通った使い方をして欲しいものだと思います。


2007年 1月 5日        年頭に思うこと  

                     


 
新年、明けましておめでとうございます。私はといえば、いつもながらの正月ですが、今年は新年会が一つ増えたりしました。忘年会ラッシュで疲れた身体に、さらに負担をかける結果となってしまいました。

 とはいえ、恒例の麻雀もやりましたし、箱根駅伝も見ることができました。自分としては、かなり自由で我儘な時間の使い方を、させて貰ったように思います。それにしても、お休みなどというのは、あっという間に過ぎてしまうものでもあります。気がつけば、年始の挨拶をしている自分がいます。年々短くなる1年を、大切にしなければと思いつつ、忙しさに流されて、今年も過ごすのかもしれません。

 箱根といえば、今年は何といっても、5区における順天堂大学の今井選手の快走でしょう。自身の区間記録を25秒短縮し、4分以上あったトップとの差(タスキ渡しの時点で5位)を逆転し、2位を1分40秒以上引き離したその走りは圧巻でした。好結果を期待されるプレッシャーの中で、見事にそれを上回る成績を残しました。正にMVPという走りでした。

 しかし、その順大にしても、1区では14位と出遅れています。その遅れを、2~4区の選手が着実に取り戻し、5区のエース今井キャプテンに託したという感じの、往路の走りであったと思います。1区の中村選手は、他のチームの選手との接触などもあり、苦しそうな場面もありました。必死の粘りで14位に食らいついた、というのが私の印象でした。

 もしも、1区で棄権していたら、順天堂大の優勝はありませんでした。それどころか、シード権を失い、過酷な予選会からの巻き返しを余儀なくされてしまうところでした。箱根駅伝を走るランナーは、その舞台で走れることの喜びを噛み締めて走っているのだと思います。しかし、それゆえかもしれませんが、各自が自分の極限の力で走っているのです。

 それは、1区で驚異的な区間新を出した佐藤悠基選手や、その佐藤選手と同じ高校の一つ先輩で、彼を意識して走り、3区で区間賞をとった上野裕一郎選手などの走りを見ても解ることですが、素晴らしい快走と紙一重で、手足の痙攣や脱水症状など、一つ間違えば大きなブレーキや、走ることを断念しなければならない危険も孕んでいます。

 また、一人のブレーキをみんなで取り戻した例としては、目立ちませんが中央大学の走りが挙げられると思います。4区で8位から18位まで順位を下げながら、その後における他のメンバーによる懸命の走りで、シード権を守った戦いぶりは見事でした。一方で、山梨学院の2区を走ったモグス選手のようなケースもありました。

 結果的には、チームの順位を11位から6位まで押し上げ(2区で)ましたが、彼の能力を持ってすれば、十分区間賞が狙えたはずです。やっとの思いでタスキを渡し(それでも区間6位)、泣きながら仲間に抱えられて去る姿が、その無念さを象徴していました。しかし、もしも彼が序盤を抑えた冷静な走りをしていれば(早稲田の竹沢選手のように)、区間賞どころか区間新も狙えたはずです。なによりも、それによりチームを、シード校にすることができたのではないでしょうか。

 勇敢であることと、無謀な戦いを挑むことの違いを、痛切に感じさせられたシーンでした。また、4年間を通して努力しても、箱根を走ることはできず、そこを走るランナーのサポートに徹しているチームメートの姿もたくさん見ました。まったく、それぞれの青春とドラマがあるのだと思います。個人的な感想ですが、甲子園のスタンドで応援するユニフォームを着た控え選手と同様に、社会に出た時には、そんなサブの選手のほうが、力をつけて活躍することが多いように思います。

 本当に、個人競技であり団体競技でもある駅伝のような競技が評価されるところに、本来の日本の姿があるのではないでしょうか。また、先人から教えられたことを、タスキのようにつないでいくことに誇りを持てるのが、日本人の伝統的な良さだとも思います。さらにいえば、見られていようが見られていまいが自分に恥じまいとする「名こそ惜しけれ」という精神を、武士以外の庶民までが醸成してきたのも、我が日本の良き伝統であったはずです。

 新年早々、兄が妹を殺しバラバラにしたり、母親が我が子の口に唐辛子を詰め込み殺してしまうような、本当に理解しがたい事件が報道されています。リスクとそれに対するマネジメントという欧米的な視点だけでなく、武士道や人としての生き方の道のあり方を意識した(根ざした)倫理観を備える意義について、もう一度見つめなおしても良いように思います。

 実は、技術者倫理については「日本型技術者倫理の提案」というお話を、昨年暮れの中四国支部の例会講演会で聞きました。我が意を得たりという部分がたくさんありました。本当に、私が育ってきた年数の間にも、日本人の意識や価値観は大きく変わってきたように思います。例えば、クリスマスを彩る家庭でのイルミネーションを見て、きれいだなとは思いますが、どこか割り切れないという気持ちが湧いてしまいます。

 必要以上に電気を無駄に消費して良いのか?というような疑念が湧いてしまうのが、昔の日本人であったように私は思うのです。同様に、長電話は慎めとか、質素倹約を美徳としていたような風潮は、どこに行ったのかと考えてもしまいます。金持ちは、自分達だけのために、全く無駄なお金の使い方をすることで優越感を感じ、それをテレビなどマスコミが、セレブなどと持ち上げる空気は、私の子供時代より今の方が、遥かに強くなっていると思います。

 今一度、日本人らしさを見つめなおし、くじけそうな向上心の支えにしたいと思います。


2006年 12月 25日       一年をふりかえり一言 


   

 
早いもので、という言葉を、今年もキーボードでたたく頃となりました。本当に、年齢を重ねるほどに、時の過ぎるのが早く感じられていくように思います。いつ頃から、そんなことを思うようになったのかと、振り返ってみるのですが良くわかりません。それでも、30代の頃にはあまり考えなかったような気もします。

 そういえば、私は12年周期で物事を考えたりします。最近では、勉強する24年、仕事をする24年、世の中の役に立つ24年などと、勝手に自分で考えたりしています。仮に、自分の父親の年まで生きられるとして、漠然とそのように、自分の中で割り付けてイメージしているのかもしれません。

 そんな理由からか、37才になった朝が妙に切なかったような記憶があります。その日は、40才になった日よりも切なく、なんとも言えないむなしさが胸をよぎりました。その時は、まだ父が生きておりましたので矛盾するかもしれませんが、やはり心のどこかに、人生72年説的な潜在意識があったのかもしれません。とうとう、後半にはいってしまった、という感じが強くしたことを覚えています。

 さて、今年も色々なことがありました。あいかわらず、心の荒むような事件は後を絶たず、権力を手中にした側の腐敗と、市場原理という弱肉強食の競争社会の中で、富める者と貧しい者の格差は、さらに拡がっていきつつあるようにも思います。また、いじめを理由とする自殺者と廻りの対応、それに対する報道のあり方など、やりきれない気持ちながらも、考えさせられることばかりでした。

 個人的には、自治会活動において、さらに責任のある立場になったりもしました。また、技術士会などの活動では、尊敬する先輩技術士のI先生を講師にお願いし、勉強会などを行いました(実は、かねてから心に描いてはいたことです)。さらに、自身のテーマである技術者精神の伝承などについて、ほんの少しずつですが取り組んできたつもりです。一方、論文添削などにおいては、モチベーションの維持に苦労したりもしました。

 いずれにしても、来年からは試験制度も変わります。尊敬する先生のご意見をいただき、また、仲間との話し合いなどから、おぼろげな方向性は感じていますが、蓋を開けて見なければわからない、というのが実際のところだと思います。なんとなく、21世紀になっての流れ(技術士試験の)は、頷けないような部分も感じてはいますが、それも時代の流れというべきなのかもしれません。

 自治体では、北海道の夕張市が財政再建団体となることが決定するなど、厳しい地方の財政状況が、浮き彫りになった1年でもありました。夕張市のことを、対岸の火事などと思える自治体などは、この国のどこにもないのではないでしょうか。いざなぎ以上の好景気の、実感などほど遠い感覚の中で、生き残りをかけた低価格入札などが行われ、公共事業に依存する地方の建設部門関係者は、本当に厳しい年の瀬を迎えているのです。

 世の中の役に立つものを早く・安く・美しく・安全につくりたい、と、本能のように思える技術者達が、これから先どれだけ生き残っていけるのだろうかなどと考えると、暗澹たる気持ちになったりしてしまいます。本当に、今伝えるための手を施さなければ、熟練した職人の技も、前述した技術者魂も次の世代に残していくことは、大変厳しい状況だと思います。話はそれますが、先日、冬の京都を歩いて来ました。その時、知恩院の三門を始めとする日本建築の粋を眺めながら、そのことを強く実感しました。

 さらにその際、霊山護国神社にある坂本龍馬のお墓にお参りしてきました。平日のせいか、訪れる人はまばらでした。ひっそりとした山懐に抱かれたそこだけは、時間が止まっているような雰囲気でした。今から約140年前、理不尽な刃に散った維新の立役者は、今の日本の姿をどのように眺めているのだろうと考えたりして、その場所から立ち去り難い気持ちになりました。

 本当に恐ろしいのは、1年に3人もの県知事が逮捕されるようなことがあっても、さして驚かなくなっている自分がいることです。それは私ばかりでなく、投票率が戦後最低といわれる約35%などという、和歌山県民の感覚にも現れているのではないでしょうか。いつのまにか、身の回りの忙しさに気を紛らし、直視しなければいけない現実から目を背けている(あるいは、背けたがっている)自分がいるのかもしれません。

 いつの間にか、防衛庁が防衛省になることが決まった年の暮、9月の嬬恋で南こうせつが訴えていた「「あの人の手紙」のような時代にしたくないよね」という言葉を思い出しています。古い船を動かしてきたはずの新しい水夫は、いたのかいなかったのかなどと考えながら、これから自分がそこに乗り込んでいけるのか、などと迷いつつ、船の行方を案じたりしているというのが実感です。

 ともあれ、私達もこの古い船に乗り込んで行くしかないのでしょう。できれば、志のある新しい水夫に続いて欲しいと、願わずにはいられません。そして新たな年が、その始まりとなるように祈るばかりです。

 それでは、良いお年を……


2006年 12月 11日       現場の面白さを知らないままに……




 
温暖化などとはいっても、それなりに冬は訪れてきているようで、師走らしい気候になってきました。白い息を、手に吹きかける時など、冬の訪れを実感しますし、これも良いか、などと、四季のある国に住むありがたさを感じたりするものです。

 12月8日号の日経コンストラクションで、「現場のやりがいを取り戻せ」という記事を読みました。目的や目標を持つことができず、現場を去っていく若手技術者の話や、判断できる人がいなくなり5年後の現場(団塊の世代がいなくなる)は機能不全に陥りかねないなど、まさに、今日の建設部門を象徴しているような内容であったと思います。

 また、総務省が実施する「就業構造基本調査」によると、業績不振や先行き不安を理由に転職を希望する人の割合が、全産業の約2倍となるなど、建設業の将来に暗い展望を描いている人が多いことなども書かれていました。さらに、厚生労働省による調査では、高校を卒業した人が3年以内に離職する割合も、全産業平均に比べ建設業は高く、しかもその差は徐々に拡大していることも掲載されていました。

 「いざなぎ以上の景気」というのが続いているそうですが、いっこうに実感としてその好景気が感じられない、という声は方々で聞かれます。そんな中でも、さらに建設部門の状況と将来性は、夢がなくやりがいを見出せないものとなっているのでしょうか。地方でも、建設会社の倒産や低価格による熾烈な受注競争の話など、耳にすることが多くなっています。

 そのような中で、私が一番憂慮していることは、現場を預かる人の技術力の低下と、技術者としての精神の伝承が途切れようとしていることです。なによりも、実際に動いている現場において、刻々と変わる状況や様々なハプニング・アクシデントに即応していく能力という面で、対応能力のない人が多くなっているように思います。技術力が低下しているといっても、知識としての専門技術といえば、ある程度の水準にあるといえるのだと思います。

 しかしながら、それを実戦で生かす応用能力という面で、見劣りする人や物足りなさを感じる人が多くなってきているように思います。例えば、コンクリート打設時にテストピースを6本採取します。3本を1週間目に破壊し、残りの3本を4週間目に破壊して圧縮強度を確認します。通常、設計図書で求められているコンクリートの強度は打設後4週間目の値です。何故、1週間目の強度を確認するのか?という質問をすると「仕様書で求められているから」と答える人が大半です。

 それでは、何故、仕様書はそれを求めているのか?と重ねて問いかけると、そのようなことは考えたこともないというのが、一般的な反応です。したがって、使用する生コンプラントの推定式(コンクリート強度の、1週強度から4週強度の伸び率を推定するための関数式で、それぞれのプラントごとに備えられているもの)を基に、その品質管理をすることの意味を理解している人は少ないように思います(推定式そのものを知らない人さえも良く見かけます)。

 また、構造物の鉄筋などは、図面を見るだけの知識では中々上手く組むことはできません。とくに、複雑な配筋の場合には、組み立てる鉄筋の順番や、最終形を意識した加工など、様々なノウハウが必要となります。専門会社や下請け任せでは、配筋ミスを見逃したり、重大な瑕疵を生むことにつながりかねません。

 過酷なコストダウンや、本社などによる集中管理の徹底などから、現場で教えながら育てるようなことが、難しい状況であることも前述の記事に書かれていました。確かに、現状で与えられている条件は厳しいものがあると思います。それでも、何故それをやるのか?そしてそのために何が必要なのか、という意識を持つことで(持たせることで)得られる結果は全く別のものになると思います。

 さらに気がかりなのは、そのような技術者としての意識を、伝え育てていくことのできる上司や、管理職が少なくなっている印象を強く受けることです。かつての施工業者の技術者は「コンサルの図面なんて絵だ」といい、設計図書の検証を始めとし、良いものをより安く早く安全につくることを誇りにしていたと思います。一方で、建設コンサルタントの技術者は、設計の根拠や理念について責任を持つために、今よりも勉強をしていたように思います。

 実は、その良いものを安く早く安全につくるためにする工夫こそが、建設部門の仕事の中で最も面白い仕事だと私は思っています。また、そのような工夫や、真摯な取り組みを繰り返すことによってのみ、優れた技術者に育っていけるのだとも考えています。今ならまだ、その、もの作りの喜びと意義について、伝えていくための良い連鎖を、途切れさせないすべがあるのではないかとも考えているのですが……

 
 

2006年 11月 27日         らしくて良いんじゃないか


  

 
風邪が流行っているようです。不覚にも、私もその流行に乗ってしまいました。発熱と、激しい嘔吐・下痢の症状が続き、先週末に3日間ほど寝込んでしまいました。ようやく復調(体調が)してきた感じですが行きたい集まりや、飲み会にも顔を出すことができず、残念な思いをしました。

 その昔、私が中学生だった頃、私の通っていた中学校では、男子は丸坊主という規則になっていました。といっても、当時はそれが当たり前で、市内の中学校は、皆一様にそうなっていたと思います。また、不服を言うような人はいませんでした(もちろん、多くの人間が不満を持ってはいたと思います)。

 ある時、私は先生に長髪を許すべきだと、談判したことがありました。その時、色々なやり取りがありました。その中で、中学校の先生は「中学生らしい髪型で良いじゃないか」と私に言いました。私は「中学生らしい」とは、どういう定義づけにもとづいているのか?などと食い下がったことを覚えています。まったく、生意気な生徒であった、と、今から思えば顔が赤くなる想いです。

 それでも、グループサウンズ・フォークソング・……学生が世の中を変えるんだというような、団塊の世代から続くイデオロギーやエネルギーの名残を受けて、そのような、こましゃくれた少年が育っても、おかしくないような時代背景であったことも、また事実だったと思います。さらに、私にそのように説いた先生方は、君が代や日の丸の議論を熱くやっていたように思います。確か、私達の卒業式では「仰げば尊し」は歌わず、「今日の日はさようなら」かなんかを歌ったように記憶しています。

 考えてみれば、その頃の私は~らしいって何だ?~らしくなければいけないのか?などと教師を困らせることに、喜びのような充実感を覚えていただけで、~らしさの意味や意義などについては、あまり深く考えてはいなかったのだと思います。ところが、あれから30年以上の時が流れた今、~らしくて良いんじゃないか、というか、~らしさの良さを感じるようになってきました。

 男らしさや女らしさ、父親らしさと母親らしさなどというと、ジェンダーフリーを唱える人たちからは、しかられるかもしれませんが、そのような~らしさが、失われて希薄になっていく度合いと、やりきれないような殺伐とした事件の起こる回数や、何でもお金を持っている人が偉いんだという、拝金思想の風潮が強まっていくことが、リンクしているように、私には、思えてならないのです。

 話はそれますが、家庭の中できちんと育てられない子供を、どうして学校の先生がしつけられるというのでしょうか?学校は、、勉強をしに行くところであって、躾を習いにいくところではありません(もちろん、礼儀・道徳などを学ぶ場面はありますが)。親が、親らしくなくなっている家庭が増えていく中で、子供らしくない子供が、人間らしくない人間に育っていく、というのが現代の状況ではないでしょうか。

 たとえば、食器を洗ったり、トイレ掃除をしたりすることが、男らしくないことだなどとは思いません。しかし、時間的にも量的にも50%ずつ、きっちり分担しなければならないとも思いません。実際に、家族として一緒に暮らしていれば、TPOにあわせて、できる方がより多く受け持ったりすれば良いのだと思います(子供も手伝うべき)。例えば、人生をかけた勉強をしているような時に、奥さんがその環境を整えてあげることなどは、私には当然のように思われます。

 それでも子育てなどで言えば、お母さんにしかできないことや、お父さんにしかできないこともあるはずです。その一方で、それは他の人でも補完できるものでもあるかもしれませんし、その任に適さない親よりは、代替する誰かの方が良い場合だってあります。大切なのは、人は愛されなければ(愛されて育たなければ)愛し方がわからないのではないかということです。それは、父性的な愛と母性的な愛という意味で、父親らしいものであったり母親らしいものであったりするのではないでしょうか。

 言い換えれば、そんな風な、親らしい親に育てられていない人達が親になっていく中で、きちんとした親子関係を築けない家庭が増えているのだと思います。もちろん、お前が何だと言われれば、かえす言葉もなく、たたけば埃の出るような身で、このようなことを述べるのは、本当に、不遜に思いますし面映いことなのです。けれども、今のこの国は、こんな私が「一言でも」と思うような、危機的な状況になっているのかもしれません。

 ~らしいって何だ?~らしくなければいけないのか?とうそぶいた少年は、いつのまにか、高校生らしい高校球児の姿や、向田さんの描く、家族らしい情景を描いたドラマが好きなおじさんになってしまいました。そこに、登場する男らしい人や、女らしい人物を見るときに、良いなあと思ってしまうのです。考えてみれば、父親らしい父親が減り、母親らしい母親が減り、先生らしい先生が減ってしまいました。その結果、通学する子供の安全さえ、十分に確保できない世の中になったような気がします。

 いつの時代が良かったのか、そんなことは、後世の人にしかわからないことでしょう。後世の人にもわからないのかもしれません。それでも、ものがあふれていなかった私達の少年時代には、今よりも~らしいことや、~らしいものがたくさんあったたような気がします。

 
そして、時代と共に、「らしい」も変わっていくものなのかもしれませんね(丸坊主の中学なんか、今やどこにもないでしょう)。それでも、正月らしい風景や、下町らしい情景など、それらしいものには、残ってもらいたいものだと思っています。

 

2006年 11月 13日         命と言葉を考える


 


 穏やかな日が続いていたと思った矢先、北海道において、これまでになかったような、竜巻による災害が発生しました。トンネル工事に関わる人達が、9人も亡くなられました。同じ、建設現場で育ったものとして、沈痛な思いがします。犠牲者となられた方々のご冥福をお祈りいたします。

 
一体これほどまでに、命という言葉が軽くなってしまった時代が、今までの歴史の中であったでしょうか。毎日のように、幼児の虐待や殺人事件が、マスコミにより伝えられています。その内容も、理解に苦しむような残虐なものや、猟奇的なものが多くなったように思います。また、各地の小・中学校において、いじめが原因とされる児童や生徒の自殺が起きています。まったく、奪う方も奪われる方も、あまりにも軽く命を扱いすぎている……悲しいことだと思います。

 一つずつ経験して、身体に実感できる感性を養わず、溢れる情報量のなかで、言葉や文字としての知識のみを蓄積して大きくなっていく現代の子供たちには、つまずいたり失敗した人生は、もう一度生まれ変わってやり直せば良いのだ、と、いうような気持ちが芽生えるのかもしれません。けれども、命はリセットなどできない(生まれ変わって、ディープインパクトの子供などにはなれない)ものです。

 また、これは以前にも述べましたが、人の命を奪ったとすれば、その償いは不可能なことです。過ちを悔い改め、一生背負っていくことはできますが、奪った人の命はどんなことをしても帰ってきません。子供や家族など、愛する人を失った人の心の傷がいえることなどはありません。「目には目を」といいますが、代わりに殺人者の命を奪ったとしても、後に残るのはもう一つの悲しみだけではないでしょうか。

 さらに、山口の高専生殺害や、京都でおきた殺人事件などのように、犯人が自ら命を絶っても同じことです。どうしようもなく、やりきれないむなしさが残るだけです。残された家族は、どのように心のおりあいをつけて、生きていけば良いのでしょうか(被害者・加害者双方とも)。また、それらの事件をみていると、あまりにも短絡的な犯行のようにも思います。一呼吸置いて、その先がどうなるのか考えてみれば、思いとどまるだけの想像をすることは難しくないはずです。

 一方、いじめなどの問題は、とても難しい問題だと思います。セクハラなどでもそうですが、されたりいわれたりすることに対して、その内容や相手などの条件によって、受ける側のダメージが違うということがあります。同じことをされても、傷つく人と傷つきにくい人が出てきます。また、被害者の側について言えば、時代と共に耐える力が弱くなっているように思います。さらに、加害者の側から言えば、時代と共に、人を思いやれる感性が失われていっているように思います。

 これには、一見、直接関係ないように見えますが、言葉の使い方が雑になってきていることにも、その背景があるのではないでしょうか。過激な表現や、オーバーでエキセントリックな、言い回しがもてはやされる傾向とリンクしているように、私には思えてならないのです。逆に言えば、小さい頃から肌で人と触れ合い、気持ちのやり取りをきちんとやりながら育っていかないから、頭の中にある知識としての、言葉の表現にのみ頼るようになるからだと思います(口先だけの人間が増えている)。

 もちろん、それはテレビを中心としたマスコミにも大きな責任があるのだと思います。視聴率・聴取率、発行部数や売り上げの向上のみに力が置かれ、そのような過激でオーバーな表現などが取り入れられているように思います。かつてのエースは今スーパーエースなどといわれ(スーパースターも昔に比べればずいぶん増えました)、援助交際などと売春をごまかして表現し、冷静で毅然としたポリシーを持った報道姿勢は、昔より少なくなったような気がします。

 そのくせ、いじめ問題などが起きると、鬼の首を取ったような勢いで、正義の使者のように、例えば学校側や時には校長だけを徹底的に、マスコミ(特にワイドショー)は糾弾していきます。それは一見、正しいように見えるしわかりやすい構図ですが、誰か一人を悪者に仕立て上げ、視聴者の溜飲を下げれば問題が解決するといものではないはずです。

 話を命という視点に戻すと、どんなに辛くても悲惨でも、たとえそこから逃げたとしても、けっして死を選んではいけない、選ばないで欲しい、という、一人の先生から寄せられたメールがテレビで取り上げられていました。本当に、その通りだと思います。かつては(うろ覚えの記憶ですが)、年間の交通事故の死者も自殺する人の数も、約一万人位で同じようであったように思います。

 ところが今、交通事故の死者数は年々減り(事故数や負傷者が減ったわけではありませんが)7千人を切るところまで来ています。それに対して、自殺者の数は増え続け、平成10年以降は3万人を超えており、昨年も3万2千人以上が亡くなっています。一つには、日本人全体が弱くなったということもいえるでしょう。また、社会的背景(経済格差の進行、ストレスの多い環境……)なども理由に挙げられると思います。

 しかし一方で、北朝鮮の人民が自殺したという話は、あまり聞いたことがありません(報道されないだけだと思いますが、明日をも知れず、生きていくのがやっとという国では、その発生率は日本よりはるかに少ないのでは……)。話はそれますが、「せっかく宿った命」などと言い、できちゃった結婚して、すぐ別れたり、幼児虐待をする男女の話は、枚挙がないのも我が国の現実です。命を宿すことは簡単ですが、命を育てること(その命に責任を持ち・社会に責任を持ち)は大変なことです。

 まるで、お話にならないような人間が増えていく中で、今一度、命という視点から、言葉の重みを考える時だと思います。


2006年 10月 30日         5年目を迎えて




 先日(28日・29日の土・日2日間)、地域の公民館において、毎年恒例の文化祭を行いました。特に、初日は津山郷土博物館長の湊哲夫先生から「院庄構城跡について」という講演をいただき、私自身興味深く聴くことができ、とても有意義なイベントができたと考えています。。

 さて、今年も10月が終わろうとしています。早いもので、このHPを立ち上げて4年が経ちました。
きっかけは、技術士受験に対する、自分自身が苦労した経験をもとに、いくらかでも後に続く人の役にたちたい、と、考えて始めたことです。しかし、この4年の間に、その「受験を支援する」環境は大きく様変わりしました。また、私自身の考え方も変わってきたように思います。

 私が、技術士を志していた頃は、インターネットの普及率は今より格段に低く、このような場で得られる情報もかなり少なかったように思います。また、受験を支援するサイトに関しては、有料のものが何社かあるという程度だったと記憶しています。その中で大勢の支持を受け、圧倒的な存在感を示していたのが、佐口さんの運営されていたHP(技術士受験講座……)でした。

 そのHPは、現在は名前を変えてAPEC氏を始めとする杜ハヤ(佐口氏HPの掲示板仲間から派生したグループで、技術の杜ハヤブサネットという名称だったと思います)により運営されています。しかし、受験支援そのものは、APEC氏の「技術士受験を支援するページ」が、その業績を受け継ぎ、充実した内容と取り組む熱意から、圧倒的な評価を受けているといって良いのだと思います。

 その熱意は、大変なものだと思います。また、必要な経費や費用などを考えると、一部は有料でないとできない、または、有料にすることにより、さらに、効果的な受験支援の方向が出てくることも理解できることだと思います。私も、大いに参考にさせてもらっています。実は、彼のHP立ち上げの頃ですが「一緒にやりませんか」という話を頂いたこともありました(もちろん、資料の提供その他で、協力したり援助してもらったり、ということもありました)。

 「資格の取得は、技術者としての通過点であり、技術士というパスポートを手に入れてから、技術者としての精神を磨き、世の中の役に立つ仕事をし、社会に貢献できる人になるべきである」というのが、私から見た、APEC氏の考え方ではないかと思います。私も「世の中の役に立つもの・人づくり」を目指す技術者に育ってほしい、という考え方は同じです。

 しかし私は、そのためにはまず、そのような「志」を持つことがが必要であると考えています。言い換えれば、「志」を先に養うべきであると考えているのです(言葉にすると、上手く表現できませんが)。このことは、「世の中の役に立つものづくり」ということを考えながら、この4年間本HPにおいて、コラムを書き綴っていく中で、おぼろげな概念が、だんだん具象化されてきたように思います。また、添削指導などの際における色々な人とのやり取りを通して、強く感じるようにもなってきました。

 「どのような気持ちで、受験を考えているのか?」という問いかけに、「60点取れれば、良いと考えています」などと書いてくる人などもいました。また、到着(資料等の)の確認連絡さえ、来ないことはしばしばです。そのようなことは、インターネットのような直接顔を見てやり取りしない関係では、本当は仕方のないことかもしれません。しかし私は、技術士のように高度な、資格を目指す位向上心のある人は、技術者としての志(倫理観やポリシーなどを含め、広い概念としてのイメージ)も高いものが必要だと思うのです(このHPを始めた頃は、そのような人が受験を目指しているのだと考えていました)。

 もちろん、合格し技術士となってから、技術者としての資質を高めて行けば良いのだと思います。また、当然のことですが、それは必要なことですし大切です。しかし、この頃私が感じることは(資料のやり取りなどを通してに過ぎませんが)、そのような思い(志)が感じられない人や、伝わってこない人が多くなって来ているということです。しかしそれでも、これまでは比較的寛容に、受け入れてきたつもりです(正直、もういいかな、と、思うようにもなってきました)。

 そのようなことから、師と仰ぐ先生(私が、技術士として、またそれを育てる指導者として尊敬している人)からも「人物を確かめず、顔を見ないで指導するというのはいかがなものか……」とご心配を頂いたこともありました。その言葉が、最近はより強く、身に沁みるようになってきました。体験を通して言えば、言葉にしても、態度にしても、すべてが軽く・浅くなってきているように思います。というか、世の中の空気は、そちらの方向に、どんどん進んでいる印象です。ボキャブラリーだけが豊富な、「小ざかしい人」も増えたように思います。

 技術士の試験に関していえば、来年からはまた制度も変わります。「技術士にふさわしい」を問い続けてきた経験論文についても、筆記試験の科目としては必要なくなります。ある程度の原稿を備え、暗記に多くを頼り、記述力を鍛える試験ではなくなるのだと思います(これまででも、それだけでは合格できなかったと思いますが)。また、インターネットなどを通じ、多くの情報が得られるようもになりました。

 一方、受験指導に関しても、APEC氏のHPのような充実したサイトもあります。私の個人的な感想ですが、必要な情報はそこだけでも、十分得られるように思います。その上で、あえて意見をいわせてもらえば、このような「無料サイト」の充実ぶりによって、受験指導ビジネスなどが衰退(需要と供給の関係から考えれば当然であり、仕方ないことなのかも)するような問題も見られます。また、寡占化が進んだために「掲示板」などから得られる情報は、かえって佐口さんの頃の方が、有益なものが多かったような気もします。

 以上、5年目を迎えるにあたっての感想を述べました。正直言って、少し疲れているような気もします。それでも、これからも続けていこうとは思います。さらに、続けるからには、あくまでも無料で(仲間の応援は不可欠ですが)、技術者としての志を持ち、「世の中の役に立つものづくり」を目指す人・目指せる人を応援していきたいと考えています。

  


2006年 10月 15日         気がつけば、知らないことばかり


 


 
いなかでは、秋祭りがたけなわです。収穫を終えた田圃の側を、だんじりやみこしが通り抜けて行きます。昔に比べて子供の数も減り、支えていく人達も大変だと思います。それでも、このような地域の行事が、いつまでも続いていくことを願いながら見守りたいと思います。

 先日、地域内にある歴史的な場所について、保護や整備を前提として本格的な調査を実施してもらうために、市長と面会し、要望書を提出してきました。津山市の中の、院庄支部という連合町内会を代表して、同支部内の全町内会長が署名した要望書を渡し、中世以降における院庄という場所の歴史的意義などについて説明し、同行した地元の歴史に詳しい町内会長さんたちとともに、早急な保護・保存の必要性を訴えてきました。

 私の住んでいる津山市は、関が原の合戦後の1603年に、初代藩主の森忠政が美作入りして整備された城下町です。それ以前については、市内の総社というところに美作の国府が置かれ、律令時代の貢納などを司っていました。因みに、この税を納めるための旅は過酷で、都までに一週間を要したといわれています(帰りは四日間で帰れたとか)。

 それから、平安時代の王朝国家体制になり、律令制の弛緩が進む中で、荘園公領制が成立していく頃には、院庄は美作の地において重要な位置を占めていたようです。その名の由来も、後鳥羽院の庄園であったことから、院の庄と名付けられたといわれています。鎌倉時代になり、初代の守護として梶原景時が赴いた頃には、この地に守護館があったと考えられています。

 その後、後醍醐天皇配流の際における忠臣児島高徳の十字の詩(天莫空勾践、時非無笵蠡)のエピソードなどもあり、かつては全国的に名を馳せていたようです。もっとも、この美談は、明治以降の富国強兵的な流れの中で、上手く利用されてしまったようなところも感じさせますが、その舞台ともなった院庄舘跡が現在の作楽神社となっています。

 今回、要望書を出して調査をお願いしたのは、この院庄舘跡から5~600m南東にある構城跡を中心とした史跡についてです。また、足利尊氏の命により全国に建立された安国寺の跡などについても、ベテランの方々から説明してもらいました。まさに、今聞いておかなければ、口碑も途絶えてしまうという懸念さえあります。

 院庄城とも呼ばれた構城については、室町時代前期に山陰の山名勢と美作の守護赤松勢などとのせめぎあいの中で、領有が繰り返されたといわれています。さらに、慶長年間に川中島から封ぜられて、この地に入って来た森忠政も、本来はここに居城することを考えていたと思われ、津山城築城までの間はここから通い、生活の主体はこの構城にあったようです。

 そののほかにも、院庄というところには、多くの興味深い歴史にまつわるエピソードがあります。古くから出雲街道の要衝であったようで、連歌で有名な宗祇が逗留し歌を詠んだという記録もなども残されています。しかしながら、これらの史実などについても、今回の一連の流れの動きの中で「出雲街道第4巻」(小谷善守著)という本を読んで知ったことが多く、またそれにより、おぼろげな知識を裏付けたり検証するようなことが多かった、と、いうのが実際のところです。

 このようなホームページを持ち、したり顔で、思うところを述べておりますが(どこかでわりきらなければ、何もできませんが)、つい身近な、自分が住んでいるところの歴史さえ、十分には把握していないというのが正直なところです。本当に、自分が知っていることなんか、ちっぽけなものなんだなあ、と、痛感させられています。

 実際、先の戦争についてもそうですが、昔を知っている人達はどんどん少なくなっていきます。今、聞いておかなければならないことが、たくさんあるのだと思います。また、学ばなければならいことも山ほどあります。その上で大切な事は、それらのことを少しでも、次の世代に伝えていくことではないかとも考えています。子供の頃、父が私に話してくれたように……

 過ぎて行く時の流れの中で、何も考えず飄々と生きてきたつもりですが、少しは誰かの役に立ち、何かの礎になってこの世を去りたいと、思うような年齢になったのかもしれません。そのように考えると、持ち合わせているものの少なさを、あらためて痛切に感じてしまいます。本当に、気がつけば知らないことばかり、そんな思いの今日この頃です。


2006年 9月 29日         元気です。そして、人生を語らず。


 

 空が、だんだん高くなって澄んでいきます。さわやか、と、いう季語がマッチしてきましたね。青く晴れ渡った空を眺めながら、本当に、自分は秋が好きなんだなあ、と、納得したりしています。

 
去る9月23日に、静岡県掛川市において嬬恋コンサートが行われました。吉田拓郎とかぐや姫が行ったあの伝説の「嬬恋」から、実に31年を経てのことでした。午後1時から9時半までという8時間を超える大イベントに3万5千人という観客が詰めかけました。15,000円というチケットは、発売後すぐに完売となったようです。訪れた観客の平均年齢は49才ということでした。まさに、私と同世代の人々が中心であったようです。

 この模様は、NHKのハイビジョンで生中継されていました。私は、地域の小学校の運動会などがありまして、中断後の(相撲中継のため午後4時~6時まで中断)6時からしか見られませんでした。それでも、僕の胸でおやすみで始まるそのオープニングから、じんわり目頭があつくなってしまいました。自分でも良く解りませんが、不思議な涙がこみ上げてくるのでした。年齢と、多少のアルコールのせいもあるのだと思いますが、言葉にできない感情で胸が熱くなりました。

 57才になった今も、3才上と3才下の山田パンダ伊勢正三の間に立って、納得のMCを展開するこうせつの声は変わらず、胸に響いてくるヴォーカルはかぐや姫そのものでした。多少額が広くなったパンダさんの優しそうな感じも安らぎを感じさせ、正やんの方は、ストウィックさよりも大人の可愛らしさが漂う感じが強くなり、長い年月の経過と、それぞれが生きてきた人生の背景を想像したりしました。

 それにしても、一つ一つの曲のフレーズが、何でこんなにすんなり出てくるのだろう、と、思うぐらいに口ずさんだりしてしまいました。あの頃(1回目の嬬恋の頃)は、LPレコードも今よりは簡単に買えませんでした(経済的に)。友達同士で貸し借りし、テープに録音したりしました。ラジオの深夜放送などにも耳を傾けていました。そんな風にして、音楽を聞いたように思います。それから、車のカーステレオで気に入った曲は、何度もリピートして聴いたりもしました。

 午後6時から約1時間半が過ぎたころ、この日3ステージ目となる拓郎が登場して来ました。場内の盛り上がりもさらに熱くなりました(しかし、眺めている限り非常にマナーのよさそうな観客ばかりが目立ち、年齢層の高さも感じました)。例によって、照れ笑いを浮かべながらの、自嘲と皮肉交じりのMCのなかに、31年の年月に「丸く」なった吉田拓郎を見ました。そして、その一言一言に頷いたりしている自分がいるのも事実でした。

 残念ながら、イメージの唄はその前の出番で歌ったようで(古い船を今動かせるのは……というフレーズが生で聴きたかった)
、このステージでは見ることができませんでした。また、あの前回(31年前)の時の伝説となった、人間なんてのシャウトなどもありませんでした(こちらは、年齢的なことや、色々な思いがあったのだと思いますが)。それでも、要所要所に、観客が望んでいそうな曲を織り込みながら、拓郎節は展開されていくのでした。最後は、私は今日まで生きてみましただったと思います。

 ビートルズが教えてくれた~などを聞いておりまして、実感しなおしたことがありました。それは、あの頃のフォークソングには、メッセージがこめられていたのだということです。単にメッセージを込めるというよりは、曲に込める伝えたい思いが強く感じられた、といった方が良いかもしれません。まさにそれは、ビートルズ・ジョンレノンから続く流れだと思います。

 一方で、ボブディラン、ジョンバエズ、PPMなどから続くフォークソングの流れにも根ざしているのだと思います。しかし、高田渡・岡林信康・加川良などの本格派的な系統から見ると、拓郎やかぐや姫はナンパな感じに、当時は見られてもいたのかもしれません。また、団塊の世代という視点からみれば、六文銭・赤い鳥・泉谷しげる・三上寛……また、陽水、アリス他たくさんのグループが相前後して活躍しました。音楽に力があった時代だと思います。

 最初の嬬恋コンサートが行われた1975年は、私は高校3年生でした。インターハイ出場の後、休む間もなく合宿に入り、疲れきっていたことと不摂生などから、国体予選の最中(試合直前)に倒れ、病院に運ばれた苦い夏でした。たしかその頃、そんなコンサートがあったらしいという話を、目の前の目標を失った虚ろな気持ちで聞いた記憶があります。今はまだ人生を語らず、31年経った今でも、越えて行け……とシャウトする拓郎の歌声を聞くと、胸の奥底が熱くなってしまいます

 そういえば、人間なんてをうたわなかったところに、幾多の苦難や出来事を越えて生きて来た自分(吉田拓郎)と、聴いている人達の人生に敬意を表すというか、いたわりのような気持ちがあったのかもしれませんね。それから、「あの頃の若者達は今、社会を動かせる大人になった。だからこそ、戦場にこれからの若者達を送りこむようなことはしたくないね」そう語りかけていた南こうせつの言葉が強く心に残りました。

 それにしても残念なのは、BSの2チャンネル(BS2とBShi)とも相撲放送に使った(午後4時~6時)NHKの片手落ちなライブ中継ではないかと思います。どうせやるなら、中断なくやるべきだと思うのは私だけではないでしょう(大相撲中継は、BS2だけで十分なはずです。)。個人的にいわせてもらえば、あと2時間は余分に見られたはずでした。ともあれ、今後の総集編などを、楽しみにはしたいと思います。

 考えてみれば、あの頃の唄は強く心に響いていたし、人の命や魂は、今よりもずっと重かったような気がします。


2006年 9月 19日           身体に刻んだ知識は強い




 
期待していた秋晴れではなく、愚図つく空模様の間を縫って、兼業農家における秋の一大イベントである稲刈りを済ませました。乾ききらず、ぬかるみがある田圃に苦戦しましたが、台風が来る前に収穫を済ませることができました。ほっと一息、と、いったところでしょうか。心和む秋を迎えました。

 常々私は、現場主義というか、身体で覚えることの大切さを述べています。それは、私自身の体験に根ざしている部分が大きいのですが、常に状況が変化し、得られるデータや情報も変わっていく現場(特に、建設現場)では、その瞬間ごとの状況に応じ、適切な対応をとることが求められるからです。直接的な技術だけでなく、仮設や周辺環境への影響、社会的責任および事業遂行者としての利害など、あらゆる要素を分析・評価したうえで(総合技術監理的なイメージ)敏速な対応をしていく必要があります。

 そのような時、個人の持つ知識としては、たくさんのデータがある方が有利であることは間違いないと思います。しかし私は、その知識の持ち方は、経験や体験を通して身体に沁みついていくような保有の仕方であることが、実戦において、より効果的な対応を図るために重要であると考えています。

 今日、インターネットをはじめとして、情報や知識を得るための手段は飛躍的に増えました。ディベートや議論を制するために必要な、上っ面の知識を得ることなどは、本当に簡単になったように思います。しかし、知識や情報を得ることにより、頭でそのことを理解したつもりであっても、どれだけ実戦で生かせるか、また実践できるかということは別の問題です。

 例えば、一流のシェフが書いた料理本を読んで、同じように作ったとしても、その人と同じ味が出せるわけではありません(一方で、その本を読み、実際に作ってみなければ、何も始まらないのも事実ですが)。また、盛土材の基準密度に対する現場密度や、コンクリートの品質などに関しても同様です。必要な水準・品質に施工するための過程について、何度も携ることによってこそ、見たり触れたりするだけでわかるようになるのです。

 私達の子供の頃は、高度経済成長期といわれていますが、今と比べればはるかに貧しい生活でした。また、程度の差も少なく、庶民の生活は大体同じようなものでした。子供同士の中にも、同級生だけではなく上下の関係や、地域の内・外というような大人社会の縮図のようなものもありました。さらに、社会の厳しさや理不尽さ、もっと言えば不条理なことなども、私達は育ちながら学んだように思います。

 野球やサッカーなどのゲームにしても、バーチャルなテレビゲームではなく、身体と頭を使う野球盤などで腕を競い合いました。また、それらの道具が手に入らなければ、自分達で作ったりもしました(真似事のイメージの中でも、十分に楽しめたと思います)。お金で買えないものはない、と、うそぶいていた人がいましたが、自分自身で独楽を回したり、縄跳びを上手く跳ぶ技術などは、お金では買えないと思います。

 私は、ずぼらで横着な性格を自認しておりますが、ものごとについて、多少でも工夫をしてみようというような感性は、そのような遊びや身体を通した体験によって、少しは養われたのではないかと思います。そのことが、本当に厳しい環境であったといえる地方の建設会社での修行時代(自身ではそのように考えています)を過ごす中で、とても役にたったと思います。

 さらに、実際にものをつくっていく過程の中で、技術や理論がどのように生かされているのかについて、自分の目を通してデータベース化できたことが、その後における業務の中でとても役にたちました。また、その頃の厳しい生活の中において、力がなければやっていけない(だれも言うことをきいてくれない)ことや、それぞれの道のスペシャリスト・職人魂を持った人達との関わりや触れ合いなどを通して、人間力のようなものが養われたと考えています。

 自分で意識して、そのように生きてきたわけではありませんが、現場を先に体験し、若い時期に苦しいことや恥ずかしい体験を多くしたことが、今から考えると幸運であったように思います。その頃の経験に比べれば、辛いと思うようなことはあまりありません。一方で、今でも建設現場に立てば、誰よりも安く、早く、美しく、安全なものづくりをする自信や自負も持っています。

 団塊世代の達人がひしめく中で、また、いわずもがなという雰囲気が当たり前のような建設部門において、その背中を必死に追いかけていたのだと思います。小さな地方の建設会社では、毎年後輩の職員が入社しましたが、辞職するまで私は、一番年少の技術系職員だったように思います。また、このことは別の機会にでも述べたいと思いますが、どういうわけか、一・二年違うだけで、私より年下の人達になると、同様の体験をした人や、その感覚を理解される人は圧倒的に少なくなるようにも思います。

 高度経済成長の最中、日本を担ってきた団塊世代の人達に対して、十分敬意を表した上で一言いわせていただければ、もう少し、後継者を育てるような取り組みをしてもらっても良かったのではないかということです。「いわんでも、わかるだろう」の向こう側にある熱い行動や姿勢の中に、技術者としてのあり方や精神を見出して、努力や辛抱を重ねていくことは、頭でっかちで小器用な育ち方をした世代には、とても難しいように思うからです(体験として)。

 言葉にすると軽くなりますが、理屈ではなく肌で覚えるということは、本当に大切なことだと思います。


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