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※これまでのコラムが納めてあります。
できれば、通してお読みください。(根底に流れるものを、くみ取っていただけると思います)
 

              我が家の雛飾り            津山の桜(鶴山公園)             市政報告会        雨の迎賓館~新宿方向(ニューオオタニから)   鹿屋航空基地資料館

NO.35      

2017 7月  24日   追悼と未来への責任


  夏休みです。インターハイを控え、母校のテニスコートでの猛練習は、ほんの僅かにアウトした時の微妙な感覚さえ与えてくれました。40年が過ぎた今でも、あの、真夏の記憶は昨日のように残っています。

 例えば、72年前の夏はどんな風だったのでしょうか。それは、終戦を迎える日の僅か三か月前のことでした。最後の、キャッチボール10球をして特攻機に乗り込んで行った石丸進一の話は、プロ野球選手としては、唯一の神風特攻隊員として戦死した人を語るものとして残されています。かくいう私も、恥ずかしながら今回鹿屋市の航空基地資料館を訪れるまで、そのエピソードを知りませんでした。

 そうです。実はこの度、長年の念願であった鹿屋と知覧へ訪れる機会を得ました。いうまでもなく、鹿屋市の航空基地資料館と、知覧では特攻平和会館を見学することがその大きな目的です。ことに、鹿屋市には技術士試験を通して出来た、私の心を癒してくれる有難い知人も待っていてくれました。その人の、穏やかで優しい人柄に触れると、ささくれがちの私の心が癒されるのを感じます。

 もちろん、鹿屋市における住民自治組織に関する取り組みや議会基本条例に関すること、また、鹿児島市においては教育の情報化への取り組みなどに関して、先進地事例における学ぶべき点や、その背景にある高い住民意識の醸成の必要性などについて、しっかり視察・研修も行って参りました。我がまちのまちづくりや、今後の議会における一般質問などに反映させていきたいと考えています。

 一方で、海軍の特攻基地であった鹿屋と、陸軍の特攻基地であった知覧の両施設を訪れることにより、二度とあのような悲惨な戦争を繰り返してはいけないのだという思いを、さらに深く胸に刻むことにもなりました。さらには、そのことを後世に語り継ぐことの大切さと、それに取り組む気持ちも一層深まりました。本当に、私達の世代にはそのような責任があるのだと思います。

 まさに私達は、子どもの頃父や母から聞かされた戦争体験の話などを通して、おぼろげながらもその悲惨さを想像することができる、最後の方の世代だと思います。実際、20年前に他界した私の父は昭和元年(大正15年)生まれですから、応召し北海道で兵隊生活を送っています。父は、人に物事を伝える能力の高い人(話の上手な人)でしたので、かなりのリアリティをもって往時の話をよく聞きました。

 また、私は両親が結婚して10年目にできた子供なので、実体験に近い話を聴く機会は同世代の子ども達よりも多かったのだと思っています。実際、そのような両親から聞いた戦時中の苦労話や悲惨なエピソードが、幼少年期の私の情緒感の形成に大きく影響していることは確です。そのことが、所謂疑似体験的な感覚として、戦争のことを考えられる根拠にもなっているように思います。

 そのような視座に立てば、戦争の悲惨さや二度と戦争を起こさないための取組について、私達には語り継いでいく責務があるのだといえるでしょう。ところで、私は今回の両施設への訪問を通して、往時の日本人の若者が備えていた気風や素養の高さを改めて感じました。両館とも、数千人に及ぶ特攻隊員全員の遺影がかざられ、その方々に纏わる遺書や手紙が展示されていました。

 いずれも、十代後半から二十代前半が中心という若者が書いたとは思われないような、美しい筆跡と高い文章力でした。その内容は、主に母や肉親に宛てた惜別の思いや祖国を愛する心情などですが、胸に切々と伝わってくるものばかりです。それでも時間の制約があり、収蔵されている手紙や遺書全てに目を通すことは到底できません。やろうとすれば、何日も何十日も泊り込まなければ無理でしょう。

 それは、まことに涙なくしては読めないようなものばかりです。その一方で、今日の私達の安寧な生活や経済的な発展が、尊い命を捧げられた方々の犠牲の上に成り立っているのだということを忘れてはなりません。戦後わずか10年で「もはや、戦後ではない」と言わしめた驚異的な我が国の復興は、若くして散って行った方々の思いを酌みながら、必死に頑張ってきた人々が支えていたのです。

 また、その後の我が国の高度経済成長も、敗戦の後も残されていた日本人の高い精神性と素養に裏付けられた勤勉さが、根底としてその基盤を支えていたことは間違いないでしょう。一方で、今日の低迷する経済や不安定で首を傾げたくなるようなことが起きる社会情勢は、そのような戦前からの遺産ともいえる、質の高い日本人の精神性や素養という貯金を食いつぶしてきた結果ともいえるでしょう。

 今一度、私達は過去を見つめ直し、本来の日本人の精神性を取り戻す努力をしていかなければなりません。今回は、そのことを再確認する旅でもありました。

2017 7月  10日    人智の向こう



 やはり、とんでもない雨が降りましたね。恐れていたことが、起きてしまいました。一月分の雨が一日で降って、持ちこたえられる河川や水路などありません。防災の限界を強く感じます。

 とはいえ、私達の生命の安全を確保し財産の保全を図るために、社会資本整備は必要です。起こりうる災害を防ぐために、できうる限りの整備をする必要があります。具体的にいえば、河川や護岸を整え、崩壊の危険がある斜面の安定を図り、土石流の発生する恐れがある渓谷に砂防ダムを設置する等の対策が、その緊急性と予算を考慮しながら進められている訳です。

 その時に、冒頭に述べた「持ちこたえられる~」という考え方が出てきます。良く、「何十年に一度の~」などと報道などで言われているのが、大雨の降る確立とそれに対する強度というような概念です。簡単にいうと、ある地域に単位時間当たり或いは一日を通してどれ位の雨が降るのかということについて、過去のデータなどを基にそれが何年に一度起こるかという確立を想定するわけです。

 そのうえで、その河川の重要度などを考慮して、採用する確率年を決定して降雨強度を決めることになります。この降雨強度をもとに、当該河川が排水しなければならない洪水量と流すことのできる河川断面を検討して、河川の計画が行われるわけです。このことは、町中の街路に設けられる水路でも基本的には同じです。実際、開発許可等の条件で求められる数値はかなり厳しいものです。

 ところが、このかなり厳しいと述べた開発許可基準値でさえ、時間当たり雨量は120mmとなっています。さらにいえば、開発許可基準ではこの降雨強度に対して、10分間耐えられることを念頭に置いて設計が行われます。何が言いたいのかというと、この度北九州などで起きた水害をはじめとする、最近の水害の事例などを見ると、我々人間が想定した基準を大きく超えているということなのです。
 
 また、ここまで述べてきたことは、降雨強度や流量計算の考え方について、極めて簡略に説明したものです。本来は、対象とする河川や現地の地形・流域・開発行為の特性等様々な考え方がありますから一言では語れないものです。それでも、私が述べたかったのは、起こりうる災害を想定した防災のあり方の限界ということです。

 もはや、自然災害が人間の人智を凌駕することが当たり前のようになりました。私達が、学問として或いは技術として学んだ経験値を超えようとしているように思えてならないのです。そして、「われ思う故に我あり」というデカルト的な人間主体の考えから少し距離を置く必要があるのだと思います。年々仕打ちが酷くなる自然の猛威を鎮めるために、地球の環境を整えていく方向の考え方が必要です。

 しかしながら、内向きな保護主義が台頭する傾向は世界各地で起こり、自国最優先の名のもとにアメリカはパリ協定から脱退しました。私は、地球温暖化防止条約に関して以前から述べ続けて来ましたが、アメリカと中国が本気でやらなければ意味をなさないものだと思っています。しかし、両国とも地球環境の安定を標榜しつつ経済活動における自国最優先の姿勢を崩さず、身勝手な理論を展開しています。

 そのような、大国の身勝手な主張がまかり通る状況は続いています。まさに、神をも恐れない人間のエゴを象徴するような国際的議論です。果たして、本当にそんなことをしている暇があるのでしょうか。自国の利益などという、人間の都合に基づく欲の張り合いをしている間に、地球環境はどんどん悪化していき、振れ幅を超えた弥次郎兵衛が起き上がれないようなことになるのは目に見えています。

 さらにいえば、そのような人間たちの都合に基づくエゴの発現は、核兵器の廃絶に関することや、一神教原理主義に名を借りた権力の奪い合いなど、世界の各地で現れ続けています。また、そのようなことは歴史上も繰り返されてきました。しかし、最近の動きは一段と早く残念なことが多いように思います。そのような背景もあり、私が小欄において厭世的な文章が多いことを振り返る機会も増えました。

 言い換えれば、現在の世の中が向っている方向に対する違和感を強く感じるのだと思います。一方で、私たち人類には、長い歴史の中で培われた英知があり、人間がもつべき矜持や成すべき方向性も数多く示されており、書物や映像・資料等を通して、多くの人が夫々に理解しているはずです。人類は、自らの生き残りをかけて、改めてそのことに目を向け直す必要があるのだ思います。

 どのように科学が進歩しようとも、人類は、己の分をわきまえる必要があるのだと思います。

2017 6月  26日    大人たちの責任


  
  意外と、降らない梅雨でしたが、降ると思えば新幹線が止まるほど降りました。まことに、人間の都合など関係ないのが自然の移ろいです。侮らず、敬意を表しながら素直に溶け込みたいものです。

 またしても、もどかしさをこらえながらという感じで、6月議会の一般質問が終わりました。本当に、子供や孫の世代のことを考えると、今やらなければならないことがたくさんあります。しかしながら、この2年間聴き続けた答えは「あらゆることを、力の限り~」というような抽象的な答弁ばかりでした。具体的な、このまちの将来像(ビジョン)については、今回も聴くことはできませんでした。

 したがって、明確なグランドデザインに関する議論もできません。実際、総花的で抽象的な表現の「いろどり溢れる花が咲き誇るまち~」という言葉の後に、あたり障りなく多様な項目がちりばめられています。果たして、急速に少子高齢化が進むこの国の中で、どの自治体も生き残りをかけて死にもの狂いの取り組みを続けているというのに、「何か」に特化せずどうして生き残っていこうというのでしょうか。

 私は、効果的な方策として、何かに特化するような方向性が必要だと考えています。例えば教育に特化し、偏差値の高い子供達を育てるとか、例えばスポーツをはじめとするツーリズムで交流人口の増大を図るとか、さらには、歴史と文化を資源とした観光施策で、このまちにしかない独自の方向性を示すことが大切です。何よりも、人が集まってくるまちづくりをして行く必要があります。

 何といっても、人が集まらなければ活気などは生まれません。そして、訪れた人が「また来たい」とか「ここに住んでみたい」と思うようなまちにして行くことが大切です。だからこそ私は、ここに住む人々の住民意識が、変わらなければならないのだと考えています。本当に、リピーターが多いまちは訪れてみると暖かい雰囲気が醸成されており、明るく活気を感じるまちはフレンドリーな人が多いように思います。

 したがって、このまちにおいても一人ひとりが高い倫理観や高潔な価値規範を身に着け、そのうえで温かくて穏やかな人情が醸成される必要があるのだと思います。私は、そのために教育が極めて重要なのだと考えています。何をするにも、人間が良くなければ上手くいきません。逆にいうと、人さえ良ければ、たいていのことは成就するものです。

 もちろん、古くは律令制の時代から開けていた歴史を持ち、城下町としての繁栄と伝統文化を培ってきたこのまちには、それに相応しい良識をそなえた良き市民もたくさんおられます。一方で、目先の情報収集力に長け、利己的な権利行使が上手い所謂「手に合わん」人が多いのも特徴だといえるでしょう。それは、小賢しく適応能力が高い岡山県民の中でも、一翼を成すものだと思います。

 まぁ、県南の人に言わせれば「県北が悪い」といい、県北の人から見れば「県南が悪い」というような評価もありますが、いずれにしても「岡山県人が通るとぺんぺん草も生えない」などと、県民性辞典などに評されているようですから五十歩百歩というところなのでしょうが、けっして喜ばしい評価ではありません。少し話はそれましたが、人間が良くならなければいけないということに違いはありません。

 これは以前にも述べましたが、良い人を増やすには、回り道だけれど良い子を育て良い大人になって貰うしかないのだと思います。一方で、隗より始めという言葉もありますから、先ずは大人が範を垂れる必要もあるでしょう。いわば、埒外かすれすれともいえるような、そんな時期を過ごしてきた記憶に顔を赤らめるような私ですら、この頃残念に思うことは、範を垂れるべき大人の頼りなさです。

 目の前の、きちんと対峙しなければならない問題から目をそむけ、事なかれ主義を決め込んでいるうちに、居たはずの人口は減り、ある筈であったお金は無くなり、気が付けば衰退したまちが遺されてしまうようなことは、何としても避けなければなりません。ほんの、少しで良いのだと思います。持っている良心と責任感を、各自があと少しだけ発揮すればできるのだと思います。

 大人たちが、このまちの将来を担う子供や孫たちのことを考え、ほんの少しだけ今より真面目に物事を考えて行動しさえすれば、出来ることはたくさんある筈です。そして、今ならまだ間に合うはずです。利己的な、目先の利益の確保やそこから派生する仲間意識、或いはその延長線にある情緒的な判断等に依らず、大人達が真の意味で夫々の責任を果たしていくことが必要なのだと思います。

 やはり、どんな人でも最後は、世の中の役に立って死んでいくべきではないかと思います。

2017 6月  12日    文章派



 梅雨ですね。もちろん、人間が命名するかしないかだけのことですが、何となく物憂い気分になったりもします。所詮、人間も生き物で、情緒感が気象や地勢などの自然条件に影響されるのも然りです。

 さて私事ですが、相変わらず忙しい日々を過ごしております。大きなことから些細なことまで、実に内容は多岐に渡っておりますが、用事というものがあるものです。年齢を重ね、役職が増えているのですから、それも当たり前といえば当たり前のことではあります。一方で、かくすればかくなる~と自ら納得して生きている人生ですから、用事が増えることで愚痴をこぼしてもいられません。

 とはいえ、人間というものは勝手なもので、わかってはいてもぼやきたくなるのが人情でもあります。いわば、垂乳根のごとく「忙しい」を枕詞のようにつかいつつ、ついつい目先の忙しさに追われて日々を過ごしているうちに、気が付くと一年の半分が過ぎようとしています。いつもながら、時の流れの速さと自らがなしていることの小ささに、嘆息するばかりです。

 他方、テレビでは世界卓球での張本選手をはじめとする、若い選手達の活躍が連日報道されておりました。まことに、若い人の成長は著しいものがあります。今さらですが、若さの持つ可能性の大きさを強く感じています。言い換えれば、若いというだけで素晴らしいことなのだと思います。だから人は、若い時にもう少し頑張っておけばよかった~などと思うのかもしれません。

 そのような、ミーハーなテレビっ子という一面も持ち合わせている私は、最近もBSを中心に、ドキュメンタリー番組や映画・スポーツ中継(録画も含め)などを見ておりました。そんな生活の中で、少し前の時代劇を見る機会がありました。「着流し奉行」という、仲代達也主演の作品です。実は、原作は山本周五郎の「町奉行日記」で、役所広司が主演した映画の「どら平太」と同じです。

 この時代劇は、1981年制作で36年前の作品です。無名塾で、仲代の弟子だった役所も少し出ています。映画版どら平太の方は、何度も見ましたが、件の古い時代劇も中々面白かったと思います。その理由は、やはり原作の秀逸さに尽きるのでしょう。そう思い、原作を読み返してみました。ところで、周五郎の町奉行日記には、同作品を含む10編の小説が納められています(文庫版)。

 また、町奉行日記そのものは僅か90ページ足らずの作品ですが、実に面白い小説だと思います。実際、映画やテレビドラマでは娯楽性が加味され、面白い試みや演出が施されています。しかし、人間そのものを描くという視点においては、周五郎の筆を超えることはできていないように思います。このことは、私がいつも思うことですが、文章の力の凄さを感じるところでもあります。

 もちろん、時代劇といえば池波正太郎や藤沢周平も良いと思いますが、人間の業や情を踏まえた人間の強さやあるべき姿を描く時、山本周五郎の凄さが一際感じられます。それは、単にじーんと来るような読後感でなく、腹の底に沁みこんでくるような重みのある感動が伝わってくるような感じです。一方で、このことは作品を映像に表現することの難しさの、背景にあることだともいえるでしょう。

 また、これもBS時代劇で見たのですが、五瓣の椿などはその典型ともいえるように思います。まことに、映像でなく文章として読むものだなぁ、と、いうことを痛感したものです。これは、NHKを弁護していうのではありませんが、この作品は難しい設定や背景もありますから、それを現代の世において時代劇の中に映像で表現することが、困難な作品でもあったのだと思います。

 実際、すぐれた作品(原作)であっても映像化して成功するとは限らないのが現実だと思います。もちろん、反対に映像にすることで、良くなる作品もあるのだと思います。それでも私は、やはり文章の中に溺れたいと願う人間の一人に変わりありません。本当に、優れた文章で描かれた作品の登場人物は、私の想像の中でいきいきとドラマを展開してくれるものだからです。

 そして、そのような文章の中から登場してくる人物は、全て私だけのオリジナルの容姿を持っています。例えば、孔明も趙雲も、竜馬や晋作も、秋山兄弟も…見慣れた俳優や役者の顔はしておりません。そのように、読者が100人いれば100通りの主人公の映像が浮かび上がるのが文章です。私は、そこのところにこそ、文章の良さがあるのだと考えています。

 これからも、隙を見ては書店の文庫本の書棚を物色する、私の習性は変わらないのでしょう。そして、「上位」と叫びお墨付きを拡げる望月小平太のような画を、手にした本から幾つも観るのだと思います。

2017 5月  29日    田圃の畦で考えたこと



 日中の暑さと、朝夕の涼しさによる温度差に耐え、どうにか体調を維持しています。しかしながら、早寝早起きで、規則正しくということでもありません。皮肉ですが、長年鍛えた不摂生に耐える力のおかげでしょうか。

 さて今年も、昭和44年製のヤンマーの赤トラを駆り、追い込みの耕運と代かき作業を行いました。今、「追い込み」といいましたが、5月の力を増した太陽の下で行う耕運(田圃を耕すこと)を、私は追い込みの耕運と名付けています。その理由は、それまでの太陽の弱い時期に何度も耕すよりも、この時期に集中して耕すことで土の状態が良くなり、追い込むような意味があるからです。

 また、それまで遅れ気味であった田圃の仕上がり具合が、この追込みの耕運を行うことにより、周囲の田圃に追いつくという意味合いもあります。正直なところを言えば、そちらの方が本当の理由かもしれません。いずれにしても、我が家の赤トラは健在です。以前「ヤンマーの赤いフェラーリ」と称した小欄を綴ったことがありましたが、私にとっては、20年前に他界した父が遺してくれた名車です。

 本来から言えば、メーカー名が被るので「ヤンマーのフェラーリ」という表現はおかしいのですが、私の中では矛盾しませんし、乗っていると何となくそんな気分にもなります。ともあれ、今年もこの愛車に跨り、院庄田圃(昔から、好条件を備えた地元の田園地帯はそう呼ばれておりました)の一画を耕し、田植えの準備を整える作業に赴きました。

 一見、トラクターによる耕運作業というものは、ロータリーを回転させながらターンを繰り返すというような単純な作業に見えます。実際そうなのですが、微調整の効かない旧式の機械を用いて不陸(凸凹)を少なくすることや、角や切り替えし箇所における土の盛り上がりなどを防ぐには細かなテクニックも必要です。この点においては、少なからず腕に覚えも感じております。

 何といっても、我が家に来た時には既に十数年落ちの中古であった赤トラに、私は、二十代後半から乗り続け30年以上が経ちました。その月日が、お互いの能力や特徴、或いは癖も熟知する関係にしてくれているのかもしれません。以前に比べ、力が衰えたなぁ~などと、私が思っているのですから、彼のヤンマーの赤トラ君も、私をそのように見ているのかもしれません。

 一方、トラクターによる耕運作業というものは、スピードを上げれば良いというものではありません。耕運には、適度なスピードというものがあり、その田圃に適した、或いは目的に応じた速さで耕さなければなりません。さらに、その速度は一定のものでもあります。したがって、単位面積当たりの所用時間は目安が立ちます。つまり、慌てても急いでも、その時間を経なければ終わらないということです。

 実は、このことが意味があることなのです。一見、単純に見えるターンの繰り返し作業を行いながら、既に耕した部分とこれから耕す部分に自然に目が行き、何となく経過した時間が把握できるようになります。そして、その一定した作業の繰り返しの中で、人間は実に色々なことを考えるものだと気づきました。さらに考え事には、そのような一定した作業下が良いのだということも実感しています。
 
 また私は、その考え事の一つとして、今ハンドルを握っている赤トラを買ってくれた父のことを思い出します。さらには、生きている時にはあまりできなかった父との会話をしている時もあります。そうですね。人は死んでも、その人を覚えている人がいる限り、その覚えている人の中で生き続けているのだと思います。そのようなところにも、私が、この古いトラクターに乗り続ける理由があるのかもしれません。

 実は、我が家の農機具はトラクターに限らず、コンバインも田植え機も父が生前に調えてくれたものばかりです。したがって、新車であったコンバインでも20年以上のベテランということになります。実際問題、投下する資本と労力を考慮すれば、僅かな米作りが採算に合うはずもなく、現在保有する農機具が壊れたりすれば、撤退もやむなしというのが現状です。

 そもそも、今の気持ちを素直に言えば、米作りは金のかかる贅沢な趣味のような感じさえします。それでも私は、自分が食べる米を自分で作り、残りを縁の深い人達に少しずつお分けする程度の米作りを続けています。手前味噌ですが、食べた人には美味しいと言って貰っています。その喜びと、周辺の田圃等に迷惑をかけない為や地域の集落機能の維持の為に続けているともいえるでしょう。

 いつまでできるのかなぁ~などと思うこともありますが、それも、放っておけないことの一つなのかもしれないと考えています。そのうえで、もう少し頑張ってみようと思っています。

2017 5月  15日    前を向いて



 めっきり、陽射しが強くなりました。「清々しい」と形容される青葉の季節が、あっという間に過ぎていきます。そういえば先日、入道雲のような雲を見ました。季節への違和感は、つのるばかりです。

 さて今日は、我が岡山縁の政治家犬養毅が、暗殺されたことで知られる5.15事件の起きた日です。「話せばわかる」の言葉と、首相官邸で行われた暗殺劇は余りにも有名です。さらには、撃たれた後の犬養首相にはまだ息があり「今の若い者をもう一度呼んで来い。良く話して聴かせる」と、強い口調で語ったというエピソードにも政治家としての強い信念を感じます。

 昭和7年に起きた5.15事件は、首相官邸に居た時の首相を海軍将校たちが襲い暗殺するという衝撃的な事件です。官邸の警備状況は、現在とは比較にならないものだと思いますが、警備にあたっていた警察官も銃撃され死亡しています。所謂テロによる政権転覆の企てですが、後に起こる2.26事件(昭和11年)への伏線的な意味合いもあるのでしょう。

 ともあれ、大正時代に確立された議会制民主主義の基本ともいえる、衆議院第一党の党首が首相になるという「憲政の常道」である政党内閣という形態は、この事件により中断されました。以後、軍部の影響を強く受けた挙国一致内閣が組閣され、あの悲惨な戦争へと進んで行くことになります。余談ですが、この事件を起こした将校たちへの量刑は軽いもので、後の2.26事件を誘発する一因にもなっています。

 その背景には、腐敗していた当時の政党政治への反感があったといわれていますが、現在の我が国における政党政治の状況は如何なものでしょうか。民主主義は、成熟しているといえるのでしょうか。一方で、誰がやっても同じではないのかというような退廃的な空気が漂っているのも事実です。そして、そのような風潮は、日を追う毎に強まっているようにも思います。

 他方、これ以前にも伊藤や大久保など幾多の政治家が暗殺されていますが、彼らは堂々と自説を説き民衆の前に立っていたのだと思います。まことに、犬養毅に限らず昔の政治家達には、そのような気概や信念があったのだと思います。今日、そのような政治家の姿を見る機会は少なくなりました。また、二世・三世とその地位が承継されていく中で、所謂「小粒」化してきているともいえるでしょう。

 さらに、そのような政治家を輩出する社会に目を向ければ、前述したような無関心や諦めの空気が大勢を占めています。細かな点に目をつぶれば、多くの国民が概ね飢えることもなく暮らしている現状と、広がり続ける格差社会における庶民の閉塞感が、そのような空気を助長しているのだと思います。しかしながら、その諦めや無関心がさらに政治を人々から遠ざけることも事実です。

 また、物の無い時代と違い、とりあえず日常に必要なものが整う現代において、社会や政治に目を向ける意識は低くなるようにも思います。一方、急速に進歩する情報通信技術を背景とする、多様で複雑化していく情報の発信や取得機会に対する、適正な判断力を備えることは難しいことでもあります。ワイドショーや有名人の発言が、世論や大衆に大きく影響を及ぼすこともよく目にします。

 本当に、一瞬にしてブームやセンセーションを引き起こすネットやSNSの発展は、多くの可能性と空恐ろしい程の危険を兼ね備えているのだと思います。上手く言葉にできませんが、何かツボにはまれば圧倒的な速さで拡がり話題を呼ぶことができる反面、真実や事実を訴える言葉が中々浸透していかないような場面もあります。また、一度受けた誤った情報による被害を払拭することも、大変困難です。

 少し話がそれましたが、今日の薄っぺらく表面をなぞっていく情報社会の中で、また、政治への不信感や諦めの気持ちが増幅していく状況下において、どのように考え行動していくべきかということについて、私達一人ひとりがもっと真剣に取り組んでいく必要があるのだと思います。さらに、そのような市民や大衆の姿を念頭に置き、政治に携わる者が真摯に取り組んで行くことが求められます。

 まことに、小さなまちの地方議員でしかありませんが、そのような方向性を模索していきたいと考えています。実は、つい先日総会を経て懸案であった自治会組織の改革に関する、一定の成果を得ることができました。また議会においては、数は少数ですが志を共有できる仲間との会派を構成することもできました。もどかしい現実もありますが、未来に向けた改革の取り組みは続けていくほかはありません。

 何かをしてもしなくても、時は流れていくものです。人や世の中の役に立つ、そんな何かをしていくためにもがいて行きたいと考えてます。

2017 4月  24日    初心を忘れず



 今年も、幾つかのエピソードと忘れ得ない記憶を残し、花は散って行きました。既に、来年の夜桜を恋しく思う自分がいます。やはり、桜は私の好きな花なのだと、改めて感じています。

 そして、春はまた多くの出会愛と別れを演出する季節でもあります。今年も、様々な出会いや別れの場面を体験しました。さらには、多くの組織において総会が行われる季節でもありますから、新たな枠組みや体制への移行も行われます。その流れは必然と呼べきものですが、そこに纏わる心情は悲喜こもごもであり、それぞれの人に多様なエピソードが秘められているのだと思います。

 私にとっても、いつもそこに行けば当然のように公民館に居られた前館長が去られたことは、心にぽっかり穴が開いたような気持ちです。もちろん、このまちの取り決め通り定年という制度があり、さらには、余人を持って代えがたい人に許される一年間の延長契約をお願いしたあとのご勇退ということですが、実際にその現実に直面している今、自分の想像を超えた喪失感と虚しさを感じています。

 それでも、人は前に向かって進むしかできません。またそれは、変えられない過去を悔やむのではなく、変えられる未来を考えることなのだと思います。夫々が、それぞれの立場でできることを考え、地域やこのまちが少しでも良くなるように行動することが大切なのだと思います。そのために、一層の研鑽を積んで行きたいと考えています。

 もちろん、自身ではそのように考えていても見る人や立場によって、他者からの評価が様々になることは十分理解しているつもりです。時として、理解されないことや曲がった解釈をされることもあるのだと思います。事実私は、これまでの人生において、幾度もそのような思いを味わってまいりました。かといって、所信は変えられるものでもなく、信じた生き方を貫く他に術はありません。

 とはいえ、実際にはそのような情緒的な感想を抱く間もなく、多様な行事を次々にこなしている日々ではあります。そのような中で、昨日はリージョンセンター・ペンタホールにおいて市政報告会を開催しました。本当に、日曜日の夕方という出かけ辛い時間帯にも関わらず、大勢の皆様にご参加いただきました。折からの好天ということもあり、農作業などの用事もあったはずです。

 それにも関わらず、会場いっぱいに足を運んでいただきました。参加していただいた皆様に、改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。また、お忙しい中ご助力いただきました関係者の皆様には、準備・片付、それから事前の声掛けなど、一方ならぬお世話になりました。重ねて、お礼を申し上げたいと思います。支持者の皆様、関係者の皆様、本当にありがとうございました。

 そこでも話しましたが、このまちの将来を見据え、何を持ってこの厳しい自治体間の地方創生競争に勝ち残っていくのか、私達はそのことを真剣に考えていく必要があります。本当に、子供や孫の世代の為に今何を成すべきなのかについて、地域の特性や与えられた条件を吟味しながら、多様な角度から方向性を模索する必要があるのだと思います。

 いずれにしても、このまちにある素晴らしい歴史と文化を資本にした観光振興、そしてスポーツツーリズムを柱とする交流人口増大策、さらには、柔軟な発想に基づく農林業振興策、何といってもそれら全ての基盤となり、若い子育て世代の移住・定住の大きなインセンティブに繋がる充実した教育施策が、大きな柱になることは明らかなことだと思います。

 中でも私は、このまちで子育てをすれば偏差値が上がる、という位に教育に力をいれた取組が必要だと考えています。それは、何をするにしても人間が良くなければ、上手くいかないからです。また、市民一人ひとりが郷土愛に根差した高い倫理観に裏付けられた価値規範を備えているようなまちであれば、学業の成績は必然的に向上するものだと思います。

 いずれにしても、税金であり限られた予算なのですから、選挙の時の敵味方とか、またそれに纏わる利害関係などを基準として、執行の判断がされるようでは全く話になりません。このまちの、明日を担う子供や孫の為に何を成さなければならないのか、為政者は必至で模索する必要があります。私は、これからもそのことに対して、効果的な提案をしながら質して行きたいと考えています。

 まさに、そのことがこのような私の生き方の原点なのだと思います。初心、忘れるべからずですね。

2017 4月  10日    静かにしっかりと…



 例えば私は、唐代の詩「勧酒」を絶妙に訳した井伏の「花に嵐の例えもあるぞ」に倣い、夜桜の酒を勧めあう相手がいることにとても幸せを感じます。まったく、誰と飲むのかで酒の味も違います。

 この季節、その為の時機を得ていることはいうまでもありませんが、何時もくつろいで飲めるという訳ではありません。逆に、突然訪れた友の不幸を思い、苦い酒を飲みこむこともあります。一方、そのような中においても、毎年開いている桜の宴に集う優しい人達との交流に、荒んだ心が癒される場面もありました。前回も述べましたが、人間の営みとは関係なく今年も桜は咲きました。

 そして、昨日は地元の作楽神社の春の大祭にあわせて行われる「たかのり祭り」がありました。作楽神社に祀られている後醍醐天皇と児島高徳の故事を顕彰して行われる祭りですが、今年で13回目を迎えました。実は、その歴史は私が地元自治会長になった歴史と重なっています。しかしながら、その頃作楽神社の春の大祭は、すっかり寂れてしまっていました。

  かつて作楽神社の春の大祭は、本物の馬が駆け抜ける流鏑馬なども行われる程賑わいを見せていました。そのような、昔を知る方々から再興を期待する声もあり、私達は春の大祭を「たかのり祭り」と冠して地域を挙げて盛り上げる取り組みを始めました。以前にも述べましたが、氏子を持たないこのお宮の置かれた状況もありまして、どうしても地域を挙げて取り組む必要がありました。

 以来、そのような地域住民を中心とする多く方々の汗と、そのような志に賛同して頂いている方々からのご支援に支えられながら、私達はこれまで懸命に取り組んで来ました。おかげさまで、今日ではリピーターの方々も増え、徐々に賑わいを取り戻している状況です。今後においても、一層の内容の充実を図り、ご支援やご参加いただく方々の輪を拡げて行きたいと考えています。

 
他方、多忙な毎日の中で思うことは、もっと穏やかな日々を過ごしたいなぁ、と、いうことです。 実際、好むと好まざるとは別にして、良からぬ人(広義にも狭義にも、或いは多様な意味で)達と対峙しなければならない場面が多々あります。そのような時私は、公の人間としての価値規範に基づき是々非々で筋を通して行くことを貫いてきたつもりです。それは、宿命のようにも考えています。

 とはいえ、思うことがすべてやれる訳ではありませんし、遠回りや回り道を繰り返すこともしばしばです。そのようなこともあり、正しいと思うことをしていても澱のように溜まる疲労感を感じる訳です。そういえばこの頃では、小欄においてぼやく回数が増えているように思います。また、感情的で短絡的な表現を用いる場面があるかもしれません。改めて、自身の未熟さを感じています。

 まったく、自らの愛する日本語を用いながら自身が楽しいと思えないことを述べている現実に、強いジレンマを感じるところです。さらにいえば、本来の目的を外れているような気さえします。一方で、何か言いたいことや言うべきことがあるからキーボードを叩いている訳ですから、置かれている状況や背景が投影されることは仕方のないことだといえるのかもしれません。

 まことに、人生は無常です。ままならぬ思いを抱えながら、人は生きているものなのだということを、改めて感じています。特に、今年は自らにとって大きな事象が続いています。それは「どうして、そんなことが起きるの?」と首を傾げたくなるようことばかりですが、個人的な心の心象に関係する内容が多いので、このような場で語れることでもありません。ただ、受け入れ難い理不尽さを強く感じてもいます。

 さらには、これから取り組まなければならない課題も明確になっています。中には、微妙で難しい判断が必要な場面もあるように思います。一方、これまでの自分の行動や判断が投影される場面もあるでしょう。もちろん、理不尽とか不条理としか思えないことに直面していく場面も想定されます。それでも私は、逃げずに取り組んで行こうと考えています。

 そのことの根底には、地域や公のことを考える時、それに携わる人間として持つべき「志」の大切さを強く思う気持ちがあるからです。その志が無ければ、成すべきことや方向性などが浮かんでくるはずがありません。実際、このまちの現状を見てみれば、大きなところから小さなところまで、志が感じられない人々による異様なまでの権利への執念ばかりが見えてしまいます。

 まさに、誰も言わなから~、また、だれもやらないから~ というような状況だと感じていますが、兎に角優しい人達、弱い人達、真面目な人達のために静かなる闘志を持ち続けたいと考えています。


2017 3月  27日    素直に生きよう



 
何があろうと、今年も桜は咲くでしょう。本当に、人間が何を企もうと、そんなことには関係なく花は咲き、季節は廻って行きます。そのように、素直に自分の気持ちに忠実に、生きて行きたいものです。

 人生は無常であり、また、不条理でもあります。まことに、その通りだと思います。実際、真面目で優しい人が必ず報われるという風には、世の中はできていないように思います。むしろ、私の住むこのまちでは、その逆の事象が現れることをもって、日常としているような部分さえあります。自治会活動などの公の場でさえ、厚顔無恥な押しの強い人間が幅を利かすことがしばしばです。

 実は、私が今のように自治会活動に取り組むようになったきっかけも、そのような所謂「悪い人」達に対して、身勝手な振る舞いを止めさせるために立ち上がったことがきっかけでした。以来、私の人生は闘いの連続であった、といっても過言ではないような気がします。また、手前味噌ですが、そのような私の取り組みによって、この地域は市内のどこよりも民主的になったと自負しています。

 そんな私の闘いですが、もちろん、自分一人だけでやって来られた訳ではありません。多くの、心ある人達や、良識ある人々に支えられて取り組んで来たものでもあります。現在も、たくさんの皆さんが影になり日向になり支援してくれています。しかし一方で、この頃思うことがあります。それは、侍のような人が減ったなぁ、ということと、悪い人達はどんどん巧妙になっていくんだなぁ、ということです。

 ところで、ここまで私が述べてきたことを読まれ、「悪い人って?」と思われる人もたくさんおられると思います。そのような方々は、本当に、常識的で穏やかな生活環境で育ち、また、暮らしておられるのだと思います。言い方を変えれば、それはまことに普通のことでもあります。しかし、そのような方々には、私が述べている「悪い人」について、中々理解して頂けないのかもしれません。

  また、その実情を具体的にイメージして頂くことは、難しいのではないかとも思います。ところが、前述したように、私が闘わざるを得ないと考えるようになった背景には、そのような常識的な感覚では理解できないような悪い人達の身勝手な行動に遭遇し、真面目で善良な人々が困惑しているのを目の当たりにしたことが、きっかけとしてあるのです。

 さて、この度も津山市全体の自治会組織の、改革に取り組みました。何とか、正式な手続きを経て(狡猾で強面な横車を押す人が相手でも、その手法は正当なものでなければならないところが、本当に大変です)役員人事の刷新を行いました。もちろん、各地域を代表する多くの自治会長の皆様の、良識ある判断が集結しなければそのようなことはできません。

 それでも、担当事務局を恫喝したり、その決定結果を覆すための不穏な動きも聴かれます。まことに、このような場で述べるには、恥ずかしく情けない事柄に他なりませんが、一方で、それがこのまちの実情でもあります。10万市民を代表する、最も権威と良識ある場である筈の連合町内会ですらそのような状況ですから、その様子を見守る市民が白けてしまうのも無理のないことかもしれません。

 一方で、小賢しい人がそのやり方を真似たりもします。実際、選挙をしない自治会組織では、恥を知らない人が良識を押しのけて、組織の長の座に就いたりすることもあります。ここまで、強引にこのまちの自治会組織を牛耳ってきた人も、それにならい自らもその道を歩もうとする人も、選挙に依らない自治会組織の「良識」という部分に強引に足を踏み込み、自らの欲望を具現化しようとする人達です。

 まことに、嘆かわしいこのまちの状況ですが、選挙により市民の付託を得た筈の議会や首長においても、それに似たようなやり方が行われていることに、このまちの抱える問題の深刻さが有るのだと思います。この度の三月議会においては、史上最大規模の予算編成が提案されました。しかし、その内容については疑問も多く、私も含め多くの議員が批判をしましたが、きわどい数の差で成立しました。

 まったくその内容は、このまちの子どもや孫の世代に資するための、まさにこのまちが生き残って行くための予算編成ではなく、言わば選挙を来年二月に控えたトップの選挙対策と、自らの仲間に対する思いやり予算と呼ぶべき内容であったように思います。具体的な内容は、あまりにも情けないので省きますが、良識ある皆様は既に良くご承知のことだと思います。改革は、必須です。

 残り少ない人生と、与えられた時間を考える時、これまで以上に素直な気持ちを述べ、やらなければならないと思うことをやることにしました。ご心配して頂いている方々には、さらにその思いを強くさせてしまいますが、申し訳ありません。何卒、よろしくお願いします。

2017 3月  13日    変えられる未来に…



 この11日で、あれから6年が過ぎました。地震の被害だけなら、復興への歩みも計算できます。しかし、廃炉の目途さえ立たぬ原発の惨状から目をそらし、私達は「無かった」ことにして前へ進んで良いのでしょうか。

 よくも悪しくも、人は生きていれば前へ進むしかありません。「過去は変えられない。変えられるのは未来だけだ」と、あの「疑惑の判定」を受けた試合に敗れ悲しみに暮れる選手たちを前に、未来に向かって前へ進むことを促したのは、私も敬愛している作陽高校の野村雅之先生(現在は、校長)です。本当に、その通りではありますが、本当にそのように生きることは難しいことでもあります。

 さて、件の福島原発に関していえば、当初描いていた復興へのシナリオ(といっても、廃炉にするためのストーリーですが)は、大幅な修正を迫られているのではないでしょうか。そもそも、燃料デブリの所在さえ正確につかめていない状況だと思います。何しろ、あまりの放射能の高さからか、探査に向かうロボットが故障してしまった、などというニュースに震撼とする思いがしました。

 本当に、この頃ではまるであの大惨事が「無かった」ように、私達は日常の生活の中に埋没しています。しかしながら、かつてあれほど騒いでいた冷却のために必要な水が「汚染水」となって海に流出する懸念についてさえ、マスコミが積極的に報道することはなくなりました。一体今、おびただしいほどのタンクにくみ上げていた、あの水はどのようになっているのでしょうか。

 漏れ聞くところによると、その汚染水の流出を食い止めるために施工した凍土壁なるものも、期待通りの効果を発揮していないようで、追加の対応が必要なようです。さらには、汚染された冷却水がどのような形にしろ、海に流れ出していることは間違いないようです。また、1~3号機のメルトダウンは周知のことですが、実は4号機の状況もどうなっているかわからないという話も聴きます。。

 4号機は、使用済み核燃料プールが空になっているという報告があり、こちらもメルトダウンという可能性があるのかもしれません。おそらく、その他にも私達が知らないような恐ろしいことが、実際には起きていることも考えられます。実際、私達はこの未曾有の原発事故に関して、知らないことばかりだといえるでしょう。本当に、私達が知利得る情報は、あまりにも限られているような気がします。

 そのような中で、一説によると6,000人もの作業員が日々働いているそうですが、明確な廃炉や復旧への工程の目途も立っていないのが現状です。実は~というような、被爆して亡くなる作業員に関する、本来表沙汰にならないような話も聞こえてきます。本当に、明けてはいけないパンドラの箱を開けた人類は、自らの能力の及ばない事後処理に追われているような気がします。

 もともと、自然界に無い「魔法のエネルギー」なのですから、さらにいえば、発生しない筈のクライシスなのですから、対応できないのも無理からぬことでしょう。一方、追随を許さない程の効率性と低コストの話は、もう誰も語らなくなりました。ただ廃炉にするだけでも、途方もない程のお金が必要だと思いますが、幾多の議論を経たとしても、我々国民の負担になることは明らかです。

 本当に、私達が考えなければならないことは、一杯ある筈です。何よりも、私達はこの国のエネルギーの有り様や方向性を冷静に考え直し、明確な形で再構築する必要があるのだと思います。そのうえで、人智でコントロールしきれないものと考えるなら、原発から手を引く決断も必要でしょう。例えば、それが直ぐには無理なら、動かしながら減らしていく工程を考えることも大切です。

 そのために、多様な方向からエネルギーの確保や創出を図る施策も、模索していかなければなりません。そこで危惧されることは、私達日本人が変わってきてしまっているということです。いつの間にか、誰かがやってくれる、或いは、どこかでやっていることなのだろうといような無関心な人が増え、危機感を抱く人が少なくってきたことが、本当は、一番恐ろしいことなのだと思います。

 6年前、あのような惨劇が起こることを、誰が想像したでしょうか。当時、私は理不尽さと不条理に驚嘆しながら考えました。それは、もし天が増長する人類への警鐘的試練を与えるとしたら、世界中で最も謙虚という言葉を知り、与えられた試練の意味を理解し得る日本人であったのではないかと。本当に、地震発生当時の日本人はそんな風に見えました。しかし今、そんな人の姿を見出すことは困難です。

 いずれにしても、私達は前にしか進めません。生きていくしかないのだと思います。その上でいえば
、過去を未来に活かせてこそ、我々人類の未来に希望や可能性があるのではないでしょうか。

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