NO.26
収穫を終えた田圃の稲株から、後生えと呼ばれる芽が伸びています。この頃は気候も良いので、また実るのでは?と思う位に伸びたりします。来季に備え、耕されるまでの命ですが。 読書の秋ということではありませんが、久しぶりに本の話をして見たいと思います。とはいえ、本当に多忙な日々を過ごしていますので、中々読みたいものを読みたいだけという風にはいきませんが。それでも、「ルネッサンスとは何であったのか」・「海の都の物語」・「チェーザレボルジア~」と手をつけてしまいましたので、当然の流れとして「読まなければならない」本が出てきます。 それが、「ローマ人の物語」ということになるのだと思います。以前から、読みたいとは考えておりました。しかしながら、文庫本にして43冊というものなので、どうしても二の足を踏むところがありました。何といっても、私の性格(最初のページを捲ると一気に読んでしまいたくなる)から考えて、手をつけた場合の危険や困難が予想されてしまうからです。 残念ながら、予想した懸念は当たっており、睡眠不足や同じ姿勢の連続などによる体調不良と、元々蓄積されていた疲労や肩こりが、季節の変わり目の気だるさを一層助長させてしまっています。進行の方は、まだまだパクスロマーナの辺り(文庫本で15巻目)ですから1/3程度といったところです。やはり、興味を持っていた時代やテーマなので、面白くないはずはありません。 時代でいうと、カエサルの目指した帝政を、後継に指名されたアウグストゥスが巧みに実現していく辺りを読んでいます。紀元前753年のロムルスによる建国から、ここまでの延々と語られる戦いの歴史は、男子的視点からは大変面白く読むことができました。それにしても、ラテン語ギリシャ語などの資料を徹底的に調べ検証し、古代ローマ人の姿に迫る筆致は大変なものです。 建国以来、元老院・執政官・護民官など政治のシステムや人数など、定量的な数字の披瀝を見るにつけ、作者がどれだけの資料を読み解きながら、この本の著述を続けていったのかを思わされてしまいます。もっとも、他に類を見ないような著述を創出することは、大変な労力を伴うことは覚悟しなければならないことではあるのでしょう。 しかしながら、日本人である著者が多くは一神教(キリスト教)の学者などによって研究されている分野の著述を行えば、誤解を招いたり批判・中傷の的となることもあるでしょう。そもそもが、先生からは好まれない学生であったと、塩野七生は述懐しています。先生の教えることに「何故か」と「どのような状態で」という説明を求めるからと、概略本ともいえる「ローマから日本が見える」で語っています。 また、八百万の神が存在し、初詣に神社に行き、ウエディングドレスで結婚式を挙げ、お寺で葬式を行う日本人は、古代ローマ人と同じ多神教の民といえるでしょう。そこに、日本人としての作者がローマに興味を持つ原点があるような気もします。そして、キリストやアラーのような一神教を絶対とする宗教でなく、ギリシャのように哲学でなく、法や制度による統治の工夫を重ねていたことも、日本人が理解しやすいものだと思います。 さらに、知力ではギリシャ人に劣り、体力ではケルト(ガリア)人に劣り、技術力ではエトルリア人に劣り、経済力ではカルタゴ人に劣ることを、ローマ人自身が認めていた、それなのに何故ローマ人だけがあれほどの大帝国と大文明を成し、あれほど長く維持することができたのかということも、私達日本人が考えさせられる部分であると思います。 一方、ノーブレスオブリージュ(選ばれた者の責務)が早期に醸成され、市民としての誇りを何よりも大切にしたローマ市民の気風は、武士道を育んで来た日本人の精神性に大いに共通するものがあるように思います。さらに、敗者をも同化する寛容さ(宗教・言語など多くの独自性を認める)は、ローマ独自の統治法であるともいえるでしょう。 また、紀元前333年のアレクサンダー大王の東方遠征(西方でなかったことの幸い)、その影響を強く受けたハンニバル相手の苦戦、それに対するスキピオ・アフリカヌスによるザマの戦いの勝利、カエサル・ポンペイウス・アントニウスとクレオパトラ・オクタヴィアヌス(アウグストゥス)等の戦いの模様、徹底した取材からのリアリティを感じさせる著述は、面白く読むことが出来るとおもいます。 何よりも、資源の少ない国に棲む私達が、古代ローマ人に学ぶことはたくさんあるのだと思います。
秋は、私の一番好きな季節です。しかし、その風情にしみじみ浸ることや、身体で感じるための時間は、年を追うごとに取れなくなっていきます。そんな風にして人は、鈍くなっていくのでしょうか。 そのように、ぼやくことが多くなるのも、歳を重ねて行けばこそなのかもしれませんね。時に、厭世的な文章について、友人知己から指摘されたりすることもあります。もとより、「徒然なるままに~」という思いで書いている小欄ですから、現在の私自身の心情が投影される結果になることは、当然といえば当然のことなのですが、多少残念な気もします。 思えば、自分自身が受験対策などで苦労したことがきっかけで、後に続く人達のために何か役立てないかと考えたのが、このようなHPを立ち上げた動機でした。そして、その根幹を成す思いは技術者精神の伝承であり、世の中の役に立つものづくりを目指す人を育てるということでした。 振り返ってみれば、この10年の間に驚くほどIT環境は進歩し、ツイッター・フェイスブック等SNS形態も多様化しています。会話が主体であった携帯電話は、今やスマートフォンが主流となり、電話もできる小型PCというようなものになってきました。目先の、便利さという意味でいえば、圧倒的に便利になっていますし、その進化は留まるところをしりません。 一方、その圧倒的な速度で進化していく、情報通信機器を使う方の人間の考え方のほうも、この十年間で随分変わってきたように思います。もちろんそのことは、私自身も例外ではないのだと思います。何しろ、始めた頃の私は、送信メールが返信(レス)で返ってきても「無礼」である位に考えていました(手紙のように考えていたのだと思います)。 メールという位ですから、手紙と直訳すれば間違いないのですが、「面倒くさい」と思われたりもしました。実際、手間も省けますし、確実に返信するには効果的なのだと思いますが、相手のメールをレスで返信する行為自体に違和感がありました。このことは、理屈ではなく感覚的なことなので上手く説明できませんが、目上の人やお世話になっている人には、新たにメールを作成すべき位に考えていました。 そして、技術者としての「志」を問うという考え方は、年々深まって行くのでもありました。インターネット環境など、便利に多様化していく周辺環境が、物事「安易」に考える人を増やしていく中で、私自身の考え方は逆行していく方向に向かっていたともいえるでしょう。とにかく、ここまでのやり取りの中で、小賢しく要領よく情報収集を行い、上辺だけで上手く立ち回る人達を、どれだけ手助けしたのかわかりません。 例えば、指導するまでのやり取りを繰り返すなど、年々相手を見極めることに重点を置くようにもしていきました。しかしながら、「顔を見ない」やり取りにはやはり限界があります。挫折感や、虚しさが心の中に澱のように溜まっていきました。そのことが、厭世的な文章が多くなることの、大きな要因であるのだと思います。 今日でも、地元高専との連携事業やごく少数の人達を対象に、技術者として、或いは人としての「志」に言及しながら、世の中の役に立つものづくりや、人の役に立とう、などという取り組みをしています。しかし、それは本当に限定的なものになりました。一方で、それで良いのだとも考えています。そもそも、「伝わらない不特定多数」よりも、伝わる(或いは伝わりそうな)少数が相手の方が、確実だと思うようにもなりました。 確かに、そのように対象を限定していけば、まだまだ「熱い」人や「志」を感じさせてくれる人達に出会うこともあります。特に、学生さんなどの中には、志を持った人や備えられそうな人が、意外にたくさんいることも感じています。それは、暗闇の中の仄かな灯りのようなものですが、今の私のモチベーションをぎりぎりで維持させているものでもあります。 いうなれば、風前の灯のようなものですが、今はそのように考えています。それでも、昭和生まれの頑固者であり続けることは、必要なのではないかとも考えています。何しろ、身の回りを取り巻く事象が、あまりにも情け無い大人達に振り回され、「放っておけない」ことばかりなので、そちらの方で消耗させられてもいます。 それでも、何もしなくても時は過ぎてしまいます。どれだけ「もがける」かは解りませんが、放って置けない気持ちに忠実に生きたい、と、考えてはいます。
9月になりました。しかしながらの、暑さです。水不足が、懸念される地方もあるようです。その昔、水と平和はただだと思っているのかなどと、誰かがぼやいていたことさえ忘れてしまいそうです。 先日、休日のテレビを見ておりましたら、近所の小学生が柔道の大きな大会で優勝したことが、取り上げられていました。張さんの、アッパレという言葉が強く耳に残るとともに、嬉しさがこみ上げてきました。本当に、良かったなぁと思いました。もっとも、私などは傍観者なので、ただ「良かった」と思うだけなのですが。 実は、彼には恩師とも呼ぶべき人がいて、今は代って行かれた前校長先生がその人になります。本当に、その先生は熱い人でした。私も、色々お世話になりましたし、親しくお付き合いもさせていただきました。何というのか、歴史好きなところなど共通の話題も多く、人としての志を基本とするような点で、価値観が近かった人だと思います。 件の少年については、詳細なことは書けませんが、けっして恵まれた家庭環境とはいえない彼の、ともすれば乱れそうになる生活習慣を見据え、その先生が彼の恵まれた体力と運動神経に目をつけ、先生自ら稽古をつけるような形で相撲を教えたのがはじめでした。その後は、先生が時間と懐を割いて道場などへの送迎など、熱心な支援をされていたことを覚えています。 もちろん、立場に寄れば「本来の業務を超えている」とか、立場を超えた関わりかたであるなど、斜に構えて嘯く人もいるでしょう。しかし私は、そのような熱い関り方が出来る人こそ、教師に相応しい人ではないかと思うのです。というよりも、心に熱いものがなければ、人を育てることなどできないと思います。古来、多くの師弟関係を見ても、師の持つ熱い心や志に感じて、有能な後輩や後継者が育つ例は、枚挙の暇も無い所です。 例えば、高杉晋作をはじめとする、吉田松陰と弟子達との関りは、あまりにも有名です。「かくすれば、かくなることとしりながら、やむにやまれぬ大和魂」と、黒船への密航失敗の折に語り、自ら名乗り出て囚われた松蔭の純粋で熱い人柄は、多くの人間が伝記を著すことを試みる中、高杉の「こんなものが、先生の伝記といえるか」という言葉の通り(因みに、晋作はその書物を破り捨てている)、語り尽くせぬものだったはずです。 また、「如何に死すべきか」という晋作の問いに、「死して後世に名を残すなら、死ねばよし。されど、生きてなお良い仕事ができるなら生きるべし」と答えた松蔭は、常に命を懸けた学問と生き方を、実践していたといえるでしょう。そのような、自ら命がけで実践していく師匠にまみえては、弟子も命がけで精進するほかは無く、傑出した人物が多く育ったのも頷けることです(生半可な人間は、松下村塾には馴染まない)。 例えば、「命がけ」というようなことでなくても、ともすれば生徒(指導される側)よりも熱くなれる人こそ、指導者に必要な資質であると私は考えています。このようにいうと、暴力事件などを起こす(或いは起こした)人などが引き合いに出され、精神論を偏重した指導が懸念されることも良くあります。しかし、明確な価値規範に基いたきちんとした志無くして、どのような学問や技術の習得も意味がありません。 また人と人の関わりは、百組あれば百通りです。さらにいえば、ロジックや理論だけで、人はついてくるものでもありません。私自身を振り返っても、「お前は、自分を何だと思っている」と叱ってくれた人、「あんたも、受けたらええんじゃ」と背中を押してくれた人など、熱い心を持っていた人達の影響を、強く受けて生きてきたように思います。まだまだ、その恩に報いているとはいえませんが。 そして、このような衆目の中思うところを述べ続け、自身を棚に上げ人として或いは技術者として、持つべき考え方や志をを問い続けているのも、師と仰ぐ人達から受け取った志を大切に思うからです。しかし一方で、そのことに疲れているのも事実です。「何故、技術士になりたいのか?」などという基本的な問いかけさえ、理解できない人が多くなりました。本当に、このような場(WEB上)での、やり取りに限界を感じています。 それでも、放っておけない気持ちと、やらんよりはやった方が良いのではという気持ちが、今の私を支えている細い柱ではあります。また、その細い柱を支える気持ちの一つに、今でも心から「先生」と呼べる人達の存在があります。側にいるだけで、何気ない会話をしているだけで、背筋が伸びるような先達はそういるものではありません。それが、今の私の師と呼べる人達です。 どのような言葉も、いや、ありふれた言葉であっても、それが誰の口から発せられるかということが、最も重要なことですし、それに尽きるともいえるでしょう。そのような、師と仰ぐ人達に、少しでも近付けたらと思います。
ロンドンオリンピックの、熱い戦いも終わりました。数々の日本選手の活躍に。多くの感動を貰いました。テレビ中継の見すぎによる寝不足は、もうしばらく身体に影響を残すのでしょう。 しかし、今から64年前に行われた前回のロンドンオリンピックには、敗戦国である日本の参加は認められませんでした。1938年開催予定の、東京オリンピックを返上したことへの制裁も、我が国が参加を承認されなかった理由の一つであるといわれています。スポーツへの政治不介入などといいますが、政治の影響がスポーツに影を落とす事例(特に戦争による)は、枚挙のいとまがありません。 私の記憶の中にも、モスクワオリンピックへの我が国のボイコットに対して、涙の訴えをするレスリングの高田選手や柔道の山下選手達の、悲痛な表情が残っています。冷戦下の時代、ソ連によるアフガン侵攻を理由として、アメリカの呼びかけで行われたものですが、当然のようにその次のロス五輪では、ソ連を中心とした東側諸国のボイコットが行われました。 国家の思惑と利害関係が、敵対する国への報復などということにつながり、オリンピックへの参加・不参加を決定づけるようなことが、今後行われないことを望みます。一方でモスクワ五輪は、それまでの「国家や都市が費用を負担する」オリンピックのあり方が、見直されるきっかけにもなりました。そのことが、スポーツへの政治介入を許す元凶とされ、次のロス五輪で実施された「税金を使わない」やり方へ大きくシフトするきっかけにもなりました。 経済的に独立していれば(税金に依存しなければ)、政治の介入を防げるという考え方だと思います。それには一理あると思いますが、高額のテレビ放映権や商業主義への傾斜など、新たな問題も生み出されました。また、プロ選手の参加への道が開かれたことは、レベルの高い競技内容が見られることにつながったとは思いますが、それまでのアマチュアリズムとの整合については、釈然としなかった記憶も残ります。 ところでテレビでは、その熱いオリンピック中継と平行して(終戦記念日に向けて)、かつての戦争に関わる番組が放送されています。特に、NHKのBS放送では、実際に戦争を体験された方々のお話を基にしたドキュメンタリー番組などが、毎年この時期には数多く放映されます。今年も、戦艦大和の生き残りの方々の証言を中心としたものや、台湾特別志願兵に関する番組など、新たに知らされることも多く、心に残るものばかりでした。 それらの番組の中で、自身の体験を披瀝されている方々は、殆どが90歳以上かそれに近い人達ばかりです。驚くことは、それらの人々がまるで昨日のことのように、当時のことをお話されることです。もちろん、感情がこみ上げ涙を流される人もたくさんいます。「戦後」といっても、既に67年もの時間が経っているのに、彼らの心の記憶は色褪せてなどいないのです。 そして、それらの人の多くが戦場で失った友のことを思い、自分だけが生き残ったことを恥じたり悔いたりする言葉を発します。その時、生き残ったというよりは、むしろ死に損なったというような言い方をされるようにも思います。戦争という異常な極限状態の中でも、人は生きたいと願うはずですし、生きて帰ってきたことを恥じることも無いのだと思いますが、彼らの多くはそのことを心の重荷として、今日まで生きてこられているのだと感じました。 おそらく、どのような言葉を用いても、その人達の心を鎮めることはできないでしょう。また、今の我々がその痛みを理解することも、難しいことだと思います。そのうえで、今私が憂いていることは、それらの方々から生の声を聴ける機会は、本当にあと僅かしかないということです。我が国の戦後の復興を支え、高度経済成長を成し遂げてこられたそれらの人々は、一様に大変お元気に見えますが、齢90という方々ばかりです。 もとより、人の命には限りがあります。いくらお元気でも、年を経るごとに戦争体験者は、減少していくばかりです。それを考えると、少しでも多くの人々がそれら先人の生きた言葉に、耳を傾けるべきだと思います。そして、そのことを次世代の子供達にきちんと伝えて行くととが、何よりも大切です。いつも言いますが、どんな世であっても教育「人を育てること」こそ、国家の最重要課題だと思うからです。 今日のように、知識量のみを競うような風潮や、小賢しくあざとい人間が上手に利益をを得ているような状況を見るとき、かつて一命を賭して国を守ろうとした人々に対して、恥ずかしいような気持ちになります。実は、先日高知に行く機会がありました。5県技術士会において講演された森館長の熱い言葉に感銘し、龍馬記念館前の龍馬像と握手して帰りました。その時、「こんな日本を造りたかったのでは無いでしょう」と、思わず龍馬像に語り掛けてしまいました。 今日の安穏は、龍馬が奔走した維新から150年後の今日まで、数多の英霊により死守されてきた礎の上にあるものです。そして、争いの無い世界を作る視点を考える時「今、何故龍馬なのか」という言葉が心に浮かんできます。歴史に学ぶことは、本当に大切なことだと思います。 お盆の、この時期だからこそ、改めて考えるべきことがあるはずです。
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