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NO.15

2008年 7月 31日        ほっとけない気持ち
 

                     



 暑い日が続いています。何もしなくても、疲れてしまうような日々です。そんな事柄からも、誰かを思い出したりするのが人間なのでしょう。暑中見舞いなど、日本には良い風習があるのだと思います。

 私自身は、本当はエンジニアだと思っています。「世の中の役に立つ」ものづくりに取り組み、技術者精神の伝承に力を注ぎたいと考えています。しかしながら、現状において最も力を割いて取り組んでいることは、地域社会における活動かもしれません。それも、まだまだ「改革」が必要なように思います。

 私の住んでいる地域は、歴史と文化に恵まれた町だと思います。しかし、残念ながら、地域の中心となるべきお宮も廃れ、専横や個人への利益誘導ばかりが行われてきた自治会は、脱力感と白けムードに包まれ、停滞した雰囲気となっていました。本当に、誰かが何とかしなければ……という状態だったと思います。

 私は、今から4年前の夏(急遽、図らずも)、地元自治会の会長になりました。そして、2年前からはそれらを統括した連合町内会の、地元支部長をやっています。本当に、中に入ってみなければ解らないことばかりでした。ごく普通の、常識として考えていたようなこと(私が思う)を決めるのにも、有力者(何故か存在する)の説得や根回しが必要でした。

 そのような、首を傾げるような体制や空気と、戦い(大げさでなく、自身ではそのように思っています)続けて今日まできました。幸いにも、賛同していただける仲間や理解者も増え、改革もある程度は進んできたように思います。各自が自由に意見を述べ、住民の意思が平等に行政に伝わるような、そんな自治会に近づきつつあるように思います。

 それでも、地域や住民のために、取り組んでいかなければならない課題は山積しています。今はまだ、それに取り組んでいくための組織について、機構改革をしているといったところかもしれません。いずれにしても、何でもお金で評価するアメリカ的資本主義経済の波及により、格差が拡大していく地方の町において、地域をまとめる自治会組織の衰退は肌で感じるものがあります。

 かつて、私達を育んでくれた地域社会は、そこに暮らす人々の絆が弱まり、表面的な集落機能を維持するのがやっとのように思います。皆、それぞれ生活に追われ忙しく暮らしている中で、隣近所との付き合いや地域社会への帰属意識が、薄れているのだと思います。

 その結果、かつて賑やかだった神社のお祭りも寂れました。それどころか、維持していくための組織や体制までも、地元自治会が乗り出さなければおぼつかない状況です。そんななかでも、私達は神社の春の大祭にあわせて「たかのり祭り」というイベントをやっています。今年で、4回目となりました。かつての賑わいには程遠いですが、年々盛況になっています。

 そんなことをしていて気がついたのですが、この有名な作楽神社のトイレが未だ汲み取り式のままなのです。おまけに、女子トイレにいたっては、不具合があって使えない箇所もあります。去年、私達は市長に要望書を提出し、早期の改修を訴えました。行政としても、前向きに取り組んでもらっています。

 しかしながら、私が言いたいことは、今までの人(自治会や地元有力者及び地元選出の議員等)は何をしていたのか?ということです。トイレの問題は、非常に重要です。どんなに、私達が頑張って祭りをもりあげても、今のようなトイレでは女性のリピーターを多く望むことはできません。

 もちろん、近くの公民館や社務所には水洗のものもありますので、そちらをご案内することはできますが、私自身非常に残念で歯がゆい思いをしています。事ほど左様に、首を突っ込んで解ったことがたくさんありました。本来、地域がまとまって取り組んでこなければならなかったことの多くが、殆ど置き去りにされていたということです。

 もう、既に手遅れのようなものもあるかもしれません。しかし、史跡の調査などのようにどうにか間に合ったようなものもあります。いずれにしても、今やらなければ、やっておかなければならないことがたくさんあるように思います。「この町の大人は何をしていたのか」などと考えることもあります。しかし、良く考えてみれば、偉そうにいえるような生き方をしてきたわけでもありません。

 とにかく今、変わらない(変えようもない)この国・県・市はさておいて、自分が住んでいる地域だけでも何とかしたいと考えています。というか、ほっとけない気持ちなのです。


2008年 7月 17日        篤姫の向こうにみる弥姫  

                     
 



 
そろそろ夏休みです。麦藁帽子はもう消えた~という拓郎の歌声から、一気に少年時代を思い出します。振り返れば、甘い記憶も苦い体験も、すべて良い思い出となっています。感じられる感性も、今よりずっとやわらかかったのでしょう。

 かつての体験や、昔学んだことが後から役に立つことは良くあります。また、私が良く言うことですが、天に啓示されたように物事を体験したり人にであったりするということもあります。本を読むことなどは、その際たるものでしょう。興味に任せ、適当に読み漁ってきた事柄が、今の年齢位になってくると妙に体系化されたりして「なるほど、こういうことか」と思うこともあります。

 例えば、以前何気なく訪れた場所が、後になって結構意味合いを持っていたりすることがあります。私は、今から25年位前に鳥取市にある池田家の墓所に行ったことがあります。建設会社に努めていた頃ですが、確か風車を建設するために、あちらこちらを見学していた時に立ち寄ったように記憶しています。

 私は、その時に岡山の池田家は、鳥取から来たのだということを知りました。そのことは、墓所に設置してあった池田家に関わるエピソード等を記したプレートで読んだように思います。またその時に、島津斉彬公のお母さんが鳥取の池田家から嫁いでいかれたのだということも知りました。

 島津斉彬という名前は有名ですし、個人的にも興味を持っておりましたので、その母上が鳥取からお嫁に行かれていたということを知った時に、何となく嬉しいような気持ちになったことを覚えています。実際に、鳥取の池田家と岡山の池田家は、関が原で徳川方についた池田輝政の子孫であり、どちらが岡山でとちらが鳥取でも良かったようです。

 そのように考えると、幕末の治世に大きく関与し、名君といわれた島津斉彬公への親近感が、一層増したのだと思います。私にとって島津斉彬といえば、日の丸についてのことが一番印象に残っています。戦前の教育からのゆり戻しもあり、日教組の強かった私達の中学生の頃、日の丸や君が代についての議論が盛んにされていました。

 そもそも、我が国では国歌や国旗を定めた法律すらなく、日の丸を国旗とする根拠はない、というようなことも日教組側の先生から聞いたことがありました。その頃、日の丸は島津斉彬公が考えた日本の船印である、という文章も読んだ記憶があります。そのようなことから、私の頭の中に島津斉彬の名前が刻まれていたのだと思います。

 弥姫(いよひめ)と呼ばれたその人は、島津家に嫁いで周子と名を改め、名君島津斉彬をこの世に誕生させます。嫁入り道具の中に、数多くの書物を持参するほどの才女であったらしく、そのことは当時の薩摩藩の家臣も驚いたようです。また、子育ても自ら行うなど、普通のお姫様ではなかったようです。

 したがって、斉彬公が名君となるための素養は、この母君から直接受けた教育に由来する部分が大きいのだと思います。文政7年(1824年)わずか34歳でこの世を去っていますが、誰からもその死を惜しまれ、その後起きた世継ぎ騒動も彼女がいればおこらなたったのではないか、とする説が多く見られます。

 現在、NHKの大河ドラマで篤姫が放映されています。その才女ぶりや、人となりが脚光を浴びています。「視聴率女優」宮崎あおいと「陰の主役」堺雅人(家定役)の好演もありますが、やはり、時代背景と登場人物の魅力が高視聴率の理由だと思います。

 話がそれてしまいましたが、篤姫をみているとなおさら、その人の人物像や力量を見極め、御台所に押し上げた島津斉彬公の才知を考えさせられるように思います。そう考えると、その斉彬公を生み育てた母君のことに想念が広がっていきます。大河ドラマをみながら、鳥取から薩摩に嫁がれた弥姫のことを思い浮かべることもしばしばです。

 映画・ドラマ・小説などに接する時、それに関連する事柄を自身に内在していれば、見たり読んだりする楽しみも増えるように思います。私にとって、天からの啓示とはその程度のものかもしれませんが……


 2008年 7月 3日        地域と家庭


  

 
7月となりました。早くも1年の半分が過ぎてしまいました。本当に、月日の経つのは早いものです。確か、1秒の何十分の一という短い長さが、仏教用語でいう一「刹那」という単位だったと思います。個人的には、「切ない」の語源に加えたい気がします。

 先日、母校の中学校の学校評議委員にというお呼びがかかりました。委嘱式を兼ねた集まりにおいて、校長・教頭先生をはじめとする関係者の方々と意見交換をさせていただきました。近頃話題のモンスターペアレントなど、生徒よりも父兄に関する課題の方が多く取りざたされていたように思います。

 通学時の送り迎えの際に、くわえタバコで運転している母親の話、暴力によって子供を抑え続けてきた父親が、この頃では反対に、自身の身の危険を感じるようになったという話など、数多く親に関する問題点を聞かされました。概ね、私が描いているイメージと符号するような内容でした。

 大きくいえば、アメリカ的市場原理に基づくグローバル化や、規制緩和が進む中での格差社会の広がりがあります。その結果、中央もしくは大都市に、人や経済が集中し続けることによって起こる地方都市の衰退が起きています。さらに、そのことによって地方における地域社会の力(地域力)が一層弱体化しています。

 このことが、忙しい大人(生活に追われる大人)を増やしているのだとおもいます。忙しい大人たちは、子供に手をかける暇が無く(無いはずは無いのですが)地域の付き合いに溶け込む余裕も無いのでしょう。当然、地域はそのような家庭の集合体ですから、本来地域が持っていた力(地域力)も弱まってしまいます。

 制服のまま、タバコを吸いながら自転車で通り過ぎる中学生を見ても、叱れない大人が殆どです。一つには、体格・体力的に彼らの方が優位であり、どのような報復(仕返し)を受けるかわからないということがあります。また、小さい頃から継続して子供に積極的に関わっていないため、どのように声をかけて良いのか解らないという面もあります。

 一方、タバコをくわえている中学生についていえば、そのような大人たちに見られても「恥ずかしくない」のだと思います。この、「恥ずかしくない」ということが、実は大きな問題だと私は思っています。振り返れば、顔が赤くなるようなことばかりであった私自身の体験を通しても、近所の大人が見ていれば抑制がきいていたのだと思います。

 地域の中で生きていれば、恥ずかしさや迷惑をかけてはいけないという意識が少なからず働いていたように思います。逆にいえば、多少のことは大目に見てもらえたし、地域の人たちが庇ってくれるような場面もあったと思います。良きにつけ悪しきにつけ、子供たちの価値規範や社会通念のようなものは、地域社会とのつながりを通して醸成されていくものだと思います。

 それは、法律や規則で定められたことではなく、地域社会全体が持っていたモラルというようなものでした。強く言えば「掟」のようなものでしょうか。弾力的にいえば、地域社会というのは清く正しく美しい人ばかりで構成されているわけではありません。しかしながら、他所でどのようなことをしても(或いはしたとしても)自分の在所では掟を破らないし破れなかった、と、いうのがかつての地方における地域社会だったように思います。

 そこには、犯罪を未然に抑止する力もあったのだと思います。そのような、地域社会が結合した区域内にある小・中学校において、不審者に備える必要などは無く、そのような対策を考える発想さえ無かったように思います。一見、豊かになったような我々の社会では、そのような配慮が必要となりコストも負担しています。

 法律や仕組みの整備は必要です。しかしながら、どのようなシステムであっても動かす人間が駄目なら、得られる成果も期待できません。「子供が悪くなった」といいますが、それを育てている大人が悪くなったのではないでしょうか。それには、経済問題をはじめとする多くの理由があるのでしょう。しかし、それらの大人たちもまた、誰かに育てられたことには違いありません。

 さらにいえば、今日の地域社会もまた、そんな大人たちで構成されているのです。遠まわりなようですが、そんな大人たちを変えていくためには、やっぱり教育しかないのだろうと思います。それは、単に学校で行われるものだけでなく、地域社会を構成するそれぞれの家庭から変えていかなければ、実際の成果は上がらないものでもあるのでしょう。


 

2008年 6月 19日        天賦の才ではある




 
梅雨の季節になりました。中国地方においても、一応「宣言」はされたようです。しかし、この天候には違和感をおぼえてしまいます。まるで、梅雨明けしたかのような好天が続いており、少し不気味な感じさえします。

 さて、どうも最近は、悲観的な話題になることが多くなってきているように思います。そこで、今回は少し明るい話題を取り上げてみたいと思います。つい先日、山形県の天童市で行われた将棋名人戦第6局において、羽生善治二冠(王座・王将)がついに勝利しました。通算5期の名人位獲得により、第十九世永世名人の資格を得ました(通常は、引退後に名乗ることが出来る)。

 以前、自我作古(我より、いにしえを成す)というお話で、谷川浩司九段を取り上げたことがあります。羽生新名人は、中原十六世永世名人(この人は、実績により名乗ることを許されている)の時代を終焉させた谷川十七世永世名人(資格者)の牙城を崩し、将棋界を一変させた人物といえるでしょう。

 自我作古の時にも述べましたが、私は、谷川浩司という棋士が好きです(理由は、以前も述べましたが、人柄と将棋に対する姿勢です。また、関西の棋士ということもあるかもしれません)。天才といわれ彗星のように登場し、私の好きな谷川浩司を負かしていった羽生善治という棋士について、最初はあまり好感を持ってはいませんでした。

 将棋は、あくまでもゲームであり、データと理論に根ざしている、そう語り、美しい形が強い形である、とも言い放つ若者の姿に、私は、少なからず違和感を覚えたように記憶しています。名人は、獲るものでなく授かるものであるといい、50歳で悲願の名人となった米長現将棋連盟会長の言葉の方が、当時の私には共感できるものでした。

 将棋に人生などは投影されないのだ、読み筋の深さ・正確さとひらめきのあるものが勝つのである、当時の羽生善治は、そのような理屈通りの振る舞いをし、冷静で機械的な印象を与える棋士だったように私は感じていました。若干25歳で、将棋界の7冠を独占したころは特にそのような印象が強く、「将棋指し」としての魅力をあまり感じられませんでした。

 私は、生来「勝負師」と呼ばれるような棋士が好きです。また、個性と人間的な魅力を備えた人物が好きです。したがって、囲碁の藤沢秀行のように、八方破れのような人物にも惹かれたりします。益田幸三・内藤國男・先崎学など方向性はばらばらですが、味がある棋士が好みです。

 羽生さんに話を戻しますが、7冠獲得後「この先、どうなるのか」という不安が芽生え、徐々に迷いが生じることになり、成績も下がっていったという話をされていたように思います。7つのタイトルも1つになり苦戦(彼にしては)を続けていた頃、峠を越えた先輩棋士達が、タイトル戦でも何でもない棋戦に臨み精一杯戦っている姿をみて、情熱を持ち努力し続けることの大切さを知ったと述懐されてもいました。

 「才能とは、情熱や努力を継続できる力だ」と語る今の羽生善治は、「偏狭」な私から見ても、とても魅力的な棋士となりました。終盤、勝ち筋を見極めて勝負を決めにかかるとき、駒を持つ指先が震えるような姿をみると、人間が将棋を指していることの意義と奥深さを感じさせてもくれます。

 勝負の世界に生きる人は、強くなければいけないと思いますが、ただ強ければ魅力があるということではないと思います。羽生睨みといわれた眼光の鋭さは、穏やかな立ち居振る舞いの中にも健在ですし、「たてがみ」という歌の元にもなった寝癖頭も時には見られます。

 コートを着て、電車で対局場所に向かう姿は、本当に、どこにでもいる普通の青年のようです。天賦の才を与えられても、常に向上心を持ち続けていられる姿に、多くのファンを惹きつける理由があるのでしょう。こちらもつい先日、全米オープンに優勝し、トリプルグランドスラムを達成したタイガー・ウッズのように、絵になるスーパースターだと思います。

 余談ですが、タイガー・ウッズといえば「早朝のトーナメント会場のゴルフ場で、朝もやの中を走ってくる人影があり、よく見るとタイガーだった。一番強い奴が一番練習しているんだもの、勝てるわけが無いと思った」という、私の好きな丸山茂樹選手の言葉が思い出されます。

 素質だけでない「何か」を備えてこそ、彼らは、私達に素晴らしいドラマを見せてくれるのだと思います。

 
 

2008年 6月 5日        命有ってのものだね


 

 つい先日、兼業農家による二大イベントの一つである田植えを済ませました。何か、今年も一年の半分が終わったような気がします。いつもながら、時の経つ早さと「学成り難し」を噛み締める日々です。

 現在(これを書いている)、ローマで「食料サミット」
が開催されています。国連食糧農業機関(FAO)が主催するもので、世界的な食品価格の高騰や、そのことが飢餓に苦しむ人たちに与える深刻な影響などについて、世界44カ国の首脳が出席して討議する会議が行われています。

 食糧生産と農業投資の促進、現在及び次世代のために地球資源の持続的活用を図ることなどが、飢餓を根絶しすべての人に食料を確保するために、取り組むべき方策として盛り込まれ、政治宣言として採択される見通しだそうです。我が国の総理も出席され、経済的支援や政府の保有する輸入米を放出することなどを表明し、この問題への国際貢献をアピールしたようです。

 政治的には、八月の洞爺湖サミットを控え、外交手腕をアピールする良い機会なのでしょう。しかしながら、もはや食料自給率が40%を切っている我が国において、本当の意味での危機感を持って、それらの問題に取り組んでいる政治家や官僚がどれほどいるのかは甚だ疑問です。

 自国の国民を養うための食料を確保することは、安全保障の視点からも極めて重要な課題だと思います。本来、食料自給率などを語る場合には、そのような視点からも議論されるべきであるとも思います。自由な貿易の成果として獲得した利益で、お金を出しさえすれば、欲しい食料が欲しいだけ買える時代は去ろうとしています。

 ちょっと目を向けただけで、ここ数年続いているオーストラリアの干ばつ、中国における爆発的な食糧消費(特に富裕層による贅沢志向)、アメリカ・ブラジルなどにおける穀物によるバイオ燃料の生産など、現在の我が国における食料品の価格上昇の要因は容易に散見されます。

 一方で、サブプライムローン問題に端を発した債権等の市場から引き上げられた投機マネーは、まず石油先物に流れ、それから穀物市場を席捲しています。それらのことも、国際的な食料の価格上昇の大きな要因となっています。その結果として、もともと貧しいといわれていた国々では、食料を確保することが非常に困難となり、深刻な問題となっています。

 我が国においても、現状では何とかその確保が出来ているようですが(価格上昇は続いている)、増え続ける世界の人口と、開発途上国の経済発展などを考えると、いつまでそれが続くのか(持ちこたえられるのか)については、楽観的な予想をする人はいないのだろうと想います。

 もともと、限られた大きさの惑星である地球において、生存できる人口は80億人程度であるという試算もあります。人類が、排出権取引などといっている間に、温暖化や水資源の枯渇は驚異的な速度で進んでいます。食糧生産の視点から見れば、さらにそのための条件は厳しくなっていくばかりです。

 もっと驚くことは、北極圏の氷が溶け出したと聞くと、そのことによって掘りやすくなった海底油田を、周辺の各国が先を争って開発しようとしているというような話です。化石燃料の消費によりもたらされた環境の変化(悪化)さえも、経済的なビジネスチャンスにしようとしている光景を見ると、何とも割り切れない(やりきれない)気分になってしまいます。

 さらにいえば、海抜すれすれの南の島に住む人は、海面上昇のためそこに住めなくなり、バングラディッシュなどではそのことによって、淡水に塩分が混じる結果となり大きな被害が出ています。二酸化炭素をはじめとした温暖化ガスの排出、という責任において、そこに住んでいる人たちにどれだけの責任があるというのでしょうか。

 公平な負担というなら、まず先進国がやらなければいけないし、すぐに効果をだすためには、アメリカ・中国が積極的に取り組まなければ、実際に成果が上がるとは思われません。しかしながら、あれこれ議論は繰り返されていますが、具体的な取り組みのための方法さえ、決めることが出来ないというのが現状ではないでしょうか。

 優秀な人類が、エアコンのきいた部屋で液晶モニターを眺めながら、高度な理論に基づいた議論をしているうちに、この惑星が受け続けているダメージは、回復不可能な次元へと進もうとしているようにも思います。「命有ってのものだね」などという言葉が思い出されてしまいます。

 

2008年 5月 22日        経済と環境


 



 ついこの前まで、草木が萌える
勢いに驚いていたばかりなのに、はやくも、春というよりは初夏を思わせるような、強い陽射しの注ぐ日がみられるようになりました。

 さて、巨大サイクロンによるミャンマー(この呼称は好きではありませんが)における甚大な被害や、四川大地震による中国での多くの犠牲者に関するニュースなどをみると、自然の力を前にしたとき、いかに人間の持っている能力が小さなものかということを痛感させられます。

 それにも関わらず、温暖化対策をはじめとする地球環境の保全に関する取り組みは、それぞれの国の利害関係や、経済問題なども複雑に絡み合い、中々進展していかないような印象を受けます。何でもお金に換算し、物事を判断したり評価する現代の人間社会では、CO2の排出権というものさえお金で取引される方向に向かっています。

 そもそも、地球に限りがあり、この星で生きていける人間の数にも限度があるのですから、大量消費を前提にし、無限に成長を続けられることを念頭においたような資本主義(アメリカ的な)は、もともと成立しえない(限界がある)ともいえるのではないでしょうか。

 高学歴で頭の良い人間達が、様々な議論(夫々の都合に論拠するところの)を展開しているうちに、アラル海のような、かつては巨大な面積を有していた湖さえ消え去ろうとしているのです。そこばかりではなく、アフリカや中央アジアにおける砂漠化を中心に、毎年日本の農地の面積以上が、この地球上で砂漠化しているのです。

 中央アジアやモンゴル・内モンゴルなどの地域では、これまで営まれてきた放牧などが出来なくなったところもたくさんあります。何でも、お金に換算して評価する手法によれば、莫大な資産価値が失われていることにもなるでしょう。しかしながら、その損失を公平に負担するという視点から考えると、大きな疑問が残るのではないでしょうか。

 先日、中国の農民工の人たちが、出稼ぎに行かなけれ生きていけないというドキュメンタリー番組が放送されていました。年収が3万円にも満たない農民の悲哀を描いた番組でした。中国では、戸籍そのものにおいて農民戸籍というカーストのような縛りが残っているので、都会に出ても、その戸籍である限り都市市民としての戸籍を得ることは出来ません。

 今の中国社会では、よほど勉強が出来ない限り、都会に出て良い職につくことは難しい仕組みになっています。その競争率は、今日の日本における受験戦争など、足元にも及ばない凄まじいものであるようです。その一方で、共産党幹部や都市住民として成功を収めている人たちの生活ぶりは、我々の想像を超える位豊かなものになってもいます。

 規制緩和という号令のもとに、我が国においても富めるものと貧しいものの格差は一層拡がろうとしているように思います。しかし、年率1割に近い驚異的な成長を続ける中国社会においては、日本とは比べようも無い速さと程度の大きさで、格差社会は拡がっているのだと思います。

 情報を十分に得られる都市に住み、投機や投資において十分なチャンスがある中で、小賢しいマネーゲームに勝利した人間が、本当に人間社会において優れた人類といえるのでしょうか。また、そのようなお金を稼ぐ能力だけで、人間の価値が決められても良いのでしょうか。出稼ぎに行く「農民工」の人たちは、貧しさを嘆いてはいましたが、そこに生まれたことを卑下してはいませんでした(誇りをもって生きている様子)。

 我が国においても、美しい山河や里山などといいますが、それらは、昔から私達の祖先が、自然の中に手を入れてきたからこそ残されてきたものなのです。いわば、二次的自然環境なのです。水源涵養・良好な景観の確保・自然災害の防止……等列挙しなくても、目を向ければどんな人でも理解できるはずです。

 しかしながら今日、そのような二次的自然は壊滅の危機に瀕していると言わざるを得ません。例えば、都市に住んでいるだけで、それらを維持し、昔からの営みを大切に暮らしている田舎の人たちに対し、ある程度のお金を提供するような仕組みがあっても良いのではないでしょうか。

 そのような視点から、環境税などは議論されるべきだと思います。いずれにしても、小賢しい人間の議論を待つほど、地球環境の余裕は無いのではないでしょうか。


2008年 5月 8日        教育とナショナリズム




 
花冷えや、ぐずつく日が続いた後、今度はいきなり夏日・真夏日というような天気が訪れました。気候への違和感に首を傾げつつも、慌しく「趣味の農業」に勤しむ他にする術もない暮らしをしています。

 さて、前回は西域について述べてみましたが、西域といえばチベットだけでなく、新疆ウイグル自治区なども含めて西域といえるでしょう。前述の井上靖著「敦煌」では、ウテンと呼ばれたホータン・高昌国などと共に、さらに西に位置するウイグルや、そのまた向こうのインドペルシャまでを含めた民族や国が入り乱れて登場してきます。

 オリンピックの聖火に関する騒動は、行く先々で繰り返されているようで、オリンピック開催の日まで続くのかもしれません。そのような中、留学生などの中国本土以外にいる学生達若者が、熱心に中国の赤い旗を振っている光景がしばしば見られたと思います。また、五星紅旗などについては、中国当局から支給されるのだなどという噂も報じられていました。

 それにしても、それらの若者達の熱狂振りについて、違和感を覚えたのは私だけではないのではないでしょうか。愛国心を持ち、自国で行われるオリンピックを盛り上げようという気持ちは、よく理解できますし共感も出来ます。しかし、その凄まじいまでの勢いで、チベット支持を訴える人々を威圧するような行為は頷けません。

 日本では、彼らによる暴力沙汰などはあまり見られなかったようですが、外国からの報道では、明らかに多勢に無勢で威圧しているような光景も見られました。どのような局面においても、少数意見の人を恫喝したり暴力を用いたりするようなことは、程度の高い国の国民がやるべきことではないはずです。

 私が、違和感があると述べたのは、海外に留学するまたは出来るような人は、それなりの資質を備え高い教養をもっているのではないかと思うからです(それでも、高度な教育を受けること高い教養を備えることは、必ずしも一致するものではないのかもしれませんが)。

 そのような高い教養を備えた人たちであっても、本当に正しく歴史的な教育を受けているのだろうか、などと、穿った見方をしたくなるような思いが頭を持ち上げてくるのも事実です。「一つの中国」という言葉を熱く繰り返す彼らは、果たしてどのような歴史認識のもとに、そこまでの愛国心を胸に育んでいるのだろうか、と、私は考えてしまいます。

 一言に歴史認識などといっても、生まれた国や受けた教育、育っていく中での環境や得られる情報などによって、人それぞれ異なった歴史認識をもつことは当然です。ナショナリズムを持ち、国を愛することは立派なことだと思います。しかし、人間の尊厳を犠牲にしてまで、国家の威信を大切にするような方向性や考え方を生むのであれば、それは非常に危険なものになってしまいます。

 少なくとも、我が国においてはそのようなファナテックなナショナリズムのもとに、自国の国民だけではなく、アジア諸国を含めた全世界に犠牲者を出す悲惨な戦争に突き進んでいった歴史が、ほんの少し前にあったばかりのはずです。その時に、一般の市民(国民)は愛国心に燃えていたはずなのです。本当に怖いのは、国家というような単位で回転しだした独楽は、容易には止められないということなのです。

 さらに、前回も述べましたが、旅に出かけ一人一人と交流してみれば、中国人も韓国人も気さくで親切な人によくあたります。また、暖かな心の触れ合いも体験することが多いと思います。しかし、国家としてみた時、それらの国の印象はどうでしょうか。一方、我々日本人が思っているよりも、中国や韓国の人が日本という国に抱く印象は、はるかに良いものでは無いというアンケート調査の結果も見たことがあります。

 困った時(内政状態の良くない時)の日本バッシング(日本帝国主義による侵略への憎悪をあおる)ばかりではないにしても、教育というものの影響は否めないものだと思います。もちろん、私が(私達が)身につけている(きた)知識や情報がすべて正しいとは言い切れないのかも知れませんが、少なくとも自由に考え咀嚼し判断できる環境にはあるでしょう。

 そもそも、国とは何なのか、そのような単位におけるものの考え方で良いのか(急速に進むグローバル化の中で)ということもあるでしょう。しかし、今のような世界情勢の時こそ、ナショナリズムを含めた教育(人の育て方)というものを、考えなければならないのではないでしょうか。

  


2008年 4月 24日        西域考


 2008年 4月 24日        西域考


 
ぐずついた天気が続き、中々田圃が乾きません。兼業農家(死語かも)による効率的な農作業が行えず、雑草との戦いが思いやられるところです。

 このところ、オリンピックの聖火リレーに関するニュースをよく見聞きします。チベットでの暴動や、それに対する中国政府による強引な鎮圧に端を発して、聖火リレーに対し様々な抗議行動が行われています。また、フランス選手団の懸念表明や、ヨーロッパ各国(ドイツ・エストニア等)首脳のオリンピック開会式への不参加表明などもありました。

 本来、オリンピックに政治を結びつけることは、その精神に反していますし間違いだと思います。何よりも、そのことによって参加する選手達に、影響や負担が出ることが最も懸念されることです。モスクワやロサンジェルスなど、過去にも選手が涙を流す不幸を、私達は何度も見てきたはずです。

 しかしながら、少し穿った見方をしてみますと、弱い立場で長く抑圧に苦しんできたチベット民族からすれば、オリンピックの開催で世界の注目が集まるこの時期にこそ、今回のような行動を起こす必要があったといえるかもしれません。

 そもそも、シルクロードの要衝である西域南道を見下ろすチベットを含め、成都のあたりより西の「西域」と呼ばれる中央アジア地域は、多様な少数民族が割拠し様々な国が勃興して、それぞれの歴史を育んできたはずです。漢民族により、何度か一時的に統治された時もありますが、単に一つの「中国」の中に含めることには違和感があるように思います。

 井上靖が書いた敦煌では、この西域にチベット民族の西夏が興り、吐蕃と呼ばれた現在のチベット付近にあった国も、飲み込まれていく様子が描かれています。鳴沙山の莫高窟に、大量の仏教経典が隠されるまでの物語は、人が生きる根源となる想いや意志について、深く考えさせられる歴史ロマンといえるでしょう。

 民族問題としてみれば、中国には56もの少数民族が存在しており、それらの人々が全て独立をもとめれば収拾がつかなくなります。また、冷戦後の世界においては、民族の独立や自治をめぐる問題は数多く見られます。しかし私は、シルクロードの重要な中継点であった「西域」であるこの地域については、民族問題という視点だけでは語れないものがあると思うのです。

 もともと、この地域の人々は国という概念や、国境という観念を強く意識していなかったのではないかとも思います。かつてこの地域は、乾隆帝の頃から清の支配下に置かれ、近代の欧米列強のアジア進出の時代に、力の均衡のために利用されたような経緯があります。さらに、「解放」という名のものとに、人民解放軍によりチベット自治区が設置されます。

 本来の領土の半分程度になったとはいえ、120万平方キロメートルを超える面積は我が国の国土の3倍以上にあたります。豊富な鉱物資源に恵まれ、森林・水資源を未開発に近い状態でもち、軍事戦略的な価値も高いといえるようです。インドとの緩衝地帯の意味からも、中国政府が簡単に放棄するとは考えられないともいえるでしょう。

 一方、ラサ青海鉄道の開通などにより、仏教の聖地は急速に観光化が進んでいます。どこが、社会主義なのかとも思える経済至上の人民パワーが、ポタラ宮を目指して押し寄せ、敬虔な大乗仏教徒が多数を占める穏やかな人々の、人に優しい暮らしが一変しているとも言えるでしょう。

 さらにいえば、中国当局の発表と異なるような、残忍な虐殺や弾圧が行われたことを示す資料も散見されます。国家というものの利益や体面のために、弱い立場の人たちがいつも犠牲になっているのだと思います。中国人もロシア人も、個人的に接してみると解りますが、気さくな良い人が多いでしょう。しかしながら、大国中国・ロシアという国家になると、何故あのように傲慢な印象を受けるのか、非常に残念な思いがします。

 西域に話を戻せば、シルクロードを中心にして古来多くの民族が行き来し、権力の奪い合いはあったとしても、そこを旅し暮らす人々は融合していたはずなのです。おそらく、厳密な国境や国家・国民などというような概念さえ無かったのではないでしょうか。私にとっては、ここを通って仏教がサンスクリットから漢字に翻訳され、シルクロードの終点である我が国へもたらされたことに感慨を覚えます。

 また、それよりもはるか昔から、砂漠の中に幻の都が現れては消えていきました。この、西洋と東洋を結びつけ、文明・文化を融合させてきた西域に、心を惹かれるのは自然な発想だと思っています。一連の騒動については、平和で穏やかな解決を望みたいと思います。ですが、中国共産党が第十五世のダライラマを選定するような、そんな光景などは見たくありません。


2008年 4月 10日      桜、さくら


 


 まさに、今を盛りに桜が咲いています。幽玄な夜桜に誘われ、夜な夜な石段を登るようになって、もう、どれ位経つでしょうか。
私も、桜の魔力に取り付かれた人間の1人なのでしょう。

 古来、桜ほど日本人に愛されている花は無いと思います。万葉集や古今集などにも、数多く桜の歌が詠まれるなど、花といえば桜を指すといっても良いぐらいに、日本人の心を捉え続けてきたのだと思います。例えば、紀友則の「久方の光のどけき春の日に、しづ心なく花の散るらむ」などは、百人一首の秀歌としてあまりにも有名です。

 しかし私は、桜の歌というとどうしても「願わくば、花の下にて春死なん、その如月の望月のころ」という西行の歌や、親鸞聖人が出家する時に詠んだ「明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」など、人生の儚さや切なさを彷彿させる歌の方を思い出します。

 寒い冬を枯れ木で過ごし、春が訪れると突然思い出したように佳麗な花を咲かせ、ほんの少しの間だけ狂おしいほどに咲き競い、あっという間に散ってしまう桜。その花の在りようを眺めながら、遠い祖先の時代から私達日本人は、人の命の儚さと尊さを感じてきたのだと思います。

 また、そのようなところからも物語や小説などにも、桜をモチーフにした作品が数多く創作されているのでしょう。なかでも、坂口安吾の「桜の森の満開の下」は、満開の桜の恐ろしいほどの魅力と、人間の煩悩の果てしなさを絡めて描かれ、いつ読んでも背筋が寒くなるような感覚さえ覚えます。

 その他、私の住んでいる地方にも縁がある谷崎潤一郎が、桜をこよなく愛していたことは有名ですし、細雪にも円山公園の枝垂桜をはじめとし、桜の描写が数多く書き込まれています。恋愛小説の大家(と、私は思っています)渡辺淳一の「桜の木の下で」などは、谷崎や梶井基次郎の影響を強く受けていると思います。

 そして、春の桜が咲く頃は、卒業式を終え入学式を迎える時期でもあります。親しい人との別れや、未知の人と出会う機会なども多くなる時期といえるでしょう。そのような、出会いと別れの場面における背景として、ぱっと咲いてさっと散る桜の潔さがとても似合うことも、日本人の情緒感に共鳴するのだと思います。

 さらに、桜の妖しさを引き立たせるシチュエーションとして、夜の暗さというものがあるように思います。私を、惹きつけて放さないのも、夜桜の持つ妖しい魅力に他なりません。単に、桜を口実にした宴を堂々と催せるからなどという、浅薄な理由からではありません。

 夜の闇と、艶やかな桜が作り出す幽玄な情景は、魅力的というよりも人を惹きつける「魔力」を感じさせます。本当に、その根元に人の屍が埋められており、その屍肉を吸い上げているのではないか、と、いうような恐ろしさを秘めた妖しさを感じる時もあります。昼と夜の表情が、これほど違う花は他にないかも知れません。

 ともあれ、今年も多忙なスケジュールをかいくぐり、城跡の石段を何度も登りました。そして、昼と夜のどちらについても、咲き競う花の姿を愛でてきました。友人との夜桜見物や、昼下がりに1人で眺める場面など、状況は様々ですが可能な限り、桜に会いに出かけていきました。

 それにしても、今、私にそのような行動を起こさせる動機は、子供の頃に感じたお花見へ行く喜びとは、まったく異質の感覚に根ざしているように思います。例えば、年を重ねた今だからこそ、若い頃月並みに感じていた昔の人の歌の表現が、鋭敏に心に響くようになりました。飽きもせず、私が桜を眺めに行くのには、そのような自身の変化もあるのでしょう。

 時に、心に秘めた思い出に浸ることもありますし、花の海に幻をみることもあるかもしれません。それも、美しい桜の持つ魔力なのでしょう。


2008年 3月 27日      足で探り、五感で考える




 随分と、日差しが柔らかくなってきました。ぼつぼつ、桜の便りも聞こえてきます。それから、
卒業式や入学式などの案内も、春は別れと出会いの季節でもあります。

 先日、よく晴れた春の日に京都・奈良を歩いてきました。たまたま、大阪方面で用事がありましたので、そのことにかこつけて(便乗して)出かけたのでありました。ついでに京阪に乗って、大好きな商店街のある千林界隈も歩いてみました。各地の商店街がシャッター通りと化してしまう中、そこだけは昔と変わらぬ活気を感じさせてくれました。

 京都では、トピックスでも紹介しているルートを歩きました。今年で、学生生活を終える息子と一緒に歩いてみました。京都に暮らしながら、龍馬のお墓に参ったことが無いというので、案内がてらに親子で散策してみました。四条と五条の間にある高木珈琲店で朝・昼兼用のサンドイッチを食べるところから始めましたが、我ながら良いコースだと思います。

 翌日、奈良には1人で出かけました。近鉄に乗って、大和西大寺の駅で乗り換え西ノ京駅で降りて、薬師寺から歩き始めました。境内には、麗らかな春の日差しに包まれて、紅白の梅の花が綺麗に咲いていました。それから、大修理中の唐招提寺を訪ねた後、再び電車に乗って近鉄奈良駅に向かいました。その後、三条通から興福寺を抜け、奈良公園・東大寺へと歩きました。

 京都に比べ、奈良のお寺は一つ一つが大きく距離も離れています。したがって、徒歩で回るのは中々大変です。最小限のアシストとして、電車やタクシーを一部利用しての散策でした。それでも、足腰は結構疲れました。心は、少年のままのつもりですが、体の方は着実に衰えていることを痛感させられました。

 最後の大阪でも、午前中は京阪電車の各駅停車に乗り換え、千林大宮界隈の商店街を歩きまわってしまいました。さすがに疲れ、帰りの居酒屋で飲んだ焼酎がよく効きました。思いのほか、酔っ払ってしまったように思います。それにしても、実に楽しいひと時が過ごせたと感じています。思いがけずというよりは、半ば強引に作った時間ではありましたが。

 私は、もし余生を過ごすなら、気に入った喫茶店と居酒屋が点在し、狭い通りにアーケードが架かっているような、そんな商店街のある所に住みたいと考えています。できれば、本屋と映画館が近くにあれば、他には何も言うことがないのではないか、などと空想したりもします。

 少し話はそれましたが、どんな街でも自分の足で歩いてみなければ、そこがどんな街でどのような人が暮らしているのかなどは、けっして理解できないように思います。私はそのようにして、知らない街を訪れると必ず歩いてみることにしています。予定を立てず、漫ろ歩くといった感じで、あてもなく歩くことが多いと思います。

 たいていは、商店街の方に足が向いていることが多いようにも思います。何とはなしに、商店街の賑わいが好きなのだと自分でも思います。ただ、最近では個性的な商店が多くの人を集めているような、活気のある商店街は本当に少なくなったように思います。かなり大きな町で、かつては賑わっていたであろうと思われる所でも、シャッターを降ろした店が増えています。

 それでも、歩いてみると街にはそれぞれの特色がありますし、住んでいる人たちの気性や雰囲気も肌で感じることが出来ます。もちろん、どんな街でもそこに暮らす人間は一様ではありません。しかし、街には街の匂いや音があり、それは各々どこに行っても違うものでもあります。歩きながら、思いがけない歴史の足跡や、気に入った店などを見つけると、本当に嬉しくもなります。

 余談ですが、私はいつも自分の足で歩いてみて、その晩の夕食の店や居酒屋を決めてきました。最初のうちは、随分「はずれ」もありましたが、最近ではかなり「確立」が上がってきたと思います。見る目が養われたのか、感覚が研ぎ澄まされてきたのかなどと、勝手に自負していますが、歩いてみなければわからないことは、絶対にあるのだとも実感しています。

 自分の足で歩き、五感で感じなければ実態を知ることは難しいのではないでしょうか。さらに、よく知ることが出来なければ、本当に理解することもできないのだと思います。


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