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NO.26

2012  10月14日          ローマ人の物語




 
収穫を終えた田圃の稲株から、後生えと呼ばれる芽が伸びています。この頃は気候も良いので、また実るのでは?と思う位に伸びたりします。来季に備え、耕されるまでの命ですが。

 読書の秋ということではありませんが、久しぶりに本の話をして見たいと思います。とはいえ、本当に多忙な日々を過ごしていますので、中々読みたいものを読みたいだけという風にはいきませんが。それでも、「ルネッサンスとは何であったのか」・「海の都の物語」・「チェーザレボルジア~」と手をつけてしまいましたので、当然の流れとして「読まなければならない」本が出てきます。

 それが、「ローマ人の物語」ということになるのだと思います。以前から、読みたいとは考えておりました。しかしながら、文庫本にして43冊というものなので、どうしても二の足を踏むところがありました。何といっても、私の性格(最初のページを捲ると一気に読んでしまいたくなる)から考えて、手をつけた場合の危険や困難が予想されてしまうからです。

 残念ながら、予想した懸念は当たっており、睡眠不足や同じ姿勢の連続などによる体調不良と、元々蓄積されていた疲労や肩こりが、季節の変わり目の気だるさを一層助長させてしまっています。進行の方は、まだまだパクスロマーナの辺り(文庫本で15巻目)ですから1/3程度といったところです。やはり、興味を持っていた時代やテーマなので、面白くないはずはありません。

 時代でいうと、カエサルの目指した帝政を、後継に指名されたアウグストゥスが巧みに実現していく辺りを読んでいます。紀元前753年のロムルスによる建国から、ここまでの延々と語られる戦いの歴史は、男子的視点からは大変面白く読むことができました。それにしても、ラテン語ギリシャ語などの資料を徹底的に調べ検証し、古代ローマ人の姿に迫る筆致は大変なものです。

 建国以来、元老院・執政官・護民官など政治のシステムや人数など、定量的な数字の披瀝を見るにつけ、作者がどれだけの資料を読み解きながら、この本の著述を続けていったのかを思わされてしまいます。もっとも、他に類を見ないような著述を創出することは、大変な労力を伴うことは覚悟しなければならないことではあるのでしょう。

 しかしながら、日本人である著者が多くは一神教(キリスト教)の学者などによって研究されている分野の著述を行えば、誤解を招いたり批判・中傷の的となることもあるでしょう。そもそもが、先生からは好まれない学生であったと、塩野七生は述懐しています。先生の教えることに「何故か」と「どのような状態で」という説明を求めるからと、概略本ともいえる「ローマから日本が見える」で語っています。

 また、八百万の神が存在し、初詣に神社に行き、ウエディングドレスで結婚式を挙げ、お寺で葬式を行う日本人は、古代ローマ人と同じ多神教の民といえるでしょう。そこに、日本人としての作者がローマに興味を持つ原点があるような気もします。そして、キリストやアラーのような一神教を絶対とする宗教でなく、ギリシャのように哲学でなく、法や制度による統治の工夫を重ねていたことも、日本人が理解しやすいものだと思います。

 さらに、知力ではギリシャ人に劣り、体力ではケルト(ガリア)人に劣り、技術力ではエトルリア人に劣り、経済力ではカルタゴ人に劣ることを、ローマ人自身が認めていた、それなのに何故ローマ人だけがあれほどの大帝国と大文明を成し、あれほど長く維持することができたのかということも、私達日本人が考えさせられる部分であると思います。

 一方、ノーブレスオブリージュ(選ばれた者の責務)が早期に醸成され、市民としての誇りを何よりも大切にしたローマ市民の気風は、武士道を育んで来た日本人の精神性に大いに共通するものがあるように思います。さらに、敗者をも同化する寛容さ(宗教・言語など多くの独自性を認める)は、ローマ独自の統治法であるともいえるでしょう。

 また、紀元前333年のアレクサンダー大王の東方遠征(西方でなかったことの幸い)、その影響を強く受けたハンニバル相手の苦戦、それに対するスキピオ・アフリカヌスによるザマの戦いの勝利、カエサル・ポンペイウス・アントニウスとクレオパトラ・オクタヴィアヌス(アウグストゥス)等の戦いの模様、徹底した取材からのリアリティを感じさせる著述は、面白く読むことが出来るとおもいます。

 何よりも、資源の少ない国に棲む私達が、古代ローマ人に学ぶことはたくさんあるのだと思います。


2012  9月27日          時の流れの中で  

        



 
秋は、私の一番好きな季節です。しかし、その風情にしみじみ浸ることや、身体で感じるための時間は、年を追うごとに取れなくなっていきます。そんな風にして人は、鈍くなっていくのでしょうか。

 そのように、ぼやくことが多くなるのも、歳を重ねて行けばこそなのかもしれませんね。時に、厭世的な文章について、友人知己から指摘されたりすることもあります。もとより、「徒然なるままに~」という思いで書いている小欄ですから、現在の私自身の心情が投影される結果になることは、当然といえば当然のことなのですが、多少残念な気もします。

 思えば、自分自身が受験対策などで苦労したことがきっかけで、後に続く人達のために何か役立てないかと考えたのが、このようなHPを立ち上げた動機でした。そして、その根幹を成す思いは技術者精神の伝承であり、世の中の役に立つものづくりを目指す人を育てるということでした。

 振り返ってみれば、この10年の間に驚くほどIT環境は進歩し、ツイッター・フェイスブック等SNS形態も多様化しています。会話が主体であった携帯電話は、今やスマートフォンが主流となり、電話もできる小型PCというようなものになってきました。目先の、便利さという意味でいえば、圧倒的に便利になっていますし、その進化は留まるところをしりません。

 一方、その圧倒的な速度で進化していく、情報通信機器を使う方の人間の考え方のほうも、この十年間で随分変わってきたように思います。もちろんそのことは、私自身も例外ではないのだと思います。何しろ、始めた頃の私は、送信メールが返信(レス)で返ってきても「無礼」である位に考えていました(手紙のように考えていたのだと思います)。

 メールという位ですから、手紙と直訳すれば間違いないのですが、「面倒くさい」と思われたりもしました。実際、手間も省けますし、確実に返信するには効果的なのだと思いますが、相手のメールをレスで返信する行為自体に違和感がありました。このことは、理屈ではなく感覚的なことなので上手く説明できませんが、目上の人やお世話になっている人には、新たにメールを作成すべき位に考えていました。

 そして、技術者としての「志」を問うという考え方は、年々深まって行くのでもありました。インターネット環境など、便利に多様化していく周辺環境が、物事「安易」に考える人を増やしていく中で、私自身の考え方は逆行していく方向に向かっていたともいえるでしょう。とにかく、ここまでのやり取りの中で、小賢しく要領よく情報収集を行い、上辺だけで上手く立ち回る人達を、どれだけ手助けしたのかわかりません。

 例えば、指導するまでのやり取りを繰り返すなど、年々相手を見極めることに重点を置くようにもしていきました。しかしながら、「顔を見ない」やり取りにはやはり限界があります。挫折感や、虚しさが心の中に澱のように溜まっていきました。そのことが、厭世的な文章が多くなることの、大きな要因であるのだと思います。

 今日でも、地元高専との連携事業やごく少数の人達を対象に、技術者として、或いは人としての「志」に言及しながら、世の中の役に立つものづくりや、人の役に立とう、などという取り組みをしています。しかし、それは本当に限定的なものになりました。一方で、それで良いのだとも考えています。そもそも、「伝わらない不特定多数」よりも、伝わる(或いは伝わりそうな)少数が相手の方が、確実だと思うようにもなりました。

 確かに、そのように対象を限定していけば、まだまだ「熱い」人や「志」を感じさせてくれる人達に出会うこともあります。特に、学生さんなどの中には、志を持った人や備えられそうな人が、意外にたくさんいることも感じています。それは、暗闇の中の仄かな灯りのようなものですが、今の私のモチベーションをぎりぎりで維持させているものでもあります。

 いうなれば、風前の灯のようなものですが、今はそのように考えています。それでも、昭和生まれの頑固者であり続けることは、必要なのではないかとも考えています。何しろ、身の回りを取り巻く事象が、あまりにも情け無い大人達に振り回され、「放っておけない」ことばかりなので、そちらの方で消耗させられてもいます。

 それでも、何もしなくても時は過ぎてしまいます。どれだけ「もがける」かは解りませんが、放って置けない気持ちに忠実に生きたい、と、考えてはいます。


 2012  9月 6日          師弟を考える


   

 
9月になりました。しかしながらの、暑さです。水不足が、懸念される地方もあるようです。その昔、水と平和はただだと思っているのかなどと、誰かがぼやいていたことさえ忘れてしまいそうです。

 先日、休日のテレビを見ておりましたら、近所の小学生が柔道の大きな大会で優勝したことが、取り上げられていました。張さんの、アッパレという言葉が強く耳に残るとともに、嬉しさがこみ上げてきました。本当に、良かったなぁと思いました。もっとも、私などは傍観者なので、ただ「良かった」と思うだけなのですが。

 実は、彼には恩師とも呼ぶべき人がいて、今は代って行かれた前校長先生がその人になります。本当に、その先生は熱い人でした。私も、色々お世話になりましたし、親しくお付き合いもさせていただきました。何というのか、歴史好きなところなど共通の話題も多く、人としての志を基本とするような点で、価値観が近かった人だと思います。

 件の少年については、詳細なことは書けませんが、けっして恵まれた家庭環境とはいえない彼の、ともすれば乱れそうになる生活習慣を見据え、その先生が彼の恵まれた体力と運動神経に目をつけ、先生自ら稽古をつけるような形で相撲を教えたのがはじめでした。その後は、先生が時間と懐を割いて道場などへの送迎など、熱心な支援をされていたことを覚えています。

 もちろん、立場に寄れば「本来の業務を超えている」とか、立場を超えた関わりかたであるなど、斜に構えて嘯く人もいるでしょう。しかし私は、そのような熱い関り方が出来る人こそ、教師に相応しい人ではないかと思うのです。というよりも、心に熱いものがなければ、人を育てることなどできないと思います。古来、多くの師弟関係を見ても、師の持つ熱い心や志に感じて、有能な後輩や後継者が育つ例は、枚挙の暇も無い所です。

 例えば、高杉晋作をはじめとする、吉田松陰と弟子達との関りは、あまりにも有名です。「かくすれば、かくなることとしりながら、やむにやまれぬ大和魂」と、黒船への密航失敗の折に語り、自ら名乗り出て囚われた松蔭の純粋で熱い人柄は、多くの人間が伝記を著すことを試みる中、高杉の「こんなものが、先生の伝記といえるか」という言葉の通り(因みに、晋作はその書物を破り捨てている)、語り尽くせぬものだったはずです。

 また、「如何に死すべきか」という晋作の問いに、「死して後世に名を残すなら、死ねばよし。されど、生きてなお良い仕事ができるなら生きるべし」と答えた松蔭は、常に命を懸けた学問と生き方を、実践していたといえるでしょう。そのような、自ら命がけで実践していく師匠にまみえては、弟子も命がけで精進するほかは無く、傑出した人物が多く育ったのも頷けることです(生半可な人間は、松下村塾には馴染まない)。

 例えば、「命がけ」というようなことでなくても、ともすれば生徒(指導される側)よりも熱くなれる人こそ、指導者に必要な資質であると私は考えています。このようにいうと、暴力事件などを起こす(或いは起こした)人などが引き合いに出され、精神論を偏重した指導が懸念されることも良くあります。しかし、明確な価値規範に基いたきちんとした志無くして、どのような学問や技術の習得も意味がありません。

 また人と人の関わりは、百組あれば百通りです。さらにいえば、ロジックや理論だけで、人はついてくるものでもありません。私自身を振り返っても、「お前は、自分を何だと思っている」と叱ってくれた人、「あんたも、受けたらええんじゃ」と背中を押してくれた人など、熱い心を持っていた人達の影響を、強く受けて生きてきたように思います。まだまだ、その恩に報いているとはいえませんが。

 そして、このような衆目の中思うところを述べ続け、自身を棚に上げ人として或いは技術者として、持つべき考え方や志をを問い続けているのも、師と仰ぐ人達から受け取った志を大切に思うからです。しかし一方で、そのことに疲れているのも事実です。「何故、技術士になりたいのか?」などという基本的な問いかけさえ、理解できない人が多くなりました。本当に、このような場(WEB上)での、やり取りに限界を感じています。

 それでも、放っておけない気持ちと、やらんよりはやった方が良いのではという気持ちが、今の私を支えている細い柱ではあります。また、その細い柱を支える気持ちの一つに、今でも心から「先生」と呼べる人達の存在があります。側にいるだけで、何気ない会話をしているだけで、背筋が伸びるような先達はそういるものではありません。それが、今の私の師と呼べる人達です。

 どのような言葉も、いや、ありふれた言葉であっても、それが誰の口から発せられるかということが、最も重要なことですし、それに尽きるともいえるでしょう。そのような、師と仰ぐ人達に、少しでも近付けたらと思います。


2012  8月 16日          先人の声を聴け


  

 
 ロンドンオリンピックの、熱い戦いも終わりました。数々の日本選手の活躍に。多くの感動を貰いました。テレビ中継の見すぎによる寝不足は、もうしばらく身体に影響を残すのでしょう。

 しかし、今から64年前に行われた前回のロンドンオリンピックには、敗戦国である日本の参加は認められませんでした。1938年開催予定の、東京オリンピックを返上したことへの制裁も、我が国が参加を承認されなかった理由の一つであるといわれています。スポーツへの政治不介入などといいますが、政治の影響がスポーツに影を落とす事例(特に戦争による)は、枚挙のいとまがありません。

 私の記憶の中にも、モスクワオリンピックへの我が国のボイコットに対して、涙の訴えをするレスリングの高田選手や柔道の山下選手達の、悲痛な表情が残っています。冷戦下の時代、ソ連によるアフガン侵攻を理由として、アメリカの呼びかけで行われたものですが、当然のようにその次のロス五輪では、ソ連を中心とした東側諸国のボイコットが行われました。

 国家の思惑と利害関係が、敵対する国への報復などということにつながり、オリンピックへの参加・不参加を決定づけるようなことが、今後行われないことを望みます。一方でモスクワ五輪は、それまでの「国家や都市が費用を負担する」オリンピックのあり方が、見直されるきっかけにもなりました。そのことが、スポーツへの政治介入を許す元凶とされ、次のロス五輪で実施された「税金を使わない」やり方へ大きくシフトするきっかけにもなりました。

 経済的に独立していれば(税金に依存しなければ)、政治の介入を防げるという考え方だと思います。それには一理あると思いますが、高額のテレビ放映権や商業主義への傾斜など、新たな問題も生み出されました。また、プロ選手の参加への道が開かれたことは、レベルの高い競技内容が見られることにつながったとは思いますが、それまでのアマチュアリズムとの整合については、釈然としなかった記憶も残ります。

 ところでテレビでは、その熱いオリンピック中継と平行して(終戦記念日に向けて)、かつての戦争に関わる番組が放送されています。特に、NHKのBS放送では、実際に戦争を体験された方々のお話を基にしたドキュメンタリー番組などが、毎年この時期には数多く放映されます。今年も、戦艦大和の生き残りの方々の証言を中心としたものや、台湾特別志願兵に関する番組など、新たに知らされることも多く、心に残るものばかりでした。

 それらの番組の中で、自身の体験を披瀝されている方々は、殆どが90歳以上かそれに近い人達ばかりです。驚くことは、それらの人々がまるで昨日のことのように、当時のことをお話されることです。もちろん、感情がこみ上げ涙を流される人もたくさんいます。「戦後」といっても、既に67年もの時間が経っているのに、彼らの心の記憶は色褪せてなどいないのです。

 そして、それらの人の多くが戦場で失った友のことを思い、自分だけが生き残ったことを恥じたり悔いたりする言葉を発します。その時、生き残ったというよりは、むしろ死に損なったというような言い方をされるようにも思います。戦争という異常な極限状態の中でも、人は生きたいと願うはずですし、生きて帰ってきたことを恥じることも無いのだと思いますが、彼らの多くはそのことを心の重荷として、今日まで生きてこられているのだと感じました。

 おそらく、どのような言葉を用いても、その人達の心を鎮めることはできないでしょう。また、今の我々がその痛みを理解することも、難しいことだと思います。そのうえで、今私が憂いていることは、それらの方々から生の声を聴ける機会は、本当にあと僅かしかないということです。我が国の戦後の復興を支え、高度経済成長を成し遂げてこられたそれらの人々は、一様に大変お元気に見えますが、齢90という方々ばかりです。

 もとより、人の命には限りがあります。いくらお元気でも、年を経るごとに戦争体験者は、減少していくばかりです。それを考えると、少しでも多くの人々がそれら先人の生きた言葉に、耳を傾けるべきだと思います。そして、そのことを次世代の子供達にきちんと伝えて行くととが、何よりも大切です。いつも言いますが、どんな世であっても教育「人を育てること」こそ、国家の最重要課題だと思うからです。

 今日のように、知識量のみを競うような風潮や、小賢しくあざとい人間が上手に利益をを得ているような状況を見るとき、かつて一命を賭して国を守ろうとした人々に対して、恥ずかしいような気持ちになります。実は、先日高知に行く機会がありました。5県技術士会において講演された森館長の熱い言葉に感銘し、龍馬記念館前の龍馬像と握手して帰りました。その時、「こんな日本を造りたかったのでは無いでしょう」と、思わず龍馬像に語り掛けてしまいました。

 今日の安穏は、龍馬が奔走した維新から150年後の今日まで、数多の英霊により死守されてきた礎の上にあるものです。そして、争いの無い世界を作る視点を考える時「今、何故龍馬なのか」という言葉が心に浮かんできます。歴史に学ぶことは、本当に大切なことだと思います。

 お盆の、この時期だからこそ、改めて考えるべきことがあるはずです。

 
 

2012  7月 26日          今一度、立ち止まって考えよう


 

 
 いわずもがなのことですが、本当に暑い日が続いています。容赦のない陽射しの向こう側に感じる、後ろめたさの含まれた不気味さは、人類による環境破壊や地球温暖化への影響などという言葉と、無関係ではない気がします。

 とはいいながら、便利さに慣れてしまった私達には、皆で節電しようというような世論が湧き上がりにくいのも事実です。ともすれば、経済や産業へのダメージを軽減するためにも必要である、などという大儀名文を拠りどころとした原発再稼動の動きにも、寛容な空気が支配する傾向にあります。もちろん、CO2の排出量などから考えれば、火力発電への依存量を増やすことも問題ですが。

 しかしながら、人災を断じた事故調の報告書や、活断層上に存在する原発のことなど、多くの課題や懸念について具体的で明確な対応策が示されないまま、旧来通りの施策を忠実に踏襲していくように、原発の再稼動をはじめとする原子力政策が進められていくように見えます。今一度、ニュートラルな状態でこの国のエネルギー政策を考え直しても、怒る人はいないと思います。

 一方で、現在ある原発を直ぐに全てとりやめ廃炉を目指すということも、現実的な考え方では無いようにも思います。その上で、徐々に依存度を下げていくのことを、検討していく必要があると思います。やはり、効率的に圧倒的なエネルギーを得られる、魔法の手段ともいえる原子力発電には、その一方で、人類の存亡に関わるほどの危険性が内包されていたことを、再認識するべきです。

 これは、単に情緒的な原発アレルギーというような視点で述べるのではなく、問題が起きた時に手をこまねいてみているしか仕方無いような(そもそも「制御しきれないクライシスは、発生しないようにする」ということを前提にしている。→つまり、トラブルが発生すると成す術が無いに近い)リスクを内在したエネルギーへの依存度は、極力抑えるべきだといえるでしょう。

 本当に、人は喉元過ぎれば熱さを忘れるというのか、未曾有の災害といわれたあの東日本大震災の惨状や、福島原発の歴史的な大惨事さえも、この頃では「無かったこと」のように、忘れて過ごそうとしている人が増えているような気がしてなりません。楽で、自分達に都合の良い(あくまでも、目先のことですが)声だけに耳を傾けて生きているだけで良いのでしょうか。

 例えば、夏なら早起きして涼しい時間帯に仕事をする(一歩踏み込んだサマータイムの実施も考えられる)ことや、効率的な節電への取り組みの工夫はいくらでもあるはずです。田舎なら、用排水路で発電をおこなう小規模水力発電など、多様なエネルギー創出のアイデアも、まだまだ生み出される余地があると思います。

 また、荒廃が進む中山間地域などにおいて、スローライフを営もうとする気運も高まっています。それは、物質的な豊かさの追求により得られてきた(得られると考えられていた)幸福感という、価値観そのものも変化してきていることを現しています。何よりも、自然に溶け込み物を大切にする日本人の文化や精神性について、見直そうとする人が増えているということだと思います。

 例えば、我が国で人口30万人以上の都市圏に生活する人は、2012年4月の段階で5千5百万人も居ます。都市の豊かな生活を支える田舎(主として中山間地域)の役割を認識し、都市生活税のようなものをその5千5百万人の人々に年間2万円/一人当たり負担してもらえば、一兆円以上の税収となります(一人1万円でも、5千5百億円)。

 これを、田舎に住み棚田を支えている人や、美しき里山の維持に関わっている人たちに対して、きちんと行き渡るようにすれば、農地の荒廃や山林の荒廃などもかなり防げるのではないかと思います。また、違憲状態といわれている一票の格差についてもそうですが、定数や区割りの見直しも必要でしょうが、地方から都市への人口流出を止めることも必要だと思います。

 資源の無い国が、技術立国を目指すなら「1番」を目指す必要があります。そして、政治は「そこに何人住んでいるのか」ではなく「そこに、何人すめるようになったか」を考えるべきだと思います。結果的には、自然環境に恵まれた生活環境の方が、柔らかな感性を備えた創造力のある子供が、たくさん育つのではないでしょうか。

 豊かな自然に親しみ、物を大切にする国民であればこそ、私達は、現在の危機も将来への不安も乗り越えていけるだけの知恵を、生み出すことができるのではないかと思います。


 

2012  7月16日            領域を考える旅


 

  
もう、そろそろかなぁ、と、思いますが、重苦しい梅雨空は続いています。同じ所に次々と雨雲が湧き、容赦なく大雨を降らすような光景を見ることに、慣れてきそうな自分を戒めています。

 私事ですが、忙しさや煩わしさの中で、つい自分自身を見失いがちになり、判断を誤ることや決断が鈍ることがあります。また、相反する利害関係や、理不尽な思惑が交錯する田舎社会の中心に身を置いていると(皮肉なことに存在感が増すほど)、どのような答えを出しても、愛憎や禍根の種になることばかりです。それに伴い、リスクとストレスが増大することも知りました。

 とはいえ、日々こなしていかなければならない事柄は増え続けています。努めて、シンプルな考え方(民主主義的に)を拠りどころとしているつもりですが、自分自身の立ち位置や受け持つべき領域などについては、悩むことが多いのも事実です。領域といえば、個人同士の関係であっても利害関係や地位・名誉など複雑な要素が絡み合い、中々明確に決められないものでもあります。

 昨今も、尖閣諸島や北方領土などこちら側から見れば理不尽ともいえる、隣国からの干渉や対応に関するニュースが伝えられています。どちらも、どのように考えても、また、常識的な歴史認識からも、我が国の固有の領土であるはずです。その点においては、韓国が実効支配している竹島についても同様かと思います。あらためて、優秀であるはずの(あったはずの)官僚に委ね続けた我が国の外交史を嘆きたくなります。

 そのような、世情に触発された訳ではありませんが、先日道東の方を回ってきました。知床~根室~釧路という旅程でした。ところで、北海道を旅する場合、ポイントを絞って出かける必要があります。例えば、大雪の紅葉を見に行くとか、雪祭りと流氷の旅という風にです。一度に、全てを網羅するような計画は、広大な地理的背景もあり、ただ車で走っただけの記憶しか残らないものになってしまうと思います。

 そのような訳で、今回は、知床峠から国後島を眺めて見たくなり、ウトロと釧路に2泊という強行日程で出かけたわけです。いつものように、そのような方向に自身の所属する団体の旅行を、強引に計画するという図式に変わりはありません。したがって、慰安旅行的要素もあり硬派な旅とはいえませんが、行きたい所には行きました。

 その、ハードな日程を可能にするため、羽田空港で乗り換えて女満別に降り、初日はウトロに泊りました。翌日、知床五湖の木製橋道を歩き、知床峠を越え羅臼に入ります。さらに、野付半島などオホーツクの端っことなる海を左に眺めながら、風連湖を抜けて根室に入ります。昼食後、納沙布岬を訪れ北方領土資料館に行きました。

 その後は、釧路を目指してひた走り霧のビール園でジンギスカンを食べ、幣舞橋近くの居酒屋で仕上げるというものです。そして、3日目は和商市場で海産物を物色し、ノロッコ号で釧路湿原を走り、展望台・丹頂鶴センター等を見て、午後5時過ぎの飛行機に乗るという日程でした。残念ながら、北方領土を眺めるという第一目標は霧に遮られ、羅臼に下りてから眺めた国後の裾の辺りだけでした。

 知床峠も霧の中で、いつか見た羅臼岳の威容も、進行方向左側に見えるはずの国後の遠景も、眺めることはできませんでした。また、もう一つのハイライトであるはずの納沙布岬でも、展望塔の上部さえ霞む程でしたから、僅か3.7km先の貝殻島でさえ霧の彼方でした。梅雨空の岡山・羽田を後にし、女満別に降り立った時には、僅かに晴れ間も見える天気でしたので、残念さは拭えないものでした。

 それでも、羅臼~野付半島に入る頃までは、霧で霞む海の彼方に国後の島影が車窓から見え続けていました。沖縄本島よりも大きく、我が国で二番目に大きな島であるその島(因みに1番大きな島は択捉島)は、本当に直ぐそこにあることが実感できるのに……という思いが彷彿としてきます。毎年のように、日本人がロシアにより拿捕されたというニュースを耳にしますが、外務官僚は心が痛まないのでしょうか。

 本当に、不思議な位人影を見ない海岸線を眺めながら、そのようなことばかりを考えていました。所々に、空き家なども見られ、景気の影響は社会的弱者から現れることも、何となく感じさせられるような気もしました。目の前の現実と、為政者の為すべきことなどを見比べながら、領域や領分などという概念についてたくさん不条理なものを感じ、また考えさせられる旅でもありました。

 改めて、自分の領域や領分などということも、考えてみなければという気がしています。


2012  6月28日            世 襲


 


 
 早くも、一年の半分が終わろうとしています。年々、出来ることと成すべきことが、限定されていくような気がします。やりたいことさえ思い浮かばない程、将来の時間を保有していた頃には、考えもしなかったことです。

 世襲。親の手にしている特定の地位や肩書きを、その子や孫などの係累が引き継ぐことをそう呼ぶのだと思います。当然ながら、前代の有していた権力や権限をも、承継することになります。むしろ、それを継承するために世襲を行うといった方が、良いのかもしれません。実際には、そのことによる弊害も少なくないのですが。

 世襲という言葉を聴いて、すぐに思い出すのは、歌舞伎の世界のことではないでしょうか。門外漢といえるほど、芝居や梨園などという世界からは縁遠い私ですが、俳優香川照之が市川家(澤瀉屋(おもだかや))という、自身のルーツである家系に対して見せた執着には、驚くと共に理屈ではない人間の情念の奥深さを感じました。

 父から「お前は、自分の子ではない」といわれ、親子の確執や様々な葛藤の末に、自分自身の中に流れる役者の血のようなものが、彼にそのような行動を取らせたたのかもしれません。厳密に言うと、市川中車という名跡を得て歌舞伎役者となった彼は、親子のわだかまりを払拭はしても世襲に拘ったわけではないでしょう。従兄弟である現猿之助(前亀次郎)との仲も良好のようです。

 これは以前にも述べましたが、芸事などの世界における世襲には、世襲する側の資質や能力が相応しいかどうか、と、いう問題が常について回ります。そのために、芝居の世界などでは「何代目は良かった」などと評されるのを耳にします。それでも、全体として庇護されている感じがする歌舞伎の世界などでは、その論評に耐えさえすれば、その世界では生きて行かれるようにも思います。

 それが、もう少しドライな世界(贔屓筋や谷町的な庇護はあると思いますが)といえる落語会などでは、世襲そのものが難しいように思います。単に、父親や祖父の名を継いだだけでは、誰も納得してくれないからです。それに相応しい芸や風格を備えてこそ、名跡を継承できるということだと思います。したがって、落語の世界では弟子の中から最も優れたもの(基本的に)が、名跡を継承することが多いのだと思います。

 もちろん、志ん生から志ん朝へというような、名人の子が名人になるという事例も見られますが、ここでも古今亭志ん朝は志ん生を襲名していません。父のライバルでもあった名人八代目桂文楽をして「圓朝(江戸後期以降、現在の古典落語を確立した名人。誰も継げない止め名とされている)を継げるのはこの人」といわせた志ん朝の話は、また別の機会に項を割いてでも述べたいと思います。

 一方、芸事や習い事などの世界では、世襲による一子相伝のような形で、芸術性や技術の高さを守っていく話を良く耳にします。世襲する側にも、否応なしに志や心構えを求められる訳ですから、厳しい修行や精進も当然必要となります。後継者の資質に、一門の隆盛や荒廃が直結しているのですから当然のことかもしれませんが、選択の余地の無い後継者には辛いことかもしれません。

 ここまでは、所謂正当(と思われる)な世襲について述べてきました。しかし問題なのは、そもそも世襲と呼んで良いのか、或いは世襲して良いのかという事例が、世の中には多々見られるということです。例えば、政治の世界などはその代表といえるでしょう。父や祖父が議員であったからといって、その子孫が政治家にならなければならないという決まりはありませんし、多くの場合先代を凌駕した政治家が出たという例はありません。

 日本人のウエットな感性に訴え、父の地盤を引き継ぐことを美談とした時代や世情が、粒の小さな政治家を排出する要因となったことを、否定す人は少ないと思います。つまりそのように、公の利益や社会全体への影響を考えると、血筋やDNAというものを拠り所として地位を継承すること(世襲)は、あまり歓迎されるべきことではないように思います。むしろ、1000年続いたヴェネチア共和国を例に引けば、忌避すべきことといえるでしょう。

 どのような功績が初代や創業者、或いは前代の元首に有ったとしても、頑なに世襲を認めなかったヴェネチア人の高い誇りと見識が、権力者による暴走を防ぎ、長期に渡る国家の繁栄を支えたといえるのだと思います。また、例え元首といえども、多数決による了承を得なければ、重要な決断が許されなかった行政の仕組も、ヴェネチアを長く支えた所以といえるでしょう。

 そのような視座から見ると、あまりに情け無い血縁に由来するエゴばかりが目に付きます。情緒的には、解らないでもありませんが、問題なのはそれが公共の利益を、阻害する結果を招いてしまうことです。

 

2012  6月14日           健康診断


 


  入梅しました。田舎の水路は、あちこち綻びや弱点があります。できれば、今年も穏やかで安定した降雨の累積を、期待するばかりです。

 
昨日、毎年恒例の健康診断を、すませました。これがあるから、体重をほぼ維持していられるというのが、本音のようなところもあります。ともあれ、概ね例年通りの身体の状況に、胸をなでおろしているところです。多少、胃の荒れ具合が進んでいるようですが、受けているストレス(増大し続ける)の割には、症状が軽いようにも思います。

 毎年、同じ時期に検診があることで、そこを目標に体重調整をするだけでも、私にとっては意義深いイベントになっています。今の病院にお世話になるようになって、かれこれ10年位になるのではないかとおもいます。やはり、経時的にデータを集積することは、それだけでも意味があります。体型的にはどうかと思いますが、数字(体重・身長・体脂肪…)には良く保っているといえるでしょう。

 しかしながら、中身の方はといえばそうもいかず、記憶力・集中力・根気の低下は著しいものがあり、1年毎に自信をなくす状況に他なりません。したがって、考え方(信条)をシンプルにするとか、力を入れることと程々にすることを分けるなど、より効率的な生き方をするようになったといえるかもしれません。もっとも、「放っておけない」ことが多いので、そうならざるを得ないともいえますが。

 診断するとえいば、耐震診断というものがあります。建築物に関して、想定される地震に対してどれ位耐えられるかを診断するというものですが、この場合、診断するだけではあまり意味がありません。診断結果に基き、適切な補強対策を施さなければ、安心して利用できる状態にはなりません。

 ともあれ、耐震補強そのものが、建築物に対して何がしかの工事を行うことですから、この名目の工事を良くみかけます。特に、公共の建築物において良く実施されるものです。実は、我が母校の小学校も、どうにかその対象に組み込んで貰い、劣悪な環境(他所と比べれば、実際にそう思います)を、いくらかでも改善できるのではないかと考えています。

 ここで、予算執行上の名目や大義名分について、あるべき論などを展開するつもりはありません。どのような手法であれ、子供達が少しでも良い環境の中で、勉強したり遊んだり出来るようになれば、それが大人たちが為すべき仕事であるはずです。逆にいうと、我が母校に関しては、中途半端にその耐震診断の評価が高かったことが、災いして整備が遅れた感があります。

 一方、診断すべき対象が原発の安全性などというものになると、これは容易なことではありません。そもそも、福島の検証さえ済んでいない状況の中で、どのように安全性を確認するというのかも良く解りません。いずれにしても、おこり得る(おこって来た)自然の事象に対して、人間の頭で検証を加えるという作業なのですから、絶対的なものはないはずです。

 そういうと、科学技術に関する高等の専門的な応用能力を用いた仕事をするべき立場の人間としては、矛盾した発言になってしまうのかもしれません。当然、リスクには発生する確率・可能性などを分析し、それに応じた対応を図るべきであると思います。コストも、その評価に応じてかけるべきでしょう。

 しかしながら、果たしてそのような合理的(一見)な考え方だけで良いのでしょうか。この頃、私は良くそう思います。それは、BSEに関する全頭検査などのように、食べ物に関する日本人の情緒感は、アメリカ人のいうリスク論とは違うと思うからです。馬鹿な土下座社長のおかげで、供給禁止に追い込まれた生レバーでも同様です。

 目で見て、肌で感じて物を食べ、或いは食べ物を供する文化は、日本人独自の情緒感に基いて(由来して)いるものではないでしょうか。そこのところの、供給する側の責任感と、食べる側のリスク保有能力が著しく低下しているから、無差別に供給禁止とするしか術がない状況になってしまうのだと思います。そのことは、職人がやっていけなくなった頃から、顕著になったようにも思います。

 本当に、急いで診断しないといけないのは、政治家や官僚の資質なのかもしれませんが、こちらも、診断するだけではどうにもならないのが、悩ましいところです。


2012年 5月 31日            海の都の物語

 
 


 
田に赴けば、父を思い出し……今年も、老いた母を含めた三人で、上半期のメインイベントである田植を済ませました。年々、体力の衰えを感じますが「来年もやりたいなぁ」と思う自分もいます。

 私事ですが、身の回りの多忙は増しており、読まなければならないものが山積し、読みたい本を読む機会が減っています。そのような中ですが、移動などの折を中心に文庫本を開く機会はあります。例によって、「天啓」に基く乱読状態ですが、最近は塩野七生を少し読みました。

 そもそも、名前から男性なのか女性なのかさえ知りませんでした。また、長編が多いので、二の足を踏むような状況でもありました。ただ、本屋を歩いておりますと、ルネッサンスとかローマ人とか海の都というタイトルが、どうしても私の嗜好のレーダーに映ってしまうのです。つい、ルネッサンスとは何だったのかを手に取ってしまった(短いので)ことが、たちまち海の都の物語につながってしまいました。

 女史いわく「歴史家や学者からは良く思われていない(いなかった)」そうですが、ルネッサンスの検証(考察)に関してもそうですが、実に多くの書物や資料を自身の手で読み解いた上で、理にかなった分析がされているように思いました。そして、ヨーロッパ社会における、神聖ローマ帝国の存亡を中心とした中世から近世への変遷が解りやすく述べられていると思います。

 「海の都の物語」はヴェネツィア共和国に焦点を絞ったお話ですが、「水の都」でないところに深い意味が内在しているともいえます。今日、水の都と呼ばれて、世界中から多くの観光客を集めるヴェニスですが、作者の述べたいところはそのような上っ面のことではないことが、この本のタイトルにも込められているのだと思います。

 まさに、ヴェネチアが海洋国家として、海を渡り交易をすることにより繁栄した国であったことを、明確に述べるためにこのタイトルがつけられているのだと思います。ローマ帝国末期、蛮族に追われ干潟(ラグーナ)に生活の拠点を置かざるを得なくなったヴェネチア人達の、生きていくための苦労と努力、その中から生まれた知恵(創意・工夫)についての物語です。

 外部の侵入者が、侵略するための誘惑する気持ちさえおこらないような貧相な干潟の小さな国には、塩と魚以外には生産物もなく、生活に必要なものは外部から調達してくる必要がありました。最初は、塩と生活必需品の交換程度の交易であったものが、次第に自分達に直接必要のないものも売買するようになっていき、遠く海を渡って世界各国の物産を取引し繁栄していくのです。

 地中海の奥深く、アドリア海の最深部(イタリア半島の東側の根っこ辺り)に位置するヴェネチアは、当初は大陸側のイストリア半島からイタリア側のラヴェンナにオリーブオイルやぶどう酒を運ぶというような、地の利を生かした海運業による利益を得るというような生業であったようです。それが、地中海全域に亘り航路(海の高速道路ともいえる)を確保し、交易によって繁栄する国家となるのです。

 そして、ヴェネチアは西暦697年~1797年まで、千年以上の長きに亘り続いた共和制国家です。地図で見れば、ほんの小さな領土しか持たないヴェネチアが、歴史上最も長く続いた共和国として存在し続けられたことの背景を知ることは、極東の島国である日本のような国が、どのように国際社会で生きていくのかという指針にもなると思います。

 まず、古くから(古代ローマ帝国時代から)有能な人材を輩出してきたヴェネチア人達の、基本的な人間力というものが下地にあるのだと思います。そのうえで、ヒーローの出現を良しとしない本来の意味の共和制を貫いたことが、この国が永らえたことの第一の要因だと思います(たとえ元首であっても、平等に罰せられ世襲も認めないというような)。

 具体的な施策の面では、卓越した外交力(特に情報収集と分析に間する力)と、合理的で独創力な思考に基く国家運営ということでしょうか。考えてみると、資源を持たず他国と交易することで国を豊かにし、独自の思想や理念で存在感を示すという生き方こそ、日本のあるべき姿なのではないかと思いました。

 人が国家を作り、国家が人を支え守る仕組を明確に構築したヴェネチアの歴史を、我々は学ぶ必要があるのだと思います。

 
 

2012年 5月 17日            規 約




 まるで外国の映像のような竜巻のニュースは、年々極端になっていく気象現象の象徴でしょうか。天候さえも、荒っぽくなっていくようです。そんなことにも、荒んだニュースばかりが伝えられる人間の営みが、投影されている気がしてなりません。

 例えば、国家や自治体にに法律や条令があるように、自治会をはじめとする様々な組織には、会則や規約というものがあります。それらは、殆どが民主主義に基づいて、特定の人物の独断や専横が行われないように定められているはずです。実際には、組織や団体によりかなり幅がありますし、解釈が分かれるようなものも見受けられます。

 それでも、携わる人間さえしっかりしていれば、概ねおかしなことにはならず、つつがなく組織の運営は行われていくものです。私は、そのことは天下国家を論じる際にも、通用することだと考えています。本来は、おかしなことにならないように、こと細かく規則やマニュアルを整備することの必要性を説くべきなのが、理論的な見地からの発言であるかもしれませんが。

 しかし私は、そのことに関わる人間が「よろしく」なければ、どのような規則や細則を定めても虚しいことだと考えています。例えば、力の強い人間や声の大きな人が、理不尽に横車を押そうとすれば、大抵のことは実行されてしまうものです。どのような組織も、具体的な事例を全て想定し、それらを網羅した規則や条文を備えることは困難だからです。

 通常、解釈に戸惑うような事例については、程度の軽重というような視点から「まぁ、良いか」という範囲で「少し変だな」という行為が、それを実行したい人の示威的な或いは恣意的な言動により実行されるものです。一度、「少し変だな」と思う事例があると、そのことを前例としてさらに踏み込んだ「都合の良い解釈」が行われるようになります。

 そうすると、それを肯定するように規約の方が改められ、権力者(力の強い人又は声の大きな人)の都合の良いものに変わっていきます。その変化は、最初は微々たるものかも知れませんが、気がつくと本来の主旨から大きく逸脱したりするものです。この、なし崩し的な変化は、意外とブレーキをかけることが難しいものなのです。

 そのように述べると「そんなばかな~」と思う人が大半だと思いますが、実際に、目の前で起きている事象にきちんと反応し、毅然として対応していくことは、当たり前のことなのですが、実行し辛いことでもあるのです。例えば、良識や常識に照らして「当然」と思われることでも、権力者(その組織の中の)に直接対峙して「言い切る」ことは、結構な勇気がいるものなのです。

 逆にいうと、権力者の側からはそのような空気を作り出すことが、専横を行うための第一歩ともいえるでしょう。そのような空気のなかで、「まぁ、それ位は良いか~」という踏み出しを続けていき、最終的に自分の思い通りに組織を牛耳っていくというのがパターン(手口)となります。いつの間にか、他所の場所から見れば(一般常識に照らせば)、首を傾げたくなるようなことが平然と行われる事態になったりします。

 ところで、常識や良識などというものは、明確に定義付け難いものです。また、それを守ろうとする意識(意思)のない人間には、相手にだけ要求すれば良いものでもあります。相手が、「それ位は仕方ないか~」と考えることを想定した上で踏み込んでいけば、どこまでも常識の垣根を越境していくことが可能となります(もちろん、厚顔な情熱やエネルギーが必要ですが)。

 一方、私の備えている感性から述べれば(多くの人がそうであると思いますが)、いわずもがなの「正論」など口にしたくもない、と、いうのが正直な心情でもあります。したがって、一般的な人達が「まぁ良いか~」と思う気持ちも理解できるのです。しかし、今日の社会ではその「いわすもがな」のことをいわなければ、とんでもない事態を招くことが多いのです。情け無い話ですが、これは自治会等様々な組織に携わり、理不尽な光景を色々見てきた私の偽らざる感想です。

 本当に、人間さえ良ければルールや規約など、大まかなもので良いはずなのです。口角泡を飛ばし、専横者の横暴を抑止するための規約作りなどを議論している時、「民主主義」の大変さと虚しさを痛感してしまいます。具体的に、どのようなことがこの町で起きているのかについては、詳述することが憚られることばかりです。したがって、このようなまどろっこしい婉曲な表現しかできないのが残念です。

 そもそも、民主主義以前の話のような気もします。しかし、現実というのは条理なものでもあります。


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