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NO.21

2010年 10月 21日        動けば雷電のごとく
 

                    
 


 
今年は、その数が少ないようですが、柿の実も熟れてきました。知り合いから、栗やピオーネも届けて貰いました。だからというわけではありませんが、深まり行く秋の気配に、幾らか気持ちが和んでいます。

 福山演じる龍馬伝も、いよいよ佳境に入ってきましたね。白州次郎をやった伊勢谷友介が、熱演した高杉晋作も死にました。最後のシーンを含めて、やりすぎ感の強い演出ではありますが、白州と高杉に共通する、育ちの良さのなかに秘められた強固な意志の強さと独創性を、表現するキャスティングという意味では成功していたのではないでしょうか。

 私としては、くさいかもしれませんが「おもしろき、こともなき世をおもしろく~」という辞世の歌を詠ませて欲しかったと思います。実は、この辞世の歌はそこまで書いて力がつきてしまい、「すみなすものは、心なりけり」という下の句は、枕頭にいた野村望東尼が継ぎ足したものです。個人的には、上の句だけで十分なように思いますし、もう少し言えば、晋作に尋ねてみたいような気がします

 上士であり、名門の高杉家の嫡男でありながら、鼻輪のつけられぬ牛などといわれ放蕩を重ねた晋作は、いかにも暴れん坊のように思われがちですが、多くの漢詩を残し、文学や芸術への造詣も深く、なによりも鋭敏で繊細な感性を備えていたように、私は思っています。さらに、儒教的精神に篤く、毛利家への忠誠や両親への孝行が、常に頭の中にあった人でもあると思います。

 また、晋作を語る上では、彼が生涯敬愛し続けた吉田松陰に言及する必要があるでしょう。叔父玉木文之進のスパルタ教育を受け、山鹿流(因みに、赤穂浪士の討ち入りで有名な「山鹿流の陣太鼓」というのは、歌舞伎における創作のようです)の師範家を相続するのですが、脱藩したり黒船に乗り込んだりと、その知識探求欲は凄まじく、また驚くほど純心な印象を受ける人でもあります。

 松下村塾に通い始め(実は、家には内緒で)、若き晋作は松蔭の思想に傾倒していきます。そして、国のあり様や正義という概念を、醸成していったのだと思います。知識を深め、知ることと行動を一致させることにおいて、松蔭の執念は凄まじく、痛ましささえ感じます。学問や、普遍的な思想の追求という視点よりも、むしろそれを論じる松蔭その人の、人間としてのひたむきな姿に、、晋作をはじめとした多くの俊才が、影響されたというべきだと思います。

 松蔭と、晋作について書かれた司馬遼太郎の「世に棲む日日」における、処刑された松蔭の遺骸を取り戻して、再度埋葬するために持ち帰る件の、幕府役人に対する「家茂にきけ」という台詞を、胸のすくような思いで読んだ人は、私だけではないと思います。また「先生を慕うて、ようやく野山獄」という句を残しているように、晋作は生涯松蔭への敬愛の念を持ち続けてもいたのでしょう。

 一方で、鋭敏な感性を備え、芸術的センスも多分に持ち合わせていた晋作は、自身を東行と呼ぶほど、歌人西行にも心酔していました。下関郊外の、桜山というところに病気のため転居した際、そこを東行庵と名付けたこともあります。もっとも、一箇所に落ち着く性分では無いようで、またぞろ市中に移り住んだりもしますが。それでも、どこか人生の無常と、自分自身の生涯の短さについては、早くから本能的に感じていたようにも感じます。

 ところで、若き日の松蔭もそうですが、長州藩には、才能のある若者を育む土壌があったのだと思います。それは、戦国の大藩であった毛利家が、防長二州に閉じ込められ、徳川政権下の二百数十年を生き抜いていく中で、人材育成の重要さが醸成されたのかとも思いますが、衆目が才能と資質を認めていれば、多少の腕白は愛嬌として肝要するような気質が、この国の人々の根底にあったともいえるでしょう。

 ともあれ長州藩では、高杉晋作の存在感は非常に大きく、ことあるごとに人々を纏めてしまうのです。佐幕と尊王の間で、藩内が激しく揺れ動く度に、表舞台に立ったり逃亡したりしますが、肝心な場面には必ず晋作が登場してきます。それは、藩主を始めとした大人たちから若年層まで、長州藩の人たちの多くが、愛すべき存在として晋作のことを見、頼もしく思っていたからに他なりません(生涯、身分的には一書生でしかありませんが)。

 晋作の、「世界の中の長州」というような改新的な発想は、坂本龍馬とも大きく通じ合えるものが、あったのではないかと思います(晋作が、龍馬にピストルを贈ったエピソードは有名です)。一方、「三千世界の烏を殺し、主と朝寝が~」という都都逸も、晋作の作であるといわれています。才女で美貌のお雅を家に置き、放蕩を重ねた晋作らしい唄ですが、下関における母と妻と愛人おうのの接近による難渋を、漢詩に書いて桂小五郎に送ったりもしています。

 司馬遼太郎は、晋作の最大の支援者ともいえる白石正一郎に「高杉さん、あなたはどのようなことをしても、神仏に許される人だ」と語らせています。また、小欄のタイトルにも掲げた碑文の(高杉晋作記念碑)「動けば雷電の如し~」を書いた伊藤博文にも、坂の上の雲の中で「高杉さんが生きていたら叱られる」と語らしめてもいます。何故か、それらの言葉が真実味を帯びて、私の胸にも強く響いてくる気がします。


2010年 10月 7日        神田川の頃  

        



 
あれほど、暑さを口にした日々は、どこに行ってしまったのでしょうか。瞬く間に秋が訪れ、気温の変化について行けない身体が、綻びを見せております。「秋の枯葉に身を包み~」といったところでしょうか。

 先日、南こうせつコンサートに行ってきました。昨年末の岡林同様、我が町でのコンサートは30年振りということでした(イルカ絡みでは、訪れているはずですが)。観客は、殆どが私以上の年齢の人達(団塊世代の、それも女子が多かったように思います)ばかりでした。また、京都や大阪などから「おっかけ」のような人達も見かけました。さすがに、こうせつの人気は底堅いものがありますね。

 かぐや姫時代からの曲を含め、聴かせるところは聴かせ、盛り上げるところは盛り上げるという内容は、「おいちゃん」独特の上手さですし、家路に着く人々は、皆満足げな顔をしていました。早めの夕餉を済ませ、ほろ酔い気分で出かけた私も、来た時よりも優しさを増して帰る人達と同じように、柔らかな満足感に包まれて、帰ってくることが出来ました。

 何よりも、その人柄から伝わってくる優しさが、南こうせつという人の最大の魅力なのだと思います。そして、きちんと手入れされている(と思われる)喉から発される高音の響きは、今も尚健在どころか、輝きを増しているような気もしました。例によって、「ランラララ、ラララララン~」と唄わされることには、多少抵抗がありますが、その頃には会場は大いに盛り上がっており、臆する必要が無いのも事実です。

 フォーク全盛の頃からここまで、随分と経った時の流れを踏まえ、いたわりと励まし、皮肉と自虐が混じった絶妙のMCも、根底にある人としての優しさが見事にまとめ、聴衆の心に響いてくるように思いました。同じ話をしても、その届き方や伝わり方は、誰が喋るのかで随分違います。改めて、そのことを痛感する機会にもなりました。さらに、時間が経つにつれ、不思議な暖かい一体感が、場内を包んでいくようにも思いました。

 ところで、私が一番かぐや姫を聴いていたのは、高校生~二十歳位ではなかったかと思います。厳密には、かぐや姫ではありませんが、文字通り22歳の別れの頃も良く聴いていました。拓郎・陽水・泉谷などとオーバーラップするようにも思います。その対岸のような位置(シンクロしながら聴いていた)に、岡林・加川良・高田渡・六文銭……などが挙げられるかもしれません。

 もちろん、フォークルやバンバン、五つの赤い風船、赤い鳥など、その頃のグループを数えだすと、きりが無いのも事実です。そういえば、今をときめく井上陽水が600円位で、我が町の文化センター(件の、こうせつコンサートの会場)に来ていたようにも思います。当時もシングル版のレコードが500~600円していたので、それ程高額な料金では無かったと記憶しています。今、がらがらの商店街を思うと、良い時代であったんだなぁとも思います。

 いずれにしても、少し背伸びして聞き始めてから、フォークソングとそれが流行っていた社会的背景に、私が(私達の世代が)大きく影響をうけたことは、紛れも無い事実です。もちろん、今の若者達も、音楽や社会現象に大きく影響されると思いますが、自分を不埒と言い切る自分の方が、遥かに真摯な感性を備えていたように思うのは、強ち私だけでは無いようにも思います。

 どうしても、いつもの癖で、つい厭世的な表現になってしまいます。しかし、今のこの国の現状をを眺める時、そのような見方をする自分を、否定仕切れないのも事実です。とりあえず身の回りには、真贋はともかく豊富にものが溢れています。そして、市場原理主義に基づき、お金があれば幸せが買える錯覚に、多くの人々が陥ろうと(或いは意図せず、或いは意図的に)しています。

 そんな、時代に生きているからこそ、単に郷愁としてではなく、あの頃の楽曲lは人の心に伝わってくる何かを、持っていたように感じるのです。もう少しいえば、その何かには、今の楽曲が持っているメッセージよりも、遥かに強い力が込められていたように思うのです。背景として、三畳一間のアパートや、洗面器の中でなる石鹸の音を、疑似体験としてイメージできる感性を、多くの人達が共有していたといえるのかもしれません。

 言い換えれば、それは他人の痛みや悲しみを、自らのことのように感じられる感性と、言えるようにも思います。コンサートの中で、こうせつおいちゃんが語った、多くのエピソードや思い出話は、会場にいた多くの人達が頷けるものでもありました。それは、今よりも遥かに純粋で、きちんと物事を考えていた若者達が、生きた時代の話です。それ故に彼ら(私達)は、滑稽な出来事を演出し、甘酸っぱい思い出をセピア色のアルバムに、残すことになったのでしょう。

 そしして、その「心のアルバム」はいくら時が過ぎても、色褪せたりはしないのだと思います。


 2010年 9月 23日        モールからラックへと


 

 
消費者の、食べる米の値段は下がらないのに、生産者の受け取る収入は減っていく、まことに不可思議な国策に翻弄されながらも、田舎の兼業農家をやっています(とはいえ、自分で作った米は美味い)。

 そういえば、よく「霞ヶ関の人間に何がわかる」と、地方の農業者が叫ぶ場面を見かけることがあります。夏でも冬でも、空調の整ったオフィスの中で、情報端末のモニターから提示される情報を基に、知識と理論に裏付けられた判断ばかりをしていれば、現場で起きているささやかな変化を、肌で感じることはできません。また、実際にそのような暇もないでしょう。

 ここでいう現場は、農業だけではなく医療・介護・福祉・社会資本整備・物流……様々なものが考えられます。そこで考えられるのは、せめて上に立つ人が(高い居住性を備えたオフィスにいても)、現場から届く声を十分に集約し、かつ、その内容を自身の中で吟味できる感覚を備えていれば、どれだけ救われる(効果的な施策が行われる可能性が高くなる)だろうということです。

 私は、何をするにしてもこの「肌で感じる」という感覚が、非常に大切であると考えています。それは、私自身が体験し培ってきた感覚に根ざしています。一方で、多くの事例を、エピソードとして引けることでもあります。世界的指揮者の小澤征爾氏は、少年時代にラグビーをやっていなければ、指揮者になったか(なれたか)どうか解らないと述懐しています。

 スクラムを組あい、モールからラックへとボールが渡っていく中で、身体と身体をぶつけ合ってこそ解る「何か」があり、ものごとはやって見なければ解らないからである、と、そのような意味のことを小澤さんは語っておられました。私も、その通りだと思います。頭の中で考え、或いは机上の知識やデータのみに頼り、シミュレーションを行っているだけでは、予想外の変化や想像を超える展開に、ついていけないのは想像に難くありません。

 例えば、地震が起きるたび(大災害が発生するたび)に、基準が変る土木工学に関する理論も、実際の事例や現象を基にして、経験的に抽出されてきたものに他なりません。擁壁の安定に関する安全率にしても、「余裕を見て」1.5倍とするというような感覚です。これは、全てのことにいえるのかもしれませんが、人間が考えて作り出してきた研究成果や技術も、「感じられる」感覚がなければ構築されては来なかったのだと思います。
 
 そのような意味において、まず肌と肌を通して感じあうことが、一番わかりやすいことだと思います。肌と肌というと、少し意味深でややこしくなりますが、ラグビーなどは、最も適切な例に挙げられるのではないでしょうか。そういえば、私の濃い友人には、ラグビー体験者の比率が高いように思います。またそうでなくても、体験やエピソードがユニークな人が多いのが事実です。もちろん、類は友を呼ぶという言葉がありますから、私自身が個性的であることは否定しませんが。

 例えば、頬ずりされながら肌で愛情を感じて育つことが、人間の情緒感の形成にどれだけ大切なことか、体験を通して、私は切実に感じています。今はもう亡くなりましたが、厳しかった父について、そのような光景を記憶の中に見出せないことが、意外なほど私の心に、虚しさを抱かせる時があるのです。誰よりも期待をかけ、私のことを大切に思っていた、と、父を良く知る人達から聞かされるたびに、頭ではそのことが理解できても、感覚として実感できない自分に、苛立たしさと虚しさを感じてしまうのです。

 もちろん、私には母が居り、父の厳しさを補完してあまりある程、愛情を注いでくれました。また、成長の段階において、或いはここまで生きてきた中で、多くの友人知己を得られたことが、今の価値観や情緒感の形成に、良い意味で大きく影響しています。さらに、それらの仲間とのやり取りの中で確信を得たことが、自分の肌で感じ取ることの大切さだと、いえるのかもしれません。

 話は変りますが、先日、元関東学院大学ラグビー部監督の、春口廣氏のドキュメンタリー番組が放送されていました。「皆が一つにならなければ勝てない」(それはレギュラーだけでなく、一年生から四年生までラグビー部の全員を指す)。全員が、同じ練習メニューをこなす関東学院では、日々の練習や合宿所の生活を通して、「皆が一つになる」感覚を肌で感じ、培っていくのだということが、しっかり伝わってきました。

 余談ですが、関東学院大学からはソフトテニスで、特待生の誘いを受けたこともあります。春口氏がラグビー部の監督になられたのが1974年ですから、私が、先輩からの誘いを受けて入部していれば、部活は違っていても、就任二年目の春口監督と、接する機会もあったのかなぁと思いました。諸事情があり、その道には進みませんでしたが、スポーツなどにより身体で覚えた感覚は、いまでも役に立っているように思います。

 私には、「馬鹿でも、突っ込んでいく奴は、ほっとけれんだろう」といいながら、美味い酒に付き合ってくれるラガーマンの友人がいますが、ここで言う「馬鹿」とは、「チームのために損得を考えず」とでも訳しておきましょうか。


2010年 9月 9日        会津少年の志を偲ぶ


 

 
日本の位置は、亜熱帯地域であったのか?と、思いたくなるような暑い日々が続きました。私の、最も好きな季節である秋は、今年は来るのだろうか?来ても短いのかと、気を揉んだりしています。

 先日、いつもの天からの啓示的展開により、会津若松に行ってきました。といっても、岡山から羽田に飛行機で行き、それからバスによる観光ツアーでしたので、浅草から水戸の偕楽園を含めた茨城を回って(一泊し)、翌日白虎隊隊士の眠る飯盛山や鶴ヶ城、武家屋敷、酒蔵などの会津若松市内と、猪苗代湖畔にある野口英世の生家などを、駆け足で回ってきました。

 途中、浅草浅草寺から建設中のスカイツリーを、直ぐ間近に眺めることも出来ました。余談ですが、浅草なのに何故かサンバカーニバルというのが行われておりました。といっても、時間的な都合と何重にも出来た人垣のため、ほんの少し垣間見ただけでした。本当に、どこからあれだけの人が寄ってくるのか?と、首を傾げたくなるくらいの人の数でした。

 コンクリートの建物と、アスファルトの照り返しによる凄まじい放射熱による暑さの中で、自分にはとても、ここで生活していく自信が持てませんでした。一方、バスの車窓から見える、林立する高層ビル群を中心とした風景に、生活観は感じられず、浅草寺界隈でみた、どこから湧いてくるのかというほどの人出と、イメージが結びつかず「東京は、おかしな街だなぁ」と思わずにはいられませんでした。

 ところで、私は、これまで維新前後の歴史については、松蔭・晋作・龍馬……というように、比較的自分の住んでいるところに近い人達を通して、見てきた(考えてきた)ように思います。もちろん、海舟や慶喜、近藤や土方という人物への造詣もありますが、どちらかというと明治維新を、成立させた側の視点が強かった(思い入れる感じ)ように思います。

 しかしながら、武士としての誇りを持ち、大きな意味における「国を思う」気持ちは、松平容保に率いられた、白虎隊に象徴される会津武士にも、しっかりと培われていたのだと思います。本当に、武士を中心とする当時の日本人は、今の我々には想像もつかないほどの、高い精神性を備えていたのではないでしょうか。簡単に、佐幕か攘夷かなどと語るべきでは、無い様にも思います。

 実は、会津には玄武・青龍・朱雀・白虎と名付けられた、年齢別に編成された部隊がありました。年齢からいくと、青龍・朱雀という部隊が主力なので、主に16・17歳という少年達で構成され白虎隊は、いわば予備隊でした。その、総勢は300余名といわれ、うち二番隊42名の中の20名が、戦闘における市中の火災を鶴ヶ城の炎上と勘違いし、自刃して果てたというのが史実です。

 その20名の中で、ただ1人生き残った飯沼貞吉という隊士も、生前の希望通り、他の隊士が眠る飯盛山に、墓碑が建てられ祀られています。因みに、身長が高く優秀であった彼は、一歳年齢を誤魔化して、白虎隊に入隊したようです。維新後は、飯沼貞夫と名を改め、逓信省に長く勤めましたが、当時のことは多くを語らなかったとも言われています。

 考えてみると、武士としての高い志と教養を養い、高潔な倫理観を有していたために、彼らは悲劇に巻き込まれたともいえるかもしれません。そしてそれは、明治維新を成立させた志士達と形は違っていても、自分の住むところを愛し、共に暮らす人々を慈しむ心が、内在されていた行動であったのではないでしょうか。飯盛山の墓所に立ち、私はそのことを強く感じました。

 ところで、戊辰戦争により大きな損傷を受けた鶴ヶ城は、昭和40年に復元されました(鉄筋コンクリート造りで、現在ではこのような復元は認められていない)が、再建50周年を記念して、赤瓦への葺き替え工事が行われておりました。余談ですが、私の天からの啓示による行動(思いつきですので)では、たまにこのような工事中に、遭遇する場面もあります。天守閣は、江戸時代末期の姿を再現するとのことでしたが、仮囲いに覆われておりました。

 その、仮囲いに覆われた姿は、白虎隊の眠る飯盛山から、現在も眺めることが出来ますが、現在では市街地の中です。そもそも、天正年間に蒲生氏郷が会津藩主となってから、1593年に七層の天守閣を備えた鶴ヶ城を擁した会津若松は、東北地方における屈指の要衝であったようです。一時は、上杉景勝(直江兼続の主君)や加藤嘉明なども入封していますが、今は夢の跡です。

 また、会津藩だけでなく当時の諸藩はどこも、若者の教育に力を注いでいたはずです。その面影を、今日の日本で、どこに探せば良いのでしょうか。

 
 

2010年 8月 26日        残暑の中の雑感




 立秋の声は、随分前に聞いたように思いますが、日中は痛いような陽射しが注いでいます。残暑というには、あまりにも厳しい暑さです。格差の拡がる世の中同様、情け容赦の無い感じがします。

 
相変わらずの、多忙な日々を過ごしております。その背景は、夏休み中の地元中学生の声を聴く会とか、連合町内会数支部合同での市長との懇談会など、地域絡みの行事が増えてきたことが主たる要因であり、その傾向が強まっているのが現状です。とはいえ、「ほうっておけないから」とやり始めたことも、やらなければいけないことの方向性は、見えてきたように思います。

 しかしながら、そのような暮らしの中でも、半ば強引に時間をつくったり、仲間を無理やり巻き込んだりして(もちろん、巻き込まれることもありますが)、自分自身のガス抜きをしながら過す術を、いつの間にか会得してしまったような気もします。少し顔の向きを変えれば、直ぐに「久しぶり」という問いかけがおこる中、お盆を挟んで、それなりに内容の「充実」した日々(夜)を、過ごしておりました。

 予定の上に「飛び込み」があり、焼肉の梯子というような強行日程もありました。また、酔いに任せて拓郎・岡林など、フォークの熱唱に声を嗄らした夜もありました。さらに、年のせいかもしれませんが、先日放送された「思い出のメロディー」を、快く聴いていた夜もありました。昭和40~50年代の歌謡曲は、何も考えなくても口ずさむことができるので、やはり記憶というものは、若い頃のものばかりが頼りになるのでしょう。

 そして、お盆の行事として忘れてはならないのが、何箇所かある縁の場所への墓参りです。最も遠い場所は、一昨年亡くなった祖母のお墓があるお寺ですが、本当に田舎のお寺らしさが漂うところです。木立に囲まれ、吹く風もどこか優しく、いつも癒されて帰ってきます。墓参に訪れたのは、こちらの方なのにと、何故か不思議な気持ちにもなります。

 以前に、触れたと思いますが、私の母の出身地は岡山県の西北部に位置する、典型的な中山間地域です。むしろ、地質が石灰岩質なので、切り立った山の上に台地のような場所が点在しており、田舎という風情は強いように思います。幼少年期の、私の心に強く刻み込まれた、美しき二次的自然ともいえる里山の風景が、今もかろうじて残っているところです。

 「負けたら帰ってくるな」という父の対極で、無条件に庇ってくれた母の生い立ちは、あの山の中の穏やかな暮らしにあったのだと思います。そのおかげというか、母の実家に帰省する夏休みを過したことにより、私の感性が醸成されたことは言うまでもありません。河合隼雄作「泣き虫ハァちゃん」ではありませんが、男の子だって泣いても良いのだということを、母とその故郷が私の精神の中に、注入してくれたのだと思います。

 もちろん、読書をはじめ厳しい父により、身につけてもらったことはたくさんあります。結婚のよさは、そのような混血による融合(適切な言葉が思い浮かばないので)なのかもしれませんね。いずれにしても、人は愛されて育たなければ、人を愛することが出来ないのは事実です。優しく慈しまれた経験がなければ、誰かを慈しむことも難しいことだと思います(知らないことは出来ない)。

 少し話がそれましたが、例えば友達などを考えても、同様のことが言えると思います。人は、感性というセンサー(アンテナ)を発達・調整しながら、幼少年期から大人へと成長していくわけですが、
価値観という周波数を、自然な形で同調させあっていくものです。その際、概念的なものは多様であって良いと思いますが、根っこにある人間性については、かなり共通したものを感じなければ、先輩・後輩を含めて、上手く付き合っていくことが難しいのだと思います。

 それでも、世の中にはいろいろな人がいますし、価値観や常識なども大きく変化しています。私が、違和感を覚える度合いも、年々大きくなっているのが事実です。だからこそ、「同調」できる人を探し続けていくのかもしれません。また、同調できる人を大切にしたいと、思う気持ちが深まってもいくのでしょう。だからこそ、多少無理をしてでも、酒席に着こうとする私がいるのです(極めて、強引な展開ですが)。

 幸いにも、今年はそのような会食の中から、心のアンテナを刺激されるような、若者にも出会いました。建設部門の技術者として、将来への期待を抱かせてくれるような青年でした。まだまだ、気持ちよく飲むことと、自身の能力や体調との、相関性に関する理解が十分ではなかったようですが、そのようなことが、かえって私には好感を持てたのも事実です。若いときは、我武者羅で良いと思います。何でも、一生懸命にやることが一番です。 

 振り返ってみても、顔が熱くなるような恥ずかしさや、とても今では辛抱出来ないような辛さなど、自らがやってみて肌で感じたことが、最後は頼りになることだけは、断言できることです。

 

2010年 8月 12日        戦争を知らない子供達




 明らかに、地球は変わってきている、と、実感させられるような暑さや気候を、見て見ぬふりをしていても、お盆は予定通りにやってきました。帰り着いた先祖の御霊は、本当に安らげるのだろうか?などと考えてしまいます。

 先日、テレビで北山修の、「さよならコンサート」が放送されていました。定年を迎え、退官することに伴う記念コンサートが、今年の3月21日に催されましたが、その時の模様を録画したものです。それでも、北山修が歌う場面は少なく、コーディネーター的立場で、コンサートを取り仕切っているという感じでした。主に、アルフィーの坂崎幸之助が、「歌唱担当」という感じで、フォークルの曲などを歌っていました。

 北山修といえば、私達に大きな影響を残したフォーク・クルセダースの元メンバーとして、或いは作詞家として、多くの名曲を世に送り出しているので、今さらプロフィールを語ることも無いと思います。一方で、一貫して精神科医・心理学者としての立場というか、生活の基本をそちらに置いた生き方を、貫いて来た人でもあると思います。

 むしろ、それだからこそ、極力露出することを抑えてきたのだ、という話もされていました。いずれにしても、私より一回り上の世代の人で、帰ってきたヨッパライに始まり、あの素晴らしい愛をもう一度、戦争を知らない子供達、風、花嫁……多くの楽曲を通して、またそれらが流行った時代を通して、私の感性や価値観の形成に大きく影響されたことは事実です。

 件のコンサートは、本当に名人芸というのか、究極のフォークお宅というべきか、坂崎幸之助の造詣の深さが発揮され(彼は、新結成され、コンサートもやった新フォークルのメンバーでもありますが)実に聴き応えがあり、面白い内容のものでした。当日は、奇しくも加藤和彦の誕生日であったことなども、二人のやり取りの中で語られていました。

 前回、河合隼雄氏のお話の中で、親しい人の自殺を救えなかったお話をしましたが、北山氏は多くを語りませんが、無念であったことには変り無いと思います。当日は、坂崎幸之助と二人で「今も、ここにいる」と、コンサート会場で見ているような(加藤和彦が)会話もしていました。番組に挿入されたインタビューでは、あえて違うフィールドに身を置き、よきライバルとして人生を歩むことができたとも話していました。
 
 また、別の機会(一日限りの復活コンサートの時)であったと思いますが、「戦争を知らない子ともたち」に関するエピソードで、「青空が好きで、花びらが好きで、いつでも笑顔の素敵な人なら~」というような、甘っちょろい詩に曲なんかつけられるか、と、加藤和彦がそっぽを向いた詩に、杉田二郎が曲をつけ大ヒットしたことなども明かしていました。尚、さよならコンサートにも杉田二郎は、参加していました。

 そして、02年に新結成及び解散(つまり、一度きりという意味)コンサートの際に発表した、新たな歌詞を挿入したイムジン河も、坂崎幸之助と一緒に歌っていました(かつて見た、イムジン河の光景が浮かんでくる気がしました)。また、アンコールのためだけに、南こうせつが駆けつけるというシーンもありました。終始、アットホームで和やかな雰囲気のする、良いコンサートであったと思います。

 今まさに、戦争を知らない子供達が、65才になろうとしているのだなぁ、と、時の流れの速さについて、改めて実感することにもなりました。考えてみれば、頭でっかちで背伸びをしながら、フォークソングを聴いていた子供も、50歳を超えてしまっているのが現実です。物事に対する感性は、あの頃とそれ程変ってはいない気もしますが、大人としての狡さも身につけてしまったようにも思います。

 それでも、戦争を知っている人達の話や、平和の大切さなどについて、少なくなっていく体験者や先輩方から、自分のことのようにイメージできる感性を備えながら、きちんと話を聴いていくことが大切で、今の我々にできるせめてものことなのだと思います。そして、そのことについてリアリティのある言葉で、確実に次世代につないで、いかなければならないのだとも思います。

 少なくとも、広島や長崎の原爆の日があり、終戦記念日がある8月には、そのような思いを新たする必要があると思います。そして、この国にはお盆という風習もあります。暑い時候を押して、先祖や知己のお墓に参ることは、それだけで意味のあることだと思います。もちろん、そのような思いは宗教や宗旨に関係なく、人として自然に湧き上がってくるものでもあると思います。

 取りとめも無い話になりましたが、この時期だから感じた思いでもあります。


2010年 7月 29日        忘れ得ぬ人


 



 夏休みの最中です。炎天下、ただひたすらボールを追いかけていた頃の、記憶や感触は生々しく、心に残されているのですが、それを再現するための体力は、どこかに消えてしまったようです。

 私は常々、何かわからないインスピレーション(天からの啓示と、勝手に吹聴している)に誘われ、特定の場所に行きたくなったり、どうしても見たい映画や、読みたい本ができてしまうことを語ってきました。つい最近では、奈良の大遣唐使展や、京都の龍馬像を訪れたことも、小欄で述べました。

 先日も、そのようにして(か、どうかはわかりませんが)、何気なく入った本屋の文庫棚から、河合隼雄という著者名が浮き上がってきました。憑かれるように、「大人の友情」と「ナバホへの旅、たましいの風景」という2冊を手にしておりました。まあ、ただ単に河合さんの本が、読みたくなっただけのことかもしれません。しかし、家に帰って驚いたのは、丁度その日が河合さんの命日だったことです。

 そう考えると、私の「天からの掲示」も、まんざらではないように思いますが。そのことはさておき、私が手にした二冊の本は、実際に今、私が読むべき本であったのだと思います。ナバホ~の方は、河合さん自身が深く興味を持たれ、是非とも訪れたいと考えておられた、アメリカ先住民のメディスンマン(シャーマン)の住む地を訪れられた時の体験を通し、日本人のたましいのあり方などを考える話です。

 もう一方の、「大人の友情」については、臨床心理学の権威者としての豊富な経験に基づき、また、様々な文学作品などを例に引き、「友情」というものを通して、人間の心理の奥深さを語りかけるものです。自分自身について、友人の自殺を救えなかった体験や、恩師から「人間は、親しい人のことはわからない(あまり親しくなると、その人が死ぬ可能性など考えられなくなる)」といわれ、友が発していた自殺へのシグナルを見落とした自分を、責める気持ちから救われたことなど、生々しいエピソードもありました。

 いつも感じることですが、河合さんの本を読むと、説いておられることが「なるほど」という風に、心の奥の深いところで、理解できるような気がします。一方で、「まどろっこしい」のは、そのことを言葉にして誰かに伝える時に、「上手く説明できない」力足らずの自分を感じてしまう点です。例えば、漱石の「こころ」や実篤の「友情」などは読まれた人も多いと思いますが、本当に深い次元から読み解かれた河合さんの解説により、改めてその中に込められた意味も感じられるように思います。

 またこの本では、フロイトとユングの関わり方(親密な関係から、友人関係が崩壊していく過程)や、小林秀雄と中原中也の関係(有名な、婦人を巡るお話)などを通して、その原因ともいえる同一視についての、解りやすい解説なども述べられています。その他にも、多くの事例からエピソードを示し、友情というものの難しさや、素晴らしさを説いています(述べ方により、浅薄にもなり奥深くもなる、難しいテーマだと思います)。

 周知の通り、河合さんは日本におけるユング派心理学の第一人者でもありました。しかし、欧米の心理学をそのままの形では、日本で適用できないことに気付かれ、日本人にあった心理療法を創出された人であることに、私はさらなる尊敬の念を抱かずには居られないのです。臨床心理士の資格の整備などにも腐心されていますが、一方で、話を聴くことの大切さと、誰が聞くのかということの重要性も、常に語っておられました。

 つまり、人の心を救うことの難しさと、その道のりが一様なもので無いということだと思います。しかしながら、それらのことについて、説明(解説)されている多くの著述は、まったくもって解り易いものなので、読者の頭と心にすぅーっと入ってくるのです。知識は、他者に何かを伝えるために、ある程度の絶対量が必要です。そして、それを言葉(文章)にする時、経験に根ざした豊かな感性が求められるのだと思います。そのことを、強く感じさせてくれるのが、河合さんの著作です。

 難しい技術や、研究成果について「素人にも解るように」説明するための論文が技術士論文です。例えば、この資格を目指す人が、河合さんの著作に触れることは、本当に意義深いし効果があると思います(想像力(創造力)醸成の意味からも)。なによりも、日本人が育んできた精神的文化の素晴らしさや、今後の世界において波及すべき考え方について、再認識させてくれることは間違いありません。

 余談ですが、私が初めての口答試験で東京に赴いたとき、同じ新幹線に河合さんが乗っておられました。偶然、隣の車両におられる姿を見つけましたが、声をかけることは出来ませんでした。ホームに降り立ってから、目と目が合った時(私が、そのように行動したのですが)に『気がついた?』という感じで、こちらに向けられた眼差しは、テレビで見た(相手の話を、深く優しく聴いている)表情と全く一緒でした。

 もしも、河合さんが生きておられて、まだ文化庁長官をされていたなら、もっと、子供達のこころ(たましい)の成長に必要な、処方箋を書いて貰えるのではないでしょうか……私の中の「忘れ得ぬ人」です。



2010年 7月 15日         例えば龍馬伝


 

 熱狂に包まれた、ワールドカップも終わりました。代表チームの、心を一つにし、日本人の魂を共有しての戦いぶりは、見ている我々を大いに力づけました。

 それでも、日本人の魂などというと、抽象的で何やら胡散臭いような気もします。しかし、確かに南アフリカのピッチで戦っていた選手達からは、そのような思いを強く感じました。何よりも、一緒に闘っている彼ら自身が、もっとも強くそのことを感じていたのではないかと思います。一方で、個々の選手達は、本田・遠藤・松井・長友……本当に個性豊かです。それぞれに、独立した各々の個性を生かしながら、一つの目標に向かってまとまることは、素晴らしいことだとなぁ、改めて強く感じました。

 独立した個性を考える時、画一的でないものの考え方、と、いうことが浮かんできます。かつて、六十余州などといわれていた頃は、藩によって政治制度や生活習慣・文化も大きく違っていました。また、違う方言でものを考え、独自の文化の中で育った若者達は、尊王・佐幕府など立場を異にしても、維新の混沌を超えて、結果的には日本のためにまとまり、数多くの仕事を成し遂げたのです。そのような意味で、各自が育んだ旺盛な想像力が必要なのだと思います。

 
 ところで、以前本についての話で、例えば翻訳されたものは多かれ少なかれ、訳者の主観が反映されるという話をしました。そのような意味からいえば、歴史小説は「史実」を歴史に忠実に、記録するためのものではありません。したがって、すべからく作者の意図(言いたいこと)が反映されるもので、いうまでもなく、フィクションを含んでいます。史実を曲げることは出来ませんが、無かったことをあったように、描くことはよくあります(むしろ、そのようなところで作者の思いを表現するともいえる)。

 しかし、そこで念頭に置かなくてはならないのは、見る側(読み手)の資質と素養が、大切だということです。例えば、武蔵にはお通が、篤姫には小松帯刀(残されている写真も凛々しい)との秘めた思いが投影(脚色)されていて、ドラマに一層の面白さや、ロマンが加わったのだと思います。しかし、そこで膨らむ想像力や感性と、実際の歴史を正しく認識しようとする意識が、旨く並立できる資質がなければ、少し危険なことになりかねません。

 都会的で、垢抜けたイメージの強かった福山雅治は、ここまで馴染むか、と、いう位に坂本龍馬を好演していると思います。また、以前も述べましたが、香川照之の岩崎弥太郎は、上手すぎるほどの熱演だと思います。しかし、その龍馬伝に対し、私は何となく、違和感を感じてしまう部分があります。それは、フィクションが多いことよりも、下士として虐げられた龍馬の生い立ちが、彼の胸中に、身分によって差別されない、人に上下の無い社会の実現を、想起させたような演出が繰り返される点です。

 もちろん、そのような背景は、多分にあるのだと思います。しかし、単にコンプレックスや遺恨をエネルギーにして、坂本龍馬が活動していたようには、私にはとても思えないのです。彼の業績は、そのような動機だけでは、到底成し遂得げないものだと思います。あの、太平洋のどこまでも拡がる、雄大さと自然の力を肌で感じながら、経済力と情報の源としての才谷屋を拠り所とし、武士としての誇りを持ちながら、家族からの愛情を一杯に受けて育ち、龍馬の価値観は醸成されたのだと思います。

 そのことは、西郷や三吉慎蔵をはじめとする、多くの人達がよせる、龍馬についての評伝を読めば、容易に推察できることだと思います。実際に、多くの偉人たちが、温和ながら度量が大きく優しい人柄で、一応に「人物であった」と語っています。そのような人格は、虐げられた思い出やコンプレックスを母体として、形成されるものではないと思います。幼少年期(この頃が、特に大切)から、十二歳で母親を亡くした後も、姉をはじめとする家族から、多くの愛情を注がれて育った人だと、私は思っています。

 それらの資料も、京都や高知など、龍馬に関する場所を訪れてみれば、良くわかることです。私が、そのようなことを執拗に述べるのは、自分の足を運んで、自分の目でそれらの資料を見て、自身の感覚として描いた感想だからです。もちろん、史実に関してはわからない部分や、様々な解釈をされる部分があります。また、坂本龍馬そのものに対する印象も、人によって違うのが当然だと思います。

 実は、その「人によって違う」ことが、意味のあること(大切なこと)だと、私は思います。そのことは、読書の意義などに関するお話などでも、繰り返し述べていることです。今日、龍馬といえば多くの人が、龍馬伝の福山雅治を、連想するのではないでしょうか。しかし、私が心に描く龍馬像は、全く別のものです。またそれは、残された写真や、あちこちに建つ(桂浜・霊山・円山公園……)銅像などとも、微妙に違うイメージです(もちろん、福山の龍馬に、感情移入はしますが)。

 つまり、私なりの坂本龍馬が、私の中に存在しているのです。もちろん、残されたそれらの肖像などは、外観を想像する上では重要です。しかし、私にとってもっと重要なのは、その人の生き様を、自分の中に感じることだ、と、考えています。龍馬に関していえば、残された手紙の筆致や、スケッチ画の構図などにも、独特の優しさやひょうきんさが、滲み出ているように思います。


 そのような想像力から、私なりの人物像が浮かび上がってくるのです。そして、そのイメージが私の人生観に、大きく影響してもいます。「世の中の役に立つ」の源泉は、そんな心象を背景にしてもいます。


2010年 7月 1日           深まり行く違和感


 

 油照りの日が多く、蒸し暑い気候が続いています。そのせいか、夏に向かう華やいだ気分も、湧き上がってこない気がします。夏休みを、心待ちにしていた日々は、遥か昔のことになってしまいました。

 さて、建設塾といいながら、建設部門に関する話題から、遠ざかって久しいような気がします。また、技術士資格の取得支援に対するスタンスも、HP立ち上げ当初からは大きく変わってきました。そのことには、ここまでにおける建設部門をとりまく、社会・経済情勢の変化、また一方で、私自身の内面の変化が、理由として挙げられると思います。それは、今の時代の中で感じる「深まり行く違和感」とでもいうような、感情に大きく由来しているように思います。

 まず、資格取得に関する面においていえば、私自身の体験を踏まえ(有力なサイトも余りなく、得られる情報も少なく、苦労して勉強したこと)、後から続く人たちのために何とか役に立ちたいと考え、受験指導・論文添削をやってまいりました。そのなかで、やはり「顔を見て、人物を特定して」やることの、必要性と意義を痛感したことが「塾生」を選択し、その数も減らすという、方向性に繋がっています。

 また、コラムに関していえば、そもそも、建設技術者である前に、日本人としての精神性や心の有様について、理解して貰いたいという願望が、私自身の中に強まったことがあります。というよりも、そちらを先にやらなければ、所謂「曲学阿世の徒」を作り出し、血の通わないものづくりや施策が行われることを、心ならずも助長してしまうような、危機感(空恐ろしさ)を覚えたからです。

 今日、技術士試験(資格)は、エンジニアとしてのスタートである、と、いう位置づけに変化してきました。国際的な、相互認証や、名称独占から業務独占を目指す視座から考えれば、それも頷けることではあります。しかし、その時に忘れてならないのは、技術士に限らず、技術者として持つべき志について、問いかける試験は無いし、教え育てるには、日本の企業(特に、建設部門)全体が、疲弊しているということです。

 もちろん、技術士法や技術者倫理という視点から、口答試験などにおいての質問はありますが、それはあくまでも、試験用の受験対策の範疇のものであって(受験用には、それで良いし十分なのですが)、人柄を見極めるものではありません。私は、これまでの経験を通して、そのことに関する疑問や、わだかまりを深めてきました。もちろん、私よりも遥かに多くの人を指導されてきた、師と仰ぐ人の影響を強く受けてもおりますが。
 
 そのような背景が、当塾で指導する人の数を絞り、コラムで述べる内容については、日本人の精神性に言及することが、多くなった要因であると思います。また、身の回りの生活の変化も、私自身の内面の変化に、大きく影響しているように思います。当初は、小さなものであった、地域自治会などにおける役職や責任は、今では比べ物にならないほど大きくもなってきました。

 何も、エンジニアの世界に限らず、この国の全てが、危うさと脆さを含んだ悪い方向へ、進んで行こうとしていることは、そのような活動をしていると、さらに強く感じるものでもあります。特に、子供(今の)達を育てている親達の様子を見ていると、その危機感は、肌を通して強く感じます。権利の習得に余念がなく、義務や責任を語る人がいない昨今では、なおさらのことです。過激で、奇をてらう表現が多用される言葉の割には、行動に責任や真実味がないのが、そのような世代の人達から受ける印象です。

 例えば、技術者として(日本人として)目標を掲げるなら、人の役に立つとか世のために生きる、と、維新の頃の人であれば、多くの人が答えた筈です。もちろん、自分自身が充実した生活をし、その上で家族を幸せにする、と、いうようなことは、個人が誰しも願うことだと思います。また、より良い人生を生きていく上で、意義深いことだと思います。しかし、公の場で宣言したり、その様子(プライベート)を晒して、披瀝するようなものではないと思います。

 「一人独立して、一国独立する」という時代の人たちが、今日のような、多くのブログ等に見られる、臆面もなく私生活を「披露」しあい、お互いに感想を述べ合うような、表面的な関わりあいをみて、どのように思うかは想像に難くないでしょう。そもそも、公と私の間には、厳然とした区別があったはずです。言葉は、悪いかも知れませんが、現代の社会では粒の小さい、小賢しさを感じさせる人間が、目立つようになったと思います。そして、私の気分が塞ぐのは、そのような人間の方が多ければ、そちらが常識(体制側)になるということです。

 一方、常に「誰かと繋がって」いなければ不安な時代では、ツイッターのようなものが流行る傾向にあります。、私自身にも、思い当たるところがありますが、メールのやり取りでさえ、ついつい返事を待ちかねていたりするようになりがちです。結果として、ものを深く考える力(想像力)が、衰えていくような気がします。さらに、ここまで述べてきたような違和感は、年々深まりつつあります。だからこそ、時代に抗うことかもしれませんが、言葉を大切にする視座から、このような文章を書き続けていこうと思っています。

 もちろん、埒外を走り続けたやんちゃ坊主の私が「何おかいわんや」という話ではあります。とはいえ、抑えられない気持ちでもあるのです。


2010年 6月 17日           夢(志)は、大海原を越えて




 稲の好む高温多湿には、程遠いような気候が続いています。それでも、植えたばかりの頃は危なっかしく見えた苗も、この頃では、随分しっかりしてきたように思います。

 先日、もう直ぐ閉幕となる(6月20日で)、大遣唐使展に行ってきました。また、別の機会ですが、京都の町も歩いてきました。とはいえ、京都に関しては例のごとく、龍馬縁の場所ばかりではありました。なんといっても、大遣唐使展ではボストンの美術館から、27年ぶりに里帰りした吉備大臣入唐絵巻の、実物を見ることができました。この絵巻については、テレビで紹介されていたのを見て、どうしても本物を見たかったので、とても満足しています。

 また、聖観音菩薩立像二体(薬師寺蔵と、ペンシルバニア大学博物館蔵)の、唐代における傑作二体を並べて見られたことも、大きな収穫であったと思います。そのほか、力強い美しさの天平仏十一面観音立像など、多くの美術品や遣唐使に関する文献・資料を見ることが出来ました。併せて、最澄・空海など仏教招来に関する展示なども、興味深いものがありました。

 吉備大臣入唐絵巻の、主人公吉備真備は岡山県の人です。また、その中で鬼となって登場する阿倍仲麻呂は、彼と一緒に遣唐使として唐に渡った人です。そのようなことから、私が惹かれるのは必然かもしれませんね。一方で、吉備真備は無事帰国を果たしましたが、阿倍仲麻呂は、鑑真和上の船団に何度か加わりましたが、結局帰国することは出来ませんでした。そんなこともあり、「三笠の山にいでし月かも」の歌を偲びつつ、春日大社にもお参りしてきました。

 その、春日大社についても、一年を通して取材されたBSのテレビ番組をみて、触発されたところもあります。もちろん、それも私流に言わせて貰えば、「天からの啓示」ということに他なりませんが。話を、絵巻に戻しますと、描かれたのは平安時代です。吉備大臣(真備)の存在が伝説化され、数々の超人的なエピソードが描かれる中で、故郷に帰ることが出来なかった仲麻呂が、鬼の姿になって吉備大臣を助けるという展開は、一抹の寂しさを禁じえない部分もあります。

 一方、仏教という視座から考えれば、玄奘三蔵に師事し、法相宗を日本に持ち帰った道昭も、遣唐使として入唐しています。因みに、薬師寺・興福寺などがその宗派の代表です。そのようなことを考えていたら、かつて、西安を訪れた時に見た大慈恩寺の伽藍や、大雁塔の佇まいが思い出されました。また、その後の最澄・空海ヘと続く、仏教請来のために命がけで赴いた若者達の志も、数多くの展示物から伝わってきました。

 一度赴けば、生きて帰れる保証はありません。唐にたどり着く旅も、過酷な道程に外なりません。しかしながら、国家の威信を背負い、また、強い向学心を持った若者達は、命がけで遣唐使として唐に渡っていったのです。井真成のように、近年までその存在さえ知られなかった人もいます。山上憶良のように、いくらかの後世に名を残した人達の影で、どれ程の名も無い優秀な青年達が、熱い志を持ち、その任に当っていたのかと考えると、果てしないロマンティシズムを感じるのは、私ばかりではないでしょう。

 また、命がけの渡航ということからいえば、鑑真和上の来日も、まさにその通りです。六度に及ぶ試みの末、視力を失うほどの試練を厭わず、我が国の仏教に戒律を授けるために、来日された高僧の胸中は、どのようなものであったのでしょう。幾度もの、苦難の軌跡を示す展示を眺めながら、かつて「天平の甍」を初めて読んだ時の感動が、私の脳裏に蘇ってきました。

 北京・上海・西安・大連・桂林……私も、幾つかの町には訪れたことがあります。しかもそれは、今日では飛行機に乗れば、数時間でいくことが可能です。その旅程は、極めて安全であり、行くだけで命をかけるような旅はありません。いうまでもなく、訪れる動機も志も、遣唐使を引き合いに出すことさえ、憚られるところではありますが。それでも、少しでも歴史的な縁がある場所に立つと、それだけで昔の人達の志が、うっすらとでも想起されるものです。
 
 話を、大遣唐使展に戻せば、メトロポリタン美術館やフィラデルフィア美術館をはじめとする、国内外の美術館や博物館から、多くの傑作や貴重な展示物が出品されていました。仕女図(教科書によく載っている)・照夜白図(玄宗皇帝の愛馬を描いたもの)などの絵画・書、菩薩半跏像・金銅錫杖頭等、興味深いものが数多く展示されており、時間さえ許せば、いつまでも眺めていたいものばかりです。

 普段は、日々の暮らしに追われ、慌しく暮らしている生活です。それでも私は、時々思いついたように(天の啓示に従い)出かけていくことがあります。本当に、行事や用事にこじつけて半ば強引に、行きたい場所や催しなどを訪ねます。結果的にいえば、いくことに決めれば、何とかなるようにも思います(そうでもしなければ、行けないのかも)。さらにいえば、その成果は、概ね予想以上に大きなものがあると思います。

 また、そのような行動から、遣唐使達の描いた夢や志に、少しでも想いを馳せることができるなら、それだけで意義があるのだと、この頃では、勝手に思うようにもなりました。


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