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NO.30        

2015 6月 16日    行間を読む




 梅雨、その最中です。それでも、涼しい日が多い気がします。稲のためには、暑い方が良いはずなのですが、不甲斐無い身には凌ぎ易くも感じます。「二つ良いこと、さて無いものよ」河合隼雄の言葉が浮かんできます。

 好きなものは?と聞かれれば、酒・ばくち・綺麗な女子…などと、凡夫の典型のような言葉を羅列しそうです。それでも、少し真面目に自分に問いかければ、やはり私は本が好きなのだと思います。とはいえ、アカデミックに教養を積み上げてきたわけではありません。全くもって、何の脈略もなく、ただ読みたいものを手当たり次第に読んできた、と、いう程度の読書好きに過ぎないのだと思います。

 その元というのか、礎となっているのは、かつて述べたことがありますが小学校一年生の体験でした。地方の、田舎のまちの少年の家にも、ようやくクリスマスにサンタクロースが来るようになった頃のお話です。12月25日の朝、近所の同じ年代の子供たちが、玩具や人形などのプレゼントを見せ合い喜んでいる時に、私の枕元には一冊の本が置かれていました。

 もちろん私は、その頃の少年たちがそうであったように、サンタクロースの正体については薄々存知していましたので、その実体であるところの父に「苦情」を訴えたことを記憶しています。またそれは、到底頭が上がらない父に対する、恐る恐るの訴えではありました。詳細は省きますが、私にとっての父の存在はそのようなものであったことは事実です。

 話はそれましたが、曽我の五郎・十郎仇討物語(という題だったと思います)と題されたその本は漢字に振り仮名がふってあり、とても小学校低学年が読むようなものではなかったと思います。悲しさとつまらなさから、お正月を過ぎるまで放り投げていたと思います。しかし、退屈しのぎに頁を繰ってみたところ、案外面白い本であったと記憶しています。

 私は、たどたどしくひらがなを辿りながら読み進みました。また、所々に描かれた挿絵の効果も絶大だったのだと思います。本当に、五郎・十郎の兄弟愛の素晴らしさや、仇討への場面展開などがリアルに頭の中に映し出されていく気がしました。生来、私には多少の空想癖というのもあったように思いますが、その頃から私は、本の世界の中に心の逃げ場所を求めていたのかもしれません。

 自分では、感受性の強い少年が生きるには、私の育った環境は過酷なものだと考えています。それでも、当時の日本はどこも似たようなものであったのだと思います。もちろん、このような場では語れないようなこともあります。したがって、人の生い立ちなどは簡単に語れないものだと思います。また、他者を本当に理解することは難しいことであると思います。

 いずれにしても、私はそのようなきっかけから、本をよく読むようになったと思います。以来、手当たり次第(それ程、本ばかり読んでいたわけでありませんが)に本を読み、文章の中に空想を膨らませていたように思います。そのようにして、今日までたくさんの本を読んできました。結果的に、大人となり、金銭的な余裕ができてからのものは、ある程度書棚に残っています。

 それでも、どちらかというと文庫本が多いように思います。そのことは、以前にも述べたと思います。例えば、小説などにしても、文庫になる位のものが本当に面白いものだと考えているからです。実際、あまり新しいもの(作家)を読まなくても、古いものの中に見出す驚きや感動はたくさんあります。鴎外・漱石・谷崎・川端・太宰・三島……小説といわれるジャンルでさえ、いくらでもその例はあります。

 先日読んだ、漱石の明暗にしてもそうでした。行人からこころ、そして明暗へと継承される人の心の中の闇の描き方は、漱石の真骨頂とでもいうべきものだと思います。また、読んでいるうちに自分が、それからの代助であったり行人の二郎であったり、また、こころの先生になり、その人生を疑似体験できるところが本の良いところだと思います。一方で、自身の体験や経験により、読み返す時の感慨も変わります。

 振り返ってみても、人として成長しているのか逆行しているのか、自身では良く解りませんが、どのような「書物」であっても、無駄にならないのが読書だと、私は感じています。とはいえこの頃は、読みたいから読むという自由さについては、多少制約を受けているかもしれません。目を通し、こなしていかなければいけない「書類」が、否応なく増えていくことは仕方のないことでもあります。

 時間に捉われず、ぷらっと古本屋を覗き、安い居酒屋で文庫を広げるような休日も楽しいものです。技術者こそ文芸書を、そして、行間を読み、また、行間に思いを込められる文章を……



2015 5月 26日    明暗




 5月も終わりそうです。周囲の水田に、次々と苗が植えられていきます。その作業に関して、出遅れ気味の兼業農家の跡取りとしては、何時までこの田園風景が維持されるのかなどと考えてしまいます。

 さて、前回にも述べましたが、2度に渡る選挙の洗礼を受けて私の生活環境も変わりました。本当に、自分自身では目の前の「やらなければならないこと」をやり続けて来ましたし、これからも同じことだと考えています。それでも、当選するのと落選するのでは大きく明暗を分けることも痛感しました。正論も舞台で吐かなければ、評論でしかないということも実感しました。

 そして、その正論を舞台で吐く前にも、様々な障壁があるということについても、短期間の中ではありますが感じています。それは、何事も前例に依るなどという、議会運営の有り様からも感じました。例えば、全く付託を受けている筈の市民の思いなどとは、関係ないものです。先日も、市長派だとか反市長派だとかと称するグループに別れ、議長職をはじめとするポスト争いに終始する長い一日がありました。

 それは、数人の議員たちがイデオロギーや政策とは関係なく、全く訳の分からない理由で会派を作り、虚虚実実の駆け引きを繰り返す日です。もちろん、どこの自治体でも同じようなことだとは思います。また私は、議長や副議長が誰であっても、別に構わないのではないかとも考えています。議会での経験がある程度あり、議事進行を速やかに行える人がその任に当れば良いのだと思います。

 それよりも、何故「市長派」とか「反市長派」だかというようなことを先に決め、無条件に体制に付くのか付かないのかなどと、議員自らがレッテルを貼らなければならないのかということの方が、余ほど強い違和感を覚えました。そのようなこともあり、また、立候補前から述べている「今の議会そのものがダメでしょ」というスタンスからも、当分の間私は、無会派の議員という立場を貫こうと思っています。

 そのような、わずかな間にさえ、この町が抱える病の病巣のようなものを感じています。そしてそれは、レントゲン写真の影のように薄気味悪い感覚のものでありながら、かといって、避けては通れないような感覚のものでもあります。うまく言えませんが、重篤な病を宣告され、診察を受けなかった方が良かったのではないか、と、病を得た患者が抱くような感情に似ているかもしれません。

 とはいえ、そのようなことはある程度予想していたことでもあります。ただし、その「病状」についていえば、思いの外重篤であったなぁ、と、いう印象です。さらには、兎角議会関係者が口にする「数の論理」という言葉の意味もあるでしょう。思っている(いた)ほど、短兵急にことは進まないのかもしれません。しかしながら、「市民は見とるよ」という私の言葉に、意外と反応する人が多いのも事実です。

 本当に、現状を憂慮し、活気ある未来や住みよいまちづくりをしていくために、建設的な意見を持っている人はたくさん居ます。一方で、誰がやっても同じだと諦め、白けている市民は増え続けているように思います。そこには、現状の政治への不信感が内包されているのだと思いますが、自分たちが意思を表明し行動しなければ、悪化する現状を止められないのも真実です。

 アクションを起こすことと、白けて目を背けることでは、得られる結果は全く別のものとなります。まさに、明と暗を分けることになるのだと思います。例えば、先日行われた大阪都構想の是非を問う住民投票は、本当に僅差で反対が多数となりましたが、今までの体制で良い、或いは、今までの体制で改革できるなら、そもそも都構想のような議論も起こらなかったのではないでしょうか。

 この問題は、単に大阪市の問題というだけではなく、また、橋下徹という人の出処進退(本人は、政界からの引退を明言しましたが)にとどまらず、今後の政局やこの国の進む方向性にも、大きく影響することでしょう。一方で、この住民投票における投票率と、減り続ける我が市の選挙における投票率などを考える時、私達自身が考えなければならない問題が見えてくるのだと思います。

 誰も、未来は保証できませんが、小さな選択の違いにより人生の明暗が分かれることも事実です。余談ですが、選挙後活字に飢えていた私が、偶然書店の書棚から選んだ本は漱石の「明暗」でした。やはり、これも天啓なのだと思っています。じつは私は、それが漱石の絶筆であることさえ知りませんでした。そして、それは未完の小説でもあります。人間の我執(エゴイズム)をテーマに、明治の日本人の精神性をきめ細かく描写することにより構成された秀作だと思います。

 今は、より多くの人の明暗に関わる可能性が、以前より増したのだと考えています。だからこそ、自らを内省する意識は、強く持たなければならないのだと思います。

 

2015 5月 6日    未来志向で…




 5月になりました。晴れた日は暑い位です。先日、ほったらかしだった田圃を耕しました。米つくりは、到底採算など合いません。それでも、亡き父が残してくれた昭和44年生まれのトラクターに乗りながら、いつものように父と対話してきました。それは、私にとって楽しいひと時でもあります。

 トップページにも記していますが、この度の市議会議員選挙において、昨年の雪辱を果たすことができました。本当に、私自身としては「放っておけないこと」をやり続け、遂には決断せざるを得なかったような感じの立候補でした。それでも、自らの境遇を振り返る時、また、置かれている立場と成すべきことを考える時、宿命のようなものも感じています。

 なによりも、頂いたご支持の多さに込められた期待の大きさを考える時、さらに身が引き締まる思いがしています。これからも、当たり前のことをちゃんとやる事を戒めとして、筋を通す生き方をしていきたいと考えています。そのうえで、住民の思いを形にすることに取り組んで行きたいと考えています。それは、これまでも取り組んでいたことでもあります。

 あくまでも、そのような姿勢は変わりません。しかし、この市の進むべき方向性を考え探っていく取り組みは、より強く深くやって行かなければなりません。もちろん、いくつかのアイデアや指標のようなものは胸中にありますが、施策として紡ぎ研ぎ出していくための努力(きちんとした勉強や検証による裏付けが必要だと考えています)もいるでしょう。

 一方で、議会構成などという言葉もありまして、多数決の理論を背景とした生臭いお話もあります。幸か不幸か、既存の体制を批判し定数削減と厳格な倫理規定の確立を公約に掲げていた私には、「諸先輩方」からの会派参入へのアプローチもあまりありません。「あまりない」といったのは、それとなく探りを入れらりたり、第三者を介した問いかけなどはあるからです。

 とにかく、まだその席を与えられたばかりでもあり、しきたりや前例など殆ど解りませんので、軽々に身を処すこともできません。じっくり考えて、自分の信ずるところにより行動していこうと考えています。そのような意味からは、議会改革・行政改革ををはじめとして多くのご期待を寄せて頂いている身ではありますが、少し長い目で見て頂きたい気持ちもしています。

 なにしろ、これから飛び込んでいく場所は、伏魔殿と評する人もいます。真偽はともかく、一筋縄ではいかない世界だと考えています。先日、初顔合わせに出席しただけで、独特の空気というのか雰囲気を感じました。お互いに目を合せないで着座していく様子は、何というのか、長い間の澱が溜まっているような気がしました。まるで、一般市民の感覚とは乖離した空気にも感じられました。

 率直に言えば、「市民の付託を得て今ここに自分が居り、その期待に応えよう」と積極的に考えている人達の集まりには見えませんでした。中々、形容し難い雰囲気なので、言葉で説明するのはこの位にしておきます。さらには、議長・副議長になるには3期以上の当選回数が必要であるという申し合せなどもああります。もとより、誰がその職を得ても大差ないとは思いますが、どこか不毛な気もします。

 いずれにしても私は、良いことは良い、悪いことは悪いという是々非々で対処していこうと思います。また、そのことは誰が相手であっても同じ姿勢で貫いていこうと考えています。基本的に私は、個人的な恨み(私怨)や利益の供与などで動くことはありません。もちろん、された仕打ちと受けた恩を忘れることはありませんが、そのことを公の人間としての判断に持ち込むことはありません。

 そのような意味からも、未来志向を標榜しています。過去が変えられないことはいわずもがなですが、つい捉われがちな私心をけじめるためにも、私は、積極的に未来志向という言葉を掲げています。自身では、情緒的な人間であるとも思っていますので、そのような意味からも念頭に置いています。情緒的といっても、私は逆境で泣くことはありません。一方、暖かい情愛に触れて涙することは良くあります。

 ともあれ、山積する課題を前に、緒に就いたばかりの現状だと思います。また、その席を与えられたばかりの若輩者でもあります。焦らずに、足元を固めながら進んでいきたいと思います。もちろん、直球ばかりを投げている訳にもいかないでしょう。時には、斜行するような場面があるかもしれません。それでも、筋を通していくための刀は胸に秘めながら、未来志向の改革に取り組んで行きたいと考えています。

 そのことが、私を信じ支えてくれている人達へ報いることであり、信頼の証であると考えています。


2015 4月 14日    桜のまちに生きる

          


 あっという間に、桜も散ってしまいました。私事ですが、お花見どころではない状況です。せめてもの慰めに、撮りためた桜の写真を眺ています。聞くところによると、津山の桜が日本一(ネットランキング)になったとか。

 かねてより、私が言い続けてきた「津山の夜桜は日本一」というフレーズが、現実のものとなってきました。嬉しいようでもあり、少し寂しいような気もします。桜の名所として、世の中の人々に認知されることは意義深いことですが、自分だけが知っているというような、内心で悦に入るような感覚は薄れてしまいます。それは、綺麗な人は自分だけが知っていたい、と、いうような気持ちに似ています。

 それにしても、城郭の階層を形成する石垣の各段に植えられた、ソメイヨシノがひと時の間に咲き誇る姿は圧巻です。幻想的に、咲き誇る桜の花を下から眺めながら、徐々に石段を登って行き、終には本丸跡から二の丸跡以下を見下ろす時、幽玄な桜の海か雲海のような情景が浮かびあがります。初めて見た人は、誰でも息を飲むと思います。

 私が、最も愛する桜の光景といえるでしょう。本丸跡の石垣の縁に立ち、「ねっ」としたり顔で微笑む私の顔を覚えている知人は、幾人もいる筈です。そのような感覚は、夜となく昼となく何度も、桜見物に連れて行った子供達にも継承されているのだと思います。親ばかな話ですが、娘の描いた夜桜の絵に驚かされたことがありました。

 それは、夜空を見上げる桜の枝と枝の間に、美しい月が描かれているものでした。そのアングルこそ、彼女が子供の頃見上げていた夜桜の光景であったのだと思います。単に、自分の嗜好につき合わせていただけかもしれませんが、そのような感覚が備わっていたことに、驚きと喜びを感じました。ことほど左様に、人の情緒感や価値観の形成に影響するのが幼少期の体験だと思います。

 これは、負のイメージですが、塊の椎茸を苦手とする私の条件反射的な味覚も、小学校一年生の時の学校給食の思い出に起因しています。私に限らず、人間の情緒感や価値観の形成には、幼少期の体験が深く投影されます。また、そこに個性が育まれるのだと思います。もちろん、同じ体験をしても、受け取る側における感性の差異により、発現される結果は異なります。

 それだからこそ、子供の頃の教育がとても重要なのです。例えば、胸に手を当てて考え、恥ずかしいと思うことはやらないとか、お天道様は見ているなどという教えは、かつては当然のようにいわれていたことです。ところが今日では、「法律で許されているから~」という言葉をたてに開き直る政治家を良く見かけます。そうなると、恥ずかしくないということは強みにさえなるようです。

 たとえ、弁舌鮮やかに綺麗ごとをならべても、その人の生き方が伴っていなければ、それは空しいばかりです。法律に依拠するのではなく、人として恥ずかしくないか、と、いう自浄能力を持つ必要があるのだと思います。このことを、叩けば誇りが出るようなやんちゃな時代を過ごした私が、偉そうにいうことではない、と、前置きしながら話すと、そんなお前だからこそいうべきなのだと、励まされたことがあります。

 本当に、そうかもしれません。むしろ、この頃ではそのようにも思います。そんな自分だからこそ、自分を棚に上げてでも思うところを述べよう、と、考えるようになりました。そして、地域の子供たちを相手に挨拶をすべしなどと、力説することもあります。一方で、そのことは自身の内省にもつながります(人のふり見て我がふり直せの逆バージョンとでもいいましょうか)。

 桜の話から、教育の大切さ(特に幼少期における)へと話は流れてしまいました。それは、愛する町やその風景に思いを寄せる時、そこに住む人間の資質の大切さを思うからです。人さえ良ければ、町は良くなる、と、いうより、人が良くなければ良いまちはつくれないのだと思います。本来は、この時期述べるべきは、政策や政治信条の披瀝だと思います。

 そして、お読み頂いている方々のご支持・ご支援を強くお願いすることを、小欄の目的とすべきかもしれません。しかしながら、今回はあえて大好きな桜と日本人の心のような話をしました。そこには、私自身の覚悟を再確認する意味がありました。またそれは、決して綺麗ごとなどではなく、一口では言えないほど過酷で特殊なシチュエーションの中で、何とか人並みと思えるような感性を醸成させてくれた、私の周りの人達への感謝の気持ちでもあります。

 とにかく、「当たり前のことをちゃんとやる」ことを、心に戒めながら生きていこうと思います。


2015 3月 16日    あたりまえのこと


 


 春や名のみ~というところでしょうか。まだまだ、寒い日が続いています。それでも、遅くなった日の入り時刻や陽射し自体の柔かさに、確かな手応えも感じます。春は、そこまで来ています。

 本当に、月日の経つのは早いものです。一年前の今頃は、人生最大ともいえる挫折感をあじわいました。何が正しくて、何が間違っているのかさえ疑うような、不条理な現実と向き合いながら過ごしていたと思います。一方、その後の出来事やそのことへの対応などをみても、危機的なこの町の現状がよくわかります。いずれにしても、改革が急務であることに違いはありません。

 もとより、厳しい道のりであることは覚悟していましたが、それをはるかに上回る逆風さえ感じます。既得権益や、利益誘導などという言葉に慣れ親しんでいる人々からは、「あたりまえのことをちゃんとやりましょう」などという人間は、邪魔にこそなれ受け入れ難いものなのだと思います。改めて、自身の覚悟を確認し、ぶれない決意を固めなければなりません。

 「あたりまえのことをちゃんとやる」などというのは、抽象的な表現であるともいえるでしょう。それこそ、そんなのあたりまえだろう、と、いう声が聞かれそうです。また、ちゃんとやっている人間なんかいるのか、と、いう人もいるでしょう。或いは、あたりまえって何だと嘯く人も居るかも知れません。考えてみれば、あたりまえを定義することは難しいことかもしれません。

 むしろ、大切なのは、あたりまえを定義づけることではなく、あたりまえの生き方をしていくことだと思います。このように述べていくと、論旨が矛盾するようですが、そもそも矛盾が多いのが世の中ですし、自身で読んでいても強ち違和感は感じません。例えば、自治会組織のリーダーなどは、誰が見ても相応しい人がなるべきだと思いますが、その相応しいの定義も抽象的なものです。

 とかく、現代社会では二言目には違法か適法かなどと論争しがちですが、人が人らしくあたりまえに暮らしていれば、それほど諍いなどは起こらないはずです。また、本来の日本人が備えていた筈の恥を恐れる精神があれば、自ら出処進退を潔くすることができる筈です。そのようなところが、今のこの国において崩れてきているのだと思います。

 だからこそ私は、自分を棚に上げてでも、このようなことを述べ続けているのだと思います。古来、我々日本人の文化は、簡単に言葉にできないような高度な意識や、崇高な精神性を追及する人々の姿勢の上に成立してきたのだと思います。そのことをないがしろにして、どのような施策を講じても、或いはそのための議論を白熱させても空しいことだと思います。

 とはいえ、私が踏み出していこうとしている舞台や、日常対峙しているところの、とりあえず解決しなければならない課題への対応という場面では、そのような精神論ばかりでは対応できないことも事実です。また、瞬間的な判断なども求められますし、落としどころや折衷案を考えなければならない場面もあります。実に、多様な状況に出くわすのが現実です。

 本当に、人生は複雑で難しいものだと思います。また、生きていればこその煩わしさもあります。まさに、「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ」という、漱石の草枕の出だしが思い出されます。そもそも、草枕自体が中々難解な物語(ストーリーではなく、ディテールの理解という意味で)です。それは、漱石の博識さ故に感じることではありますが。

 ただ、「とかくに人の世は住みにくい」ことには変わりなく、言い得て妙である表現の代表だと思います。そして、その住みにくさが高じてどこかに越してみたとして、どこに越したところで住みにくいと悟った時に詩が生まれ画ができる~という視座にたった、絵かきの視点から草枕の物語は語られます。そして、美しい人の茫然とした表情に内面からの「憐れ」が出た時に「絵になる」と絵かきは締めくくります。

 まさに、定量的に説明できない心の内面にこそ、人としての特性があるのだと思います。だからこそ、抽象的な表現であっても「あたりまえのこと」が大事だといえるのではないでしょうか。そして、そのあたりまえのことをちゃんとやっていくことが、私の残された人生における最大の仕事でもあると考えています。もちろん、それは草枕の主人公のように、色々迷いながらの歩みではあるかもしれません。

 「あたりまえのことを、ちゃんとやる」それは多くのことを語る前の、基準となるべき信条だと考えています


2015 1月 29日    熱く語ろう




 大寒です。一年で、最も寒い季節です。ともすれば、背中が丸まりそうですが、丹田に力を入れて
居住まいを正しましょう。先ずは、形だけでも凛としていたいと思います。

 古来からの例え通り、あっという間に1月も行ってしまいそうです。決め事や、目の前のやらなければならないことをこなしているだけで、今日まで日にちが過ぎてしまいました。本当に、意に任せないのが世の常です。とはいえ、過去は変えられません。人は、変えられる未来に向かって、進んで行かなければなりません。そのような意味からも、時間の貴重さを痛感しています。

 そんなさなかですが、わが町の洋学資料館の館長が、箕作家に関する(秋坪に関してだったと思いますが)講演を行ったという話を聞きました。そのことは、私も地方紙の記事で知っていました。しかしながら、その当日はどうしても都合がつかず、聴きに行くことができませんでした。地元愛が強く、歴史に関する造詣の深い彼の熱い語りは、一聴の価値があります。本当に、残念でした。

 そういえば、かつてホルモンうどんを盛り上げるために、汗だくになりながら、一生懸命にコテを握っていた姿を思い出します。また、幾度目かのB級グルメの大会で、ベストスリーから陥落した時に、「4位は、立派な成績だ」と励ましたことがありました。彼は、そのことも良く覚えておいてくれ「褒めてくれたのは、貴方だけです」、と、後日語ってくれたことがありました。

 それから、何時でしたか、この町の洋楽資料館の館長になられたことを聴き、資料館を訪問した時に、懇切丁寧な説明をしてくれたこともありました。特に、箕作家の前の宇田川家の間(資料館の見学順序が、そのようになっている)だけでも、一時間以上に渡り、色々と歴史に関する、興味深い話を聴かせてくれました。本当に、良く勉強されていることと、その熱意に感心したことを覚えています。

 彼も、私の好きな「熱い人」の一人ですが、名古屋山三郎に関する件では、少し言いたいことを保留しています。といっても、これから世に広めていくためのことですから、きな臭い話ではありません。もとより、「にらみ合いの松」の側で育ち、暮らしてきた私は、山三郎の生まれ変わりを標榜する資格があると考えておりますので、「俺にも、一声かけろ」というような、他愛もない話です。

 ところで、それこそ「忙中」を掲げている私ですが、そのような中でもよき理解者や会いたい人、或いは癒される人達と、今年も(始まったばかりですが)様々な場面で、面会する機会を得ました。その一々を、披瀝することなどはできませんが、本当に有難いことだと考えています。敬愛すべき先達の方々、と、いう言い方しかできませんが、有難さと、我が身の未熟さを感じるばかりです。

 例えば、同じ励ましの言葉であっても、そのような人から聴くと本当に有難く胸に響きます。言葉というものが、言霊として成立し得るのは、やはり、それを吐く人の生き様に由来するからなのだと、改めて思います。丁度、今年の大河ドラマの題材となっている松下村塾も、松陰という言霊を吐く人物から、熱い影響を受けた人達を多く輩出し、その彼らが、維新の英傑に育っていったのだと思います。

 これも、いつか述べましたが、人の思いは熱伝導なので、熱い人でなければ、他者にその思いを伝えることはできない、と、私は考えています。「諸君、狂え」と吠えた松陰は、まさにその代表ですが、一方で、松陰の教えを忠実に具現化したのは、彼の弟子達の中の維新の生き残り組でもあります。帝国主義的な思想をどのようにドラマで描くか(描くことを避けるか)と、歴史家磯田道史氏は語っています。

 誤解を恐れずに述べましたが、ただ美化するだけの「松陰先生」ではなく、人間吉田松陰の魅力を知ることの意義は、本当に大きなものがあるのだと思います。私自身、「世に棲む日々」の中に記されている、晋作が松陰の亡骸を持ち帰る際の、「家茂に聴け」という官吏に向けた言葉を読み返す度、本当に胸が熱くなります。松陰の存在感、晋作の敬愛ぶり、そして司馬遼太郎の筆致の素晴らしさに……

 もとより、松陰や維新の英傑達と、私如きの心情を同列には語れませんが、人の思いや志などというものは、言霊のように高められた言葉でなければ、他者には伝わらないものだと考えています。そのような意味からも、研鑽の継続は必須だと思います。今年も、「熱く語るは酒席ばかり」などとならないように、自身を戒めながら「良い人」達と語り合う機会を作っていこうと考えています。

 箕作秋坪、佳吉、三叉塾、ゴブリンシャーク…、美味い酒の肴となるネタは枚挙の暇がなく、その相方とすべき人達の顔も、次々に浮かんできます。やれやれ、舌の根も乾かぬ内にこれでは……



 

2015 1月 7日    年頭所感



 

 あけまして、おめでとうございます。元日から、私の住んでいるところは積雪に見舞われ、寒い正月となりました。とはいえ、「雪多ければ、豊作をもたらす」という言葉もあります。良い年を、祈りましょう。

 本当に、広義にも狭義にも、良い年になることを願うばかりです。広い意味では、平和なこの国の安寧を、個人的には、自らの志を貫くことの完遂を祈りたいと思います。一方で、何のためであったのかと、首を傾げた暮の解散・総選挙、そしてその後の、あまり変わらない政情を眺めながら、舵を取る人達の矮小化と大衆からの乖離を懸念する気持ちも深まりました。

 いきなり、ぼやきそうになりましたが、ぼやいていても何も始まりません。また、過去は変えられません。したがって、前を向いて、自分のできることをやっていくだけなのだと思います。さらには、経験を積むごとに、進歩していかなければとも思います。などと、訳知り顔の切り出しですが、今年の正月も、いつものそれと大差ないものでした。

 元日恒例の麻雀では、数十年来のメンバーの歴史でも、初めてのような役満(大三元・四暗刻・単騎)を、僅か7順目であがった「病み上がり」の人がおりまして(そのことを、冷やかされたりして)、大いに盛り上がりました。というのも、もう何年も前から、当日の宴会費用(正確には、買い出し費用)の割り勘をかける程度でやっておりますので、あまり財布が傷む人もおらず、楽しいばかりのひと時でした。

 また、二日・三日は雑事のかたわら、箱根駅伝を見ました。往路5区の、新「山の神」神野大地選手の大活躍もあり、青山学院が往路優勝及び総合優勝の初栄冠に輝きました。タイムも、10時間50分を切る素晴らしい新記録でした。何よりも、楽しそうに走り、また、一年生から四年生まで、選手間の信頼関係がしのばれる、好感の持てる良いチームだったと思います。

 一方で、5区の駒沢大のブレーキ、10区の、中央大がほぼ手中にしていたシード権からの脱落という、予想外の失速に関して岡山(倉敷高校)出身の選手が関わっていたことが、とても残念でした。最後まで、走り切った選手を責める気は毛頭ありませんが、その背景を考えてみる必要は、あるのかもしれません。確実にいえることは、若い選手にとっての指導者の大切さだと思います。

 例えば、暮の都大路における、興譲館高校の襷渡しの時の態度や姿勢に、疑問を感じた人もいると思います。苦言を呈すようですが、「指導者が変わると~」といわれないための取り組みが求められます。一方で、それは本当に難しいことでもあります。「おそらくは、同じことをしているはずなんだが」と、見識の高い先輩が語られていましたが、伝統を継承し磨いていくことの大変さを、垣間見た気がします。

 そういえば、、流通大柏に終了間際に追いつかれ、PK戦の末惜敗した作陽高校の野村監督から聴いた「過去は変えられない」という言葉が思い出されます。もちろん、その言葉は彼の口から聴くからこそ、意義深いともいえるのですが。また、ラグビーの強豪大阪朝鮮高校と引き分け、準決勝で王者東福岡を苦しめた、尾道高校の健闘も光りました。今年も、若いスポーツ選手達から、多くの感動を貰いました。

 若いということは、ただそれだけで素晴らしいことだと思います。一方で、歳を重ねてきたからこそ解ることや、感じられるようになったこともあります。例えば、何でも解る(知っている)し、解るように(できるように)なれると考えていた若い頃から、覚えている筈のことが記憶の底から取り出し辛くなり、また、歳を重ねるごとに、知らないことばかりだと気付くまでに、私自身もたくさんの時間を要しました。

 本当に、知らないことばかりです。また、知識のみを頭で理解していて、身体でわかるところまで達していないことだらけだ、とも、いえるのかもしれません。かといって、物事を悟れるような、深く透徹した思慮なども持ち合わせていないので、迷うことしきりです。それでも(だからこそ)、私利ではなく公利を念頭に置き、秋山好古のように単純明快な決断をしていきたいと思います。

 幼少期の松陰を厳しく鍛える玉木文之進のように、強く厳しい指導者を得てはおりませんが、ふと、我に返り、冷静に判断することを促してくれるような、暖かい友人知己には恵まれていると思います。 そういえば今年は、何年かぶりで「花の中一トリオ」(三馬鹿トリオかも)の会をしました。時が経っても、瞬時に「あの頃」に戻れる仲間です。この三人でしか醸し出せない、絶妙の時間を味わうことができました。

 そのような、多くの人の信頼を大切にしていかなければ、と、静かに決意を固めているところです。



2014 12月 25日    一年を振り返って




 今年も、あとわずかです。加齢とともに、短くなる「一年間」ですが、公私に渡り、多くの出来事がありました。「生きていく私」にとっては、思い出深い一年でもありました。

 そもそも今年は、年初から、生涯最大といえるような挫折感も味わいました。本当に、人間社会の不条理や、信条を貫くことの難しさを痛感した年でもありました。一方で、それは誰にでも経験できることではなく、貴重な体験ともいえるでしょう。今では、自分を磨くという意味があったのかなぁ、と、思えるようになってきました。

 もちろん、それには多くの時間を必要としました。また、理解・支援してくれる人達の暖かい思いやりがあったことは、いうまでもありません。改めて、人は一人では生きていけないのだということを、強く実感しています。今更ながら、そのような周りの人達への感謝の思いと、志の大切さを胸に深く刻んでいます。さらには、今後の身の処し方や、その責任の重さも感じています。

 思えば、無常な人生の中で、人との繋がりや関わりを強く感じる年でもありました。 そういえば最近、玄侑宗久氏の著述で方丈記の解説を読みました。もちろん、人生は無常です。しかし、その上で「無常という力」に言及する宗久氏の説に、日本人独特の感性と価値観を感じました。考えてみれば、800年前の鴨長明さんも、そのような思いで方丈記を記したのかもしれませんね。

 また、最近は清張の短編集「証明」や、「軍師の境遇」などという異色作も読みました。さらには、新しくできたイオンモールの本屋で、ほんの僅かな周五郎の蔵書から「ならぬ堪忍」に手を伸ばしてしまいました。これも、別の意味での天啓と苦笑いしています。一方、テレビではナンシー関のドキュメンタリーが印象的でした。かつて、週刊プレイボーイに掲載された、消しゴム版画と絶妙のコラムを思い出しました。

 亡くなった人といえば、大俳優高倉健さんと、我らが文ちゃんこと、菅原文太さんの相次ぐご逝去がありました。私達が、最も影響された時代の、顔ともいえる人達の他界は、何となく余生なども考えさせられ、寂しい思いがします。特に、後年の菅原文太氏の言動の中に、次世代の人達への思いやりを感じていましたので、残念さが残ります。

 そして、人は時間とともに変わり、また、成長していくものだということも教えられました。改めて、自戒の思いを抱いています。いわずもがなですが、今年も、年初から師走のつい先日まで、身近な友人知己との別れを経験しました。人生の一時、同じ時間を共有しながら、先に逝った仲間達に、感謝と哀悼の誠を捧げたいと思います(特に、若い人との別れは辛いものです)。

 一方で、新たな出会いというのもありました。今年も、人生の先達といえる人や、意義ある影響を受けられる人と、新たに巡り合いました。もちろん、旧知の間柄であっても、絆や交遊を深めあえた仲間がいたことは、いうまでもありません。今年も、そのような人達と、美味い酒を飲む機会が、幾度かありました。中でも、秀逸或いは白眉といえるのは、小欄の文章について、師匠からお褒め頂いたことです。

 参考とすべき欄も多く、文章の稚拙を恥じるところですが、師匠の前言は、志と絆を忘れず、遠路忘年会に足を運んでくれた「年長の孫弟子」に対するものでした。恥ずかしながら、嬉しく励みとなるものでした。今後も、研鑽を続けなければと思います。とにかく、伝えたいことを、いかに短い文章の中に込めるか、と、いうことが課題だと思います。その点は、技術士論文にも、通じるものかもしれません。

 ともあれ、今年もソチオリンピック、ブラジルワールドカップをはじめ、多くのスポーツシーンを見ました。全米オープン決勝進出という、錦織圭選手の大活躍もありました。ボクシングでは、相変わらずメイウェザーを倒す選手は、現れずというところでした。また、プロ野球では、やはり両リーグの一位同士が日本シリーズを戦うべきだなぁとも思いました。一方、全国高校駅伝の、岡山県勢不振は少し残念でした。

 他にも、将棋界の羽生復活(失礼かも)の動き、囲碁界では、王者井山の牙城の一角を崩した、村川大介八段の活躍もみられました。一方、、今年もノーベル賞受賞者が出るなど、我が国の文化度の高さを感じました。反面、スタップ細胞事件のような、研究を支え育むという意味における、母胎となる基盤のの脆弱さも感じました。大人が、取り組まなければならないことは、沢山あるのだと思います。

 「この道しかない」(阿部晋三)というけれど、「道はいくらでもある」(松下幸之助)といえる指導者にこそ、人は心を動かされるのではないか、と、考えています。ご愛読いただいた皆様、良いお年を。


2014 12月 1日    白けてばかりはいられない




 師走です。彼方此方で、忘年会の声がきかれます。好むと好まざるを別として、年々、足を運ぶ席の数は増えていきます。嬉しいような悲しいような……大人をやっていくのも、大変だなぁと思います。

 秋の行事ラッシュが終わり、やっと一段落というはずでしたが、俄かな解散風が吹き、慌ただしい師走となりました。庶民に、その効果が実感されないままの、アベノミックスを世に問うことが争点だそうです。しかし、それが本当に、衆議院を解散すべき大義といえるのでしょうか。そもそも、消費税の増税は法制化されており「世に問う」必要はないはずです。

 普通に見ていれば、来年の厳しい政治日程や、野党の準備ができていないことなどを背景とした、また、相次ぐ閣僚の辞任による求心力の低下などを払拭するための、独善的な解散であることは素人にもわかることです。また、それらすべての根源に、阿部総理自身の政権の長命化を目指そうとする意図が、容易に見通せるのではないでしょうか。

 どことなく、かつて見た郵政解散時における小泉総理を思い出させる口調で、テレビに語りかける阿部総理は、その再現を目指しているようにしか思えません。本当に、世に問うべき事項というなら、集団的自衛権や特定機密保護法などに関して、国民の信を問うべきであると思いますが、果たして劇場型選挙の再現は図られるのでしょうか。個人的には、極めて懐疑的な感じがします。

 私自身の感覚からも、周囲の声を概括しても、むしろ、白けたため息をつく人が多いように思います。その理由として、600億円とも700億円ともいわれる費用をかけて、何故、年末で忙しいこの時期に、選挙をやらなければいけないのか、と、いう声が良く聴かれます。また、二世・三世のお坊ちゃま方には、庶民の生活感や苦労は解らないのではないか、と、揶揄する声も耳にします。

 中央政界ですら、公約であるはずの定数削減もできないまま、解散・総選挙に突き進んでいくのですから、地方の議会や地域社会において襟を正せという声が通らないのも、無理のないところなのかもしれません。結果的に、政治への無関心が拡がり、「誰がやっても同じ」感が蔓延していきます。しかし、油断していると小賢しい人間や、身勝手な利己主義者達を暗躍させる危険性は高まります。

 特に、地方の行政組織などにおいては、有力者や権力者といわれる人達の間における利権争いなどが根底に隠れた図式で、首長をはじめとする様々な選挙は行われがちです。また、「誰がやっても同じ」的な白けムードの中においては、その人を吟味するよりは○○さんに頼まれたというような、安易な決断で投票行動が行われることが多いように思います。

 結果的に、選挙の論功行賞や個別の人間関係などを規範として、大切な血税がおかしな使われ方をされてしまう懸念は高まってしまいます。急激な高齢化が進み、どの地域も人口減少は加速度的に進んでいます。それでなくても、就労機会が少なく生産人口が減少する地方において、自治体の税収は伸び悩みの状況です。目先の利権や、既得権の奪い合いなどに奔走している場合でないことは自明です。

 しかしながら、そのようなことは国家という大きな政体から地域コミュニティという小さな場所まで、似たような構図を背景に行われてしまいがちです。本当は、それではいけないこと位、誰でもが知っている筈です。だからこそ、今一度子供や孫の世代のことまで良く考えて、私たち自身が生きていく方向性を模索していく必要があると思います。その上で、選挙などに際しては、責任ある行動をとることが大切です。

 本当に、政治の恐ろしさは「転がりだしたら止まらない」ところにあると思います。特に、この国においてはその傾向は顕著で、過去の不幸な歴史を見てもそのことは良く解ります。だからこそ、自由な発言と意思表示ができることを、大切にする必要があるのです。またそれは、例え「誰がやっても同じ」という空気が蔓延していても(だからこそ)、その中における最善を模索しなければならないのだと思います。

 実際に、そのような努力をすることが、大人であることの責任を果たすことなのだと思います。私が子供の頃は、そのような大人がたくさん周りにいたはずです。今よりも、経済状況も平均的な知的水準も、けっして高かったとは思えないけれど、いや、少年の目から見れば破天荒と思われた人でも、今の大人達よりは国のことや社会のことを語っていました(考えていたような気がする)。 

 それは、「誰も見ていなくても、お天道様は見ている」が、普通に言われていたころであったと思います。



2014 11月 5日    知る人は知る


         

 めっきり日が短くなりました。秋は、深まっています。この頃、その深みや味わいの実感も強くなったような気がします。年齢を重ねなければ、解らないことや気付かないことがあるのでしょう。

 本当に、そうですね。年齢や、経験を重ねないとわからないことは沢山あります。私自身も、今、そのことをしみじみ感じています。振り返ってみれば、頭でっかちな人間であったのだなぁ、と、思います。また、随分あまちゃんな人間でもあったなぁと思います。この「あまちゃん」のところを、言い方を変えれば(良く言えば)、正直すぎたということになるかもしれません。

 これまでも、そのことにより単に「不利益」では済まないような、痛い思いを味わわされることもありました。損とか徳とかという尺度でいえば、損をしてきた部分もあるように思います。脇の甘さも含めて、もう少ししたたかさを備える必要があるのかもしれません。今後、一層熟慮を要する場面が増えると思えば、それは本当に大切なことだと思います。一方、損徳を抜きにして、人として考えなければならないこともあります。

  例えば、目先の利益やしがらみに捉われ、通すべき筋や信条を曲げてしまったのでは、何をかいわんやです。そのことは、どんな人でも同じことだと思います。さらにいえば、見る人は見ているのだと思います。どのように、要領良く立ち回っても、見る目がある人の目はごまかせないし、反対に、無骨で非効率的に生きていても、心ある人は見ています。そのようなことも、別の意味において肝に銘じておく必要があるでしょう。

 ところで私は、どちからかというと、一般的ではない人生を歩んでいるように思います。そして、近年においては、その傾向はさらに強まっているのだと思います。また、普通の人が体験しないような、経験をする機会も多くなりました。それにつけて、心の傷は澱のように溜まります。一方で、そのおかげというのか、以前より他者のことが良く見えるようになってきた、と、いう成果も得られました。

 本当に、人間の表と裏というのか、人の世の奥深さについて、以前よりも深く感じられるようになった気がします。そのような、自身の心象を背景としていたのでしょう。最近も、まさに天啓と思えるような本の選択をしました。それは、色川武大の「うらおもて人生録」、正岡容の「小説圓朝」の二冊です(心象を投影させても、背表紙のタイトルだけでは内容は解りませんので、やはり天啓ということにしておきます)。

 色川武大といえば、麻雀の神様と呼ばれた阿佐田哲也のことです。私達のような、不埒な者たちには伝説的な人で、一種憧れの人ともいえるでしょう。映画で、麻雀放浪記を見た人も多いと思います。その人の、実体験を基にして若者に問いかける形式の著述が「うらおもて人生録」です。一方阿佐田さん(そう、呼びたくなる)は、直木賞はじめ幾多の文学賞も受賞しています。

 あくまでも、自身を劣等生と位置付け、そのような若者に語りかけるような口調で、暖かく語りかけてくれているエッセイです。しかし、その言葉の奥に秘めた体験は、深い闇の深淵に片足をかけるような修羅場を超えてきた人のものであることが、鈍いボディブローのように伝わってきます。読むほどに、味わいが増すような一冊でもありました。

 一方の、正岡容(いるる)という人は、 1904年(明治37年)~1958年(昭和33年)を生きた人です。本を手に取り、何よりも惹かれたのはその没年でした。何というのか、私の生まれた年に亡くなった人の遺志に導かれたような気がして、それ程の期待もせず読み始めました。明治の大名人である、三遊亭圓朝の名前位は知っていましたが、その落語にかける想いと修業時代の苦労は、胸に迫るものでした。

 また、芸道に関する卓越した著者の造詣と愛情が、各場面の描写描写に見事に投影されており、夫々の場面が映像として現実的に浮き上がってくるようでもありました。我が愛すべき立川談志にして「修業とは、人生の矛盾にたえること」と言わしめた、芸事の世界における厳しい修行の過程においても、一貫して志を失わず、その上で人としての情愛と自身の内省を貫く圓朝の姿勢が、見事に描かれていました。

 圓朝の辛抱を想えば、自分など本当に甘ちゃんだと思います。一方で、理不尽を受ける圓朝を影から支援してくれる桂文楽のような存在にも、心が慰められました。私の好きな米朝のあとがきとあわせ、正岡容という人の偉大さを感じる読後感でした。また、何時の時代でも、志あるものを助けてくれる人はいるのだということを、信じさせてくれるものでした。

 ふと周りをみれば、私の周りにもそのような有難い人達が、たくさんいることに気が付きました。その人達のためにも、前を向いて生きていきたいと考えています。

                                                                   このページの先頭へ