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※これまでのコラムが納めてあります。できれば、通してお読みください。
(根底に流れるものを、くみ取っていただけると思います)
 

  グランドリスボア(カジノホテル)が見えるマカオ市街   新緑の作楽神社書道展(十字の詩)  「お前と会った仲見世の煮込みしかない鯨や~」 ピカソの「男と女」(国立西洋美術館)  
NO.33             

2016 10月  4日    無関心という罪



 

 秋が、深まって行きます。祭りや文化祭など、やらなければならないことが多々あります。それでも、良い人達との繋がりを深めることができれば、と、願いながら取り組んでいる日々です。

 本当に、そうですね。良い人達と、繋がっていたいものです。言い換えれば、「人さえ良ければ」物事は上手くいくのだと思います。どんなに、微細なルールを定めても、人々がそれを尊重しなければ意味がありません。逆に、人間さえ良ければルールは簡単で済むはずです。例えば、「悪いことはしない」とか「恥ずかしい行いはしない」という程度で十分だといえるでしょう。

 しかしながら、そのような社会は私の描く理想ではありますが、一方で、現実にはありえない幻想の中の社会といえるかもしれません。事実、少し周りを見渡すだけで、利己的な振る舞いや恥を知らない行動を目にすることは簡単なことです。とはいえ、人は誰でも自己の幸福を追求するために生きているわけですから、結果的に利己的な行動に走ることもあるでしょう。

 それでも、それが個人間の利害関係に基づいて行われている間は、当事者同士の問題で済むのだと思います。問題なのは、公の立場の人間の取るべき行動です。これは、私がいつも述べていることですが、公の人間としての行動規範というのか持つべき意識は、物事を公益にかなうかどうかで判断し、そこに私心を挟まないというシンプルなもので無ければいけないのだと思います。

 一方でそれは、そのような大仰な言い方をしなくても、本来、この国において育まれてきた精神性を、体現していくだけで良いのだと思います。それは、まさに胸に手を当てて恥ずかしいと思うことはしない、と、いうような定義で表せる事柄だと思います。またそれは、法律に触れるとか触れないとかいうような考え方でないことは、いうまでもありません。

 政治家であれ、自治会組織であれ、或いは民間企業や各種団体などどのような組織であれ、人が集まり何かをしていることの延長線上に、そのことが何がしかの形で社会に影響を及ぼすということがあります。したがって、その影響は公益に資するものである必要があります。そのような視座に立ち、夫々に携わっている人達を見ると、色々なことが見えてきます。

 また、一見しただけでは解らない人間性を知る機会も多くなります。そして、多くの成功事例や効果的な取り組みの伏線として、そこに関わる人達の熱意や、高い規範意識があることを知ることにもなります。何よりも、先頭を切って提案し取り組んで行く人には、公の人間としての高い価値規範が必要であり、公益を第一に考える判断姿勢が求められるのだと思います。

 だからこそ、私は、自分自身への戒めも込めて、私心を排した公の心を持つことの大切さを繰り返し述べています。そして、それはこれからも貫き続けなければならないことだと考えています。一方で、そのように思えば思うほど、もどかしさと虚しさが心を占めて来るのも事実です。私が思うリーダー像とは程遠い人が、その立場に固執しているような姿を見ると、情けなさも極みに達します。

 しかしながら、それが公の人達の権益、つまり公益に影響することを念頭に置く時、ただ嘆いている訳にもいかなくなります。何とか、公益に資するように質していきたいと思う心だけは、失いたくないと考えています。本当に、直接自身に火の粉が降りかからなければ…という姿勢で、黙認していれば、いつの間にか公が被る損害は莫大なものになってしまいます。

 当然ですが、このような考え方は私が今のような立場となり、公の人間としての視点を必要とする度合いが高まる中で、自身の中に醸成されてきたものであると思います。そして、改めて改革の重要性を感じることになる訳です。既に、これまでにも闘い続け、多くのことを改革してきた自負はあります。しかしながら、まだまだ道半ばであるともいえるように思います。

 本当に、私達は公のお金の使われ方やその背景に関して、もっと強く関心を持つ必要があるのだと思います。そして、先頭を切る者に問われる資質を再認識し、精査していくことが重要です。さらに、そのような選ぶ側の責任を考える時、現状にみられる無関心や、事なかれ主義が大きな課題であるといえるでしょう。それこそ、「誰に、財布をあずけるのか」というような覚悟を持つべきだと思います。

 これからも、そのような信頼に足りうる人間を目指し、研鑽を重ねて行きたいと願うばかりです。

2016 9月  20日    正直でなければ




 秋のお彼岸です。何故、お盆からすぐなのに、お彼岸があるのでしょうか。お盆は先祖供養で、彼岸は修行のためにあるのか。詳しいことは、解りません。それでも、昼と夜の長さが揃う時、先祖を偲び感謝するような風習には賛成です。

 ことほど左様に、世の中は知らないことばかりです。にもかかわらず、訳知り顔で正論や大義のようなことを嘯きながら、私は、ここまで生きて来たのかもしれません。改めて、我が身を省みる秋の夕暮というところでしょうか。それでも私は、自分の行動が間違っていたとしても、その行動の背景が正直であったかどうか、と、、いうことが大切なんだと考えています。

 そして、それは年齢を重ねるごとに、強くなっていく感覚です。また、この頃では確信のようになってきました。さらに、そのことは私が地域の自治会長を引き受けてから今日まで、長い年月をかけて培われた感覚ともいえるでしょう。思えば、まるで天命のような形で、この地域の自治会長を引き受けてから十数年の月日が流れました。

 考えてみれば、その仕事の始まりからして、利己的な理由で不当に地域を牛耳っていた、権力者といわれる人達との闘いの連続でした。それは、所謂一般常識やテレビドラマでみるような価値観では測れないような、筆舌に尽くしがたい闘いでもありました。本当に、このような公の目に触れる場所では、とても語れないエピソードがたくさんあります。

 そして今、そのような理不尽な状況は、殆ど改善されました。本当に今、この地域は市内でも最も民主的な地域になったと思います。他方、そのような取り組みの中では、常に自分の価値規範を正しておく必要があります。私は、それが公の人間として持つべき価値規範だと思っています。そして、地域住民や市民が考えていることを、常に忖度する姿勢も大切だと考えています。

 そのことを踏まえ、個人の利害を極力排除して物事を判断することが極めて重要ですし、自分や周りを守る手段であるとも考えています。少なくとも私は、この十数年間そのような価値規範の基に、物事を判断し行動してきたつもりです。そのような生き方を、簡単にいえば(簡単に語ることはできませんが)行動の背景が正直かどうか、と、いうことになるのだと思います。

 一方で、そのような私の生き方は、見方によれば頑なですし、常に年長者には生意気な印象を与えるような、生き方であったといえるかもしれません。それでも、いや、それだからこそ、公の価値規範という考え方を、体内に醸成することにつながっているのだと思います。そしてそれが、どんな時も筋を通して生きようという、簡潔な人生観にも繋がってきました。

 例えばそれは、最初から周囲の様子を窺いながら、バランスよく生きるような生き方を目指していたのでは、到底たどり着けなかったような境地であるとも考えています。とはいえ、それは自ら意識して精進してきたような感覚でもありません。何というのか、目の前の課題を一つずつ全力でこなしてきた中で、自然に育まれてきたものだと考えています。

 さらに、それは自分だけの力で養われたものだとも考えていません。これまで、出会った多くの人達から受けた影響に、依拠しているものだと思います。また、そのような出会いを得た人の中からは、かけがえのない知己を得ることにもなりました。その中でも幾人かの人は、私の人生における精神的な支柱として、或いは深く敬意と感謝を寄せる対象として、私の心に刻み込まれる存在となりました。

 そのような、出会いを通して思うことは本当に有難いことだなぁ、と、いうことです。これからも、そのような人達を大切にして行きたいと思っています。また、さらなる意義深い出会いも、重ねて行きたいと考えています。例えば、その時に私の資質や、信条が問われることになるのだと思います。つまり、その根幹として公の人間としての価値規範を備えておき、磨き続ける必要があるのだと思います。

 そのことを踏まえ、このまちや地域の現状を見渡せば、改革しなければならないことはたくさん残されています。というより、まだまだこれからといった方が良いかもしれません。これからも、公の価値規範に基づいて、地域や市民が望むような改革に取り組んでいかなければならないと考えています。一方で、まだまだ日和見の人や、勝ち馬に乗ろうという人が多い状況で、それが世の常でもあります。

 思うに任せない時も、あります。それでも心には「正直だった悲しさがあるから~」という、拓郎の流星を口ずさみながら、生きていこうと思っています。



2016 9月  5日    胸に流れる第一応援歌



 9月になりました。風の中にも、秋の気配を感じます。どういう訳か、私は、季節の中では秋が一番好きです。記憶を辿れば、切ない思い出もあります。それでも、好きな季節を問われれば、秋だと答えます。
 
 ついこの前、オリンピックの感動を話していた筈なのですが、気が付けば、既に色づきつつある稲穂の心配をしている自分がいます。また、お盆を含む宴シリーズに、暑さと寝不足で倦怠感が残る体で参戦し続けた結果、熱の花状の噴出物が顔に噴出してしまいました。誠に、口程にも無い自分に歯がゆい思いをしています。実際、毎日好きなだけ飲んでいられる程、丈夫な体を持ち合わせてもいないようです。

 とはいえ、昔に比べれば随分丈夫になったようにも思います。地元の工業高校に進むまで、私は、それほど体力に自信がありませんでした。例えば、同級生で一番誕生日が遅く、学校給食はいつも残すような偏食の子どもでした。まぁ、普通の男の子だったとは思いますが、体力は精神力にも影響しますから、気が短く、感だけが鋭いタイプで、頭でっかちの少年であったのだと思います。

 我ながら、今から思い出しても、鼻持ちならない生意気な少年であったような気がします。一方で、深夜放送や背伸びした読書の影響で、世の中を斜めに見て、解ったようなことを嘯いてもいました。そのくせ、自分が何かしようとか、将来何になりたいとか、そんなことは考えてもいませんでした。ただ何となく、父親に言われて入学したのが工業高校です。

 そのようなことですから、勉強にも身が入らず、何をして良いのかわからない状態でした。と、いいつつも、何故か中学時代にやっていたテニス(いまでいうソフトテニスで、当時は軟式テニスで、それしか無かった)部には入部しました。ご他聞に漏れず、練習量だけが強さの根拠となっている工業高校の運動部の練習は厳しく、ついていくのがやっとのお荷物だったと思います。

 しかし、不思議と辞めるという気持ちは起こりませんでした。また、テニス部の練習などという口実では逃れられない程、厳しくて恐ろしい体育祭の練習というのがありました。因みに、わが母校の体育祭は鉄製の仮設スタンドを構築し、各課のシンボルも立体的で実際に動くものを作るような、規模の大きな体育祭でした。この優勝を目指し、建築・土木・機械・電気・工業化学の各課が鎬を削るのです。
 
 したがって、ラグビーやサッカーなど、県内でもトップを争うような部活でなければ、部活の練習を優先して貰えない(サボれない)空気が漂っておりました。私も、生きていかなければならないので、微かな人間関係を手繰ったりして、何とか最小限度の役務を果たしただけですが、今の時代では到底語れないような内容の日々を過ごしました。本当に、大変だったなぁ、と、思います。

 ところが、人間というものは良くできているもので、そのような日々にも慣れてしまいます。また、何故か辞める気持ちが湧かずに続けているだけでも、テニスの腕も上がって行きます。結果的に、体力の方もついていくものです。先ほど、微かな人間関係を手繰った、と、述べましたが、縦社会の厳しい環境の中では、否応なしに処世の術も身についていくものだと思います。

 そのようにして、三年生になった時には、恐れられていた先輩達と同じように、後輩に恐れられる先輩になってしまっていたように思います。部活の方も、インターハイ出場が決まってから、練習に顔を出すようになった、と、いう程度の顧問の先生しかいなかった割には、本当に強くなったように思います。その根拠となったのは、前代を上回るほどの圧倒的な練習量に他なりません。

 何よりも、「インターハイ」なるものが存在することを教えてくれた、早熟で優秀であった相方のおかげであり、テニス部員としては不適格ともいえる私を見捨てず、仲間に入れ続けてくれた同級生のおかげだと思っています。昔から私は、何処か恵まれているところがありました。何というのか、いわば流れの中で、たまたま運良く導いてくれる人が現れるようなところがありました。

 そのことは、今も続いているのだと思います。色々な人に支えられ、導かれて、この筋を通して行く生き方をさせて貰っているのだと思っています。そして、今思うことは、工業高校で良かったなぁ、と、いう気持ちで一杯です。あの日々があったからこそ、今があるのだと思いますし、生涯に得難い大切な仲間を持つこともできました。最近も、ミニ津工会、テニスの会、51会と大いに痛飲し盛り上がりました。

 日常は、楽しいことばかりではありませんが、身体の方は快調です。これからも、仲間達の熱い思いと志を大切にして、筋を通す生き方を貫いていこうと考えています。


2016 8月  21日    猛暑日の中で



 一年に一度だけの、夜景といえるかもしれません。それは、普段は縁遠い場所である、父をはじめとする先祖が眠る墓地の、灯篭に灯が灯る様子です。いつもながら、お盆という風習のある国に生まれたことの意義と意味を感じます。

 例えば、お盆の灯篭が「静」の灯りだとすれば、夏祭りの花火は「動」の光彩の際たるものだといえるでしょう。実は、今年も有難いお誘いをいただき、スペシャルな場所で花火見物をしてきました。日頃から、私の活動に対する、深いご理解とご厚情をいただいている人からのお招きでした。人生の先達として、或いは人格者としても、私が尊敬している人です。

 高い見識と、豊かな経験に裏付けられた暖かい笑顔で迎えて頂き、楽しい宴の始まりとなりました。美味しい生ビールと多彩な料理を堪能しながら、迫力ある花火に歓声を上げて来ました。本当に、直ぐ目の前で、ドーンという大きな音と同時に開花する花火の迫力は、中々言葉に表すことが難しいものがあります。夏の夜の、素晴らしい光景であったと思います。
 
 多忙な日常ですが、今夏もまた良い思い出ができました。あらためて、人の出会いとご縁の大切さを噛みしめています。当然ですが、残念な人との出会いや関わる機会も多々あり、またそれから逃れられないのも人生ですから、なおさらそのように思います。あらためて、その夜頂いた「言いたいことを言い、筋を通して行けば良いんじゃ」という励ましの言葉を噛みしめています。

 一方、忙中に無理やり閑を捻り出し、三島由紀夫を二冊読みました。例によって、偶然立ち寄った書店の文庫の棚から、天啓のようにその二冊が浮き出てきたからです。いつもながら、手前勝手な言い回しで「天啓」などと称して、読みたい本を読んでいるだけなのですが、今回もまた、そのことが当らずとも遠からずといったような、読後感を得ることができました。

 「長すぎた春」と「宴のあと」の二冊です。その印象は、昔読んだ「潮騒」や「金閣寺」とは違うものでした。また、「仮面の告白」などとも異なります。もちろん、本は読み返す度に印象が変わるものですし、それを読む年齢や時期、或いはこちらの内面の状況によっても読後感は変わります。改めて、三島由紀夫の文章の巧みさと奥深さを感じました。

 また、その礎となっている芸術・文化・歴史などに対する、幅広く深い造詣が文章から偲ばれます。さらには、そのことが無駄が無く美しい文章の源であることについても、再認識することとなりました。余談ですが、宴のあとなどはこの度の都知事選のことなど、全く念頭にない状態で本屋の書棚に手を伸ばしたので、やはり天啓であったのだと勝手に頷いています。

 そして、何といってもこの慢性的な寝不足の原因が、リオデジャネイロオリンピックの中継を見るためであることについて、触れないわけにはいかないでしょう。水泳の、萩野選手の金メダルで始まった日本選手の活躍は、陸上男子400Mリレーの銀メダルへと続きました。特に、男女ともメダルを獲得した卓球は、時間帯といい競技の特性といい、本当にへとへとになりながらの観戦でした。

 冗談ではなく、何度も惜しい試合を逃した福原選手や、テニスの錦織選手の準々決勝・準決勝の試合など、我がことのように力が入ってしまい、大いに疲労の原因となりました。もちろん、序盤からの水泳陣の活躍、男子は全階級メダル獲得の柔道、劇的な内村選手の逆転金メダルの体操(悲願の団体優勝もありました)、アジア初のカヌーや競歩のメダル獲得もありました。

 また、霊長類最強といわれた吉田選手の銀メダルは、4連覇という偉業は逃しましたが、日本選手団主将の重責とレスリング陣営の支えとなる功績を思えば、立派であったと称えられるべきでしょう。実際に、女子レスリング選手たちの金メダルラッシュは圧巻でした。そして、あまり目立ちませんが、地元出身の岡田選手のエアライフル競技は20位という結果でした。

 一見残念な結果のようですが、4回あるステージ(ピリオド)の第3番目だけがやや乱れたようですから、次の東京へ向けてはかなり手応えをつかんだのではないでしょうか。益々、期待が高まるところです。地元としても、できる限りの支援が必要だと思います。そうですね。できれば、そのような前向きな話をして過ごしていたいものです。日常では、あまりにも残念なことに遭遇する機会もあります。

 それでも「言いたいことを言い、筋を通して行けば良いんじゃ」という励ましを胸に、挫けない静かな闘志を育んで行きたいと考えています。


2016 7月  27日    判断と選択



 気が付けば、夏休み。とはいえ、稲の隙間も見えなくなった田圃の脇を、釣竿かついで走っていく少年の姿などは、今は記憶の中にしか見出せません。今の子供は、どこで遊んでいるのでしょう。

 先日、一泊二日のとんぼ返りで東京へ行ってきました。短い時間の中に、視察や研修を詰め込んだ意義深い日程であったと思います。折から、都知事選の街宣活動なども見ました。本命といわれる3候補の遊説は聴けませんでしたが、それ程知られていない候補者でも、かなりの人を集めていたことに驚きました。あらためて、マスコミの報道姿勢などについて考えさせられました。

 本当に、何を持って「本命」ということになるのでしょうか。また、各候補に平等な広報機会が与えられているとは思われない、と、感じているのは私だけではないと思います。さらには、前知事の辞任から今回の選挙までへの流れなどを見ても、メディアの持つ力の大きさに驚くばかりです。そこには、何か薄気味悪い空恐ろしさのような感覚さえ覚えます。

 このことは、いつも述べていることですが、ワイドショーなどテレビの主導、或いは扇動によって世論が形成されていく傾向は、益々強まっているように思います。前述の、3候補主体の放送体制も、ワイドショー文化の典型だと思います。時によっては、正義を振りかざした報道者然として大衆を煽り、都合が悪くなると娯楽番組だからと逃げるのが、彼らの常套手段のように思います。

 例えば、あれだけ喧しく騒いだ舛添前知事の政治資金の私的利用問題などに関して、今、どこのワイドショーが追跡して真相を明らかにしようとしているのでしょうか。これは、熱しやすく冷めやすい大衆にも非がありますが、所詮テレビは視聴率が上がらないものはやりたがらないというのが本音だと思います。視聴率上がる⇒受けるということだと思いますが、選挙報道までそのようなことで良いのでしょうか。

 選挙だけでなく、政治や社会問題に関しても同様です。なるべく解りやすい対決姿勢の構図を作り、視聴者の興味を惹くための番組作りが目立ちます。一方で、それを見ている我々にしても、物事の事象をしっかり見極めようとする力が衰えているのではないでしょうか。街頭でのインタビューなどを聴いていても、昔の若者(当時は、良い加減といわれた)の方が、遥かに物事を考えていたように思います。

 バーチャルでリセットの効く遊び媒体の中で育った感性には、一定のルールを覚えコツのようなものを体得しないと遊べない伝統的な遊びや娯楽に興じる根気が備わっていないのだと思います。何も、それは子どもや若者だけでなく、私達大人の間にも感じられる傾向だと思います。今は、何でも簡単にスマホで検索できますが、得られた情報を喪失していくのも短い時間です。

 一方で、起きている事象の真偽や背景を考察するために必要な情報は、意外と少ないのが実情ではないでしょうか。それは、テレビを代表とするメディアの報道にも感じることです。何か、どこかに気を使っているような、そんな印象を受ける偏重な報道姿勢や、どこかすっきりしない恣意的な報道姿勢を感じることが、だんだん増えているような気さえします。

 ともあれ、我が国の首都であり1,300万人を超える人口を有する東京都の知事を選ぶ選挙も、そのようなメディアの影響力の中で決まることだけは事実です。単に、首都東京の首長というだけでなく、この国の先行きにも影響を及ぼす都知事がだれになるのかは、本当に、大切な都民による選択だと思います。有権者による賢明な判断と、当選者の真摯な取り組みを期待したいところです。

 ところで選択といえば、誰の日常においてもついて回るものでもあります。こんな小さな町で、或いは地域において、筋を通す生き方を貫こうと考えている私如きにも、取捨選択を迫られる場面は多々あるものです。に働けばが立つ。させば流される。意地をせば窮屈だ。という、草枕の一節が直ぐに浮かびますが、細やかな配慮などを意識すると、本当にややこしいことばかりです。

 また、「二つ良いこと、さて無いものよ」という、河合隼雄の言葉も思い出されます。全ての人に、良く思われることなど不可能であり、そのような気持ちでは何もできないのが現実でもあります。だからこそ、私は公の人間としてすべき判断は、シンプルにしたいと考えています。それが、公の利益につながるのか、皆の考え方や望んでいることに対してどれだけ近づけるのかを、自分の判断基準としています。

 そのことは、これからも貫いていかなければなりませんし、目先の利益や勝ち負けで逡巡すべきものでもありません。

2016 7月  12日    ファイト



  曇り空で暑かった日の終わり、「油照り」などという言葉を思い出しました。いつだったか、田辺聖子の小説で知った言葉です。たまには、穏やかな人と、取りとめのない話をする時間が欲しいものです。

 参議院選挙の日曜日、35回も続いている地元地域のバレーボール大会に参加してきました。実は、時代の流れで、参加者の減少と高齢化により開催そのものが危ぶまれる状況です。私の町内でもここ数年は、女子チームの後衛陣として、私を含む3人が老体に鞭打って参加している状況です。それも、何時まで続くのかと案じられますが、皮肉なことにそうなってからは、連覇が続いています。

 とはいえ、それでも2~3チームの参加ということですから、胸を張るようなことではありません。ただ、諸先輩方が続けてこられたことを、何とか続けて貰いたいという思いで参加しています。人間も、歳を重ねてくると、放っておけないことややらざるを得ないことが増えてしまいます。そして、いつの間にか、それが自分のやるべきこと(自他共に認める)になってしまうような気がします。

 さて、以前小欄の結びで、この頃は拓郎のファイトを聴く回数が増えたというようなことを述べました。アキラもそうですが、ファイトは私の応援歌(自分に対する)の一つです。もちろん、吉田拓郎そのものが私の拠り所のような存在ではあります。そして、他にも(歌手やジャンルを問わず)、励まされたり慰められたりする曲や音楽があります。それは、どんな人にもあるでしょう。

 ところで今、「拓郎のファイト」といいましたが、本来、この曲自体は中島みゆきの作品です。彼女が、ラジオのリスナーから届いた葉書の文面を基に作った曲がファイトです。そして、中島みゆき本人をはじめ様々な人が歌っています。私も、ユーチューブなどを通じて色々な人の唄を聴きました。その中で感じたことは、やはりファイトは拓郎の唄が一番良いなぁ、と、いう思いです。

 そういえば、同じ曲であっても相性というのか、この人の歌声で聴きたいというようなことがあるように思います。例えば、私にとってなごり雪は伊勢正三ですし、大阪で生まれた女は萩原健一です。また、野風像は川島英五で、ラブイズオーバーはやしきたかじんだと思っています。もちろんそれは、人それぞれの好みですから、良いとか悪いとかいうものでなく、私がそのような感性であるということです。

 そして、そのような曲の一つとしてファイトという歌があり、私はそれを吉田拓郎の声で聴きたいと思っています。さらに、その唄声は私に言霊として響き、揺らぎそうになる闘志を再び奮い立たせる力となる訳です。ですから、自らへの応援歌といえるでしょう。余談ですが、ファイトは福山雅治も歌っています。悪くないとは思いますが、拓郎のファイトに比べるものではない気がします。

 一方で、福山は浅草キッドもカバーしています。多くの人が、ビートたけしの醸し出す味には比肩できない、と、感じているようです。しかしながら私には、浅草キッドの歌唱は福山雅治のそれ位が丁度良いような気がします。そうなんですよね。受ける印象は、人それぞれに違って良いのではないでしょうか。また、聴く側の環境やシチュエーションが影響することはいうまでもありません。

 例えば、ファイトにしてもそうです。曲自体は、かなり前から知っていたのだとおもいます。それでも、今の自分を取り巻く境遇ややらなければならないことを考える時、私には「ファイト~闘う君の唄を、闘わないやつらが笑うだろう~」という、拓郎の励ましが必要なのだと思います。それは、本当に今、放っておけないことをやり続けてきた中において、心に響く歌声なのだと思います。

 さらにいえば、心に響く声は楽曲だけでなく他にもあるのだと思います。例えば、それは私にとっては読みたい本、或いは読むべき本の中の言葉として見つけることができるものです。また、日常の生活の中において、ふと見出すこともあるでしょう。さらには、志や想いを理解してくれている人と、胸襟を開いて語らう時に実感できるものでもあります。

 結果的に、本当に結果的という表現が合っていると思いますが、私は、ともすれば気持ちがささくれてしまいそうな日々の中で、そのよう感性を持ち続けることができているように思います。言い方を換えれば、心の有り様をどうにか保っているように思います。それは、本当に幾つもの偶然の重なり、その上で大切な人々から支えて貰っているような構図ではないかと思います。

 いずれにしても、闘わない人々の嘲笑を少しでも敬意や羨望の微笑に変えるため、心にファイトと叫びながら、もがいていきたいと思います。

2016 6月  27日    グローバリズムとナショナリズム



 期待に反してというのか、或いは、祈りも空しくというべきなのか、今年もあちこちで水害のニュースが聞かれます。自然現象が、人間の事情などを斟酌しないことは知っていますが、割り切れなさとやるせなさが募ります。

 人間の都合といえば、つい最近行われたイギリスの住民投票が思い出されます。いうまでもなく、イギリスにおいて、EUからの離脱と残留を国民に問うための国民投票のことです。投票前には、残留派の国会議員の女性が、離脱派の男に殺害されるというようなショッキングな出来事もありました。そのようなこともあり、離脱派が優勢であった世論調査が直前になって逆転したという報道もありました。

 結果的には、離脱に賛成が52%、残留に賛成が48%ということになりました。残留派サイドにたった楽観的な見方や報道などもあり、私なども意外な印象を受けました。さらに驚いたのは、開票速報が伝えられるたびに、瞬時に為替レートや株式市場が反応し乱高下(主に、円高・株安の方向への動きですが)するということでした。

 その背景には、国際的な政治形態の安定や秩序に対する懸念などを横目に、相場の動きに敏感に反応して利ざやを稼ぐような、投資家といわれる人々お動きがあることはいうまでもありません。そしてそれが、アベノミクスを支える原動力(円安とそれによる株価の押し上げ)に少なからず影響することも、周知のことであり懸念されることだと思います。

 一方で、増え続ける移民問題やEUルール遵守などによる不満や閉塞感が、予想以上にイングランドを中心とした英国内に蓄積されていたことを、キャメロン首相は見誤っていたといわざるを得ないでしょう。さらには、かつて大英帝国であった国民の誇りというような精神的な部分というか、人間のもつ情緒感への理解が足りなかったのではないでしょうか。

 いずれにしても、そのことがEUへの残留・離脱に関する判断について、直接国民投票にかけるというような手段を選ばせたのだと思います。実際には、保守党内に存在する離脱派(ジョンソンロンドン市長をはじめとする)や、独立党など不満分子に対するガス抜き効果を狙ったのかもしれませんが、それが墓穴を掘る結果となったことは確かだと思います。

 キャメロン首相の思惑通りに、国民投票で残留派が勝利すれば彼の求心力は強まり、結果的に保守党も一つにまとまることができると考えたのでしょうが、そもそも、ジョンソン市長には首相を覗うような野心があったのではないでしょうか。穿った見方では、彼は残留でも離脱でも良かったのではないか、と、いう見解さえ聞かれます。結果的に、キャメロン首相は辞意を表明しました。

 そのようにみると、洋の東西を問わず政治家には、政策よりも政局が重要なのだといえるのかもしれません。また、もともとUK(ユナイテッド・キングダム)などといっていますが、サッカーにしろラグビーにしろ英国が一つにまとまって国際試合に出ることはありません。つまり、ここで英国としてEUを離脱しても、それはさらなる分裂の動きへの引き金となる可能性もあります。

 事実、スコットランドなどはその兆候を見せていますし、独立を求めた住民投票が行われた記憶も新しいところです。そして、そのような内向きの考え方(ナショナリズムや民族主義に走るような)は、アメリカの大統領選挙にも表れています。自国の国益のみを最優先し、移民の排除や異なる宗教の排除を説くような主張に傾倒する傾向が、世界的に高まっています。

 その傾向と、成長を続けなければならない宿命を背負わされた資本主義経済(たとえサスティナブルなものであっても、私は懐疑的ですが)の基盤となるべきグローバリズムは、まったく相容れないもののはずです。経済だけは資本主義でグローバルに展開し、思想や民族的な利害或いは国益などに対する考え方はどんどん内向きになっていく、と、いうのが現状における潮流だと思います。

 そしてその潮流の中で、個々の利害や思想に巧みに関与し、新たな超大国となろうとする国の姿が見え隠れしています。さらにいえば、その国家という媒体を利用して、利益を貪ろうとする指導者達の影も感じられます。本当に恐ろしいのは、その影の方であることはいうまでもありません。しかしその国も、本来は多くの人民が、シンプルな経済観念で暮らしている国なのです。

 国家という形態をとる時、何故、本来の市民や住民の思いと乖離した行動が取られることのなるのでしょうか。本来、グローバリズムもナショナリズムも人類の幸福の為の理論のはずです。

2016 6月  8日    原点にかえろう

 

 それにしても、月日の経つのは早いものですね。自身を振り返っても、昨年、津山市議会に議席をいただいてから、早一年が経ちました。以来、憲法93条に規定された議会の権能を果たすべく、自分なりに精いっぱい取り組んで来たつもりです。議会の権能といえば大仰ですが、つきつめれば「執行部を質し民意を反映させる」ということになるかと思います。

 外から見ていたよりも、さらに旧態依然として硬直化した感じが否めない役所の体質や、独特ともいえる議会のしきたりや空気に、戸惑いと苛立ちを覚えながらも、辛抱強く改革の方向性を探って来た日々であったと思います。とはいえ、職員各自が備えている資質は予想以上に高く、議員の中には思いや志を共有できるような人や、その可能性を感じる人もいるように思います。

 そのようなことに、今後の可能性を期待しながら、議員としての2年目に臨もうと考えています。いずれにしても、私は私の志を貫く他はありません。また、逡巡しているような余裕や時間もありません。概観しただけでも、改革していかなければならないことはたくさんあります。さらには、この町の政治の歴史に起因するような、得体の知れない雰囲気などもあります。

 本当に、未来志向でなければ改革できないことばかりだと思います。一方で私は、人間さえ良ければ出来ることだとも考えています。全ては、人がやることだからです。そのためにできることを、自分なりに模索していく日々なのだと思います。幸いにも、市民の代表として意見を述べる場を与えて貰っているのですから、評論家然として愚痴を語り、酒で溜飲を下げるだけではいけません。

 さて、そのように考える時、我が身を振り返り原点に立つ必要があるのだと思います。もともと、地域の顔役や権力者の横暴がまかり通る風潮の自治会組織を放っておけず、筋を通すことを信条としてやってきたこの十数年の日々です。これからも、貫いていかなければなりません。そしてそのことが、私の生きる証であり原点だともいえるでしょう。

 思えば、そんなことを(例えば、人の役に立とうとか、信念を貫くとか…)考えて生きてきた人生ではありませんでした。ただ、目の前の課題をこなして、その中で人との関わりを深めながら、泣いたり笑ったりしながら生きて来ただけなのです。しかし、どういう訳か節目節目において、自分がやらなければならない場面に遭遇し、闘いながら今日まで来たような気もします。

 闘うというと、大袈裟に聞こえるかもしれませんが、率直な感想を言わせてもらえば闘い続けてきた、と、言いたい気持ちです。そしてその闘いは、このような場においては語れないような、或いは語るべきではないような内容も含めて、本当に多岐にわたったものでもあります。さらには、その中で私は、多くの友人や理解者を得ることができたと思っています。

 一方で、人の裏表や、世の中には治しようがない人間がいるのだということも知りました。元来、甘えん坊のお人よしで、感のきつい割には甲斐性が無く、頭でっかちのひ弱な少年が自分自身のイメージですが、根底に流れる血の中に性善説を両親から受け継いでいると感じることも事実です。何時かも述べましたが、私は、悪人が善人になれないように善人も悪人になれないのだと思っています。

 残念ながら、この世にはそのような変え難い人達もたくさんいます。当然ですが、ここでいう善悪は私の価値観ですから、私が良しとしない人から見れば私の方こそ悪ということになるのでしょうが。好むと好まざるを別にして、そのような人達とも関わって行かなければなりません。その上で、この町の将来や子どもや孫達次世代のために資することを、やって行かなければなりません。

 それは、何があろうとも変えられないし、変えてはいけない自分の使命のように思います。それは、昔ならとっくに人生を終えているような、こんなおじさんになって初めて強く実感する気持ちです。そういえば、最近はやたら考え方がシンプルになって行くように思います。ただ、信念を貫けば良いのだ、と、いう風に素直に思えるようになってきたように思います。

 そして、以前にも増して、拓郎の歌うアキラやファイトが心に沁みるようになりました。私にとって、その歌声は心の原点なのでしょうね。
 

 
 

2016 5月  24日    田圃の畦で考えたこと



  
 田植え時期です。田舎の兼業農家の営む農業は、いわば道楽(費用対効果からいえば)ともいえる農業です。それも、「定年」を過ぎた農機具たちが何時まで持つか、と、気遣いながらの継続です。

 
本当に、そうですね。かくいう我が家にも、昭和44年製のトラクターをはじめ、田植え機・コンバイン等一通りの農業機械・農機具があります。そのいずれもが、既に「定年」を超えています。その定年というのは、一般的な減価償却期間などというようなものではなく、さらには、想定された耐用年数なども超えた勤続年数を指しています。

 もちろん、あいまいな定義であり、私が勝手に唱えているものですが、概念的には、このことについて会話する多くの方々と似通った基準のように思います。とにかく、その機械を見れば「定年を超えとるね」という会話が成立するような感じです。そのような会話が、日常において普通に行われる田舎の社会にあっても、我が家の農業機械は古参の部類に入ると思います。

 そして、その多くは17年前に他界した父が、、生前に揃えてくれたものです。新車もありましたが、購入時に既に中古車であった機械の方が多いので、所謂定年を超えているという表現になるかと思います。私は、それらの機械を大切に使っています。自分でいうのは面映ゆいですが、本当に大切に使ってきました。それでも、毎年どこかに老朽化による症状を見せます。

 まさに、お互いにいたわり合いながら、応急手当のような簡易な(お金のかからない)治療を施し、我が家の主戦力である彼らと仕事をしています。とはいえ、僅かばかりの作付面積ですから、仕事というほどの作業量でもありません。しかしながら、田舎の地域社会においては、或いは、集落機能を維持していくためには、曲がりなりにもこなしていかなければならないものでもあります。

 これは、私が小欄において度々述べていることですが、農業を基幹とした生産活動と、これに起因する環境整備等における共同作業などを通じて、古来この国の地域社会や集落形態が形成されてきたのだと思います。さらには、そのような集落形態を次世代へと伝承していく中で、夫々の地域に根差した文化や精神性が育まれ、磨かれていったのだと思います。

 したがって、そのような精神性の発露でもある、何よりも他者に迷惑をかけてはいけない、というような気持ちは、こんな不埒で不精な私の中にも醸成されています。何というのか、気が付けば自然に持っていたような感覚です。おそらく、私と同世代の人達であれば、そのような感覚に関して多くの人が理解していただけると思いますし、共有しているものであるとも思います。

 ところが、この頃様々な場面で首を傾げることが増えました。権利ばかりが大切にされ、声高に主張し相手をやり込める人が、「出来る人」のような評価をうける風潮は今に始まったことではありませんが、自然に他者を思いやり、先ずは、他人に迷惑をかけてはいけないと内省するような人が、生きていき難くなっていることだけは確かです。

 また、以前にもワイドショー文化の危険性について述べましたが、徹底したあら捜しを行い、それによりヒステリックな魔女裁判的吊し上げを行うことや、ポピュリズムを意識した弾劾裁判の代行者のようなマスコミ報道のあり方は、疑念と危機感を募らせるばかりです。それとは裏腹な、強者(権力者・スポンサー…)への極端な配慮姿勢をみれば、彼らの振り回す正義にも頷けません。

 さらにいえば、エンターテイメントにおける有力事務所の持つ圧倒的な力や、二世タレントなどの縁故・コネによる発現などをみれば、偏った傾向の番組編成の弊害や、内容の希薄化が進みマンネリ化から脱却できない、負のスパイラルに陥っている状況が良く解ります。そして、そのような悪い部分だけが、情報の高速化により地方の社会にも波及して行きます。

 それは、本当に解りやすいことです。例えば、どこかで聞いたような、ワイドショーコメンテーターによる上辺だけをなぞったような価値規範に基づき、訳知り顔で世相を論じる人の多さをみれば解ります。また、私が住んでいるような小さな町でも、巧みに表面を繕いながら功利を模索するような生き方が、都会的な「やり手」として高い位置づけを得ようとする傾向に、わだかまりと虚しさを強く感じます。

 ことある毎に述べていますが、私は、あざとい人や小賢しい人が好きではありません。まことに、志のある人や熱い人が生き辛くなっていく世の中で、もがかずにはいられないと思うばかりです。


2016 5月  6日    人間だけがやること

 

 未だ、東北の傷跡も癒えないというのに、今回の熊本を中心にした九州の惨状です。まことに、不条理という他ありませんが、そのことに、是非もありませんし、側からできることは限られています。とはいえ、納得のいかない気持ちのやり場は、中々見つけられそうもありません。

 さて、今年はオリンピックの年となっています。我が町からも、エアライフル種目で岡田直也選手が出場されます。これまで何人か、地元関係者などという形でのオリンピック出場はありましたが、津山市育ちのオリンピック選手は、岡田選手が初めてではないかと思います。いずれにしても、誇らしいことに違いはありません。地域や、市を挙げた支援を働きかけたいと思っています。

 ところで、ここにきてスポーツ界では、多くの不祥事が表ざたになっています。闇カジノへの出入りの問題や、大麻使用事件などにより、若い有望な選手たちがオリンピック出場を断念せざるを得なくなるような状況が続いています。一方、プロ野球界においても、数名の巨人選手が関わっていた野球賭博に関する問題は、遂に逮捕者を出すこととなりました。

 しかしながら、少し首を傾げたくなるのは、この問題に関する急展開ともいえる逮捕劇です。いわば、巨人の元若手投手と飲食店経営者の二人を、仲介役と胴元的人物として位置づけ、これ以上球界に疑惑が広がらないようにしたい、と、いうような思惑を感じてしまうからです。一方、捜査当局の姿勢をみると、反社会勢力との関わりに迫るような本気度が窺えません。

 それは、NPBなどプロ野球関係者や、巨人軍(球界の盟主のはず)の姿勢からも感じてしまいます。本当に、野球賭博に関与していたのが、今回名前が挙がった人達だけなのでしょうか。ネット上や巷では、様々な噂や憶測が飛んでいます。また、そのような疑念は、プロ野球ファンや関係者のみならず、多くの人の夢を壊した清原容疑者による覚醒剤に関する事件においてもいえることです。

 真の意味で、心から反省し洗いざらい真相を明らかにしなければ、本当に覚醒剤と縁を絶つことはできないのだと思います。 もちろん、それにより周りや取り巻きに、大きな影響を与えるかも知れません。まさに、命懸けのことです。また、全てを承知で支援してくれる人も必要だと思います。 私は、彼がPL学園で甲子園に出た5回のうち、4回球場で直に見ました。そして、その才能に感服した人間です。

 子どもの頃の王・長嶋をはじめ、これまで多くの天才バッターを実際に見てきましたが、素質という面において、彼が一番であったと思います。そんなこともあり、個人的にはもう一度、野球人として立ち直って欲しいと思いますが、それが、並大抵の道でないことも事実です。 いずれにしても、将来を嘱望されていた若者や何の不足があるのかと思うスーパースターが、一瞬にして未来を失う状況に陥っています。

 本当に、恐ろしい話ですが、博打・覚醒剤……一度はまると逃れ難い誘惑があります。そしてそれは、人間だけが知っている快楽でもあります。さらにいえば、これに纏わる悲劇は、歴史に枚挙の暇がありません。例えば、飲む・打つ・買うと道楽(主に、男子の)を形容しますが、人間しかやらないという視点からは、買う・飲む・打つという順位になると思います(※古来から、薬は「道楽」とは呼びません)。

 それは、性欲に基づく「買う」が一番本能的で、猿でも好むという意味です。一説によりますと、与えれば猿も酒を飲む(喜んで)そうです。しかし、生きるための本能からすれば道楽という意味で、二番目かと思います。他方、博打の快感は猿には理解できないものだと思います。 つまり、人間だけがその快楽を知っているという意味で、三つの中では博打が最も高等な遊びといえるように思います。

 かくいう私も、ギャンブルが嫌いではありません。むしろ、好きですが、最も大切なことである「適度な距離を保つ」ことには苦労してきました。それでも、多くの人は経験知などにより、自分なりの距離感を保てるものです。大切なのは、距離感です。カジノを公認している国もありますし、日本でもパチンコや公営ギャンブルは存在しますが、すべての人が依存症になる訳ではありません(※薬は、一度でも危険です)。

 私は、そこに難しさがあるのだと思います。人間しか知らないものである、快楽・快感との距離の取り方は、やはり人間にしかコントロールできないものです。一方で、人間はその功利や是非について、実は十分に知ってもいます。今日の人類の反映は、猿とは違い、前代からの経験知を次世代に継承できたからです。にも拘らず、私達は自らを特別な生き物と考え、自らに甘くなってもしまいます。

 人間の、高度に発達した大脳皮質前頭前野に、覚醒剤などの刺激により分泌されるドーパミンの快感は、本当に強烈なものがあるようです。一方、それと裏腹な強烈な副作用についても、同時に理解し行動に反映してこそ、知識の継承ができる人類だといえるのだと思います。まさに、知行合一ですね。
 


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