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NO.16

2008年 12月 13日        商店街の話
 

                     



 まさに師走というのでしょうか。師と尊敬されるような人間ではありませんが、本当に忙しく過ごしてはいます。

 さて、以前にも触れたかもしれませんが、私は商店街を歩くのがとても好きです。どういう訳か解りませんが、子供の頃からそのような嗜好を持っていたように思います。根本的には、お祭りのような賑やかなところが好きなだけかもしれません。また、多分にミーハー的要素を内在していることも、自身で認めているところでもあります。

 かつて、わが街にもアーケードで覆われた長い商店街がありました。一番街・銀天街・二番街・元魚町・本町というような名前の商店街が、繋がりあいながら賑やかな町並みを形成していたと思います。そこでは、洋服屋・呉服屋・靴屋・雑貨屋・家具屋・本屋・食堂・喫茶店……多種多様な店が軒を連ねて営業していました。

 そこを歩く人達の表情は、一応に活気に溢れ、輝いていたように思います。おもちゃ屋の前で、欲しいものをねだって愚図る子どもの泣き声、魚屋・八百屋などの店主と客のかけあいの声、目当ての店に向かう人同士の笑い声……そんな「人間の声」が季節にあわせて流れる音楽(今頃なら、クリスマスソング)に紛れて聞こえていたと思います。

 あてなどなくても、雑踏の中にいて、そのような人々の声を聞きながら歩いていると、私の中に内在している好奇心がくすぐられるのだと思います。魚屋の親父と客のおばさんのやり取りから、親父の人柄やおばさんの家族の様子などを想像したりします。実際には、それは勝手な妄想であり、彼らの実像とは異なるものかもしれませんが、そんなことはどうでも良いことですし、彼らに迷惑をかけることでも無いので、私の思うままにイメージすることができます。

 商店街の良いところは、街路としてその情景が続いて行くといところだともいえます。近年、隆盛を極めている郊外型の量販店では、だだっ広い販売スペースにおいて、決められた値段の商品が陳列されているだけで、個人商店でものを買うような、人間同士の関わりがまったく希薄な感じがします。むろん、「説明」のために必要なスタッフは待機していますが、八百屋でのかけあいとは異なります。

 また、街路として連続していることの良さは、本を読みながらページを繰っていくように情景が変化していくことです。量販店のように、予め売り場が明示されていることは、必要な品物を購入するという目的からは便利ですが、予想もしない面白い光景をみるようなチャンスは皆無といっていいでしょう。もちろん、商店街においても地元であればどこにどんな店があるのかなど、予備知識はつきますが、起きている事象は予測し難いものがあります。

 私は、時々「出張」していきますが、訪れた街では必ず足で歩いて、その街の様子を探ることにしています。特に、商店街を歩くと、その街の特徴や地域性がよく解るような気がします。同じような規模の街でも、歩いてみると様子は随分違うものです。当然ながら、好きな街(肌に合うといった方が良いのかもしれませんが)や、嫌いな街(同様に、肌に合わない。※極めて少ない)も出てきます。

 私が、一番好きな商店街は、千林商店街というところです。京阪の千林駅を降りると、狭いアーケードの商店街にいきなり出ます。昔ながらの、商店街の雰囲気を色濃く残すその街は、惣菜屋や御茶屋・衣料品店など、多様な店が狭いスペースに軒を連ねていて、延々とアーケードで繋がっています。昔ながらの喫茶店のコーヒーの香りや、カレーうどんの美味そうな匂いが、通る人を誘惑します。

 そこを歩くと、あまりに楽しいので、ついには足が思いのほか疲労してしまうのです。私が、初めてそこを訪れたのは、今から十年以上前のことでした。RCCMという試験の受験で千林に泊まった時です(実は、会場の大阪工大からは遠く、宿の選択ミスでした)。明らかに、以前はラブホテルであったような「ビジネスホテル」に泊まり、千林商店街を歩いたのです。

 それが、あまりに楽しくて翌日にはくたびれてしまっていました。そのせいか、最初の受験は不合格となってしまいました。今年は、京都・奈良に出かけた帰りに歩いてみました。「ガレージ通り」と呼ばれる商店街が増える中、千林商店街は活気を保っていました。携帯電話の店が増えるなど、昔とは変わっていましたが、曲がり角にある二階建ての喫茶店で飲むコーヒーの味は健在でした。

 「せんせんせんせん千林~」という、商店街の歌が流れていなかったのが少し残念でしたが、気持ちの良いひと時を過ごしました。いつまでもこのままで、と、願う場所のひとつです。


2008年 11月27日        英傑も悲しむ  

         
 



 さすがに、寒くなってきました。例により、風邪をひいてしまい、今月は咳に悩まされました。しかも、いまだに本調子ではありません。口ほどにも無い体力を嘆いています。

 テロではないかという疑念が持たれた殺人事件は、幼少の頃ペットの犬を保健所で処分されたことについて、長い時を経ての復讐であるというような、何とも不可解な動機に基づくもので、災難と呼ぶにはあまりにも不条理な気がします。身柄を拘束されていく容疑者の風貌をテレビで見ながら、こんな人間が増えていくのだろう、という暗示に似た感覚を覚えました。

 確実にいえることは、この国に住んでいる人間の質が、明らかに変化してきているということだと思います。それも、私のような人間から考えても、悪い意味での異質な感覚を持った人間が増えているように思います。それは、何か得体の知れないような感覚で、話しても解り合えない、聴く耳さえ持たないような感じのする人達です。

 それは、切れるなどという言葉が、当たり前のように使われだした頃から、目にするようになったようにも思います。しかし、それでも一夜明ければ、卵がかえるようにそのような人間が生まれて来る訳では無いのだと思います。それは、上の世代も含めて私達の社会そのものが、作り出した人間達に他ならないものだと思います。

 以前にも述べましたが、父親らしい父親や母親らしい母親によって人間らしく育てられていかなければ、人間らしい子供は育つはずも無く、充分な愛情を注がれなければ、人を慈しみ愛することなどできないのだと思います。しかしそれは、直接血が繋がっているとか、両親が健在であるとか言う意味での条件ではありません。

 例えば、祖父母や伯父(叔父)伯母(叔母)または赤の他人かというような、相対した関係が条件になることでないことは言うまでもありません。また、成長していく過程において、出会っていく多くの友人や先輩など、影響を受ける人はたくさんいると思います。その中で、いくらかでも人間らしい感覚を養える人との関わりを持つことができたなら、何とかなるように思うのです。

 ここで問題なのは、小さな頃というのが大切であるということです。いくら、いい人や良い影響を与えてくれる人にめぐり合ったとしても、既に「聴く耳持たない」状態になってしまっていては、「何とも」ならない結果となってしまいます。私が、この頃感じることは、そのような雰囲気のする若者や、そこに向かっている感じの子供が増えていることです。

 自治会活動や、地域における役職などを通して、時々母校の中学校や小学校にお邪魔することがあります。くわえタバコで車を運転して、子供を送ってくる小奇麗に化粧したお母さんをよく見かけます。別に違法でも何でもありませんが、強い違和感を覚える私のほうが、もはや大勢側ではないということなのかもしれません。

 私が、常々言っている常識や日本人の精神性などというものも、そうではない考え方の人の方が増えれば、非常識な考え方であり、過去の価値観ということになってしまうのでしょう。私個人について言えば、古臭い考え方の人間といわれようが、非常識な人間といわれようが何でもありません。しかし、そのような社会から育っていく人間像を考えると、暗い気持ちにならざるを得ません。

 何でも、お金に換算して価値基準とする時代の流れの中で、思いやりとか潤いなどという言葉が置き去りにされていくように思います。すでに、圧倒的な資本力の差がついているのに、同じリングに上がって戦うことを求めるアメリカ型資本主義は、あるのか無いのかわからないような得体の知れないものまでを取引の対象とし、つじつまが合わなくなってしまいした。

 人間性や人柄などで人を評価・判断できない中で、学歴にのみその根拠を依存し、額に汗せず小賢しく金を稼ぐ人間を成功者と称える社会が、本当に自由と平等な素晴らしい社会なのでしょうか。もはや、職人の伝統技術は、途絶えそうなものばかりですし、美しい里山や二次的自然も荒れていこうとしています。まさに、今がぎりぎり(もう遅いかも)のところだと思います。

 今の日本が、若くしてこの世を去った竜馬や晋作が描いていた国であるとは、私にはどうしても思えないのです。


 2008年 11月13日       総合力のあるスペシャリスト


   

 立冬を迎えました。朝夕は、いくらか寒くなってきたように思いますが、まだまだ冬という実感はしません。それでも師走にむけて、何故かスケジュールだけはタイトです。

 この頃は、腑に落ちない事件やニュースをよく見聞きします。大都会東京において、脳出血の疑いのある妊婦が、受け入れる救急病院が無く、たらいまわしにされ命をおとしてしまうことなど、田舎に住んでいる私には想像もつかないことです。さらに、執行猶予期間に飲酒事故を起こし、被害者が死ぬことがわかっていても逃げた、というような話になると、怒りを通り超え絶望的な虚しさを覚えます。

 先日も、親に叱られ「誰でも良いから他人を殺したかった」といって、軽トラックで若く有望な銀行員をひき殺した少年(19歳)の話が、報道されていました。自分のことしか考えていない、というようりも自分のことすら考えられない、想像力(だけではありませんが)の無い人間が本当に増えてしまっているのだと思います。

 接触事故を起こした時に、まず相手の救護にあたるのは、自動車学校で教えることですが、教えられなくても、人の命を助けるために行動するのが、普通の人間の考えることではないでしょうか。例えば、どこかにぶつけたとして、自分の体にその痛みを覚えていない人間がいるはずも無いことです。

 同様に、子供の頃から他人と触れ合いながら、遊んだりけんかをしたりしながら、徐々に他人とのかかわり方を身につけて育つのが人間であるとすれば、自分に対しても他人に対しても、与える喜びや痛みが感じられるし、想像もつくようになっていくものであると私は考えてきたのですが、この頃その考えが揺らいできています。

 本当に、理解できないような理不尽な事件が多すぎると思います。漠然とした抽象的な言い方になってしまいましたが、実際、そんなことで他人を殺すのか?とか、何のためのリーダーや経営者なのか?と問いかけたくなるようなことが、ニュースを見ていて非常に多くあります。

 ぼやきついでに言えば、「HPをごらん頂き、コラムを通しておよみいただければ」と前置きしているにもかかわらず、礼を失した添削依頼や、あつかましい要望がきたりします。何故、無料でやっているのか、この一点だけでもわかるはずなのですが「便利に利用すれば良いのだ」と、いった感じのアプローチは後を絶ちません。

 世の中の体制や教育がどうのなどと、昭和生まれの頑固者を気取っているわけではありません。いつもいっていることですが、私は、私のような「やんちゃ坊主」が他人に説教できる筈など無いとも考えています。しかし、これもいつも言っていることですが、自分を棚に上げてでも、言わなければならないと考えるから、繰り返して述べているだけなのです。

 つい、筆が進んでしまいましたが(相当ストレスが溜まっているのでしょう)、本題というか今回言いたいことに話を戻します。前述の妊婦がたらいまわしにされた事例で、何故、その症状や顔色を見て切迫した状態をすぐに把握し、とにかく命を助けるための処置を取れる人(医師)がいなかったのであろうかと思うのです。

 逆に、田舎であれば宿直が何人いるかとかいうことではなく、明らかにおかしいと思う人(医師)が現れる可能性が高いのではないかとも思うのです。実際、地方においては専門外の救急患者が運ばれてくることも多々あると思われます。その時に、少なくても医師であるからには、人命を助けるための最低の処置位はできるのではないかと思うからです。

 というのも、先日、NHKのふるさと発という番組で青森県の外ヶ浜中央病院が取り上げられていたのを見たからです。詳しい内容はまたの機会に譲りますが、5人の医師が全部辞めてしまって病院が危機に陥った後、残された現在の秋山医院長のもとで、それぞれが専門以外の診察もこなす「総合医」になることで、地域医療を支えていこうとしている人達のドキュメンタリ-でした。

 専門性を持ち高めることは、スペシャリストとしての誇りだと思います。しかし一方で、医者なのですから人の命を救うことが求められますし、一定の専門知識は備えているはずです。そのうえで、専門以外の科目も勉強して、救える命を増やそうという考え方で取り組まれていることに頷かされました。そのように考えると、技術者の世界にも(特に建設部門では)同じようなことがいえるのではないかと思います。

 一芸に秀でた人は多芸にも秀でるといいますが、総合力を磨くには、まず高い人間力を備える必要があるのだと思います。それこそが、志というものであると思います。


2008年 10月30日       マネーゲームの果て




 日一日と、秋色は深まっていきます。目の前まで来ている忘年会シーズンに備え、体調と体重を意識せざるを得ませんが、思うに任せないのも事実ではあります。

 現在、アメリカ発の世界的金融不況というような話が、かまびすしく交わされています。株価は連日値を下げ、バブル崩壊の頃を下回る水準になったとも報じられていました。円高が進み、高騰を続けていた石油価格も、短期間に下落の様相を見せています。景気対策優先とかで、国会の解散も先送りになったようです。

 私は、経済のことはよく解りませんが、金融とか投機というような所謂「運用」することにおいて、利益を生み出すやりかたや考え方は、何となく胡散臭い気がして馴染めない人間です。相場という考え方は、シンプルな需要と供給ということだけに依拠しているようには思えません。巨額の投資マネーにより、石油価格や穀物価格が高騰することのつけを、広く浅く一般市民が払わされる構図が、何とも納得がいかない気がします。

 食料などでもそうですが、投機的な相場の動きによる値段の高騰で、国内の食糧事情が著しく悪化している国もあります。我が国にしても、いつまでも海外から食料を安定的に、確保できるという保証などはありません。債権や不動産など、何でも投資の対象として、相場というような概念に頼り、マネーゲームを続けてきた綻びが一気に破れてしまった感じではないでしょうか。

 それでも、我が国は歴史的にみても、最も頼りとする同盟国アメリカの言いなりに、弱肉強食経済メソッドを受け入れ、彼の国の求めるところの経済政策や、施策をとり続けてきたといえるでしょう。現実に、現在においても我が国は、自身に膨大な債務を抱えながらも、巨額のアメリカ国債を買い支えています。

 基軸通貨としてのドルを持つアメリカは、いつでもそれを印刷すれば、外貨準備する必要など無いと考えていたのでしょうか。GMなどをはじめとする、目を覆うような国内製造業の衰退と、それにかわる金融・不動産業の台頭、また、そこに資金を供給する投資銀行の繁栄は、強いアメリカの虚像を作り上げていたのに過ぎなかったのかもしれません。

 最近、よくマスコミなどで実体経済などということばをエコノミストが使いますが、実体のない経済があることの方が、私にはおかしいように思えます。投資という概念に基づき、どこまでマネーゲームができるのかを考えることが、優秀な頭脳を持ち高い学歴を備えた人間に、与えられたテーマではないはずだと思いたいのです。

 日本でも物議を醸した、政府による資金注入を行うための、金融安定化法案は低所得層のアメリカ民衆を激怒させました。本来、自由な経済社会には政府が関与すべきでないとしてきたはずの、ブッシュ大統領率いる共和党の施策です。実体経済なるものの頑張りで、今後その状況がどれだけ改善されるのかは、アメリカ自身にも解らないのではないでしょうか。

 我が国においても、お手本としてきた同盟国に求められるままに、進めてきた弱肉強食を助長する規制緩和政策などにより、小賢しくマネーゲームに勝利する人たちが賛美されてきました。そのためのコストダウンの行き先が、正規雇用を減らして派遣社員が増えるような、所得格差の拡大にあるのだとしたら、何とも虚しい社会のような気がします。

 それでも、我が国が明治の開国以来、グローバルな世界経済の中に、一員として加わってきたことは事実ですし、これからもその枠組みの中で、生きていかなければならないことも事実です。それならばそれで、何でもかんでもアメリカの顔色を窺い依存してきたやり方を反省し、本来の日本人の精神性に立脚した考え方を持つべきであると思います。そして、そのことをきちんとした態度で、主張をしても良いのではないかとも思います。

 経済は、とても重要なものだと思います。しかし、人間社会は経済だけで成り立っているとも思いたくないのです。世の中は、弱者をたすける相互扶助や人類愛など、多くの精神的基盤に裏付けられて成立しているものだと思います。技術者としての私も、後に続く人達に問いかける私も、そのような「世の中の役に立つ」ものづくりを目指す視点だけは、持ち続けたいと考えています。

 
 

2008年 10月16日       マルサン運動具店


 


 あちこちで、祭囃子が聞こえてくるようになりました。子供の頃、あれほど楽しみにしていた秋祭りも、今は「こなして」いかなければならない行事の一つです。

 先日、頼まれて久々にガットを張りました。ガットといっても、ギターなどではなくテニスラケットのガットです。それも、テニスラケットといっても、ソフトテニス用のラケットのガットです。何故、くどい説明をするかといえば、同じラケットでも硬式テニス用とソフト(軟式)テニス用では、形状も仕様も全然違うからです。

 今は、ナイロン製になりましたが、私の高校生時代に使っていたものは鯨筋ガットでした。鯨のどの部分から抽出するのかはわかりませんが、水分に弱く雨に濡れると切れやすくなるものでした。しかしながら、ボールの弾きという点において、当時からあったナイロン性のものとは全く違う感触がありました。

 それは、弾きが良いというだけでなく、微妙なタッチがボールに伝わるというような感触があったように思います。言葉にして、上手く形容できませんが、簡単にいうとそのような「感じ」があったということです。値段は、当時1000円~1500円位したと思います(普通のラケットが5~6000円だったと思います)。それでも、全盛期の私達は、気に入らなければ一週間位で張替えたりしていました。

 OBからの援助や、先輩のはからいによるラケットメーカーなどからの援助が、そのことを可能にしてくれていたのだと思います。かつて、岡山は軟庭王国といわれていましたし、今でもレベルは高いと思いますが、確実に私達の前後の世代は、その中で一翼を成す実績をおさめていたようにも思います(以前にも述べましたが、その根拠は圧倒的な練習量だけですが)。

 現在は、ソフトテニスラケットのガットも機械で張るようですが、その頃は手で張っていました。各選手が、自分自身の好みの固さ(張りの強さ、テンションのこと)にガットを張っていました。縦横の本数や、端末の処理の仕方に他人と違う工夫などを競ったものでもありました。私の場合は、後衛(ソフトテニス独自のフォーメーションに由来)ですから、少し柔らかめに張っていました。

 さて、そのガット張り作業をしてみますと、何十年のブランクがあっても、不思議と手が作業を覚えておりました。また、作業をしながら、その頃のことが明確に思い出されてもきました。私達の母校は、というか私の町のテニス部の殆どの選手は、マルサン運動具店というスポーツ品店にお世話になっていたように思います。その店は、銀天街というメインのアーケード街から二番街というアーケード街に入ってすぐのところにありました。

 今は、アーケードの商店街もすっかり寂れてしまい、我がマルサン運動具店も事情があり閉店して長い年月が過ぎてしまいました。しかし、千枚通しを刺してガットをとめる作業などをしていると、その運動具店でガット張りのアルバイトをしたことなどが、如実に蘇ってくるのです。確か、一本張ると400円くれたと思います。お客さんが払う「張り賃」を、そのまま私達に渡してくれていたように思います。

 いつも、笑顔で優しい奥さんが、元気良く走り回る子供たちの世話をしながら、店を切り盛りしていたのを覚えています。私は、マルサン運動具店には、本当にたくさんの思い出があります。テニスだけでなく、スキー用品や様々なスポーツ用品などを、あるとき払いの催促なしのような支払いの仕方で提供していただき、本当にお世話になったお店でした。

 すさんだ「どついたるねん」のような生活に浸りきることなく、何とか一人前の社会人になることができたのも、あの運動具店があったからだと思っています。本当に、居心地の良い「人間らしい」空気の流れるその店に出入りすることで、礼儀などをはじめとして、人並みに人格を形成することができたようにも感じています。

 お金をもらいながらガットを張っているのに、近くの喫茶店からサンドイッチなどを取って、食べさせてくれたりもしました。本当に、その時食べたカツサンドの味は、今でも忘れるものではありません。余談ですが、「別注」と言っていた特別注文のラケット(重さやバランス、グリップ寸法などを指定するラケットで、岡山でインターハイを目指すような選手は皆使っていたように思います)も、ここの店で教えられたものでした。

 ミニサイクルの前かごに、自分のネームの入ったラケットをさし込み、商店街のアーケードを通ってマルサンへ行く、賑やかな人通りを抜けて、活気のある商店を覗きながらのその行程は、今思い出しても楽しい道のりだったように思います。果たして今、あの頃の私のような少年が、よりどころにできるような暖かい運道具店がどこかにあるのでしょうか。

 商店街の衰退と、マルサン運動具店の閉店が、今のこの街をつまらなくしている元凶のような気がして、ため息をついてみたりしています。

 

2008年 10月 2日       うしろすがたのしぐれてゆくか


 



 毎週のように訪れる台風が、通過する度に秋は深まりを増していきます。降る雨に、冷たさを感じるようにもなりました。風など引かぬようにと、不摂生の身を自戒する日々でもあります。

 「後姿の時雨れてゆくか」は、放浪の俳人種田山頭火の有名な句ですが、山頭火でなくても、人生の無常などを想い、ぶらりと一人旅に出たくなったりする季節です。私が、「男はなぜさすらうのか」とサブタイトルのついた山頭火読本という名の、俳句とエッセイ別冊という本を手にした(いつもの「天からの啓示」によって)のは、今から20年位前のことだったと思います。

 種田山頭火は、放浪と行乞の俳人として、また自由律俳句の作者として広く知られています。山口県の大地主で造り酒屋の家に生まれながら、少年期における母の自殺や、実家の没落など数奇な運命に翻弄されて、放浪漂白の俳人として生涯を送った人です。その彼の人生と、そこから迸り出た魂の叫びである詩の数々が、多くの人の心を捉えているのだと思います。

 明治から昭和初期まで、58年の人生が長かったのか短かったのかは解りませんが、盟友でありその世界で並び称される尾崎放哉共々、彼らの生活を援助し、物心両面から支えた人々がたくさんいたということが注目されるところです。果たして、現代の世の中において、そのような「不器用」な人間に、手を差し伸べる人がどれほどいるのかなどとも思います。

 放浪漂白といいますが、山頭火が雲水姿で句作の旅に出るのは、40歳を過ぎてからのことです。人生わずか50年などといわれていたことを念頭に置けば、既にその儚さや期限も意識しての旅立ちであったのだと思います。その鋭敏な感性ゆえの、神経衰弱などを繰り返した後、耕畝という名で曹洞宗の僧として出家・得度してからのことでした。

 しかしながら、出家・得度するまでもそれからも、自身に内在する自我や煩悩と、凄絶な格闘を繰り返した人であったことは間違いないでしょう。また、出家する遠因(主因かも)として、「在家の者が出家すれば、その家の先祖で成仏できていない人を、その功徳により成仏させることができる。」という仏教書の一節を読んだことを、親友であり援助者であった大山澄太に打ち明けています。

 そのことは、彷徨の生涯において、常に母の位牌を携えていたことからも偲ばれます。なんといっても、若干11歳の少年が体験した母の自殺という出来事が、どれほど彼の生涯に大きく影響したか、察するに余りあることでしょう。他にも、父の死や弟の自殺など、衝撃的なエピソードはありますが、11歳の時の体験を凌ぐものは無かったのだと思います。

 その、生涯において常に俳句を作り続け、1万句を超える作品を残したといわれています。その創作数の多さは、同じくその死後においてから絶大に評価された、小林一茶に匹敵するとも言われています。また、毎日日記をつけるようなところも、一茶と極めて類似していると、俳句の師でもある荻原井泉水は述懐しています。

 さらに、雑誌や資料などからの推察ですが、彷徨という意味からは西行に傾倒(心酔)していたところも窺われます。そのようなところからも、男は何故さすらうのかなどという言葉が浮かんでくるのかもしれません。西行といえば「願わくば花の下にで春死なん……」という桜の秀歌を残しています。また、維新の英傑高杉晋作が、自身を東行と名乗ったほど、心酔していたことでも知られています。

 「分け入っても分け入っても青い山」・「どうしようもない私が歩いている」・「ほろほろ酔うて木の葉降る」・「鉄鉢の中へも霞み」・「吹きつめて行きどころがない風」……時間と空間と自分自身を切り取って、一瞬に表現した秀句が無数に残されています。その時々における、自身の状況や心情によって、多くの人々の感性に同律して今日まで評価が高まってきたともいえるのでしょう。

 一方で、波乱に満ちた生涯そのものが、それらの俳句を引き立たせているともいえるのだと思います。禅宗である曹洞宗の僧として、厳しい修行などにも挑んでいますが、時として挫折し弱音を吐く場面も多くみられ、人間の弱さや脆さの内在と素直に向き合っているところに、何ともいえず頷かされてしまう部分があるようにも思います。

 岡山の生んだ画家池田遙邨が、晩年好んで山頭火を描いたことも前述の本の中で梅原猛が指摘しています。そこには、どんな人の心にも、旅へのあこがれと郷愁があるのだといい、それは、存在する全てのものに対する無限ともいえる哀愁と、愛惜を秘めた感情に由来しているのだと梅原氏は語っています。納得。


2008年 9月 18日        お米の国のお粗末な話




 実りの秋となりました。台風が来る前に、急遽稲刈りを致しました。思いの他、豊作のようです。それにしても、自分が食べる米を、自分で作れることは幸せなことだと感じています。

 先頃、三笠フーズによる事故米(汚染米)の転売というショッキングな事件が明るみに出ました。相次ぐ、食品に関する偽装問題などがあり、またかと思われる人がいるかもしれません。しかし、この問題は「またか」で済まされるような話では無いと思います。行われていたことを簡単にいえば、日本人が、同じ日本人に毒の入った食品を供給して、お金を儲けていたということです。

 例えば、今年になってからだけでも飛騨牛について岐阜の丸明、うなぎの魚秀・新港魚類など、食品偽装の問題が発覚しています。また、うなぎに関しては養殖魚に使用してはならない、合成抗菌剤も検出されています。しかし、今回の事例はそれよりも悪質な気がしてなりません。

 中国産ギョーザ事件でも話題になった殺虫剤メタミドホスや、地上最強の天然発がん物質といわれるアフラトキシンというカビ(加熱調理しても分解されない)が検出された米を、人の口に入ることが判っていながら販売した責任(罪)は非常に重いものがあると思います。平然と(してはいないのでしょうが)、記者会見をしている社長の姿を見て、空恐ろしいような虚しさを覚えました。

 そもそも、「事故米」というものが存在すること自体が頷けないことではあります。日本は、ウルグアイラウンドにおける交渉に基づき、一定量の米を輸入することとしています(これを、ミニマムアクセスと呼ぶが、関税に関する取り決めであって、輸入量を義務付けたものではない)。それはそれで、仕方が無いこと(政策上)かもしれません。

 しかし、単純に考えてみても、輸入される製品が規程の品質を満たしていなければ、受け取る必要は無いといえるのではないでしょうか。特に、食品のように人の健康や生命に関与するものについては、厳重なチェック機能が働いて当然だと思います。にも関わらず、「品質基準」を満たしていない米が「事故米」として受領されていることが理解できません。

 話をそちらに進めると、紙面が足りなくなるので戻します。本来、事故米(汚染米)は糊の原料や肥料などにしか、使用してはいけないことになっています。そのようなことは、法律やルールとして決めなくても、人の口に入らないための対策が、施されて当然だと思います。単純に言えば、自分が口にできないようなものを、他人に提供しないということだと思います。

 あえて言わなくても、そのようなことはしない(できない)のが本来の日本人の姿であったのではないでしょうか。それどころか、ダミー会社を経由するような隠蔽工作までして、三笠フーズからは多数の酒造メーカーなど、食品加工会社に汚染米が納入されています。これを受け、自主的に製品を回収する酒造メーカーなどが続出しました。

 これらの、企業が被る被害や損失は、多大なものがあります。さらにいえば、当の三笠フーズという会社自体が、倒産もしくは破産するしか将来の無い状況だと思います。これまでにも、偽装や不正を行ってきた多くの食品会社や老舗料亭が、そのような末路をたどっていることは判りきっていたはずです。

 一方、報道によれば96回も検査に赴きながら、不正を発見できなかった農林水産省の責任も大きなものがあると思います。太田大臣は、違約金を請求するなどといっていますが、コメントなどをみると認識の持ち方が甘いというか、まるで他人事のような印象を持ちました。国民の食料を扱う役所として、検査体制の見直しを含めた、自身の改革についての言及が求められるところです。

 報道が進むにつれ、不正に出荷された先や食用に回された疑惑が広がっています。なによりも、老人ホームや保育園などにおいて、給食として消費されてしまったというような話を聞くと、言いようの無い憤りと虚しさを感じてしまいます。食料に携わる人たちは、頭だけで考えるのではなく、胸に手を当て魂に問いかけて考えて欲しいと思います。

 我が国でも、本当に多くの真面目な生産者が、厳しい条件の中で安全で良い品質の農産物を生産するために、一生懸命努力しているはずなのです。食の安全確保と、信頼回復のために何が行われるのか、目をそらさずに見て行く必要があると思います。

  


2008年 9月 5日        思い出のメロディー


 

 雲の形が変わり、空が高くなってきました。ノスタルジックなセンチメンタリズムを語ることも許されそうで、秋は私の最も好きな季節です。

 先日、テレビで「思い出のメロディー」を見ました。昭和44年に始まったNHKによるこの番組は、今年で40回目を迎えたということでした。私の生まれた昭和33年が特集され、石原裕次郎にスポットライトが当たるなど、ほろ酔い加減で楽しく観ることができました。一方で、そのような夜を過ごすこと自体に、自身の重ねた齢を感じてしまう部分もあります。

 本来は、真夏のお盆の頃に放送していたように思いますが、北京オリンピックの影響でしょうか、8月最終の土曜日の夜に放送されました。懐かしい歌や、それにまつわる思い出が蘇る曲をたくさん聞くことができました。最近の音楽には、思い出やエピソードが付随しているものはあまりありませんが、不思議と30代位までの楽曲には、必ずといって良い程オーバーラップしてくる情景があります。

 登場してくる歌手についても、これまでの時の流れを感じさせるものがありました。裕次郎や村田英雄など、無くなった人たちの映像も見られました。一方、節制と精進が垣間見え、今でも凛とした姿を見せる二葉百合子や、反対に痛々しさえ感じる宮史郎など、それぞれの歌手のそれぞれの人生や、生き様が投影されているような感じもしました。

 東京タワー建設の様子や、長嶋茂雄の巨人入団などの映像も紹介されていました。今から50年も前のことですが、自分が生まれた年のエピソードなので、強く私の心に刻まれているのでしょう。実際の感覚で言えば、ついこの前のような印象です。また、考えてみればあの忌まわしい戦争から、わずか13年後のことでもあるわけです。

 ほんの、十数年早く生まれていれば、戦渦に遭遇したかもしれません。さらに、それより十数年早く生まれていれば、戦場で命を落としていたのかもわかりません。人は、生まれてくる時期を選ぶことはできませんが、何ともいえない感慨を覚えたりもします。その後の、高度経済成長期に向かうこの国の中で私達は育ち、力をつけていく日本と弱ってきた日本の両方を見てきたのだと思います。

 急激に、生活が変化していく中で私達は、欧米式の文化やしきたりの影響を強く受けて育ちました。今では一般的ですが、バレンタインやクリスマスなどのイベントが定着していったのもこの頃だと思います。そのような、時代の流れの中で私達は、自我が芽生え思春期を過ごしていきました。大きく変化する社会の情勢と、我々の変化の時期が重なっていたのだと思います。

 歌謡曲では、浜口庫之助から阿久悠へとつながり、フォークでは高田渡や岡林信康から吉田拓郎・井上陽水へと変わっていく流れだったと思います(非常に、大雑把ですが)。もちろん、ロックや洋楽、クラッシクや邦楽(浪曲なども含め)、映画音楽など多様な音楽を聴きながら、今日まで生きてきたことに違いはありません。

 本来、私は過去の思い出に縋って生きられるタイプではありません。どうしても、次の何か(新しいもの)を探さずにはいられないように思います。もっといえば、とても飽きっぽい性格だとも思います。それでも、時折自分が生きてきた過去を振り返り、思い出が重なる楽曲などを聴いてみると、何故か心が、何ともいえず癒されたりするのも事実です。

 体験によって醸成された情緒感は、その体験を振り返りなぞってみることにより、癒されていくもののように思います。それは、理屈ではなく感覚としてそのように思います。また、甘酸っぱい体験やほろ苦い思い出の多くが、音楽や匂い(香り)・味など、その時の五感を刺激した感覚と一緒に蘇るのも事実です。

 中でも、音楽によってもたらされる効果は、本当に大きなものがあるように思います。楽しかったことや悲しかったこと、辛い体験や苦い経験さえも、過ぎてしまえば良い思いでになっていきます。多くのの場合、そのような思い出の入ったひきだしにつけた「見出し」のように、それにまつわる音楽があるように思います。

 また、心の引き出しの数や形は人それぞれに異なり、つけられた見出しも同様でしょう。例えば、同じ本や映画でも見るとき(年齢や状況)によって、受ける印象は異なります。それでも、そんな心のひきだしや見出しを、より多く持ちたいと願いつつ、我々は生きているともいえるのではないでしょうか。何もしなくても時は過ぎ、何もしなくても人は老いていくのですから……

 情緒的な文章となりました。しかし、それは私が「少しは、人の役に立って死のう」などと考えるようにもなった今だからこそ、感じている気持ちなのかもしれません。


2008年 8月 28日        テレビと常識




 北京オリンピックの熱狂と共に、暑かった夏が終わろうとしています。目の前にある「しなければならないこと」を、こなしているだけの日々ですが、季節は確実に廻っているようです。

 例えば、「オグシオ」の潮田選手について、大事な試合の前に引退報道がされたり、レースを終えたばかりの北島康介選手に、そのようなインタビューや報道が繰り返されるなど、首を傾げるようなマスコミの報道が目に付きました。そのような風潮は、今回の北京オリンピックに限ったことではありませんので、慣れてしまうような怖さも感じます。

 特にテレビでは、視聴率というものに対する偏重のもと、面白ければ良いとか、単に好奇心を刺激するための番組作りが目立ちます。この、最も大衆に影響を及ぼすメディアにおける質の低下というか、「志」を感じられない報道体制というものが、時系列な感じで進んでいるように思います。

 もちろん、娯楽を提供する意味での需要は大きなものがありますし、多様な情報提供の形があって良いのだと思います。しかしそれは、放送を提供する側におけるきちんとしたルールやモラルが、根底にあってこそ認められるべきものであるはずです。さらにいえば、そのルールやモラルは社会の常識に依拠して成立するものだと思います。

 そのように考えると、この国の「常識」というものが変化していっているということなのかもしれません。少なくとも、私が考えているというか、価値規範の基準に据えているような概念とは、ずれていっているように思います。また、その傾向は重力加速度的に、年々顕著になっていくようにも思います。

 一方で、この常識という言葉自体が曖昧で、極めて捉えづらいものであることも事実です。また、国や地域、時代などにより内容が大きく変化するものでもあります。私の考える常識も、自身が受けた教育や体験に根ざしているに過ぎず、グローバルスタンダードと呼べるものではないことも理解しているつもりです。

 例えば、かつてのお笑いブームにのって大ブレークし、今では大御所となったビート武や明石家さんまのやっていた(やってきた)笑いというものは、社会におけるきちんとした常識というものがあってこそ成り立つ笑いだと思います。常識に対する風刺やパロディが(常識を的確に捉えた)、多くの人(常識を理解し備えた)に支持されたのだと思います。

 価値観が多様化するのは良いことだと思いますが、長くこの国に育まれてきた日本人の精神性に根ざした「常識」というものが、失われていきつつあることには憂慮せざるを得ません。テレビ番組でいえば、皆で一人をいじめて笑いをとる手法などが目立ちます。また、芸能人や有名人が集まり、自分達だけが楽しんでいるような番組もよく見かけます。

 視聴者を、そこに同席させているような感覚に引き込む効果を狙っているのだと思いますが、格差の広がっている社会の中で、圧倒的な共感や同調を得ることは難しいでしょう。芸人と呼ばれる人たちの、ブームやピークが極めて短くなったことをみれば、その背景がわかると思います。もちろん、作り手側だけでなく、見ている受け手側における常識の変化が、強く根ざしていることは言うまでもないことでしょう。

 例えばアニメなどでも、スポーツ根性ものや勧善懲悪などというものは流行らず、ドラマにおいても人間性を追及したり深く描きこむようなものは、支持されない傾向なのだと思います。それは、見る側においても辛抱や想像力が、必要だからなのではないでしょうか。お手軽に、問題を解決してくれるスーパーヒーローや、ありえないシチュエーションの展開に頼りすぎている(作り手も見る側も)ように思います。

 そのような現状の中、脚本家の倉本聰氏によるテレビへの絶望発言などもありました。理由として、視聴率偏重のドラマ作りや、それに起因する役者スタッフの質の低下などが挙げられていました。まさに、テレビにおいても番組を作っているのは人間であり、人間力や人間性が投影されるのだと思います。

 日本人の常識は、今後も変化していくものなのでしょう。それはそれで、仕方の無いことだとは思います。それでも、本来の日本人の精神性に根ざした常識が、受け継がれていくことを願わずにはいられません。そのように考える時、本当にテレビの持つ影響力は強く、絶大なものがあると思います。また、その背負っている責任も、極めて重大なものがあります。

 それ故に、そこに携わる人々について、資質の向上を願うばかりです。


2008年 8月 14日        恥と汗の積み重ね




 お盆になりました。その、根源や理由付けはともかく、お盆を一つの区切りとして先祖のお墓などに参ることで、厳しい夏にけじめをつけるような風習は、この国にあっていると思いますし私は好きです。

 外に出るのがためらわれるような暑い陽射しを眺めつつ、冷房の聞いた部屋でキーボードなどたたいているような生活ですが、それでも昔は良く汗をかいたほうだと思います(冷や汗なら、今の方がかいておりますが)。これまでも何度か述べましたが、部活の練習量は凄まじく、「不良生活」が主体の私には本当につらい汗をたくさん流しました。

 その後、田舎の建設会社での生活においても、現場の一作業員からのスタートでした。徒弟制度でいう丁稚のようなものでしょうか、とにかく、一通りの知識(建設現場における)を身につけ、「自分の意志」で現場を歩けるようになるまで何年もかかったと思います。その間も、それぞれの職種の職人さんと同じように汗を流しました。

 幸か不幸か(自分が意図して過ごした日々ではないので)、物事を体で覚えることの大切さについて、学ぶための期間だったようにも思います。今でも、鉄筋を結束したり、左官のこてをあつかったり、重機や大型ダンプの運転、溶接・型枠仕事他、建設現場で必要な作業はできる自信があります(それに必要な資格や免許も保有しています)。

 「体でものを覚える」などというと、前時代的精神主義のように思う人もいますが、そのような感覚を養うと、盛土などにおける土の最大乾燥密度や最適含水比・透水係数なども、足で踏みしめる感覚でわかるようになります。コンクリートのコンシステンシー・ワーカビリティーなども実感として感じられるようになるのです。

 型枠にかかる側圧を自身が計算しセパレーターを割付て、実際に溶接してみたり、型枠の締め付けを確認したりすると、どのようなところにポイントがあるのかが良く理解できます。そのうえで、自身の手でバイブレータを持ってコンクリートを打設してみると、本に書いてあることと実際の違いや、その季節や場所・天候など、多くの要因により教科書どおりではない「その時のベスト」があるのだということもわかるようになります。

 しかし、ここまで述べたことは、私の体験してきたことのほんの一部のことですが、それでも実際に技術的な理論について、直感的に肌で感じられるようになるためには、本当にたくさんの経験が必要なのです。そして、汗を流して自分の手でやってみるほかに近道などはありません。親に見せられないような、危険な場面やすれすれの体験も時にはありました。

 これも体験的にですが、そのような「辛抱」は若くなければできません。というか、体力的にも無理だと思います。また、若さの良いところは、失敗したり傷ついたとしても立ち直る回復力が強いというところにあるのだと思います。少し話がそれますが、どんなに大きな失恋でも、若い時のものなら立ち直ることができるでしょう。振り返ってみると、そのことは断言できると思います。

 恥ずかしい経験や、辛い思いを若い時にたくさんしたほうが、結果的には自身を向上させてくれるように思います。しかし一方で、それにどれだけ耐えられるかという問題があります。建設現場の例でいうと、物をつくる面白さを感じられ力の入れ所がわかるようになるまで、辛抱できる人が本当に少なくなったのではないでしょうか。

 必死で、先輩達の背中を追いかけてきて、後を振り向くとだれもいない(本当に、誰もいないわけではないですが)。というのが、建設現場を去るときの私の心境でした。当時ですら、そのような感じですから、若い者を遊ばせ養うような余裕の無い今の建設現場では、人を育てていくこと(個性と創造力のある建設エンジニアを育てること)は本当に難しいのだと思います。

 薬師寺再建の棟梁西岡常一は言っています。「器用な子は、名人にはなれん」と、小器用に、何でもすぐわかるということは、すぐに忘れるということでもあります。向こうが透けて見えるような鉋くず一枚を頼りに、何年も棟梁を師と仰ぎ続け、ひたすら鉋の刃を研ぎ続けられた人たちだけが、現代の名工として活躍されているのも事実です。

 顔や表情を見て、相手を判断できるような人間力と引き換えに、ネット社会を小賢しく立ち回る人が、上手な生き方をしている人なのかもしれません。要領よく情報を収集して、効率的に資格を取得していくことも良いことだと思います。しかし、恥をかき汗をかきながら身につけるべき何かが、伝わっていっていないように思えてならないのです。受験指導などをしていても、その思いは深まるばかりです。

 本当に最近は、「顔の見えないやりとり」の限界とむなしさを強く感じるようになりました。「もう、いいかなあ……」という気もしています。最後は、愚痴になってしまいましたが、それでも言いたいことは、自分で汗を流し考えたことでなければ「あなたの意見」にはならないということです。


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