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NO.17

2009年 4月 23日        順送り
 

                     


 好天の一日、同級生のゴルフの会に出かけてきました。時は流れ、姿は変わっても、同じ時代を一緒にを過ごした仲間は変わりません。会えば、たちどころに昔に戻れ、楽しく過ごすことができました。

 そういえば、先日も大阪からの帰りに、高速バスで高校時代の部活の先輩と隣り合わせになりました。本当に、偶然のことでした。結構混んでいたのですが、なかなかとなりの席に座る人が来ないので、少しほっとしていた時でした。すいませんね、と、乗り込んでこられたのが八歳上の先輩でした。おかげで、帰るバスの中は退屈することはありませんでした。

 それぞれに、知っている同じ部の同窓生の消息や、情報などについて交換しあいました。本当に、「決意」などをもって三年間在籍していたわけではありませんが、途中でやめなくて良かったなあ、という気がしています(部活について)。よくも悪しくも、部活をはじめとする高校時代からの繋がりによる人との関わりが、今の私に大きく影響していることは紛れもない事実です。

 中には、「あの時のあいつが~」と、今の私を揶揄する人もいますが、多くの先輩方や後輩達に助けられてもいます。「信無くば立たず」などと嘯いていますが、一人でできることなどはわずかなものです。支持してくれる仲間や、支えてくれる友人などがあってこそ、潔い行動が取れるのだと私は考えています。そのような意味からは、結構恵まれている方だとも思っています。

 例えば今の日本では、一年間に三万人以上の自殺者が出ています。長引く経済の低迷の中で、昨年からは「百年に一度」という未曾有の経済危機などが叫ばれ、悲観的な雰囲気はさらに重苦しくなっています。また、真面目な人が馬鹿を見るような制度や仕組みのもと、介護疲れなどに起因する自殺者も後を絶ちません(清水由貴子さんも亡くなりましたね)。

 誤解を恐れずにいえば、他人に迷惑をかけず、というか、なるべく人の世話にならずに頑張る人が、あまり利用する機会に恵まれず、金に任せて、或いは「姥捨て山」的に利用する人のために、ビジネスによる介護サービスが存在しているようにさえ感じてしまうのは、私だけではないのではないかと思います。本来、人は家族によって老後の世話になり、そして看取られるべきものだと思います。

 今日の核家族化の浸透や、日本人のライフスタイルの変化などにより、そのような、「順送り」ともいえる日本的な介護や臨終を迎えられる人は、本当に少なくなってしまったように思います。何でもお金で評価する欧米式資本主義で、介護サービスの値段を決めるような考え方は、日本人の精神性には馴染まないと思います。また、これまで苦労してきた人への尊敬や、受けてきた恩に対する感謝などを、どのようにお金に換算すれば良いのでしょうか。

 今日では、子供達は祖父母など身近な人の臨終に立会い、人間の死を目の当たりにする機会が極めて少ないのだと思います。さらに、両親が年老いた祖父母を介護する姿や、家族の一員として自身が協力するような体験を、まったくしないで大きくなる子供がほとんどであることも、現代社会の特徴であると思います。

 私の住んでいる地域にも、綺麗な施設ができました。老人介護や、お年寄りを引き受けるための、施設も次々にできています。一見、快適で何不自由の無い場所のように見えます。しかし、どんな立派な施設で暮らすよりも、、家族と一緒に暮らしたいと願うのが人間だと思います。事実、そのように嘆かれる声もよく耳にします。また、預けている側の心情も、本来は一緒に暮らし、自分の手で世話をしたいのだという、悲痛な思いを聞くことが多いのも事実です。

 経済は、本当に大切です。お金が無ければ、何も始まらないのだと思います。しかしながら、地域社会から「うるさいご隠居さん」のようなお年寄りの姿が消え、生活に追われ忙しすぎる大人たちは、子供に声をかける余裕も無い、と、いうような社会が、本当に豊かな社会なのでしょうか。家庭や地域社会から、人としての人間らしい価値規範などを、教えられないまま育つ子があまりにも多いような気がします。

 本当に、ぞっとするような酷い言葉を使っている子供達をみると、それらの子供の育っている背景を、考えずにはいられなくもなります。子は親の鏡といいますが、社会を写す鏡であるともいえると思います。人は人によって育てられ、人によって看取られながら命を終えていくものです。古くから繰り返されてきた日本人の営みは、そのような、順送りの慈しみに根ざして繰り返されてきたもののはずです。

 今より、少しぐらい不便な世の中でも、良いのではないかと思います。また、愛情や慈しみの気持ちを、お金で買うことはできないのだとも思います。便利さや、煩わしさの忌避をお金で賄わず、順送りに負担していくことが、実は大切なのだと思います。


2009年 4月 9日        信無くば立たず  

         


 今年は、早いといわれていましたが、開花頃の花冷えのためか、桜の咲き方は、緩やかで長持ちしそうです。美しさも、いつもの年と変わらず、妖艶さも漂わせています。今年も、満開の桜がお城山(鶴山)の石垣を彩っています。

 3月末から5月の初旬まで、今の時期は、あらゆる団体や組織における総会が、目白押しとなる季節でもあります。また、春を迎え、地域のお祭りやイベントも催されます。卒業式や入学式に加え、それらの行事やイベント、さらにその下準備および根回し(意外と必要で重要)などをこなしていくと、本当に自分のための時間などは、取れないような状況になってしまいます。

 自治会活動における改革や、それに伴う戦いの日々などについては以前にも述べました。以前に比べ、そのことが進んでいることにも触れました。それらの取り組みの中で、目の前のことを一つずつこなしている日々ではありますが、周囲からは信頼の付託を受けるようにもなっていくものです。そのことは、やってきたことへの手ごたえとして、喜びを感じるものではあります。

 しかしながら、人から信頼されるということは、大きな責任を背負うということでもあります。自治会などをはじめとして、地域における位置づけとしての役職は、年毎に重要な責務を預かるようになってきました。私自身は、いつも述べていますが「その柄」ではないと思っています。また、それだけの人望を得るほどの人徳を、備えていないこともよく自覚しているつもりです。

 これも、いつも述べていることですが「ほっておけない気持ち」で、ここまでやってきただけなのです。しかしながら、それらの活動を通して今感じることは「信無くば立たず」ということだと思います。孔子の残した言葉である論語の一節からきているものですが、無信不立(しんなくばたたず)の前に民をつけ民無信不立とするのが正しいようです。

 弟子が、孔子に政治について尋ねた時、孔子は「食料を十分にし、軍備を十分にし、人民には信頼を持たせることだ」と答えたといわれています。この時弟子が、三つのうちで止むを得ず捨てるならどれが先かと尋ねたら、孔子は「軍備を捨てる」と答え、さらに残った二つではどっちが先かと問われると「食料を捨てる」と答えたという話です。

 その理由について、「食料が無ければ人は死ぬが、昔から誰にも死はある。しかし、人民は信頼が無ければ安定しない(民無信不立)」と孔子は語ったといわれています。私が、やっているのは「政治」ではありませんが、地域の人々からの付託を受けた取り組みや、活動をしていることには違いありません。かえって、議員のように歳費という名の「給料」を貰っていないだけ、行政に対する発言力も強いものがあります。

 少し話がそれましたが、地域の代表である人間は、地域の人々が考えていることや望んでいることを、代表して具現化していくことが大切だと思います。そこに乖離があると、地域住民からの信頼は得られないと思うからです。もちろん、我田引水的な地域エゴに根ざした発想や視点だけでは、はなからリーダーとしての資質に問題があると言わざるを得ませんが。

 不埒な人間であり、叩けばいくらでも埃のでる人間ですが、この頃私は、物事をシンプルに考えるようになりました。地域を代表して、また、大きな組織の中の一員としてものを言う時、自分を信頼し権限を付託している人達が、何を望んでいるのかを考えて発言するようになりました。様々な状況や、複雑な条件などが絡むと、判断が難しい場面は多々あります。

 そのような時、そのような場面になればなるほど、無信不立という言葉を念頭に置くように心がけています。そうすることで、煩悩まみれで脆弱な精神の私ですが、私利私欲や利権などを極力排除した判断ができるように思います。故郷(故郷の人々は)は何を求めているのか、この町はどうあるべきなのかという視点から離れたら、皆を代表している資格は無いのだとも思います。

 そのように考えると、最初の方でも述べましたが、人から信頼されるということは大きな責任を負うことのように思います。そしてそれは、非常に大きな重圧でもあります。むしろ、大きな権限や権威があるのではなく、それだけ大きな責任があるのだという風にも思います。だから、なおさらシンプルに考えるようになってきたのかも知れません。

 信頼をかちえることは、本当に大変なことです。一方で、それを失うのは一瞬かもしれません。どれだけ、自分にできるのかはわかりませんが「信無くば立たず」肝に銘じたいとは考えています。


 2009年 3月 26日        近頃テレビ視聴記


 


 三寒四温を繰り返し、ようやく春の日差しが、実感できるようになりました。気がつけば、弥生の月も過ぎようとしています。物憂いような感覚は、花粉のせいばかりではないようですが。

 時期的に、年度末ということもありますが、公私共に忙しい日々を過ごしています。年々、公の部分における多忙の比重が大きくなっていく中で、やりきれないストレスが澱のように溜まっていくように思います。その一方で、超えていく試練の分だけ強くなって(鈍くなって)いく、自身の精神を横目で見るときもあります。

 結果的には、見る人によって、また、利害関係によって自分ヘの評価が変わることは、本当によく解っているつもりですが、それを気にしようがしまいが、心は疲れていくものでもあります。それでも、その補完作用とでもいうのでしょうか、心のあり様というか、疲れないための防衛本能というものも、人間には働くもののように思います。そのための友人・酒・本・映像……比較的に恵まれている方であるとは思います。

 私は、折に触れ「不埒な自分」を標榜しております。実際、過去を通して、叩けば埃がいくらでも出るような人生です。さらに、切羽詰らなければ努力などしないし、気が向かなければ動こうとしない人間だと思います。横着で我がまま、本当に身勝手な人間です。例えば、本であれ雑誌であれ、気が向いたものを気が向いた時に集中して読みますし、読みかけると読みきるまで邪魔されたくもありません。

 そのことは、テレビの視聴などでも同様です。まったく、気がむくままに自身の嗜好に合わせて、気が向いたものばかりを見ている感じです。うまくいえませんが、暇つぶしにテレビを見る感覚では無いように思います。といっても、この頃は随分「街角を歩く」ような番組を見ます。ぶらっと、どこかに出かける時間が無いので、散歩する感覚に飢えているのかもしれません。

 いずれにしても、根っこはかなりのミーハーですし、情緒的には多感な方だと思います。自身の思い入れが強いので、勝手な思い込みや独りよがりな趣味嗜好で、テレビの番組を見て過ごすことも良くあります。つい先日の連休も、やくざ映画やマイクタイソン特集などを連荘で見ておりました。また、「復活吉田拓郎」をほろ酔いで、頷きながら見てもおりました。考えてみれば、BSでの視聴が多いように思います。

 そういえば、その日曜日には将棋NHK杯戦で、羽生対森内戦を見ました。息詰まる熱戦を制して、好調の羽生善治名人が、NHK杯という早差しのタイトルも獲得しました。解説の渡辺竜王を唸らせる終盤の妙手もありました。もちろん、対戦者が森内九段でなければ、あのような好対局にはならなかったでしょう。余談ですが、個人的には谷川九段のA級残留を、とても喜んでいます。

 NHK杯戦の囲碁のほうでは、「宇宙流」武宮正樹九段が決勝進出を決めました。次週、結城九段との決勝戦です。文字通り「中年の星」の、輝くような活躍を期待したい思いです。もちろん、WBCの野球(祝優勝)や相撲なども見ておりますし、ボクシング・ゴルフ・サッカーなどスポーツがらみのものは、わりとよく見ています。そういう意味では、テレビは良く見ているほうかもしれません。

 しかしながら、テレビというものは、実は非常に危険なものでもあると思います。そこから、大量に流されてくる情報について、どれ位見極めて咀嚼できるか、と、いうことを考えると、見ないほうが良いというのが答えなのかもしれません。本当に、ワイドショーや民法各局における夜のニュース○○・報道○○というような「ニュース的」番組においては、その意義を強く感じます。

 恣意的な部分や、偏った見方などについて、どれだけ自身のフィルターにより、排除できるかというような部分の、重要さをとても強く感じています。最近では、特にドラマ仕立ての「正義の味方」的報道が多くなっているように思います。そのような背景が、ともすれば「バン記者」などで行われたような、やらせ事件などに繋がるのではないでしょうか。

 一方で、ただ放送枠を埋めるためだけに制作されたようなものや、他にやることは無いのか?と首を傾げたくなるような番組が、本当に多すぎるように思います。チャンネルが増え、視聴率獲得のための競争が激しいのでしょうが、インターネットの普及などもあり、テレビそのものが飽きられて行きつつある中で、奇をてらうばかりでは先行きは暗いのではないでしょうか。

 昭和30年代を取り上げた番組などを見ておりますと、街頭で若者の声を聞く場面などで、世の中や政治のことに対して今よりもはるかに、きちんとした見識と意見を持っていたことがわかります。そのようなことを考える時、最も大きな影響力を持つメディアなのですから、テレビの持つ責任は、本当に大きなものがあるはずです。

 そこのところを、それに携わる人達に考えてもらいたい。このようなぼやきが、いつまで続くのだろうかと思います。


2009年 3月 12日        戦いの連続




 3月になりました。年度末の忙しさと、卒業式など物事のけじめの季節です。三寒四温というには、少し乱れた天候ですが、おかしな気候という表現にも、慣れてしまう気持ちの方が怖いような思いがしています。

 本当に、何度も繰り返して述べていることですが、私のようなものがこのようなHPなどを通して、公にものを語ることなどは、本当におこがましいことですし、恥ずかしいことでもあります。それでも、不埒な自分を棚に上げてでも、言葉を発しなければいられないような、そんな時代を私は生きているのだと思っています。今回は、少し生臭い話をして見ます。

 私は、現在地元自治会を代表する役員をしています。また、その自治会組織が集約・統括された連合町内会においても、役員としての職に任じられてもいます。さらに、そのような立場となって、約3年ほどが経ちました。それらの活動を通して、今最も強く感じることは、「いったい、この国の大人たちはどうしてしまったのだろう」という思いです。

 自治会組織などというものは、本来は、公務員を退職された人とか学校の校長をされていたような、地域において人望のある人がその長になり、良識と高い見識に基づいて、地域住民のための活動が行われるものである、と、私は考えておりました。実際に、多くの自治会組織において、そのような運営が行われているのだと思います。

 しかし、単位町内会長となった4・5年前から、いや、地元町内会の会計を預かった約10年前から、私は常に戦い続けてきたように思います。それは理不尽な、とても常識からは考えられないような、不当な自治会運営というものと、今日まで戦い続けてきました。「ちゃんとした」町に住んでいる人には、何を言っているのか理解できないかもしれませんが、とにかくそういうことです。

 長い間、私の住んでいる地域では、地元住民が考えていることと町内会(自治会)がやっていることが乖離していました。地元住民が知らない間に、地元住民が望まない場所に保育園が移転しそうになったりしたこともあります(この時は、それに気がついた人たちの署名運動などで頓挫しましたが)。とにかく、地域住民の合意形成が計られないまま、事業が進められたり企業が進出して来るといった具合でした。

 当然、そこには各々の事業実施などに関わる、便宜や利権の供与なども行われていたのだと思います(実際には、「思う」ではなく「いた」ですが、個別の例を引くと生臭くなりますので)。バブル期を経て、約20年位はそのような状態が続いていたように思います。本当に、一部の実力者というのか不心得な人間により、自治会組織が牛耳られていたという感じです。

 まことに、その手口は巧妙且つ狡猾で、また脅迫的な一面を備えておりました。周到な根回しと、弱みを握っての脅迫(差別的発言への糾弾など、これにも色々な手法がありますが)、不当な飲食等への連座など、様々な手法で一蓮托生の組織にしていくわけです。相当な信念をもっているか、よっぽどの頑固者でなければ、いつの間にかその一員になってしまいます。それは、「善良な市民」が考えている範疇を、超えている世界といえるかもしれません。

 まさに、長いものにまかれてしまうわけですが、普通の穏やかな人生を過ごしてきた人(まして、公務員や教師のような人は特に)では、とても太刀打ちできないやり方です。周到なしたたかさと、恥を知らぬ厚顔を備え、堂々と公を食い物にする人間が、この世には存在するものなのです。都市部に住み、地域との関わりの薄い人には、何をいっているのか到底理解できないようなことが、今尚行われようとしているし、行われているのです。

 そのような中で、私は今日まで戦い続けてきました。いうにいえない我慢と辛抱もしてきました。次第に、支持してくれる人や仲間も増えました。幸いにも、今では私の住んでいる地域においては、かなりの「民主化」が進んできました。本当に、誰かの顔色を気にせずに思ったことがいえる自治会組織になったと思います。行政に対し、高圧的な電話で呼びつけ、無理難題を吹っかけるようなことも、できない仕組みにしています。

 手前味噌ですが、私の地元はかなり良くなったと思います。住みやすい故郷に、近づいていると思います。しかしながら、その自治会を全市的に統括した連合町内会においても、実は同様のことが行われていたのです。強面の実力者による、恫喝に基づく専制体制が続いています。ここまで述べると、「何という町なの?」と思う人もたくさんいると思いますが、実際の話です。自治会のような「あいまいな」組織においては、「長いものにまかれる」ようなことは起こりがちなのです。

 年度末や改選期をむかえ、一筋縄ではいかない胡散臭い攻防が続くのも今頃です。自分の仕事や利権のために、自治会など公の組織を利用する人間や、利用しようとする輩とのあまり援軍の無い戦いが、この春も続くことになるのだと思います。

 
 

2009年 2月 26日        世襲


 


 本来は、雪になるべき雨なのか。それとも、春雨前線の前倒しなのか。いずれにしても、ここのところ名ばかりの春に(暦の上での)、冷たい雨の降る日が多くなっています。

 冷たい雨同様、お寒い限りなのが現政権の内閣支持率でしょう。そもそも、就任した時の喜色満面な表情や、報道陣の前を通るときに見せる、軽い敬礼のように右手を上げる仕草などを拝見しておりますと、本当に、この人は「総理」がやりたいんだなあ、と、いう気持ちが、十分すぎる程に伝わってくるように思います。

 就任から、今日までの迷走ぶりや取り組まれてきたことなどを見れば、何かを為すために総理大臣になりたかったのではなく、単に総理大臣になりたかった人なんだなあという風にもおもいます。遂には、盟友であったところの財務大臣による世界的な失態により、おぼつかない支持率は一桁が見えそうな状況になってしまいました。

 そのような、視点でその世界(政治の)を眺めてみますと、二世・三世などといわれる議員があまりにも多いような気がします。所謂「世襲議員」というものだと思います。考えてみれば、前総理・前々総理も世襲議員でした。今回、全世界に恥をさらした前財務大臣も二世議員でした。少し大雑把に言ってしまえば、それらの人の中で、前代や先代を上回る評価を得られる人はいないのではないでしょうか。

 広辞苑によりますと「世襲」とは、その家の地位・財産・職業などを嫡系の子孫が代々受け継ぐこととなっています。地位というものについては、職業や財産を含めた多くの要素が絡むので、定義を含めて触れるとややこしくなるので置いておきます。例えば、財産というものであれば、子供や孫が受け継ぐのは当然のことだと思います(しかし、この点においても我が国の法律では、重い相続税により単に「受け継ぐ」ことに制約があります)。

 一方、職業の面からみれば、個人商店や職人としての仕事などは、代々受け継ぐことも許されるものだと思います(受け継ぐ人の資質により、栄枯盛衰はあるでしょうが)。華道・茶道などの家元や歌舞伎・舞踊の世界についても、当然のように世襲が行われています。ただし、そちらの世界では、後継者の実力によって関係者や世間の評価が圧倒的に違ってしまいます。

 例えば、立派な名前を襲名すれば偉大な落語家になれたり、絶大な人気を得られるわけではありません。さらにいえば、看板や家名に依存しすぎ、本来なすべきことを軽んじたりすれば、その世界からも疎んじられてしまい、家元などともいっておられなくなるのではないでしょうか。そもそも、芸能や芸術・スポーツなどの世界においては、その家の子に生まれたからといって(名人やスター選手の子であっても)、その才能を受け継げることは保証されていません。

 そのように考えると(考えなくても)、どのような世界においても、個人の資質や能力により与えられる職責が決まってくるのだと思います。また、その職責を通した業績や社会の評価などにより、得られる評価や地位も変わってくるものだと思います。このように考えると、国会議員の子息であった人が当然のように後を継ぐということが、果たして良いのだろうかという気がします。

 現在の、日本の選挙風景を見ておりますと、アメリカ型を意識したショーアップ戦術と、先代の死去などに伴う「弔い合戦」に象徴されるウェットな日本型「浪花節的手法」が混在した形で、日米双方の悪しき点を融合した感じがしてなりません。つまらないところだけ、日本人の精神性が残っているというか、その部分を旨く利用されているという感じがします。

 政治家の場合、後を継がなければならないのは、高い「志」であって「血筋」ではありません。親の看板・地盤・鞄などについて、巧みに利用する術に長けている人は良く見かけます。とにかく、あとを継ぎ議員になりたいのだという、情熱がある人もよく目にします。また、そのために披瀝する熱い抱負や信条も良く聞きますが、その後(議員になったとして)何かを成したという人には、中々お目にかかることはありません。

 そういえば、衰退していく内閣や、危機的状態に揺れる与党の様子を、政局最優先というスタンスで、模様眺めしている野党第一党においても、表に出る人や党首は世襲議員です。「身体検査」などをすれば、たくさん「埃」がでてくるというような噂も耳にします。そもそも、この国に真の民主主義が行われた歴史があるのだろうか、などと考えたりすることもあります。

 欧米列強に追いつくため、「まずは形から」と新たな制度を構築して行き、志半ばで倒れた大久保利通が、自ら作った官僚制度を掌握し、良い方向に導く時間だけ生きながらえていたら……、などと考えている位の力しかありませんが、せめて声の届く人達だけにでも、何かを伝えたい気持ちです。

 

2009年 2月 12日        百年に一度


 

 如月です。1190年旧暦2月16日に、西行法師が73歳で亡くなっています。望み通り「その如月の望月の頃」で、桜の花が満開に咲く満月の頃(旧暦なので)であったようです。凡人なれど、あやかりたいと願う気持ちも人情でしょう。

 アメリカ発の金融危機は、未曾有の経済危機などといわれ、マスコミによる加熱報道が繰り返されています。その結果、得体の知れない危機感が、人々を包んでいるのではないでしょうか。したり顔で、百年に一度の出来事であるなどと、まことしやかに吹聴するエコノミストたちは、去年の今頃何を語っていたのでしょうか。

 もちろん、様々な指標の動向などに基づき、現在の世界経済の状況を形容すると、「百年に一度」という表現になることについては、私にも理解はできますし異存は無いつもりです。それでも、ただ生きるだけでも、百年間生きられる人はまれなのに、「百年に一度」の出来事を、どのように実感すれば良いのでしょうか、教えて貰いたい気がします。私の、生来の習性なのかもしれませんが、実感できないことは他人に説明し辛いように思います。

 例えば、「派遣切り」の時もそうですが、マスコミは正義の味方よろしく、派遣労働者を解雇する企業を「加害者」扱いにした報道を繰り返しました。しかし、「ピンはね」で利益を貪った派遣会社について、糾弾する報道などは皆無だったのではないでしょうか。規制緩和など、政府の責任への言及は見られましたが、結果的に一連の流れの中で、最も利益を上げたのは派遣会社だったはずです。

 派遣会社は、派遣した労働者に対してこれまで得た利益の中から、応分の救済をしてもおかしくないし、それ位の責任があるように思います。さらにいえば、派遣労働者の側においても、いつでも解雇される可能性があることなどは、理解した上で派遣契約を結んでいたはずです。もちろん、残存契約期間を短縮されての解雇など、理不尽と思われるケースもありますが、そのような場合こそ、派遣会社の責任が問われるともいえます。

 絵面からいえば、派遣を打ち切られ路頭に迷う派遣労働者を被害者にし、解雇や雇用の打ち切りに踏み切った企業を悪者に見立てれば、「正義の味方的」報道が成り立つのでしょう。しかし、派遣労働についての問題や課題は、そのような簡単な図式で語れるものでもないはずです。行き過ぎた規制緩和などもありますが、根本的には、人と人の関わりが希薄になったこの国のあり方に根ざした問題があるように思います。

 かつてのように、企業が直接雇用をしようと思えば、採用に関する人物評価などに慎重にならざるを得ません。また、個人と企業の関わり方も、当然深いものになります。さらに、働く側においても享受しうる権利のみを、思うままに主張しているわけにもいかなくなります。結果的に、雇用する側と労働する側において、煩雑なやり取りを継続していかなければならないことになります。

 人件費に関するコストの縮減ということが、派遣労働者の雇用における最大のメリットのようにいわれますが、実は、煩わしい人間同士の関わりを省略できるということが、そこに携わる人(労務管理者)の心の中に占めている感情のように思われてなりません。一方で、派遣する側の人間の、人を物か道具のように派遣先に割り振っていく、あの無機質な電話でのやり取りをみて、薄ら寒い感情を覚えてもしまいます。

 突然、都会に飛び出していっても、住み込みで働かせてくれるような店や工場があり、躓いてふるさとに帰れば、とにかく誰かが迎えてくれるというのが、私の考えている(私の育った)この国であったように思います。「明日には、ここを追い出される」と、派遣先の寮等で項垂れる人に尋ねてみたいのは、本当に、頼れる家族・親戚・友達等はいないのか?アパートを借りる敷金ほどの貯金も無いのか?ということです。

 「路頭に迷う」といいながら、インターネットカフェで発泡酒の栓を抜いている姿は、悲惨なのかもしれないけれど共感できない、と考えるのは酷なのかもしれません。しかし、かつての日本人は、困れば誰かの力を借りながらも、国や行政に頼らず懸命に生きて行こうとしていたように思います。制度や仕組みの改善は必要ですが、生きていくために努力しなければならないことは、それぞれの個人に付託された義務でもあると思います。

 もし、今から百年前の日本に戻ったとして、明治の人が持っていたような日本人の精神を持って生きて行ける人が、この国にどれだけいるのでしょうか。どのような状況になっても、必要な事業は行わなければならないし、世の中の役に立つものづくりをしていけば、必ずその技術が必要とされる場面はあるのだと思います。一方で、今守らなければ途絶えてしまうような、職人技もたくさんあるのだと思います。

 人の役に立つ仕事をし、それに相応しい報酬が支払われる世の中や社会制度が、本来の日本人が目指し、育んできたものであったのだと私は思います。「百年に一度」試されているものは、この国の人の人間力なのかもしれません。


2009年 1月 29日        点の記




 旧正月を迎えました。日々におわれる忙しい暮らしの中でも、季節の移り変わりを感じられる、感性だけは持ち続けていたいなあ、と、思ってはいます。

 降る雪や、明治は遠くなりにけり~、本当に、昔の日本の冬は静かで、密やかな冬であったのではないでしょうか。一葉のたけくらべや、漱石のこころなどに描かれている世界のように、シーンとしていたのかもしれません。便利になったのかもしれませんが、情緒感という視点からは、現代の生活は人間の感性を鈍らせているのだと思います。

 そんな、明治の終わり頃の時代が、新田次郎の小説「点の記」の舞台です。点の記といえば、測量会社や建設コンサルタントに努めている人は、業務に関する報告書などで、目にすることがあるのではないでしょうか。一方で、他の分野の人には、余り馴染みのないことばであるともいえます。

 本来、「点の記」とは三角点設定の記録のことですが、多角点・水準点・磁気点等の測量標についても、点の記という形で、設定に関する記録が残されているものです。この小説は、当時前人未踏といわれた(山の険しさだけでなく修験道の聖地ともされ、登ることを禁じられていた)劔岳の山頂に、三角点を設置するという重い使命を担い、数々の苦難を乗り越えながら挑んでいく、測量官柴崎芳太郎の綴った公式記録に基づいた物語です。

 日露戦争が終わったばかりの日本では、陸軍参謀本部陸地測量部において、測量が行われ地図が作られていました。柴崎芳太郎は、山形県出身でその陸地測量部に勤務する測量官でした。作者の新田次郎は、現在も国土地理院に永久保存資料として残されている、柴崎芳太郎によって書き残された「越中國三等三角點之記」
をはじめとする膨大な資料を研究し、山岳小説の白眉ともいえるこの作品を書き上げたのです。

 また、作者自身が柴崎測量官の足跡を辿るように、縁のある場所を廻り厳しい登山を試みるなど、イメージの想起に関する踏み込んだ努力が、この作品を一層素晴らしいものにしているのだと思います。また、長年気象庁に勤務し富士山測候所交代勤務員として、冬の富士山頂で過ごした新田次郎の経歴を考える時、柴崎芳太郎への思い入れは、相当深いものがあったのだと思われます。

 余談ですが、彼が担当した富士山レーダー構築の仕事は、NHKのプロジェクトXでもとりあげられた事業です。地図を作る仕事も気象に関する仕事も、人々の生活と安全のために非常に重要な仕事ですが、必ずしも派手で目立つ仕事ではありません(テレビに出るお天気キャスターのようなものは別として)。人の役に立つために、日のあたらないところで、報われない努力をしなければならない場面が多いはずです。

 そのような、作者自身の持つ経験や背景が、色濃く投影されているように思います。そして、劔岳のような厳しい山に挑むとき案内人長次郎たちのような心意気で働いてくれる、多くの仲間が必要なのだと思います。生死を共にするような仕事は、それほどどこにもある訳ではありませんが、厳しい条件下の建設現場における体験などを通しても、人間力というか、最後は人の持つ力こそが頼りなのです。

 それでも、柴崎芳太郎が命がけで極めた劔岳の山頂には、その時、三等三角点を設定することはできず、四等三角点の設置にとどまりました(本来の点の記はない)。そして、前人未踏であったはずの頂上には、奈良朝時代とも思われる祠の跡があり、錫杖の頭と赤錆びた剣が発見されました。

 そのようなことから、軍上層部は「初登頂」の発表に慎重となり、柴崎らの功績は称えられることはありませんでした。皮肉にも、柴崎らと初登頂を競っていた創成期の日本山岳会の人達からは、心からの祝福を受けることになるのですが、歴史の中における光と影は、いつの時代においてもそのようなものかもしれません。

 また、いつの世にも存在するものなのでしょうけれど、立山温泉(今は無い)の宿で、疲れきってテントに寝起きする芝崎たちを尻目に、部屋を譲らず、公費で女や酒を貪る県の役人の姿に、作者の強い問題提起を感じるのは、私だけではないはずです。強い権力を有するものは、それに相応しい自らを自浄できる強い精神が必要であることを、新田さんはそれらのエピソードにちりばめているのだと思います。

 作者は、測量は技術ではなく忍耐である、と、厳しい山頂での観測に際して語らせていますが、どのようなハイテクの時代になっても、最後のところでことの成否を決めるのは、人間力に他ならないのだと思います。

  


2009年 1月 15日        君に捧げるラブソング


 


 「寒」の真っ最中です。本当に、寒いなあと思います。しかし、それでも子供の頃のように、霜柱を踏みしめながら、サクサクという音を耳と足の裏から、感じながら歩くようなことは本当に少なくなりましたね。

 暮れから新年にかけて、テレビにおいてフォークに関する番組などが放送されていました。その中で「フォークの神様」岡林信康の日比谷音楽堂ライブや、こうせつ・イルカ司会の番組における「特別枠」出演などを見ました。聴いている者(観客)を惹きつける圧倒的な力は、今も変わらずという感じがしました。

 プロフィールを調べて意外に感じたのですが、岡林と拓郎は同じ1946年生まれであったようです。丁度、私の一回り上の戌年生まれということになりますが、私の中における2人の印象はまったく違うものでした(拓郎よりも、5~10歳位岡林が年上の印象)。思春期をむかえ、頭でっかちで屈折していた当時の私には「教祖」岡林の存在が大きく、拓郎よりも先駆者として印象に残っていたのだと思います。

 山谷ブルース・友よ・チューリップのアプリケ・手紙など、社会に対する強いメッセージがこめられた名曲の数々が、岡林信康のカリスマ性を高め、フォークの神様あるいは教祖などというイメージが定着していったのだと思います。私自身、最初にそれらの曲を聞いたとき、非常に強い衝撃と影響を受けたように思います。

 当時の、時代背景は今とかなり違っており、若者が世の中を変えられるのだというような、前時代から続く流れが、まだ残っていたように思います。当然のように、背伸びしながら私達も、議論の真似事をしていたように思います。少し弁護させてもらえば、真似事であっても、今よりは随分と真面目に、世界や日本のことを考えていたようにも思います。

 そのような背景から考えると、結婚しようよや夏休みなどのようなミーハーな曲を聴くよりも、岡林信康を語ることの方が、大人びている気がしていたのだと思います。実際、フォークソングに関して、それほど体系的な知識があるわけではありませんし、そのようなことにあまり大きな意味を感じられない私ですが、今から考えてみるとそのようなことが、拓郎と岡林を分けて考えていたことの理由かもしれません。

 実は、教祖・神様などと呼ばれ、社会に対するプロテストソングを突きつけていき続けることに、岡林信康自身が、違和感と疲れを覚えていたのではないかという気もします。田舎にこもって農業をしたり、演歌への傾倒、エンヤトットの創出など、試行錯誤を重ね紆余曲折しながらの音楽活動は、本当にやりたいこと(やるべきこと)を探りながらの歩みだったのではないでしょうか。

 「26番目の秋と」いう曲を聴いた時、その疲れと方向性の違いというようなものを、私自身が感じたことを今思い出しています。父親がキリスト教の牧師であったことの反動か、それとも、本来備えていた日本人としての感性なのか、三味線や太鼓を取り入れたエンヤトットのリズムに没頭する姿に、むしろ人間らしさを感じるような気もします。

 歌に表現されている内容を、実際の生活に求められるということ、また、その乖離している実体の姿に、失望される宿命というものを、岡林信康という人は背負い続けてきたともいえるでしょう。しかし、最近テレビ映像に現れる姿をみていると、伝説や拘りから解放され、本当にやりたい音楽をやっているようにも見えます。

 件の番組で、「果たして、諸君の鑑賞に堪え得るか~」などといいながら唄い始めた「君に捧げるラブソング」は、本当に引き込まれるような歌声で、心に響き伝わってくる感じがしました。今さらながら、ラブソングの中のラブソングだなあと思いました。むしろ、肩の力が抜けた今だからこそ、この歌を聴く醍醐味があるような気もします。

 生きていれば色々なことがあり、求める道が同じでも表現していくことが、変わっていくこともあるのだと思います。しかし、それでも大切なのは、人間の根っこの部分なんだなあと思います。どのような形であれ、曲を作り歌を唄いつづける岡林信康や吉田拓郎の唄は、私達の心に響いてくるのだと思います。

 太陽のように「売れた」拓郎と、月のように輝き続ける岡林信康、どちらも私の心を捉えて離さないミュージシャンです。


2009年 1月 5日        年初雑感




 新年、明けましておめでとうございます。ほぼ、平年並みの気温の中、己丑の年が始まりました。牛の歩み程の速さでも、明るい未来に近づいていきたいものです。

 年々過密になる、年末の宴会スケジュールをどうにかこなしました(大晦日にまで、焼肉屋におきまして、最もスケジュールの合い辛い3人の会を、催すことになってしまいました)。幸い(それらの成果といえるかもしれませんが)、今年の正月は、比較的楽に過ごすことができました。

 とはいえ、元日から恒例の麻雀に興じること、深夜に至りました。それでも、ほぼ、その日の内に帰宅する姿は、大きな進歩か衰えか、などと考えたりもします。それから、ぼちぼち目を覚まして、箱根を疾走する大学生ランナーの姿をテレビで眺めるのも、この頃の正月の習わしでもあります。かといって、そのひたむきな姿を正座して見ているわけではなく、炬燵に寝転びリモコンを片手に、他の情報も確認しながらのことです。

 あまり、格好の良い姿ではありませんが、精神的にも肉体的にもリラックスはできたと思います。箱根駅伝では、東洋大の総合優勝に感心し、併せて、5区において一年生ながら(一年生だからともいえるのかも)驚異的な走りを見せた、柏原選手の快走に驚かされました。一方で、駒沢大学・順天堂大学などのシード落ちを複雑な思いで見ておりました。また、今年も東京農大の悲劇や、城西大の棄権など辛い場面もありました。

 駅伝が終わると、お気に入り番組の一つである、「酒場放浪記」の正月特番を録画しながら3時間見ました。出演されている吉田類氏の言葉通り、終わった頃にはすっかり酔っ払ったような気分になりました。本当に、彼の吉田氏が居酒屋を訪れ、ただ美味そうに酒を飲み、肴を味わっているだけの番組なのですが、意外にも、私のようなファンがいるとみえ、正月特番が放送されておりました。

 また、1・2冊の読みたい本に、耽溺する時間もありました。私の場合、1度ページをめくると、最後まで読みたくなってしまう性質なので、中断する機会が少なく本が読めることは、本当に嬉しいことでもあります。相対的に、自分のペースで、ゆったりとした時間を過ごすことができたと思います。

 そのような中、地域の単位町内会の総会(初集会)を無事済ませ、不自然であった規約の改正なども行いました。今月18日に開催される、地域全体の総会にむけた準備もしなくてはなりません。まだまだ、改革しなければならないことや、地域力向上のためにやらなければならないことが、色々残されているように思います。

 私の家では、昨年、100歳を目前にして祖母が他界しましたので、年賀状を出しておりません。それでも、その旨をお知らせしていない(できていない)方々から、多くの年賀状をいただきました。それらのうち、大半の人にはこれからお目にかかる機会があると思います。忘れるかもしれませんが、訳はその際にご挨拶に添えて、それぞれにお話しなければとは考えております。

 新春ですが、テレビでは先行きの見えない経済状況や、停滞した政治や政局について、評論家・エコノミスト・その他コメンテーターと呼ばれる人達が、様々な意見や見解を述べています。一方で、「派遣切り」などの様子がクローズアップされ、取り上げられたりすることが増えました。視聴率獲得のためなのか、社会正義の実現のためなのかよく解らない、娯楽番組のような報道番組が増えていく傾向は、今年も続いていくのだと思います。

 他方、年末から年始にかけての、イスラエルによるパレスチナガザ地区への攻撃などをみていると、やり場のない怒りと、圧倒的な虚しさを感じてしまいます。個人個人としては、人道的な価値観や倫理観を持っていても、社会や国家などという単位においては、不条理なことや不毛な出来事が繰り返されるのも、この世界の現実であることは、いまさら言うまでもないことです。

 相手を理解し、尊敬する気持ちがなければ、真の意味での和解や解決はありえません。私は、歴史が好きで、どのようなことでも興味を持ちますが、ただ「知識」として歴史を知るだけでは、あまり意味がないと考えています。知識として吸収した歴史の教訓は、自身の生活や、次世代のために生かされるべきであるとも考えています。本当に、微力であり、かつ、埒外のような人間ではありますが、些かでもそのことが実践できるように努力したいとは考えています。

 昨年一年を振り返り、できることとやりたいこと(やらなければならないこと)を吟味しながら、朧気ですがそのように考えています。抱負と呼べるようなものはありませんが…


2008年 12月 27日        一年をふり返り一言




 ここ数年、暮れになると「光陰矢のごとし」を口にし、人の世のあわれなどについて語るようになりました。浅学菲才を身に沁みて思い、時の流れの速さを、言い訳に恨んだりするのかもしれません。何はともあれ、今年も終わろうとしています。

 昨年の「偽」から「変」へと、その年を代表する漢字は変わりました。未曾有というような金融危機などがあり、まさに激変の一年であったともいえるでしょう。北京オリンピックでは、北島選手の「何も言えねえ」という感動的コメント、女子ソフトの上野投手の力投、星野ジャパンの敗北、400mリレーチームの銅メダル、惨敗が続く柔道における石井選手の金メダル(その後の転進も、まさに激変)……色々ありました。

 私の好きなボクシングについて触れると、日本では、内藤選手の4度目の防衛が話題となっていますが、世界では、クリチコ兄弟によるヘビー級世界制覇、アジアの星から世界の星となったマニー・パッキャオによるデラホーヤ戦TKO勝利、他にもジョー・カルザゲ対ロイ・ジョーンズ戦、ケリー・パブリック対バーナード・ホプキンス戦など印象に残る試合を見ることができました。

 一方、将棋界では第19世永世名人となった羽生善治の復活(それほど、低迷もしていませんでしたが)と、初の永世竜王をかけた大一番を制した渡辺明の驚異的な粘り(3連敗から4連勝)などがありました。特に、この竜王戦では、羽生名人も勝てば通算7期となるため、勝った方が初代の永世竜王称号をかけての7番勝負でした。全体として、羽生名人がとどめを刺しきれなかったという感じでしたが、印象に残る竜王戦でした。

 また、相変わらず汚染米問題など、食の安全と安心に関する話題には事欠きませんでした。特に、我が国が多くの農産物を依存している中国に関する問題は、餃子や野菜など深刻で、沈鬱な気分にさせられることが多かったと思います。その中国では、四川で死者9万人以上といわれる大地震が起き、我が国でも東北地方において、山がなくなるような大地震が発生しました。

 そのような、自然災害の発生や環境悪化(中国の大気汚染の影響による九州及び西日本における光化学スモッグの発生など)を尻目に、9月には「あなたとは違う」発言を残し福田総理が退陣し、現在の麻生内閣が誕生しました。衆参でねじれたままの勢力争いに終始し、政局がらみで選挙対策しか頭に無い「先生方」に、頭脳明晰な霞ヶ関のエリート集団(強力な官僚機構)をコントロールできるはずも無いと思いながら、暗澹たる気持ちで様子を見ている人が大勢ではないかと思います。

 世界のトヨタでさえ、赤字決算になろうとしている自動車をはじめとする産業界ですが、今年の初めにそのような予測をしたエコノミストがいたのでしょうか。手遅れになった患者に、栄養剤を点滴するようなビッグ3救済策について、アメリカでは様々な議論が巻き起こっていますが、世の中の求める良いものは何か?というものづくりをしてこなかった責任やつけを、税金で賄うのは間違っているし、その部分が改善されないのに再生も無いでしょう。

 むしろ、私が心配しているのは、ハイブリッドや低燃費エンジンに関する技術やライセンスは、アメリカでやらなければならないというような、お得意の理不尽な要求(アメリカがこれまでやってきた、例えばOSはインテルを義務化するような)をしてこないかということです。弱肉強食の資本主義を強引に押し付ける割には、農産物をはじめとして強烈な利己主義を、平気で通すのもアメリカという国だと思います。

 暗い話題ばかりですが、秋葉原でおきた無差別殺人や、元次官夫妻が殺害された事件などは、本当に理解しがたいというか、私の中の常識を覆すような「異質」な人間の出現を感じさせられました。そのような中、今年も「戦い」ながら自治会活動などに取り組んで来ました。せめて、身の回りの地域だけでも何とかしたい、と、いうのが根底に根ざしている動機ですが、精神的にはかなり疲れが溜まっています。

 ともあれ、今年も行きたいところに行き、会いたい人に会い、飲みたい酒を飲むという意味では、まずまず思い通りにできたように思います。つい先日も、愛すべきラガーマンに誘われ、東京西新宿のフォークバー(というのかどうか?)で、酔いにまかせてイメージの詩などを唄ってきました。また、平均して3日に1度位となる強行日程で、忘年会や忘年会的飲み会をこなしているところでもあります。いくら、下手の横好きで宴会・酒好きであるとはいえ、少々体調が懸念されるところでもあります。

 低迷していた男子ゴルフ界において、石川選手のようなニュースターが、活躍するような明るい話題もありました。「意外」な感じで大河ドラマ篤姫が高視聴率を得るなど、日本人の精神性も廃れていないのだなあ、と、いうような印象も持ちました。家族や、友人関係など、人と人との繋がりの充実により、経済など厳しい社会情勢に負けないで、生き延びていくことが一番大切なことだと思います。

 そのうえで、これまでやってきたことと、これからやっていくこと(やっていきたいこと)を見つめ直してみたいと考えています。



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