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NO.9

2006年 4月 14日          明日ありと思う心のあだ桜 

                     

 


 

 風の強い日や雨の日、定まらない春の天候が続いています。せっかく咲いた桜を思い、花に嵐の試練が常かと、気をもむ日々を過ごしているところです。

 私事ですが、本当に桜の咲くこの時期は、毎年多忙に過ごしてまいりました。といっても、それはお花見など、桜を言い訳にした宴のことではありますが。中には、私の日程に併せて予定を立てていただくような集まりがあったりします。弱いくせに酒好きな私は「お前が来んと……」の一言には、めっきり弱い男でもあります。

 どういうわけか、町内会活動など地域のお世話などをする機会が増え、自然とそのような酒席も年々増えて来ました。体調面や精神衛生上からは、喜んでばかりはいられなくもなって来たようにも思います。

 さて冒頭のタイトルは、親鸞聖人が得度される時、わずか9歳の折に詠まれた歌「明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」の上の句です。4歳で父を亡くし、8歳で母親とも死別した親鸞が残したこの歌は、人生の諸行無常を語るものとして有名ですし、真宗門徒(名ばかりですが)の私には心に深く刻まれてもいます。

 先日、向田邦子のエッセイ「父の詫び状」を読んでおりましたら、彼女が最初に覚えた三十一文字として、おばあさんとのエピソードと共に、この歌のことが語られていました(因みに、親鸞の命日とされる11月28日は、向田さんの誕生日となっています)。べそをかきながら、宿題を朝餉のお櫃を台にしてやった時の、思い出の下りに続く文章でした。やりたいことを先にやり、後であわてるというお話は、私にも当てはまるもので、大いに身につまされるものでした。

 京都の青蓮院というところで「明日、得度してあげよう」という慈鎮和尚の言葉に、「今を盛りと咲く花も、一陣の嵐で散ってしまいます。人の命は、桜の花よりもはかなきものと聞いております。明日といわず、今日得度していただけないでしょうか」と、親鸞聖人は応えたと言われています。過酷な生い立ちとはいえ、恐ろしいほどの無常観だと思います。

 宗祖であることばかりではなく、様々な理由から、私は親鸞という人が好きです。作家五木寛之の、落ち着いた語り口調が好きなのも、そのような背景があるのだと思います。しかし不埒な私が、親鸞や仏教などについて語ることは、おこがましいことですし、誤解を招く恐れもあります。また、このような場所やスペースでは、語りきれないものでもあるでしょう。

 それでも、私の中で親鸞と蓮如は重要な位置を占めている人物です。井伏の「黒い雨」のなかで、主人公が何度も「白骨の御文章」を読むという件が出てきますが、その度に蓮如上人のことを、思い浮かべさせられます。「明日には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり……」というこの文章は、子供の頃から澱のように、私の心に残っているものでもあります。

 敬謙な仏教の信者とは言えず、その上、胸をはれるような生活もしておりません私ではありますが、時々は「今」というものを一生懸命に生きなければ、などと考えたりもするのです。もちろん、言うは易しでありまして、日々の暮らしに埋没することが多いのですが……

 しかしながら、酒席を持つということでいえば、かなり今を大切にしているのかもしれません。なるべく、会いたい人と呑みたい酒を飲むように努力しています。というか、そのような努力は苦労せずにやっているように思います。まったく、人間というものは都合の良いものだなどと、他人事のように苦笑いをするばかりです。

 今年も、岡山県技術士会の仲間と夜桜を見ました。加えて今年は、尊敬する師匠にも足を運んでいただき、美味い酒を飲むこともできました。中盤戦から後半戦を迎えるお花見ですが、今夜も楽しみにしている集まりがあります。また、明日は同級生のゴルフの会から続く宴も控えております。まったく曲学阿世で、君に捧ぐ一杯の「酒」ばかりを探求しているような始末です。

 さして、丈夫でもない身体のことや、家系に多い糖尿病のことなどを憂いながらも、来週の予定も一杯(字のごとく)のようです。そういえば、先月岡山で食べた餃子とどて焼き美味かったなあ、などと思い出しながら、吉田類さんの酒場放浪記に見入っている有様です。明日ありと、思う心の、あだ桜、胸にいただき、足は酒場へ。


2006年 3月 31日          春の田は荒起こし  

                     


 
 一雨ごとに暖かくなり、県北といわれる地方でも、ようやく春を感じられるようになりました。いよいよ、桜の開花が待たれるところです。

 先日、めまぐるしく変わる春の天候をかいくぐり、わずかばかりの田圃を耕して来ました。ここら辺で言うところの「荒起こし」という作業です。眠っていた田圃を、春になって起こすような作業です。私の住んでいる地域では、6月の第一週位が田植えとなりますから、逆算していっても、丁度今頃が荒起こしをする時期となります。

 我が家の赤トラ、フェラーリカラーのヤンマーディーゼルに乗り、穏やかな春の午後を過ごして来ました。前後に動く機能と、ロータリーが3段階(速さ)に回転し、上下するというだけのシンプルな老トラクターは、根気良く、本当に根気良く軽快なエンジン音を響かせて、父の残してくれた圃場の中をを往復するのでありました。農業経営的に採算などを考えると、全く割に合わない作業ですが、私はこの作業が嫌いではありません。

 むしろ、何かに煮詰まった時や考え事をするには、非常に適しているように思います。よく、歩きながらや車の運転をしながらの方が、良いアイデアが浮かぶという話を耳にします。確かに人は、机について考え事をするよりも、何かをしながらのほうが、良いインスピレーションを得られるように思います。できれば、一定したリズムの、リラックスした動きが望ましいのではないでしょうか。そのような意味で、田圃を耕す行為が、私に良いインスピレーションをくれるのかもしれません。

 また、父が残した田圃に、同じく父が残したトラクターで赴くことは、生前に十分できなかった父との語らいをしているような、そんな気持ちになれることが、私の場合にはあるように思います。厳しかった父親については、同じような齢を重ねることの中で、だんだん感謝する気持ちが湧いてきました(母親の愛情は直接的です。感謝する気持ちも素直に持つことができていたと思いますが、父親に対する感情は複雑だったと思います)。

 ところで、春の田を荒起こししておりますと、暮れの作業の大切さを痛感します。まあ、暮れでなくても寒くなってという感じで良いのですが、冬になる前に、収穫後の田圃は耕運しておく必要があるのです。といっても、私は専業農家ではありませんし、それ程米作りに詳しいわけでもありません。ただ言えることは、稲作を終え固く締まった田圃を耕運して、解した状態で冬を越させることは、とても大切なことのように思います。

 田圃の土を、解した状態で冬の厳しい寒さにあわせることにより、春に荒起こしする時には「ほっこり」とした状態になってくれます。抽象的な表現で解りにくいかもしれませんが、田圃の土は、この「ほっこり」感が大切なように私は思います。また、これも学術的な根拠を示すことはできませんが、解した状態で冬を越させることにより、土の中の病害虫が減免されるようにも思います。

 そのように考えると、農作業には、その時にやらなければいけないこと、というか、その時を逸してはできないことがあるのだと思います。収穫後、愚図つく県北の気候の晴れ間を縫って耕しておかなければ、春にほっこりとした土を得ることはできません。また、春のこの時期に荒起こしをしておかなければ、5月になって何度引き込んでも(耕運すること)、強い雑草を土に溶け込ませることはできません。

 さらに、11月や3月にすることを10月や1・2月にやっても効果は薄くなってしまいます。つまり、物事にはしなければならないタイミング(頃合)というものがあるのではないでしょうか。子供の頃には、体を使った遊びやスポーツを体験し、五感で感じられる感性を養うことが大切です。英語の勉強や、他人より早めの知識の習得は、一見、その子に有利に作用するように見えますが、豊かな感性は、大人になってからでは、なかなか培えるものではないと思います。

 まるで、フライングの速さを競うように、凝縮した知識のエッセンス(お金で買った)を与え、ほとんど記憶に頼った知識を競う受験戦争を潜り抜けて育った子供たちに、人のために役立つものづくりや血の通った行政・政治などが、行えるように私には思えないのです。肌で感じることができない人間が、めまぐるしく変化する事象に対し、どのように対応するのかと思うからです。

 よく、教材などのセールスで「必要なエッセンスをまとめています。これだけ覚えれば大丈夫です」という言葉を聞きますが、必要なこと・重要なことを、自身で紡ぎだしまとめるのが、勉強するということのはずです。少し、話がそれてしまいましたが、自然界では、公式や数学の裏技を覚える(自分で考えついたものは別ですが)というような、人間界の都合によった知識の集積だけでは、通用しない気がします。
 
 いずれにしても、一年をかけて太陽の周りを回る地球の動きの中で、訪れる季節に合わせた作業をしていく位しか、人間は力を持っていないし、そのような生き方が、本当は、丁度良いのかも知れないなあと考えています。


2006年 3月 17日         教えるのは、勝つことだけではない


 
 

 先日、母校の中学校の卒業式に来賓で行ってきました。その時、なごり雪が降りました。それでも、吹く風は、ずいぶんやわらかくなってきたようにも思います。お彼岸に備えて、墓掃除に出かける母の背を、やすらぐようなほっとするような、不思議な気持ちで見送りました。春は、そこまで来ているのでしょう。

 さて、先日テレビを見ておりましたら、「遠くにありて日本人」という番組で、スペインで子供たちにサッカーを教えている木村浩嗣さんが、取り上げられていました(例によって、何回目かの再放送に目が留まったのだと思いますが)。サッカーの国スペインで指導者をしているということで、Jリーグか社会人でサッカーをやっていた人かと思って見ておりましたが、彼自身はサッカーの経験はなく、興味を持ったのもスペインに行ってからだというお話でした。

 木村さんは、雑誌の編集者という職業に疲れ、ヨーロッパを旅していて、スペインの古都サラマンカに惹かれ移り住んでいる人です。といっても、私が知らなかっただけのことで、サッカー専門のライターとして、有名なナンバーなどにも記事を書いておられるようです。

 スペインにおいて、サッカー指導者の試験(監督試験)は3段階になっていて、彼が最初に取得したレベル1でも8倍を超える難関だったとか。現在は、レベル2のライセンスを持っているので、プロリーグの指導も出来るらしく、あのレアルマドリードや、バルセロナのベンチに入ることも可能だということでした。風貌は、一見穏やかそうで、どこにでも居るような日本の青年(私から見れば)という印象です。

 「勝ち負けよりも、少年たちに生きる力を与えたい」という彼の指導は、徹底的に基本を教え「強いこころ」を養うことを目指すものでした。サッカーが国技のような国スペインでは、各都市にクラブチームがあります。そして、多くの場合たくさんのスポンサーがつき、潤沢な資金のもとに選手の育成と強化が図られています。

 当然のように「勝つためのサッカー」を各チームが目指す中で、木村さんは、どんなに下手な子も全員試合に出し、全てのポジションの練習をさせる方針を貫いています。結果的に、チームは連敗を続け、最下位争いをしています。それでも、このサラマンカ一の熱血監督の評価は高く、引く手数多だということが驚きでした。

 「仲間と助け合い、困難な時にもくじけない、強い心を持った子供を育てる」ことを念頭に置いている彼の指導方針は、負け続けるストレスから発せられる、親からの不満などでぶれたりはしません。「子供たちは、機嫌よく練習にきていますよ」と自信を見せ、「彼ら(子供たち)に嫌がられたり、嫌われたりしない限り辞めない」と言い切ります。基礎練習を粘り強く重ね、仲間と協調するチームプレーの大切さについて、言葉を荒げることなく、穏やかな調子で、根気良く子供たちに説いていくのです。

 基本的な体力がなければ、負けない強い心を支えることは出来ないとも語り、あえて、すぐには効果の出ない指導をされているように見えました。また、そうすることが、きっと子供たちの将来に役立つのだという、信念も持っておられるようでした。夜のグラウンドで、また試合場で、常に大きな声で選手に語りかける彼の姿は、かつて、私たちを育ててくれた、日本の昔の大人の姿のようにも思いました。

 かつて、私の住んでいる地域には、圧倒的な強さを誇る少年ソフトボールチームがありました(私が少年の頃ですから、40年近く昔のことですが)。時代的背景もあり、時間的余裕のある地域の大人たちが、熱血漢の先生を補佐する形で、私たちの練習を見守ってくれていました。時には、力が入りすぎて勇み足の行動もありましたが、うちの子もよその子も、同じように叱り、励ましてくれていたように思います。

 私たちの、上の代も下の代も優勝していた中で、皆が驚くような番狂わせで(練習試合でも、何十試合も無敗を続け、本大会に臨んでいたからです)私たちの代は三回戦負けしました。その時私は、大人が人目を憚らず泣く姿を初めて見ました。私たちを指導してくれた監督の涙でした。

 考えてみれば、その頃は徹底的に基本を教わり、反復練習をしていたように思います。王・長島に憧れ、小学校のグラウンドが夢の世界だった私たちは、そんな厳しい練習の中から、強くなり、仲間と協調するチームプレーの大切を覚えたのだと思います。もちろん、それは強くなるため・勝つための練習でもあったと思います。

 しかし、それだけではない「何か」が、含まれていたように思います。確かに、教えられたのは「勝つこと」だけではなかった、と、頷きながら木村さんの番組を見ておりました。


2006年 3月 2日           福山文学館(井伏鱒二考)




 
3月になりました。まだまだ、吹く風は冷たいですが、何となく春の気配を感じるようにもなりました。遅くなった夕暮れ時と、陽だまりの出来る午後などに、季節が変わっているのだなあと思う時があります。

 先日、福山を訪れる機会がありました。子供の頃に行ったことがあるように思いますが、初めてだったような気もします。新幹線で通り過ぎる時に、目の前にお城が見えるという印象がある位です。しかし、「初めてですか」と問いかけられた時、そう応えながら、「福山といえば井伏ですね」という言葉が、思いがけず私の口から出ていたのです。

 どのように、思考回路がつながったのか解りませんが、とにかく、瞬間的にそんな言葉が出ました。といっても、私が井伏鱒二について知っているのは、太宰治が師匠と仰いだことや「黒い雨」・「山椒魚」の作者であること位でした。以前、文庫で読んだ本の巻末資料か何かで、福山の旧家の出身であるという記憶があったのだと思います。

 文庫本の、黒い雨と山椒魚を読んだこととがある位で、それ以外の作品を読んだことはありません。どちらかというと、他の作家がよく引用する「花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ」の言葉と、太宰が書いた天下茶屋での、井伏鱒二とのやり取りに関するエピソードが強く印象に残っていたのだと思います。


 このエピソードというのは、最初、井伏が太宰を案内して連れて行った山梨県御坂峠の天下茶屋においてのものです。富士山の眺望が素晴らしいという話で、峠に登った二人だったのですが、生憎霧がかかっており、何も見えない状況であったと太宰が述懐している文章なのですが、そのとき「先生はつまらなさそうに放屁された」という一節がありました。

 しかし、これは後日談として語られているのですが、実際には、そのとき井伏鱒二はオナラなどしておらず、太宰治の創作だということなのです。おそらく、テレビの番組で見たのだと思いますが、そのようなエピソードを聞いた時、繊細で沈鬱なイメージの太宰にしてさえ、瞬間的発想でそのような創作を思いつくという点で、作家の持つイマジネーションの凄さと、創作意欲に感嘆した記憶があります。

 たしかに、霧につつまれた峠の茶屋で、期待していた富士の眺望を得られない時の井伏鱒二は、さも、つまらなさそうに欠伸をし、オナラの一つもした方が絵になるように思いました。斜陽や人間失格などの文章からは、想像し難い太宰治の一面を見た気がし、少し嬉しくなるような気がしたことも覚えています。

 そのようなことから、ご好意で手配していただいた福山文学館の切符を手に、改装中のお城を右手に眺めながら、博物館・美術館の前を通り抜けていきました(美術館にも寄ったのですが、野田正明という世界的な彫刻家の作品は、全く理解する事が出来ず、すぐに退散しました)。

 こじんまりとした建物の二階が展示スペースで、廊下で区切られた3分の1位が地元ゆかりの作家(小山祐士・木下夕璽等)の展示スペースで、一方、全体のの3分の2位が井伏鱒二に関する展示スペースとなっていました。件の山椒魚の閉じ込められていたセットのようなものもありました。また、自筆の原稿や興味深い展示物があり、1時間以上もながめておりました。

 関連する人物の紹介で、「桜の木の下には、死体がうまっている」といった梶井基次郎の写真がありました。失礼ながら、その風貌とロマンチックな文章がアンバランスなような気がして、おかしくなったりもしました。しかし、これは大いなる偏見で、天に唾するようなことかもしれません。一方、将棋好きの井伏鱒二は、昭和51年に中原誠・大山康晴の連名で名誉五段を授けられていました。

 花に嵐の~の前には、このさかづきをうけてくれ~という文章があり、これは、干武陵の「勧酒」という漢詩を井伏が訳したもので、厄除け詩集という彼の著書に納められています。壁にかけられたその書は、実に趣のある墨筆で額におさまっていました。予定外の行動でしたし、あまり期待もしないで訪れた場所でしたので、少し得をしたような気持ちで帰ってきました。

 それでも、黒い雨の中の「戦争はいやだ、勝敗はとちらでもいい。早く済みさえすればいい。いわゆる正義の戦争よりも、不正義の平和のほうがいい」という閑間重松の言葉が、帰りの新幹線の中で思い出されて来ました。あの、読むのにもスタミナを要する名作は、その言葉に帰結しているのだろうとも思いました。

 
 

2006年 2月 15日            評論家的発想に反省


  

 
立春を過ぎ、かなり日は長くなりました。それでも、まだまだ風は冷たく、暖房の効いた部屋から外を眺めると、「出たくないなあ」と考えたりします。

 日本のマスコミの予想に反して、トリノオリンピックでは、未だ我が国の選手によるメダル獲得の声は聞かれません。実際は、そんなものだったのかもしれません。私が見たところ、アクシデントでスタートを待たされた加藤選手、良いすべりを2本そろえた岡崎選手らのスピードスケート以外に、惜しいなあという感じで、メダルを逃した種目は無かったように思います。

 それにしても、見ている側は気楽なものだなあと思います。やっている選手たちは、それぞれに精一杯の努力をしているはずなのに、結果がでない(メダル獲得)と、容赦の無い批評を浴びせたりします。


 そのことは、自分自身についても反省しなければならないことだと思います。自らの思いと志しでやっていることでも、技術士試験の合格発表の後などは、指導した人に対して、可であれ不可であれ連絡位くれても良いのでは?と考えたりします。もっとも、何度もやっていると、そのようなことにもだんだん慣れてはきましたが。

 まったく、「選手」に比べれば「評論家」は楽だなあと思います。もちろん、ここでいう評論家は、たくさんの情報とデータをそろえ、自らの経験を加味した分析に基づき、的確な論評を行うプロの評論家のことではありません。

 そういえば、日々のテレビニュースや新聞にも神経をとがらせ、一般論文のネタ探しをしながら暮らしていた頃は、自分でも良く集中して勉強していたように思います。まさに、選手としての日々であったのだと思います。ところが、そのようなことを何度か経験して資格を手にすると、切実に、また真剣に取り組んでいた頃の自分を見失っていたのかもしれません。

 どこか、高いところから「評論家的」な視線になってしまった自分がいるように思います。世の中の役に立つものづくりと、技術者精神の伝承などといいながら、自らの「志」について、改めて反省をしているところです。

 今年は、心ならずも引き受けた町内会の役職が、我が意とは別のところで、益々重責を担うことになってしまいました。思いの外増えた雑務により、さらに多忙な日々となってしまいました。言い訳するには、都合が良くなってきているのかもしれません。それでも、添削などの受験指導については、いい加減な気持ちでは出来ないことだと考えています。

 本当に、20世紀の頃(私が取り組み始めた頃)は、インターネットの普及もそれ程ではなく、情報量も少ないものでした。何をどのようにすれば良いのか、解らない中で苦労して勉強しました。技術者としての志はあっても、それを形にしていく術を知らない状態であったのだと思います。

 まさに、きっかけというか、方向性だけでも良いから、勉強する手がかりが欲しかった自分がいたのだと思います。このような資格試験の勉強は、地味で根気のいるものです。その頃、私の中に、合格したらそんな頑張っている人達の手助けをしたい、という気持ちが醸成されていったのかもしれません。

 評論家的発想などと考えた時、自らについて戒めなければならないことが多々浮かんできてしまいました。一方、真の解説者や評論家であれば、それにふさわしい努力や勉強も必要なのだと思います。日々の暮らしに埋没しながら、他人の投げたボールを甘いとか遅いとか言うのは、簡単で雑作なくできることです。

 少なくとも、自分を棚に上げてでもやっている分だけの、責任は果たしていかなければと、年々早さを増す時の流れの中で、自らに言い聞かせる日々が続くのだと感じています。

 

2006年 2月 2日            テレビのちから


 

 
ようやく厳しい寒波が去り、寒さも一息ついたというのが、私の住んでいる地方の状況です。といっても、細長い日本列島ですから、時候の挨拶もまちまちなのだと思います。まずは、寒中お見舞い申し上げます。

 さて、ライブドアの堀江社長とうとう逮捕されてしまいましたね。話題としては、すでに茎がたったものかも知れませんが、どうしても一言述べて見たいことがあります。それは、お祭りのようにはしゃいで、その様子を報道していた各テレビ局についてです。

 堀江逮捕の報と同時に、各局が特番を組んで護送される様子など、極めて詳細な報道がされていました。聞くところによると、視聴率もかなり高かったようです。街頭のインタビューは、さもありなんというものから同情的なものまで、一応バランスして伝えられているようでしたが、締めくくりはいつも、時代の寵児への嘲笑的なものがあてられていたような気もしました。

 つい四ヶ月ほど前には、全く予想だにしなかったことです。電撃的な衆議院の解散総選挙の中で、旧態依然とした政治家への刺客として、ヒーローのようにもてはやしていたのも、同じマスコミでありテレビであったように思います。

 考えてみれば、私たちの生活の中において、マスコミの力ほど大きいものは無いのかも知れません。とりわけ、テレビの持つ影響力というものは、絶大なものがあるようにおもいます。多くの人が、ニュースソースとして最も大きく依存しているのがテレビだと思います。

 しかし、そのテレビを支えているのは、視聴率というわけのわからない目安のようなものでしかありません。視聴率をおいかけるために、いきおいテレビの放送内容は「おもしろさ」を追い求める傾向にはしっているように思います。常に、視聴者の興味を引く題材を探すことに躍起になって、報道するものとしての責任感が薄れ続けているようにも感じます。

 堀江社長逮捕の時も、これでもかというほど特番やワイドショーでやりつづけ、拘置所の独居房を再現したりする悪乗りというか、ザマミロ報道も見られました。本当にライブドアだけが悪いのか、堀江社長だけをつるし上げればそれで良いのか、それを放送しているテレビは正義なのか?などと考えてしまうこともありました。

 ジャンボ尾崎が絶頂の時は、フェアウエイでタバコをすっていても気分転換だといい、迎合しない解説者を取替えたり、宮里藍が活躍すれば、とにかく藍ちゃん中心のゴルフ中継です。また、同じ愛ちゃんなら、卓球の報道でもそうでしょう。ベスト8で負けても福原愛の試合は報道しますが、その大会で誰が優勝したのかなどはわかりません。

 先を競って、堀江報道合戦を各局が繰り広げる中で、他にも伝えることがあるのではないかなどと、考えた人は私だけではないと思います。報道機関には、新聞もラジオもありますが、その影響力という点ではテレビが圧倒的だと思います。それだけに、報道するがわの責任と自覚のようなものが一層強く求められるのではないでしょうか。

 楽しくなければ、本当にテレビではないのでしょうか(皮肉にも、そのようなキャッチコピーを流していた局が、彼のライブドアから買収工作を受けたりしましたが)。民放だけではありません。紅白歌合戦は、50%以上の視聴率でなければならないのでしょうか。その舞台裏について、勿体をつけて放送したり、事前に何度もプレゼン番組などを放送しているのを見ると失笑してしまいます。

 もちろん、胸を打たれるようなドキュメンタリー番組や、テレビでしか出来ないような社会問題に切り込んだ番組もあります。逆に言うと、そのようなときにこそテレビの力の大きさを感じます。目立たないところに光をあて、個人では対抗できない不条理な悪や力を告発できるのがテレビだと思います。

 そう考えると、そこに携る人の資質や持つべき誇りというものに、憂いを感じてしまうのです。


2006年 1月 17日            愛という字に夜中の薔薇


  

 記録的な豪雪により、全国各地で多大な被害と犠牲者が出ています。寒波が緩めば緩んだで、雪崩や洪水の心配が出てきます。何とか、ほどほどに折り合って欲しいと願うばかりです。

 
ころで、考えてみると私は、女流というか女性の書いたものは、あまり読んだ記憶がありません。もちろん、雑誌に掲載されているものや、新聞記事などはたくさ目を通していると思います。しかし、一冊の本として購入した記憶は、明確に持っていないのが事実です。

 とりたてて理由も思いつきませんが、漱石・川端・谷崎に始まり、吉川英二、司馬遼太郎、山本周五郎、井上靖、大岡昇平、渡辺淳一、五木寛之など、主だった作家を挙げてみても男性ばかりです。大体、男は男の目を通して描かれたものを好んで読むのかも知れませんが、意識して選んできたわけでもないのに、何故か女流作家の作品とは、あまり縁がありませんでした。

 しかし、この頃、向田邦子作品を読んだりしています。代表作の「阿修羅のごとく」や「あ・うん」、また、直木賞受賞の対象となった短編3作(花の名前・かわうそ・犬小屋)の入った「思い出トランプ」など、読んでいるうちに「いい感じ」の気持ちになってくるような作品がたくさんあると思います。

 本当に、「悪人」が登場しないドラマの中で、人間が生きている・生きていくために起きる悲しい出来事・うまくいかないことなどがあり、その中で人が人を思いやりながら、懸命に生きる姿を描いた作品が多いと思います。かといって、お仕着せがましくなく、読みやすい文章と絶妙の台詞まわしが、疲れた心を癒してくれるような気もします。

 向田さんは、81年(昭和56年)に飛行機事故で亡くなられました。そのときは、テレビドラマの寺内貫太郎一家の脚本を書いていた人だなあ、と思った程度でした。その頃の私は、三国志の主人公ともいえる諸葛亮孔明に心酔し、尭・舜・兎と続く三皇五帝以来の中国の歴史に登場する人物伝などに興味をもっていましたので、司馬遼太郎・陳舜臣などを良く読んでいたからだと思います。

 
 
あ・うんや阿修羅のごとくはテレビで何度も放映されましたし、思えば、あのドラマ「ありがとう」にも向田さんが書かれた脚本があるということです。また、東芝日曜劇場などのドラマでも、たくさんの向田作品を観ているのだと思います。そういえば、「おみおつけ」だの「おしんこ」などという言葉は、子供の頃「ありがとう」のなかで山岡久野と水前寺清子がやり取りしているのを聞き、東京ではそのように言うのだと感心した記憶があります。

 人間の持つ、強いところと弱いところを巧みに表現し、切実なドラマの中にも滑稽な場面や、ほのぼのとした光景を展開して見せてくれる、というのが向田さんのドラマだったように思います。どこかの世間の鬼がいるようなお話と違い、見終わった後や読後に清々しさが残る作品ばかりだと思います。

 著書を通して感じることは、向田さんの育ちの良さというものでしょうか。それは、血統や財産などという意味ではなく、きちんとした家族の中に育ち、きちんとした愛情を受けて育ったことが垣間見えるという意味です。何というか、私の信じたい性善説を感じさせてくれる部分があるように思います。

 一方で、気に入った手袋が無ければ、風をひいてもやせ我慢を通すような一面も語られてています。女流といっても、べとべとしたような感じがせず、さらっとした印象がするのは、そのような自分を素直に捉え、正直に表現されているからなのかもしれません。向田さんは、昭和4年生まれですから、私の母と同い年です。戦争を体験し、ものの無い時代を過ごされたと思います。

 そんな時でも、「先生がつまづいただけで、心の底から笑うことができた」と述懐されています。戦時下に、東条英機のものまねに興じあっていたという、心理学者河合隼雄先生ご一家のような、暖かい人の心の触れ合いを感じます。心は、だれも縛る事が出来ないのだ、ということを感じさせてくれる作家でもあると思います。私は、男ばかりの兄弟で育ちましたので、ほんとうに、向田さんのお話にでてくるような女兄弟がいたらなあ、と、思わされることもしばしばです。

 疲れた時は、「愛という字」のような洒落た大人のドラマの主人公になりきったり、「夜中の薔薇」という絶妙のエッセイに、くつろぐいでみるのも良いのではないかと思います。おまけに、その中にでてくる酒の肴などのレシピは、魅力的でとても参考になるものばかりです。



2006年 1月 4日             年頭雑感 
 


 

 新年、明けましておめでとうございます。私の住んでいるところでは、晴れた空が広がり、比較的穏やかな年明けとなりました。といっても、寒さは厳しく日陰には、昨年末の雪がしっかり残っています。

 年男も、4回目位になると複雑な心境です。人生わずか50年といわれた時代なら、老い先短い老人なのかもしれませんね。しかし、平均寿命の延びた現代では、若輩の一人に過ぎないような気もします。もっとも、あと何年生きられるかなどということは、だれにも分からない事ですし、保証されていることでもありません。

 
実際、昨年の終わりには、ほんの少し年上であった人の急死にも直面しました。その一方で、96歳になる祖母が、生に執着し、母の手を煩わせているのを目の当たりにもしています。かなり「ボケ」は進んでいますが、食後の薬は必ず催促します。「今、飲んだよ」と教えても、数分も経たないうちに催促するのです。事例を挙げればきりがないので、その状況についての説明は割愛しますが……

 それでも、何とかトイレや身の回りのことは出来ていたのですが、年末にかけて少し体調を崩し、今は市内の病院に入院しています。そんなわけで、今年は、ゆっくりくつろげるお正月とはなりませんでした。もっとも、私に何が出来るわけでもありませんので、もっぱら自分の用を足すという程度のことですが(母と家内の苦労とは、比べ物にもなりません)。

 何故、新年早々このような書き出しをしたのか自分でも良く分かりません。しかし、そのような祖母の姿を通して私が感じた事は、何年生きても人間は生に執着し、「悟る」ような気持ちになることは、本当に難しいものであるということです。親鸞と唯円を描いた「出家とその弟子」の中で倉田百三は、高僧の臨終を描きながら、そのことを見事に表現しています。

 頑固で、我がままであった父の時もそう思いましたが、人は、本当にたくさん他人(家族も含めて)の手を煩わせなければ、この世を去っていけないもののような気がします。もちろん、生まれてすぐこの世を去るような儚い命もありますが、失った人の背負う悲しみ・苦しみは、長年老人を介護して送ることよりも深いかもしれません。

 そう考えると、少しでも他人のために役立つことをして、この世を去っていきたいという気持ちが浮かんできたりします。もともと、自分を育ててくれた建設部門に対して、「技術者精神」の伝承などを通して恩返しをしていきたいと考えて、このH・Pを立ち上げたつもりでしたが、そのような気持ちも片隅にあったように思います。

 煩悩具足の身で、日々に追われて過ごしている私が、自身を棚に上げてでも、何かを伝えたいと思う気持ちは、そのようなところからも湧いてくるようにも思います。技術士試験についていえば、めまぐるしい試験制度の変更の中で、どれほどの支援や、お手伝いができるのかもわかりませんが……

 年が改まっても、気負うようなことはありませんが、くじけそうになる向上心を支える工夫を模索してみたいと思います。といっても、本当にいつも通りに、NHK・民法をリモコンでかけもちしてテレビを見て、ほろ酔い気分で初詣に行き、年賀状に目を通してから麻雀にでかける、というようなぐうたらな正月を過ごしました(多少の制約はありましたが)。

 重なるアクシデントのなかで、例年以上に各校の力が均衡し、接戦となった箱根駅伝も十分堪能しました。あれ位に、ひたむきになれた頃もあったように思います。また、本戦で走れない多くの控え選手や、出場できなかった大学の選手たちの思いが集約されていたことも、強く感じられる自分にはほっとしています。

 本当に、とりとめも無い「年頭の雑感」です。しかし、私は、このような日常の生活を通して感じたことを、書き綴っていきたくて、この欄を設けたようにも思います。また、コラムでありながら語り口調となっているのも、「語りかける気持ち」が強いからなのだと思います。

 繰り返しになりますが、自身の向上心を支える工夫の一つとして、これからも、このコラム欄を書いていきたいと考えています。


2005年 12月 26日        一年を振り返り一言


 

 暖冬の予報とは裏腹に、相次いで押し寄せる寒波がたくさんの雪を残していきました。また、その寒さのせいで、積もった雪が中々融けないで田圃に残っています。「景色」としては、風情がありますが……

 本当に、「気がつけば」という感じで、今年も一年が過ぎてしまいました。振り返ってみれば、「やりたいこと」に使わなければならないエネルギーを、「やらなければいけないこと」に使うことで、努力することから逃げる言い訳にしながら過ごしたようにも思います。

 そのように、私は日々に追われて暮らしておりましたが、今年、我が国では
様々な大きな出来事がありました。桜の花の散った後起きた、JR福地山線の脱線事故は衝撃的でした。107人という犠牲者が出た事もショックでしたが、我が国の鉄道の安全性について、全く認識を改めることとなりました。

 また、小選挙区制の特徴が良く出た9月の衆議院選挙では、自民党に強い風が吹き、小泉チルドレンと呼ばれる新人議員がたくさん誕生しました。この流れは、多少弊害もあるかもしれませんが、泥臭い利害関係や地縁・血縁に根ざした選挙にうんざりしていた私には、投票意欲を喚起させるものではありました。

 また11月には、技術者としてはとても信じられないような、例の耐震強度についての偽装事件が発覚しました。まだまだ、真相の究明や被害者の特定、責任の所在などについては、捜査のための時間がかかると思いますが、「もたないもの」を設計したり造ったりするということは、想像さえつかないことだと思います。

 一方、人間そのものが変わってしまった、と、いう風にしか理解できないような事件が、各地で発生しました。女性を監禁したり、惨殺したりした容疑者たちの顔立ちが、整った小奇麗な印象のなかに、無機質な笑顔を含んでいたことが、言いようのない不気味さと、彼らが育った背景の恐ろしさを感じさせたように思いました。

 また、小学生や幼児への虐待や殺害などの事件も相次ぎました。栃木の事件などは、いまだに未解決です。乱れていく風俗の中で、生身の異性とコミュニケーションできない若者が増えているように思います。市場原理と自己責任に基づく経済至上主義の浸透と、そのことによる貧富の差の拡大などが、一方でそのことを助長しているようにも思います。

 派遣会社や請負会社の隆盛などを見れば、一見仕事は豊富にあるように見えます。しかし、極力「考える」ことをさせない単純労働化が、その正体ではないでしょうか。問題となるのは、時給がいくらかというだけではないように思います。職人が誇りを持ってやっていたことさえ、時間当たりいくらの仕事に、ほとんどがなっていこうとしています。

 団塊世代の定年など、技術や技能の伝承が危惧されていますが、「頼まれても、納得しない仕事はしない」と考えるような職人気質の人間は、もうこの国では生き残っていけない状態になっているようにも思います。かつて、私たちの国の高度経済成長を支えてきた技術者や熟練工は、そのような職人気質を心に持っていたのだと思います。そのような技術者の発想に、耐震強度を偽装することなどが、浮かんでくるはずがありません。

 「ニート」という言葉を使えば聞こえが良いのかも知れません。しかし、単に、仕事をしていない若者を指すために、そのような言葉を与えなければならないのでしょうか?「働かざる者食うべからず」などという時代に育った人(今の日本を支えてきた人達)からみれば、到底理解できないことではないでしょうか。もちろん、そのニートになることで、負け組み(嫌いな言葉ですが)の中に組み入れられることは、避けられないと思いますが。

 少し話がぼやけましたが、アメリカに追随した経済至上主義を選択し、その方向に進もうとしている我が国が、アメリカ型の凶悪犯罪や、訴訟合戦のような主張する力の強さを競う方向に進むことは、避けられないことのように思います。やりきれない事件や犯罪などを通して、そのようなことが述べたかったように思います。

 暗い話題の多かった1年ですが、ワールドカップ出場決定や、高橋尚子選手の復活、岡山興譲館高校女子駅伝優勝など、個人的には嬉しいこともありました。技術士会・町内会活動など、来年は一層多忙になると思います。しかしそれでも、「自身が努力せずして、何おかいわんや」、というつもりで向上心を持ち続けていきたいと考えています。

 色々な形で私と関わりを持っていただいた方々に、1年のお礼を申し上げたいと思います。また、向上心を胸に努力を続けて居られる方々にエールを送りたいと思います。そのような皆さんの、来年が良い年となりますようにお祈りいたします。それでは良いお年を。



2005年 12月 8日        ニイタカヤマノボレ



 
早いもので、今年も師走をむかえました。私事ですが、すでに、いくつかの忘年会をすませようなた次第です。色々な方向に付き合いがあり、それぞれに「久しぶり」となってしまいますので、すでに予約で一杯です。うれしいやら、悲しいやらといったところでしょうか。

 さて、昨夜のテレビNHK「その時歴史は動いた」で、「シリーズ真珠湾への道<後編>」を見ました。我が国が、太平洋戦争に突き進んでいく真珠湾攻撃までの歴史的な流れと、最後までアメリカとの戦争回避に望みを託していた山本五十六長官の胸中を描いた内容でした。

 いみじくも、今日はその真珠湾攻撃の行われた12月8日です。その日から、60年以上が過ぎています。日本のことを憂い、大国アメリカとの戦争の回避を切に願い続けた山本長官の、落胆と無念は如何ばかりだったか「ああ、われ何の面目かありて見えむ大君に、将また逝きし戦友の父兄に告げし言葉なし……」と、生前に記された手記に胸が詰まります。

 山本長官の意に反し、「宣戦布告」の前にこの攻撃は行われました。実質的には、30分や1時間の猶予では、アメリカ艦隊も対応は不可能だと思いますが、この前の911テロ事件のときブッシュ大統領が「真珠湾以来の屈辱」とコメントしたように記憶していますので、「掟破り」の行為として日本にとっては大きなマイナスイメージとなったように思います。

 その後日本は、大国アメリカの圧倒的な経済力を背景とした物量作戦と軍事力の前に、300万人を超える犠牲者を出し悲惨な敗戦をむかえることとなりました。もちろん、あの時点で戦争が回避されていても、当時の軍部主導の政治と世界情勢から考えれば、同じような結果をむかえていたのかもしれません。

 ただ結果的には、進駐してきたアメリカの指導のもとで、その後の高度経済成長時代を迎えていくわけです。今でも、「列強」としての地位を我が国が占めていれば、徴兵制なども残されていたでしょう。アメリカの庇護の下に、経済のみの発展を追いかけて、すさんでしまった今が良いのか悪いのか解りませんが、このように、思ったことを自由に述べられることだけは良いことだと思います。

 もっとも、心理学者の河合隼雄先生のお宅では、あの戦時下でも東条英機のものまねなどをして、家族でふざけあっていたというお話を聞いた事があります。したがって、どんな時代であっても人々の心までは拘束できないし、家族の絆もまた引き裂けないものなのではないでしょうか。

 少し話がそれましたが、今日、あの悲惨な戦争を知らない人々を中心にして、危険なタイプの国粋主義的意見を耳にすることがあります。少ない知識をもとにしたうえでですが、公平に考えても、中国や韓国の歴史認識や、国内における歴史教育が正しいとは思えませんし、中国などの行っている軍事力の強化や対外姿勢などはむしろ脅威的です。

 しかし、きちんとした主張をすることと、「目には目を」という考え方とは相反するように思います。我が国を代表しているはずなのに、面倒な事や厄介なことはすぐに先送りや、棚上げしようとする外交交渉などを見るとうんざりします。それでも、「昔のようなやり方」にだけは戻って欲しくないと思うのです。

 戦争は、本当に悲惨です。実際に体験していない私が、語れることではないのかも知れませんが、本当に心からそう思います。そんな私の感覚から類推してみても、大人から子供へと語り継ぐ事が大切なんだなあと思います。同じNHKの番組ですが、今年の7月に「僕らは玉砕しなかった~少年少女たちのサイパン戦」というのも見ました。

 内容については、別の機会にでも触れたいと思いますが、父に諭されたりとかただ無意識にとか、そのようにして奇跡的に生き延びられた人達が、人生の終わりを迎える頃に重い口を開いて語りかけておられました。テニアン島(エノラゲイ号の飛び立った)でのカジノに興じたり、白い砂浜とエメラルドグリーンを基本とした美しいさんご礁の海……私の過ごした「休日」とは大きくかけ離れていて、とりわけ強く心に残っています。

 新高山(日本で一番高かった山)はもう他国の山となりました。連合艦隊の集結したヒトカップ湾も実質的にロシア領のままです。あの頃、ニイタカヤマノボレを胸に祖国を守るために戦った人々や、バンザイクリフから飛び込んだ多くの民間人犠牲者のことを思いながら12月8日を考えています。



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