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                    辺野古の浜辺                     ドクターイエロー

NO.29      

2014 10月 13日    アゲイン



         

 週末毎に、大きな台風が来て、多大な被害をもたらしていきます。秋の憂いには、加えたくない心痛です。本来は、思索にふけりたいところですが、施策に追われる日々なのは季節によらない暮らしです。

 先日、吉田拓郎のライブを衛星放送で見ました。今年の7月に行われたものですが、消息を案じ、つまらぬ心配をしていた私の心配を払拭してくれるステージでした。もちろん、私より一回り上の人ですから、カリスマもそれなりの年齢です。それでも、心に響く唄声を聴かせてくれました。また、拓郎らしさや「カッコよさ」も見せてくれました。自分もあのように~、と、年の取り方も考えさせられました。

 思えば、我が家に液晶テレビが来たのは、嬬恋のコンサートが行われた2006年でした。当時、NHKのBSは3つもチャンネルがあるのに、どうして相撲中継でこのコンサートが中断されるのか、と、憤ったものです。現在では、NHKのBSも2チャンネルに減りました。そして、相撲中継を絶対優先するということでも無いようです。余談ですが、その時カットされていた部分は、後に他の番組等で見ることができました。

  一方、根強いファンはNHK内部にも居ると見え、拓郎に纏わる番組は突発的な感じで、忘れた頃に放映されます。まあ、たいていは、BSでの放送ということになりますが。団塊の世代を中心にして、吉田拓郎という人の人気は根強いものがあります。もちろん、我々の世代にも大きな影響を与えました。団塊の世代といえば、拓郎だけではなく、背伸びして見習うべき人が、沢山いたのだと思います。

 実をいうと(いわなくても)、私は生来のへそ曲がり(自分では、素直と思っている)のようで、結婚しようよが大ヒットして、拓郎がスター街道を突き進んでいた頃には、やや引き気味で聴いていました。プロテストしないフォークに疑問を呈するというか、「やはり、岡林だろう」とか、深夜放送で聴いた「傘が無い」の暗い響きにインスピレーションを受け、陽水の世界に魅了されたりもしました。

 実際には、未熟な自身の価値観と情緒感の成長を顧みず、同世代の仲間に対する良い恰好がしたがっただけかもしれません。したがって、皆が良いといえば、ミーハーだと斜に構えるような具合です。どうしても、素直に慣れないところがあったのだと思います。本来、ミュージシャンの特徴は多様で、夫々に良さがあります。○○でなければならない、ということなどはありません。

 しかし、若気の至りというのか、人間には「拓郎なんか」とか「やっぱり陽水だ」などと、語らずにはいられない時期があるように思います。それは、私のように自己顕示欲の強い人間ばかりではなく、アイデンティティが確立されていく過程である思春期においては、特によくあることではないでしょうか。もちろん、アイデンティティが確立されているはずの大人でも、時として口にしがちではあります。

 
 いずれにしても、私が、弱虫のくせに感受性が強く負けず嫌いな、頭でっかちな少年であったことは間違いのないところだと思います。良く言えば、思春期のモラトリアムが長く、その中で多様に揺れ動く精神に翻弄されていたのだと思います。考えてみれば、我儘な人間であったと思いますし、多くの人に迷惑をかけながら、他者に甘えながら生きてきたのだと思います。

 振り返れば、恥ずかしくなることばかりです。しかしながら、この頃思うことは、過去は変えられないので、恥ずかしい過去も受け入れるしかないということです。その上で、そんな自分でも、少しはまともになれるのではないかというのが、この十年来の、私の心の有り様だと思います。そのような、私の心境と吉田拓郎が、かみ合うようになってきたのかもしれません。聴けば聴くほど、肌に馴染む気がします。

 さらに、知らなかった曲なども出てきますので、聴けば聴くほど、益々身体に染み込んでいくことになります。一方、私の天啓(いつもの、勝手な思い込みですが)はつたやのCD棚から、何気なくアルバム「アゲイン」をつまみ出すところにもあります。たまたまCDを先に借りていたのですが、先日見たライブの中で演奏されている曲は、殆どこのアゲインに収録されていました。

 中でもアキラは、「夕焼けに向かって走っていく 、あいつの姿が忘られぬ~」と始まり、単に面白い唄だなぁ、と、思っていた曲ですが、今は繰り返し聴いています。弱虫な僕~という歌詞の中に、ひ弱で頭でっかちだった自分を見つけ、本当に自分にもアキラがいたらなぁ、という幻想に浸ってしまいます。最後まで聴かなければ、幼稚園生(つまり、就学前)の子供の世界とは気付きませんが、深い曲です。

 尊敬するアキラともお別れだ~以降の歌詞は、胸が熱くなるのを禁じ得ません。そして、私のアキラは、自分の心の中に創造っていかなければ、という想いも、一緒に湧きあがってきます。



2014 9月 16日    喜びも悲しみも…



 広島をはじめ、豪雨による爪痕は目を覆うばかりです。それでも、秋は来ました。空の色や雲の形だけでなく、風の匂いにそれを感じます。そして、私は秋が好きです。その理由も、エピソードもたくさんあります(公に披瀝することではありませんが)。

 さて、読書の秋ですね。とはいえ「読書の秋」という言葉が、まだ通用するのかと考えたりします。私自身のことをいえば、気が向いた時に気になるものを読むという調子なので、四季を通じて乱読(それ程の量でもありませんが)しているに過ぎない状況です。それでも、ローマ人の物語を読み終えるのには、スタミナがいりましたし、一気に読み切りたいのに、それができないストレスも味わいました。

 それでも、それは本当に面白い本だったと思いますし、読んで良かったと考えています。結果的に、先に読んでいたヴェネチアが主役である、海の都の物語につながりました。総じていえば、紀元前753年のローマの起こりから1797年ヴェネチア共和国の滅亡まで、地中海社会における興亡の歴史や流れについて、造詣を深めることができたように思います。

 その後は、ジャンルにとらわれず、比較的短いものを読んでいます。中でも、周五郎の名言集、磯田道史の竜馬史は印象に残りました。さらに、少し意外でしたが(私の知識が無かっただけですが)、昭和の大女優高峰秀子さんのエッセイ集は頷くことが多く、快い読後感が得られました。高峰秀子といえば、昭和を代表する女優ですが、ピンとこない人も多いかもしれません。

 そもそも、代表作の一つである「二十四の瞳」が1954年、「喜びも悲しみも幾年月」でさえ1957年の作品ですから、私が生まれる前のお話です。今の時代で、解る人は少ないかもしれません。しかし私は、その2作をはじめ、彼女が主演している映画を何本も見ています。それは、ほとんどがテレビでリバイバル放映されたものです。また、かなり小さいころから見てきたのだとも思います。

 彼女の作品で、回数的にも私が最も多く見た映画は、喜びも悲しみも幾年月だと思います。そして、最も心に残っている映画もその作品だと思います。実は、つい最近もBS放送で見る機会がありました。この映画は、昭和7年から32年までの、日本が、戦争に向かっていく時代から、戦争中、敗戦後の復興の時代を背景に、若き燈台守とその妻が辿る人生を丁寧に描いた名作だと思います。

 お話は、見合い結婚で結ばれた二人が、灯台という特殊な仕事場を転任していく中で起きるエピソードを、透徹した視点から、それでいて丹念に描いている作品です。映画の内容については、それ以上語ることもないと思います。一方で、昨今みられるような特殊なシチュエーションによる、娯楽性の高い作品でもありません。しかし、見るたびに感動する作品でもあります。

 それは、見ている私自身の変化もあるかもしれません。考えてみれば、これも天啓というやつで、「このタイミングで、この映画を見なさい」と天から啓示を受けているのかもしれません。と、私は考えるようにしています(都合よく)。話がそれましたが、今回も、胸を打つことが多かった理由の一つに、この映画に登場する人々の、真摯で真面目な価値観が伝わってくることが挙げられると思います。

 つまり、その時代におけるこの国の人々が備えていた価値観・倫理観が、登場人物の行動の規範となって現れ、日本人の精神性の高さが感じられる気がしました。あらゆる面において、今とは比べようもないほど不便であり、けっして豊かな時代とはいえませんが、何よりも人々は恥を恐れる概念を持ち、友情や親子の慈愛などの心情についても、確固とした深い結びつきを持っていたことが感じられます。

 冒頭から、たった一度の見合いで結婚したヒロインのもとに、彼女が袖にした学友に恋した同級生が訪ねてきて、逆恨みのようなひと悶着があったり、子供を失った主人の同僚の奥さんが精神を病んでいて、ヒロインが大いに驚くというようなシーンが続きます。それは、映画の後半にも絡んできます。しかし私が一番言いたいことは、映画に描かれた時代の人々が、本当に真摯で真面目であるということです。

 そのような、今から見れば高い精神性を備えた人々が暮らした時代は、ほんのわずか昔のことなのです。そして、それはごく一般的な日本人で、特別な人達ではありません。その空気の中で、女優高峰秀子は輝いていました。その凛とした気品は、カルメン故郷に帰るのような作品であっても失われませんでした。また、子役時代から、多くの人々に愛され(私生活では、過酷な時もあったようです)、文豪谷崎や梅原画伯と親交を深めたことも有名です。さらに今、私は、文筆家としての彼女の才能も知りました。

 実は私は、この昭和の大女優のイメージと重なるものを、自分の母に感じていた時期がありました。それは、独りよがりな思い込みだと思います。しかし、言い知れぬ辛苦を重ね、私を育ててくれた人の倫理観が、今の私の価値規範の根源を成しています。そしてそれが、高嶺さんの大石先生やきよ子像に重なっているのだと思います。



2014 9月 2日     変わり行く日本人


                 
 二度目の梅雨に入ったのか?と、思わせた異常気象は、遂に、広島に甚大な災害をもたらしました。犠牲になられた方々や関係者の皆様に、心からお悔やみとお見舞いを申し上げたいと思います。

 激しい雨が、降ったり止んだりする不純な天候は、人の行動も狂わせるのか、私の近所でも高齢者が行方不明になる事件がありました。結果的に、増水した吉井川で溺れ、遺体となって発見されるという不幸な出来事となりました。警察・消防が出動し、大掛かりな捜索が行われました。中でも、無償の奉仕者である、多数の消防団員による協力は頼もしく、改めて、頭が下がる思いでした。

 時勢を背景に、我々の街にも地元自治会・消防団などを核として「自主防犯・防災組織」というものが組織されています。地域力の低下や個人情報の壁など、多くの課題はありますが、少しでも助けられる弱者を増やすために試行錯誤しています。今、自助・共助・公助のうちの共助の充実が、世論や行政から求めています。しかし、住んでいる人間そのものが変わってしまった現代では、難しい課題でもあります。

 本当に、我が国における人々の価値観は、一変した感があります。とにかく、自分を主張しアピールする人間がもてはやされ、享受できる権利や自身を擁護するための知識の習得に余念がない、というのが、最近私が見かける日本人の多数であるような気がします。日本人の精神性というような、大きな言い方でなくても、礼節を重んじ、他者を思いやるような人や、振る舞いを見る機会は確実に減りました。

 また、「われ思う故に我あり~」というデカルトに代表される西洋哲学的な、人間が何でも決められるというような、ある種思い上がった考え方も、今日では合理的なものとされています。しかし、本来私たちの先祖は、得体の知れないものや人智で理解できないものに対しても、懐深く受け入れて折り合いをつけ、自然と共存する生き方を模索してきたはずです。その意味で、「言い切らない」ことは「いい加減」なことではありません。

 一方で、例えば戦争に向かって大きな歯車が回りだすような時は、欧米人であれ東洋人であれ、回りだした歯車はとめられません。大切なのは、そこに至らないように努力することだと思います。その時にこそ、本来の日本人の精神性のような価値観が、大切になるのだと私は考えています。頑なに、他者を認めない一神教的な価値観や倫理観では、解決できない問題が世界には溢れているからです。

 ところで、来年はあの大戦から70年を迎えます。長い歴史の中では、70年などほんのわずかな時の流れともいえますが。その、戦後から十数年が過ぎた昭和に生を受け、高度経済成長期からオイルショック、バブル時代、そしてその崩壊を経て、今日まで私は生きてきました。長いようですが、短い時間だと思います。そして今、私が強く感じることは「人間が変わったなぁ」ということです。

 例えば、現在市内の中学校の彼方此方で、学級崩壊や荒れている噂を耳にします。実際に、私の母校などにも見に行きましたが、かなり酷い状態でした。地域の自治会や、民生委員など様々な組織に対し協力が求められています。しかし、親(保護者)はどうしているのでしょうか。そう思い、訪ねてみましたが、彼らの中にそれ程の危機感を持つ人は少ないようで、皆、責任は学校にあると考えているようです。

 問題解決のために、様々な趣旨の会議が開催され、私もそのうちの幾つかに出席しました。しかし、本当に問題なのは、問題とされている子供達の親(保護者)が、その席に顔を見せないことだと思います。一方で、個人の権利や保護されるべき事項の壁は高く、だれもそこを踏み越えてまでは取り組めません。放ったらかしの親(保護者)ほど、自分の子の成績や生活態度まで、学校や教育関係者の責任にする傾向は顕著です。

 自治会組織にしても、そうです。一つ一つの家庭がしっかりしていないのに、地域力の向上など望むべくもありません。まして、社会的弱者を地域が救うような共助の充実は、本当に難しいものがあります。例えば、かつての学校の先生には権威も威厳もあったはずです。親たちは、そこに子供を付託しますが、全幅の信頼を持って子供を預けたものです。

 その際、基本的な人間としての躾や価値規範は、それぞれの家庭が担っていたはずです。礼儀や挨拶などは、親が教えるべきものであって、できなければそれを恥じ、地域や学校に対する積極的な協力や協調などは、あえて論ぜられるようなことでもありませんでした。そして、そのような社会的風潮があった時代は、考えてみればそれ程昔の話でもありません。

 「共助に加え、近助が大切だ」これは、敬愛する地元公民館長の言葉です。本当に、人間さえ良ければ、その近助も容易であり、効果的にできるのだと思います。




2014 8月 4日     先人の記憶を辿る夏





 今年も、猛暑日が多発しています。そして、夏休みも半ば過ぎました。この頃見かけなくなったものは、外で遊ぶ子供達。それから、井戸水で冷やした西瓜やまくわ瓜。浴衣姿で床几台に座る、夕涼みの光景……

 それらは、この国における当たり前の夏の景色として、私の記憶の中に残っているものですが、本当に、見かけることはなくなりました。また、今の子供たちは、熱中症になってはいけないし、転んで膝をすりむいたりしてもいけないので、外で遊ぶことも少なくなりました。何より、「傷つく」という理由により、やらせてもらえないことがたくさんあります。例えば、運動会の徒競走も男女ごちゃまぜです。

 本当に、子供は傷ついてはいけなのでしょうか。そんなことをいうと、識者の方々から非難されるかもしれません。また、時として私の発言は誤解される場合があります。しかし、心に傷を持たずに(傷つかずに)人が成長できるはずもありません。もちろん、不条理で理不尽な事情などにより、生涯の重荷になるような心の傷を、できるだけ負わせないようにするのは大人の責任です。

 そもそも、予見のない子供の世界では、考えたことや感じたことをストレートに発言したり表現したりします。その結果、他の子を傷つけたり、けんかになったりすることもあります。この時、子供たちは夫々の心に痛みを覚えるのです。そして、相手の心の痛みについても考える(想像する)ようになります。そのことにより、相手を慮る気持ちが醸成されていくのだと思います。

 その時大切なのが、それを見守る大人達の態度だと思います。子供の社会は、シンプルなだけ残酷ともいえるでしょう。しかし、そこでおきるいさかいなどの問題は、たいていの場合、子供達自身で解決できるものが多いように思います。周囲の大人達(第一義的には親ですが)が、冷静に状況を見極め、子供達が備えなければならない価値観を十分に意識して、適宜対応することが求められます。

 何よりも、他者の気持ちを理解できるように、或いは理解しようとする姿勢が身に付くように、諭すことが大切なのだと思います。作家司馬遼太郎は、「21世紀の君たちへ」の中で、次世代の子供達に対して次のように述べています。「優しい人になれ、そして、他人の気持ちになって考えられる人になれ、そのうえで、他人をいたわれる人になれ」と。

 本当に、良くあるようなな言葉ですが、私が感動し深く同意したのは、その後に続く言葉です。「しかし、そのような感情は人間の本能ではない。したがって、訓練しなければそのような人にはなれない。常に訓練して、そのような人になる努力をしなければならない」という一言でした。それこそ、真実だと思いますし、司馬さんが遺言として、後世の子供たちに残したかったことなのだと思います。

 人間は、無垢な状態で生まれるものであっても、育つ環境や出会う人によって、人格や価値観の形成結果は大きく違うものです。一方で、肌をふれあいながら、泣いたり笑ったりを繰り返し、感覚として実感しながらでなければ、他者の喜びや痛みも理解し辛いのが事実です。また、人が痛みに耐える力(心の面における)も、その成長とともに強くなっていくものですす。

 そのような、適正な情緒感を子供たちに醸成させるために、かつてのこの国の大人たちは、自らを律するなど、努力を重ねてきたといえるでしょう。その長い蓄積が、日本人の精神性となって成果を見せていたのだと思います。ところが、今この国において一番問題なのが、大人といわれる人達の変貌にあると思います。簡単にいえば、子供を叱れる大人が、極端に少なくなりました。

 頑固親父といわれる人や、世話焼きおばさんなどの姿もみかけなくなりました。近い距離で関わり合うことに対し、人間自身が弱くなったのだと思います。考えてみれば、町内の雷親父のようなおじさんが、人格的にも素晴らしい人であるかどうかは、甚だ疑問です。それでも、一生懸命生きている大人であれば、自分を棚に上げて、子供を叱って良いのだと思います(その資格と権利がある)。

 冷めた目で、他人のすることを評論し、じり貧になっていく街をぼやいていることが、あたかも識者であるかのごとく振る舞う風潮は、どこの街にでもあるのだと思います。しかし、司馬遼太郎は次のようにも述べています。「知的で、無私で、情熱を持続して物事を面白がれる人が、増えていく必要がある」と。どのような町であれ、そんなバカをやれる人が必要ですし、面白がってサポートする人達も大切です。

 訳知り顔で、お調子者を揶揄するよりは、笛を吹く方の人間であり続けたいと思います。




2014 7月 23日     懐古的商店街酔論





 蒸し暑い。けれど、どこかが違うような、暑さの中に覚える違和感に、ここ数年、首を傾げながら夏を過ごしている気がします。とはいえ、田んぼの稲は隙間が見えなくなりました。ともあれ、季節は廻ります。

  暑い沖縄の後、東京と横浜、或いは大阪など都会の街を歩く機会を得ました。実際、住むところではないな、と思いながら、一方で、街を歩くことは好きな自分がいます。特に、商店街・繁華街を歩くことは好きです。特に、猥雑でも活気のある街が好きです。もう少しいえば、面白い商店街があり、そこに多様な人が集まってくる街が、私の描く楽しい街のイメージです(例えば、昭和の頃の商店街)。

 しかしながら、私の住んでいる街にとどまらず、この国のいたるところにおいて、商店街に活気がある場所などは希少な状況です。当然、資本主義経済という視点に立てば、大資本による寡占化が進むのは必定ですから、大量の商品を調達・販売できる資本力を背景に、ショッピングモールのような形態の大型小売店がしのぎを削り合う、というのが今日の現状であって当然といえるでしょう。

 まさに、合理的な欧米型資本主義の実現が、着々と進んでいるというわけです。また、お金には善悪も色もないわけです。そのような価値観の定着もあって、幼少期から投資や投機的な知識を身に着け、お金儲けの上手な人に育つことが、良いことだとする風潮は深まるばかりです。そのような視座に立てば、間口の小さなお店が軒を並べ、似たり寄ったりの商品を商うような光景は、非合理的ともいえるでしょう。

 一方、商品を求める側にたっても、綺麗で広いフロアーに、系統だてて商品が陳列されている方が、買い物がしやすく便利なことは自明です。そのようなことを背景に、ショッピングセンター形式の店舗は、規模を競うようになり、結果として、大きなものが小さなものを淘汰する、経済の原則に基づいた栄枯盛衰が繰り返されているのだと思います。岡山駅前周辺も、イオンモールの開業で大騒ぎです。

 確かに、細かな内容や質に関して言及しなければ、物品の価格は安くなりました。結果的に、私たちは日常生活に関する必需品を、容易に入手できるようになったのだと思います。その一方で、ものを買う喜び、つまり、買い物をする喜びというような感覚は、本当に希薄になったように思います。私自身においても、必要だから購入する(それが、基本ですが)という事務的な感覚です。

 例えば、目的の店を目指し、商店街のアーケードをくぐる時の、あの、ときめきに似た感覚はどこに行ったのだろう、などと考える時があります。そうです、買い物をするときには、どこの店で誰から買うのかという楽しみが、かつてはあったのです。私の場合でいえば、マルサン運動具店に、ラケットを買いに行く。そこには、面倒見の良い優しい奥さんと、やんちゃな子供達が待っている、そんな記憶です。

 振り返れば、幼少年期に培われた情緒感を醸成してくれた記憶の大半は、欲しかった物を買って貰う時の情景と伴にあるような気がします。また、商店街でお店を営む人たちは、一方では、他の店の客でもあるわけです。持ちつ持たれつ、というよな、相互扶助てきな関係も成立していたはずです。さらに、商店街が繁盛し、商店主に余裕があるような社会は、困った人や問題のある人を扶助する力もありました。

 「とりあえず、うちで皿でもあらっとけ」などという言葉に救われ、将来的に功成り名を遂げる結果を得た人もたくさんいるはずです。そのような、浪花節のようなお話は、今日のこの国においては、生まれにくくなっているのだと思います。また、熱々の味噌汁をその都度手鍋からお椀に注いでくれた朝飯屋や、安い貸本屋なども、この町から姿を消しました。安いお好み焼き屋やちょっと胡散臭い飲み屋等も…

 本当に、何となくというような、ほわっとした感じでは、生きられない世の中になったのだと思います。一方で、小賢しく利己的に動ける人間も増えました。商店街の明かりが消え、ジリ貧になっていく街の中で、弱い者から淘汰されていくというのが、この国の現状だと思います。経済の理といえばそれまでですが、持つ者と持たない者の差は開くばかりのようにも思います。

 忙中、野毛の居酒屋ではしご酒をし、天満で立ち飲み屋から居酒屋を回り、気持ちよく酔いました。そして、少し懐古的な想いに浸りました。


2014 6月 24日     デジャブー(既視感)

  


 少しばかり目を離していたら、田圃の稲は随分株を張り、色も濃くなっていました。浮いた沈んだと、一喜一憂する人の価値観など、どこ吹く風で、季節は廻っていきます。ただし、毎年その歩調は、確実に速まっている気がしますが。

 本当に、時間の感覚は、年齢と共に短くなっていくように思います。この頃では、一週間や一月が経つのが、あまりに早く感じるようになりました。そのようなことですから、一日などというのはあっという間で、気が付けば二・三日過ぎているような状態です。思い起こせば子供の頃は、クリスマスからお正月までの間さえ、待ち遠しかったような気がします。

 大人になっていくということは、胸をときめかせることが減るということなのかもしれません。予想(想像)できないことが少なくなるということが、その背景といえるのかもしれませんが、そのことが、時間の長さを短くしているようにも思います。だから、たまには日常を離れ、知らない街を歩くのも楽しいことだと思います。それは、いいかえれば、体内時計の歯車に、潤滑油を注すような感じです。

 過日、仕事にかこつけてではありますが、久しぶりに沖縄を訪れる機会を得ました。予定では、梅雨が明けているはずだったのですが、滞在中にその「宣言」は無かったように思います。事実、「業務」期間中は曇り空が多く、時折スコールのような雨が降る空模様でした。特に、強く風が吹いていても、極度に蒸し暑い感じがしました。彼の地の人も、「蒸し暑い」を繰り返していましたので、間違いないでしょう。

 不断の不精を取り戻すかのごとく、町を歩きまわってきました。町というのがみそですが、主に、名護市内と那覇国際通り界隈ではありますが、徘徊というのか彷徨というのか、いつもの天啓に任せ、足で町を感じ、足で確かめるような歩き方だったと思います。自分でも意外に、根気よく歩けたように思います。その意味では、まだまだ、何かを感じることができるのでしょう。

 現代では、インターネットをはじめとする多様な情報ソースがありますから、映像により、色々な国や町の情報が得られます。NHKの「世界ふれあい街歩き」などでは、本当に、そこを歩いているような感じで遠方の地の状況を自宅で眺めることができます。もっと、雑駁なもので良ければ、グーグルやユーチューブで見ることもできます。

 もちろん、そのような動画であれば、一応、音も聴くことができます。しかし、残念ながら、現地に行かなければ、そこの「匂い」は感じることはできません。ここでいう匂いには、狭義の匂いと広義の匂いがあって、食べ物屋や下水道から出る匂い、或いは、市場や人いきれの中から漂ってくる臭覚的な匂いが、前者といえるでしょう。

 一方、そこに住む人々が発する雰囲気や、街そのものが醸し出す雰囲気から感じる匂いが、後者の匂いということになるのだと思います。そして、その両方共が、実際にそこに行ってみなければ感じられない、その街の匂いなのだと思います。さらに、そこで出会った人たちとの関わりや、何らかのエピソードが加えられて、人の記憶に残る匂いになるのだとも思います。

 海ぶどうや泡盛の味も、その街で味わうからこそ、味覚に強く残るのはいうまでもないことだと思います。今回は特に、初めてなのに旧知の仲のように、お世話になった鮨屋の大将や、見学に訪れたオリオンビールでの出会いもありました。また、曇り空の下、僅かな時間でしたが、辺野古の浜辺に立つことも出来ました。本当に、色々な人のお世話になりました。

 一方、人種のるつぼのような国際通りと、それと隣接している公設市場に連なる入り組んだ商店街は、いくら歩いても飽きない面白さもありました。むしろ、裏通りの商店街の匂いの中に、何となく惹かれるものを感じました。若者が営んでいる道端の小さなカフェで、アイスコーヒーを飲みながら猥雑な情景を眺めていると、どこかアジアの町角に佇んでいるようなデジャブー(既視感)を感じました。

 考えてみれば、肌で感じる匂いもあるのでしょう。また、それを感じられる「心」こそ、大切なのものであるといえるでしょう。携えた文庫本では、丁度、法や理論で物事を処理する仕組みを持ち、千年の繁栄を享受したローマでさえも、最後は硬直化した官僚機構(軍・元老院夫々に)の中で、一神教を支配に利用することを目論む皇帝を生み出し、終焉への序章を迎えるところでした。

 路地裏の、籐椅子に座り、マカオか上海の雑踏のような、粘ついた、蒸し暑い風に吹かれながら、学習しない人類と、学習できない自分を感じました。そろそろ、梅雨が明けそうな、暑い日でした。



2014 5月 21日     天道は是か非か(司馬遷の想い)

  

 寒暖の差が激しく、体調維持が難しい時期です。行事と天候の具合という、微妙なタイミングを選んでは、骨董品の赤トラでせっせと田を耕しています。それは、それらを残してくれた、亡き父との対話の時間でもあります。

 前回は、私の地元作楽神社に残る「十字の詩」について述べました。そして、そのような地域の歴史や文化に対し、小さなころから馴染んでいくことが、豊かな感性や情緒感を育んでいくことにつながるのだいうことも、綴った文章の中に込めた積りです。そのためには、大人がしっかりしなければいけないし、やるべきことはたくさんあるのだと思います。

 さて、古いお話ということになりますと、特に、中国の故事などということになりますと、私の好きなジャンルでもありますので、今回も、思いつくままにそんな話をしてみたいと思います。何といっても、中国における歴史書の話ということになれば、史記を記した司馬遷の名を思い出さずにはいられません。もちろん、私の歴史観や価値観にも大きく影響しています。

 例えば、「背水の陣」とか「四面楚歌」などという故事成語や、「寧ろ鶏口となるとも、牛後となるなかれ」或いは、「桃李もの言わずとも、おのずから小径をなす」などの諺などは、史記の随所にちりばめられており、それが今日もなお、我々日本人の日常生活の中で、活用されていることを考えただけでも、史記の古典としての価値や、司馬遷の存在を考えずにはいられないでしょう。

 一方、史記は中国最古の歴史記録といわれていますが、官製の歴史書ではありません。つまり、一王朝に限った断代史ではなく、また、皇帝の命を受けて書かれたものでもなく、司馬遷自らが書くことを望んで書いたもので、当時の「現代史」を綴った歴史書なのです。私は、この自ら欲して記したことにこそ、大きな意義と意味があるのだと思います。

 すなわち、父司馬淡から死の床において、先祖(周代から続くとされる、歴史編纂の家系)の事業の継承を託され、彼自身の生涯の仕事と位置づけてからの司馬遷の生き方そのものに、史記の持つ魅力は由来しているといえるでしょう。もちろんそれは、透徹した歴史観と、一方に持つロマンティシズムに裏打ちされた、抜群の描写力に満ちた文章力が彼にあったからこそですが。

 私が、NHKの教育テレビの番組で金沢工大名誉教授(名前は忘れましたが)のされる、枯れた解説に心を動かされ、林田慎之介著の「司馬遷起死回生を期す」を手にしてから、30年以上の時が過ぎましたが、座右の書の一つであることに違いはありません。考えてみれば、きちんと装丁された本は、その頃からあまり買っていない気もします。

 史記の中には、前回述べた范蠡と勾践の故事を含んだお話の臥薪嘗胆から、管鮑の交わり(管仲と鮑叔牙)、刎頚の友(藺相如と廉頗)、或いは、壮士一たび去ってまたかえらず(荊軻と豫譲)など、命を懸けた人間同士の結びつきに関するエピソードが、たくさん綴られています。そこには、志ある人間が生きる上で必要な「何か」が暗喩されているのだと思います。

 また、そこにこそ、あまりにも過酷で理不尽な官刑(宦官となる刑罰)を受けてなお、父の遺言である史記の完成に心血を注いだ、司馬遷の強い意思を支えていた何かがあるのだと思います。まさに、正確な歴史の記述と、そこに生きた人達の生き様に迫る著述が、司馬遷の信条であったのだと思います。そのことが、史記が稗史でありながら、中国二十四史の筆頭といわれる所以でもあるでしょう。

 例えば、殷の紂王に纏わる酒池肉林の話から、武力を持って政権を得た周(堯・舜の時代は禅譲であり、正義があるとはいえ、初めて臣下が主君を倒したのが周王朝)の禄を食むことを良しとせず、首陽山にこもり蕨で命を繋いだ後に餓死した、伯夷と叔斉の兄弟の故事に触れて、天道は是か非かと嘆くには、その時代を生きた多くの志ある人達の生き方に、強く感じるものがあったはずです。

 そして、そこには堯・舜の時代から歴史・天文を司る家系であった司馬遷の、DNAに根差した心の叫びが込められているのだと思います。考えてみれば、もう一方の私の座右の書群(たくさんあるのも、おかしいですが)の著者でもある司馬遼太郎氏も、透徹した歴史観と、何よりもそこに生きた人間を描くことを信条としていました。ペンネームも、「司馬遷に遼く及ばず」が原典です。

 現代において、司馬遼太郎ほどの人が、そのように考えたこと(謙遜も含め)を、二千百年以上昔の人である、司馬遷が知る由もありませんが、人は「志」なくして生きられないのも真実だと思います。



2014 4月 24日     天莫空勾践 時非無范蠡

 


 春と呼ぶには、日差しが強くなりました。しかしながら、吹いてくる風や日陰で肌に感ずる空気には、まだまだ冷たさが残ります。これが、古人が「一人子を殺す」といった、苗代時期の気候なのでしょう。

 さて、冒頭の詩はこの地域に住んでいれば誰でもが知っている「十字の詩」というものです。作楽神社に伝わる児島高徳と後醍醐天皇のエピソードに因んだもので、出雲街道を舞台とした歴史上の物語として、とても有名なものです。かつては、教科書にも載っていたお話で、「桜ほろ散る院庄~」という忠義桜の唄は、全国的にも知られていたものです。

 物語は、隠岐へ配流される後醍醐天皇を救うため後を追いかけてきた児島高徳が、厳しい警護のためそれもかなわず、後醍醐帝が院庄館(現在の作楽神社)に泊まられた際に、夜陰に紛れ、館内の桜の幹を削って十字の詩を書いたというお話です。朝、この詩を見た後醍醐天皇は大変喜ばれ、心を大きく励まされたというものです。

 この十字の詩の意味は、流されていく後醍醐帝に対し、児島高徳が中国の春秋時代の故事を引き(呉に敗れた越の国王勾践を支え、忠義を尽くし呉を滅ぼした范蠡の故事。この時の、勾践の辛抱から臥薪嘗胆という言葉も生まれている)、時がくれば范蠡のような忠臣が現れ助けてくれる、と、自らの志を示すために、児島高徳が書いたものだといわれています。

 本当に、このお話については、私の地域に住む人はでは誰でもが知っていることです。むしろ、また「天勾践~」の話かなどと、興味を失う人があるかもしれません。しかしながら、今回はあえて講題としてみました。それには二つ理由がありまして、一つは教育の大切さと、もう一つは地域文化を承継することの意義であると思います。

 教育の大切さ⇒天勾践などというと語弊があるかもしれません。というか、少し右寄りのお話として誤解される方がおられるかもしれませんが、ここでいう「教育の大切さ」とは、そこ(忠義というようなこと)に的を絞ったものではありません。純粋に、幼少期から地域の歴史や文化などに対して、関心を持ちながら育つことの「大切さ」です。

 事実、私自身もこの地域で生まれ子供のころから「桜ほろ散る~」の唄を聴きながら育ちました。この唄の中に、講題の十字の詩が詩吟として吟じられています。もちろん、子供の頃には意味が解りませんでした。しかし、長じていく中において、詩の意味を知ることとなりました。それは、私が本好きになる(ならざるを得なかったもいえますが)過程ともオーバーラップしています。

 また、この唄を子供のころから暗誦していたことが、中国の故事に興味を持つことへのインセンティブになったことは、紛れもない事実だと思っています。さらに、歴史などの授業で建武の新政などというお話になると、心がときめくような感情を覚えたこともあります。それはまさに、ここに生まれ育ったからこそ、私の中に醸成された感性であったといえるでしょう。

 実際には、そのようなことはどこにでもあるのだと思います。博多の山笠(ヤマ)を舁く若者の胸に、京都で祇園祭を支える人の心に、そして、全国のあらゆる地域で伝統を守って行こうとしている人たちの志として、日本人の多くが持っている感性でもあるでしょう。いわば、日本人としてのアイデンティティのようなものであると思います。

 ところが、今日、その日本人のアイデンティティともいえるような感性が、感じられない場面に遭遇することが多いのです。特に、若い世代とのやり取りの中で、そのような感覚を覚えることが多いです。そのことは、とても残念ですし大きな危惧を抱いています。だからこそ、十字の詩をはじめとする、地域に伝わる歴史の話などについて、きちんと顕彰したうえで、次世代に繋いでいきたいと考えています。

 かつて、エドワード・モースが感嘆した、明治の頃の名もなき日本人の精神は、実は、私の少年時代にはまだこの国に残っていたような気がします。またそれは、元々江戸時代に培われていたものでもありました。そのように考える時、今こそ私たちは、本来の日本人の精神性を取り戻す必要があるのだと思います。そのために、地域文化の意義を考え、正しく継承していくことが大切です。

 
 そして、それは柔かい感性を備えた子供達を交え、いやむしろ、彼らと一緒にやっていくようなことが重要なのだと思います。



2014 4月 8日     今日まで、そして明日から



 ついこの間、お彼岸のお墓参りをしたばかりのように思いますが、気が付くと、桜が満開に咲いていました。本当に、嬉しいとか悲しいとか人間の想いなどに関係なく、季節は廻ってゆきます。

 相変わらず、花の咲くのに併せ、また何がしかの理由をつけては、大なり小なりの宴を催す生活は続けております。本当に、その形態は様々ですが、心情的には癒されることが多く、有難いと思っています。先日も、岡山から師と仰ぐ先生や技術士仲間を迎えて、恒例としている花見の酒を飲みました。今回は特に、鹿児島からもお1人駆けつけて頂きました。

 その方は、技術士試験を通して知り合った仲間です。私が添削などを手掛けた関係で、岡山の仲間で模擬面接などのお手伝いをさせていただきました。昨年、岡山市で合格の祝賀会をした時「津山の桜」のお話をしたことから、今回のお花見への参加ということになりました。仮にYさんとしておきますが、私よりも年長でとても穏やかな人柄の方です。

 当日は、生憎雨模様で肌寒い天候でしたが、これまた私の弟子ともいえるS君がしっかり手伝ってくれたこともあり、意義深い楽しい宴となりました。本当に、色々なことがありましたが、技術士になっていて良かったなぁ、と、しみじみ感じた夜でもありました。実際に、20世紀最後の試験で合格し技術士になってからは、多様なジャンルの方々と交流する機会が増えました。

 また、出かけていく範囲も飛躍的に拡大しました。その結果、日本のあらゆるところに知己を得たような気がします。その中で、出かけては(或いは訪れてもらって)酒を酌み交わすことも増えました。その結果が、偏狭な私の視野を多少なりとも、広げてくれているのではないかとも考えています。そのような、暖かい仲間の方々に感謝しつつ、これからも頑張っていきたいと思います。

 さて、そんな技術士試験がきっかけで、起ち上げた当HPも12年目に入っています。小欄も、本当にたくさんの更新を重ねてきました。そして、多くのことを書き記してきたと思います。それから、これまで折に触れ述べてきましたが、端々に「通してお読みください」と記しています。また、そうしていただければ、根底に流れる私の想いは理解していただけると考えています。

 ところで、現在では講題と称していますが、コラムとして書き始めた頃から小欄の位置づけ、或いは定義については悩む日々でした。コラムと呼ぶべきなのか、それともエッセイと名付けるべきなのか、はたまた?入れるべきカテゴリーが自分でも判らない感じでした。実際には、入れるべきカテゴリーのない文章といえるのかもしれません。

 とはいえ、文字に起こして何かを記す訳ですから、他者に対して何かを伝えたいという意思があることは間違いありません。一方、当初(HP起ち上げの頃)からいうと、私の論じる視点や視座が変化してきたことも事実です。それには、私自身の立場や時代の変化が、大きく影響しているのだと思います。また、題材として取り上げる話題も様々でした。

 時々のトピックスの他、多様な話題をたたき台にしてきたつもりですが、読書やスポーツ等、私自身の嗜好に基づいていたことは否定できません(誰でも、知らないことや興味のないことは書けないので)。しかしながら、立ち位置を替え話す話題を変えたとしても、小欄で論じていることの根底に流れる想いや理念は、普遍的なものであるとも考えています。

 それこそが、私自身の個性や信条に大きく由来しているものだからです。当初から掲げていた世の中の役に立つものづくりは、「人の役に立って生きていこう」という姿勢において、今も継続して持ち続けている理念でもあります。本当に、小欄で述べていることのエッセンスを抽出すれば、そのことだけが残るといえるのかもしれません。

 繰り返しになりますが、当初からいえば私自身の立場や時代の変化などを背景にして、物事を述べていくスタンスは変化してきています。同時に、根底に流れる理念や想いは普遍的なものであると思いますが、取り上げる題材は様々です。それでも、私が述べていくことの論旨は、「世の中の役に立つ」生き方をして行こうという、「志」を基軸としていることに違いはありません。

 志という字は、士(侍)の心という字でできています。それは、最近気が付いたことですが、本来私たちが持ち続けるべきものは、武士道に現されるような侍の精神ではないかと思います。

 

2014 3月 5日     生きていくこと



 
 三月を迎えました。霞のかかった空を見る機会が増えました。春霞と言えば幽玄な感じがしますが、その実態は、PM2.5が混じった黄砂だったりします。外見と内情の差異は、人の世においても常の事です。

 私も、短い間に多くの体験をしました。本当に一寸先は闇という感じで、まさかの坂を転げ落ち、奈落の底に辿りついたような気分も味わいました。そして、この度の体験を通して新たに感じたことや、強く再認識させられたことがたくさんありました。自分自身の価値観や生き方についても、一度立ち止まって見直す必要があるのだと感じています。

 今更ながら、人間は多様な生き物だということを強く感じています。 それは、性悪説とか性善説などというような、一つの原理では到底語れないような感覚です。もちろん、そのようなことは知識として、頭では理解していました。しかし、肌に沁みついたものとなってはいなかったのかもしれません。ことの是非は別として、私は甘い人間であったのだと思います。

 良く言えば、人が好過ぎたということかもしれません。見方を変えれば、多様な角度から人を理解することに欠けていたともいえるのだと思います。。とにかく、反省することばかりです。今回の選挙のことについても、常識的に考えておかしなことや、本来許されるはずのないようなことがたくさんありましたが、それがまかり通り、勝てば官軍の理屈が成り立つのが選挙というものなのでしょう。

 自分だけが筋を通したりきれいに生きるというのは、容易には出来ないし、中々許されないことであったのだと、改めて強く感じています。本当にやりたいこと、やらなければならないことを成し遂げていくために、私自身が変化していかなければならないことが、たくさんあるのだと思います(もちろん、胸に秘めておくべき志については、下げたり曲げたりしてはいけませんが)。

 反省という視座に立てば、とめどなく言葉が湧いてきます。また、それに併せて愚痴や後悔の念が、堂々巡りとなって浮かんでくるのが実際のところです。それは、私自身の精神性に由来しているのかもしれません。一方で、そもそも普通の人であれば体験するはずもない体験をした今の状況下では、それも仕方がないことのようにも思います。

 ともあれ、どのような精神状況であれ、お世話になった方々や事務処理などの後片付けは、まったなしでやっていかなければなりません。実は、そのような雑務は、意外にたくさんあるものです。また、たまっている自治会長としての業務も、こなしていかなければなりません。逆に言えば、その多忙さに救われている部分もあります。

 救われるといえば、何といっても、身の回りの友人知己から寄せていただく、暖かい思いやりが挙げられます。当初から、電話やメールでたくさんの励ましの言葉を頂きました。また、足を運んで顔を見せてくれる人たちもいました。さらには、激励会という形で宴を催してくれる友人・先輩もあります。夫々の立場で、仕事や健康状態など色々な制約があるはずなのに、本当に有難いことです。

 ここまで、幾度もそのような夜がありました。それは、先輩であったり同級生であったり、また、昔からの知人であったり様々な人達です。本当に、そのような人達と盃を交えている時には、心の痛手も消えていく気がします。そして、再び立ち上がっていくための気力が、湧いてくるような気もします。人間は、一人では生きていけないことが、心底理解できるような感じです。

 そんな時、感謝という言葉が胸に浮かびます。こんな自分のために、本当に有難いことだと思います。何よりも、私の心情や信条について、いつも良く見て理解してくれていることが、本当に有難いところです。振り返って自分を考えれば、そのような周りの人に対して、思いやりを持って生きているのかと、反省する部分も多々あります。

 繰り返しになりますが、人は一人では生きていけません。私も、多くの人のお世話になっています。そして有難いことに、多くの暖かい理解者や友人達にも恵まれています。今、そのような人達への感謝を忘れずに、出直しを図っていきたいと考えています。そして、これから生きていく上で、甘すぎる自分を戒め直していくことも大切なことだと思っています。

 それは、今だからこそ感じられることでもあるでしょう。苦しい時だからこそ……


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