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NO.28

2014 2月 19日     誇り高く生きよう

             

 春は名のみというべきか。それとも、新暦なので2月は冬で当たり前なのか。いずれにしても、一際寒さが身に沁みるのは、私の精神の内情に由来しているのだ、と、今は素直に思えるようになりました。

 本当に、一寸先は闇というのか、世の中は色々なことが起こるものだということを、今更ながら強く実感しています。実は、小欄を更新していない間、当市の市議補選に立候補していました。市長選挙と同時に行われたもので、当選しても任期はあと1年2か月しかありませんでしたが、私には、補選でなければならない理由と意味があったからです。

 それは、これまで自治会長として唱え続けてきた、議員定数の削減という提言を実践するには、約8万5千人の有権者に補欠選挙を機会にそのことを訴え、それに見合った得票を得て議会に乗り込む必要があったからです。他にも、立候補を決意した理由はあります。衰退していくばかりのこの町の現状を変え、住民の想いを形にしていくには、政治の変革が必要だと考えたからです。

 結果的に、私は落選しました。約2万票を獲得しましたが、600票程の差で何度も選挙に出るので有名な、ベテランの人に敗れました。元々、激烈と言われた市長選挙と同時に行われたことが、大きな要因だといわれています。さらに、そもそも私自身に由来しない理由や、或いは様々な不条理なエピソードも教えて貰いました。いずれにしても、私の力不足としか言いようがありません。

 その上で、少しだけ語らせて貰えば、何とか変えたいと思っていた、この町の人々の政治への意識や関心の低さに対して、驚きと恐ろしさを感じているところです。現職に対して、新進気鋭の県会議員が挑んだこともあり、激烈といわれた市長選挙にも関わらず、投票率は前回を下回り56%台に留まりました。また、何よりも情けないのは市議会議員補欠選挙に関する無効票(殆どが白票)が7千票以上もあったことです。

 そのことに関しては、立候補した私のアピール不足もあるでしょうが、広報的にも全くと言ってよいほど補欠選挙の周知をやらなかった行政当局にも大きな責任があると思います。また、当方も度重なる取材を受けましたが、具体的には殆ど記事にしなかったマスコミにも、責任の一端があるように思います。本当に、過熱しているといわれた市長選挙に関する記事以外は、皆無という状況でした。

 もちろん、私自身の取り組みが甘かったことが全てであり、全ての責任は私にあります。一方で、社会的信用や政治家としての資質等よりも、知名度やひらがなでの候補者名の提示(単に、書きやすい)、違反すれすれであっても数か月前から車で名前をアナウンスすることや、各戸にビラを配ること等、「上手く選挙をやる」人間の方が、目的を達成したというのが現実であったようです。

 とはいえ、上手(小賢しく)に選挙をやるというだけで、当初は泡沫といわれていた人に2万を超える票が入らないことぐらいは、いくら初心者の私にも解ることではあります。しかし、これ以上は文字にしたくありませんし、語る必要も無いのだと考えています。いずれにしても残念なのは、定数削減をはじめとする、本当に改革しなければならないこの町の政治改革に、着手する機会が大きく遠のいたことです。

 苦杯をなめた選対の人々や支援者の方々は、1年後を目指して頑張ろう、リベンジだなどといいますが、もとより1/28の議員になりたくて立候補を決意したわけではありません。何度も言いますが「議会の皆さん市民からこれだけの声があるのですよ」と、結果を突きつけて行う改革でなければ、効果が薄いと考えての決意でした。そのことが、私自身のことよりも残念でなりません。

 しかしながら、過去は変えられません。変えられる未来に向けて、できることをしていかなければならないのも現実です。幸いにして、この選挙を通し多くの心ある方々と知りあることも出来ました。また、私に頂いた「この町を何とかしてくれ」という約2万人の期待にも、応えていかなければならないと思います。そのことが、折れそうな心の支えでもあります。

 とにかく、当選するためには志を隠してでも謙虚さをアピールし、情に訴える取り組みをするべきだとか、全市を変えるような大きな話をせず、地域への利益誘導も語れなどとたしなめる人もいます。また、これまでのいきさつを全て飲み込み、正道のために切り捨てた胡散臭い人とも関係を修復すべしなどと、様々な「次回当選」へむけての提言も頂きました。本当に、政治の道を志すならば、したたかさが必要なことが良く解りました。

 しかしながら、私自身は何があっても筋を通す生き方は変えられませんし、変える気もありません。これまで、そんな人がいないなら、初めての人になれば良いと思っています。もちろん、謙虚な気持ちを忘れずに、弱者の目線を大事にすることは、今まで以上にやっていきたいと考えています。その上で言えば、これからも、正しいことを当たり前にやっていきたいのです。

 そして、胸を張って前を向き、誇り高く生きていきたいと考えています。


2014 1月 22日     惜別の詩



 大寒を迎えました。一年で一番寒い時候といえるでしょう。慌ただしく駆け回る身には、寒さもひとしおです。ともあれ、今はただ、できることをこなしていくばかりです。

 一月はいくとか、二月は逃げるなどとよく言いますが、本当に時間の経つのは早いものです。予定された行事をこなしているうちに、一月も下旬となりました。今年も、自治会の総会が一通り済みました。田舎では、正月にみんなが集まって初集会というのを行い、通常、この初集会を総会としているところがたくさんあります(行政サイドからは、4月~3月に改めるよう促されますが)。

 私の支部では、12町内会長が留任なのかなぁと思っておりましたが、2町内会で会長さんが交代となりました。お1人は、そもそも急きょ就任され年齢的なこともありましたので、そうかもしれないと思っておりました。しかし、もうお1人については意外な展開であったように思います。それは、知らぬ間に私自身が、側に居て頂くことが当たり前のように思っていたからかもしれません。

 「側に居て~」と述べましたが、本当に、私が支部長(当市には、366の町内会があり、それが44の支部に所属しており、私の支部もその一つで、12の単位町内会が所属しています)になってからの8年間、その支部長になるいきさつも含め、その方には支えて頂きました。以前にも、闘いの連続であったことについては、何度も述べたと思います。その過程を通じ、本当にお世話になった人です。

 考えてみれば、私がその「支部長」なるものになったのが40代後半でした。以来、山積する課題を相談し、何時も後ろ盾として支えて頂くことになりました。その人(仮にOさんとしておきます)も、60代半ばであったということになります。本当に、色々なことがありましたので、わずかな紙面では語りつくすこともできませんし、筆舌に尽くしがたい難題の連続でしたので、具体的なお話はできません。

 しかし、当時は地域住民の声を代弁していたとはいい難かったわが町の自治会を、今日のような民主的なものに改革できたことは、この度その職を辞された隣町内会のO会長さんのご助力が無ければ、成し得なかったことだと思っています。民主的などと言えば大袈裟ですが、本当に今は、地域の人の声を形にするという意味では、市内でも最も充実している地域に変貌したと考えています。

 人望の厚い方ですから、お仕事の方でも中々「離してもらえない」こともあるようです。まだまだ、教えて貰わないといけないことや、たしなめていただかないといけない場面もあることは解っています。しかしながら、いつのまにか私が50代後半になっているように、Oさんも70代を迎えておられたのです。出る機会の多いというか、行事や会議が本当に多い役職ですから、疲れも溜まっていたのだと思います。

 側聞ですが、人間関係などという面において、残念な思いもされたのではないかと思います。そういえば、この度交代されたもう一人の全町内会長さんが「この場に出てこなければ解らなかった」というように、町内会長の仕事は多忙でハードなものでもあります。やっている人を揶揄するようなことは簡単ですが、自身がその立場にならなければ、真の意味の苦労は解らないのではないかと思います。

 Oさんは、若い頃からダンディな風貌でした。粋な風貌は、それ程の衰えも感じませんが、それも、側に居続けて気づかなかっただけなのかもしれません。総会の後、毎年恒例として新旧役員の歓送迎会を兼ねた懇親会が行われます。中締め前、勇退されるお二人に謝辞を述べましたが、Oさんとの思い出を述べているときに、涙がこみ上げてきました。

「大人が涙を流す」ことを初めて教えてくれた先輩から慰めて頂きましたが、正しい(と思われる)道を貫いていくことの厳しさと辛さが、改めてこみあげてきたのだと思います。もちろん、Oさんにはこれからも教えて頂かなければならないことありますし、お世話になる機会もあるのだと思います。しかし、ひとまずは「お世話になりました」とお礼を申し上げる他ありません。

 どちらかというと、私は、辛いことや厳しい状況下でなくことはありません。私が涙を流すときは、いつも情に絡んだ場面だと思います。そしてまた、どちらかというと私は、受けた恩とされた仕打ちは忘れない方であると思います。考えてみれば、これまで酷い仕打ちは何度も受けましたが、それで涙を流したことはありません(もちろん、地縁血縁の情を断ち切らされるような悲しい涙はありますが)。

 むしろ、私にとって涙は人としての情愛に満ちた恩愛に触れた時に、こみあげるものかもしれません。

2014 1月 6日     年頭所感



 あけまして、おめでとうございます。雪もなく(当地方)、寒さもそれほどではなく、比較的穏やかな正月となりました。特に今年は、身が引き締まる思いの新年祭(1月2日:作楽神社)でした。改めて、決意を新たにしたところです。

 ともあれ、年末から年始にかけての所謂年越しという視点では、やらなければいけないこととやりたいことの両方を、概ねやれたように思います。いつまで、続くのかわかりませんが、この時に合わせて帰省してくれる子供たちを交えた団らんは、我が家に久しぶりの賑やかさを取り戻させてくれました。同じ酒でも、一味美味くなるような気がします。

 また、このところ大晦日の恒例行事となってきた作楽神社の年越し準備に関しても、今年も子供達の力を借りました。それほど大変な作業ではありませんが、親としては嬉しい気持ちを隠しながら、準備に励むこととなります。役員や関係者の皆様のご尽力で、年々、趣向を凝らした取り組みなどもして貰っています。結果的に、参拝客もそれと共に増加しています。有難いことです。

 気の置けない仲間という意味では、今や一年で元日しか牌をつまめなくなった感がある雀友会の面子も、有難いメンバーだと思っています。集中力の問題か、勝ちたいという執念の不足なのか、このところ自分の成績が良くないのが懸念材料ですが、その分、負けても「楽しかった」という充実感は深まったように思います。切り上げる時間も早くなりましたし、皆大人(?)になってきているのでしょう。

 もちろん、今年は挨拶回りが増え多忙ですが、その合間を縫って、或いはダイジェストなどを通して箱根駅伝も楽しみました。東洋大学の優勝は見事でしたが、駒沢大学に勝たせてあげたい気もしました。また、毎年悲喜こもごものシード権争いには、ついつい感情移入し過ぎてしまいます。個人的には、中央大学にシード校復活して貰いたかったですが(白地に赤のCマークが何ともかっこ良い)。

 その他、サッカー天皇杯の横浜マリノス、特に中村俊輔選手の輝きは光るものがありました。彼は、遠藤と並んで代表メンバーに入っても活躍するのではないでしょうか(指揮官の構想や、チームとしてのバランスもあるのでしょうが)。さらに、大学ラグビーにおける帝京の強さも特筆されます。対筑波戦では、やや雑なプレーが見られる場面もありましたが。

 いずれにしても、スポーツに真剣に取り組む人の姿は、私たちに夫々の感動を与えてくれるものです。勝利を得た人も、あと一歩及ばなかった人も、そこに至るまでの努力や苦労は計り知れないものがあるはずです。その人達の、不断の取り組みを慮る時、私にとっては、ソチ五輪フィギアスケートの男子代表に高橋大輔選手が選ばれたことが嬉しい出来事となりました。

 もちろん、彼が選ばれれば選ばれない人も出来る訳ですから、単純には語れないことではあります。しかしながら、三人目の代表メンバーがアナウンスされた時の、あのアリーナの大歓声は、私が抱いている思いが、多くの日本人が感じている気持ちとあまり変わらないことを、物語っていたのだと思いました。どんな時も、人の心をつかむのは理屈では無いのだと思います。

 本当に、人生は理屈や計算などでは、生きていけないものだと思います。そもそも、私には周囲を窺い利に敏く生きるような生き方は、できそうもありません。一方で、筋を通していき続けることも、容易な道では無いのだと思います。改めて、胸中にある静かなる闘志を持ち続けていくことを、自身に命じていかなければと考えています。

 新たな年を迎え、さらに多くの人々と知り合い関わることが増えました。その関わりの中で、他者に思いを伝えていくことの難しさと、理屈や計算などではそれができないことを、さらに強く感じるようになりました。また、何故それ程までにしてくれるのかという、有難い支援や厚情も多くの方々から頂きました。本当に、有難いなぁと思っていますし、人の世の不思議さも感じています。

 例えば、そもそも同じ年に同じ地域に生まれた、と、いうだけの関係でしかないのに、同級生という仲間達から貰っている熱い支援は、何よりも有難く、本当に不思議な力だと感じています。そして、本当に知り合いの知り合いという形でしかないのに、その知り合いの方との人間関係を根拠として、暖かいご支援を頂くこともたくさんあります。まさに、不思議なだけでなく、感謝の気持ちが自然と湧いてきます。

 もとより、「正しいこと」をしていこうと目指す道は、逆恨みなど火の粉を被っていく道でもあります。挫けずに、粘り強く歩いていきたいと考えています。

2013 12月 30日     一年を振り返り一言



 気が付けば、もう師走です。そして、今年も終わろうとしています。目の前の事、やらなければならない事をこなしているうちに、年の瀬を迎えてしまった気がします。

 本当に、そのような感じで、あっという間に一年が過ぎてしまいました。特に今年は、私自身の決意を周囲にも表明し、具体的な目標に向かっての取り組みを始めたこともあり、一際多忙な年になりました。良いこと(嬉しいこと)も、悪いこと(残念なこと)もありました。改めて、自らの未熟さと、人間の心の多様さを痛感しています。

 人間も、齢50を過ぎれば、いくらかでも世の中の役に立ってこの世を去っていきたいと、考えたりするものだと思います。私も、常々そのようなことを標榜しています。しかしながら、その信念は忘れるものではありませんが、志を遂げるためには多くの人の助けや支援が必要になります。どれだけ、理想に現実が乖離しないで生きられるか、と、悩む日々でもあります。

 小欄についても、こまめに更新できない状態が続いています。まぁ、それはそれで仕方ない事だと思います。また、以前にも述べましたが、書けなければ書けないで良いとも考えています。元々、HPを維持するためにコラムを書いているのではなく、伝えたいことがあるから書いているわけです。本当に書きたいことがあれば、どんなに忙しくても、或いは疲れていてもキーボードをたたくでしょう。

 一方、その「疲れ」という部分についていえば、身体的な疲れももちろんかなりあります。しかし、「書けない」ことの理由となる疲労感の大部分は、精神的な疲労が占めるのだということも、いまさらながら実感しています。もちろん、人生経験を積んでいく過程で、適応能力や忍耐力は増していきますが、新たな種類の試練が出てくるのも事実です。

 結果的に、私たちは常に精神的な負荷に対する適応能力を、向上させながら生きて行かなくてはならないのかもしれません。本当に、大変な世の中だと思います。何も知らずに生きてゆくなら、それはたやすいことだけど~という昔の唄が思い出されますが、何も考えず、何も思わずに生きられないのが人間てもあります。ストレスから、人が解放されることもないのでしょう。

 「あれれ」という感じで、ここまで読んで首を傾げている人がいるかもしれません。また、年末というのに、何を訳の解らんことをほざいているのかと、訝っておられる人もいるでしょう。いつもなら、一年を振り返りながら、ボクシングを始めとするスポーツや囲碁・将棋の話題などに言及しているはずなのに、書き出しから続くぼやき的な文章が、予定外に伸びてしまいました。

 もちろん、ボクシングではパッキャオの復帰戦やメイウエザー対アルバレス戦も見ました。必ずしも、その内容や結果には満足していませんが。また、長嶋・松井両氏の国民栄誉賞。高校駅伝女子の興譲館高校の10年連続3位以内や、フィギアスケートの高橋大輔選手五輪選出など、嬉しいニュースもありました。東北は、楽天優勝に沸いていますが、私の中では久々の広島Aクラスが静かなマイブームです。

 棋界では、常に最強手を求める井山裕太の大三冠(名人・本因坊・棋聖)達成という快挙がありました。まさに、一時の羽生善治を思わせる勢いを感じさせます。一方の将棋界では、森内名人による竜王位奪取がありました。渡辺明の、10連覇も見たかった気がしますが、今の森内は本当に鉄壁という感じがします。たゆまぬ研究と努力の賜物といえるでしょう。

 まだまだ、見聞きしたことや、心を動かされたエピソードはあります。本来は、言及すべき事象もたくさんありました。それでも、今年を振り返る小欄は、このようなものになってしまいました。もちろん、ただ疲れているだけではありません。そして、胸に抱いた「静かなる闘志」を忘れたわけでもありません。慌ただしい年の瀬のひと時、ふうっと出たため息のような戯言と読み流していただければ幸いです。

 そういえば少し前、「そんなに、頑張らなくても良いよ」と、かけて頂いた言葉を思い出します。皆、そんなに立派なことやきれいなことを、貴方に期待しているわけではない。大抵の人は、貴方を支持することが、少しでも自分の利益に繋がることを考えている、と、言ってくれた人がいました。それは、張りつめた精神状態の私を、とても楽にしてくれた一言でした。有難いと思っています。

 だからこそ、志だけは貫かなければ…とも思っています。「良い人達」のために……。今年も、私の心のつぶやきを、お読みいただきありがとうございました。それでは、良いお年を。

2013 11月 22日     ボランティア

 

 一雨ごとに、と、いうよりは、急に冷え込んできたという気がします。地方の自治会では、秋祭りや文化祭など秋の行事が目白押しです。当然、酒席なども多くなります。体調維持に気を配りたいところですが、ついつい飲みすぎてもしまいます。本当に、自重が自嘲にならないようにせねばと思います。

 何時のことでしたか、防災に関するイベントの謝辞として、消防団の皆様に対し「皆さんは、最も崇高なボランティアである」というような発言をしました。その際、「俺たちを、ボランティアなどというような軽い表現でいうな~」というようなコメントを、仲の良い消防団の偉い方から頂きました。

 その折には、元々ボランティアの語源は志願兵(因みに、ドラフトが徴兵)というものであって、自ら命がけの仕事をしようとする人のことを指すのだとお話し、偉い方のご理解はいただきました。とはいえ、私自身にして消防団の活動を単にボランティアというのは、何となく軽い印象がするなぁというのが実感でした。

 彼らは、職業としての消防士ではなく、普段はそれぞれの仕事や業務に従事しています。そのうえで、火事や水防などのいざという時には、最前線に立って地域の人達を救助する仕事をするのです。もちろん、そのためには普段からそれ相応の訓練を積んでおく必要があります。さらにいえば、基本的には無報酬でその活動に取り組んでいるわけです。

 一方、ボランティアと聞いて私たちが直ぐに着想するのは、地域の清掃活動や花作り運動などのようなものかと思います。また、おぼろげな概念からいえば、お金を貰わないで他者のために何かをやる、と、いうような感じでしょうか。その時に思うのは、消防団のような地域住民の生命の安全を担うような活動を、そのような「ふんわり」としたボランティアと同様に呼んで良いのかということです。

 その辺りは、何か言葉で表し辛い感覚ではあります。したがって私は、「最も崇高なボランティア」であると表しているのですが、しっくりこないのも事実です。ところで、地方の社会に住んでおりますと、ただそれだけでやらなければならないことがたくさんあります。例えば、町内会活動・消防団や子供会などの活動です。

 また、無形文化財などのような伝統芸能や由緒あるお祭りがあれば、これへの参画がほぼ必須となるでしょう。逆に言えば、地方の社会ではそのようなお互いに助け合う、相互扶助的な関わりをしていかなければ、生活が成り立たないのだと思います(本来は、都会であっても同じはずですが)。だからこそ、地方における町内会活動や消防団活動は、脈々として承継・維持されてきたのだと思います。

 ところが今、消防団に入る若者は減り、自治会などに置ける活動に関しても、大いに振るわないというのが実情となっています。第一義的には、皆仕事に追われ忙しいということです。しかし私には、もっと根深い理由が、感覚として感じられるのです。それは、人間が変わってしまってきているという感覚です。言い換えれば、私達日本人そのものが変わってきているのだと思います。

 例えば今の日本人は、若い人も古い人も自らの権利に関することは、本当に良く知っていると思います。一方で、自身が果たすべき義務や道義的責任については、あまり知らない人が多い気がします。というか、無知を装っているというべきかもしれません。先ほどの、消防団などの地域における活動についても、できるならやりたくない⇒逃げよう、というような心境の人が増え続けています。

 それどころか、子供がいれば当然やらなければならない(やりたくなるはずの)子供会活動なども、親組織である町内会に依存しようとする風潮さえ強くなりました。もっと言えば、町内会長などは「役所の回し者」的な認識を持っている若いお母さんなども見られます。そのような風潮には、享受できるものは受け取るが、極力他者のためには汗を流したくないという心理が内在しているのだと思います。

 正直に言えば、人間の本性などというものはそのようなものかもわかりません。しかし、私たちの祖先が築いてきた地域社会の形態は、それぞれの地域の多様な環境の中で、弱い一人ひとりの人間が生きて行くために、お互いが助け合うことを前提にして構築されてきたものだと思います。そして、それを支えてきたのは、一人ひとりの人間である私達自身であったはずなのです。

 本当に、「人さえ良ければ」何とかなるのだと思います。そのために、少しだけボランティアや地域のことを考えてみました。


2013 10月 25日   人さえ良ければ(その?)




 何時しか台風も、日本に近い海で発生するようになりました。大島では、大規模な土砂災害が多くの命を奪いました。かつて(修学旅行だったと思います)一気に駆け登った三原山の、火山灰の色を思い出しながら、連続して訪れる台風の行方を案じています。本当に、人間は無力です。

 それが、たとえわずかな距離でも、旅というのは良いものです。先日、自治会絡みの研修で丸亀を訪れました。いつも、車の窓から眺めるだけだった丸亀城にも登ってきました。我が国に、僅か12棟だけ現存する木造天守の一つだということです。市内を一望できる石垣の上に、ひっそりと佇む天守は、歴史を重ねた風情をさせます。

 一方、山の中に住んでいる私には、天守から見える港や海の光景が一際新鮮でした。折から、菊花展が開催され、愛好者の方々が丹精された鉢植えや、創作物が展示されていました。またそれらの力作も、僅か一年の間に仕上げられていくことなどを聴き、驚きと同時に舌を巻くばかりでした。無力な人間の、成し得る仕事の大きさも感じました。

 お城の前には、かつての外堀を埋め、その内側にできたといわれる広場があります。市役所から続くその広場は、本当に良く手入れがされている印象でした。実は、今回訪問したテーマも公園などの公共施設に関する、自治会組織の関わり方というものでした。人口規模的に、ほぼ同程度である丸亀市における取り組みの様子を聴くことが目的でした。

 一見して、雑草も生えていないきれいな広場は、多くの市民の皆さんが、自主的に草むしりや手入れを行い維持されているのだということを聴き、まず、私は驚かされました。基本的に、行政はそれを脇からサポートするという姿勢だということもそうでした。私の市にも、立派な石垣の城跡があります。しかし、どれほどの人が、無償でそのようなことをしているでしょうか。自省を含め、その差の大きさを感じました。

 むしろ、声高に行政の担当者を呼びつけ、そして僅かな予算でもむしり取れば、それが「力」のある有力者として巾を利かすというのが、これまで私がこの町で見てきた光景でした。本当に、勉強ができる人や「頭の良い」人が多く、「かしこい」人がたくさんいる割には、簡単な協調もできないというのが、ここで生まれ育った私が持っている率直な感想です。

 丸亀市役所の担当者から、色々なお話を伺いました。そして考えたことは、まず、人間を直さなければいけないなぁ、ということでした。そして直ぐ、その道のりの遠さに気分が重くなりました。考えてみればこの10年、笛吹けど踊らずという空気の中で、自分なりに取り組んできたつもりです。それなりに、良くなってきたところもあります(特に、近い地元では)。

 しかしながら、損得ではなく、故郷を愛する気持ちから自然に足が向く、というような意識の醸成には程遠い住民意識の中にいる身にとって、目の前にその実現を見せられると、困惑が隠せないのも事実です。「地元に帰って、私達はまだまだ頑張らないといけません」、謝辞の中で、そう口にするのが精いっぱいでした。

 そして、今回の研修の中では、市民に寄り添っていくような行政担当者の在り方・姿勢に関する方向性についても、頭の中に想起される気がしました。それは、いつか述べたように「人さえ良ければ」ということなのですが、上手く言葉にはできません。ただ、はっきり言えることは、頭に立つもの(リーダー)がしっかりすれば、行政担当者もしっかりするのだということです。

 仕事柄もあり、色々な自治体や組織を見てきましたが、そのことは明確にいえると思います。もちろん、地域性や住民性はありますが、行政組織などというものにおいては、リーダーの持つカラーや意向が想像以上に反映されるものです。だからこそ、一際襟を正していく必要があるのだと思います。また、私心を排し、公の心を磨いていく必要もあるでしょう。

 台風の接近に気を揉みながら、帰りはしまなみ海道から尾道へ寄って帰りました。思いがけず、「この店は、良い雲古を~」という開高文豪の色紙のある店で昼食を食べました。素材の新鮮さを活かしたうえで、和食の技巧も存分に発揮され、同行者の方々も満足されていました。それだけでも、嬉しい気持ちになりました。尾道は、私の好きな町の一つです。

 何時か朝見た、市役所の前を自主的に掃除されている、職員の方々の様子が思い出されました。

2013 10月 8日   慣れるということ




 朝夕の涼しさに比べ、これが10月なのかというような日中の暑さに閉口しています。そういえば、台風はやたらと発生しているようです。本当に、決まり文句のようになってしまった異常気象という言葉に、慣れてしまうことの怖さを感じています。

 人は、そのように慣れてしまう生き物です。辛いことも嬉しいことも、何時しか慣れてしまうものだと思います。それはそれで仕方がないし、何事にも慣れていかなければ、生きて行き難いのだといえるでしょう特に、悲しいことや辛いことなどを、何時までも引きずっていることは、本当に苦しいことだと思います。そのような場合、「慣れ」なくては仕方が無いのだと思います。

 実際に、私たちは悲しいことや辛いことに慣れる力の方が、喜びや嬉しいことに慣れることより強いのだと思います。スポーツや芸事など、長い間辛く厳しい練習を続けられるのも、勝利した時や喝采を浴びた時の僅かな時間のために、練習の辛さに慣れることができるからなのだと思います。そのような意味からは、残念ながら日本人の気質そのものは、この頃大きく変わったようには思います。

 一方で、先の震災に関することや、汚染水処理をはじめとする事後処理のお粗末さなどに対する感覚においていえば、私たちはけっして「慣れ」てはいけないのだと思います。起きている事象を正確に把握することに努め、現実を注視しながら、日本国民すべてが自分たちができることに取り組んでいかなければなりません。

 また、放射能汚染に関していえば、「風評」も含めて被害なのです。例えば、安全性の確認に関する基準や手法に関しても、明確に納得できるものなど私は知りません。さらにいえば、誰がその安全を保証するか・できるのかについてさえ、曖昧なままだと思います。それでいて、福島で採れたものを「食べなければいけない」という雰囲気の論調をするマスコミもおかしいと思います。

 他方、領土問題などをはじめとするニュース報道などに対しても、私たちは慣れという麻痺を起しているのではないでしょうか。そもそも、この頃の私自身が、そのような「力がいる」報道から目を背けようとする傾向があります。理由は二つあり、領土問題であれば周辺諸国の理不尽さへの憤りと、どの国の味方なのか?というようなマスコミの論調への嫌悪感によるものです。

 そのことは、私自身の心境に由来した感想ですが、現代人の多くは、まさに日々の暮らしの中でさえ、疲れていく自分を生活に慣れさせて暮らしているのだと思います。現実を注視することは、エネルギーのいることです。それが厳しい現実であれば、なおさらのことです。私ならずとも、楽なものばかりに目を向けたくなるのが人情かもしれません。

 大きく言えば、日本人は痛みに強く慣れやすい民族といえるでしょう。阪神・東北の大震災のみならず、先の大戦からの復興過程に見られる窮乏への忍耐と、高度経済成長を支えた向上心と努力が、そのことを如実に物語っています。反面、その慣れやすい資質には、長いものに巻かれてしまいやすい危険性も孕んでいるのだと思います。

 私が、自治会活動などを通して時々感じる不思議な違和感があります。本当に、各個人は多様な意見や主張を持っているはずなのに、強権的なあるいは高圧的な力(それも、ある意味でのリーダーシップといえる)が働くとき、常識を疑うようなことが平然と行わることがあります。例えば、選挙に際して特定の候補者のみを全体で推薦するなど、有力者による恣意的な決議が行われたりします。

 実際には、皆それぞれにその決議を適当扱っていて、大きな問題になることなありません。しかしながら私は、かつて戦争に突き進んでいた時代に見られた大政翼賛会的な、何かいやぁな感覚を覚えるのです。かつての不幸な時代でも、その大きな渦が巻き起こる最初の段階においては、多くの人が私の覚える違和感を感じていたはずです。

 怖いのは、そのことに慣れてしまうことだと思います。坂道を転がりだしたこまは、或いは強烈な勢いで回り始めた嵐の渦は、勢いがついてしまったら止めることはできません。暮らしに追われる現代の生活の中で、私たちは、流されてしまうことに慣れてしまってはいけないのだと思います。むしろ、辛抱強く時代を注視することの方に、慣れていかなければいけないのだと思います。



2013 9月 12日   国・宗教そして人間




 寝苦しかった夜の明け方、くしゃみとともに目をさましてからまだわずかですが、稲穂の色づきは既に秋の色になっていました。収穫の日(一年で一番体のきつい日)を迎えました。

 思えば、あの911テロ事件から12年が経ちました。2600人以上の人が貿易センタービルの崩壊により亡くなり、ハイジャックされた飛行機による主要施設への突入などによる死者を合わせると、3000人以上が犠牲者となりました。ついこの前のことのように思いますが、それは2001年9月11日のことでした。それから、干支が一回りする程の時が流れたということですが、私達人間は何を学んだのでしょうか。

 この同時多発テロを機に、アメリカによるアフガン侵攻が始まります。圧倒的な軍事力を背景に、ピンポイント爆撃なる攻撃を行いましたが、首謀者とされるオサマ・ビンラディンの所在さえつかめない年月が続きました。その間には、誤爆による民間人の犠牲者や、アメリカ軍による捕虜への虐待報道などもありました。さらには、大量破壊兵器の保持を理由にアメリカはイラク戦争へも突き進みました。

 その後も、泥沼のような状況の中で、兵士も民間人も多くの人が命を落とし続けたことは周知のことだと思います。2011年には、オサマ・ビンラディンの殺害が発表されましたが、詳細な内容は闇の中に葬られたままです。本当に、かの首謀者といわれる人物だったのか、また、何故殺害されなければならなかったのか(裁判にかけ、全容を明らかにすべき)など、訝られる点は残されています。

 今では、イラクに大量破壊兵器が無かったことは誰もが知っていることですが、独裁者サダム・フセインを駆逐するための戦争のために、多くのアメリカの若者の命が失われたことも事実です。さらに、罪もない市民(特に子供や老人などの社会的弱者)がたくさん犠牲になりました。大量の兵器による武力行使を、紛争や戦争などと名付けて始められた戦いですが、終わりに関する後味の悪さは隠せないでしょう。

 現在の情勢を見ても、アフガニスタンやイラクが安定した治安を取り戻したとは、誰も言えないでしょう。また、市民が民主主義の恩恵にあずかっている風にも見えません。何が、変わったというのでしょうか。権力者が理屈をこねあい、自国の利益という国家主義の名のもとに他国を攻撃し侵略するという図式は、有史以前と変わっていないのだと思います。

 そして、古い時代よりももっと悪いことは、使う武器の破壊力が驚異的に増していることだと思います。一方、紛争を解決するための手段や方策も、一層少なくなっているように思います。それはに、加速度的に進歩する情報化社会を背景として、理屈をこねるための知識の習得に走る人間が増えていることと、西欧文化の根源ともいえる一神教に基づく倫理観の強要が挙げられると思います。

 「神のもとに平等である」というような絶対的なものがあれば、倫理や道徳を教えることは極めて簡単です。「そんなことは神が許さない」といえば済むからです。事実、西欧文明の発展は、その神なるものの現実化が背景にあって進められ、「我思う故に我あり」という人間中心のある意味独善的な思考形態から、科学万能の価値観へと急速に進化していったのだと思います。

 絶対神であるキリスト教の世界観から見れば、イスラム教の教義など許容できるはずもないのでしょう。しかし、そのイスラム教においても神は一つですから、キリスト教の教義を受け入れたり理解することもあり得なくなってしまいます。どうして、アラーとイエスのように姿形が違っていても、相手の神も自分の神も同じだと思えないのでしょうか。信仰人にとって、大切なものであることは同じはずです。

 自分だけ(信じるもの)が絶対的に正しくて、それ以外は全部間違っているなどと信じ込んでいる者同士が、お互いに敬意を表した(相手を、思いやる)交渉ができるはずなどありません。それこそ、八百万の神がおり、仏教もキリスト教もそれ以外の宗教も混在しうる、そして、その上で高い倫理観を醸成してきた日本人の精神性について、世界に広めるべきなのだと思います。

 しかしながら、この国の人の持つ美徳でもある曖昧な表現が、今日までそれを成しえなかったのも事実です。逆に、いつの間にかグローバル化の名のもとに、まずはアピールしてみるというような世知辛い、そして小賢しい人間がもてはやされる風潮にさえなってきました。本当に、残念な気がしますが、数の多い方が常識と成る世では、私のような考え方は少数意見の非常識になろうとしています。

 しばらくぶりに見たイムジン河の向こうに、霞む北の領土を眺めながら、そんなようなことを考えました。こうして、ぼやけるだけでも、幸せなのかもしれません。



2013 8月 19日   誇り高く生きよう



 今年も、暑いお盆の一日、先祖や知己の墓参りをしてきました。心に念じる思いは同じでも、世情の変化を愚痴る言葉が、ついつい浮かんでしまいます(鬼籍の人に、ぼやいても仕方ないのですが…)。

小さな美術館で、原爆投下直後の状況を描いた絵を見ました。いつか読んだ、井伏鱒二の黒い雨に出てくる描写を思い出しました。惨禍の直後に報道関係者として広島へ赴き、悲惨なその状況を目の当たりにした人が、後年鉛筆画に述懐するように描かれたものだそうですが、改めて原爆の恐ろしさを実感しています。

 それでも、広島の原爆に使用されたウランは数十キログラムであったそうです。一方、福島原発に残されているその量は数十トン~数百トン単位だといわれています。一説によると広島型原爆の4万倍、チェルノブイリの約20倍のエネルギー量があるそうです。その、数字を聞くだけでも恐ろしいことですが、事態は何も改善していません。

 メルトダウンなどという言葉も、この頃ではあまり耳にしなくなりました。しかし、素人が考えても、毎日何千~何万トンもの水で冷やさなければならないその炉心なるものは、本当に安定しているのでしょうか。また、その大量に用いられた水の行き場は、どうなっているのでしょうか。ほとんどが、目の前の太平洋に流れ出しているのではないでしょうか。

 その程度のことは、誰でも考え付くことだと思います。2011年3月11日から、二年半の時が経とうとしています。「罪もなく」被災され、いまだに避難所暮らしをされている人や、村や地域社会が離散・崩壊してしまった人々をしり目に、多くの人々が何もなかったように暮らしています。そして、平然として原発再稼働や海外輸出の議論がされてもいます。

 それは、一体どうしたことなのでしょうか。同じ日本の中で起きている事象なのに、他人事と捉え見て見ぬふりをしている人があまりにも多いような気がします。たとえ何もできなくても、私たちは資源の無い国におけるエネルギー需給の在り方や原子力発電の是非について、きちんと考えなくてはいけないと思います。

 そしてその前に、本当の意味での福島をはじめとする東北の復興というものも、考える必要があるでしょう。阪神大震災の時もそうでしたが、略奪や暴動なども起こさず、多くの人々が助け合い命をつないだ話を、この国の美談として良く耳にします。しかし一方で、無人の家に空き巣が入ったなどという話を聞く機会は、阪神大震災の時よりも確実に増えたように思います。

 残念ながら、自分だけが良ければ良いという人間は、確実に増え続けているように思います。初めは、被災者の救済などが目的であったはずの活動が、おかしな方向に流れてしまったような話も耳にしました。何か「事業」のようなものができると、それに群がり甘い汁を吸おうとする人間が、次から次へと出てきてしまうのは、どうしたことなのでしょうか。

 また、ふと気が付いたのですが、終戦記念日のある8月なのに、それらを取り上げるテレビ番組が本当に少なくなりました。語り部といわれる方々の減少(高齢化や他界されて)が、大きな要因かとは思いますが、前述の美術館館長とも話しましたが、本来、私たちがもっと聴いておかなければならなかったことなのだと思います。そして、語り継がなければならないことでもあったのだと思います。

 テレビといえば、先日他界された戸井十月氏に関するものは何本か見ました。以前にも、見たものですが、ブラジルのスラム街のリポートや、小野田さんへのインタビュ-などが印象に残ります。取材対象は、取材する側の能力や資質に影響されるのだということが、本当に良くわかります。戸井さんでなければ、聴きださない話や相手の思いが随所に溢れるものばかりでした。

 確か、ご尊父がロシア革命のあった10月に彼が生まれたので名前を十月とした、と、いうような話を聴いたことがあります。イデオロギーとか思想などという言葉が、懐かしいような気もしますが、右であれ左であれ、誇り高い精神を持とうとしていたのが、かつてのこの国の人達であったのではないでしょうか。それは、都合の良いことではなく、考えなければならないことを考えていた人達であったはずです。

 大上段に構えなくても、清志郎の唄のように、目の前のことから目をそらさず、誇り高く生きたいものです。



2013 8月 9日   人さえ良ければ…      

 

 「かつて経験したことが無いような雨」があちこちで降り、あっというほどの短時間で、大きな被害をもたらしていく光景を見ました。他人ごとではなく、私もゲリラ豪雨が過ぎるのを、息をのみながら待つ経験をしました。

 それは、つい最近の出来事でした。帰宅途中に、突然の豪雨に見舞われました。道路側溝を溢れた水が、見る見る内に中央分離帯の高さ位まで上がっていく様を、避難した道路わきの飲食店の駐車場から眺めていましたが、「このまま降り続けば、ここも危ないのでは」という位の雨の降りようでした。月並みな言葉ですが、自然の驚異と人間の無力さを痛感しました。

 そうかと思えば、また、体温を超えるような暑さが続いています。本当に、地球が悲鳴をあげているような気がしてなりません。まさに「我思う故に我あり」というデカルトの西洋哲学に基づいた人間中心主義とでもいうような、人間だけが何をやっても良いという人類の歩みが地球に与え続けた負荷が、復元可能なところを超えようとしているのではないでしょうか。

 そのような、人間の持つ傲慢さや勝手さは、少しずつ人間社会そのものも変えてきていると思います。特に、私達日本人はその西洋的合理主義の影響を強く受け、大きく変化してしまったように思います。むしろ、欧米がどうとかいう前に我々自身の理由による、質の面での精神性の低下が問題なのだと思います。

 例えば欧米では、理論的にも道義的にも上手く説明できないことでも「神が許さない」という最終手段があります。一方我が国にも、長らくこの国を支えてきたその「神が許さない」にあたる部分、つまり、アニミズムや神話から始まり多様な宗教を咀嚼し、武士道などのような高い精神性と倫理観に収斂されてきた文化がありました。

 今の状況を眺めれば、残念ながらそこの部分が著しく崩壊しているといわざるを得ません。大人も子供も、自分の都合の良いように法やルールを読み解くことにばかり力を入れる、あざとい人間が本当に多くなりました。「大人も子供も」といいましたが、やはり大人がちゃんとしてこなかったから、そのようになってしまったと言うべきでしょう。

 そもそも法律などというものは、トラブルを裁くための限界線を定めたようなものです。本来の日本人は、その少し内側に自らが定めた「戒めるべき線」を持っていたはずです。そして、そのことに高い誇りを持ち暮らしていたのだと思います。例えば武士であれば、その矜持を超えるようなことがあれば、自ら腹を切る位の覚悟を持って生きていたのです。

 そして、その武士の生き様は庶民にも波及し、わが国独自の高い精神性が培われていたのだと思います。そのことが、維新の動乱の中においても、列強からの侵略を許さない民度の高さへと繋がっていたのだと思います。そして、その我が国独特の精神性の欠片は、私などのような不埒者の心の片隅にさえ記憶されているものでもあります。

 そのような視座から見ていると、本当におかしなことばかりが目につきます。例えば、メルトダウンした原子炉を冷却するためには水をかけ続けなければなりませんが、その水がどこに流れていくのかなどということは子供でも考えることだと思います。指摘されて、初めて気づいたように対策をとるような姿勢は、あまりにもおかしすぎます。

 そして、そのような多くの課題を抱えながらやるべき検証もやらないうちに、原発を再稼働させるためや新たに作るための「厳しいルール作り」などを、臆面もなくやっているようなことも理解できません。さながら、福島の米や野菜を食べない人が悪いような空気を醸し出し、福島の作物が安全であることを確認するための方策や、不安を取り除く施策を怠っているようにしか見えないのは私だけでしょうか。

 そのような、大きな話でなくても嘆息することはたくさんあります。直に顔を見て話さない風潮が浸透した現代では、雇用に際しても個々の事情に関係なく「派遣切り」をすれば良く、交通事故を起こせば「保険屋任せ」でことは済んでしまいます。「何故、あやまったのですか」と保険会社にたしなめられ、自らが起こした事故の責任を考えることを回避するような人を相手に、何を言えば良いのでしょうか。

 本当に、これは何時も述べていることですが、突き詰めていえば教育しかないのだと思います。大人にはもう期待できないのなら、良い子を育てて、良い大人になってもらうしかないのかもしれません。



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