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これまでのコラムが納めてあります。
できれば、通してお読みください(根底に流れるものを、くみ取っていただけると思います)。
 

                     ホーチミンの朝を歩く          神保町すずらん通り         久米梅の里公園           スローライフ列車         津山城跡の夜桜

NO.32       

2016 4月 20日    ワイドショー文化への懸念



 つかの間の夢のように、桜は咲き、散ってしまいました。その余韻に浸る間もなく、熊本から惨劇の情報がもたらされました。まだ、正確な詳細状況さえ解りませんが、犠牲者の方々への哀悼と、多くの被災者の皆さんに、心よりお見舞いを申し上げます。熊本は、私にもご縁のある土地です。一際、心が痛みますが、先ずは出来ることを探りながら、様子を見守るだけです。

 さて、 本当に桜の花が持つ魅力は、筆舌に尽くしがたいものがあります。私は、この花のように、甘美な情念と切なさを同時に想起させる花を、他に知りません。生涯、魅了され続けるのだと思います。そして、これまでにも残してきたように、色々な思い出を心に溜めていくのだと思います。もちろん、親鸞の仇桜のように明日の命は約束されていないので、そのように願うばかりです。

 ところで、時には甘美なこともある人の持つ想念は、胸の中にある時と発現された状態では、大きく状況が変わってしまうものでもあります。昨今は、謝罪ばやりというのか、政治家の政治と金に纏わるお話や、或いは芸能人・有名人の不倫等に関して、あちらこちらで謝罪会見などが行われています。時には、誰に何の目的で謝罪しているのだろう、と、思うこともあります。

 一方、誰でも不正に公のお金を使うことや、闇カジノでの博打などをしてはいけないことは知っているはずです。それでも、その誘惑につい負けてしまうのが人間ですし、それに起因する事件が起きるのが人の世の常でもあります。とはいえ、私たちの多くは常識や理性を駆使して、そのような行動に走らないように自分を戒めてもいますし、当事者となることは少ないでしょう。

 しかし、例えば極端ともいえる、他者を殺してやりたいと思うような気持ちについていえば、そのことを頭に強く描くことと殺人犯が本当に実行する場合を考えると、心中の情念の部分においては、それ程の差は無いようにも思います。それでも、実際に現れる結果においては天と地の差が生じます。まさに、一歩踏み越せば地獄というのが、人生というものなのかもしれません。

 他方、文学における小説の執筆などを考えると、本当に、行動に移す一歩手前までのイメージの想起が必要なのだと思います。もっといえば、常識や一線を超えた体験をモチーフにする人もいるはずです。実際、人の心の中にある情念は、他人が手出しできないものです。だからこそ、面白いものでもあります。したがって、人の心の中の有り様は、他者からの興味を惹くことになるのでしょう。

 また、そのように、他者の心に興味を持ち面白がる気持ちは、誰でもが持ち合わせているものでもあります。そのことが、今日のワイドショー文化を支えているともいえるでしょう。しかしながら、そのワイドショー文化に対する、私の懐疑的な思いは深まるばかりです。それは、大衆の持つ興味に対する迎合姿勢が、あまりにも強くなりすぎていると感じるからです。

 そもそも私は、ニュースはニュースとして、起きた出来事をそのまま報道すれば良いのだと思っています。それでも、内容によっては一般の人が理解し辛いものもありますから、その分野に精通した人が解説するようなことは必要だと思います。また、マスコミの力でなければ明るみに出せないような、社会問題を世に問うような報道も必要だと思います。

 さらには、テーマを選び時間をかけて取材する必要がある、ドキュメンタリー番組なども制作される意義があるのだと思います。しかしながら、毎日、何時間というような放送枠を予め確保し、タレントや医師・弁護士など文化人といわれる人達が、何の話題についてでもコメントするのがワイドショー番組です。私は、そこのところに、違和感を感じずにはいられないのです。

 また、誰かの落ち度を見つけては、正義の味方然として吊し上げていく姿勢に恐怖感さえ覚えます。さらには、ネット社会に振り回される傾向も顕著です。「保育園落ちた、日本死ね」で、待機児童問題が進展することは良いことだと思いますが、それも、都会と田舎では全然状況が違います。一方で、高齢者やその家族が「老人ホーム落ちた、日本死ね」と書き込めば、誰が取り上げてくれるのでしょうか。

 現状のような、ワイドショー文化による吊し上げの構造が、誰も何も言えなくなる空気を助長していることは確かです。一方でそのことは、電波法に関して「ものが言えなくなる空気」を敏感に懸念しているマスコミが自ら、自分の首を締めているようにも見えます。ゲスな不倫や色恋沙汰と、政治・経済の問題が同列ではないでしょう。また、他者への寛容や、将来ある若者を見守る度量も社会には必要なはずです。

 もちろん、多様な情報ソースを吟味し冷静で的確な判断を下していく素養を、私達自身が身に着けていかなければならないことは、いうまでもありません。
  

2016 4月 5日    持続可能な開発…




 ようやく、桜が咲きました。西行をはじめ、古来多くの文人墨客が愛でた花ですが、私にとっても一番好きな花です。一時を惜しんで咲く姿と、あまりにも潔い散り方が、日本人の情緒感にあうのでしょう。

 さて今年も、地域のお祭りや親しい人達との花見の宴など、桜に纏わる行事は目白押しです。本当に、多忙な日々ですが、一方で、充実した日々であるともいえるでしょう。実際、桜が咲かなければ、或いは地域の歴史や文化、伝統がなければそのような日々も過ごせないわけです。さらにいえば、それ以上に必要なものは無いといえるかもしれません。

 先日、テレビでウルグアイの元大統領のことを知りました。2012年のリオ会議(RIO+20地球サミット2012国連持続可能な開発会議)における彼のスピーチは、とても印象的でした。そしてそれは、私がこれまで考え続けてきた「人類は、経済成長を続けなければいけないのか」という疑問と符号し、本当の意味での幸福論や人類の持つべき価値観を示唆しているものだと感じました。

 例えば、『ドイツ人が、一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てば、この惑星はどうなるのでしょうか』とか、『息するための酸素が、どれくらい残るのでしょうか。西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を、世界の70億~80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?』という一説などは、本当にその通りだと思います。

 私も、十年以上前から中国の全家庭がエアコンをガンガン使い、中国人全員が自動車に乗るような、日本人のような生活をしだしたらどうなるのかと考え、小欄などでも触れて来ました。実際、世界経済に大きな影響を及ぼすようになった中国における消費は、PM2.5のような大気汚染や水質汚染を含めた環境への悪影響など、地球規模での環境負荷を伴っています。

 まことに、ホセ・ムヒカ氏の言う通り、人類が考え出したマーケットエコノミーにおよるグローバリゼーションが、無限に消費と発展を求める社会を作ってしまったのだと思います。また彼は、「貧乏な人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」という先人の言葉を引用し、我々自身の生活スタイルを見直す必要があると説いています。

 さらに彼は、本当の幸福とはどのようなものかについて考え直す必要があり、発展は人類に幸福をもたらすものでなければならないとも述べています。そして、それこそが環境のために戦うことの一番大切な要素である、と、スピーチを結んでいます。この彼のスピーチは、それ程長いものではありませんし、検索すればすぐに見られるものですから、ご一読をお薦めします。

 私は、翻訳された彼のスピーチを、まさに我が意を得たりと思うような思いで読みました。一方で、技術士試験の勉強中に目にしたアジェンダ21(92年のリオ会議で採択された、環境分野での国際的な取組みに関する行動計画)や、サスティナブル・デベロップメント(持続可能な開発)という言葉を思い出しました。当時は、単に受験対策の一環としてその言葉を覚えました。

 しかしながら私は、この「持続可能」という言葉が腑に落ちずにいました。そしてそれは、今日でも考え続けていることでもあります。この度目にしたホセ・ムヒカ元大統領のスピーチは、そのことを今一度私に想起させてくれるものでした。そのうえで、私が思い描いていたイメージに対して、肯定的なヒントを与えてくれるものでもありました。

 本当に、私たち人類は「消費を続けるために使い捨ての社会を続ける」ことの愚に気付く必要があり、生き方そのものを見直す必要があるのだと思います。またそれは、爆発的に増え続けるこの星の人口などを考える時、悠長に考えてはいけないことであるとも思います。自分自身の反省も込めて、イメージや他人事のような感覚ではなく、真剣に考えなければならないのだと思います。

 毎年、春になると私の愛する桜がいつものように咲き、生ビールが美味い位の暑さの夏が訪れ、美しい紅葉を眺められる秋があり、友と鍋を囲める冬が廻ってくるこの国の四季が、これまで通り繰り返されるような状態で、私達は次世代にこの星を繋いでいかなければなりません。私も、少しでもできることを考え、やれることをやりながら生きて行こうと思います。

 そして、そのためにも、本来の日本人が養い培ってきた精神性への回帰が、必要なのだと思います。



2016 3月 22日    縁(えにし、ゆかり)





 お彼岸を迎えました。タイヤも、冬用から標準に戻しました。梅の満開も眺めました。本格的な春も、そこまで来ているのでしょう。

 卒業式の季節です。今年も、小学校・中学校の卒業式に出席しました。日程の都合で、幼稚園には行けませんが、保育園の方には出席するつもりです。本当に、何度出ても卒業式というものは良いものです。子ども達が成長し、巣立って行くのを見るのは嬉しいものです。また、夫々の生涯にとって、一度きりとなる大切なセレモニーに立ち会えることは、本当に幸せなことだと思います。

  特に、小学校の卒業式では、一年生に入学するときから見ている子供達が、何時の間にこんなに大きく立派になったのかと、改めて気づかされる機会でもあります。そして、若さの持つ無限の可能性に夢を馳せ、大きな期待を抱かずにはいられません。今年の卒業生も、しっかりした準備や練習の跡を窺わせるような、整然とした立派な卒業式を見せてくれました。

 何といっても、私の母校の小学校の校歌は、私が通っていた頃と変わっていないのが嬉しいところです。今でも、プログラムに印刷された歌詞を見なくても、ほぼ歌うことができます。感動によるアドレナリン分泌もありまして、児童と一緒に歌う声に、ついつい力が入りがちです。今年で、94回目の卒業証書授与式ですが、約50年前には今の校歌でしたから、有難い気持ちになります。

 もちろん、校舎は建て替えられ、さらに耐震化工事を済ませた今では、往時を偲ぶことはできません。それでも、目を閉じて校歌を歌えば木造校舎の広い中央廊下や、学芸会の舞台に立った二階の講堂の様子が甦ってきます。そして、私に空想の場という心の避難場所を与えてくれた、図書室の場景も浮かんできます。誰しもそうでしょうが、幼少期の記憶は強く残っているものです。

 また、人は生まれる時期も場所も選ぶことはできませんが、ここに生まれ、この小学校に通ったことに縁のようなものを感じずにはいられません。以来、同世代の多くの知己を得、地域社会の中に受容して貰いながら成長することができたことにも、感謝せずにはいられないでしょう。この頃では、良い意味においても悪い意味においても、自分の宿命のようなものさえ感じるようになりました。

 縁といえば、私の家の裏には「にらみ合いの松」が対峙する公園があります。これは、絶世の美男子として有名な名古屋山三郎のモデルといわれる名古屋九衛門と、彼との刃傷沙汰で同じく命を落とした井戸右衛門を埋葬した塚に植えられた松として有名なものです。森家が津山に入封したばかりの、1602年に起きたこの事件以来、出雲街道を挟んだ松は、片方が栄えれば一方が枯れるといわれてきました。

 私の子どもの頃は、田んぼを挟んで二つの塚があり、水墨画に出てくるような枯れた枝ぶりの松がありました。我がまちの公園として整備された今では、当時のような渋いものではありませんが、南と北に対峙して一段高い塚が設えられ、松が植えられています。余談ですが、私は生まれてこの方ここを離れたことがありません。縁という観点からは、山三郎の生まれ変わりのような気もしています。

 したがって、セレモニーの挨拶などでは時々そのような話もします。何といっても、出雲阿国に「私の恋人」といわせる程の好男子です。また、歌舞伎の始まりに纏わるそのエピソードや、蒲生氏郷が妻にしたいと調べさせたら、実は、男子であったという話がある位の美男子ですから、その場を盛り上げるために名前を拝借することもあります(もちろん、自分の容姿は棚に上げてのことですが)。

 それも、すぐそばで生まれ今日まで側にいる私ですから、許されることだとも考えています。一方で、ここに生まれ生きている自分について、意義や意味のようなことを考えることもあります。例えば、一年前でなく(正確には一日なのですが)一年後でなく、その年に生まれてきたことに強く感じる思いもあります。偶然といえば偶然ですし、意味を考えなくても生きては行けるでしょう。

 それでも、何かを考え面白がって生きた方が、楽しいということだけは言えるのだと思います。


2016 3月 4日    人間多種多様(旧友礼賛)





 気が付けば3月、何度そのような序文を書いたことかと思います。本当に、月日の経つのは早く、また齢を重ねるほどに、その速度も増すばかりです。

 本当に、そうですね。まったく、時の経つ感覚は年齢に比例して早くなります。また、実感としては二乗に比例するという感じで、グラフの傾き方は放物線のように立ち上がっていく感じがします。そして、若い頃にはあまり考えなかったようなことも、考えるようになります。例えば、老いていく恐怖感はより身近になります。そのためか、時間を大切にしようなどという殊勝なことも、考えるようになったりします。

 そのような概念が、人の役に立とうという気持ちに関しても、少しでもそのようにありたいというような、願望のような気持ちを上乗せしていくのかもしれません。まことに、人の気持ちや有り様は一応でなく、内的・外的な様々な要因により変化していくものだと思います。その大きな一因として、歳を重ねるということがあるのですが、それにも個体差があることはいうまでもありません。

 私なども、その範疇かもしれませんが、あのやんちゃ坊主が~というような話はよくあることです。むしろ、色々な人にお世話になりおかけしたご迷惑の数々があってこそ、人の気持ちが解るようになるのだといえるかもしれません。人間、誰しも受けた恩と、された仕打ちは忘れないものです。ただ、どちらを強く心に遺すかという点になると、ここにも個体差が生まれます。

 というより、仕打ちのような遺恨ばかりを残す人もいます。ここで言いたいのは、その人が受けたと思っている仕打ちが、客観的に見て酷いことであったかどうかということです。私が、これまで生きてきた経験を基に言えば、遺恨ばかりを蓄積する人は、他者から見ると逆恨みのような遺恨を残していることが多いように思います。また、類は友を呼び、同様の仲間を形成しがちでもあります。

 したがって、陰湿な性質の人の周りには、陰湿な人が集まるということになるのだと思います。そのような視点から考えると、私の周りには「受けた恩」の方を考える人の方が多いように思います。手前味噌ですが、私は性善説を感じさせてくれる人達に囲まれて生きているように思います。もちろんそれは、これまでの人生の中における、数多い出会いの中で収斂された結果です。

 またそれは、意図して得られたものではありませんが、感謝はしています。といって、何に感謝すれば良いのかは良く解りませんが、結果には感謝しています。むしろ、何か大きな力に導かれているような気さえします。それでも、その何となく肌が合うような感覚の裏に、似たような価値観を内在しているのではないかということは、容易に想像がつくことではあります。

 価値観といえば、もちろんこれにも個体差があります。そして、各々育つ環境なども異なりますから、趣味・趣向・主義など多様な価値観が存在します。むしろ、私の周りの「良き人々」は個性の強い人が多いようにも思います。でもそれは、少し言い方を変えると自分の型を持っている、と、いった方が良いのかもしれません。もっと簡単に言えば、自分がある人々だといえるでしょう。

 基本的に、自分がやるべきことに対しては明確な理念と哲学を持ち、ある意味頑固な一面を備えているような人が多いと思います。そのうえで、他者の持つ多様な考え方や価値観を許容しあえるような人達が、私を受容してくれている人々の共通項のようなものでしょうか。その他は、性別や年齢などはあまり関係ありません。本当に、宗教や政治信条なども多様です。

 どうも、言葉では上手く言えませんが、仲間とはそういうものかもしれませんね。家族のように、何時も一緒にいる訳ではありませんが、顔を合わせれば瞬時に心が通うような関係だと思います。元来が我儘で、精神的な成長速度において課題があった(ある)と自分でも認めざるを得ない私には、思春期以来今日まで、そのような人間力のある人々が仲間として受容してくれたことに感謝するばかりです。

 例えば、夫々の分野において功成り名を遂げた面子もいます。本当に彼らは、友人であるというシンパシーを除外しても、尊敬すべき経営者であり職人であり技術者であると思います。そのことを誇りに思うと同時に、向上心や筋を通す生き方の支えにもさせて貰っています。とはいえ、お互いに顔を合わせる時にする会話は、いつも他愛無いものでしかないのが現実なのですが。

 何時までも少年のように、そして、お互い根っこだけは磨いていたい。そんな思いを共有しながら、また一緒に美味い酒を飲みたい、と、おそらくお互いに考えあっているはずです。


2016 2月 19日    成長のための糧




 「望月」まであと数日です。まだまだだとは解っていても、桜の便りが気になります。咲けば咲いたで、儚い花なのですが……

 西行に憧れた東行(高杉晋作)ではありませんが、人にはける人があるのだと思います。それは、高杉から見た西行のような歴史上の人物であったり、また、同時代を生きている人であったりと多様でもあります。さらには、歴史に名を残すような著名な人ばかりともかぎりません。むしろ、身近な人や、名もない巷の人である場合が多いのだと思います。

 また、影響を受ける人は一人とは限りません。長い人生の中においては、多くの人々から多様な影響を受けるのが人の一生であるといえるでしょう。私自身、身近な多くの人達に影響されて、現在の人格を形成していることに違いはありません。もちろん、歴史上の人物や多くの作家・著名人・スポーツ選手などからも、数限りない影響を受けインスパイアされているのだと思います。

 まことに、人は一人では生きていけないものです。また、自分では絶っているように思っていても、存外断ち切れないのが他者との関わりだと思います。そのような視点で考えると、或いは振り返ってみれば、自分の生きてきた流れの中における転機や、そのことによって変化した人間関係などが浮かびあがってきます。また、人との出会いなど人間関係の変化により、進む方向が変わったということもあります。

 例えば、やっと物心がついたともいえる中学校への入学時、私には、初めて違う小学校から来た友達ができました。その二人とは、今でもお互いの心の中に「三馬鹿トリオ」として認め合い、心が通い合う関係にあります。夫々に、進学した高校さえ異なり歩んだ人生も全く別でしたが、数十年振りの邂逅から、今も節目では声を掛け合って盃を重ねています。

 それから、学校の歴史をさかのぼっても十数年振りになる、インターハイ出場を果たした工業高校のテニスの仲間や、それに関係する人々。或いは、多感であり納まりきれない私にとって、今から思えば必要不可欠であったと思われる、工業高校での生活と仲間達。どれも、自ら企図した出会いではありませんが、大切な出会いであったと思いますし、有難くも感じています。

 そして、私にとって大学であり大学院でもあったような、建設現場での体験と生活。結構、過酷でもあったと思いますが、私にとって社会とは何であるかとか、人の世の有り様などを学ばせてくれた、貴重な期間であったと思います。また、未熟な体と頭でありながら勘(感或いは癇)だけがきつかった少年を、時には暖かく時には厳しく育ててくれたのが、ものづくりの現場であったように思います。

 実際に、ストーブの上で焼くホルモンをつつきながら、或いはごきぶりがはうような安酒場において、先輩や力仕事で日銭を稼ぐ人達から、裸同志の人間の関わり方や、ごまかしのきかない人間力を磨くことの大切さを学んだと思います。本当に、建設現場では「何ができるか」であって、出自もバック(けつ持ち)も関係ありません。一方で、営業的には親でも親戚でも何でも使え…ということもありました。

 まさに、複雑怪奇な人間社会の裏も表も包含した場所で、身に着けなければいけないものを学ばせてもらったのだなぁ、と、今では思っています。そのような、主に現場のこと、言い換えれば身体で体験したことにより醸成された人間力のようなものが、私の中の基本的な部分に蓄積されているのだと思います(もちろん、それは自らそのように意識したものではありませんが)。

 しかしながら、それらの蓄積が私のその後の人生における、エンジニアとして技術者精神を考え模索する生活や、自治会活動の中における真の民主主義の在り方を考える日々に、とても役立っているように思います。もう少しいえば、公とか私とかの概念と併せ、何かを決断する時の「平衡感覚」のようなものを保つために、少なからず役立っているように思うのです。

 改めて、肌で感じることの大切さを噛みしめています。それがあってこそ、読書や映像等を鑑賞することによる疑似体験効果が助長されるのだと思います。いずれにしても、人は人と関わらずには生きられませんし、それは成長を遂げるための糧ともいえるでしょう。だからこそ、できるだけ多くの人々と良い影響を及ぼしあいながら、生きていきたいと願うばかりです。

 とはいえ、ついつい同じ価値観を持つ人達と、美味い酒を飲みたいと思うのが人情です……



2016 2月 5日    忙中に「感」を探す





 2月です。寒さはまだまだ厳しいですが、立春を迎え、日照時間は日々長くなっています。そういえば、去年はそんなことさえ感じない日々でした。先の読めない人生と、時の流れを感じています。

 本当に、人生は無常です。また、不条理な出来事や理不尽な場面に遭遇する機会もあります。そのような日々の営みの中で、人の心の有り様も一様ではいられないのでしょう。私自身にしても、そうです。自ら決めた生き方を貫いているつもりですが、結果として起きた事象や周りへの影響は大きなものがありました。また、それを通して、私の内面も変化しているのだと思います。

 自らの感覚では、一昨年も去年も、そして今年も同じように忙しく過ごしているつもりです。しかしながら今年は、日々伸びていく日照時間に気付くことができています。思えば、昨年の今頃とは、それだけ心の有り様が違うのでしょう。先日、一年ぶりに会った人から「今年の方が、良い顔をされていますね」と声をかけられました。自分では気づきませんでしたが、去年の今頃は切羽詰った顔をしていたのでしょう。

 衆目もそうでしたが、自分でも予想だにしなかった一昨年の出来事に起因する辛酸の日々が、昨年の私の顔には滲んでいたのだと思います。日頃、筋を通す生き方を標榜し不撓不屈を胸に誓っていても、立ち居振る舞いには内面の懊悩が表れてしまうのかもしれませんね。一方で、謙虚であることを心に言い聞かせていても、驕りや緩みの種が宿りがちになるのも人間だと思います。

 改めて、自らを戒めたいと思います。どちらかというと、他者を信じやすく調子に乗りやすい気質の傾向ぐらいは、自分でも把握しているつもりです。一方で、どんな人であっても一番見えないのが、自分自身の姿であることも理解しなければなりません。新たな年を迎えて、あっという間に過ぎた1月を振り返り、改めて一喜一憂する日々であったなぁ、と、ちっぽけな自分を省みています。

 さて、そのような日常であっても読みたい本を読み、会いたい人に会い、行きたいところに足を運ぼうとするのが生来の私の習性でもあります。例えば、沈鬱な気持ちに耐えながらも「ノモンハンの夏」は読み終えました。三宅坂上の作戦参謀達など、直接的な責任者への憤りはもちろんですが、それを生み出した時代背景やマスコミをはじめとする世間の有り様に、暗澹たる気持ちになりました。

 司馬さんが、最後までこの題材を書けなかったのは、自らの喪失感など多くの無念さを内包する情緒的な部分と、合理的な文章構築を信条とされる執筆姿勢との間で、心の折り合いが付き難かったのではないでしょうか。登場人物等に対し、膨大な資料の検証に基づくリアリティを与え、溢れるほどの情熱と透徹した客観性により命を吹き込む筆致には、それを支える精神の充実が必要なのだと思います。

 これは、私の勝手な推論ですが、装甲薄い戦車隊の一員として自らも戦地に赴いているる司馬さんにとって、この国が何故あのような不合理な戦争に向かって行ってしまったのかということを描く時、ノモンハンを舞台にして、客観的に著述することは辛すぎたのではないかと思います。溢れそうな怒りを抑え、懸命に冷静さを保とうとする半藤さんの筆致にも、そのことがよく表れていたと思います。

 ところで、そんな私が読書をする場所の一つとして、1月下旬の東京行き新幹線の座席がありました。またその車窓からは、静岡駅を過ぎた辺りで、頭に雲を被りながらも富士山が姿を見せてくれました。しかし、本来のビューポイントである富士宮辺りでは殆ど雲に覆われていました。やや残念でしたが、そのような楽しみもありますから、例え仕事絡みの行程であっても旅することは好きな行為です。

 事実、神田神保町の古書店を梯子しているころには、翌日の「業務」のことなどはすっかり忘れていました。誠に、人間とは現金なものだと思います。好きなことをしていれば、機嫌よく街を歩けるものです。商店街漫遊、居酒屋探訪など……そのような時私は、本当に機嫌よく長い距離を歩いているように思います。そして、何故かあまり疲れを感じないのも事実です。

 例えば、古本屋の書棚の一角にギボンのローマ帝国衰亡史などを見つけると、塩野女史のローマ人像想起への影響などを思い浮かべ、本当に楽しくなります。他にも、かつて教科書に使われていた書籍や多方面・他分野に特化した本等、眺めているだけで飽きることはありません。一方、一冊50円等安い文庫本などをみても、それだけで触手は動きません(もちろん、読みたいと思うものは買いますが)。

 単純に、本に囲まれているのが好きなだけかもしれませんね。そして、その原点は小学校の図書室にあるようにも思います。


2016 1月 20日    熱い思いと虚しさの相剋




 ようやく、と、いった感じでしょうか。寒波が訪れ、雪も運んできました。いつもながら、適度にというわけにいかないところが、人智を超えた自然のなすところです。
 
 本当に、森羅万象すべてにおいて、人間の思うようになるものは無いのかもしれません。まして、人間同士の関わりなどということになれば、己の意図が存分に生かされるという場面は極めて少なくなるのだと思います。しかしながら、そのような多様な主張や価値観を集約しながら、少しでも明るい未来を模索していかなければならないのが、組織を束ねる者の役目でもあります。

 とはいえ、今日のように、本来の日本人が備えていたはずの矜持というべき高い道徳心や思慮深さ、或いは慎みなどというものが希薄になってきている社会においては、それは中々大変なことでもあります。さらに、少子高齢化と人口減少社会の発現が著しい地方の地域社会においては、地域行事の催行を含めた集落機能の維持そのものが危うくなっています。

 そのような状況下、私達はどのようにして生きがいや生きる目標を見出して行けば良いのか、本当に難しい問題だと思います。私自身にしてもそうです。この十年間、筋を通す生き方を貫き、皆が思っていることを形にしていくために精一杯取り組んで来たつもりです。そのことに、悔いはありませんし多少の自負もあります。

 しかしながら、人は正しいこと(と信じていること)をしていても疲れるものだということを、今、私は感じています。それはまるで、ワインの澱のように私の心に溜まっていて、僅かながらボディーブローのような鈍い痛みを感じさせています。一方でそれは、ある程度生きてきたことの証といえるのかもしれません。痛みや傷のない人生などが、あるはずもないわけですから。

 古来、多くの偉人や先人たちが嘆いてきたように、社会や世の中はあるべき姿を呈しているとはいえないというのが事実です。また、過去の歴史を振り返っても、そのような理想的な時代があったともいえないでしょう。例えば、民衆を統治するための政体にしても、完成されたものは無いのだと思います。個人的には、カエサルのやろうとしていたローマの帝政が、それに最も近いものだと思いますが。

 しかし、そのカエサルにしてさえ、夢半ばで倒れてしまいました。まさに、人は自らが聴きたい言葉だけを聴こうとするものなのだと思います。その後、ローマが向かったような多様性を認めない(例えば、一つの宗教に依拠するような)政体が、やがて終焉を迎えることは史実にも明きらかです。一方で、テロとの戦いなどといいながら収拾を図れない現状を見れば、人類の愚かさを感じずにはいられません。

 反面、そういう私自身が、煩わしい日常の中で一喜一憂しているにすぎないことも、また事実です。そのような意味からは、現実からは逃避できないともいえるでしょう。時として、このような小欄の筆致に対して、厭世的であるとか達観し過ぎではないのかなどと、苦言を呈していただく機会もあります。それは、その人達が私のことを本当によく理解し、そして大切に考えていてくれるからでもあります。

 つい先日、そのような私にとてって大切な一人が亡くなられました。その急な知らせを聴いた時、大変なショックを受けました。二歳年上のその人とは、かつて私の母校の小学校の校長として来られてからの付き合いでした。本当に、熱い人でした。いつかも述べましたが、私は、人にものを教える人は熱くなければならないと考えています。それは、あらゆる思いは熱伝導で伝わるものだと信じているからです。

 その人は、全ての子どもに100点を取れという人ではありませんでした。そんな先生のおかげで、立ち直れた子供は大勢います。また、大きな目標を持てた子もいます。個人的にも、倫理観・価値観が近く話が合いました。特に、歴史や文学などに関しては馬が合い、お互いに熱弁を振いあったこともありました。たまに、電話などで話すと「この前のコラム読んだよ。僕も、そう思う」などと励ましても頂きました。

 今でも、校長時代に続けておられた、登下校時にゴミ拾いをされる姿が偲ばれます。また、英語授業導入に際して私が述べた「英語より、日本語でしょう」という言葉に、「そりゃぁ、僕もそっちをやりたいよ」と、経営者としての校長に与えられた裁量権の制限について、思わず吐露された一言を思い出します。「議会でのご活躍、お祈りしていす」と記された今年の年賀状の言葉は、何時もと同じ暖かさでした。

 通夜の席で、今にも熱く語りかけて来そうな遺影に向かい、先立って行かれる思いを問いかけてみましたが、別れを惜しむ長い焼香の行列が終わっても、その答えを聴くことはできませんでした。納得のいかない思いと、割り切れない気持ちが残りますがご冥福をお祈りするばかりです。合掌。



2016 1月 4日    新年にあたり一言



 あけまして、おめどとうございます。昨年とは、真逆の穏やかなお正月でした。おかげさまで、我が作楽神社への初詣客数もまずまずの状況です。本当に、お天道様にかなうものはありません。

 そのような、微力な人間の営みではありますが、齢と共に煩雑化するのもまた人の世の常です。暮から年越しにかけて、こなすべき用や行事は年々増えています。一方で、そのような行事の中にも、暖かい思いが通う仲間は確実に増えています。本当に、有難いことだなぁと思っています。何よりも、自分が行くことを待っていてくれる人達がいることは、嬉しいことではあります。

 もちろん、その分家族にかける負担や迷惑は増えるのだと思いますが、そもそもが、良き息子や良き夫などという肩書を貰えない人生です。申し訳ないなぁと思いつつも、生き方を改められない凡夫であることを、自ら認める以外にできることはありません。何となく、体の良い開き直りのような文章になってしまいましたが、要するに、今年もこれまでの生き方を貫いていきたいと考えています。

 実際、益々タイトになるスケジュールではありますが、今年もやりたいこと(精神安定上からも)はやれたお正月でした。このところ、3~4着が定位置の麻雀も、愉しく卓を囲みました。また、若者の走る姿に年々涙腺が緩みがちの箱根駅伝も見ることができました。何よりも、岡山出身の馬場翔大選手(駒沢大学)が、昨年5区での大ブレーキの雪辱を果たし、8区で区間2位の好走を見せてくれました。

 何となく、ほっとするような気持ちになりました。一方、サッカーでは玉野光南高校が石川青陵高校に先行しながら負けました。やや残念な気持ちの裏には、作陽高校であったなら…という未練も潜んでいます。逆転といえば、先行しながら東海大学に敗れた明治のラグビーでしょうか。それよりも、同志社に競り勝った大東文化を圧倒した、帝京の強さが際立っていた印象です。

 後は、寸暇を惜しんでの読書ですが、半藤一利のノモンハンの夏に手を付けてしまいまして、多少閉口しています。あの司馬さんが、書きたくて書けなかった題材を盟友ともいえる著者が、豊富な取材に基づき書き上げた一冊ですが、「日本は、何故あのような無謀な戦争に突き進んでいったのか~」と司馬遼太郎を嘆かせた道程を辿るのは、辛い読書でもあります。

 本来、一ページ目を捲ると最後まで読み終えたいと思う私ですが、7月の辺りで少し休んでいます。他方、それも仕方ない(それで良いのだ)と思う自分もいます。まことに、心の有り様やおさまりなどというものは難しいものです。上手く言えませんが、無理して強い人や良い人にならない方が良いような気がします。人間は、多面的なものですし、自分でも制御できないのが精神の懊悩だといえるでしょう。

 だからこそ人は、道元が説く悟りのようなものを禅の中に見出そうとするのかもしれません。しかしそれは、道元のような何百万人に一人というような傑出した人物(天才)でなければ、成し得ない世界であることも事実です。一方で面白いのは、そのような自身の悟りを得ようとする仏教と念仏により大衆を救おうとする仏教が、鎌倉時代に同時に広がっていったことだと思います。

 まさに鎌倉時代は、禅宗の道元・栄西、念仏の法然・親鸞・一遍、お題目の日蓮など、新たな多様な仏教の花が咲いた時代でもあります。そのような意味からは、末法の世といわれた当時の時代背景が偲ばれます。一方で、果たして平成の今と比べてどうなのだろう、と、考えてしまう自分がいます。親鸞をして、末法の世といわしめたその頃は、まだ今よりは神仏が側にあったのではないでしょうか。

 またしても、精神の懊悩の辺りから鎌倉仏教の勃興などに話がそれましたが、それも愛嬌とお許しください。実は、地元のお宮に関するやや煩わしい出来事など、その時代に関連が無いわけでもない精神状態でもありました。といっても、我が故郷が後白河院・後鳥羽院に端を発するなどというような、夢のあるお話でないところが空しいところなのですが、このような場で語ることでもありません。
 
  さりとて、山三郎の生まれ変わりなどと嘯く生き方は、これからも続けて行きたいと考えてもいます。ともすれば、身勝手な思い込みに基づく行動や、情緒的な振る舞いをしてしまう懸念がある自分について、戒める想いと肯定する気持ちがないまぜなところが、今の偽らざる気持ちです。だからこそ、公の自分と私の自分の立場を良く考え、合理的に判断して行動することが大切なのだと思います。

 今年も、とりとめのない文章になりましたが、正直な年頭の思いでもあります。本年も、よろしく。


2015 12月 25日    一年を振り返り一言



 忘年会続きの、タイトなスケジュールをこなしているうちに、気が付けば今年もあとわずかとなりました。ところで、穏やかな雨上がりの空は師走のそれとはいえず、暖かければ良いという気にもなれません。

  気が付けば~という感覚は、本当にその通りです。目の前の、やらなければならないことをこなしているうちに、気が付けば一年が経ちました。背景として、昨年味わった大きな挫折への雪辱や、その根本となる志に根差した取り組みがあったのだと思います。さらには、付託を受けたことによる責任の増加なども、その理由に挙げられるでしょう。

 また、そのような取り組みの中において、本当に多くの方々のお世話になりました。お世話になった皆様に、改めてお礼を申し上げたいと思います。さらには、人は一人では生きていけないという当たり前のことを、今更ながら深く噛みしめています。もちろん、今までもそのような気持ちを持っていなかった訳ではありませんが、昨年から今年への流れの中で一層深く感じています。

 とはいいながら、日常に忙殺され、持つべき志や謙虚さを見失いがちな時もあります。そのような時、道を照らし意識を覚醒させてくれるのが、暖かい人達との繋がりではないか、と、私は考えています。幸いにも私は、薫陶され影響を受けるべき人をたくさん持っているように思います。また、それらの人々からは、身に余るご厚情をいただいてもいます。本当に、有難いことだと考えています。

 これからも、そのような多くの方々の気持ちを大切にしながら、このまちの進むべき方向性を模索していかなければと、決意を新たにしているところです。また、そのような姿勢を貫くことが、これからの人生においても意義ある出会いや交流をしていくための前提であり、いわばパスポートのようなものになるのではないかと思います。

 そのような意味合いのことを、子どもの頃父から聞いた言葉の中に思いだしてもいます。それは、「子どもに物質的な財産を残すべきではない。強いて残すなら、信用とか人望というものであるべきだ」というものです。それでも父は、僅かですが家や地所など、潤沢とはいえませんが私には十分なものを残してくれました。何よりも、〇〇の子か~という誹りを受けるような経験はしたことがありません。

 実際のところ、そこのところが一番有難い部分だと思っています。とはいえ、これから精一杯ものごとに取り組んで行こうと考えてはいますが、自分の子どもたちに対してどれだけのことができるのか、あまり自信が無いのもまた本音のところです。実は今でも、畏怖と尊敬、反発や反抗など多くの感情がないまぜになり、正確に父への思いを現わすことはできません。

 小欄におけるいつもの傾向ですが、少し話がそれましたね。本当に、毎回、概ねこのようなことを述べようというイメージはあるのですが、キーボードをたたいていると勝手に思いが迸りでるのが常です。一方で、それで良いのだとも考えています。そのようにして、私の心の内奥から迸り出てきた言葉の吐露でなければ、誰にも何も伝わらないのではないかとも考えています。

 ですから小欄は、かける時に書くというスタイルです。したがって、書けない時には更新が滞ることとなります。情報発信という意味からは、どうなのかなぁという思いはありますが、自分ではこれで良いのだと考えています。生意気ですが「これで良いのだ」と、思うことにしています。また、これも何時か言いましたが、「いいね」も「コメント」も求めてはいません(機能もありませんが)。

 読み手が、勝手に理解し判断してくれれば、それで良いのだと思っています。一方で、文字ばかりが並んでいる小欄を読んでいただく行為は、中々大変だとも思っています。私自身にしても、その人に相当関心を抱かなければ、その人の書いた文章を読もうという気にはなりません。他方、そのようなことを考える時、いつもご覧いただいている方々は本当に有難いと思っています。

 「キーボードをたたいてみなければ解らない」といいましたが、本当に、思わぬ方向に話が進んでしまいましたね。末尾になりましたが、今年も読書をはじめスポーツ・音楽・映像など、多くの感動的なシーンを目のあたりにしました。さらには、大事な人達と心を揺すぶるようなふれあいもありました。本来は、暮の高校駅伝(倉敷3位・興譲館6位)などにも言及したかったのですが、またの機会に譲ります。

 私にとって、思い出深かった一年も終わろうとしています。多くの皆様に対し、今年一年のご厚情を感謝し、来年のご多幸をお祈りして、今年を振り返る一章にしたいと思います。良い、お年を。

 師走に入り、寒さもそれらしくなってきました。この頃は、暮だから忙しいということばかりでもありません。世の中そのものが、忙しくなっているのでしょう。心だけは、ささくれないようにしたいものです。

2015 12月 7日    地方で思うこと



 師走に入り、寒さもそれらしくなってきました。この頃は、暮だから忙しいということばかりでもありません。世の中そのものが、忙しくなっているのでしょう。心だけは、ささくれないようにしたいものです。

 本当に、そうですね。生きていれば、色々なことがあります。身近な人の病気や、思いがけない人の不幸を突然聞くこともあります。それが人生だといわれれば、その通りなのですが、不条理や理不尽を受け入れ難く感じるのも人情です。例えば、信念を貫き(その積りでいるだけかもしれませんが)正しい(と思っているだけかもしれません)ことをしていても、澱のような疲れが心に溜まります。

 ですから私は、無理やりにでも時間を作り、やりたいことをすることにしています。もちろん、時間の制約は厳しく、また、金銭的な裏付けも必要ですから「やりたいこと」にも制限がありますが、会いたい人に会い読みたい本を読むことだけは、比較的にできているように思います。実は、小欄を更新するまでの間にも忙中を割き、親しい人と盃を共にし、僅かながらでも読みたい本を読みました。

 また、大切な友達の見舞いや、聴かなければいけない声を聴くためにも出かけても行きました。本当に人は、様々な場所で、様々な思いを胸に抱いて生きているのだということを、感じる機会が多くなりました。今さらですが、自分の視野の狭さを恥じ、幅広い視点を持たねばと考えています。ともあれ、ここ数日は、久しぶりに会いたい人と美味い酒を飲む機会に恵まれました。

 そのような、少し優しい気持ちになれた中で、昨日は僅かばかりの田圃を耕しました。本当は、先週あたりにやる予定であったのですが、我が家の宝でもあるヤンマーの赤トラ(昭和44年生まれ)の右前輪がパンクしてしまいまして、その修理と私のスケジュールの都合から一週間程作業がずれてしまいました。少し肌寒さはありましたが、穏やかな日曜日のひと時を過ごすことができました。

 我が家のトラクターについては、何時かも「ヤンマーの赤いフェラーリ」のように思っていることを述べました。本当に、草臥れた型遅れのそのマシーンは父の形見でもあり、私にとっては大切な乗り物でもあります。綺麗に言えば、その老いぼれのディーゼル音を聞きながら田圃を往復するときに、その機械と田圃を残してくれた父との会話を、私はいつもしているように思います。

 また、現実的な話をすると、たとえ老いぼれであってもその赤トラが無ければ、今のような兼業農家を続けていくことはできません。トラクターだけでなく、田植え機もコンバインも、我が家にある農機具は本当に骨董品のようなものばかりです。いずれも、18年前に他界した父が苦労して手に入れたものばかりです(とはいえ、殆ど中古品ばかりですが)。

 実際、ブームの無いコンバインが新車であったと思いますから、一番新しい機械でも20年選手ということになります。私は、それらの機械を自分でいうのもおかしいですが、本当に、大切に使ってきました。それでも、時には壊れたりしますし、ロータリーなどの部品交換も必要です。つまり、意外と維持費がかかるわけです。経済的に考えれば、贅沢な趣味のような農業をやっている訳です。

 一方、私の周りの人達を見ても、だいたい同じような感じだと思います。今の農機具がおしゃかになったらやめよう、と考えている人は多く、実際にそのような声は本当に良く聞きます。そして、その大多数が所謂「兼業農家」です。むしろ、私などは規模が小さい方だと思いますが、夫々が他の仕事から収入を得て、農地を維持するための費用をどれだけ負担できるかの我慢比べ状態だと思います。

 そのような、田舎に暮らす兼業農家の人達が、地域の集落社会を支えているのです。共同で、農業用用排水施設の維持・管理活動にあたったり、草刈りや道路の保全活動に赴いたりしています。さらには、地域の祭祀などの伝統行事や冠婚葬祭などの催行にあたるなど、地方における集落社会を担ってもいるのが、兼業農家といわれる人たちであると思います。

 しかし今日、高齢化によって離農する人や、我慢比べに耐えきれなくなり農業をしなくなる人が急増しています。そのことは、単に自然環境や生活環境への悪影響だけでなく、地方における地域社会の存亡にも関わることなのです。私自身にしても、いつまで持つかという状態です。それでも、周りに迷惑をかけたくないし、何とかこのまちの集落機能の維持・増進を図りたいと思っています。

 いいたいことがたくさんあり、うまくまとまりませんが、そんな思いも込めて、本日の一般質問に臨みたいと思っています。 

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