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NO.24

 2011年 12月22日         まだ、選択権はある
 

                    



 師走も、半ば以上が過ぎました。ようやく寒さが増し、冬らしくなってきました。そして、厳しく荒れた1年も、あと少しで終わろうとしています。

 と、切り出した側から、どこかの国において専制君主のようであった人物が、急逝したという報道が伝えられました。その人物は今から十数年前、社会主義の国(それが成立するのかどうかや、地球上にそのような国が存在するのかということは別にして)でありながら、最高権力者の地位を二代目として世襲しました。さらに、彼の三男が後継候補の序列第一位であることも、各メディアが報道しています。

 かつてその社会主義国において、初めて「世襲」なるものが行われるのを見た時の、「やっぱりな」という感情が甦りました。同時に、そのことを「他人事」として、冷めた目で眺めていた自分のことも思い出しました。一方で、その時に聴いた在日朝鮮人による「何が、社会主義だ」という怒りに満ちたコメントが、強く印象に残っています。しかしながら、今日ではイデオロギーや社会制度に関して、論評することさえ不毛な気がします。

 次代の「将軍様」は、何度も整形手術をして祖父に容姿を似せているとか、その体制は基盤が弱く長持ちしないとか、例によって興味本位のテレビ報道が、ワイドショーの視聴率を支えるために繰り返されています。いずれにしても、かの国における政情や次代がどうなるにせよ、理不尽に拉致されていった人達が、大勢いることに変りはありません。

 視点を変えれば、そのような「緊急情報」が入ったにも関わらず、国家を司っている人々の対応の拙さが浮かび上がってきます。そのことは、予想通りといえば予想通りですが、拉致被害者のご家族・関係者の方々は、どのような気持ちで見ておられるのでしょうか。例えば、最高指導者の交代があるようなときは、停滞している外交問題が進展するチャンスでもあるはずです。

 積極的で戦略的な交渉を行い、画期的な成果を上げる機会でもあると思います。もちろん、そのためにはそこまでに積み上げた情報の収集・分析など、戦略をささえるための多くの根拠や裏づけが必要なことは、いうまでもありません。今日私達が、政治や行政を付託している人々(政治家や官僚)に対して信頼感を持てないのは、その根拠や裏づけを感じられないからではないかと思います。

 それは何も、国家機密や戦略的情報について、いちいち国民に情報を開示すべきだと、述べているのではありません。「任せられるなぁ」という感じがしないというニュアンスです。長年与党であった前代の政権から、今の政権を通してみても、為政者を頼もしいと感じられた時代があったような記憶がありません。その一方で、この国の根幹(経済から文化まで)を支えてきた庶民(市民)には、政治や行政に依存しない(期待しない)バイタリティーがあったように思います。

 言い換えれば、その庶民の力(古来培われてきた高い精神性に根ざした勤勉さや倫理観を備えた力)があったからこそ、上に立つ人々についての素養は、それ程問われることが無かったのだと思います。結果的に、私達の前代(主に祖父や父の時代)は、一義的には自身の家族を養うために、また個人的な幸福の追求のためであっても、全体として国家の発展と反映に貢献し、経済大国(もはや、そう呼ぶのもお寒い感じですが)を作り上げたのだと思います。

 正直いうと私は、もう少しその「前代の遺産」に依存して(それを食いつぶして)生きていけるのではないかと考えていました。かつて、建設現場において「技術者として生きろ」と諭されて以来、「手に職をつけて」さえいれば何とか成るのだと考えても来ました。しかし今、とてもそのような安穏とした気分ではいられません。実は、そのように感じている人は、私以外にもたくさんいるのではないでしょうか。

 そして、そのような不安がこの国の多くの人の心に、充満している閉塞感に結びついているのだと思います。先の、大阪市長や府知事の選挙結果は、そのような市民の心理を如実に反映しているものだと思います。既存の政党や行政のシステムに失望し、「何とかしてくれ」という庶民の叫びが、形となって現れたものだと思います。いいかえれば、まだ我々日本人にはリーダーを選ぶ権利が、残されているということです。

 私達は、お互いを監視し合う必要も無ければ、心にも無い涙を流して見せる必要もありません。このようなコラムも、誰憚ることなく書くことが出来ます(どこかの大国では、パクリは自由でも「自由な発言」は自由ではありません)。それでも、ほんの少し時代を戻せば、将軍様の国と変らない状況の時があったのも事実です。一人ひとりが、このまま目先の享楽に引きづられ益々ものを考えなくなれば、気がつけば大国の属国になるか、惨めな境遇の国に成り果てることも絵空事ではありません。

 何よりも大切なのは、私達が、もう殆ど食いつぶしてしまった前代からの遺産に、含まれていたものを吟味してみることだと思います。その時、それらは全て日本人としての精神性に根ざした教育から、生み出されたものであることがわかるでしょう。例え遠回りでも、人を育てることしかないのだと思います。


 

2011年 12月 8日         微細な事象に全体が




 早、12月です。この頃は「あき深し」や「師走」などという言葉が、使い辛くなりました。その背景に、それらの言葉に気候が合わなくなったことが挙げられます。また、日本人の暮らし向きが、そのような情緒的な言葉から、乖離し続けてもいるのでしょう。

 例えば、常識・非常識などといいますが、あることについて「常識」と考えている人が減少し、その反対のこと(非常識なこと)を当たり前のこと(常識)と考える人が増えれば、常識と非常識は逆転して、入れ替わってしまいます。今、この国の至るところで、そのようなことがたくさん起きているのだと思います。つまりは、我々日本人が変ってきているのでしょう(良い方向でなく)。

 小さなことから挙げれば、この頃テレビで行われるスポーツ選手などへのインタビューを見て、違和感を覚えることがあります。それは「~するので、応援よろしくお願いします」という表現です。「~」のところには「頑張るので」というような言葉が良く入ります。見ている人達(関係者)は、違和感を覚えないのでしょうか?私は、どうしても馴染めない気がします。

 「頑張るので、応援してね」という言い方は、親しい親戚や友人に語りかける口調だと思います。公の人々に対して、思いや考え方を伝える表現として、相応しいとは思えません。しかしながら、そのような喋り方を「若者らしくて良い」と思う人の方が多ければ、そちらの方が常識となりますから、私が持つ違和感は「非常識な感覚」になるといえるでしょう。

 もちろん、そのような言葉の遣い方に関する変遷は、時代の流れのなかで行われてきたことです。時代につれて、日本語も大きく変化してきたことは承知しています。また、一概に是非を問うようなことではないかもしれません。それでも私は、そのような言葉遣いをする背景というのか、その言葉が生み出されてくる世の中の有り様に、不安や疑念を感じてしまうのです。

 子供に阿り、目の前の享楽に逃避しがちな大人達が増えていることが、そのような「けじめの無い」発言を助長しているように思えてならないのです。このことは、「近頃の若い者は~」という感覚とは少し違うものだと思います(古代エジプトの象形文字にさえ、「近頃の若い者は~」という表現があると、幼少の頃聴いた記憶があります)。

 何というのか、もう少し根源的なもの(日本人としてのアイデンティティのような)に根ざした感覚というのでしょうか。そのような、私の持つ価値観が「違うなぁ」という違和感を抱かせるのです。そのようなことは、日常のあらゆる場面に表出してきます。一方で、具体的な言葉にして形容することが、難しいのも事実です。

 それは、このHPを立ち上げ、コラムを書き始めた頃と比べて見ても、随分変ったような気がします。私自身の内面の変化もあるのだと思いますが、「違うなぁ」という違和感は頭の隅に小さくあった塊が、この頃ではかなり大きなものに(モヤモヤとした黒い雲のような感じですが)に膨らんで来たように思います(膨らみ続けている)。

 そして、その変化は二次関数の描く放物線のように、時間の変化に合わせ極端な右肩上がりで、顕在化しているような感じもします。またそれは、この国の長い歴史のなかで描かれる折れ線グラフの、どの部分に該当するのかは解りませんが、経済物理学でいうフラクタルのように、暗澹とした全体を象徴する部分としての、事象のように思われてならないのです。

 そして、目先の生活に忙殺されることで、そのように顕在化する事象から目を逸らす生き方をする人が、余りにも多すぎるように思います。私自身も、流されながら生きている人間の1人であることは、否定するものではありません。しかしながら、幾許かでもと、もがきながら生きてはいるつもりです。そして、その日常から出てくる言葉が、このような厭世的なぼやきになってしまうことが、情け無い気もします。

 今年起きた東北大震災は、大げさでなく、未曾有の大災害といって良いと思います。そして、集中豪雨や台風など、自然災害の脅威にさらされた1年でもあったと思います(まだ、何があるやらわかりませんが)。そのような、昔から災害に強い日本人の精神は、単に寛容などというようなものではなく、自然を畏怖しながらも、共生する知恵を備えたものであったはずです。しかし今、原発事故の話題さえ、風化しそうな雰囲気です。

 本当に、取り止めの無い文章となりました。それでも、見なければいけないことから目を逸らす鈍さの方向に、私達日本人の感性が変化していることが、語りたかったような気がします。


2011年 11月 24日         正攻法で  

        



 先日、鹿児島へ行く機会がありました。冗談でも、誤魔化しやずるをするなどというと、鹿児島では大変なことになる、と、酒席で聴きました。今も残る、薩摩隼人の心意気に、触れたような気がしました。

 例えば、インターネット上のこのような場所で、長らくこのような呟きを書いておりますが、私は、あえて姓名を晒しています。そのことによるリスクも、承知しているつもりですが、自分に対して「覚悟」を持たせたいと考えています。つまり、このような小さな呟きであっても、公に対する責任を持ちたいと考えているのです。実は、このことは、一見簡単なことのようですが、結構覚悟のいることなのです。

 一方、インターネットやウェブ上での匿名による発言や行状が、自由な表現や発想の披瀝に繋がるということも、十分理解しているつもりです。しかしながら、私がこれまで見聞きして来た感想を素直に述べれば、匿名やハンドルネームによる弊害というのか、十分な覚悟と責任に基づかない発言や行状を見せる人が、あまりにも多すぎるというものです(意見や述べたいことがあり、世に問いたいなら、名を明かした上でやるべきだとも思います)。

 もちろん、だれもが自由に多様な表現やアピールを行い、伝えたいメッセージを吐露して行くために、このような場所が必要であることに、反対するものではありません。また、大量の情報が供給されることに重宝し、私自身も、その恩恵に預かっていることを、否定するものではありません。

 実際には、使い方・利用方法というのか、関わり方の問題(利用している人間の質の問題)なのかもしれませんね。例えば、私は今日まで約9年間に亘り、論文添削をはじめとする受験指導を行ってきました。最初の内は、より多くの人に手を差し伸べるスタンスでした。それは、自身の苦労した経験に根ざしたものでした。しかし最近では、極力その対象を絞っています(もう、終わりにしても良いかなとも思っています)。

 現在では、必要に応じ何度でもメール等のやり取りをし、支援できる人かどうか(もちろん、私の独断に基づいてですが)を見極めてから、お手伝いする人を選んでいます。それには、「顔も見ずにやるのか」という師匠の言葉もありますが、私自身が何よりも、その大切さを感じるようになってきたからです。簡単にいうと、技術者としての志をそなえているか(備えられる資質があるか)が、判断の基準となります。

 そして、そのように考えることについての確信は、時が経つにつれて(やればやるほど)深まってもいます。やはり私は、とにかく「技術士になってから、良い人になれ」・「技術士になってから、志を備えよ」とは言えないし、そのようには思えないのです。この忸怩たる想いには、これまでしてきたことへの悔恨の念と、強い反省の気持ちも含まれています。

 ところが、そのように「志」を先に確かめて取り組んでいる最近の方が、成績(合格率)が良いのも事実です。まあ、人数が少ないので、データと呼ぶべき数字ではありませんが、昨年度は3人(5人中)、今年度は4人(5人中:※筆記試験の時点)となっています。それにあわせて、手伝って貰う仲間も絞りました。もちろん、仲間が減ったということではなく(むしろ、有難い知己は増えている。もちろん、組めない人とは組めない)、必要な時に必要な人に応援してもらう形です。

 それから、無料でやるというスタンスも、続けています。そのような意味(無料を無理なく実践するという意味)からも、対象者を選んで指導するというやりかたが、適しているのかもしれません。また今日、技術士試験は、制度も内容も大きく変わってきました。合格のための、ノウハウもアプローチも変わってきたように思います。それでも、基本的に必要な「専門家としての応用能力」が問われる試験であるこに、変りは無いのだと思います。

 さらに私は、その技術者として持つべき能力(資質として)の中に、「志」というものが必要だと思っています。というか、それが無ければ、どのような知識や技術を身につけても、人の役に立つはずが無いと考えています。だからこそ、このようなやり方に、拘って行きたいと思っています。さらに、古臭いかも知れませんが、人が関わりあうことの意味や意義についても、更に深みを持たせていきたいと考えています。

 どんなに、最先端の技術や研究成果に関わっていても(だからこそ)、それに対峙し、人の世に生かしていくものは、やはり人間なのです。今日、口先の議論は随分達者な人が増えた反面、技術立国の屋台骨はぐらついてしまっています。そのの背景に、我々日本人の持つ人間力の低下が、潜んでいると考える事に無理があるとは思えません。私は、自身への戒めも含めて、警鐘を鳴らし続けて行きたいと思っています。

 正々堂々を良しとし、はじめの一撃に全てを集中する薩摩示現流のように、正攻法を貫きながら……


 2011年 11月 10日         限界町内会


  

 早、11月です。本当に、時の経つのは速いものです。このコラムも、書き始めて丸9年が過ぎました。その間に、世の中も周りも、大きく変りました。ぼやきの方が多かったと思いますが、徒然なる呟きは、もう少し続けるつもりです。

 例えば、限界集落という言葉があります。急速な過疎化が進み、高齢化と後継者不足(若い人の流出などにより)から、自治会活動や冠婚葬祭など、集落そのものの機能が維持できなった集落のことをいいます。学説的には、65歳以上の人が何パーセント以上とか、定義づけられてもいるようです。しかし、憂慮すべきは言葉の定義よりも、実体の深刻さだと思います。

 最近では、住宅街に熊が出てきたとか、猪・猿・鹿などによる獣害が深刻であるとか、人の住む地域へ野生動物が進出してくる話をよく耳にします。本来、野生動物の世界と人間の住む世界の、緩衝地帯であったはずの里山の崩壊が、叫ばれて久しいような気もします。多くの人々が、危機感を憶えながらも気付かない振りをして、生活しているのが実体かもしれません。

 このまま何もしなければ、棚田や里地・里山の持つ美しい景観や、豊かな二次的自然がもたらす多面的機能は、失われてしまうのだと思います。何よりも、それらの二次的自然と呼ぶものは、我が国の祖先が長い年月をかけて、農業や林業などの生産活動を通じて、本来の自然と共生しながら育んできたものに他なりません。

 その、先人達から託された大切な二次的自然を、僅か数十年の経済活動が作り上げた都市住民の、多数決の理論に基づく「合理的」な思想だけで、放棄してしまっても良いのでしょうか。もとより、都市住民となった多くの人々が、当代でなくても地方出身が殆どであり、田舎で育った人間であるはずです。そのような、情緒的な視点をはずしても、地方や田舎の持つ多面的機能の恩恵を、都市住民も享受している事は確かです。

 厳しい財政状況の中で、公平に予算を使うとすれば、人口比率を基準に予算執行していくべきでしょう。そのように考えれば、限界集落となった集落は速やかに放棄し、利便性の高い都市部に人を集約し、合理的で効率的な行政サービスをしていくことが、正論のようにも考えられます。しかし今、中山間地域でなくても、多くの地方都市(私の住んでいる市位の)で、同じような現象が起きています。

 かつて、商店街が隆盛を極めていたころには、中心市街地であった地域の町内会が、高齢化や若者の流出が進んで、自治会活動さえ出来ない状態になっているのです。つまり、「限界町内会」となっている町内が、旧市街地の真ん中に幾つか点在しています。さらに不幸なことは、そのような「街中」にすむ人々は、地方都市であっても中山間地域に比べると、人間同士の繋がりや関わりが希薄で脆弱です。

 そのことが、独居老人が孤独死するという悲劇を、新たな問題としてつくりだしているのです。小京都などと呼ばれる、中小規模の地方都市の現状をみても、人口の減少傾向は顕著に続いています。「そこに、何人住んでいるのですか」という考え方に基づけば、経営が難しくなった自治体などは速やかに放棄し、我々も新幹線が停車する県庁所在地に、移住すべきなのでしょうか。

 現在、中山間地域の厳しい生産条件の中でも、先祖からの土地を懸命に守り続けている、勤勉な日本人は大勢います。実は、それらの人々が守り継いできた豊かな里地・里山でなければ、生産できない恵はたくさんあります。それらが荒廃し、美しい棚田が耕作放棄地となってしまえば、多くの障害や問題が発現されるでしょう。さらにいえば、中山間地域や農・漁村が消滅すれば、地方都市も消えていくでしょう。

 一方、厳しい財政状況の中、地方都市の行政担当者は、口を揃えて自治会など地域の絆の必要性、共助の重要性を私達に求めます。それが大切な事は、本当は誰でも解っているはずです。しかし、今日の私をふり返っても、そのような精神を醸成する教育が、いつどの時点で行われたのか記憶にありません。朧げにある自身の感性が、「放っておけない」気持ちにさせるだけなのです。

 例えば、俄かに政治家が騒ぎ出したTPPなどをみても、今始まったことではありません。以前から、解っていた問題のはずです。背景にある、国民の食を支える(安全保障という意味からも)農業や食料問題への取り組みに関する施策について、ふり返って猛省する必要があると思います。目先の選挙を睨み、鉢巻で気勢を挙げる彼らの姿を、僅かな年金をつぎ込み棚田を維持している高齢者は、どのような気持ちで見ているのでしょうか。本当に、血の通った為政者の、出現をを望みます。

 確実に、衰退していく地域力を感じながら、自分を鼓舞するための支えを、懸命に模索しているのが現状です。


2011年 10月 27日         脳も体の一部


 

 だいぶ、空の青さが深まりました。門外漢の私でも「秋の日の ヴィオロンの ためいきの みにしみて~」というヴェルレーヌの詩(上田敏の名訳)などが、浮かんでくる季節です。

 詩といえば、中・高生の頃不純な動機(女子受けを狙い)から、ハイネとかバイロンとかを読んだこともありました。当然ながら、わけも判らずに、著名な作者の名前に惹かれるというミーハーな感覚が、その動機を裏付けていたのだと思います。そういえば、ゲーテの若きウエルテルの悩みなども、その類の動機で読みました。ヒロインのシャルロッテ・ブウがロッテの語源かなどと、想像した記憶があります。

 ふり返ってみれば、ことほど左様に私の読書歴(と呼ぶほどのものではありませんが)は、いい加減というのか適当であったと思います。その時その時で、気が向いたものを読むという感じです。大きくいえば、誰しもそうなのでしょうが、まったく目標も無く過ごしていた若い時期においては、さらにその傾向が強かったように思います。

 それでも、手当たり次第に何か(きちんとした本でなくても)を、読んでいたようには思います。基本的に、活字を読む事が、好きであったことは事実です。それには、小学一年生のときに読んだ曽我兄弟仇討ち物語が、大きく影響していると思います。この話は以前にもしましたが、一般家庭にもようやくサンタクロースが来るようになった時代の、我が家のクリスマスプレゼントでした。

 最初、玩具などを期待していた私は、漢字にふり仮名がうってあるような(高学年がよむような)分厚い本を手に、ふて腐れていたように思います。それでも、ページを開き読み始めると、物語の面白さに引き込まれていったことを憶えています。兄弟の、情愛に満ちた強い絆や戦いの場面などに、胸を熱くしときめいたことを思い出します。

 結果的に、その一冊が私に本を読むことの楽しさを、教えてくれたのだと思います。そのことが、それ以降における私の情緒感の形成や、知識の修習に役立ったことはいうまでもありません。今日、日本語の素晴らしさや、日本人の精神性などを考えるようになる起源も、そんなところにあるのかもしれません。考えてみれば、人生の節目に出会う本が、いつもあったようにも思います。

 もちろん、それはふり返って考えてみるからであって、その時に感じたことばかりではありません。とにかく、若い時にはジャンルに関係なく、何でも読んでいたように思います。それが、だんだん年を取るにつれて、何となく方向性が見えて来るようになります。私が、時々口にする天の啓示的なことも、起きる回数が増えても来ます。つまり、思考の指向性が定まっていくということでしょうか。

 何が言いたいのかというと、やって見なければ解らないということでしょうか。つまり、手当たり次第に読んでいるうちに、だんだん自分の生き方や、信条が定まっていくのだと思います。その中で、まったく関係無いと思っていた事柄が、知識というデータベースの中で、実は関連した事柄であったことや、繋がりあっていたことに気付くようになってきます。

 元来、興味に任せて項を繰っていただけなのですが、年齢を重た今思うと無駄なものは無かったと、思えるようになってきました。愛を語るハイネもやたら大げさに思えたバイロンも、読むことだけで、それなりの意味があったのだと思います。とにかく、色々読んで見なければ、何が自分に向いているのか、好きなのかさえも解らないのだと思います。

 実は、そのことが、大切なことなのではないでしょうか。多くの材料を、自身の目で吟味し感覚を磨いていくことは、職人や技術者をはじめ、どのような世界においても大切なことだと思います。今日、あらゆるメディアから多様な情報が、溢れるように供給されています。その中から、信憑性の高いニュースや価値ある情報を取捨選択し、偏狭な思考に陥らないためにも、そのような訓練が必要だと思います。
 
 これも、いつも述べていますが、合理的と小賢しさとは同義語ではありません。インターネット社会の、便利さと危うさはパラドックスのように、都合よくものを考えられる人間を育んでいるような気もします。そのようなことを考える時、法隆寺寺守りの西岡常一棟梁の「器用な子は名人にはなれん」という言葉を思い出します。

 所詮、人間も動物なのです。脳も体の一部です。辛抱して鍛えなければ、本当の意味の力は、身につけられないのだと思います。

 
 

2011年 10月 13日           想いが人を育てる




 本当の体育の日(10日)は、実に良い天気でした。さすがに、東京オリンピックを睨み、選定した特異日(東京地方のですが)だけのことはあります。一方、近年人間の都合で動かされる休日に、釈然としないものも感じます。

 昨日、地元の小学校で行われた文化講演会を、聴いてきました。それ自体は、青少年健全育成会など、地域の組織とPTAなどが連携して、毎年行われているものです。担当される人たちが、いつも頭を捻って知恵を絞り、意義ある講演会を目指しています。概ね、授業参観日の後に開催し、講演会出席へのインセンティブとしていますが、保護者懇談会同様、中々参加者が集まらないのが現状のようです。

 私も、その梃入れの一環として、参加させていただきました。今年は、作陽高校サッカー部を、全国大会の決勝まで導いた野村雅之先生の講演でした。自身の生い立ちを通じ、また体験を通しての「想いが人を育てる」というお話でした。生徒(学生)を指導している時に心がけていることとして、前向きな言葉で包むということを挙げておられました。さらに、前向きな人の所に前向きな人が集まるとも語られていました。

 東京生まれながら、父親の仕事の都合で転校を繰り返した幼少年期、4度目(小学6年生の時)で広島県で生活することになり、いきなり方言の違いによる手荒い洗礼を受けたこと、一方で、そのような体験が自分に社会性を備えさせてくれた、と、述懐されていましたが、生来なのかご両親の育て方なのか(両方に起因していると思いますが)、芯の強い一面も感じました。

 全体を通して、小さい頃からほんの僅かでも褒められた記憶が、野村さんの頑張る原動力となっていたことが良く伝わってきました。また、過程において「叱られた記憶が無い」というお話も、頷けるような気がしました。実際に、まったく叱られずに人が育つ筈は無いと思いますが、どのような家庭の環境であったかということは、現在の野村さんとその言葉を聞くだけで、凡その想像はつきます。

 私自身の体験から述べても、子供は実は良く解っているものです。どんなに、能弁に口先だけで誤魔化しても、その向こうに潜む大人の都合を見透かしているのが、子供の備えた感性だと思います。叱るとか注意する、或いは諭すなどという時にも、その人が自分のことをどのように思っているかを、本能的に感じるのが子供です。しかも、幼少期ほど鋭く感じられるものです。

 その時、大人の言葉や態度の向こうに篤い慈愛が無く、心理的な傷みを伴えば子供の心は傷つきます。幼少期の、精神は柔らかく傷つきやすいものです。その一方で、人間に備えられた防衛本能のような機能が、そのことを忘れさせようと働くこともあります。それは、目の前の出来事を、見て見ぬ振りをするような方向に向かうという意味です。その繰り返しの中で、情緒感が歪んでいくように思います。

 反面、ほんの小さなことでも、褒められた事は良く憶えているものです。勉強に関して先生から褒められた一言が、生涯を通じて努力できる精神の支えとなるようなことは、私自身の体験からも頷けるお話でした。何度も、「目立たない子供」とご自身を語っておられましたが、目先のことに動じず自身で物事を切り開いていくような、強い意志を備えた人である事は良く解りました。

 有名なゴン中山選手や井原選手などが一級下におり、彼らやJリーガーなど多くの著名な選手・スポーツ関係者とのエピソードなども楽しく聴きました。前向きな人の所に~というお話の通り、岡山のファジアーノの木村社長・影山監督など、情熱を持った人達との結びつきなども、野村さんの備えられた人柄を偲ばせるものでした。

 かつて、岡山県大会の決勝戦で起きた誤審事件がありました。私も、テレビを見ておりましたが、明らかに決まった作陽高校のゴールが、審判の見落としで認められなかった事例です。それにより、決勝で敗れた作陽高校は全国大会を逃しました。その時は、かなり騒ぎにもなりましたが、判定は覆りませんでした。生徒の、落胆は大きく心も傷ついたが、そのことを期に強くもなれたということでした。

 また、全国大会の決勝で敗れ、あと一歩というところで日本一を逃して、打ちひしがれる生徒達を前にして、「事実は変えられない。変えることが出来るのは、未来だけだ」と告げた言葉は、常に高い目標を掲げそれに向かって努力することを、普段の生活において示しているからこそ、生徒達の胸に届くのだと思いました。だから、「結果がでなくても、努力することを楽しむ」といえるのでしょう。

 そのような人が育つ背景として、先ずは家族からだと思いますが周囲の大人たちによる想いが、必ずあるのだと思います。少しでも、私の周囲の大人たちが、そのような想いを深めて欲しいと願います。

 

2011年 9月 29日           レクイエム(恩師へ)


 

 先日、私にとってとても大切な人が、亡くなりました。今日、私がHPなど立ち上げ、このような手前勝手なコラムなど書いていられるのも、技術士受験を勧めてくださったその人のおかげである、と、私は考えています。実は、何年も前から、重い病気の兆候が見られ、何度も入退院をされておりました。私も、何度と無くお見舞いに参上したものですが、そのことは出来るだけ伏せておりました。

 それは、私の恩師がかなり早い段階から、所属する会社の将来について、付託される状況にあったからです。細かいことはいえませんが、部外者の私にはそのように見えました。私の恩師、仮にTさんとしておきます。Tさんは、バブル前夜の頃、地方における大手建設コンサルタントとして勃興していく会社が、急成長した頃にプロパーとして入社された人でした。

 それから、Tさんは優秀な技術者として、或いは優れたマネジメント力で、設計部門を始めとする組織の要となっていかれたのでした。その中で、全社的な人望が集まることとなり、将来を嘱望されていたのだと思います。先に述べたような、社内人事に関する方向性は、社外にも公然の秘密のような噂として、広がっていたようにも思います。

 またそれは、私個人がお世話になったから述べるのではなく、誰が見ても「成る程」と思わせるというか、納得がいく方向性でもありました。本当にTさんは、誠実で重厚な人柄でありながら、生来の優しさが慈愛として滲み出てくるような人でした。もちろん、仕事や業務に関する責任感は強く、妥協を許さない人でもありました。一方で、上手くはいえませんが、会社中のストレス(皆が抱える)が、全てTさんに集まって(背負って)いくような人でもありました。

 私は以前から、自分には二人の師匠がいることを、折にふれ述べてきました。一人は、岡山県技術士会(だけでなく、広範囲に薫陶を受けた人が大勢います)の重鎮であり、私が受験指導や諸々の面において、強く影響を受けた大先輩のIさんです。そして、もう一人が、この度亡くなられたTさんです。もしも、Tさんの「あんたも、受けたらええんじゃ」という一言が無かったら、今の私は無いと心から思います(度重なる添削や資料の提供など、大変お世話にもなりました)。

 Tさんは、私より僅か2学年上の人です。しかしながら、人柄が醸しだす風格は、とても堂々としておられました。ですから、恩師という言葉にまったく違和感はありません(もちろん、風貌などは関係ないのですが)。どうしても、出席しなければならない行事などもあり、通夜のみ参列させていただきました。祭壇の遺影は、優しそうに微笑みを湛えておられ、亡くなられた実感さえ湧きませんでした。

 「父の死に顔を~」という喪主であるご長男の言葉で、最後のお別れの列に加わりました。私のような、意気地なしでは到底耐えられないような、過酷で壮絶なな闘病生活を終えられた割には、本当に穏やかな表情で眠っておられました。そのことが、せめてもの救いのようにも思いました、が、こみ上げて来るものを抑えることはできませんでした。

 私は、奥様に「本当に、お世話になりました。有難うございました」と頭を下げ、急ぎ足でその場を立ち去りました。本来は、何人か挨拶をするべき人もいたのですが、ハンカチで目頭を押さえながら、雨の降る駐車場に走り出していました。それでも、急いで車に乗り込むのと、涙が溢れ出すのが同時位でした。私は一人きりになると、暗い駐車場で声を殺して泣きました(夜の駐車場は、激しい雨が降っており、外からは中の様子は見えなかったと思います)。

 人生の無常については、前回も語りました。また、人の世の不条理なども、十分に理解しているつもりです。しかしながら、私の心はTさんの死を、素直に受け入れることを拒み、傷口から血を流すように、私に涙を流させたようにも思います。このようなことは、大の男が、しかも齢50を過ぎた大人が、公然と吐露するようなことではないかもしれません。

 しかし、人間は他の誰かに影響され(良くも悪しくも)、自分の思想や理念を構築していくものです。そのように考える時、私がTさんから受けた影響は、それだけ大きなものだったのだと思います。帰路、雨の高速を走りながら、Tさんとの思い出が次々と思い出されました。やや低音で、重厚な中にも何ともいえない優しさのある声が、甦ってきました。それは、以前総監の口答試験に同行した時の「ようここまで来たなぁ」という、新幹線の中での会話でした。

 私は、ハンドルを握りながら、奥様に告げた「本当に、お世話になりました。有難うございました」という言葉を、再び口にしました。ありふれた言葉ですが、それが全てのようにも思いました。恩師よやすらかに。合唱。


2011年 9月 15日           無常を感じながら




 直撃した割には、身近なところでの被害は少なかった台風ですが、日本の各地に残した爪痕は大きなものでした。今年は、本当に災禍の集中する年のようです。

 月日の経つのは、本当に早いものです。一年前、水戸から会津を旅したことも、随分昔のような気がします。その時、福島県に程近い北茨城の海辺で、民宿のような小規模な旅館に一晩泊りました。翌朝、早く目が覚めたので、太平洋に沿って長く続く砂浜を散歩しました。早朝にも拘らず、猛夏の名残の蒸し暑さと、纏わり着く様な重い潮風が沖から流れ込み、少し気だるい気分で歩いたことを覚えています。

 その時、一番強く感じたことは、太平洋の波の強さというものでした。ズドーンと、砂浜に叩きつけるような波音が、繰り返し押し寄せる飛沫にあわせ、下腹部に響くように伝わって来るのを感じました。それまでにも、数え切れないほど海辺に泊り、朝な夕な海辺を散歩したものですが、その時ほど「波の力」の強さを感じたことはありませんでした。そして、漠然とした恐怖感のようなものも、その時感じました。

 もちろんその時には、半年後に起こる大震災のことや、あの浜辺にも押し寄せたであろう津波のことなど、想像することさえできませんでした。しかしながら、腹に響くような波の音やうねりを身体に感じながら歩いていると、本当に自然の力の大きさと、自分の小ささ・無力さをひしひしと感じました。そして、言葉では上手く言いあらわせない、漠然とした恐怖感に襲われたのを覚えています。

 今年3月11日の同時刻、私は大阪に居りましたが、震災の揺れは確かに感じました。それ程、広範囲に影響があったのだと思います。かろうじて、岡山に帰る新幹線に乗ることが出来ましたが、夜テレビで押し寄せる津波の映像などを見た時、あの時の何ともいえない恐怖感を思い出しました。背中に、薄ら寒さが走るような感じでした。

 地核や、プレートの動きといった大きな時の流れから考えれば、半年など僅かな差でしかありません。あの海辺の宿で、私が津波に飲み込まれていても、何の不思議も無いことを痛感しました。人の命や運命などは、本当に儚いものでしかないことも、否応無く考えさせられました。かといって、それを常時考えて居られるほどの、高邁な精神を備えることも難しいと思います。

 私自身も、本当にその通りです。日々の暮らしに追われ、考えなければならないことから、逃れようとばかりして過ごしています。また、誘惑に弱く、煩悩だらけの人間だと思います。それでも、ほんの僅かでも人生の無常などを考えるからこそ、限られた時間(残された時間)で何をするべきかなどについて、考えたりもするのだと思います。

 そのようなことから、人間50歳を過ぎたら人の役に立って、それから死んで行けと、自身にも他人にも言うようになったのかもしれません。西行のように、23歳で出家する人は別ですが、芭蕉が45歳で奥の細道に出かけた気持ちは、凡そ誰でもが理解できるのではないでしょうか(因みに芭蕉は、驚異的な奥の細道の旅程から、忍者であったとか隠密であったのでは、という説もありますが)。

 つまり人は、生きることや人生について、残り分や限りを意識するようになると、考え方も変ってくるのではないかと思います。私自身、ふり返って考えてみても、37歳になった朝が一番切なかったように思います。その頃、人生を一回り12年が6周する72年間と考えていたので(漠然と)、「遂に、半分を超えた」という気持ちになり、強い寂寥感を覚えたことを記憶しています。

 そのような意味からいうと、48歳を過ぎると「早、終盤である」という観念が想起されて、仕方なくなってしまうのでした。芭蕉に当てはめれば、既に、彼の人の寿命を私は超えてしまっています。因みに、23歳で出家した西行は72歳まで生きていますが、人間の人生が、その長さによって評価されないことは、あえて語ることでもないでしょう(西行に心酔していた晋作は、29歳でこの世を去りました)。

 去年の今頃、水戸から会津に入り、白虎隊隊士の志に思いを馳せた道のりを、今は辿ることもできないでしょう。人生は、常に無常で、だからこそ片時も疎かにはできないのだと思います。また、勝手に12年の何周説などと説いていますが、明日の日を約束されているわけではありません。だからこそ、できる限りのことをしていたいのです。しかしそれは、言葉にすれば容易ですが、中々実践しきれないものでもあります。

 本当に、過酷な事象が続く年ですが、現在自分が受けている試練は、それを凌駕するような気もします。そのような状況だからこそ、シンプルな心の動きに従いたいと考えています。


 

2011年 9月 1日            思考停止


 


 戸外に居る限り、随分凌ぎやすくなりました。しかし、そのつもりで外に出ると、驚くほど強い日差しにたじろいでしまいます。とりあえず、9月にはなりました。

 私が、このようなHPを立ち上げ、徒然な思いを文字にして小欄に綴るようになって、早9年が経とうとしています。それは、長いようでもあり、短く感じられる時間でもありました。とにかく、はじめは何といっても、技術者としての思いや志(特に、建設部門の)について、迸るような情熱があったように記憶しています。またそのことを、どのように伝えていくかが主眼であったと思います。

 一方で、自らの受験体験を通して、志を持ちながら受験への取り組み方が解らない人や、コツさえ掴めれば合格できる人(もちろん、志を備えた人に限りますが)への、サポートが出来たらなぁという気持ちもありました。実際に、そのために微力ながら頑張ってきたつもりです。結果的に、そのようなバトンを繋ぐべき人達とも出会いました。またそれを通して、幾許かの資質向上もできたと考えています。

 しかしながら、これまでの時間の流れの中で、インターネットをはじめとする受験情報量は各段に増え、有償・無償を問わず支援を受けられる機会も、圧倒的に増えたのだと思います。今日では、受験に対する情報を得るということに関して、かつて私が体験したような労苦は必要ないと思います。そのようなこともあり、当HPでも「情報提供」というような項は、殆ど更新していません。

 スタンスとして、技術者としての「志」という点に主眼を置き、そのことへのインセンティブを踏まえた上での受験支援という方向に、長い時間を掛けてシフトしてきたのだと思います。逆に言うと、やって行くうちに「やるべきこと」が見えて来たということでしょうか。しかし、そのことは「門を叩く」人にしてみれば、面倒くさく「ウザイ」ことになってきているのだと思います。

 そもそも、「技術者としての志」について一文を求めたりすると、その時点で音信不通となる人がたくさんいますし、何度やり取りしても、その意味さえ理解できない人も居ます。考えてみれば、それも当然のことなのかもしれません。ウエブなどを通して、必要な情報を効率的に集め、要領良く立ち回り、小賢しく他者からの協力を得ようと考えている人には、日本人の精神性や志などは、興味がないのではないかと思うからです。

 そのような目で見ていると、「そんなことがしたかったのか」とか、何が言いたい(伝えたい)のかと、首を捻るようなHPやブログが増えたことも、理解できるような気がします。しかしながら、これまで私はそれらを斜に構えて、冷ややかに見ているつもりでしたが、一度我が身をふり返ってみると、自身にも独善的な欺瞞が、無かったといえないことに気付きました。さらに、心のどこかに、資格を取得したものの驕りがあったようにも思います。

 まったく、独り善がりで身勝手な言動を繰り返していたのだと思います。さらに言えば、浅学菲才を口にしながら、知識偏重の曲学阿世化していた自分に、恥ずかしさも感じています。また、ウエブ上から安易に情報を得ることに、知らぬ間に馴染んでしまっている自分に、昔のような危機感が無いことにも気付きました。例えば今日では、知りたいことはキーボードを叩けば概ね知ることが出来るし、そこから出てくる情報を繋ぎ合わせれば、訳知顔の物言いをすることは容易なことです。

 自身への戒めを含めていえば、現代社会においては、自分自身の中で考えを深め、思想を紡いでいくようなことが、意味を失っていくような気がします。メディアやウエブを通して、溢れるように大量の情報が供給される(しかも、殆ど無料で)環境では、人々は次第に考えることを怠るようになるのではないでしょうか。そんなことをするよりも、誰かの考えたものを、どこかから引っ張ってくる方が、よほど効率的(楽で簡単)だからです。

 そのような視点から見れば、小賢しいとか要領良く立ち回るというような考え方は、ナンセンスなものになるのだと思います。むしろ、合理的な情報収集ということになるのでしょう。しかし、果たしてそれで良いのでしょうか。少し、話は反れるかもしれませんが、昨今の社会情勢を見ると、書籍の電子化や新古書における印税の問題など、「知」や情報に関する濫用が懸念されるのも事実です(生み出す努力をする人への配慮が減っている)。

 誰もが、物事を考えることを止め、どこかから要領よく「知」を得ようとする社会になってしまったら、苦労して物事を考える人はいなくなってしまうのではないでしょうか。上手くいえませんが、薄気味悪い気がします。そうなれば、クラウドのようなコンピューターに、創造力(想像力)を失った人間が支配される世界が来るのかもしれません。もちろんそれは、老い先短い私の、杞憂だとは思っています。

 ということで、偏屈とかウザイだとか言われても「胸に手を当て、自分で考えろ」と、呟き続けて行くつもりです。


2011年 8月 18日          読書近況

 


 何だかんだ言っても、お盆が過ぎました。毎日が「今年一番だね」と、顔を見合わせるような暑さも、送り火とともに去って行くのでしょうか。

 例えば、身体が疲れていても読書は出来ますが、精神が疲れているときは、本を読む意欲さえ湧かないものです。正確に言えば、本さえ読む気になれないときがある、と、いうことかもしれませんが、今年は少しその回数が多く、一回の期間も長いような気がします。とはいえ、面白いと感じられるものを、必要なだけ読んではいると思います。

 そういえば、この頃は「面白い」かどうかということに、本を選ぶ時の選択基準が偏る傾向にあるように思います。そのような視点から、少し前までは高度なストーリーテラーというか、本当に上手い作家だなぁと思う、宮部みゆきをしばらく読みました(そのことは、以前にも触れたと思います)。最近は、より人間を深く描く印象がする桐野夏生を読んでいます。

 女流云々と、能書きを垂れていたことも、すっかり忘れた変節ぶりですが、藤原正彦氏の語るようにエンタメもファンタジーもなく、面白い小説が読みたいのだと、自分自身を納得させている次第です。まず短編の錆びる心・リアルワールドと読み、残虐記・玉蘭・光源と続き、OUT・グロテスクというように、ぐいぐい引きずり込まれながら、項を繰る自分がおりました。

 そのどれもに、独特の工夫が凝らされており、プロットの確かさと卓越した登場人物の描き方が、見事に成されていると感じました。通常、その人なりの色のようなものが、どの作品を読んでも共通して漂うものなのですが、彼女の作品にはその傾向があまり感じられません。「夫々に工夫のあとが~」というのは、そのような意味です。

 また「彼女」といいましたが、むしろ筆致においては、女性の書いた文章という感じがしないのも、不思議な魅力ではないでしょうか。それは、女から見た男についてだけではなく、男から見た女のイメージについても、至極共感させられる感じがするからです。さらに、一人称と三人称の巧みな使い分けや、登場人物夫々による一人称での展開による構成など、高度な技術も感じられます。

 何よりも、登場人物に関する設定・肉付けの確かさと、内面の描き方は圧巻だと思います。それから、日常の中の異常というのか、「普通」の人がとてつもない事件や出来事に巻き込まれる可能性や、その陰に、人間の中にあるどうしても抑えられないような「得体の知れない」情念が、カルマのように波及していくことなどについて、あらゆる手法で(あらゆる方向から)描き出そうとしているところが、読者を惹きつけるところなのでしょう。

 もちろん、どのような作家にも読者の好き嫌いはありますし、無条件な桐野夏生称賛をするつもりもありませんが、私自身が面白いと感じたことは事実です。そういえば、舞台設定・地理及び経済的背景などに関する取材や研究も、かなりしっかりとなされているように感じました。そのことが、物語のリアリティを色濃くしているのだと思います。

 死体切断とか、実際の事件を題材にしたものとか、少しは夫々の小説の内容に触れてみたい気がしますが、いずれの小説も要らぬおせっかいは、極力しない方が良いように思います。まったく、予備知識無しに読み進める方が、楽しめるものばかりですので、あえて言及することは避けたいと思います。できれば、まとまった時間を作って、一作を読みきることが良いと思います。

 あくまでも、ここまで述べたことは私個人の感想であり、読んでみても馴染めない人や、つまらないと感じる人も居るかもしれません。一方で、これもいつも述べておりますが、私の場合は「天啓」のように、本屋の書棚からタイトルが浮かび上がってくるのです。それは、まったく自分勝手な(独り善がりな)解釈です。しかし私は、結果的にそのようにして「今読むべき本」というのに、巡り会っているように思います。

 例えば、年齢的なものや今の精神状況など、多くの要素が、本を選ぶ時の背景にあるのだと思います。そして、それはこれまでの人生や積み上げてきた本の厚みとも、密接に関係しているように思います。そのように考えると、知識の吸収や技術の研鑽に関する書籍も大切ですが、今の私には「面白い小説」が必要なのだと思います。それが、素直な感想です。

 そういえばいつだったか、真っ白な白目の部分が黒い瞳を一際引き立たせていたテニアン・ダイナスティホテルのコンシェルジュが、桐野夏生を薦めてくれた時の、エキゾチックで美しい面影が、珊瑚礁の海の色と共に蘇ります。その時に、読んでいれば……

 
 

2011年 8月 4日          カタルシス




 気が着けば、稲の隙間も見えなくなりました。夏休み、雷の音、夕立の雨、母の実家の古い家の縁側から眺めた、風にあおられ波のようにうねる田圃の稲の情景が、少年頃の記憶として蘇ります。

 そのような、カタルシスとでも言うべき、心を浄化するような情感が、年々鈍くなっていくのは仕方のないことですが、逆に鈍くならないと生きていかれないような、そのような場面が増えることも、大人になっていくということなのでしょう。何を今さら「大人」などと、青臭い表現のようにも思いますが、幾つになっても自分自身の精神は、自分でも誤魔化せないものだなぁと感じています。

 今年は、三月に未曾有の大震災が起きたくらいですから、世の中全体を通して過酷な年なのかもしれません。個人的なことですが、私自身の上にも、余りにも酷いのでは?と思うようなことが、ここまでに何度もありました。長い間に鍛えられ、かなり強い「静かなる闘志」を培ってきた積もりですが、思いの他ナーバスな状況に陥ってもいます。かといって、全く怯む積もりはありませんが。

 例えば、人間不信というか、人を信じられなくなるような場面もあります。もともと私には、性善説というのか額面以上に、他人を信じてしまうようなところがあります。何度かやり取りをし、ある程度の時間を掛けて見極めて、どのような人なのかについて理解しているのですが(頭では)。そのため、結果的に残念な思いをすることも、しばしばありました(今もあります)。

 それでも、私自身の精神に対するダメージの大小などということであれば、それほど問題はないことなのですが、地域社会や公に迷惑を掛けることとなると、「仕方がない」だけでは済まされないことになります。そのような意味において、嘆息しながら手をこまねいているばかりではいけないのかなぁ、と、思うようになってきました。一歩踏み込んだ強かさのようなものが、必要なのかとも思います。

 ところで、よくよく考えて見ますと、人間には幾つか種類があるように思います。一般的には、誰にも(どのような人にも)射幸心や嫉妬心、虚栄心に自尊心など、様々な感情があると思います。そして、その感情には個人差があり、人によって抑揚の強さは異なります。さらに、その上で人は、社会の規範や常識・理念などの範疇で、それらの感情をコントロールしているのだと思います。

 まず、そのことを基本として考えたうえで、他者を妬み嫉む感情から離れられないで、具体的な行動を取らないと居られない種類の人間もいるのが、この世の中であると思います。あまり良い表現ではありませんが、「悪いことをする人間は、悪いことしかできないような考え方をしている」ということです。ここで、良いとか悪いの語彙を論じる積もりも、善悪の定義を検証する気持ちもありません。単に、直感的な感想です。

 私なども、とても自分を「良い」人間だなどとは思えません。それでも、これまで自分が体験したことから考えると、理解できない種類の人間は確かに居るし、対峙してきたように思います。ふり返ってみれば、物心ついてこの方、私はそのような理不尽さや不条理のなかで育ち、小さな戦いを続けてきたといえるのかもしれません。抽象的な表現しか出来ませんが、そんな風に思います。

 それでも、ここまで生きてきて思うことは、正しい(と思うこと)ことを、自分のスタンスでやって行きたいということです。ここでも、正しいとか正しくないとかの、議論をする気はありません。ただ単に、世の中の(狭義においては地域の)役に立つ(ためになる)かどうかを、自身が行動する際の価値規範としたいという思いです。

 そのように考える時、絶対的に消えない情景が、冒頭で述べている景色です。小学生時代、夏休みや冬休みの長い休みは、ほとんどそこで過ごしていたようにも思います。他にも、斜面に広がる煙草畑や、二階の窓から見た雲海、鼻腔に残る朝の雑木林の匂い、そしてそこで見つけた大きなクワガタの記憶など、数えだすときりがありません。

 そしてその背景に、そこに暮らしていた人々が生み出す、穏やかで優しい空気があったように思います。大人になると、色々なことがありますが、自分よりも我慢強い人・筋の通った人・心の綺麗な人など、様々な良い人にも出会います。そして、その人達に助けられることばかりです。そんな時、少年時代に醸成されたはずのカタルシスが、ほんの少しでも自分の中にあることを感じますし、それを信じたい気持ちです。

 上手くいえませんが、自分の弱さや醜さを知ることで、逆に、強くも綺麗にも生きられるのでは、と、いうふうに思います。



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