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NO.25

2012年 5月 3日         精神の脆弱化




 遅い春でしたが、それを一気に取り戻すような強い日差しの日もあります。いずれにしても、中国山地の麓では、農作業の真っ最中です。やること(やるべきこと)は、いくらでもあります。

 先日来、運転者の過失(一言でくくれませんが)による痛ましい交通事故を、テレビのニュース等でたくさん見ました。京都の暴走事故、児童の列の突っ込んだ亀岡の事故、防音壁に飛び込んだツアーバスの事故等、それぞれに原因や状況が異なる事例です。十分な検証を経たうえでなければ、踏み込んだ発言は出来ないのだと思います。しかし、何となく違和感を覚えるのは何故でしょうか。

 そもそも、運転者が病気を抱えていた例、一晩中走り回っていて居眠りしていた例、勤務状態が過酷であったのでは?等、事件や事故の要因は一様ではありません。そのようなことを念頭におけば、概説するような論評は憚られるところです。しかし、私はそれらの事故から共通して、日本人の人間力の低下を感じてしまうのです。

 また、運転者が「ぼーっ」としていて、児童の列に飛び込んだという事故もありました。その運転手は、事故を起こした後も呆然として「仕事のことを考えていた…」などと、呟いていたという話も聴きました。さらに大変気になることは、それらの事故の多くを若年齢層の人が起こしているということです。もちろん、それを抑止できなかった周りの問題もあります。

 しかし、体調が思わしくなければ(障害となる病気があれば)自動車の運転はしてはいけないし、極度の睡眠不足のような状況でハンドルを持ってはいけいないことも、普通の(私が考える)倫理観や価値観を備えていれば、理解し実践できるはずです。ところが最近では、そのような当たり前のことが守られず、悲惨な事例を招くことが如何に多いかということです。

 また、この頃「新型うつ病」という言葉を良く耳にします。シンプルに言えば、これまでのうつ病のタイプに当てはまらないということだと思いますが、休職中でも旅行やレジャーは楽しめるし、趣味や娯楽には積極的に関われるタイプのうつ病であるなどといわれれば、私などには良く理解できません。さらに、うつ病である自分を責めるより、原因を他者に求める他罰的なうつ病といわれれば、尚のことです。

 どうやら、一般的なうつ病の概念におさまらないので「新型」或いは「非定型」と称しているようです。もちろん、それまでちゃんと出来ていた人が出来なくなるような、本当に病としての症例もあるのだと思います。また、診断基準が広くなり「新型」というカテゴリーに属すものが増えたという背景もあるのでしょう。しかし、私はそのことを含めて、日本人精神力の低下が根底にあるように思えてなりません。

 さらにいえば、新型うつ病(否定型うつ病)の定義がどうであれ、背景に現代人の精神の脆さがあることはいうまでもありません。また、その脆さとか弱さを考える時、時代背景や社会情勢が大きく影響することも事実だと思います。例えば、北朝鮮のような過酷な政治状況の下では、他責的な感情は湧いてきたとしても、うつ病になる暇もないでしょう。

 また、飢餓に苦しむソマリアなどアフリカ諸国の人々は、精神を病む前に生命の維持が問題となるでしょう。ことほど左様に、人間の精神は生活環境に大きく左右されるものだと思います。そのような視点で、この国の趨勢を鑑みれば(私が生きてきた範囲ではありますが)、豊かさ(見せ掛けですが)や便利さが進むにつれて、人々の精神が脆弱さを増してきたように思います。

 最も大きなものはパソコンの普及からだと思いますが、携帯電話が現在のスマホなどのように驚異的なスピードで進化していく中で、人々は便利さの変わりに、我慢しながら創造力を養う能力を失っていったように思います。さらに、圧倒的に供給される情報の中から、都合の良い部分だけを享受することが、あたかも「賢い」ことのような錯覚に陥っているともいえるでしょう。

 さらに、そのような利己的で浅薄な生き方は、親から子へ子から孫へと、次世代に継承されています。そこには、そのような家庭環境が伝承されるというような後天的な要素だけでなく、遺伝子に残されていくような根深いものを感じてしまうのです。本当に、「ぼーっ」としていたとか考え事をしていたとかいう次元が、昨今の事例を見ると浅く感じられてしまうのです。

 例えば、子供に携帯を持たせないとか、便利なものは小さい時に使わせないなど簡単なことを実践するだけで、かなりの部分が食い止められるのではないかと、私は考えています。


2012年 4月 19日         花の色は……  

        


 例年より10日程遅れましたが、今年も桜は咲きました。開花や咲き具合に合せて、昼となく夜となく足を運んでしまいます。慣れ親しんだ相手のはずなのに、その都度心ときめかされる妖しさを、悪女に例えたりするのでしょう。

 そういえば、根元には死体が埋まっているとか、鬼さえ惑わすとか、桜の花に由来した妖しげな物語は、古来多くの作家や物書きにより綴られてきたことでもあります。例えば、雪洞の浮かぶ夜桜の海を見下ろす時、また散り始めた桜の枝の間から、月を見上げる時に感じるような感覚は、他のものでは味あうことのできないものだと思います。

 そのようなこともあり、桜の魅力について語る時、言葉の限界を感じてしまいます。また、咲き誇る満開の美しさを惜しむでもなく、いともあっさりと、しかも一斉に散って行く散り際も、桜が日本人に愛される所以といえるでしょう。古来、数多くの文人・墨客が、桜の中に美しさと人生の無常を感じ取り、芸術作品として残してきたことも十分に頷けることです。

 そしてまた、誰にも心に残る桜の風景があるのではないかと思います。私にも、何箇所かそのような場所があります。それは、毎年訪れる場所もあれば、中々行けない場所もあります。さらには、もう訪れることが出来ない場所もあるでしょう。しかし、心の中には艶やかな映像として、またノスタルジックな、或いは、センチメンタルな淡い記憶として残されているものばかりです。

 考えてみると、それらのシーンが鮮明な記憶として心に残る理由は、桜の花の美しさばかりではないように思います。つまり、誰とその花を見たのか、或いはどのようなエピソードがあったのかなどということが、記憶を定着させる大きな要因になっているのだと思います。少なくとも、私の場合はそのように感じますし、桜に纏わる記憶が多いのも事実です。

 例えば、毎年師匠(数少ない私が先生と呼ぶ人:年齢を経て、たくさんの人々とめぐり合い、多くの知己を得ましたが、中々心から「先生」と呼べる人に出会えるものではありません)をお招きして、鶴山公園で夜桜を見物しています。その後、席を設けて宴を催すのが恒例となりました。かれこれ、十年位になると思いますが、来年以降も続ける積もりです。

 その鶴山公園には、桜の花が咲く時期になると、昼夜何度も足を運びます。極端な言い方ですが、この町の魅力は一年のうち十日しか無いような気分になるからです。地理的にも、見所についても、殆ど頭に入っているはずなのですが、何故か毎年足繁く通ってしまいます。それは、やはり恋人に惹かれるような感覚に近いのかもしれません。

 また、他の場所においても、桜が美しい場所にはなるべく訪れるようにしています。多くの場合、一人で行きます。宴会も好きです(宴会は、花が無くても好きですが)が、一人で桜を眺めることも好きなのです。理屈抜きに、桜が好きなのだと思います。そのようなこともあり、自説の「天啓」が桜の花のシチュエーションで起こることもあるのでしょう。

 思い出を辿れば、桜に因んだ記憶が数多く想起されるのも、そうした背景があるのだと思います。また、よく卒業式の光景として桜が演出されますが、本来は入学式の頃に満開となる花です(地方により、時期は異なるでしょうが)。しかしながら、イメージとしては入学よりも卒業の方が似合うのも実感です。潔く散り行く桜には、出会いよりも別れが似合うのかもしれません。

 そういえば、日本のように春を新学期としている国の方が、少ないという話も聴きました。単に、会計年度と入学時期を合せた結果が現在のようになったのかもしれませんが、情緒的にには春の入学式がこの国にはあっているように思います。花吹雪舞う中、母親に手を引かれ、校門を潜る小学生の姿は絵になるものです。何となく、日焼けした新入生というのはぴんときません。

 今では、入学式に着物を着るお母さんも、あまり見かけなくなりました。それでも、桜の花には着物姿(もちろん、女性の)が良く似合います。「花の色は、うつりにけりないたづらに、我が身世にふる、ながめせしまに」小野小町の有名な歌ですが、桜の儚さと人生の短さを重ね合わせた無常観の漂う一首です。理屈を超え、日本人の心に響く歌なのだと思います。

 美貌も精悍さも、ほんの一瞬の煌きでしかないはずなのに、何故人はそれに惹かれ拘るのか。儚い執着ではありますが、捉われずにもいられないのでしょう。


 2012年 4月 5日         何も変わってはいない


   

 強烈な、春の嵐が吹きました。恐れを知らぬ人間の驕り振りを、叱責されているような気分になりました。一方で、桜が咲く前で良かったなどと、考えたりもします。ちっぽけな自分を、恥じるばかりです。

 今日、原発に関するニュースを聞かない日は無いでしょう。例えば最近の話では、大飯原発の再稼動に関して安全性のチェックが最優先で、地元の理解が得られているかを確認して、関係閣僚で総合的に判断するという野田総理の見解が示されました。それを踏まえ、安全性の内容や理解を得るべき地元の範囲など、国会を中心に様々な議論がなされているようです。

 しかし私は、大きな違和感を感じてしまいます。そもそも、原子力発電に対する考え方そのものを、議論することの方が先だと思うからです。もちろん、これまで巨額の資金を投じてやってきたことであり、国のエネルギー政策に関する抜本的な見直しを伴うことですから、できれば現状路線で行きたいと思う関係者が多いであろうことは、容易に想像つきます。

 それでも、あの福島の惨状を見れば、そのような関係者(広義の意味も含め)の都合や利害などという判断基準ではなく、人類全体を俯瞰するような広い視点から、原子力発電そのものを考える必要があると思います。少なくとも、プレートが集合する地震国の日本で、本当にこれからも推進していくべきなのかどうか、真剣に議論していく必要があると思います。

 原発を語る時、よく電力コストの話になりますが明確な生産コストの内訳さえ、我々には知らされていないのが実体だと思います。さらにいえば、発・送電に関する競争や、消費者による自由な選択肢も無いというのが現状です。そのような状況のなかで、関係する地方の自治体に匿名で多額の寄付金が届くなど、安いはずの原発コストの中に、不明瞭な金の流れも垣間見えたりします。

 もともと、自然界に無いものをエネルギーとするのですから、本当に人間がコントロールしきれるのかという疑念は、どうしても拭いされない気がします。さらに、原子力利用に関するリスクについても、我々(人類は)どれだけ受容できるのかということもあるでしょう。また、そのリスク分析に関する内容や評価の仕方などについても、多様な角度からの十分な検証が必要です。

 さらに、現状を見ていて、私が違和感を覚える最も大きな理由は、「再稼動ありき」という姿勢が透けて見えてしまうことです。このままでは、夏には○○%電力が足りなくなるとか、今後は福島のようなことにはならないとか、原発を必要とする(無ければならないとする)主張の多くは、明確な根拠や具体性に欠けるものが多く、十分に正当性が確保されているようには思えません。

 また、この国に住む人達が、本当はどのように考えているのか、真摯に意見を集約しようとしている姿勢も窺えません。むしろ、関係者や原子力村に住む人々の正当性を確保するための施策が、国を挙げて行われている(これまでも、行われてきた)ようにもみえてしまいます。これらのことが、私の感じる違和感の理由ですが、実際には同様に感じている人が多い筈です。

 もちろん、資源の無い我が国におけるエネルギー施策のあり方や方向性は、重要な課題に他なりません。さらには、世界の動向や情勢を見極めながらの対応も必要です。一方、平和ボケし豊かさに慣れてしまった我々自身の、生活スタンスのあり方も考え直す必要があると思います。例えばコンパクトシティなどといいますが、コンパクトにしなければならないのは、個人における夫々の生活の方だと思います。

 実際に、あの大震災から一年が経過しました。しかしながら、いまだに膨大な瓦礫が処理されずに山積みとなっています。食品をはじめとして、放射性物質に関する基準なども不明確なままです。人間が、どのようにが定義づけようと、或いは基準値を設定しようと、依然として手がつけられない状態の原子炉からは、大量の放射性物質が放出され続けているのです。

 そのような視点から見れば、去年から何も変わってはいないのです。そのような状況下にありながら、早、喉元過ぎれば熱さを忘れるがごとく、これまでの原発政策を踏襲し維持していくことを念頭に置き、ものごとが進んでしまっているような気がします。実際、私は原発支持派でも否定派でもありません(以前も、現在も)。それでもこの機会に、今一度真剣に考えるべきだとは思うようになりました。

 何といっても、事故を起こした福島原発やその周囲は、悲惨な状況のままです。そのような意味からいえば、何も変わってはいないのです。そのことは、絶対に忘れてはならないことのはずです。


2012年 3月 22日         言葉ではいえないもの


  

 春のお彼岸を迎えました。今年の場合、慣用句通りに寒さも「彼岸まで」とはいきませんが、頬を撫でる風には、春の気配を感じられるようになりました。

 例によって、この時期は多忙です。年々増える自治会行事や活動等、またそれらに関する責任の増大からして当然のことではありますが、忙しさは年と共に増していきます。それでも、卒業式などは幼稚園・保育園・小学校・中学校とそれぞれに趣があり、またそれぞれの感動があります(良いものだと思います)。なるべく都合をつけて、出席するようにしています。

 そのような中、今年も彼岸の墓参りに行ってきました。いつものように、近所にある父が眠る我が家の墓所と、母方の祖母のお墓にお参りしてきました。もっとも後者の方については、この頃は母のためのレジャー的要素が、大部分を占めているような気もします。かつて、列車とバスを乗り継いで1日掛かりで訪ねた「お山」の里は、今では自動車で1時間半程の距離になりました。

 一方、カルスト台地の頂上付近にある(あった)母の実家より、遥かに下方(登り口付近)に位置する菩提寺は、小さいながらも何ともいえない趣のあるお寺です。わずかばかりの墓地を築いた山を背にし、ひっそりと佇むそのお寺は、寺を守る老住職夫妻の人柄もあって、墓参に訪れる度に安らぐようなお寺でもあります。この頃では、墓参に訪れることが楽しみな気さえします。

 一応私は仏教徒ですが、敬虔な信者とはいえませんし、そうであろうと努めているわけでもありません。どちらかといえば、心情的には無神論者的な人間だと思います。一方で、社寺を訪れ伽藍の内に身を置くことが好きで、不思議と安らぎをおぼえる人間でもあります。また、そこに収められた仏像などを拝顔することも好きな方だと思います(若い頃から)。

 それは、何故なのでしょうか。また、そのような感覚はいつからということではなく、私の中に自然にそのような情緒感が醸成されたようにも思います。人の持つ情感などというものは、事ほど左様に説明し辛いことが多いのではないでしょうか。知識や理論、或いは理屈などで説明するよりも、なるほどそうなのだと「感じる」ことによって理解できる事柄は、実際にはたくさんあるのだと思います。

 むしろ、理屈や理論は後付けのものであり、言葉に現せないことの方が多いのかもしれません。そのように考えると、法律やロジックなどという仕組に頼らざるを得ない社会(それを駆使するものが優位に立つ社会)が、良い社会であるとはいえないように思います。逆に人間さえ良ければ、法律などシンプルで良いはずです(例えば「悪いことはしてはいけない」とかで足りる)。

 とはいえ、今の世の中では「良い人」を定義づけることさえ難しいのかもしれません。そもそも、常識とか非常識などというものも時代と共に変化し、普遍的なものではありません。私は、それらが時代と共に変わっていく根拠として、人々の持つ情緒感の変遷があるのだと考えています。例えばそれは、私が生きてきた50年ほどの間にも、大きく変化したのだと思います。

 恥を重んじ自らを戒め、責任や義務を果たすことを一番に考えていた人々は、いつの間にか恥を忘れ、権利の追求ばかりをするようになりました。つまり、前者が多数で常識であった時代から、後者が多数で常識となりつつある時代に、この国が変わろうとしているのだと思います(もう、変わってしまったのかも)。それは、何よりもそのように考える人が増えた(そのように感じる人が増えた)ということに他なりません。

 何か漠然としていて、婉曲な言い回しになってしまいました。本当に、もどかしい気がします。やはり、言葉ではいえないようなことを表現するには、あまりにも自分が未熟な気がしてなりません。しかし、今私が大切にしたいと考えていることは、その言葉にならない(し辛い)部分のことでもあります。例えば世の中には、理由があってしてはいけないことと、理由がなくてもしてはいけないことがあります。

 私は、その「理由が無くても」してはいけないことを感じられる感性をもつことこそが、本当に大切なことだと思います(もちろん、自戒の念を込めて)。そもそも、叩けば埃の出るような人生を生きてきた私が、何をかいわんやということを棚に上げなければ、このような文章など書いてはいられないことも承知しています。それでも、敢えて思うところを述べたいと考えてもいます。

 卒業式などに臨み、情緒感の豊かになった子供達を見る時、彼らが私の思う「言葉ではいえない」ものを、感じられる人に育って欲しいと願うばかりです。

 
 

2012年 3月 8日         良いとこ取りできるのか


 


 春一番が吹き、肌に感じる風も柔らかくはなりました。確実に季節は春に向かい、巡っているのでしょう。それでも、浮き立つ気持ちになれないのは何故なのか?一言で、言えないのも事実です。

 本当に、月日の経つのは早いものです。あの、忌まわしい大震災から、早、一年が過ぎようとしています。私などが感じる傷みからは、想像もできない程の試練を乗り越えてこられた人々にも、同じように一年が過ぎようとしているのでしょう。映像をつくる人達によって切り取られた、恣意的な或いは視聴率を意識した主にテレビによる報道により、私達は何となく「解った」ような気持ちになっているのだと思います。

 しかし、本当に解っているのでしょうか。というか、心に感じられているのでしょうか。さらにいえば、阪神大震災の時にさえ感じた報道の軽さというのか底の浅さというものは、今回の東北大震災に関して言えば、圧倒的に表面的で上っ面をなぞっているに過ぎないような気がします。そして、私達は本当に見なければいけないところを、見ていないのでは無いかとも思います。

 それは、原発に関する根本的な考え方や、あり方の検証についても同様です。上に立つもの(為政者・執行者)が、本当に国民のことなど考えてはいないのだなぁ、と、いうことばかりが浮き彫りにされていく様を見続けるうちに、多くの人々が疲れてしまい目を背けているというのが、今この国に漂っている閉塞間の元凶なのだと思います。

 私自身にしても、タイムリーな話題や趣味・遊びなど感じたことをのべたい、などと始めた小欄ですが、いつのまにかぼやきの回数が多くなってしまいました。その上でもう少しぼやけば、本当に疲れた気分です。普通のことが普通でなく、筋を通そうとするだけで足を引っ張られ、行く手を妨害されたりもします。とても、具体的には書けませんし、どこの国のお話なの?というようなことばかりです。

 いわば、町全体がおかしいという感じです。その上でいえることは、力ずくで横車を押す人も長いものに巻かれてしまう人も、どちらも悪いのだということです。むしろ、黙って見て見ぬ振りをする人の方が情け無くも感じます。これは、いつも言っていることですが、法律などで裏付けられない部分(例えば自治会等)においては、一人ひとりの人間がしっかりしていなければ体をなしません。

 法律や条文、そうでなくても規約などを都合よく読み(解釈し)、利己的な駆け引きや恫喝がまかり通るようなことが、当たり前であってはならないはずです。ほんの少しで良いのです。ほんの少し皆が勇気を持てば、そしてきちんと物事を考えれば、当たり前のことが普通に行われるようになるはずです。

 この十年足らず、私はそのように言い続け、そして戦い続けてきたつもりです。本当に、叩けば埃の出るような「お前が?」といわれるようなそんな私がです。そして周りを見れば、地域はだいぶ変わってきたようにも思います。声の大小や、力の強い弱いではなく、地域の人達が考えていることを自治会がやるようになってきたと思います。町全体では、まだまだですが……

 どうしても、ぼやきが多くなってしまいます。これでは、厭世的な筆致が多いといわれてもしかたがありません。一方で、見て見ぬ振りをするというのか、長いものに巻かれてしまう無気力はどこからくるのでしょうか。それは、見なければ、或いはやらなければならないことから目を背けて、生きる人が増えたからではないでしょうか。

 例えば、子供を預けて働くことは大変なことです。しかし、収入を減らしてでも子供と接して暮らすことの方が、遥かに厳しいし辛いことだと思います。子供をつくることは簡単ですが、親になることは本当に大変なことだからです。人は、一生懸命に子供を育てることで、親として成長するのだと思います。また、年老いた親を看取ることは、さらに大変なことです。その大変さから、介護保険などの制度ができたのだと思います。

 しかし、実際の使われ方は本来あるべき姿と違い「姥捨て山」的な方向に向かっています。結果的に、私達は人間の成長や老後という「手の掛かる部分」をお金に換算して、公共や他者の手にに委ねることに慣れてしまいました。そうやって、人生の「都合の良いところ」だけを享受しようとしているように思います。そのことが、私にはどうしても割り切れないのです。それは、親の手を煩わせて育ち、家で亡くなる祖父母を見て育ったからです。

 本当に人は、都合の良いところだけをとって、生きていけるのでしょうか(生きて良いのでしょうか)。

 

2012年 2月 23日         半島へふたたび


  

 春は、名のみの風の寒さや……早春賦の出だしですが、本当に室内に居てもしんしんと冷える日が多く、実感として春を感じられるのはまだ先のことなのでしょう。

 最近、「半島へふたたび」という本を読みました。拉致被害者の1人で、現在は新潟産業大学選任講師の傍ら、翻訳家としての仕事もされている蓮池薫さんの著書です。例によって、文庫本コーナーを徘徊中に引き寄せられた一冊です。主に、翻訳家として再出発する過程についてのことと、それに付随した取材を主眼とした韓国訪問などについて書かれた本です。

 もちろん、いくらかは北朝鮮時代の話も出てきますが、極力抑えられたような印象を受けました。今尚、拘束されたままの拉致被害者への配慮や、遅遅として進まない拉致問題への影響などへの斟酌が多分に感じられました。また、当局というのか日本政府などからの要請もあるのかもしれません(少なくとも、私はそう感じました)。

 物静かに、言葉を選びながら語りかけるような筆致は、テレビなどの映像で見る印象と重なるものがありました。先ず、平壌・ソウル・東京などの夜景の比較、そして捕縛された船からみた柏崎の「ほんわか」した夜景の思い出、北朝鮮へ最初に着いた港の灯りの暗さが語られていました。それから、両国にある戦争記念館(呼び名は異なるが)、地下鉄・街中の情景などが淡々と語られていきます。※文中に出てくる場所は私が訪れた所も多く、イメージはし易かったと思います。

 北の書物で得た知識の検証として、ソウルの下層階級の住むタルトン(月の町)における、細い通路のような路地を探しあてるくだりや、大量のキムチ作りに励み自家製の納豆作りの様子など、北での食生活に関する記述などもありました。家族の絆を大切にし、家族を守るために用心深い生活をしていたことが良く解る記述もありました。

 それでも、全体を通してどこか「もの足りない」印象がするのは、前述したような「配慮」がされているからだと思います。本当は、書きたいことや伝えたいことが、たくさんあったのだと私は思います。さらに、理不尽に奪われた24年間の時間は、計り知れないほど大きなものであった筈です。様々な状況を鑑みながら、それでも何かを問いかけるために文字や文章があることを、感じさせる本でもありました。

 そのように考えると、市役所勤務の中から時間を割いて翻訳の勉強をし、翻訳家への道を探っていく過程や、その仕事を通して親しくなっていく韓国の著名作家達との交流などに触れた文章の方(第二部)が、生き生きしていることも理解できるように思います。また、生来の寝つきの良さや、大学受験のときの受験勉強のやり方が、翻訳家転進時における時間確保に役立ったことも、頷きながら読みました。

 考えてみると、1957年9月生まれの蓮池さんは、学年でいうと私と同学年の人です。21歳からの24年間といえば、人として最も充実した体験をし、そのことが自身の人間形成に大いに影響する年代であると思います。私は、その期間を主に建設部門で過ごしました。そして、世の中の役に立つものづくりや技術者精神の伝承など、自身の根幹を成す部分を培いました。結構、厳しく辛い時期もありました。

 それは、私自身としてはそれなりに評価できる日々であったと思います。しかし、それは安穏としたこの国で、基本的な生活を保障されながらの日々でした。一方で、こらえ性の無い私などが想像もつかないような、過酷で重苦しい日々を過ごされた蓮池さんのことを思うと胸が詰ります。「日本に帰れるかもしれない」などという希望は持たないよう心がけたと、蓮池さんは述懐されています。とにかく、家族を守り生き延びて行くことを、最大の目標としていたことも語られていました。

 例えば、蓮池さんは翻訳家を目指す過程において、正式採用の可能性も窺えた地方公務員としての仕事、弁護士になれる可能性(中央大学には復学がかなえられていた)やその後のことなど、冷静に自分の現実と残された時間を考えられた分析をされています。そして、波乱に満ちた生涯のなかで身に着いた(幸か不幸か)文章を書くことへの造詣が、その決断を支える大きな要因であることも述べられています。

 いずれにしても、国家的犯罪に巻き込まれるような、理不尽で不条理な人生の終盤に差し掛かり、過去ではなく将来に向かって生きていく姿勢を持つことは、容易なことではないと思います。一方で、それを支える強くてしなやかな人間力は、少年期・青年期における地域や周りの仲間から受けた、影響により培われたものだと思います。また、焼酎の話など酒にまつわるエピソードは、国の違いを超えて共感できる話でもありました。

 人は、生まれる場所も時も選べません。周りの人には、朝鮮民族の統一を願うように見せかけ、ギターの弾き語りでイムジン河を歌う蓮池さんの気持ちを、私達はどれだけ理解できるのかと思います。


2012年 2月 9日         大切なのは量より質




 立春を、過ぎました。実感としては、寒さも厳しく冬の真っ只中という感じです。大雪による犠牲者や関係者のことを思えば、背中を丸めてばかりはいられませんが……

 我が国では、少子・高齢化問題がよく話題になります。つい先日も、2060年には人口が8,674万人になり、その内約40%が65歳以上になるという推計が発表されました。そして、生産人口に対する従属人口(年少人口と老年人口の和)がさらに増し、働き手1人で従属年齢者1人を扶養することになるともいわれています。

 確かに、周りを見ても子供の数が減り、老人が増えていることは良く解ります。生まれる子供の数が減少していけば、老人の比率が大きくなるのは自明の理でもあるでしょう。それならば、単に子供が増えれば良いのでしょうか。私は、この国の現状や身の周りの様子を見ていて、とてもそのようには考えられないのです。

 前回も少し触れましたが、司馬遼太郎が坂の上の雲のなかで秋山好古の口を通して語らせた福沢諭吉の言葉である「一身独立して一国独立す」という前提がなければ、子供が増え生産人口が増加しても、数字で考えたような成果(学術的な)は挙がらないように思います。大切なのは、数字的な人口の増加ではなく、生まれ育ってくる人間の質の方だと思います。

 社会保障や福祉などに関するコストの面から考えれば、協調性の無い働くことが嫌いな若者が増えても、国家や公の負担する歳出が減少するとは考えられません。またそれは、これから増大していく老齢人口についても同じことです。制度や仕組を巧みに利用し、少しでも働くことや自分を律する考え方から遠ざかろうとする人が増えれば、想定しているシステムや予算は成り立たなくなります。

 残念ながら、私が生まれて育って来たここまでのこの国の状況を見れば、日本人の「質」が右肩下がりで降下しているといわざるを得ません。単純に考えれば(極論ですが)、人間さえちゃんとしていれば法律なんか極大まかなもので良いはずです。例えば、「他人に迷惑をかけない」という程度で済むのではないでしょうか。「ちゃん」とできない人間が増えるから、事細かに法律を整備する必要が出てくるのだと思います。

 老人は、気休めや交流のために病院に行き必要以上に薬を貰って帰る。介護が億劫な大人たちは、自分達を育ててくれた親を預けるための施設を懸命に探す。そして目先の忙しさにかまけ、都合の良い理屈を子供に押し付ける。どんなに取り繕っても、子供達はそのような大人の都合や狡さを孕んだ言葉の裏側を、見抜いているものです。そして、そのような姿勢ばかりを学習するのだと思います。

 結果的に、能弁で小賢しい割りには汗をかくことを嫌い、他者に冷たい人間が増えているというのが、僅か7年程ですが地域での自治会活動などを通して、私が感じていることです。またその傾向は、残念ながら顕著になる方向で進んでいるようにも思います。何というのか、良い子供が増えていると実感できないのです。つまりそれは、その親達に大きな疑念を持ってしまうからです。

 そして本当は、その親達の世代をを育てた我々以上の世代にも、大きな責任があるのだということを痛感させられることにも結びつきます。かつて、この国を訪れた異国の著名人が同様に感じた国民性(恥と礼節を知り、人としての生き方を模索している人々、それは、欧米人や中国人の抱きがちな、貧しさ⇒野卑・粗野という概念が結び付かない人々ともいえる)は、探すことさえ困難な状況になりつつあります。

 大きな意味の言葉でいうと、すべては教育に尽きるのだと思います。人が人としての生き方を考え、自然への畏怖と感謝の念を抱き、自然との最も相応しい関わり方の距離感を模索しながら、他者との共生を踏まえた生き方を営んできた日本人の本来の生き方こそ、人口増加を続けている世界に向けて発信していくべきだと思います。

 繰り返しになりますが、単に人口が増えれば良いのでは無いのだ、と、私は思います。ちゃんとした「良い」人間が増えることが必要なのです。そして、これも繰り返しになりますが、私達の祖先はそのようにして(人の質を高めることにより)、自然災害が多く脆弱な国土であっても、高い精神性に根ざした文化を築いてきたのではないでしょうか。

 国とか県とか市などという単位では、とりあえずは何も変わらないでしょう。せめて身の回りの子供達に、声を掛けていくことからやるしかないのだと思います。

 

2012年 1月 26日       人が国をつくる(その人をつくるのは……)


 



 明らかに、日が長くなりました。考えてみると、私のなかには昼の長さにより、全体的なテンションが正と負の方向に向かう傾向があります。簡単にいうと、夏至に向かって上がり、冬至に向かって下がるという感じです。感性的には、古代人に近いのかもしれません。

 相も変わらず、消費税増税や議員定数の是正(違憲状態の改正と、定数削減は別の議論ですが)、また、増税の前にやるべきこととしての行財政改革(独立行政法人の廃止、公務員の削減と給与の減額、さらには議員に関するそれらのこと)など、マスコミが喧しく取り扱っています。考えてみれば、この何十年来似たような議論が繰り返され、その結果が今の政治不信といったところではないでしょうか。

 また、いっこうに進まない行財政改革の様子に、国民は疲弊し白けてしまっているののだと思います。さらに、自らの身を切る覚悟も、身を呈して改革に臨む姿も見せない政治家に対しても、国民からの信頼が得られないのは仕方ないことだと思います。確かに、政権交代は実現しましたが、野党と与党が交代しただけのような気さえします。もちろん、政権交代がなければ、そのような「見えなかったもの」が表に出てこなかったという意味では、良かったといえるのかもしれませんが。

 しかし、概観していて感じることは、目先の政局や選挙ばかりを意識したかけひきや、勢力争いばかりが目に付くということです。この国の将来や、国家としてのあり方などについて心を砕き、市民や国民のための施策を模索している政治家が、果たしてどれ位いるのでしょうか。結局、政党も政治家も有権者の顔色を窺うのに、精一杯なのがこの国の現状だと思います。

 婉曲に言えば、それら(現状における公務員や政治家の体制や考え方)を生み出しているのは、そのような人々に生命と財産を付託している、国民にも責任があるのだと思います。さらに、その国民自体の資質(主に考え方)からいえば、この数十年において二次方程式の描く放物線のように、加速度的に変化しているように思います。本来、個人の責任においてやるべきことを、国や公に依存し求める傾向は、益々強まっていくばかりです。

 結果として、政治家や政党はポピュリズムに走り、人気を取るためのバラマキ政策や、耳に優しい無料化などの施策を並べます。一方の国民は、義務や権利を横に置き、行使し得る権利についての知識の探求に余念がない、といったところでしょうか。そもそも、生活保護の受給者が200万人を超えるというようなことは、異常な事態だと思います。

 難しい計算は解りませんが、憲法で保障された最低限の生活を保障するために、月額10数万円が支給されるようです。一方で、それと同程度の収入を得るために、時給いくらの仕事をどれ程しなければならないかは、いわずもがなのことです。「それならば、働かない方が得だ」と、考える人が増えても不思議ではありません。しかし、かつてこの国の人々の常識として「働かざる者、喰うべからず」があったことも事実です。

 もちろん、相互扶助は必要なことですし、弱者を切り捨てよといっているのではありません。個人個人が懸命に働き、自身や家族・知己の身を守ることを前提に、他国と比べても高い倫理観を備え(法律に定めが無くても)、国力をつけこの国を支えてきたはずの国民は、いつのまにか変わってしまったというのが、私の偽らざる感想です。それには、「母」と呼ばれる人達の変化が、一番大きいように思います。

 誤解を恐れずにいえば、副収入を得るためと称してパートに出ることで(月々7~8万円の収入を得るために、化粧品代・衣服費・交際費、果ては軽自動車などの購入・その燃料代など、どれ程が手元に残るのか?)、家事や育児から逃げているとしか思えないお母さんは多と思います。ママ友達が、小洒落たランチを楽しんでいる頃、ご亭主たちは300円のコンビに弁当を食べているのが世の常です。

 自治会役員などをしていると、朝慌しく軽自動車を学校や保育園にに乗りつけ、子供を降ろしている姿を見かけます。時には、くわえ煙草等も見かけます。それらの人は、概ね化粧の方は綺麗にされています。私が、本当に考えて貰いたいのは、子供や家族のことです。もう少し、切り詰めても(貧しくても)良いじゃないのでしょうか。学校から帰る子供を、迎えてくれるお母さんが家に居る方が、どれだけ良い人(国家にとっても)が育つのかなどと思います。

 ジェンダーフリーとか男女雇用機会均等とか、一見平等でリベラルな思想や考え方の人からは叱られるかもしれませんが、そのような「今日的母親」が、子供達を駄目にしているように思います。現代のような、手の掛かる幼少期と老齢期を他者の手に委ね、個人の幸福を追求するような社会のあり方は、不自然に思えてならないのです。人間は、生まれて一人前になるまでも、衰えて死を迎える時も、他人の手を煩わせるものなのです。また、そこから目をそらしてはいけないのだ、と、思います。

 私の記憶では、子供の頃の母は綺麗な人だったと思います(粗末な身なりで自宅でミシンを踏み、内職をしておりましたが)。


2012年 1月 12日         年初雑感

 


 今年も、たくさんの年賀状を貰いました。その中に、旧友からの「賀龍天晴」という造語のものを見つけました。ウィットとユーモアに満ちた、彼の少年時代が思い出されました。何となく、嬉しい気分でした。

 年初雑感にしては、少し遅いかもしれませんが、年明けの多忙なスケジュールもありましたし、少し考えをまとめたかったこともありました。何よりも、もう少しじっくり考えて行動した方がよいのでは?と、思うところもありました。まぁ、じっくり考えても、思いつくことや出している結果は、あまり変らないというのが実際のところなのですが。とりあえず、年齢も年齢ですので、時間を大切にしなければと思います。

 元日こそ晴天でしたが、2日以降は雪が降りました。そして、何度か積もりました。その中で、毎年恒例としてやっていること(麻雀・宴会……)をきちんとこなし、帰省した子供達や家族との、短いながらも充実した時間を過ごすこともできました。相対的に、無理が出来なくなったので、丁度良い加減で切り上げられるようになったことが、却って時間の中身を濃くしたのかもしれません。

 先ずは、同志社以来の三連覇を成し遂げた帝京大学のラグビーでしょうか。一昨年の東海大戦も接戦でしたが、今年の天理大との試合も、終了間際のPKがかろうじて決まって、帝京の勝利となりました。しかし、この三年間の充実振りと強さは、印象に残るものでした。一方、関西の雄としての天理の善戦には、胸を熱くするものがありました。同志社他、関西の大学の健闘を期待したいと思います。

 とにかく、きちんとしたディフェンスと、ボールを持って走り繋いでいくという、ラグビー本来の面白さを見せてくれたように思います。10番の立山選手は、日本のスタンドオフになるかもしれません(期待も込めて)。同じく三連覇の東福岡高校は、高校生のチームとしては桁違いの強さを感じました。こちらも、東海大仰星の終盤の攻撃に胸があつくなりました。ラグビーは、本当に良いスポーツだと思います。

 そういえば、工業高校のグラウンドで悪友とふざけていた一年生の時、2~3メートルは飛んだと思う位張り飛ばされたことがある、体育の先生がラグビーの監督でした。県代表のフォワードも務めていたその人は、本当に凄い体躯をしていました。後に、転任された学校のテニスコートの側で再開し、インターハイ出場を報告すると、相好を崩して喜んでくれました。その時の、日焼けした顔と白い歯を、昨日のように覚えています。

 実は、体育の授業でラグビーをやっていた時、その人から入部を勧められたこともありました(9番でも10番でもやる(なれるという意味)と言って貰いました)ので、少し複雑な思いでしたが、思いっきりスポーツをやることの意義や意味を、私が理解し感じていたことについて、そのように喜んでくれていたのだと思います。何十年かぶりに、同級生の店でお目にかかったときは、好々爺然とした表情で、昔のことも忘れておられました。

 余談ですが、私の親友でもある先輩の話では、この二日にその人の叙勲パーティが、盛大に開かれたそうです。もちろん、私の先輩もラグビー部OBですから出席されたようです。例えば、内田百閒を描いた黒澤明の「まあだだよ」のように、多くの教え子に慕われる先生は、その人でなければならない「何か」を持っているのだと思います。ラグビーのT先生も、そんな人だったと思います。張倒された頬の痛みは、今では心地よい思い出です。

 その他、東洋大学の強さが際立った箱根駅伝(特に、四年生でも記録を更新した柏原選手の力走)や、劇的な展開でしたし、技術的水準が随分向上したな、と、思われる高校サッカーなど、この時期ならではのスポーツ観戦もできました。年々、自治会活動に付随したことなど、やらなければならないことが増えていることを思えば、概ね、充実した正月であったのではないかと思います。

 一方で、その「やらなければならないこと」は、年々責任が重くなっていることも事実です。そのように考えると、中々しんどい気もしますが、今、手を離すことが出来ないことばかりでもあります。放っておけないからやってきたことは、やり続けなければいけないことになってきました。また、それを礎として、さらに築いていかなければならないことも、たくさんあります。

 やや大仰ですが、ほんの少しでも世の中の役に立つような爪痕を残すために、これからの人生があるのだと考えるようにもなりました。そのように考えるとき、難しく考えないようにした方が良いのかなぁ、と、思うようになりました。それは、皆が求めていることなのか(望んでいることなのか)とか、そのことに正義や大義があるのかなどを、自らの行動の基準にしたいと思います。逆にいうと、「日和を見て要領良く」というような気持ちでは、生きられなくなったのだと思います。

 とにかく、考え方はシンプルにして、焦らず前を向いて進んで行こうと思います。

 
 

2011年 12月29日         一年をふり返り一言




 師走の都大路。岡山県勢は、男女共2位に入る健闘(倉敷・興譲館)を見せてくれました。年の瀬の、明るい話題となりました。次は、野村監督の作陽高校サッカー部に、活躍を期待したいと思います。

 さて、今年は本当に、厳しい試練の年でした。予想外の大雪で始まり、春先の大震災と原発事故、夏から秋への台風と豪雨災害など、歴史的な年であったことは間違いないと思います。何年か後に、ふり返って語られる年となるのでしょう。また、私自身に関しても、過酷な一年であったと思います。理不尽とか、不条理などと呼ぶことさえ憚られるような、人間不信に陥るような場面もありました。

 それは、常識とか良識とかいう範疇では理解できない事柄ですし、このような場所で披瀝することでもありません。例え、ここで述べたとしても、「本当にそんなことがあるのか」というような事例でもあります(奥歯に物が挟まったような表現ですが)。簡単にいえば、正しいこと(正しいと思われ、多くの人が望んでいること)をやっていくことの難しさを実感しました。

 一方で、自分の無力さを痛感した年でもありました。或いは、正義や良識などというものに対して、過度に頼り過ぎていた(信じすぎていた)自分の甘さを知ったというべきかもしれません。考えていたよりも、良識ある大人達(そうであるべき人々)の意識改革は進んでいなかったようです。同様に、私の身近な人々の中にも、旧態依然としたしがらみのなかで、妬み・嫉みを背景にした利己的な行動をとる人達がいることを再確認しました。

 そして、それらの人々による多様な思惑に基づく動きのなかで、私自身も地域社会もダメージを負うことになったのだと思います。それでも、かなり傷つけられましたが、私自身のダメージや損失は覚悟の上ですし、甘んじて許容しても良いでしょう。しかし、看過できないのは、地域社会の受ける損失の方です。本当に改革は足踏みし、多くの障害が残されたままで、一年が終わろうとしています。

 具体的には、これ以上言及できませんので、この場において述べるのは、ここまでにしておきます(幸いにも、本当に理解してくれている仲間や同志が、私にはおりますので)。いずれにしても、レクイエムの項でもも書きましたが、恩師と呼ぶべき大切な人との、早すぎるお別れもありました。諸行無常とはいえ、個人的に振り返ると辛い一年であったと思います。

 物故者に目を向けると、立川談志・原田芳雄・西本幸雄・児玉清・杉浦直樹~私の好きな人たちが数多く、今年も先立たれて逝かれました。芝浜をはじめとする談志落語の数々、犀星原作のテレビドラマ赤い魚で見せた原田芳雄の味、悲運の名将西本幸雄の人柄、本好きの児玉清が好演した去年の坂本八平、独特の存在感の杉浦直樹など、一人ひとりに一項の追悼文が書けると思います。

 また、小松左京・北杜夫などという作家も、今年なくなりました。日本沈没や、どくとるマンボウシリーズに親しんだ人は、たくさんいると思います。芸人は、語り継がれる芸を残し、作家は愛読される文章を残します。誰かの心の中に、それらの人の残した芸や文章や言葉が記憶されている限り(語り継がれる限り)、その人達は生きつづけているといえるのだと思います。

 他方、日本人の「質」が変化してきたことだけは、きちんと右肩下がりを守っていると思います。その典型的な事例として、焼肉屋の土下座社長による食中毒問題がありました。個人的には、憤懣やるかたない気がしています。何しろ、あれ以来生レバー・生セン・ユッケなど、私の大好きなメニューが食べられなくなりました。風聞によれば、低価格のためのずさんな管理のもと、肉の見極めさえできないスタッフにより、それらが客に提供されていたといいます。

 まったく、言語道断な話です。とにかく、金を稼ぐことが最優先で、法律に触れなければ何をやっても良いという、いつの間に根付いたのか解らない「合理的な思想」のもとで、小賢しい振る舞いが横行している世情を、如実に表した事件の一つだと思います。さらにいえば、テレビ慣れした若者の繰り返す、大げさな土下座パフォーマンスの向こうに見える何かを、見極められない人間が増えていることの方に、強い危機感を覚えるのです。

 末尾になりましたが、今年もパッキャオ・ドネア・西岡・カーン他、見ごたえのあるボクシングの試合(メイウェザーは、あんな卑怯なことをしなくてもオルティスに勝てたと思います。そもそも、女子(恋人)に手を上げるようでは、男として問題外では?)、驚異的な竜王8連覇の渡辺明(目下、A級順位戦5勝1敗で2位の谷川九段の健闘ぶりも)、棋聖を逃がし名人を奪われながら、十段・天元の座に着いた碁の井山裕太、早明戦では惜敗しましたが吉田明治の充実振りなど、多くの名勝負や熱い戦いを見ることができました。

 それらを通じて思うことは、「何もしなくても時は過ぎる」ということだと思います。何を、どれ程出来るのかは解りませんが、心の中の「静かなる闘志」を持ち続けながら、微かでも生きた爪痕を残して行きたいと思います。

 今年も、たくさんの方々にお読みいただき、有難うございました。それでは、良いお年を。


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