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NO.12

2007年 6月 8日            旧友再会 

                     


 
ほんの一週間位の間に、まわりの田圃では田植えが終わりました。乾いた土色だった景色は、水をはった水田のそれへと変わりました。秋の稲刈り時期同様、田舎の景色が一番変化する時だと思います。

 どうも、5月は総会月などとも言うそうで、私もたくさんの総会なるものに出席しました。正確には、まだこれからというのもあります。地方では、自治会組織の役員が、「あて職」としてその任にあたる役職などは以外に多く、実に様々な組織の集まりに顔を出すようになってしまいました。それなりの地位の人や、高い見識を持たれた人と話す機会も増えましたが、時間がもったいないなと感じる場面も多々あります。

 まさに、多くの出会いや別れを繰り返すのが人生というものなのだと思います。その中で、井の中の蛙状態であった人間関係が、ここ数年で一気に広がったようにも思います。そのことが、良いことなのか悪いことなのかはよく解りません。しかし、これまでの人生を振り返って考えてみると、人には、何度かそのような時期(大きく変化する)があるようにも思います。

 さらに、そのように知己が広がって行く過程で、思いがけず、中学時代の親友と再会できる場面などもありました。三十数年ぶりに語り合い、杯を重ね楽しいひと時を持ちました。それからは、お互いに多忙な身ですが、暇を見つけて美味い酒を飲んだりしています。現在は、その中学生の時に「三人組」であったもう一人の同級生に連絡をつける努力をしています。

 こちらの方は、遠方に住んでいるので、ちょくちょく会うということは出来ないと思いますが、杯を片手に話してみたいことは山ほどあります。それぞれの事情で、それぞれ違う高校に進みましたので、その後の人生において各々親しい友人や大切な人はできていると思います(私自身もそうです)。それでも、会えば即座にあの頃に帰れるのだと思います。

 とにかく、知識だけを詰め込んだ頭でっかちな状態で、体のほうは「やっと毛が生えた」というような感じの頃でした。私が彼らと出会ったのは、まさに、これから思春期を迎えるという時期だったのだと思います。それぞれ、別の小学校から出てきて、たまたま同じクラスになったことがきっかけで、とても濃い付き合いを私たちはしていたと思います。

 考えてみれば、当時は携帯電話などもありませんでしたし、それぞれに内容の濃い高校生以降の暮らしをしていたのですから、自然と交流も無くなっていったのだと思います。「思えば遠くへ来たもんだ」という程に、それぞれに人生を歩いてきて、その中でできたお互いの人間関係が、どこかで重なり合って「旧友再会」が出来たのだと思います。

 旧友再会といえば、河島英五が晩年に作った曲です。その頃、テレビ番組の挿入歌としても流されていました。骨太の声で「今日の酒は美味かった……」と唄う彼の歌は、いつ聴いても心に沁みていきます。若葉の頃になると、河島英五を思い出すという話は以前にもしましたが、生前、ほんの数メートルの距離で、スタインウエイを弾きながらの河島節を聴けたことは、私の財産の一つであるとも考えています。

 また、酒に関して語れば、昔から多くの人がたくさんの詩や歌を残しています。井伏鱒二が「この杯を受けてくれ……」と訳した干武陵の勧酒はあまりにも有名で、最後の「さよならだけが人生だ」の部分などは多くの文人が引用しています。さらに、別れに杯を合わせるという詩では、王維の「元二の安西に使いするを送る」が送別の詩の代表作といわれています。君に勧む、さらに尽くせ一杯の酒。陽関を出たら酒を酌み交わす友もいないだろう、と、いう件は一度はどこかで聞く文句だと思います。

 その王維は、李白や杜甫とほぼ同時代の唐の詩人ですが、なんといっても私の心を揺さぶるのは、阿倍仲麻呂と親交があったといわれている点です。また、仲麻呂は李白などとも親交があったといわれています。異国の地で名を成し、日本人の誇りともいえるような人ですが、ついに帰国は果たせませんでした。

 先程の王維の詩は、仲麻呂のために作られたものではありませんが、そのような熱い友情に裏付けられた交わりを、仲麻呂が李白や王維たちと交わしていたことは、容易に想像ができることです。そのように考えると、胸が熱くなる感情を抑えられなくなるのです。さらに、そのような視点から「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」という歌を読む時、故郷を思う仲麻呂の気持ちが彷彿されるように思います。

 それでも、異国の地にありながら彼の才能を理解し、親しく心を通わしあえる高い素養を備えた友人がいたことは、大変幸せなことだったのではないでしょうか。河島英吾五の旧友再会を聴いていると、人生は長さではなく、どれだけ充実しているかなのではないかと素直に思えるような気がします。

 解りあえるる友や、いたわりあえる人が確実にいるという実感は、本当に大切なものだと思います。


2007年 5月 25日         メダルよりゴールすること  

                     


 
若葉の色もすっかり濃くなり、初夏を思わせるような日が増えてきました。本当に、清々しい季節となりました。何となく「作業」ではなく、スポーツで体を動かしたい気がします。

 私は、見るのもやるのも、スポーツは好きな方だと思います。そして、見ているときにはどうしても、やっている選手の気持ちに入り込んでしまうような傾向もあります。そんなところに、ミーハー的スポーツファンを自認している所以があるのかもしれません。

 さて、少し前のことですが読売新聞の紙上において、「時代の証言者」という欄がありますが、そこにマラソンの君原健二さんの回顧録のような記事が連載されていました。読まれた人も、たくさん居ることだと思います。本当に、謙虚で誠実な君原さんの人柄が、伝わってくるような内容だったと思います。

 以前にも述べましたが、マラソンランナーという言葉を聞いて、私が最初に思い出すのは君原健二という人です。何といっても、一番多感であった少年期に見ていた選手ですし、本などを通じてその人となりを知ることによって、さらに惹かれた人でもあるからです。今でも、メキシコオリンピックのときの「君原、夢遊病者のようであります。」という実況と、首を振りながら倒れこむようにゴールした姿を思い出すと、目頭が熱くなってしまいます。

 その時、私はまだ十歳でした。それなのになのか、それだからこそなのかわかりませんが、白黒画面で見たその時のテレビ映像は、それ程強く私の心に残っています。後に「僕はなぜ走るのだろう」という本を読んで、そのメキシコの栄光は、東京での挫折の上にあったことや、そこにいたる葛藤、親友でもあった円谷選手の死など、多くのエピソードを知りました。

 それから、マラソンレースにおいて一度も棄権していないということも、私が君原さんを尊敬してやまない理由でもあります。また、「あの街角まで、あの電柱まで」「全レース棄権ゼロ」というキャッチコピーで、「すててはいけない君の人生」という映像広告にも出演されました。「時代の証言者」の中では、6~7年前に訪ねたアテネで、現地の商社マンから、あの広告を見て若いころ自殺をふみとどまった、というお話を聞かれたことが述べらていました。

 さらに君原さんは、実体験からメダルを取ることよりも、ゴールすることの大切さを強く語っておられます。そのためには、自分のペースで走り、苦しければペースを落とせば良いのだとも話しています。その上で、もうだめだと思った時に、あの角まで、次の電柱まで、あと500mだけ、もう一周だけ走ってみようと身近な目標を立てれば、何とかがんばれるものなのだと説いています。

 途中で投げ出さず、兎に角やってみなければわからない、或いは、つかめないものはたくさんあるのだと思います。そして、君原さんがやり続けられたように、ひたむきに何かに打ち込んでいった人にこそ、意義深い出会いや、暖かい触れ合いが訪れるのではないでしょうか。「マラソンを通じて多くの人と出会い助けられた」と、君原さんも時代の証言者の中で述懐されています。

 意外な点では、あの破天荒で一世を風靡した漫才師の横山やすしさんが、君原さんに弟子入りを志願していたようなお話もあります。「弟子入り」というよりは、マラソンを走りたい(別府毎日マラソンをめざしていたらしい)ので、出場手続きや練習方法などについて、教えを請いたいというようなことだったらしいのですが、まだ無名であった横山師匠は本当に熱心であったようです。

 その後、タクシーの運転手を殴る不祥事で横山師匠は、地元陸上協会から登録を取り消されてしまい、興味をボートの方に向けていくことになるわけです(もし、走り続けていたなら、師匠の人生ももっと違っていたのでは……)が、君原さんとの交流は続いたようです。話はそれますが、西川きよし師匠同様に、先入観を持たず人を見極める君原さんの姿勢が、やんちゃな横山師匠の心を開かせ、惹き付けさせたのではないかとも思います。

 そのように言えば、人は一人では生きていけず、常にだれかの影響を受けながら暮らしています。しかし、せっかく良い出会いをしていても、自分にそれを感じられる力が無ければ、気がつかないか、良い影響をもらえずに通り過ぎることもあります。一方で、同じ時代に、同じように君原さんを見ていても、その生き方に「感銘」を受けていたとしても、自身の行動への反映という点では、全く人それぞれ異なってしまうものでもあります。

 これからも、体の続く限り人生のゴールを目指して走り続けたい、と、君原さんの文章は結ばれています。そのことを考えると、いつまで熱く透徹した眼差しを持ちつづけながら、軽くなり続ける言葉の氾濫の中で、志について語り続けていけるのだろうなどと案じられる自分の弱さに、「静かなる闘志」を呼び戻さなければと思うばかりです。


2007年 5月 11日         大人の都合


   

 
ゴールデンウイークが終わりました。考えてみれば、子供連れで遊びに行かなくなって、随分と時間がたちました。親が、子供に強く影響できる期間なんて、本当に僅かな間なんだなあと考えたりしています。

 いつのまにか、西部球団の裏金問題が、高校野球における特待生の是非などというあらぬ方向に展開していますね。元々、アマチュア野球の規範である日本学生野球憲章の第十三条二項に書かれている、職業野球団その他から選手に対する、雇用や契約を前提とした金品の支給などを禁じた条項違反(西部がスカウト活動の一環としてアマチュア選手に「栄養費」を渡していた事件)がことの発端であったと思います。

 しかし、その日本学生野球憲章第十三条には、問題の第二項の前に第一項が有ります。実はそこに、選手又は部員は、選手又は部員であることを理由に、学費・生活費その他の金品を受け取ってはならない旨が記載されています。これは私の邪推ですが、西部に端を発した問題に関して学生野球憲章第十三条を繰り返し読んでいると、どうしても第二項の前の第一項を読まねばなりません。その結果、早急な「つじつまあわせ」が必要になったのではないかと思われるのです。

 件の問題が発覚した時、日本学生野球協会はドラフト制度などの問題点について、プロ野球側に改善を求めることを念頭においていたはずです。それは、崇高なアマチュア野球の精神に則って肉体と精神の鍛錬に励んでいるはずの、学生野球に打ち込んでいる選手たちと、学生野球はじめとするアマチュア野球界を守ることが想起されたのだと思います。

 そのような動きの中で、同協会に属している高野連の幹部の脳裏に、前述の学生野球憲章第十三条第一項に関する懸念が浮上してきた、もしくはこれとの整合を図る必要が生じたと考えるのが自然であると思います。しかし、そこにはくさいものに蓋をするような、あるいは本当に行き当たりばったり的に、問題の早期解決を図ろう意図する「大人の都合」が見えてしまいます。

 そもそも日本の野球界は、アマチュアとプロの間に複雑な問題を抱えており、野球という競技を統括するような組織も無く、過去の大きな国際大会などのたびに、主となる組織が変遷していくような状況を繰り返してきました。同じアマチュアでも、学生野球と社会人野球の組織があり、それぞれの組織の間で複雑な取り決め(選手登録など)や問題を抱えているのだと思います。

 野球界の抱える問題などには、もとより言及する気はありません。しかし、今回期限を定めて「調査」の名の下に「自首勧告」のような犯人探しをした結果376校(内公立校1校)7971人が「該当者」となりました。該当者となった学校は、春季大会への出場を辞退する動きとなっています。一見厳しいようですが、この春季大会というのは全国大会へはつながらず、夏の甲子園大会に向けた予選時のシード校を決める程度の位置付けです。

 最初に名前が出た専大北上高校が、野球部を解散し同好会とする処置をとったようですが、夏の甲子園への道が閉ざされたのかどうかは解りません。また、関東の春季大会においては、有名私立校がコールドゲームで敗れたり、公立校に競り負けたりする事態が起きているようです。一方、野球部長が引責辞任したりする動きもあります。その上で、該当する高校は5月中に特待制度を解除することで、6月以降の対外試合が許されるようです。

 何か、胡散臭いというか腑に落ちないものを感じずにはいられません。だいたい、野球に限らず私立校において、スポーツ・学業・芸術などの面に優れた特待生が存在することを、知らない人がどれほどいるのでしょうか。また、そのことが悪いことだと思っている人がどれほどいるのでしょうか。報酬を貰うようなことは別ですが、私自身もそれほど悪いことだとは思いません。また、特待の内容にもいろいろあり、能力により免除される学費の額なども違います。

 さらに、松井選手やイチロー選手などの生い立ちを見ても解りますが、野球というスポーツにはかなりお金がかかります。優秀な資質を備えた選手が、金銭的な理由で夢を断念することよりも、野球を志すことのインセンティブになるなら、特待制度も意義があるといえるのではないでしょうか。実際には行きませんでしたが、私自身も数校の大学からソフトテニスで声をかけてもらったこともあります。

 その制度については、実態を踏まえて選手に不利益が無いように配慮されることが期待されます。しかし、私がいやあな感じを抱くのは、一連の流れの中で感じる「大人たちの都合」という部分です。長年の自分達の怠慢や無策を尻目に、ことが起きると、にわかじたてのアマチュアリズムや自浄活動を振りかざし、選手や指導者を犠牲にするようなことで良いのかということです。

 どんなに取り繕っても、子供達はそんな「大人の都合」なんか見抜いているのではないでしょうか。


2007年 4月 27日         志を問いたい




 
好むと好まざるとに関係なく、色々な雑用ばかりが増えあわただしく過ごしています。4月恒例のお花見宴会シリーズも、今日の同期部活組の集まりが最後となりました。残念ながら、今年は桜の下でというわけには行きませんでしたが……

 ようやく、統一地方選挙が終わりました。本当に、ようやく終わったという感じです。まったく、地方の市町村における議員の選挙などというものは、政策や志などはあまり関係がなく、地縁・血縁及び仕事のつながりなど、俗物的な結びつきに根ざした投票行動となります。しかも、田舎に行けば行くほどその傾向は強く、投票率さえも上がっていくのです。

 そのような中で、自治会組織というものの位置付けはかなり大きく、都会の人には想像もつかないほどの影響力があります。私自身、自治会組織の長としてそのことを痛感したというのが素直な感想です。もちろん、選挙が始まる前から、公の立場の人間として「色」をださないことを明言していたのですが、実際には、自治会による推薦などをすると(地域内に一人しか居なければ、推薦の要請を断ることは難しい。)、候補者のために、マイクを持たなければならない場面も出てきます。

 そのこと自体は、自治会として決めたことですから仕方がありませんし、それで良いと私は思います。それでも、私自身の権利を行使するという観点や、田舎におけるしがらみの多い人間関係などを考えると、非常に窮屈でデリケートな行動をとらなければなりませんでした。自分なりには、まず無難に行動できたのではないかと思いますが、実際にかなり影響も与えたようですし、精神的には非常に疲れました。

 それでも、選挙によって選ばれた議員の人達が、本当に市民のことやこの市の行く末を考えた議員活動をしていただけるのなら、その苦労の甲斐もあるのだと思います。しかしながら、選挙が終わってもあまり気分が晴れないのは、そんな志のある人がどれほどいるのだろうか、などと考えてしまうからかもしれません。中には、四年間分の就職活動が終わった位にしか、感じていない人もいるのではないかと思うほどです。

 そのようなことは、この国の地方部においてはどこでも同じなのかもしれませんね。例えはあまり良くありませんが、凶弾に倒れた伊藤長崎市長の後を受け、娘婿という人が急遽立候補しましたが、このような「弔い合戦」的な選挙は、日本人には比較的受け入れられ易いのも事実です。また、世襲的な立候補などは、かなり大きな選挙でもよく見かけます。

 先日、テレビを見ておりましたら、政治家・画家・作家など「家」のつく職業は、その個人の資質や能力に根ざしているものなので、単に血縁があるというだけで世襲することは難しいと、ワイドショーのコメンテーターが語っていました。それを言うなら、医師・弁護士・公認会計士なども同じことで「跡を継いでやらなければならない」職業などはないはずです。

 大切なのは、その職や任に着く際の「志」なのではないでしょうか。また、その志をいかに持ち続けるかということだと思います。その職を通して、世のため人のために役に立つのだという志が無ければ、多い少ないは別として、収入を得るために就職するということにしかならないでしょう。また、せっかく目標の地位に着いたとしても、当初の志を持ち続けることができなければ、それもまた同じことに他なりません。

 二言目には、志という言葉を持ち出すように思われるかもしれませんが、それが無ければ「世の中の役に立つ」仕事はできません。また私は、単なる精神論だけを述べるつもりもありません。最も効率的に、コストをかけずに社会環境を改善していくためには、教育により個人の資質(倫理観を含めた)を向上させることが、実は(遠まわりに見えて)一番の近道だと考えています。

 逆に言うと、どのように合理的に法整備をしても、知識偏重で曲学阿世の人間ばかりが増えたのでは、その網目をくぐって不正を試みるものが続くばかりだと思います。今日、欧米に倣って刑罰は厳重化の方向にあります。また、希薄な人間関係を象徴するように、潤いのない規則や取り決めばかりが増えています。実際には、そのことによりコストもアップしていますし、我々は自分達で自分達の首をしめて、生活しにくくしていっているのです。

 そのように考えると、自ずから生きていく方向性は見えてくるように思います。また、自分自身で考えてみても、一人の人間にできることなど僅かなことだと思います。考えてみれば、人間が頭で知ることができることなども、本当に少しばかりのことなのだと思います。それならば、少しでも世の中の役に立てるために、その知識をつかうべきなのではないでしょうか。

 そのために、志を問い続けたいと思います。もちろん、自分自身に向かってが最初ですが……

 
 

2007年 4月 13日         我慢をするというこ


  

 桜が、散り行くのにおわれるように、花見に地域のお祭りなど、もはや定番となりつつある行事を、あわただしくこなしている日々です。それぞれれに、胸が熱くなったり心に力を貰ったりする場面があります。中々忙しく、疲れることも多々ありますが、充実しているといえるかもしれません。

 さて、
「キレる」という言葉が、この国に定着してどれ位になるでしょうか。少なくても、私が子供だった頃にはそんな言葉はなかったように思います。そもそも、キレるようなこと(行為も行動も)は、社会的に許されていなかった(恥ずかしいこととして)ようにも思います。例えば、頭にくるとか、我慢の限度を超えるというようなことはあったとしても、そこから先の行動は全く違うものでした。今のように「キレる」ということは無かったと思います。

 何につけ、言葉の軽くなった我が国では、物の本質をつくような表現よりも、イメージ的な表現が好まれる傾向があります。例えば、少女売春を援助交際と呼ぶようなものです。さらに、働かない若者をニートと呼び、そのことにより問題の深刻さを直視したがらない傾向もあるのではないでしょうか。

 物事は、言い方を変えても本質は変わらないものです。横文字にすれば、何となく耳に馴染みやすくはなりますが、ニートが働かない、或いは働けない若者であることに変わりは無いのです。お金を出して少女を買えば、それは売春(買春)以外のなにものでもありません。

 一方で、その言葉を使う人間について、意識が変化していることもあるでしょう。古臭い人間なのかもしれませんが、私などは「プライド」と「誇り」ではかなり違うイメージを持ちます。「あいつは変にプライドが高い」と「日本人としての誇り」という程に、使い方も違ってきます。

 少し、キレるということと話がそれました。しかし、背景にはこの国の言葉についての、そのような変化が隠れているのではないでしょうか。それと、現代の社会を見ていると、問題を直視し、真剣に対策や方策を考えて行こうとする人間が減っている、というか、そのように考える(考えられる力を持った)人が、本当に少なくなってしまっているように思います。

 例えば、きちんとした価値規範を備え、社会に役立つ人間を育てることが教育であると思います。しかし、きちんとした価値規範を示せる大人がどれだけいるのでしょうか。少子化で少なくなっていく子供達の顔色を窺いながら迎合し、彼らに受け入れられることが、理解のある大人であるかのような感覚を抱いている人は多いのではないでしょうか。

 そのような感情と、変な欲望とが交じり合うとき、簡単に「援助交際」が成立するのではないでしょうか。子供に対して、きちんとした価値規範を示すためには、きちんとした大人でなければならず、本当に大変なことだと思います。本来、私のようなやんちゃな育ち方をしたいい加減な人間が、こんなことを述べるべきではないのかもしれません。

 しかし、このような憂いを感じる気持ちは、年々強まるばかりです。実際に、大人になるためにはたくさんの「我慢」が必要なはずです。技術や技能の習得についてもそうですが、辛抱強く我慢しなければ身につけられないものが、世の中にはたくさんあります。とりわけ私は、人としての情緒間についても、同じようなことがいえると思うのです。

 再び話は変わりますが、少し前にNHKBSで「明日のジョー」をとりあげていましたね。私たちは、リアルタイムで少年マガジンを読み、テレビを見た世代です(再放送を含め)。ジョーについては、別の機会に述べたいと思います。今ここで言いたいことは、その時代と今の違いについてです。明日のジョーもそうですが、巨人の星など人気漫画の多くは、ほとんど主人公の苦労が連続して描かれ、活躍や栄光の場面はほんの少しです。

 見ている側にも、相当のストレスがたまり、かなりの我慢強さが必要なのです。その後にヒットしたドラマ「スクールウォーズ」などもそうですが、簡単にはハッピーエンドにはならないものでした。そのような漫画やドラマが今流行らないのは、それを見る側において、辛抱強く見る力が弱くなったからではないでしょうか。小さな努力をこつこつ積み上げていく物語よりも、圧倒的な力や能力をもったヒーローが登場し、いとも簡単に問題を解決するお話の方が、簡単ですし見ている側も楽だからなのだと思います。

 情報があふれ、高邁な理屈をこねるための知識の収集には、ことかかない状況はさらに進んでいくのでしょう。そんな中で、「大人にならなければできないこと」がどんどん無くなっていく現代社会において、我慢することをしらない、或いはそれをせずに育つ人間が増えていくことは、本当に大きな問題だと思います。義務や責任を伴わない権利、或いは規律なき自由ばかりを追求する傾向が強まる背景には、そのようなキレやすい人間が増えていることがあるのだと思います。

 そして、そのような人間を育てているのは、まぎれもなく私たち「大人」といわれる人間なのではないでしょうか。

 

2007年 3月 30日         心の処方箋をかける人


 


 暖冬の後の、ぶり返しのような花冷えがしています。気象庁のデータ入力などに関係なく、ほぼ平年並みに桜が咲き始めたようですね。

 私には、「
気になっているけど確かめたくない」ことがあります。それは、2006年8月に奈良のご自宅で脳梗塞に倒れられた河合隼雄さんのご容態です。最も近い情報として、本年1月17日に文化庁長官としての任期が満了した、という記事を読んだ位で、倒れられてから今日まで、病状に関するものを含めて、詳細な状況が報道されたことは無いように思います。

 河合さんといえば、日本におけるユング心理学の第一人者として有名です。また、私は「心理療法家」という言葉(および、そのような仕事があること)を河合さんの存在を通して知ったように思います。さらに、簡単に言えば「父と娘」の関係を基本とするフロイト的な考え方よりも、「母と息子」の関係を基本として考えるユングの心理学の方が日本人に向いている、というようなお話をテレビでされていたのを聞いたこともあります。

 そのテレビ番組では(NHKの教育番組だったと思いますが)、明恵上人についてのお話をされてもいました。夢占いとか、深層心理などに関する考え方など、少なからず影響を受けました。また、ユーモアを交え難しいことを簡単に説明される話し方は、穏やかで独特の優しさがあり、とても聞きやすい感じがしました。

 以来、「明恵夢を生きる」・「とりかえばや男と女」・「日本人とアイデンティティ」・「こころの処方箋」・「猫だましい」……など読むたびに面白く、納得させられる著書に数多く触れさせていただきました。村上春樹・谷川俊太郎などとの共著も多く、心理学者という視点から、心の問題やあり方について、とてもわかりやすく解説されている著書が多いと思います。

 また、非言語的な表現をすることが多い日本人に向いていると、箱庭療法を我が国に紹介し普及させた人でもあります。心理療法家の仕事について「ただ、お話を聞くだけです。」といいながら、それは時として「命がけの厳しさや難しさがある」とも語っておられます。

 今日出海・三浦朱門に次ぐ民間人からの文化庁長官となられ、二度にわたる留任要請を受けての任期半ばで、病魔に倒れられました。私同様、心配している人は全国にたくさんいると思います。出身地である兵庫県丹波篠山での思い出話は、身体を使って仲間と遊ぶことの面白さについて、その楽しさと大切さを説いておられました。

 その頃のお話で、私が最も印象の残っているのは、戦時中であっても笑いを忘れない家族であったと述懐されていることです。兄弟の多い家庭で育ち、ご両親をはじめ、多くの人の愛情を受けまた与えながら、育たれたのだと思います(父親が医者で、母親が元教師というのは、恵まれた環境のような気もしますが)。

 ただ、そのような物質的なものでなく、東条英機のものまねをして笑いあいながらも「これは、家の中だけにしておこう」と話し合っている光景などを想像しますと、社会の緊張感と家庭の温もりが同時に感じられますし、どんな時代にも「生き延びていかなければならない」という身の処し方なども、自然に養われていくようにも思います。余談ですが、今の北朝鮮にそんな家庭があるのでしょうか。

 私にとっては「心はごまかせても、魂に嘘はつけない」という考え方を、強く印象づけられた人でもあります。そういえば、初めて技術士二次試験(筆記試験)に合格し、東京での口答試験にいった時、同じ新幹線に河合先生が乗っておられました。グリーン車から降りてこられたのを見て「どこかで見た人だなあ……」と一瞬思い、すぐに河合隼雄さんだと気がつきました。

 その時、乗降客は大勢居ましたが、そのことに気がついたのは私だけだったと思います。一瞬目が合って、少し戸惑いながら微笑んでおられたようなきがしました(気がついた?という感じ)。軽く頭を下げ、通り過ぎるのを見送りましたが、あの時にサインでも貰っておけば良かったのに、などと考えたりもします。実際には、あの雑踏の中ではいかんともしがたいことですし、それほどアグレッシブに行動できる自分でもありません。

 いずれにしても、もう一度あの独特の語り口で、人間の心の奥のお話を、聞かせて貰いたいと願うばかりです。一日も早く、お元気になられることをお祈りしたいと思います。


2007年 3月 18日         「欧米」よりも日本の心




 
暖冬といわれ、暖かい冬が続きましたが、ここに来て寒い日が続いています。先日も、寒い体育館で行われた卒業式に行ってきました(そのせいか、風をひいております)。卒業式では、感動の涙を流す生徒も見られました。いくつになっても「感じられる心」を持ち続けてもらいたいなあと思いました。

 さて、先日、高知龍馬空港にボンバルディア社製のプロペラ機が胴体着陸しましたね。幸い、乗客・乗員60名に怪我なども無く、大事には至りませんでした。冷静な判断と、的確な操縦をされた機長に敬意を表したいと思います。どうも、聞くところによるとこのボンバルディア社製の飛行機は、トラブルの発生回数が多いようですね。

 国土交通省の事故調査委員会によりますと、前輪の格納ドアにある格納ドアをロックするボルトに不具合があり、一本外れてしまい、これがドアが開くのを阻んでいたとのことです。問題のボルトが何故外れたのかとか、構造上(設計上)の問題や、製造過程に不備があったのかなどについては、これからの調査を待つよりしかたないでしょう。

 テレビ朝日のワイドショーでやっていた数字では、他の航空機に比べて、ボンバルディア社製の飛行機によるトラブル発生件数は、一桁違っていたように思います。また、同社の発表でも、DHC8シリーズという同タイプの飛行機が、過去7回胴体着陸をしており、そのうち4件は機体の不具合であるといっています。

 早速、ボンバル社から副社長などが国交省や高知県を訪れ、謝罪を行い記者会見をしました。その一方で、構造上の欠陥はないという見解を示し、短時間で多くの離着陸を繰り返す日本の航空事情にも対応できる設計がなされていると述べました。日本だけで、このようなトラブルが多発(頻度の問題なので、そう言って良いかどうかわかりませんが)しているのでしょうか。

 いずれにしても、ボンバル社の副社長という人は、せっかく高知まで足を運び、橋本知事に面会し謝罪しながら、一泊したにも関わらず事故機を見ずに羽田に帰られたようです。もちろん、同行のエンジニアなどがきちんと状況を把握しているのでしょうが、日本人的な発想からいうと、そんなもんなのかなあという気もします。

 また、中々表面にはでてきませんが、安全より経営を優先する傾向にある航空会社の姿勢についても、不安を感じざるを得ません。全日空の子会社の乗員組合で作られている日本乗員組合連絡会議などは、先行導入していたヨーロッパの状況などから、かなり早い段階から懸念を持ちアピールもしていたようです。

 かつて、日本の公共交通機関には「安全神話」のようなものがあり、または求められていました。さらに、時刻表通りに列車が発着するのも当然のことのように思われていた時期もありました。事実、少年期から青年期の私はそんな風に考えていました。

 しかし、列車事故や航空機の事故などが起こるたびに、よくよく考えてみると100%安全ということはないんだなと思うようにもなりました。「リスクはある」のだという観念を持つようになりました。考えなくても、人間がやることや機械を用いることですから、絶対に安全であると、言い切れるものはあるはずがありません。

 話は少しそれますが、2月に中国学園大学の多田幹郎先生から「食の安全」についてのお話を聞く機会がありました。リスクの無い食べ物は無く、○とか×という判断基準でもないなど、食品に関するリスクと安全性の関係などについて勉強させていただきました。リスクについて科学的に評価し、消費者の意見を尊重しつつ、食品の安全確保のための適切な管理を行うことが大切であるということでした。

 この時に、取るに足らないリスクと無視できるものや、受入可能なリスクという考え方の基本となるために、薬品などでいう最大無作用値となる基準値のような考え方がでてくるのだと思います。例えば、この農薬などでいうところの使用基準のような値があった時に、欧米人と我々日本人(本来の)のものの考え方が、根本的に違うように私は思います。

 牛肉の安全性について、ごり押しともとれるようなアピールをするアメリカ的発想では「基準値までなら良い」と考えるのではないでしょうか。一方、かつて我々が後姿を追いかけていた日本の技術者の発想では「限りなくゼロを目指す」のだと思います。もちろん、そのような姿勢を持っていてもリスクをゼロにすることはできないでしょう。けれども、同じ危険性のリスクが確認された場合でも、その「取り組む姿勢」の違いにおいて、消費者や利用者が得る印象は全く違うように思います。

 きちんとした情報公開という点についても同様ではないでしょうか。リスクについての判断を消費者や利用者に任せるといっても、提供される情報に問題があれば全く成立しないお話です。技術者倫理などの考え方についてもそうですが「名こそ惜しけれ」という武士の精神のような、本来の日本人が備えていた高い精神性が、今日失われて行こうとしているように思います。

 持つべきは、本来の日本人の精神ではないかと思います(特にエンジニアは)。

  


2007年 3月 2日         精神に根ざすスキル




 冬が無いまま春がくる、まさにそんな感じですね。暑がりで寒がりの私ですが、この暖かさを喜ぶ気にはなれません。冬が寒いからこそ、
春の暖かさがありがたく感じられ、桜の花を愛でる心も芽生えてくるのではないでしょうか。この国の四季が、いつまできちんと繰り返されるのだろうと、思わずにはいられません。

 さて、先日のラグビー全日本選手権の、東芝対トヨタの試合は見ごたえがありましたね。ミーハー的ラグビーファンの私ですが、最近は学生と社会人の力の差が開きすぎたせいと、そのことによって、全日本選手権が成人の日に行われなくなり、複雑な試合方式になったこともあり、よほど気になる試合しか見ないようになりました。

 そんな中で、清宮サントリーを破ったトヨタと、東芝府中からチーム名を改め、連覇を狙う東芝の間で争われた全日本選手権の決勝戦は、なるほどこれでは学生が相手にならない、と頷かせるようなレベルの高い試合であったと思います。多少、選手同士がエキサイトする場面もありましたが、気合の入りかたから考えると、ラフプレーや反則の少ない(目に見えないところでのやりあいは、ラグビーにはつき物だという前提で)試合だったと思います。
 
 本当に、ラグビーというスポーツは不思議な競技で、レフェリーが反則をしないように注意しながらプレーが進んでいったりします。ペナルティやロスタイムの取り方など、かなりレフェリーの主観にゆだねられています。基本的なルールはあっても、双方の選手が良い試合をしようと意識しなければ、試合そのものが成立しないような側面もあります。そのような意味から考えても、内容のある試合であったと思います。

 なによりも、個人個人のフィジカルとスキルは、以前に比べてかなり上っていると思います。もちろん、アイイ、オト、バッツベイなど外国人選手の活躍もありますが、かつてのように、外国人選手に強く依存している印象はなくなりました。むしろ、チームの中に外国人選手が上手く溶け込んでいるような感じがしました。

 私の印象では、同じ東芝でも、現在監督になられた薫田さんがキャプテンの頃より、相当強くなったのではないかと思います。それは、トヨタ自動車についてもいえることです。朽木監督が育て上げた現在のチームは、本当にきちんとした組織力を備えた強いチームだと思います。また、麻田(トヨタ)富岡(東芝)の両キャプテンも、見事なキャプテンシーを発揮していましたね。

 あれだけ、チームを一つにまとめて選手の力を集結させるためには、普段の練習や生活面においても、相当の情熱と努力が必要であったことは想像に難くないことです。かつてのマコーミックや洞口キャプテンもそうですが、ラグビーのような熱いモチベーションを必要とする団体スポーツでは、チームをまとめていくキャプテンの担う責任と使命は、独特でとても重いものがあります。

 口先だけの人間や、小ざかしく立ち回るような男では、そのポジションはつとまりませんし、なによりも、チームメイトの信頼を勝ち得ることはできません。一度、あのラックやモールの密集の中に身を任せてみればわかりますが(私も、体育の授業などでちょっとやっただけですが……)、肌で感じた信頼感が求められるのだと思います。

 また、例えば東芝はエリート集団ではない、といわれています(といっても、かつての釜石のような雑草集団という感じでもない)
。それは、「清宮サントリー」の早稲田軍団的イメージに対して、言われることなのかもしれません。しかし、個々の選手の動きを見ていますと、フィジカル面とラグビーのスキルという点において、本当に良くきたえられているなあ、という感じがしました(基本を徹底的にやっている印象)。

 いかに普段の練習において、本番(試合)を想定し意識した取り組みがされているのかということだと思います。その一方で、大学の選手のレベルもかなり上っているようです。学生が社会人に勝てない現状から考えると、意外なように思われるかもしれませんが、私の同級生で特待生として関東の大学に行き、今でもラグビーをやっている男も言っておりましたので、間違いの無いところだと思います。

 やはり、社会人に学生が勝てない理由は、大学での経験者を受け入れる場所が少ないことだと思います。毎年、学生界のトップレベルの選手が、トップリーグなどの数少ない活躍場所に間配っていくわけですから、社会人の選手層が厚くなり、中々学生が勝てないのも無理はありません(それでも、今年の関東学院などは良くやりましたね)。ただ、テレビ中継の減少や、底辺の拡大の滞りなどという点からみれば、若干寂しい面もあります。

 それでも、この前の全日本選手権のような試合を見ていると、今のジャパンは、ワールドカップに行っても良い試合をしてくれるのではないかと思います。なによりも、精神に根ざしたスキルの高さを感じさせてくれたと思います。つまり、地道な普段における取り組みの大切さとでもいうのでしょうか。そして、その目立たない努力を支えるモチベーションの持ち方の重要性ということです。

 本当に良い試合でしたが、あえて言えば、勝負を分けたのはトヨタの序盤のキックミスと、ボールがくることを信じて、フォワードの選手がバックスの選手に続いてライン参加していた東芝の、仲間を信じる力の強さ(素晴しいディフェンス力も含め)だったのだと思います。


2007年 2月 16日         「日記」であれば公開しない


 

 
比較的、暖かな日が続いています。今年は、雪も少ないようなので、今から夏の気候が気になります。田圃の害虫も死なず、冷夏や水不足に見舞われれば、また、地方の農家は苦しまねばなりません。「温暖化」などといっても、都心のビルの中に居たのでは、肌で感じることは無いのだと思います。

 以前、言葉が軽すぎるというお話をしましたが、携帯電話のメールにほとんどお金がかからないということも、そのことを助長しているのかもしれませんね。同じ内容の話でも、顔を見ながら話すのと、電話越しに伝えるのでは雰囲気も伝わり方も違うはずです。さらに、メールにしてしまえば、全く違ったものになってしまうように思います。

 今日、読書をしない人が増えたと聞きますが、メールなどの文章を読むと、頷けるような気もします。もともと、日本語においては、話し言葉と書き言葉の違いがあると思います。普段何気なく話している言葉でも、それを人に伝えるための文章にしてみると、表現は変わってしまいますし、変わらざるを得ないのが日本語であると思います。

 何といえばいいのか、どうしても文字にすると、言葉の持つ意味合いは重くなるように、私などは感じてしまいます。また、文字にすることによって言葉は、時を越えて残っていくことになります。もちろん、言霊というくらいですから、一度口から出た言葉を取り返すことはできません。それでも、会話の流れの中で出てきたものであれば、すべてが記憶に残るものでもないのだと思います。

 そんな風に考えると、他人に何かを伝える時、声に出して伝えることと文章にして伝えるのでは、意味合いが全く違うと私は思うのです。この、他人に伝えるという感覚も、現代社会では変わってきているのかもしれませんね。例えば、日記を書くときに、意識している「伝えたい相手」というのはだれでしょうか。

 色々な意味合いを持っているのだと思いますが、まず自分自身に語りかけるために書くのが日記ではないでしょうか。もちろん、自分の死後などに他の誰かが読むことは、当然に意識してるのだとは思います。それでも、日記そのものを書いている自分は、自分に向かって文章を書いているのだと私は思います。

 それでは、今流行のブログというのはどうでしょうか。当然、ウェブ上に公開しているわけですから、意識は、それを読むと思われる不特定多数の方に向いているのだと思います。ブログの女王眞鍋かおりや中川しょこたんなどがやっているのをみると、芸能活動のPR手段の一つのようにも思います。

 また、多くの人が色々のブログをやっていますが、ほとんどの場合(私が目にする事例からの判断ですが)、日々の暮らしの中のエピソードなどを通して、綴っている文章の中から、何を伝えたいのだろうと思うことばかりです。もちろん、それ自体に意味があり、更新していくことに意義があるのでしょうけれど……

 それこそ、言葉にして文章にして上手くいえませんが、私は、このようなHPを持ち、自分の思うところについてこのような形で述べていますが、それは、自分の未熟さや浅はかさを棚に上げてでも、伝え続けたいことがあるからです。コラムの話題に取り上げる題材は色々あっても、根底に流れるものは一貫しているつもりです(通してこの欄をお読みいただければ、理解していただけると思います。もっとも、表現することにおける力不足はあると思いますが)

 したがって、普段の生活について、一人称で書いていくブログのような表現方法には、とても違和感を覚えてしまうのです。ここに書いてある文章は、私の独断と偏見に基づき、独りよがりの文章ばかりかもしれません。しかし、それでも、このコラムを読んでくれる人に対して、届けたいメッセージを込めて書いているつもりです。そのとき、独り言のように、自分にでなく他人にでなく、というような、あいまいな表現方法を、私はとりたくないと考えています。

 インターネット上のような、不特定多数の人が目にする場所において、何かを文章にするという時点で、本来は自分自身しか読まないはずである日記のように、自分の素直な心を投影出来るはずが無いとも、私は考えてしまいます。文字と、文章の持つ意味と、話し言葉の関係を考える時、文字というものの重みについて、どうしても強く意識してしまうのです。

 もちろん、私は「ブロガー」の人達を否定しているのではありません。モラルとエチケット(ネチケットというのか)を守りさえすれば、人は自由に何かを表現(文章に限らず)できるはずです。他人に伝えたい熱い思いなどがあれば、なおさらのことです。それでも、私は、言葉の持つ意味とその重さについて、もう少し大切にして欲しいと考えています。

 あえて言わせて貰えば、やっぱり「言葉が軽すぎる」そんなぼやきが出てしまうのです。


2007年 2月 2日         私の好きな歴史小説家




 
暖冬です。去年とは正反対に、あまり雪も降らず、穏やかな日々が続いています。過ごしやすいので忘れてしまいそうですが、心の奥底に、淀んだような不安を覚えるのは、私だけではないのだと思います。

 さて、少し前の話ですが、リニューアルした近所の本屋を散策しておりましたら、司馬遼太郎対談集というのを見かけました(もちろん、文庫本ですが)。そこには、第四巻までしかありませんでしたが、司馬さんが対談されている相手などについても、非常に興味をそそられました。問い合わせてみると、第十巻位まではあるらしいので、そこにある分を購入し残りは注文して帰りました。

 現在は、そのときに注文しておいた第五巻を読み終えたあたりです。あらためて、司馬遼太郎という人の奥行きの深さと、人間性というものを感じさせられています。対談の中においては、相手の方々が舌をまくほどの勉強量と、知識の裏づけを披瀝しています。そのうえで、その豊富な知識に基づく、冷静で合理的な歴史観を示されています。

 一方で、小説など司馬さんの本を読んでいつも感じることは、綿密な取材に基づいた上で、登場する人物の人物像を鮮やかに描き出す技術の素晴らしさと、司馬さん自身の考えている人間性についての熱い思いです。冷静な分析に基づいた合理主義を貫きながら、本来人間の持っている筈の、性善説的な可能性のようなものを、感じさせてくれるところだと思います。そのような意味で、文章の持っている「問いかける力」を強く感じさせる作家だ、と、私は思っています。

 その歴史観については「司馬史観」などと評され、明治の戦争について肯定的でありながら、昭和の戦争に嫌悪感を示している点などを、批判する人もいるようですが、統帥権のようなものを発見・創出し、太平洋戦争に突き進んでいった頃の、日本を引っ張っていった人達と、維新を成し遂げ明治を創世した人達では、評価が違っても仕方が無いように私は思います。

 司馬さんは、高い実証性に基づいた歴史小説を書き、その分野を今日に確立した人だと思います。その根底には、観念的なものや狂信的発想にもとづく思想を嫌い、講談話のようなヒーローを描くことを良しとしない考えがあったのだと思います。司馬史観という点でも触れましたが、青春時代に体験した戦争の影が、そこには大きく影響しているのだと思います。私は、そのことは当然だと思いますし、十分に納得できるものであるとも思います。

 したがって、あれほど好意的に描いている(司馬さんとしては)「世に棲む日日」における吉田松陰についても、単独の主人公としてではなく、高杉晋作との対比を通して描いているのではないでしょうか。明治維新の主役の一つである長州藩において、久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋……多くの人に影響を与えた思想家吉田松陰については、相当大きくなるまで嫌いであった、と、司馬さんはどこかで語っていたと思います。

 おおよそ、私欲というものを、持っていなかったのではないか?と思わせるほど、純粋で一途な思想家である松蔭の思想は、その使い方を誤れば、非常に危険な一面をもっていた。というより、高杉が生きていれば、とか、龍馬が描いた日本はこうではなかったのでは、という考え方を持ってすれば、「天皇の下に国をまとめて」維新をスタートし、列強への遅れを取り戻すことだけでブレーキが利かず、あの悲惨な侵略戦争へ向かう口実に、利用されたともいえるのではないでしょうか。

 しかも、厳密に言えば、本当のところは誰に戦争責任があったのかも、会議で決まったことの連続であれば、今となっては解らないのではないかと思ったりもします。とにかく、危ない方に転がりだしたら止まらないのだ、ということだけを私は学んだように思います。話はそれますが、廃仏毀釈のようなばかげたことが行われたのも、そんなうねりの中での一こまでしょう。

 しかし、その一方で司馬さんは、松蔭については正岡子規との、共通点を多く見出したりもしています。自らの寿命に拘らず、とにかく改革できるものを改革し、有能な後輩を見つけて後を託す生き方についても語っています。さらに、清冽な男らしさと共存する「たおやめぶり」の文章についても指摘しています。余談ですが、猛々しい「ますらおぶり」よりも、たおやめぶりの人の方が、本当は強いとも語っています。

 たとえば、あまりにもその小説が、高い実証性に基づいているので、実際の歴史と乖離していることに気づかなかったり、その乖離している点を批判する人もいると思います。しかし、あくまでも描いている多くの作品は歴史小説という小説ですから、フィクションが含まれているのは当然です。しかしそれでも、龍馬や高杉や秋山兄弟が語る決め台詞は、ありありと、私たちにその場面を彷彿させてくれるように思います。

 昔私は(若い頃)、龍馬かく語りき、晋作こう吠えるなどと、酔いにまかせて熱く語ったりしていました。そんなある時「お前、みたんか」と指摘されて窮したことがありました。しかし考えてみれば、優れた歴史小説というのは、本当に、その声を聞いたような気持ちにさせてくれるものではないでしょうか。

 司馬遷に遼(はるか)及ばず、というペンネームですが、20世紀を代表する作家であり、この国を愛し、痛烈な批判を行いながらも、けっして希望を捨てず、斜に構えることをしなかった人であったのだと思います。



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