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NO.19

2010年 1月 14日          ラグビー的年初雑感
 

                    



 暖冬の予想に反して、大雪に見舞われている地方などもあります。明日や、明後日の天気予報は、本当に良く当たるのにと思えば、人間の持っている科学や知識が、いかに覚束ないものかと、いわざるをえないような気もします。

 先日、東海大学対帝京大学による、ラグビーの大学選手権の決勝戦を、テレビで見ました。どちらが勝っても、初優勝という試合でしたが、クオリティの高い好ゲームであったと思います。大学のチームが、社会人に通用しなくなって久しい今日、久々に、大学生同士による、良い試合を見たように思います。スコアも、14対13というものでしたが、本当に、最後までどちらが勝つか解らないような、試合内容でした。

 中々、点が入らない試合でしたが、考えてみれば、トライ数が2本の帝京と、1本しか奪えなかった東海との差が、僅か1点になって現れたということなのでしょう。後半、敵陣でPKのチャンスを得ても、帝京大はゴールを狙うそぶりも見せずに、トライを取りにいっていたように見受けられました。それから、見過ごしてはならない点として、強力な東海大の攻撃に対する、帝京大の、集散を早くし、きちんとタックルに行くという、基本に忠実な、素晴らしいディフェンスが挙げられると思います。

 やはり、何人かは外国人選手を入れた方が、スキルアップが図れるということは、否定できないのかもしれませんね。両チームとも、外国人選手の働きが、一際目だっていました。ただ、これも両チームにいえることですが、それ以外の日本人選手(リザーブを含め)の能力の高さが見受けられ、助っ人頼みというような、感じはいだきませんでした。むしろ、彼らがチームに融合し、一体化しているように思いました。

 もう一つの話題として、昨年、母校の監督に就任した吉田義人率いる、古豪明治の復活が期待されるところです。対抗戦グループの、対早稲田戦の前半で見せたような、集中力を見せるときもありますが、吉田監督の手腕が発揮されるのは、まだまだこれからというところでしょう。また、残念というか寂しいのは、関西勢の低迷という点です。大八木・平尾の同志社が、関東の雄を席捲し、社会人に好勝負を挑んでいた頃が、懐かしく思い出されます。

 私は、折に触れて述べておりますが、サッカーよりもラグビーの方が面白いと感じるタイプです。また、どうしてもラグビーの方に、肩入れしてしまうことも事実です。体と体がぶつかり合って、初めて解るというか、感じられることは、実は意外に多いものなのです。また、その充実感は、やってみないと分からないものでもあります。と、訳知り顔で語る程、私は、多くの経験を持っているわけではありません。体育の授業と、部活の余興位の体験しかありませんが、それでも、体験からイメージすることは、十分に出来るように思います。

 先頃、食道がんが見つかり、休養を表明した世界的指揮者の小沢征璽氏は、少年時代にラグビーをやっており、その時の、肌で覚えた感覚が無ければ、今のような指揮者にはなれなかったであろう、と、述懐しておられました。ついでにいえば、満州から北京に移り、胡同(フートン)の四合院で育った思い出や、中学時代に親に内緒でラグビーをやっていたことなどが、NHKのドキュメンタリー番組で放送されていましたね。例えば、声だって出してみなければわからない、頭で考えているだけでは、本当のところは掴めない、という言葉が印象的でした。一日も、早い全快を祈ります。

 それにしても、少し触れようと思っただけなのですが、どうしても、ラグビーについての話になると、長くなってしまいます。高校生離れした、東福岡高校の強さなどきりがありませんが、この辺にしておきたいと思います。さて、私事ですが、年が改まっても、忙しさは変わらずといったところで、あっという間に二週間が、過ぎてしまったように思います。各方面の互礼会への出席、地元自治会における総会の開催、その上部組織や関連組織における、同様の催しなど、まだまだ忙しさから、解放されそうにありません。

 また、本年は、二月に市長選が控えています。それから、あと任期一年となり、定数が削減された市議会議員選挙に向けた動きなど、煩わしい情勢が続いていくのだと思います。それぞれの思惑や、憶測などが乱れ飛び、好むと好まざるとは別にして、煩わしい日々を過ごすことになりそうです。そもそも、首長や議員になり、どのようなことを目指しているのか?どのようにして、世の中の役に立とうとしているのか?ということ位は、明確に伝えて欲しい、と、いうのが本音のところです。

 いずれにしても、目先のことに囚われず、自分がやらなければならないことを、着実にこなしていくために、ぶれない意識とバランス感覚を、見失わないようにしたいと考えています。抽象的な表現ですが、解る人には、解っていただけるのではないかと思います。そういえば、ラグビーで最も格好良いポジション(私が、考えているだけで、本来は、そんなポジションは無いと思いますが)であるスタンドオフ(SO※10番)は、オフの状態で立っているポジションです。スクラムハーフから出たボールは、スタンドオフの判断により展開されていきます。

 常に、そのように雑念の無いオフの状態で、ボールを受け取り、的確な判断が出来るように、していきたいものです。また、考えてみれば私は、ラグビーに関係した先輩や、友人に恵まれているようにも思います。不思議と、馬が合うようなところもあります。何となく、肌で相手のことを感じるような性質は、ラグビー的であるかもしれません。そういえば、世界の小沢もフォワードをやっていたように、語られていたように思います。その言葉を借りると、フォワードは、ボールに触らないような試合もある、というものでした。

 兎に角、ボールが来ようが来まいが、みんなのために密集に突っ込んでいかなければ、成立しないスポーツがラグビーであるということです。少し、まとまりを欠きましたが、そのようなことが、述べたかったのです。


2010年 1月 4日          新年を迎え一言  

        



 あけまして、おめでとうございます。今年は、寅年です。私は、虎を最も美しい生き物の、一つであると考えています。その、美しい容姿も孤高な生態も、私を、強く惹きつける魅力に満ちています。

 願わくば、群れに安住するライオンでなく(実際は、ライオンの雄が群れを獲得する苦労は、本当に過酷なものではありますが)、虎のような孤高な気高さを持ちたいところです。それでも、人は一人では、生きてはいけないものでもあります。どうしても、愚痴やぼやきが出てしまいがちな、日々に追われる生活をしていても、ふうっと「ありがたいなぁ」と思うような、言葉をかけていただいたり、思いがけない訪問に、心が癒されることもあります。年末には、そのようなことが続けてありました。

 また、賀状に添えて頂いた言葉から、思いがけない喜びを得られるようなこともありました。どうしても、厭世的なぼやきや愚痴が、多くなってしまいがちの小欄についても、なるべくポジティブな視点と、評論家的な文章にならないように、と、思いを新たにしているところです。こうして、キーボードを叩き文字を操り、文章を書いているということは、「伝えるべき何か」があるからだと思います。その何かは、だんだん一つの方向に集約されて来たようにも思います。

 さて、今年も年が改まってすぐ、近年関わりが本当に深くなった作楽神社に、初詣にいきました。僅かですが、行列も出来ており、あり難いというか、喜ばしい光景であったといえるでしょう。例によって、元日から出かけて行き、飲み食いしながらの麻雀に興じたり、テレビで箱根駅伝やラグビー、サッカーなども見ました。さらには、ここのところ恒例になっている中一トリオの会もやりました。昔の友は、今でも変わらず友で、ありがたいなぁと思いました。

 とはいえ、そんなに良いことばかりが、あるわけも無いのが人生です。具体的には述べられませんが、残念なことやがっかりすることもありました。それでも、年末から年始にかけて起きたことや、見聞きしたことなどを繋ぎ併せて考えてみれば、もう少し、自分自身がちゃんとしなければ、という自省の念と、ぶれずに持ち続けなければいけない志の大切さを、改めて強く感じました。何か、大きな力(司馬遼太郎的にいう「天」という概念)で、そう促されているような流れでした。

 それから、3日に始まったNHK大河ドラマ龍馬伝ですが、ちょっとイメージが違うようにも思いますが、福山龍馬も格好良くて良いのかなと思いました。何よりも、香川照之は本当に、良い役者になりましたね。坂の上の雲の、正岡子規役も絶妙ですし、最近では、何をやってもいい味を出していると思います。予断ですが、彼が、某有料チャンネルにおいてみせる、ボクシングに関する知識やコメントは、玄人はだしというより、玄人の域だと思います。

 箱根駅伝について言えば、夫々の選手が、夫々の思いやエピソードを胸に、懸命に走る姿はいつも感動的です。何といっても、5区の東洋大柏原選手の快走が注目されますが、5区という山登りの区間でなければ、あのような大逆転が起こらないともいえるでしょう。その意味で、山登りの5区という区間があることが、箱根駅伝を一層面白くしているのではないかと思います。出遅れながらも、二位に入った駒沢や、古豪明治の復活など話題はありますが、順天堂のプルシアンブルーのユニフォームが見られないのは残念でした。

 一方、去年棄権した城西大学が、見事に襷をつなぎシード権を獲得したことも、注目すべき点であったと思います。そのことを鑑みると、襷をつなぐことの大切さを痛感します。私達も、この世に生を受けて、先祖からもらった襷をつなぐために、この世を生きているのかもしれません。好むと好まざるとを別にして、そのような役割を、誰もが与えられているのだと思います(そう、思っても思わなくても、所詮は、皆この世を去っていくのですが)。

 そのように考えると、渡された襷をきちんと、それも質を向上させたうえで、次世代に引き継ぐことが大切であり、大きなテーマとなってくるのでしょう。しかしながら、これは実感としてですが、そのことが、実は一番難しいことでもあるように思います。特に、日本人の精神性や、技術者として持つべき志などといような、抽象的なものになると尚更です。そもそも、価値観や常識などというものが、急速に変わっている(私から見れば、悪い方に)現代では、特に難しいものがあります。

 個人的には、今年もすでに、春先に向けてかなりの、スケジュールが決まっているような状態です。この傾向は、年々強まってもいます。地域のことや、岡山県技術士会としての取り組みなど、やらなければならないことも山積みです。また、自身でやろうと思っていること(本当に、やりたい筈のこと)や、怠りがちな勉強のことも、忙しさを言い訳にせず、取り組まなければいけないと考えています。

 そのことは、ここ数年、目先の忙しさに囚われ、真剣に向き合うことから、逃げていたような部分もあります。考えてみれば、自分自身の中にある弱さや、怠惰な精神と闘う必要があるのかもしれません。本当に、不埒な人間で、埃だらけの自分を棚に上げてでも、このような文章を書き続けていくための、モチベーションを維持する意味からも、やるべきことから逃げては、いけないのだと思います。まず、新年の所管としては、それ位の意識は、もつべきであると思います。

  できれば、千里の道を走り、死して尚皮を残す虎にあやかり、幾許かの成果を挙げたいところです。


 2009年 12月 27日          一年を、振り返り一言


 


 昨夜、岡林信康を聴きに行って来ました。エンヤトットに引き込まれ、少々疲れましたが楽しい夜でした。県内でのコンサートは、30年以上振りだそうですが(呼んでくれたNPO組織に感謝)、肩から力の抜けた「神様」(教祖)の歌声は、本当に人を魅了するものがありました。

 冒頭から、暗い話ですが「協定に留意する」などという、意味の分からない言葉を残し、問題を先送りした形でCOP15は終わりました。人間達が、各々のエゴや都合に基づいた議論を繰り返しているうちに、この星は、取り返しの付かない状況になるのかも知れません。それでなくても、心が安らぐような話題が乏しい年の瀬に、大国同士による我田引水的な力比べや、駆け引きに終始たCOP15(国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議)が閉幕しました。その内容や、成果についてコメントするのは止めておきますが、一年の最後に、またがっかりする気分になったことだけは事実です。

 振り返ってみると、今年は、新型インフルエンザの流行や、民主党による政権交代など、大きなニュースがありました。また、昨年から続く世界的不況の影響は、以前楽観を許さず、政府や公共機関が宣言しなくても、我が国の経済が、デフレスパイラルに陥っていることは、明白な状況だと思います。自らの手によって、自らの首を絞めていくような「安売り合戦」を繰り返しても、本当の意味で、景気が良くなることなどは無いのだと思います。

 経済などと、大上段に構えて論じなくても、資源の無い我が国が、どのようにして外貨を稼いでいかなければならないのかを考えれば、部品や資材について、単なる価格競争に四苦八苦しているだけでは、どうにもならないことは明白だと思います。かつて、私達の先輩技術者や先人達が生み出してきた、他の国の追随を許さないようなものづくりによる、世界からの高評価に根ざした、応分の対価を得るような取り組みが必要であることは言うまでもありません。

 そのために必要なのが、というより、そのような技術や技能を生み出してきた、私達の先輩達が備えていたものが、技術者として持つべき「志」だと思います。その志は、江戸時代に熟成され、明治維新を成し遂げ、日露戦争を勝利する(実際には、勝利とはいえませんが)原動力となった若者の心に、共通して醸成されていた「日本人の精神性」というものであると思います。ただし、簡単にそのように述べると、坂の上の雲の映像化を頑なに拒んでいた司馬遼太郎の、不安が的中するような、危険な解釈や方向性が生まれる恐れもあります。

 世界に誇るべきはずの「日本人の精神性」は、日露戦争以降の対外膨張的施策の支えとなった、他文化にに優越するというような偏った国粋主義的なものとは、根本的に異なるものであると思います。そのことについては、本来、たくさんの紙面を用しますし、一言で語ることは難しいとも思います。これからも、根気よく時間をかけて、論じていきたいと考えています。ただ、一年を振り返って考えてみた時、近頃の状況などから、どうしても一言、ここまでのことが述べておきたかったのです。

 さて今年も、私にとって影響を受けたり、興味深い対象であった人達が、たくさんこの世を去っていきました。大物歌手・俳優、大物政治家(国内外共)、棋士、芸術家……本当に、人生は儚いものであると思います。その中で、少しばかり名前を挙げれば、忌野清志郎・加藤和彦というシンガーソングライターが先ず初めに浮かんできます。不良のロックが矢沢なら、真面目な人のロッカーが、忌野清志郎だと思います。清志郎を聴くと、素直な気持ちになれるのは、何故なのでしょうか。また、いつかも述べましたが、加藤和彦自殺の報に接した日は、本当に虚しい気持ちになりました。今でも、イムジン河などを聴いていると、こみ上げそうになってしまいます。

 また、囲碁界で最後の無頼派といわれた藤沢秀行名誉棋聖も、今年の5月にその奔放な人生を終えました。奥様や、ご遺族には失礼ですが、多くの人格者といわれる棋士をさておき、何度もドキュメンタリー番組が制作されるところに、人を惹きつける魅力というのは、理屈ではないことと、他人にはできないような生き方をすることの難しさ、凄絶さを強く感じるところです。自分には、出来ない生き方であるから、多くの人が憧れてしまうのかもしれませんね(私も、そうですが)。

 一方、ボクシングの方では、今年も面白い試合をたくさん見ました。年初のモズリー対マルガリート戦におけるモズリーの切れ味、アジアの星パッキャオの対ハットン戦・コット戦における抜群の輝き、西岡・長谷川など日本選手の活躍……残念ながら、天才リナレスの衝撃的なKO負けというのもありましたが、大男ワルーエフからヘビー級のタイトルを獲ったデビット・ヘイへの、今後における期待などもあります。また、現在戦いが進行しているスーパーミドル級の、6人における生き残り合戦も非常に楽しみです(先日、本命視されていたケスラーがウォードに破れるようなこともありました)。

 さらに、将棋界では渡辺明竜王の充実振りと、羽生善治名人のここ一番の強さが光りました。特に、竜王戦第三局における挑戦者森内九段の研究を上回る、渡辺竜王の一手(96手目7九銀)は秀逸の感がありました。また、名人戦で敗れた郷田九段は、殆ど就任式の絵柄まで、一時は頭に描いていたのではないかという気もします。本当に、勝負は最後までわからないものでもあります。そのような中、私の好きな関西の旗手谷川九段が、将棋日本シリーズに優勝しました。また今年は、A級順位戦でも目下1敗で、好調な戦績を残しています。来年の名人戦で、羽生対谷川のカードが実現することに期待したいと思います。

 本当に、振り返ってみれば一年は短く、私自身がしたことや実績として残るものなどは、全く無いと言って良いでしょう。年々、薄れていく地域における住民意識の中で、どれだけ今の「笛吹けど~」の状況を改善できるのかなど、多くの課題だけが残されているように思います。それでも、一つ一つ根気良く片付けていくしか、方法は無いのだと考えています。消してはいけないと思うのは、心の中の静かなる闘志だと考えています。そして、目標に対してぶれないバランス感覚も、忘れてはいけないと思っています。

 ただ、今は「信無くばたたず」その上で、「我が成す事は我のみぞ知る」と、いう気持ちだけです。


2009年 12月 17日          以下、無用のことながら




 まさに、「宴たけなわ」といった感じで、師走の日程をこなしています。少々、体の内外が疲れていますが、かなりスケジュール(宴席の)はタイトな状況です。本当に、程々というのは難しいですね。

 天地人の後を受け、福山雅治が坂本龍馬を演じる大河ドラマ、NHKが渾身の力を込めた坂の上の雲、目下放送中の朝ドラうえるかめ……来年は、四国に話題が集まる年に、なるような気配ですね。中でも、秋山兄弟と正岡子規という松山出身の三人が、主人公となるドラマ坂の上の雲は、これまでのところ、かなり良い出来ではないかと思って見ています。

 既に、原作を読んでいると、そのイメージを上回るような、出来栄えのテレビドラマに、出会うことは少ないものですが、肝心な台詞もきちんと残されているし、夫々のシーンに無駄の無い編集が、なされているように思います。本当に、読むのにもスタミナのいる日露戦争に関する部分が、どのように描かれるのかが楽しみであると共に、このドラマにおける課題であるかもしれませんが、期待はしたいと思います。※このことは、生前作者が、映像化を拒んでいたことを考えると、非常に重要な意味合いがあります。

 読むのにもスタミナがいる、と、いいましたが、新聞での連載が4年半に及ぶこの作品は、その構想・準備期間を入れると、作家司馬遼太郎が、約10年もの期間を要して書き上げた大作です。彼は、40代の最も充実した10年間を、この作品のために傾注したのです。単行本にして6巻、文庫本にして8冊に及ぶこの作品は、読む側にもエネルギーとスタミナが要求されます。そして何よりも、司馬さんの思いを受け止める熱い心がいるように思います。

 ベストセラー竜馬が行くの他、新史太閤記、幕末、世に棲む日々、項羽と劉邦、国盗物語などの歴史小説や、街道をゆく、この国のかたち、歴史~シリーズ等、多くのエッセイ集、陳舜臣やドナルドキーンをはじめとする多くの有識者との対談集……我が国の、20世紀を代表する作家の著書については、僅かな紙面で語ることなどはできませんが、私が読み、影響を受けたものだけでも、坂の上の雲以外にたくさんのものがあります。

 司馬さんは、先の大戦時には旧満州において、学徒出陣により戦車隊に配属されました。実際に、戦車の鉄板の厚みの差や、大砲の性能の差を肌で感じた経験から、「何故、日本はこんな馬鹿な戦争をする国になったのか」と考えるようになったと述懐されています。そのようなことから、いつの頃の日本が良かったのか、また、そもそも日本人の精神性というものはどういうもので、どのようなものに依拠しているのか、と、いうことを考えるようになったことが、作家としての原点にあるのだと思います。

 一方で、投機的な土地取引に警鐘を鳴らし、バブルの到来を懸念し、またその崩壊を憂い、この国の将来を案じながら、この世を去った人でもあります。都心で珈琲を飲めば、その値段が700円もするようなことは異常であり、その価格の中には、明らかに場所代(土地代)が含まれていると説き、それが、真の意味においての資本主義とはいえないとも、語っておられたと思います。

 投機資本主義の増大における危険性は、昨年から現在に至る大不況により、誰もが身に沁みて感じていると思います。その物や、行われるサービスに対する適正な価格を基準とした上で、企業経営者が労働者から余剰価値を搾取(良い意味で)するというような形の、本来の意味での資本主義が実践されなければならないことを、司馬さんは終始述べられていたように記憶しています。そのことを念頭に、土地国有論のような論旨を、展開されていたのだと思います。本来、私達が持つべき「日本人の精神性」を再認識するような意味もあったと思います。

 また、モンゴルの平原や西域を訪れた時のテレビ映像などを見ると、本当に子供のように楽しそうな表情を見せてもいました。世界における、歴史や文化の流れ、そして、その中における日本や日本人の受けた影響と変化の過程、さらには、自身の存在にまで踏み込んで、あらゆる事象に思いを巡らせながら、世の中に伝えたい(伝えるべき)情念を、想起・醸成されていたのだと思います。

 さらに、空海・法然・親鸞・等、多くの宗教家についても造詣が深く、冷静で合理的な分析に基づく評価の上に、彼らの存在の、歴史的意義にも触れています。その一方で、釈迦の説いた仏教と、今日における葬礼のための仏教との乖離(簡単には語れませんが)についても言及されています。個人的には、司馬さんの出自からして縁の深い親鸞・蓮如に関する考察は、大いに頷かされました(私にも、縁が深いのでなおさら)

 司馬さんの説く、合理主義に関する誤解や、歴史観に対する曲解的な批判などもありますが、小説である以上、その作品にフィクションが含まれていることは、作者自身が公言していることでもあります。そのような議論は、作家司馬遼太郎が備えた、圧倒的に読者を惹きつける、卓越した文章力を念頭においたうえで、行わなければ意味がないし、危険であることは言うまでもありません。

 いずれにしても、以下、無用のことながら~、と名付けられた随筆集が、私にとって大切な一冊であることは、紛れもない事実です。

 
 

2009年 12月 3日          紅とんぼ




 泉谷節ではありませんが、秋の枯葉に身を包むと、すぐさま、冬に骨身をさらけ出している……気が着けば、はや12月という感じです。

 本当に、時のたつのは速いものです。年齢を、重ねれば重ねるほど、その実感は深まるばかりです。そのかわりといっては何ですが、若いときには見えなかったものが見えるようになったり、感じられなかったことが、感じられるようになったりもします。また、何気なく聴いていた音楽などについても、その奥深い良さや味わいが、感じられるようにもなるのだと思います。

 例えば、拓郎や岡林などの楽曲のように、既に知っていた筈のものであっても、若いときには感じられなかった感覚というのか、見落としていた味わいなどというものを、年齢を重ねることにより、一層感じるようになってきたものもあります。研ぎ澄まされていく部分と、鈍くなっていく箇所が、複雑に重なりあいながら、人間の感性も変化していくのかもしれませんね。

 そのような視点から考えて、私が、最近特にその歌の上手さと、表現力の素晴らしさを感じるのが、ちあきなおみという歌手です。彼女は、平成4年以降休業という形で、音楽活動を休止しています。しかしながら、ことあるごとに話題に上り、どこかのテレビ局で特集番組が組まれたりします。そして、今でもCDが売れているような話も耳にします。

 正直なところ、私も、圧倒的な大ヒット曲喝采のイメージが強く、夜間飛行・ワルツというような耳に馴染んだもの位しか、すぐには思い出せない状況でした。しかしながら、ひところよくCMで流れていた黄昏のビギンの、何ともいえない心地よさなどから、少しずつ彼女の唄を聴いておりました。すると、次から次へと心に沁みる楽曲に出会うのでした。

 一方で、彼女は瀬戸内少年野球団や、居酒屋兆治・寺内貫太郎一家など、映画やドラマなどにおいても、独特の存在感のある演技を見せてもいます。余談ですが、タンスにゴンというのもありましたね。例えば、「ねぇあんた」という曲がありますが、薄幸な女のドラマを一曲の唄の中に描ききってしまう、その圧倒的な表現力には、本当に驚くと同時に、敬意を表するばかりです。

 ジャンルについても、演歌・流行歌という日本のものから、ジャズ・シャンソン・ファドなど、外国の音楽にも自らでかけていって、受けた影響を自身の中に昇華させ、独特の「ちあきなおみの世界」を作り出しているように思います。また、難しい曲であっても、本当に簡単に歌って、聞く者の心に沁みこむように聞かせる歌唱力(簡単に、そう呼ぶべきでないように思いますが)を持っています。

 何というのか、聴けば聴くほどそのすごさを感じてしまう歌手だと思います。単に、「歌手」というジャンルに留めてはいけない人なのかもしれません。現在では、ユーチューブなどを検索すれば彼女について、多くの映像や歌唱を見たり聴いたり、することができます。それはそれで、便利なことだとは思います。しかし一方で、多くの人々が、年齢を重ねた彼女の、現在の歌声を聞きたいと考えているのだと思います。

 92年(平成4年)、最大の理解者で、最愛の人であったご主人が他界されてから、公の席(表舞台)でマイクを持つ姿は見られなくなっています。それほどまでに、ご主人への愛が深かったのであるとか、命日には、そのお墓で手を合わす姿が見られるなど、憶測や噂は聞かれます。それでも、あえていえば、その姿について「土足で踏み込む」ようにスクープして貰いたいとも思いません。

 人には夫々、他人からは触れられたくない思い出や、心の傷などがあります。また、時の流れは残酷な一面も、持ち合わせているのだと思います。過ぎてしまえば、それと同じシチュエーションというのは、真の意味ではありえません。その時その時が、常に「人生一度」の出来事でしかなく、いくら取り戻そうとしても取り戻せないことは、あえて述べることでもありません。

 考えてみれば、そのような「切ない」日々を生きているからこそ、心を癒される唄や、胸に沁みこむような文章が、人間には必要なのだと思います。情念は、巧みな誰かによって表現されることにより、多くの他者が共感できるものであることを、強く感じさせてくれる表現者が、ちあきなおみという不世出の歌い手ではないでしょうか。

 新宿でなくても、どこか、駅の裏の路地には、「紅とんぼ」という名の小さな居酒屋があり、着物姿のちあきなおみに似たママが「いらっしゃい」と、声をかけてくれるような、そんな幻想を持っている人は、私以外にも、たくさんいるのだと思います。

 

2009年 11月 19日         eπi = - 1




 いよいよ、忘年会の季節ですね。既に、今週末から年末にかけて、多くの予定が入っています。年々、激化する状況を、何とかしなければ、と、思ってはいるのですが……

 冒頭の数式は、オイラーの公式と呼ばれているものです。小川洋子氏の小説「博士の愛した数式」の、博士の愛した数式が、この公式になるかと思います。 eπi +1=0 という形にもなります。どこまでも割り切れない無理数であるeとπに、虚数であるiがかけあわされ、階乗され、複雑に関わりあっているのに、僅かに「1」を加えるだけで、答えが「0」になるという公式です。

 今から、250年以上も昔に、レオンハルト・オイラーにより発見(証明)されたものです。e=cosθ+isinθという指数関数と三角関数の間に、成り立つ等式の証明から導かれているものです。数学史上、最も有名な公式とか、最も美しい公式といわれたりしています。何よりも、全く起源の異なる指数関数と三角関数が、複素数の世界では密接に結びついている、と、いうことを示している点が、数学の奥深さ(神秘性)と美しさを想起させるのだと思います。

 公式そのものについての説明は、あまり胸を張ってもできませんので、この位にしておきたいと思います。さて、小川さんの小説に登場してくるこの公式の意義は、夫々が個性を持ち複雑な存在である人間を、虚数i、割り切れない数π・eという難解な数になぞらえたうえで、それらが深く関わりあっても、誰かが「1」を足せば0というところに、納まるのだという点にあるのだと思います。

 余談ですが、自分では「女流は読まない」ような気でおりましたが、博士の愛した数式・まぶた・薬指の標本等の小川作品や、かつては一葉からサガンなど、多様なものを読んでいたことに気がつきました。したがって、「読まない」のではなく、「少ない」といったほうが、良いのかもしれません。考えてみれば、面白そうなものであれば、男女に関わらず、著書に手を伸ばしていただけなのかもしれません。

 ところで、「博士の愛した数式」は、映画にもなりました。テレビでも、何度か放送されていましたので、見た人も多いかもしれません。寺尾聰の「博士」は、イメージもあっており、とても良かったのではないでしょうか。また、深津絵里のヒロイン(家政婦)役も良かったと思います。本当に、良い映画だったと思います。

 しかし、それでも私には、原作の方が面白く感じられるのです。時間の制約がある映画では、どうしても省いてしまわなければならない箇所があります。また、多少お話が変わったりするところもあります。細かなディテールになると、尚更そのような部分が出てきたりもします。もちろん、博士の~は良い映画ですし、原作を超えるような映画も、たくさんあるのだとは思います。

 しかし、自分だけのペースで、好きなように何度でも読めるところに、本の持つ良さというのがあります。また、文庫本で買えば、博士の愛した数式も僅か460円です。もっぱら、私は、小説などに関しては文庫でしか買いませんが、投資効果という視点から考えれば、何よりも率が良いように思います。

 一方、この小説の解説(文庫本)は、数学者の藤原正彦氏が書かれています。小川さんが、この小説を執筆するに当たり、乞う形で取材した対象が藤原氏であったようです。藤原さんは、「国家の品格」というベストセラーの著者でもあります。完全数28や、220と284の友愛数という関係など、数学に関する多くの題材を、小川さんは藤原さんから得ています。

 また逆に、藤原さんの著書「天才の栄光と挫折」という数学者をテーマにした本が、文庫本になった時の解説を、小川さんが書かれています。その中で、数学というものがいかに奥深く、美と結びついた学問であるか、また、その学問の中で成功を収めた天才学者たちでも、実生活に際しては不器用であったり、不遇な人生を歩んだりしていることを、実に巧みに小川さんは解説しています。

 そのような、「おまけ」がついているのも、本を読むことの楽しさだと思います。因みに、数学者藤原正彦は「剱岳・点の記」の作者新田次郎の次男です。苛烈な、三角点設営の目的は、精密な観測に基づく精緻な地図の作成です。その、精緻な技術を支えるのが、数学であることはいうまでもありません。そのように考えると、数学の奥深いロマンと美しさが、新田次郎・藤原正彦・小川洋子を、結びつけたともいえるでしょう。

 もう少しいえば、博士の愛した数式は、そのような小説だからこそ、面白いのだと思います。「文学に、純文学だのエンターテイメントだのというジャンル分けをする必要はなく、よい文学かそうでない文学かしかない」と、藤原氏は、この本の解説で述べています。本当に、その通りだと思います。


2009年 11月 5日        文庫日記


 


 ここ数日、急に寒くなりました。本来は、「寒さ」というほどのものでは、ないのかもしれません。今までが、あまりにも暖かな日々が、続き過ぎていたのでしょう。

 地方史を綴った「出雲街道」(小谷善盛著)には、私が住んでいるところの地名は、後鳥羽院の荘園であったところから、院の荘園→院庄となづけられたという説もあると紹介されています。後鳥羽院といえば、承久の乱で隠岐に流されたのが、1221年頃といわれていますが、おそらく、その時も出雲街道を通られたのだと思います。

 丁度、それから約百年後の後醍醐天皇と児島高徳による、十字の詩のエピソードは、我がふるさとにおける史実にもとづいたものとして、出雲街道を代表するものではないか、と、私は考えています。皮肉なことに、後鳥羽院も後醍醐天皇も、悲運な運命であったように思います。一方で、為政者としての資質については、大きく疑問が残ることも否めないところでしょう。

 また、後鳥羽院といえば「人もおし、人も恨めし味気なく、世を思うゆえに物思う身は」という歌を残しています。むしろ、歌人としての方が有名で、功績の多いといえる院の歌はたくさんありますが、小倉百人一首の九十九番目の歌として収められているこの歌は、もっとも有名な歌の一つに挙げられることは間違いないでしょう。

 個人的に私は、天の原~(七番)、千早振る~(十七番)、めぐりあひて~(五十七番)、背をはやみ~(七十七番)という風に、七のつく歌に、馴染みが深いように思いますが、その話は後に譲ることにします。いずれにしても、後鳥羽院は政治家としてより、歌人・文化人(刀を打ち、菊の波紋を刀身に入れ、菊の御紋の創設者ともいわれています)としての才が長けていたのは事実です。

 勅撰和歌集の選者でもあった藤原定家に、強く傾倒していたともいわれています。余談ですが、定家が建礼門院右京大夫に歌の披瀝を求めた折に、勅撰集に載せる名称について、右京大夫は二十年も仕えた後鳥羽院時代ではなく、若かりしころほんの五・六年呼ばれた名である、建礼門院右京大夫という名を選んだといいます。平資盛との思い出が、強く心に残っていたのでしょう。

 といっても、この建礼門院右京大夫に関するお話は、田辺聖子著「文庫日記」からの受け売りです。以前にも述べましたが、私は、女流作家のものはあまり読みません。というか、読みませんでした。しかし、向田邦子と田辺聖子はその他に当たります。いつか、NHKの朝ドラで「いもたこなんきん」というのをやっていましたが、その原作者でモデルが田辺さんです。

 
時折、テレビなどで拝見すると、ほんわかした少女趣味の、おばちゃんという印象ですが、読んでみると、無駄の無い文章は、絶妙の筆致だと思います(「難しいことを簡単に」書くという意味で)。特に、短編小説はどれも素晴らしく、とにかく面白いものが多いと思います。また、容姿・風貌から受ける印象とは異なり、言葉に対する厳しさも感じられます。

 なによりも、性善説的な考え方を根底に感じる点は、向田さんの文章にも通じるものがあると思います。上手くいえませんが、書いている人の人間性に、どこかしら温かみを感じるように思います。感傷旅行・うたかた・ほどらいの恋・うつつを抜かして・ジョゼと虎と魚たち・ぶす愚痴録……本当に、面白い小説ばかりです。

 一方、前述の文庫日記や、女の居酒屋などというエッセイもあります。人柄を偲ばせるような、「ほんまやなぁ」と頷けるお話に、ほっとできるようなものばかりです。どちらかといえば、鎌倉・戦国・明治維新などのように、「動く」時代のものを中心として、我々男子は、歴史に興味を持っていきます。したがって、万葉とか古今・新古今集、というようなものについては、どうしても疎遠になってしまうものです。

 そんな時、田辺聖子著「文庫日記」(ふぐるま日記)を読むと、縁の薄かった和歌の話や、源氏物語に関すること、和泉式部の恋愛感などについて、本当に解りやすく記されています。それは、著者の深い知識や造詣に基づいていますが、一方で人間として、また女性としての優しさが、裏打ちされているようにも思います。どうせなら、そのような優しい人から、古典を学びたいと思うのが、人情であると私は思います。それは、ホームドラマでも同じです。

 頭を丸めても、表情の怖い尼入道様の説法や、鬼ばかりのホームドラマに、心が癒されない私の感覚が、非常識でないこと祈ります……



2009年 10月 22日      過ぎ行く時の中で(変わり行く時代に)



 空の深い蒼さや、ほんのり匂ってくる金木犀の香りなど、私の好きな秋のその感触を、十分に噛み締める余裕も無く、雑務に追われて過ごしています。本当に、時の過ぎるのが速すぎると感じています。

 本当に、その通りです。2002年に、このHPを開設してからでも、早7年が過ぎようとしています。当初は、資格取得に際して苦労した自分の経験から、後に続く人のために少しでも役立ちたい、と、いうような気持ちが強かったと思います。もちろん、今でもそのような気持ちはありますが、年と共に考え方は変わってきました。「誰でも支援する」方向から、遠ざかっていく気持ちは深まるばかりです。

 十年一昔といいますが、この7~8年の間にさえも、大きな事件や事故などが、世界や日本で起きました。また、豊かさを求める人類による経済滑動の、負の成果とでもいうべき、地球環境の悪化も進んでいるようです。目まぐるしく変化する社会情勢や、ここまでの流れを俯瞰すると、どうしても、世の中が良い方向に進んでいるとは、考えられないように思います。

 何よりも、このHPの更新を続けてきた僅かな歴史の間でさえ、日本人の考え方や風潮は、かなり変わってきたように思います。つまり、事ある毎に私が述べている「日本人の精神性」というものが、加速度的に失われて行くように、感じられて仕方が無いのです。私の、考えている常識や価値観が、この国における現在の平均的な常識や、価値観などとずれてきているように思います。また、そのことを感じる度合いは、年々強くなってもいます。

 一方、私が技術士試験に、最初に合格したのは2000年で、その登録をし、岡山県技術士会に入会してから約8年というところです。実のところ、日本技術士会よりもかなり安い会費で、享受したメリットは計り知れないものがあったと思います。何といっても、部門や組織を越えて、多くの先輩方や有能な方々と知り合い、交流させていただいたことが、最大の恩恵であったと考えています。

 先日、その岡山県技術士会では、創立45周年を記念するイベントを行いました。もっとも、40年とか50年という大きな節目ではないので、ややひっそりとしたものではありました。しかし、何にせよ、創成期を支えられ、汗を流してこられた先達に、感謝の意を表し、日頃の疎遠を謝したうえで、親しくお話を伺う機会を設けることは、とても意義があることのように思いました(個人的には、師匠をお迎えして懇親会が開ければ、それだけで良かったのかも知れませんが)。

 予定外に、司会進行などの役目を任され、動揺する場面もありましたが、何とか無事セレモニーを済ますことができたと思います。控えめなセレモニーですが、岡山出身でアメリカ大手投資銀行系子会社の、代表取締役になっておられる方による経済・金融に関しての記念講演も盛況でした。また、拙い司会者によるコーディネートでしたが、功労者である先輩技術士の方々から、価値あるご提言もいただきました。

 そもそも、技術士資格は名称独占であって、業務独占でない点において一般社会からの認知も低く、資格に見合うメリットが少ないこと、企業内技術士の厳しい現状など、けっして明るい未来ばかりではない、という課題も抽出されました。それでも、部門や組織を越えて連携を深め、社会貢献を踏まえた情報の発信をしていくことが、大切であるというようなお話を頂いたと思います。

 一方、岡山県技術士会には、前身の山陽技術士センターという時代があり、実はこの期間が長かったこと(功労者の方々の、夫々の立場や視点から見たエピソードや感想の披瀝は、多様で興味深いものでした)や、99年の岡山での全国大会開催を通じての動きが、大きなターニングポイントであった話なども伺いました。私も、大体のことは拝聴しておりましたが、関わっておられた方々の口から、直接お話を聞くことができたことは、他の会員を含めて意義深いものがあったと思っています。。

 そのような中で、感じたことはやはり、技術者精神の伝承(技術者としての志を伝えることの大切さ)ということのように思います。冒頭から続けた、ぼやきのような文章もそのことの大切さと、取り組んでいく困難さを考えた時に、出てきた文章のようにも思います。本当は、ポジティブな書き出しで始めるべきお話なのかもしれませんが、やや、疲れていることも事実です。

 奇しくも、懇親会の酒に酔った頭に、加藤和彦氏の自殺のニュースなどを聞かされたことが、そのように沈んだ気持ちに、させられた理由の一つかも知れません。また、項を改めてフォークルのことなどに、触れてみたいとは思いますが、今はその気になれないのも、本音のところです。とはいえ、何もしなくても過ぎてしまう時の流れの中で、何かをしなければいられないのが(或いは、したいと願わずにいられないのが)人間だと思います。

 拓郎のように「頑張らなくても良いでしょう~」と呟きながら、やっていこうかなぁと、思ってはいます。


2009年 10月 8日        道が無ければ……




 空が、本当に高くなって、吸い込まれそうな青色になる時があります。今さらながら、秋が、一番好きな季節であることを、勝手に実感ししたりしています。

 一時の、ブームは去ったとはいえ、相変わらずテレビでは「お笑い」番組が、頻繁に放送されています。入れ替わり立ち代り、新たな人やコンビなどが出てきては、いつの間にか消えていくように思います。まったく、お笑い芸人と称される人達も大変だなあと思います。

 見ておりますと、「笑い」に関する需要も変わってきているのか、どんどん、短時間の間に「落ち」を求める傾向に進んでいるように思います。それと同時に、次から次に私生活などから取材したネタを披瀝しあうというか、身の回りネタの競演が進んでいるようにも思います。つまり、一度やったネタは、直ぐに飽きられてしまう傾向が、さらに強まっています。

 比較的、寿命の長いギャグという決まり文句も、昨今では、その賞味期限が短くなりました。お笑いの世界も、テレビ業界における市場原理主義によって、大量生産と大量消費が行われているように思います。まさに、飽きたら次の奴といった感じで、消費者(視聴者)に商品を提供しているようなイメージがします。そのような風潮の中で、提供する側も、見ている側においても、質の低下が進んでいる気がしてなりません。

 例えば、作り手の側からいえば、他局との視聴率争いという呪縛から逃れられず、目先で話題のある芸人や、とりあえず無難なタレントを器用しておく、というような傾向が強いように思います。また、所属するプロダクションや事務所の影響なども、見え隠れしたりするような気もします。みている私の感性が、時代とずれていきつつあるのかもしれませんが、どうしても、そのように穿った視点で見てしまうのも事実です。

 見ている側の視点といえば、お笑いだけに限らず、我慢する余裕を持った人が、年々減っているのだと思います。「落ち」に至るまでの「ふり」を辛抱強く見守り、笑いにいたるプロセスを楽しめる想像力を、自身に内在させながら見ていられるような、そんな人が、本当に少なくなっているのだと思います。したがって、演じている側も、短時間に「ふり」と「落ち」を繰り返して、視聴者にストレスを与えない配慮(工夫)が必要なのでしょう。

 現在では、「お笑い芸人」というくくりの中で、コンビ・トリオの漫才・コントなどをやる人、またピン芸人として、一人で「芸」を披露する人など、種類もスタイルも様々な人達(リアクション芸とか、皆で一人を弄るような笑いも含め)が、めまぐるしく登場しては消えていきます。しかし、流行り廃りの速い芸能界(主に、テレビの世界)で、生き残るために必死なのは解りますが、余りにも、奇をてらおうとする行為ばかりが、目に付いてしまいます。

 そのときは、一瞬「面白い」と感じるのですが、直ぐに飽きてしまうのも、また事実です。そのような視点で考えてみると、そのようなお笑い番組で供されている笑いは、「芸」と呼べるものなのかと思ったりもします。確かに、お笑い芸人がやっているのですから、「芸」ではあるはずです。しかしそれは、人の世に長く定着してこそ、芸などと呼べるのではないか、などとも考えてしまいます。

 かつては、芸にも道があったのではないでしょうか。師匠について、礼儀作法を含めた人間的修行を積んで、その上で磨いていくものが芸であり、その人生の歩みが芸道と呼ばれるものであったように思います。それは、我慢や辛抱のいる行為ですし、多くの時間を費やすものでもあります。実際には、苦労をしたからといって目が出るとは限らないのが、人気商売の厳しいところではありますが。

 しかし、笑いのテクニックを養成所などで学び、マニアックな知識の量や、私生活におけるエキセントリックさを披瀝しあうような、当代のお笑いのスタイルが、良いとか悪いとか語る立場にもありませんが、時には、安心して見られるようなお笑い番組を見たくもなります。例えば、漫才のあしたひろし・じゅんこ、ケーシー高峰、マギー司朗……わかっていても、笑えるようなものです。

 そのような意味で、落語というものが、私は、結構好きです。同じネタでも、演者(やる人)によって随分趣や面白さが違います。円生の死神、米朝の上燗屋、志ん朝の大工調べ、談志の芝浜、歌丸の井戸の茶碗、円窓の水神など、直ぐに思いつく噺がいくつもあります。早世しましたが、枝雀の貧乏神なども良かったです。同じ古典を演じても、それぞれに独特の個性と味があり、安心して笑えるものばかりです。

 また、人情話や怪談などでは、じーんとなったり涼しくさせられたり、本当に話術というのか、芸道の奥深さを感じさせてくれる人達の噺は、何回でも聞きたくなるものでもあります。考えてみれば、弓、剣、柔、茶、花……日本には、それぞれの技や芸に、道があったのではないでしょうか。


2009年 9月 24日          喫茶店はどこへ




 天候が、予測し辛い秋の一日、無難な薄曇の空を得て、兼業農家における最大のイベントである稲刈りを済ませました。長雨など、懸念材料はたくさんありましたが、思っていたよりは実り多い年でした。

 この頃、町を歩いていてよく思うことは、喫茶店の数がへったなあということです。スタバやサンマルク、ドトールなど、珈琲を飲む場所は増えたのかもしれませんが、それなりの趣きを備えた昔ながらの喫茶店は、随分と少なくなったように思います。考えてみれば、純喫茶などという言葉は、もはや死語になったともいえるでしょう。

 私は、喫茶店というものが好きです。それは、子供の頃に初めて連れて行ってもらい、ミックスジュースを飲んだ時からかもしれません。あるいは、アイスコーヒーを「冷コー」などと注文していた、思春期の頃の思い出に依拠しているのかもわかりません。兎に角、店内が少し薄暗く、珈琲豆の挽き立ての匂い(香り)がするような、そんな感じの喫茶店が好みです。

 丁度、「君とよくこの店に来たものさ~」という、ガロの学生街の喫茶店という曲が流行っていた頃、私は喫茶店に出入りするようになったように思います。多くの場合、男友達と(良い方も悪い方も含めて)たわいも無い会話をして、時間を潰しておりました。また、たまには女子と二人だけで、ときめく時間を過ごしたこともあります(もちろん、気まずい場面もありますが)。

 本当に、商店街に活気があったその頃は、この町にもたくさんの喫茶店がありました。学生の溜まり場になる店や、デートといえば~というような、感じの良い店がいくつもあったと思います。それぞれの店では、有線放送や、経営者の人の好みによって、様々な音楽が流れておりました。今でも、微かな記憶の感傷を誘ったりするのは、それらの喫茶店で、BGMとして聴いていた曲ばかりです。

 他方、社会人になってからは、喫茶店のモーニングサービスに、本当にお世話になったものです。また、マガジン・ジャンプ(少年・成年共)や、ポスト・現代などの週間誌も、喫茶店でよく読みました。実際、サラリーマンを辞めて一番しなくなったのは、外で珈琲を飲むことと、週間ものの雑誌類を読まなくなったことです。

 例えば、単に珈琲を飲むだけなら、近頃流行のスタバのような店が適当でしょう。むろん、読書などして長居をしても、眉を顰められることもありません。しかし、私の喫茶店に対するイメージの中には、そこに座って安らぐという要素も含まれているので、なんというのか、居心地の良さというものが、必要な条件となってくるのです。

 そのように考えると、店のつくり、雰囲気、テーブルなどのディテール、そして、何よりも応接してくれる人の人柄など、自分にあった店の方向性が出てきます(当然、珈琲の味も)。数こそ減りましたが、今でも何軒かはいつでも訪れたい喫茶店が、あちこちにあります。また、地元のみならず小樽、神戸、大阪、京都、鳥取、尾道、……日本中に、また行きたい店があります。

 ところで、何時から砂糖を入れないにがい珈琲の方が、美味く感じられるようになったのでしょうか。冷コーなどといきがっていても、シロップの入ったアイスコーヒーを飲んでいた高校生の頃が、懐かしく思い出されたりもします。途中から、無理をしながらブラックで飲むようになりましたが、苦味と酸味の中に含まれるものこそ、珈琲の醍醐味であることが、中々理解できなかったのも事実です。「大人の味」が、わかるようになったということでしょうか。

 そういえば、大人にならなければできないことが、本当に少なくなってしまった現代では、私達が体験したような、少し背伸びしたような気分で、喫茶店に入っていく気持ちは、理解し難いのだと思います。また、そんな風に大人になって行けない今の子供達は、本当は可愛そうなようにも思います。酒・たばこ、パチンコなどもそうですが、堂々とやったって、実はそれほど面白くないものです。

 
物事には、きちんとしたきまりや常識があって、そのタブーを密かに破ることにこそ、面白味というものがあると思うからです。タブーを破るとは、穏やかではありませんが、きちんとした社会や、常識が保たれていての話であることは、改めていうまでもありません。そして、思春期などを経て、徐々にその味を覚えていくべきであるとも思います。

 少し、薄暗いような雰囲気の喫茶店で、アンティーク調の椅子に座り、ショートホープを燻らせながら、テーブルを挟んで女の子と話しているだけで、十分に満ち足りていた頃は、今よりも、何倍も時間が濃く流れていたように思います。そういえばその頃は、トイレに行く暇さえ惜しんで、語り合ったようなこともありました(それは、戻れないからこそ懐かしく、愛おしい時間なのだとは思いますが)。

 今では、文庫本を片手に、なるべく明るい禁煙席を選ぶようになった自分に、苦笑いなどしています……


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