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NO.27

 ※前回のコラムから、これまでのコラムが納めてあります(バックナンバー:NO.1~NO.27)。
 出来れば、通してお読みください。

2013  7月 15日      自分のペースで…


 梅雨入り宣言とか、或いは梅雨明け宣言だとか、人間は色々に言ってはみますが、人がどのように定義づけようと、自然や宇宙をコントロールすることはできません。ただ、そこで生きていくだけなのです。

 ともあれ、この項の更新も随分と間隔があいてしまいました。理由は、私が多忙にしていることにあります。そして、その多忙の中身も本当にハードなことばかりです。むしろ、ハードなどというやわな言葉では表現できない気もします。が、このような公に晒される場所では語れないことばかりでもあります。

 それは、一般的な世の中の常識や倫理観など、全く関係ないというか通用しないような相手に対して、適法な手段を用いて粛々と正しいこと(正しいと思われること)をやっていくようなことです。いくら、正しいことを当たり前にやっていても、心は傷ついていくのだということを痛いほど感じています。まして、自分の振る舞いが、帰結する結果に大きく影響することのストレスは、計り知れないものがあります。

 そのような訳で、コラムなど書いていられないということになってしまうのです。もちろん、時間的な理由もあると思います。HPを更新していくために時間が割けないという意味で。しかし実際には、書かない(書けない)理由はもっと別のところにあるのかもしれません。本来、私は文章を書くことは好きなので、書きたい思いがあれば、僅かな時間を活かして文章にすることは可能です。

 実際、誰かのために何かを伝えるためにキーボードをたたけないのは、私自身の内面の問題だと思います。そもそも、自分自身に余裕がないということなのかもしれません。それで、今は書けないなら書けないで良いと思っています。以前は、ある程度のペースで更新することを、自身の中で半ば義務化していたようなところもありました。

 しかし今は(これからは)、書きたい時に書き、更新したい時に更新することにしたいと思っています。したがって、思いつけば立て続けに更新することもあるかもしれません。何よりも、自分自身の内なる叫びに素直でありたいと思うのです。本来、日常感じる疑問や問いかけたいことを、小欄を通して語り続けてきたはずなので、それで良いのだとも思っています。

 実は、この数か月の間にも、色々なことがありました。その中で、たくさん感じることもありました。文字にして、問いかけたいこともありました。どう考えても、私の持っている常識から考えて、おかしいと思うことを述べようと思ったりもしました。しかし一方で、私の常識がずれているのではないかと、疑念を抱くような場面が多くあったのも事実です。

 以前も述べましたが、常識は、それを常識と思う人が多いから常識であって、非常識の方が多数となれば、非常識が常識となってしまいます。気持ちが萎える一因には、そのようなことが多々ありまして、情けなさを嘆く力さえ、弱っているということがあるのでしょう。具体的にはいえませんが、本当に「がっかり」が連続する日々を過ごしておりました。

 気が付けば、ボヤキばかりの文章になってしまいました。情けない気もしますが、ボヤくことさえできないよりはましだとも思います。何でも良いのだ、と、思います。書きたいことを書き、言いたいことを言うというスタンスで良いのだと思います。書けなければ書かなくて良いし、書きたければ書けばよいのだ、と、自分に頷いている感じです。

 兎に角、生きている中で感じる違和感は、本当にたくさんあります。本当に、私たちはのど元過ぎれば熱さを忘れてしまいます。例えば、被災地を忘れてしまったような世間の風潮の中で、またぞろ稼働させることを念頭においた原発の行方やあり方をを、亡くなられた吉田所長はどのように見ておられたのかと思います。

 先日、東京に行きました。有楽町の交通会館で、岡山に定住を希望される方々の相談に対応する役目を務めてきました。西日本に住んでいる人間からすると、本当に驚かされたのは、関東地方に住む人々の感じている放射能汚染への恐怖感や危機意識は、ものすごく高いものがあるということです。政府もマスコミも、そんなことさえ「無かった」かのように振る舞っているような気がしてなりません。

 そんな一言さえ、愚痴をこぼした後でなければ語れない自分ですが、これはこれで良いのだ、と、いうことにしておきたいと思います。

2013  5月 21日      続メディア考


 朝夕は寒いのに、日中が夏日になるようなこともあります。一方、水路の水の冷たさや、育ちの悪い苗の様子などから微かに聞こえる地球の悲鳴に、耳を傾けるだけの自分がいます。もうすぐ、田植えです。

 前回は、映像メディアを中心に、マスコミの報道に関する懸念を述べました。テーマからして、本来はこ の ようなスペース(小欄のような)では、語りつくすことはできません。また、浅薄な表現になったり、誤解を招くような記述が出てしまうこともあります。しかしながら、報道の姿勢に対する疑念や念は、誰もが抱いていることだと思います。また、議論されるべきことでしょう。

 本当に、現代社会におけるマスコミによる報道が、我々の生活や価値規範に大きく影響していることは事実です。また、人々の行動の指標とさえなっていることについては、異論を挟む人はいないでしょう。だからこそ、そのありかたや方向性について、関心を持たざるを得ませんし、現状への不満や懸念が湧いてくるのも仕方がないことだと思います。

 むしろ私は、そのような感覚を持たないことの方が、危険なことだと考えています。一方、そんな私の中にさえ、「見たくないものは見たくない」というような、疲労感に似た感覚が澱のように溜まっているのも事実です。本当に、ユリウス・カエサルが言ったように「人は、自分の見たいものしか見ない」のだなぁということを、実感しています。冒頭に述べた、事象のメタファー(暗喩)への反応もその例だと思います。

 例えば、近頃の政府関係者の北朝鮮への訪朝の話題や、従軍慰安婦等に関する橋本発言への対応などを見てもそうですが、視聴率や「うけねらい」を念頭においた報道ばかりが目につきます。また、大局的な視点や、「正義」という言葉をはき違えているような報道姿勢も、数多く見かけられます。それらは、概ねワイドショー的な番組において見かけます。気が付けば、チャンネルを変えている私がいます。

 私は、テレビはニュース番組だけで良いのではないか、と、いう位に考えています。また、娯楽番組において時事問題や社会問題を取り扱うことに、大きな疑念を抱いています。さらにいえば、今日のような視聴率獲得に縛られた中で、面白おかしく社会問題や時事ネタを取り扱うことについて、嫌悪感さえ感じています。

 だから「気が付けばチャンネルをかえる」ということになるのだと思います。もちろん、エスプリの効いた会話や洒落た風刺に溢れた番組などは、大いに見たいと考えています。しかしながら、気の利いた洒落や風刺は、一方で、高い常識を共有する質の高い社会が存在してこそ、成り立つものでもあります。それは、法律に抵触しなければ、何をやっても良いと思う人が多くいる社会ではありません。

 かつての、TVタックルや元気が出るテレビが面白かったのは、それを面白がれるだけの安定した社会常識があったから(言い切れない部分もありますが)だと思います。今日の危険性は、ビートたけしの異端性を笑うのではなく、彼を「常識」の代表のようにオーソライズしようとするところにあるのだと思います。むしろ彼は、権威を押し付けられて、困惑しているようにさえ見えるのです。

 一方で、そのように軽薄な方向に、世間の風潮が推移している背景についても、考える必要があるでしょう。そこには、我々自身の不勉強、或いは勉強することを怠っていることが、内包されているのだと思います。私たちは、このことについて、大いに反省する必要があります。例えば、多様で溢れる情報を吟味し、必要な事柄を選んだうえで、考えるべき問題点を探っていくことが大切です。

 そのような意味からは、「見たいもの」だけを見ている訳にはいかないのだと思います。また、きちんとした自分の意見を持つ必要もあるでしょう。しかしながら、今日の社会において、そのような素養を備えることは、極め難しいというのが実感です。全体が、緩く楽な方向へ流れていく中で、自身を律していくことは中々大変です。

 今の時代を良く見れば、余りにも脆弱で危なっかしい安穏の中で、一部の曲学阿世や小賢しい成功者達によって、弱肉強食化が進んでいるだけのように感じられてなりません。極端にいえば、知識や情報を都合よく駆使する人間達によって、物事を考えない(考えなくなった)人々が支配されようとしている構図が描かれようとしているように思います。

 いつの世も、暗黒の時代には前段や予兆があったはずです。例えば、私たちが平和惚けの中で「まぁ、良いか」を繰り返しているうちに、そんな時代が来ないことを祈るばかりです。

 


 2013  4月 29日      映像メディアへの懸念


 ゴールデンウイークです。とはいえ、地方の兼業農家(死語かも)には、やることはたくさんあります。また、のような細かい農作業や関連施設の整備は、田舎における集落機能の維持のためには、とても重要なことでもあります。

 昨今、メディアを賑わせているTPPなどが進めば、田舎で米など作る人も居なくなり、耕作放棄地はさらに増えてしまうかもしれません。それに付随して、農業用排水路などの維持管理に携わる人もいなくなるのでしょう。結果的に、基本的な生活環境が低下するだけでなく、住む人も減っていくのだと思います。「そこに、何人住んでいるんですか」という言葉に憤慨したことも、きっと思い出話になるのでしょう。

 TPPにしてもそうですが、考えてみれば、そのようなニュースや情報を我々に供給してくれるのが、マスメディアというものだと思います。そのうえであえていえば、メディアというものは、本当に恐ろしいものだと思います。特に、テレビやインターネットというものの持つ影響力は強大で、良きにつけ悪しきにつけ、私たちは大きく影響されてしまいます。

 そして、そのような強大な影響力を持っているメディアに対して、私は、違和感と危機感を感じています。さらに、その傾向(思い)は、残念ながら年とともに深まっていくばかりです。それは、何となく感じる情報操作の可能性から、テレビの娯楽番組における質の低下など、身の回りの様々な場面において感じられるものです。特に、映像を持つメディアとしてのテレビには、失望と危惧を感じています。

 例えば、領土問題・閣僚の靖国神社参拝、或いはそれに関する総理の発言などについて、この国のメディアは、一体どこの国のメディアとして報道しているのか、と、疑いたくなるようなことがしばしばあります。もちろん、周辺諸国等への配慮は必要だと思います。しかし、配慮することと腰が引けたり、或いは、他国に媚諂うこととは違います。

 例えば、先の戦争における戦没者を追悼し、その御霊に哀悼の誠をささげることについて、他の国に干渉される謂れはありません。一方、良く議論の対象となることにおいて、靖国神社におけるA級戦犯の合祀に関する問題があります。これにも、多くの問題が潜んでいます。まず、戦犯の定義というものがあります。それから、合祀・分祀ということについても、考える必要があるでしょう。

 また、戦勝国により行われた、東京裁判というものについての評価もあります(インドのパール判事のような見解もあります)。それ以上に踏み込んでいえば、戦犯とされた人々の胸にも愛国心はあったはずです。例えば、戦没者(戦争の犠牲者という意味の)一人一人の評価を行い、その上で追悼するかしないか決めることは不可能ですし、ナンセンスなことだと思います。

 このように、戦没者の追悼のこと一つにしても、たくさんの問題を包含しています。私がメディアに最も違和感を持つのは、恣意的に隣国のご機嫌を窺うような姿勢もそうですが、もっとひどいと思うのは、ワイドショーでそのようなものを取り上げることです。そこでは、多くの場合、有識者といわれる人々やタレントなどが、訳知り顔でコメントしたりしています。

 ワイドショーという番組の中で、国家にとって重要な問題から痴情に絡んだ事件までが、単に視聴者の興味の対象として論じられていることに、私は、違和感と疑念を覚えざるを得ないのです。本当に、北朝鮮の挑発に関する報道、日本の領土に関する中国や韓国の行動に関する報道、また、それらに対する日本の対応に関する報道などについて、私には、ワイドショーでやる意義がわかりません。

 また、政治に関する報道においても、同様だと思います。視聴率優先としか思えない、政局を期待するような恣意的な報道姿勢も目につきます。一方、正義をかざしながらも、本来取り組むべき社会問題に目を向ける姿勢は、年々薄れてきているように思います。さらにいえば、公正・中立というスタンスさえ、疑いたくなるようなところさえあります。

 例えば、維新の会や橋下氏に関する取り扱い方などもそうです。どうも、情報操作というような気配や疑念さえ、感じているのは私だけではないでしょう。本当に、視聴率が上がらなければ、という理由かもしれませんが、河村氏が再選された名古屋市長選挙のことなど、当選に喜ぶ選挙結果の映像を見るまで、私は知りませんでした。

 怖いのは、そのようなメディアに踊らされて、人々が正しい(と、思われる)方向を見失うことです。テレビもネットも、ちゃんと見なければいけないのだと思います。

                                       
    

 2013  4月 11日      酒席考




 今年も、花は咲きました。そして、何時もながらのことではありますが、桜にかこつけた酒を飲んでいます。厳密にいうと、そう単純な話でもありませんが。増え続けるその機会の調整が、喫緊の課題です。

 つい先日、冷えた生ビールをグゥッと飲み、プファーという息を吐きながら「美味いなぁ」と感じた時、ふと「何時から、ビールを美味いと思うようになったんだろう」と、考えたことがありました。本当に、初めて飲んだ時に感じた「苦くて不味い飲み物」が、何時から、こんなに美味しくなったのでしょうか。あらためて、不思議な感覚を覚えました。

 全く飲めない人は別にして、誰でもそのような経験があるのではないでしょうか。また、強い弱いを別にして、飲める人は、やはり、楽しく酒を飲みたいと思うものでもあるでしょう。一方、そのことを前提としているかのように、大人の付き合いでは、何かといえばお酒の席がつきものです。また、腹を割った話をするために、お酒の力を借りるようなところもあります。私としても、一考せずにはいられません。

 まず、最近の桜咲くという話題では、苦節何年かを乗り越えられ今年合格された方々と、楽しい祝賀会をやりました。岡山にある私のホームグランドといえる居酒屋で、本当に美味い酒を飲みました。さらに、恒例となっているお花見のように、師匠をお迎えして飲む会もあります。それらは、技術士というカテゴリーから派生した飲み会といえるでしょう。個人的には、楽しい夜が多いと思います。

 また、この時期にはつきものの、歓送迎会というのもあります。色々な組織や団体などに、クロスオーバー的に関わっているので、必然的にその機会は増えます。それぞれの分野には、それまで私の知らなかったスキルや情熱を持たれた人がいるものです。そのような人達との出会いと別れを通し、様々な影響を受けて今の私があるのだと思います。有難いことだと思っています。

 次に、おまつりなどのイベントがあります。特に、今月は私の地域における最大イベントである「たかのり祭り」というのがあります。後醍醐天皇と児島高徳の逸話に基づき、作楽神社の春の大祭に併せて行う行事です。年々、盛り上がりを続けており、リピーターも増えています。地域の歴史を再確認し、次世代に継承していくために、地域を挙げて頑張っています。

 そのような、イベントや行事に関する打ち上げというのも、酒席の一つということになるでしょう。今年は、私の所属している自治会において、約半数もの単位町内会の会長が交代されました。新たな顔ぶれの皆さんと、行事やイベントに力を合わせて取り組んでいますが、何といっても、最も効果的に理解を深めあえるツールとして、お酒の席があるように思います。

 それから、我が51会のような同級生の集まりは、楽しく酒を飲むために最も重要な基本単位です。幾つになっても、顔を合わせれば瞬時に当時に戻れることが不思議であり、また、嬉しいところでもあります。社会的な地位や財産などには、関係なく心通わせることができるのは、同級生同士の関係しかないのかもしれません。何時も、同じような話題で盛り上がりながら、楽しく杯を交わしています。

 また、色々な場所に足を運んでの、居酒屋探訪なども趣があります。行動範囲が広がったこの頃では、訪れた各地を歩き回り、居心地の良い酒場や食事処を開拓しています。数を重ねるごとに、勘が鋭くなるのか、はずれることは少なくなりました。使い古されたカウンターの隅に座り、その店独自の肴に箸を伸ばしながら、そこで飲むべき酒を飲んでいるとき、何とも言えない満足感があります。

 そして、私自身の存在と相対してくれているかのような、有難い「濃い友人」を相手に、比較的小さな単位で飲む時が、最もリラックスできる時だといえるでしょう。。各々、多忙さが増していき、回数が減りがちなのが残念ですが、貴重なひと時であることには違いありません。正に、何を飲むかではなく、誰と飲むかが、私には重要な要素になっています。

 考えてみれば、様々な理由をつけながら酒席に臨んでいる(酒席を作ろうとしている)気もします。その一方で、私には晩酌をするという習慣がありません。まぁ、外でこれだけ飲んでいては、家でも同じように飲んでいると、体が持たないというところかもしれませんが。そもそも、それだけの体力がないともいえるでしょう。実際、家にいる時には基本的には飲みません。それ位で、丁度良いような感じもあります。

 いずれにしても、講題などと称して述べるには他愛もない話です。それでも、これから新たな気持ちで小欄を書いていくに当たり、私の酒に関する考えを述べてみました。少しは、人となりがお解りいただけるのではないかと思います。

                                       
    

2013  3月 21日      お山のお寺



 私にとって、春は花粉の量のとともに、深まるもののような気がします。それでも、公私共に多忙さが増していくのに併せ、年々症状は軽減されてきました。いずれにしても、私も、現代人の端くれであることに違いはないようです。

 彼岸になりました。先日、穏やかな春の陽が注ぐ一日、母方の祖母のお墓にお参りしてきました。そこには、母の希望もあり、割とよく訪れます。春・秋のお彼岸、お盆や暮以外にも、思いついた時に行くという感じです。もちろん、第一義的には母の希望に応えてのことです。が、私は、祖母の眠るお墓のある、お寺そのものも好きなのです。

 母方の菩提寺でもある光傳寺というお寺は、岡山県西部の山間にあります。カルスト台地の、高い場所にある母の故郷には後継者はおらず、既に人手に渡った土地の一部に、母屋や離れ等の建物の跡が残っているだけです。その母の生まれた家から、急峻な山道を一気に下ると、麓の川べりの小さな集落の端に光傳寺はあります。

 光傳寺は、高梁川の支流である成羽川と、石灰岩質の急傾斜の山に挟まれた僅かな敷地にひっそりと佇んでいます。小さな本堂と庫裏が、穏やかに迎えてくれるお寺です。背後の、山の一部を切り開いて、僅かばかりの墓地が設えられています。墓地には、本堂の横手を回って、急な坂道を登っていきます。数段に区切られた墓地の一角に、祖母の小さな墓標があります。

 光傳寺は、我が家と同じ浄土真宗のお寺ですが、大谷派(お東)ではなく、本願寺派(お西)のお寺です。私は、そのような宗派の違いや宗教観に関しては、あまり拘りがありません。むしろ、どうでも良いことだと考えています(心の深奥では無宗教に近いかも)。そのうえで、私がそのお寺に何となく惹かれるのは、住職の人柄に理由があるのかもしれません。

 そう言いながら、言葉に表すのは難しいものでもあります。例えば、温厚篤実と、一言に片づけるには惜しいような感じもします。決して、器用で雄弁でな人ではありません。ぽつぽつと、優しく語りかけて頂く言葉に、何ともいえない優しさと真実味が宿っています。また、老夫婦二人きりの暮らしぶりも、本当に質素な様子です。それでいて、そこには何ともいえない、やすらかな豊さが感じられます。

 私の母の故郷は、広島県と接する山間の村で、大変な田舎でした(お山と呼んでいた)。それでも、夏休みや冬休みなどには、母に連れられてよくいきました。そして、長期間滞在したものです。列車とバスを何度も乗り替え・乗り継ぎ、ほぼ一日がかりでないと行けないところでした(道路事情なども良くなりましたので、今では、車で一時間半位でいけるようになりましたが)。

 列車とバスを乗り継ぎ、最後の急こう配の道をボンネットバスが登りきると、雲海が見える台地の中にいくつかの集落がありまして、中でも人里離れた集落が、母の故郷でした。万屋となっている停留所のお店から、さらに徒歩で数キロ歩いたと思います。平らなところは本当に少なく、田んぼになっており、あとは、傾斜地の畑でタバコ等が栽培されていました。

 そして、そこに住んでいる(いた)人々は、本当に穏やかな人ばかりでした。祖母とは、反対に早く亡くなりましたが、お人よしで器用貧乏の祖父が、発動機などをいじっていたのを覚えています。生き馬の目を抜くような環境で育った父が、縁あってそこを訪れ、囲炉裏端などでの祖父をはじめとする、大人数の家族との交わりを通して、母を伴侶に求めたことも、今なら頷ける気がします。

 もちろん、多様な人達が暮らしていたのでしょうが、少年の頃の私には、本当に穏やかな人達ばかりが住んでいるように感じられました。多感(であったと思います)な私が、心から安らげる場所であったのだと思います。そして、そのような穏やかな人達の心のよりどころとして、光傳寺は存在し続けていたのだなぁ、と、改めて思います。

 高度経済成長期であった頃でさえ、過疎化が進んでいた山里です。今は、住む人も本当に僅かです。母の生家も、微かな面影が残る住居の跡を残し、比較的大きな規模で畜産などの農業経営をしている人が、かつてのたばこ畑などを牧草地などに利用しています。その、山の上での変化なども、泰然自若として眺めながら、光傳寺はあの場所に佇み続けて来たのだと思います。

 ただ、気がかりなのは、穏やかなご住職の後継者と思われる人の姿が見られないことですが、いつまでも、心を癒されるお寺であり続けて欲しいと願うばかりです。
 



2013  3月 7日          変 革 期



 いつの間にか、3月になってしまいました。先日、晴れた日に表に出たときに「春がきているな」と感じました。動きたくないような寒い日もありますが、確実に春はそこまで来ています。

 ともあれ、相変わらず多忙にしています。「志」に基づき、決意していくことによるプレッシャーを含め、やや沈滞気味で鬱屈していた雰囲気を変えるため、新しいHPビルダーを購入しました。しかしながら、私の方の勉強不足もあり、適応できておりません。したがって、中々更新も進んでおりません。また、当分は旧バージョンとの併用というか、おかしな状況でコラムを書いていくことになるかもしれません。

 そんな中、嬉しい話題もありました。今月、4日の合格発表の後、お手伝いした人達の合格の報告を頂きました。現在では、数少ない「支援したい人」達であったので、喜びもひとしおです。それぞれに、長い間苦労されてきた方々でしたから、本人の喜びと感慨は、計り知れないものがあると思います。私も、二十世紀最後の試験で合格した日のことを思い出しました。

 ついこの前のような、昔のことのような不思議な気持ちですが、あの時の喜びと感動は忘れるものではありません。今から考えても、そのことにより、その後の人生や生き方が変わったように思います。また、技術士となりで会うことの出来た多くの人々から、貴重な体験や多くの知識、また多様な価値観の有り様などたくさんの影響を受けたことを、本当に有り難く思っています。

 そもそも、技術士受験などが無ければ、私がこのようなHPを立ち上げることはありませんでした。西暦が2000年になる以前では、受験すること自体がかなり大変でした。参考とする図書や文献も少なく、受験を支援してくれるHPなどもあまりありませんでした。そのような苦労を通して、私と同じような組織もコネもない地方の技術者を念頭に置き、支援が出来ないかなと考えてこのHPを立ち上げました。

 
 最初は、本当に誰でもウエルカムという風にやっておりました。しかしながら、そのうちにインターネットのような「顔の見えない」やり方に疑問を感じるようにもなりました。さらには、その奥に潜む日本人そのものの「質の低下」というようなものを感じるようにもなりました。そのことは、「それが時代の流れ」という風潮もありました。しかし、私の感性は、単に時代の流れで片付けられない質のものでもあったのです。

 そのようなこともあり、さらには、師と仰ぐ人の言葉もあり「顔を見る」ことの大切さや、支援する対象を吟味することへ傾注するようになって行ったのだと思います。それは、自治会を含めた公人的活動が多忙になっていくのと、比例していたのかもしれません。今考えれば、それで良かったのだと思っています。それが、自然の流れであったように思います。

 一方、世の中には自身が好むと好まざるとに関らず、やらなければならないことややるべきことがあるのかもしれないなどと、考えるようにもなりました。そのように考えると、この十年間やってきたことも間違っていなかったのかなぁ、と、頷けるような気もします。いずれにしても、信長なら「下天」を終えた50の齢を超えて、本当に何をすべきかということを、考えずにはいられないのも事実です。

 例えば、技術士になれば良いのではなく、なって何をするのかだということを考えるべきだと思います。しかしながら、信条としてそのような志を備えている人、或いは備えられる可能性がある人は少なくなりました。それは、単純に、私が出会う人の中に占める割合が減ったということでもないと思います。反面、小賢しく要領の良い人は、本当に増えました。

 以前にも述べましたが、非常識が増えればそれが常識となり、それまでの常識は非常識となる、と、いうことだと思います。かといって、ぼやいているばかりでもいられません。これは、自治会活動などを通して言い続けていることですが、大人に期待できないのなら、良い子(色々ないみがありますが)を育てて、その良い子に良い大人になってもらうしかない、のだと思います。

 あいも変わらず、そんなことを仲間と語り合ったりしています。もちろん、大抵は杯を片手にした赤ら顔の状態ですが。それは、多忙な日常を抱え数こそ減りましたが、充実した一時でもあります。また、段々飲まなければいけない席の方が、飲みたい席よりも増えていく中、大切な時間でもあります。今後も、別れや出会いの場を含み、また桜の季節を迎え、幾度もあるでしょう。

 とにかく、シンプルに「世の中の役に立つ」ことを考えていきたいと思います。そして、心につぶやいて確認できるかどうかでもあるでしょう「これで、良いのだ」と。


2013  1月 16日          年頭に思うこと



 松が取れましたので、新年の挨拶は省きますが、本年も、よろしくお願い致します。
各地から、豪雪や寒波に纏わるニュースが伝えられています。結構、寒い正月ですね。

 例年よりは、過酷さは軽減されたのだとは思いますが、それでも多忙なスケジュールをこなす正月に変わりは、ありませんでした。お酒も夜更かしも、身体が自然に限度をわきまえてしまう年齢になってしまったことが、極度な体調の落ち込みを防いでくれています。一方で、そのことが一抹の寂しさを覚えさせる所以ともなっています。

 荒れた年の暮れの雑感で、鬱屈した精神状態の中で、それでも、余生を鑑みながら目標を模索している気持ちを述べました。まさに、今の私はそのような状況下にあります。とはいえ、ここまで熟慮してきた思いは、年末・年始に催される行事等に際して、公に表明することになるのが、必然的な流れでもありました。今いえるのは、ここまでですが、解る人には解ると思います。

 それにしても、そのような決意をしていく過程において、本当に煩わしい思いもたくさんしました。また、人の醜さや嫌な部分もたくさん見ました。それだけでなく、ここまで私なりに通してきた筋や、為してきた正義に対する反発・反動なども、是非もなく味合わされています。本当に、小さな地域社会の光景ですが、道理を引っ込めさせるような無理は、むしろ一際顕著に現れるような気がします。

 何が正しく、何が間違っているのかさえ、解らなくなるようなことばかりです。それだからこそ、考え方をシンプルにしておく必要があるのだと思います。それは、以前から考えていたことなのですが、今、尚更強く確信していることでもあります。そのように考えると、自分に求められていることと自分が為すべきことの重なる部分が、大きくなって来たのだとも思います。

 いずれにしても、年頭にあたって大きな決意を固めたことは事実です。これから、さらに多忙で厳しい生き方をしていかなければなりませんが、葛藤する日々よりは楽なような気もします。とにかく、シンプルに「世の中の役に立つ~」をやっていきたいと考えています。当然ながら、これまで通してきた筋は通していきたいので、進んでいく道が険しいことについては、覚悟を強くしておきたいと思います。

 そのようなことも考え、小欄についても見直していく必要があるのだと思います。以前にも述べましたが、技術士受験の支援という当初の目的は、半ば達成されたのだと思いますし、半ばは不要になったともいえるでしょう。また、その中で私のモチベーションも変わりました。一方で、この国の状況も大きく変わりました。技術者自身が考える技術者像も、変化したのだと思います。

 また、かつての常識が非常識に変わるような、社会的な変化も感じられるようにもなりました。それは、私が時代に取り残されているのか、時代が私の価値観を理解できないのか解りませんが、そのように語ること事態が虚しい気もします。とかく、不条理とか理不尽などという言葉が、どうしても胸に浮かんできます。

 そのように言ったところで、同じ不条理とか理不尽という言葉であっても、語る人によって重さや深さが違うことも事実です。シニカルに笑ってみるしか、術が無いのかもしれません。元々、このような独り善がりの文章などを書いて、何かを誰かに伝えたいなどと考えること自体に、どれ程の意義があるのかといわれてしまうかもしれませんが(それこそ、冷笑されながら)。

 新たな年の始まりに、固めた決意などを述べています。それでも、明るく弾むような文章は書けません。小欄の、方向性についても同様です。しかし、厭世的なぼやきや、嘆きの捌け口にしたくもありません。今は、折れそうになる心を支えるため、静かなる闘志を暖め直しているところです。何とか、自身が生きていくための糧とすべく、そして、もがいた痕跡の標として書き続けることができれば、良いのかなぁと考えています。

 どのような、形になるかはわかりませんが、OSの変更やPCの更新などにあわせて、小欄については大幅な変更を考えています。いずれにしても、考え方や生き方をさらにシンプルにして、余生に取り組んで行こうと思います。そして、いつでも「我が成すことは、我のみぞ知る」といえるように、また、自分自身に言い聞かせながらやっていこうと思います。

 龍馬より、20年以上長らえてさえ、言い切る自信もありませんが。

 

 2012  12月29日          荒れた年の暮に


 
 

 
急な選挙と、大きな模様替えの後は、急激な寒波の到来となりました。「世の中、一寸先は闇」などと軽くはいいますが、本当にそうだなぁとも思います。まして、この歳になれば。そして、私にとって試練の多かった年の暮には……。

 昨年は、未曾有の大震災が起こりました。それは、それまでの価値観や、人生観を変えるような出来事であったはずですが、そんなことは、もう無かったことのように生きている人が、多いのも事実です。復興などというけれど、そのあゆみは緒にも着いていないというのが、現実ではないでしょうか。荒涼とした被災地の光景や、原発の惨状に関する映像が、放映される機会が減っただけのように思います。

 思えば、「放っておけないこと」をやり続けてきただけのつもりであった私の生活も、公の立場のウエイトが次第に増して行き、さらにその傾向が強くなってきました。「世の中の役に立つ」ことの具現化の方向性も、考え直す時期に来ているのだと思います。そして、これから先の人生で、何が出来るのかということを念頭に判断し、決意していかなければならないこともあります。

 さて、荒れた年と表題しましたが、岡山(倉敷)でも大事故がありました。私個人としても、荒れた年であったと思います。新年早々から、手がけていた仕事に関する道義的な失望と、それに対する対応に追われる中、親戚の葬儀、地元町内会関係者の葬儀が続きました。また、その間を縫うように、地域の懸案事項が多くの重要な判断を求められる状況にもありました。

 さらには、このようなところには詳述できないような、ややこしい問題が次々と発生し、否応無くそれらに深く関与しなければならない状況も出来ました。その一つ一つが、非常に大きな責任とリスクを伴うものばかりでした。まだ、継続している問題が幾つも残されています。もちろん、公の人として何が最良なのかを模索しているつもりですが、責任が重いことに変わりはありません。

 だからこそ、相変わらず長いものに巻かれる人が多く、その場しのぎの事なかれ的な空気の中で、正論を吐く姿勢だけは貫いているつもりです。一方で、直球だけでは事を成すことが出来ないことも、随分知らされましたし、学習してきた一年でもありました。しかし、具体的な事象に触れることが出来ませんので、厭世的なぼやきにしかならないことも残念です。

 一寸先は闇ということからいえば、つい先日、高校の同級生が急死しました。亡くなる前日に電話を貰い、葬儀が行われた日の翌日に会食する予定であったので、そのことについて話をしたばかりでした。「楽しみにしている~」という電話の声が、今でも耳から離れませんが、愛嬌のある笑顔は戻ってきません。棺に納められた彼は、まさしく本人でした。

 夏に、51会(同級生の会)メンバーで、泊りがけでゴルフに行ったときの写真などを整理・編集し、喪主であるご長男に手渡しました。普段は、大勢の中ではあまり目立とうとしなかった男が、皆で肩を組んで「同期の桜」を唄った時に、しっかりマイクを握っていたことを改めて確認しました。事故の前日の電話といい、何かを感じずにはいられません。本当に、人生の無常と儚さを、強く感じています。

 とはいえ、人は生きている間は生きているし、何かをしなければなりません。もちろん、何もしなくても時間は過ぎるし、死に向かって生きていることには、変わりはありません。誰も、明日のことなど保証されていないのです。あまりにも利己的な人達や、それを許す無気力な人達や、ただ生きていれば良いという無気力な人達を周囲にたくさん見る中で、虚無感と無力感は深まります。

 その一方で、「何かしなければ」という思いも湧いてくるのです。自分の弱さや無力さを感じれば感じるほど、微力ながらも出来ることがあるように思うようになりました。その思いは、公の視点というのか、物事の判断をシンプルにしていく中で、深まってきたものでもあります。それは、この十年足らず取り組んできた「ほうっておけない」ことへの取り組みの中で、醸成されてきたものだと思います。

 それでも今年は、小欄の最初にお話したエピソード(技術者として生きる方向性を教えられた)の「恩師」と連絡が取れるようなこともありました。また、通年のように友と語らい、師と杯を交わし、行きたい場所や酒場を訪れ、見たい映画や本を読み、囲碁・将棋の興味を満たし、胸を熱くするスポーツシーンや、ボクシングの好試合をたくさん見ました。良いことも、あったのだと思います。

 本来なら、夫々に関する感想やエピソードなどを披瀝し、思いを伝えるコラムとして叙述すべきだと思います。しかし今は、「書けない」ことの多かった一年を振り返りながら、このような文章を綴っています。また、小欄については、そろそろ区切りではないかと考えています。一方で、別の形での再スタートも模索しています。いずれにしても、静かなる闘志と持つべき志だけは、失いたくないとは考えています。

  今年も、お読みいただいた皆様、良いお年を。


2012  11月22日          振り返れば世は変わり……

 
 



 
めっきり、寒くなってきました。関らなければならない行事が増え、目の前のことをこなしているうちにあっという間に時が過ぎている、と、いうのが正直なこの頃の感想です。

 そのような生活の中で、ほぼ2週間に1回のペースで小欄を綴ってきました。本当に、徒然なるままに、思いつくことを書いて来たように思います。殆どの場合、PCの前に座りキーボードに手を添えれば、自然に言葉が出てくる感じでした。スポーツを通して、囲碁・将棋等を通して、或いは映画や本の話題を通して、また身近な体験を通して、私の中に内在している思いは文字となって出てきたように思います。

 そして、ある時は思いの方が熱すぎてから回りしたり、また別のときには、いいたいことが上手くまとまられずぼやけた文章となったりしていたと思います。文字通り、独り善がりな小欄であったと思います。それでも、何となく抱いている思いを、ある程度は形にできていたようにも思います。ところが、この頃「まぁ、良いか」と思ったりします。また、「自然に言葉が出てくる」感じが減りました。

 一言で言えば、疲れているのでしょう。それは、取り巻く環境の変化や、それに併せて増大していく人間関係など、忙しい日常に大きな要因があるのだと思います。しかし、それだけではないものがあるのも、何となく感じている自分もいます。人生などと、大きな話ではなくても、生きていれば考えることはたくさんあるでしょう。

 言い換えれば、ここまでしてきたことと、これからしていくべきことなどについて、考えるような年齢になったのかもしれません。例えば、若くて時間がたくさんある時には(実際には、保証されている訳ではありませんが)、おぼろげな目標や希望はあっても、切実に将来を考えたりしない(考えられない)ものです。ここに、「少年老い易し、学成り難し」があるのだと思います。

 私の場合にも、自身の中では3年後・5年後を意識して、勉強や取り組まなければならない課題にあたってきたつもりですが、ちゃんとした人の目から見れば、殆ど成り行き任せで生きて来た人生に映るのだと思います。とはいえ、そんな私ですが、小欄で綴ってきた「世の中の役に立つ~」を考える時、与えられている時間の短さに気付くようになったといえるかもしれません。

 だからこそ、「書けない」ことが増えてきたのかなぁ、と思っています。いや、単に疲れているだけなのかもしれませんが、書けないことが増えたように思います。そして、無理をしたくないと思うようにもなりました。このことは、気付かれている人が多いかも知れませんが、最近では書けない時は書かないことにしています。無理を、しないことにしました。

 考えてみれば、定期的に更新するために書いているのではなくて、書きたい何かがあるから書いていた筈でした。「これで、良いのだ」と思うと少し楽な気持ちになりました。その上で、小欄を書き始めた頃のことを思い出してみました(どのようなことであっても、それが始められた時は善意に基いていたはずである、と、いうカエサルの言葉に準じて)。

 先ず、第一義には自身が苦労したこともあり、技術士受験に苦労されている人達を、すこしでも支援したいということがありました。それから、技術者として持つべき志や精神の伝承が、後に続く世代に対して出来ないかということを考えました。そして、当HPを通し色々な人をお手伝いし、また様々なやり取りを通じて感じたことは、時代と共に変わり行くこの国の人々の、価値観の変化ということでした。

 私達が、子供の頃から当然のように教えられ、育んできたはずの「日本人の精神性」が失われていくことを、つくづく感じるようになりました。「自己責任」の下に他者を押しのけ、小賢しく立ち回ることを「出来る」こととはきちがえた「底の浅い」人が増え続ける中で、私の虚しさは深まり続けて来たのかもしれません。小欄で述べる内容も、変化してきたのだと思います。

 それはこの国が、建設部門でなくてもどのような部門であっても、手に職を着け、或いは技術を磨けば「やっていける」国でなくなってきたことと相関関係にあると思います。「世の中の役に立つ~」はちゃんとした世の中であることが前提であるべきです。それは、働かずに(汗をかかずに)大金を稼ぐことを賛美するのではなく、働くこと(額に汗して)を誇りに思える人の方が多い世の中ではないでしょうか。

 
 

2012  10月29日          グッドラストファイ




 
ようやく、晩秋の趣を感じるようになりました。とはいえ、昼は暑く朝夕は寒いという変てこな日々に、適応しきれない脆弱な自分を嘆く日々に変わりはありません。

 さて、前回は久しぶりに読書の話題をとりあげました。ということで、今回もしばらくぶりにボクシングの話をしてみたいと思います。今年も、オリンピックで村田選手がミドル級の金メダルを取るなど、ボクシング界における話題はたくさんありました。個人的には、何度ビデオで見てもパッキャオがブラッドリーに負けたとは思えないので、ボクシングにおける判定の難しさを感じています。

 件の判定に関しては、ボクシング関係者の間でも物議を醸しましたが、当のパッキャオ陣営はブラッドリーとの再戦ではなく、マルケス戦を選択したようです。12月8日に行われるようですが、やや残念な気持ちもします。ボクシングの判定ということでは、ヒールとベイビーフェイス(ホームとアゥエイ)という図式や、選手の人気度、会場の雰囲気などが大きく影響します。

 そして、私がいつも思い出すのは、ハグラーVSレイナード戦の結果です。自身の思い入れを除いても、あの試合はハグラーが勝っていたと思います。私が、執拗にそのことに拘るのは、判定結果が選手の人生を左右するものだからです。シュガーレイといわれ人気者であったレイナードと、たたき上げの感がするハグラーの、その後の人生を比較すればよく解ることです。

 ボクサーは、試合に人生をかけているのです。したがって、その判定は厳正でなければなりません。また、それを報道する姿勢も、公平でなければならないと思います。もちろん、自国選手にエールを送り、応援する姿勢などはあってもかまいません。しかし、いざ試合となれば、中立な視点を持って中継する態度が求められると思います。そのような意味からも、日本のメディアのあり方に首を傾げたくなります。

 そのようなこともあり、また、より質の高い試合を見たいので、私はWOWWOWエキサイトマッチを見ています。世界的視野から、質の高いボクシングの試合を選び、放送しているからです。最近では、ドネアとのスーパーバンタム級統一選に挑んだ、西岡利晃の試合が印象に残りました。同チャンネルでは、彼のドキュメント番組も放送しましたので、西岡選手のボクシングに取り組む姿勢も紹介されました。

 月並みな言葉ですが、試合後彼の語った「やれるだけのことはやった」という言葉は、本当に胸を熱くさせる感動と、何ともいえない清々しさを感じさせるものでした。早くから才能を開花させ、脚光を浴びるものの、けっして順調なボクシング人生とはいえなかったのだと思います。そして、日本タイトルを取り世界ランカーとなり、あの辰吉を2度KOしたウィラポンとの4度に渡る死闘を繰り広げます。

 しかしながら、初戦は判定負け、二度目が三者三様の判定で引き分け、この結果を受けすぐ再戦が組まれましたが、アキレス腱断裂により取りやめになりました。その後、一年以上リングから遠ざかる辛酸をなめ、改めて挑戦した第三戦も三者三様の引き分けでした。期待された最後の第四戦でも、流血により苦戦を強いられ大差の判定負けを喫しています。

 その後、五度目の挑戦で世界チャンピオンになるまでの4年半は、他者が軽々に語れるようなものではなかったのではないかと思います。時々、エキサイトマッチに取り上げられ、メキシコでの試合なども見ましたが、左ストレートにどんどん磨きがかかっていく様子は感じておりました。何よりも、真摯にボクシングに取り組む姿と、クリーンなファイトスタイルはとても好感が持てるものでした。

 例えば彼が、日本の中でだけ活動し、日本で相手を選びながら試合をして来たのなら、今のような高い評価は得られないでしょう。何といっても、敵地メキシコで指名挑戦者ジョニー・ゴンザレスを破り、ラスベガスでマルケス(※ラファエル・マルケス、ファンマヌエル・マルケスの弟)を文句なしの判定に下すなど、世界共通のものさしの中で戦い続けてきたことが評価されるのだと思います。

 だからこそ、ペーパービュー契約が成立し、カリフォルニア州カーソンに7千人以上の観客を集めた「メインを張れる」選手になれたのだとも思います。もちろん、相手の「フィリピーノフラッシュ」 ノニト・ドネアが、素晴らしい選手で圧倒的な人気を博していたこともあります。しかし、西岡利晃こそが、その対戦相手として、現時点で最も期待されていたということです。残念ながら、9回TKO負けとなりましたが、クリーンで本当に気持ちの良い試合でした。

 試合後の、西岡選手の何ともいえない表情に、彼のここまでの努力や取り組みが現れていたように思います。まさに、グッドラストファイトだったと思います。改めて、ボクシングは素晴らしいと思いました。


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