トップページ

コラムリスト            前のページ           次のページ


これまでのコラムが納めてあります。
できれば、通してお読みください。(根底に流れるものを、くみ取っていただけると思います)
 

              鹿屋航空基地資料館内ゼロ戦復元機    伊勢神宮(外宮)      香港二階建路面電車         マカオ旧市街

NO.36   

2017 12月  27日   一年を振り返り一言


 先日、ダイアリーを買い求めて来ました(毎年、同じメーカーの同様の製品を買っています)。本当に、ついこの前2017年版を手にしたばかりのはずなのに、気が付けば一年過ぎたという感じです。

 その言葉通り、今年も一年間忙しく過ごさせて頂きました。それはそれで、有難いことだと考えています。また、それだけ多くの皆様から必要とされる場面も有ったのではないかと思います。一方で、自身の力不足を感じる一年でもありました。拙著HP開設以来、小欄において警鐘を鳴らし嘆き続けて来た日本人の精神性の劣化は、ついにここまで来たかという感じがしています。

 かつて小野田寛郎氏は、金属バットで子どもが親をなぐり殺すという事件に衝撃を受け、私財を投じて小野田自然塾を開きました。私は、小野田さんのドキュメンタリー番組の中でそれを知りましたが、「日本人の精神が狂いかけている。何とかしなければいけないと思った」と、開塾の動機を語られていました。それは、1984年~1989年にかけてのことです。まさに、バブル期と重なっています。

 当時から私は、ずれていくその感覚に対して、言いようのない違和感を覚えていました。しかしながら、それは今日のような埋めがたい(フィットできない)感覚とは違うものでした。そして今年も、親が幼い子供を虐待して殺すというような、悲惨なニュースを幾つも聴きました。特に、離婚した母親が新たな同居相手の男と一緒になって、我が子に暴力をふるうような話が多く聴かれました。

 そのような話は、今年に限らず近年よく聴かれるものですが、何故か今年は、一線を越えたような空恐ろしい絶望のような嫌悪感を感じてしまいました。それは、もはや動物が備えている筈の母性さえ捨て去る感覚のように思えるのです。目の前の快楽や自堕落な利己主義を追及し、それが母親が子供に注ぐべき母性愛にさえ優先する情緒感が形成されてしまう社会に、本当に恐ろしさを感じるのです。

 これまで私は、ぼやきながらも幾何かの希望を信じて小欄を綴ってきました。しかしながら、忙しかった年の瀬に一年を振り返り、傾いた弥次郎兵衛が復元できる角度を超えてしまったような、失望感と虚しさを感じています。それは、先日過ぎた冬至のように、その瞬間は実感し辛いのですが、過ぎてみればあそこが分かれ目であったなぁ、というような感覚に似ている気がします。

 残念ながら、そんな私の思いとは裏腹に、世の中の事象は益々楽観を許さない方向に進むばかりです。例えば、政治のポピュリズム傾向は一層顕著になり、それを扇動するマスコミは相変わらずワイドショー的正義論を振りかざし暴れています。一方で、地方政治などには目もくれず、彼らが真に正義の味方となる場面など実際には期待できないのが現実のように思います。

 地方では、そのような浅薄なマスコミ報道の影響を強く受けながらも、身近な政治には驚くほど無関心な大衆の目を盗み、利己的な価値観を共有する人々によって専横的な行政運営が行われがちです。その反面、それを質すような行動は取り上げられ難く、報道もされないのが地方の現実でもあります。あらためて、ジャーナリズムやジャーナリストという言葉の意味を問い質したくなります。

 本当に、一年の締めくくりにあたってぼやくことしきりですが、この国の形や行く末を思い、また、今このまちが抱える閉塞感や将来への展望を考えると、どうしても触れておかなければならないことでもあります。そして、その上でどうしても改革をして行かなければならないのだと考えています。実際に、私も今のような立場になるまで考えませんでしたが、政治への無関心は将来への責任放棄です。

 ともあれ今年も、どんなに忙しくても肝心なシーンは、スポーツでも芸術・文化であっても極力逃さず見てきたつもりです。先日も、大学ラグビー二試合(大東文化対慶応、天理対東海)を見ました。どちらも、反則の少ない良い試合でした。勝敗を決めたのは、基本の徹底とディフェンス力の差であったと思います。そういえば、最近のスポーツではディフェンスの重要性を強く感じるようにもなりました。

 ゴロフキン対アルバレスの試合も、ゴロフキンの総合力とディフェンス力が光りました。UFC選手のマクレガーとボクシングで対戦したメイウェザーはその典型ともいえるでしょう。岡山では、駅伝の倉敷高校の準優勝が光りました。また、女子の興譲館にも復活の兆しを見ました。さらには、羽生永世七冠(当時は六冠)を倒しての、菅井王位誕生は岡山にとって大きな明るい話題となりました。

 誌面がなくなりましたが、わがまちでは夏に久々のB’z凱旋コンサートも行われました。このまちの将来の為に、胸襟を開き真面目に取り組める仲間も増えました。来年も、弱い人や真面目な人達の為に頑張りたいと考えています。皆様、良いお年を。


2017 12月  11日   影響者


 
 
 師走です。坊主も走ると言いますが、本当に多忙です。気が付けば10日が過ぎ、12月の一般質問も終わりました。本当に何とかしなければ…と、胸に思いを秘めての日々は続きます。

 現在進行形ですが、今年も色々な人と会い多くのことを語らいました。そして、たくさん影響も受けました。さらには、時にささくれそうになる心が癒されるような場面も、数多く頂きました。これからまだ、年末・年始にかけて顔をあわせる機会を楽しみにしている人が、何人か思い浮かびます。本当に、ありがたいことだと思います。手前味噌ですが、恐らく先方も待ちかねていてくれると思います。

 前回も述べましたが、多くの人との出会いがあり今の私が存在している訳です。当然ながら、両親から命を貰い(大仰に言えば、そこまで脈々と続いた人類のDNAの継承があるのだと思います)成長と共に友人知己を得て、仕事や世の中の用事をしている中で、さらにその輪が広がってきたのだと思います。そして、その廻り合いを通してお互いに影響しあう人達も増えていきました。

 当たり前ですが、人は生まれて死ぬまでに多くの人と巡り合い関わって生きていきます。一人で生きていけないことは、誰もが知っている筈です。それでも、私が「ありがたい」と思うのは、これまでに出会うことができた、私にとって良い(と思われる)影響を与えてくれた多くの人々に恵まれたことに対する感謝の気持からです。さらにいえば、そのおかげで今の自分があるのだとも考えています。

 少し考えただけでも、有名・無名、年長・年少などというようなジャンルを超えて様々な人達の顔が浮かびます。また影響を受けたといえば、実際には会っていない歴史上の人物などにも強く影響を受けたといえるでしょう。さらには、スポーツ選手・芸能人・政治家、或いは文章や映像の中の人物達(例えば、作家が創造した人物)などにも、私は少なからず影響を受けてきたように思います。

 そうですね。私は、どちらかといえば他者からの影響を受けやすい方だと思います。所謂、ミーハーなところもありますし、お調子者の部分も否定できません。良くいえば、素直なタイプの人間だと思っています。もちろん、何故というほどに頑固な一面を内在させていることも承知しています。そのうえでいば、そのような私の基本的な性格に、程良く味付けをしてくれたのが「影響者」なのだと思います。

 一方で、その影響者と出会うタイミングも重要だと思います。例えば私は、後から思えば有り難い時期に知己を得ている気がします。読書に関しても、読むべき時期に必要なものに出会えている気がします。当然ですが、自慢する程の読書量がある訳でも、また書物で得た知識をひけらかそうしている訳でもありません。例えば、読書でいえば闇雲に手当たり次第に読みたいものを読んで来たという風です。

 結果的に、この頃思うことは「手当たり次第」の成果が収斂されてきたような気がします。何となく、それなりの宗教・哲学感、歴史認識を踏まえた価値規範が形成されてきたように思います。逆にいうと、人生の実体験と手当たり次第の乱読が融合し、現在の私の価値規範が形成されてきたともいえるでしょう。何事も、実際に経験することが大切ですが、それを補完するための読書も必要なのだと思います。

 まことに、上手く言えないのですが、ある程度の年齢になるとそれまでの「がむしゃら」や「闇雲」の成果が人格として集約されるような気がします。例えば、先日講演を聴いたリョービグループCEOの小嶋さんのお話にあった「忠恕」や「知行合一」がすぅっと腑に落ちるような感じです。私は、儒教の専門家ではありませんし学者でもありません。朱子学・陽明学の違いもおぼろに理解しているだけです。

 それでも、眼前の興味深いお話の中に忠恕や知行合一が引用され出てくると、自身の内面が刺激され向上心が触発されるような気がします。本当の意味で、知っているだけではわかっているとはいえず、実践してこそ知っているといえるのだという「知行合一」の意味が実感されるイメージです。上手く言えませんが、良い影響を受けるためには他者や書物、森羅万象に向ける視点が重要なのだと思います。

 このように、伝えたいことが上手く語れない時に、私は河合隼雄という人を思い出します。その人の、人間の心の懊悩を解きほぐすような、透徹した慈愛に満ちた眼差しを思い出すのです。つい先日も、ビデオを見ながら目を潤ませてしまいました。難しい、神話や宗教・哲学の解説を本当に解りやすく説かれる姿を思い出します。心理療法家という枠に留まらず、魂という概念を意識させてくれる人でした。

 かつて、一度だけ眼前に立つ機会がありました。初めて技術士試験の筆記試験に合格し、口頭試験に赴いた東京駅の新幹線ホームでした。先生も、同じ列車に乗っておられたようで、一瞬目と目が合い「気が付いた?」という表情を見せて頂きました。優しく深い微笑を湛えた眼差しでした。

 軽く、頭を下げてすれ違いましたが、あの時一言ご挨拶できていれば…と思うばかりです。


2017 11月  30日   人の縁と関わり



 めっきり鍋が美味くなり、既に忘年会シリーズは開幕しています。どうも、私の周りでは〇〇の会などというものが立ち上がりやすく、直ぐに宴席が始まる傾向があります。類は友を呼ぶということでしょうか。

 そうですね。先日も、同級生の会で楽しい酒を飲みました。つくづく、有難いことだなぁと思います。良く考えてみれば、同級生であることの繋がりの根拠といえるものは、4月2日から翌年の4月1日に生まれたということだけです。そして、先日の51会(工業高校の会)でいえば、その生まれた地域がほぼ津山市と周辺の岡山県北地域ということになるのだと思います。

 そもそも同級生とは、元々それ位の繋がりしかない関係なのですが「えもいわれず」というほどに結びつき響きあえるのはどうしたことなのだろうか、と、しばしば考えることがあります。まことに、人間というのは不思議な生き物だと思います。久々に顔を合わせ、寒空の中をクラブを片手に駆けずり回る姿を笑いあい、お互いに冷やかしあいながらもそれとなく労りあう年頃となりました。

 またこの頃では、昼間はクラブを握らないが夜だけは参加するというような人も増えました。夫々、置かれた立場や境遇等も変わってきました。もちろん、体力的な変化も差異があります。それでも、年に何度かは集まり、盃を交わそうという集まりになってもきました。その証拠(?)に、今年の忘年会では誰からともなく来春の厄払いツアー第二弾計画の話題が出て盛り上がりました。長く続けたい集まりです。

 さらに、多忙の合間を縫い自治会の研修旅行にも参加しました。島根県雲南市における、住民自治組織運営に関する取り組みを視察・研修しました。本当に、住民が力をあわせ取り組まなければならない地方の取り組み事例として、大いに勉強になりました。またその成否についていえば、、いつもながらですが、それに取り組むリーダーの資質と情熱に大きく左右(依存)されることも再確認させられました。

 改めて、地方の地域社会における人と人の繋がりの重要性を感じる時間でもありました。このまちにおける連合町内会という大きな組織の有り様や、そこに渦巻く様々な問題や課題などにも思いが及びました。何をするにしても、人さえ良ければ~という思いに突き当たる日常ですが、とりあえず目の前の事象に正面から対峙し、できることを精一杯やって行く他に術はありません。

 考えてみれば、そのような私の目の前の行事をこなしているといった日常は、どんどん忙しさを増しているようにも思います。さらには、関わる(関わらなければならない)人の数も、増え続けています。また、多様な思いが交錯する中における人間関係においては、その関わり方もまた多様なものとなりますし、お互いの相手に対する評価も多様に変化するものだなぁと思います。

 基本的に、夫々の価値観はある程度普遍的なものだと思いますが、その時の利害関係などにより立ち位置や行動規範は変わるものでもあります。例えば、選挙や役員選出(これも、選挙のようなものですが)等の思惑が絡むと、それは複雑怪奇になっていきます。この時、私が心がけていることはみそもくそも一緒にしないということです。個別の案件に対して、極力フラットな状態で臨みたいと思っています。

 例えば、選挙等における支持する人が異なること等を規範として、他者の評価に偏見を持たないことや、他の判断すべき事象にその影を落とさないように努めたいと考えています。いいかえれば、そのような価値規範で行動する人や、そのことで不当で不条理な遺恨を抱く人が結構居るという現実があります。残念ながら、私の周りにはその傾向の人物が多いので、あえてこのようなことを述べています。

 一方で、そのような環境(周囲の)においても、曲がりなりにも「ちゃんとしたい」というような思いや考え方を想起させるような価値規範を醸成させてくれた要因として、両親・友人・知人・恩師といわれるような周りの人達に恵まれたことがあるのだと考えています。第一義的に、私が生まれながらに備えていた感性の中に僅かでも素直さや優しさなどがあるとすれば、それこそ両親のおかげといえるかもしれません。

 私は、本当にことある毎に述べていますが、これまで出会い関わり合ってきた人達に影響され、そのことに感謝している次第です。年末の多忙の合間を抜けて、時には痛飲したことを後悔する日々の中で、心通いあい解り合える仲間や知人の有難さを感じる日々です。また、「下手の横好き」程度ではありますが、お酒を嗜める体を与えてくれたことに対して、両親に感謝したいと思います。

 感謝といえば、今日私が生きていられるのは、生後一年位でインフルエンザ(おそらく)にかかり名だたる名医が匙を投げる中必死の看病で救ってくれた母と、今は亡くなられた地元の先生のおかげです。与えられた、命を無駄にしないようにと自らを戒め鼓舞しているところです。


2017 11月  13日   当たり前のこと

 


 立冬を過ぎました。さすがに、冷え込むようになってきましたね。残り少なくなったカレンダーには、びっしりと予定が書きこまれています。今一度、気合を入れ直して取り組んで行きたいと思います。

 さて、今月初旬は国内外における視察・研修などで忙しく過ごしました。本当に、世の中は自分の知らないことばかりだなぁ、と、思わせられることがたくさんありました。一方で、多忙な日常の中で鈍りがちであった心の感性には、錆を落としてくれるような刺激もたくさん貰いました。改めて、人は常に知らないことを知りたがり、未知な体験を求める生き物であることを感じています。

 また、どのような目的であったとしても、私は旅をすることが好きです。日常の生活から離れ、知らない土地を訪れ、その土地の匂いを嗅ぎ風土に触れることで、人の生き様や特有の文化を感じることができるからです。まさに、人間は置かれた環境(気候・風土・歴史・文化…広い意味での環境)によって、生活様式や習慣を異にするものであることが良く解ります。

 そして、これはいつも思うことですが、物事が上手くいっているまちや先進的な取り組みに成功している地域においては、必ずそれを引っ張る優れた指導者の存在があるということです。さらに、そのような指導者を戴く地域においては、その人の考えを理解し取り組みを支える為の背景となる、高い住民意識を備えた地域住民の存在が窺われます。

 本当に、何をするにおいても人が良くなければ、というか、人間力が高くなければ成果を得られないものであるということを常に実感します。また、私のそのような思いは深まっていくばかりです。その背景として、私が過ごす日常において、そのような優れた地域と異なる状況を見る機会が多いことが挙げられます。特に、本来信頼されるべき立場にある人々の振る舞いに関して、残念に思うことが多いです。

 これは前回も述べましたが、私は、市民の付託を受けて職責にあたる者には、その市民の血の叫びに対して真摯に耳を傾ける責務があるのだと考えています。そのような意味からは、選挙に勝つためだけに敵・味方というよな構図を作り出し(演出し)、自らを支援しないものを徹底的に攻撃し排除するような姿勢などがあってはなりません。また、そのようなことは厳に慎しむべきです。

 そのことは、選良として市民からの付託を受けた立場において執行する財源が、市民・国民の納めた血税であることを考えれば明かなことです。一方で、先ほど述べたように夫々のまちや地域において、将来の存亡をかけたような取組を実行し成果を上げているようなところでは、「血の叫び」である市民の声に真摯に耳を傾けている姿勢が、明確に窺えるように思います。

 しかしながら、このまちの現状を見る時、それとはかけ離れた構図が見えてしまいます。前述したような、利己的な考え方に基づく勝てば官軍という振る舞いが横行し、それを勝ち馬に乗ろうとする多くの人が眺めているという感じです。そして、年々政治への関心が薄れていく中で、市民の多くがそのようにして醸し出される、所謂空気のようなものに流されて投票行動をしてしまっているようにも思います。

 かくいう私自身が、自らが選挙に出るまでは政治には無関心でありましたし、選挙や自らの投票行動にそれ程の意味も意義も感じておりませんでした。実際、自らが立候補してみて(このまちを変えるために)様々な挫折を味わい辛酸をなめ、個人の力の限界を強く感じた今思うことは、本当に選挙というものが大切なものであり、投票行動には大きな意味と意義があるのだということです。

 まことに、「誰がやっても同じ」と思っていたことは、「誰に財布を預けるか」というほどに重要なことであったのだと、今更ながら強く思い反省しています。本当に、誰がやっても同じではありません。特に、このまちにおいては変えていかなければならないことばかりです。そのうえで、「これをもって、生き残っていくのだ」というような明確な方向性を持った取り組みも必要だと思います。

 何よりも、市民の付託に応える人間が、高い価値規範と倫理観に裏付けられた使命感を備える必要があります。けっして、自分や自らの仲間の為に判断を下すような考え方の人であってはならないのだと思います。けんかに強いことが良いのではなく、弱い人や真面目な人の為に取り組める人でなければなりません。例えば、それを邪魔する相手にこそ、強い姿勢が求められるのだと思います。

 考えてみれば、そんなことは当たり前のことであったはずです。その、当たり前のことが実践できるように、精一杯取り組んで行きたいと考えています。


2017 10月  26日   血の叫びを聴け




 またも、超特大といわれる台風がこの国を襲い、私の住んでいるところでも凄く強い風が吹きました。彼方此方で、被害を報じる声が聴かれます。その被害の少ないことを願いながら、来週からのハードな日程に臨みます。

 嵐といえば、突然の嵐のような解散風にあおられて、衆議院選挙が行われました。こちらも、様々な大人の事情による嵐が吹き荒れました。まさに、青天の霹靂といった具合で、俄かに新党が結成されたり、予定外にできた新党が人気を集めたりしました。。しかし、その実相はワイドショーを中心にしたマスコミにより、世の中が振り回されたものに過ぎないような気がして、虚しさを覚えます。

 実際、民主主義の成熟度という点においていえば、私達が少年期であった頃からあまり進歩していないような気がします。むしろ、一人ひとりが政治に関心を持ち自分の考えを持とうとする姿勢から言えば、後退しているような気さえします。私が、中学生となり始めて深夜放送を聴いたころでも、学生運動やイデオロギー等に関する話を、やっと毛が生えたばかりの友人たちと語り合った記憶があります。

 あの、悲惨な戦争を体験した(戦地に赴き、或いは幼少期の体験として)親たちの世代からは、既に恵まれている環境に生まれてきたことを指摘され、夫々に尻を叩かれて育ったのが私達の世代なのだと思います。そのような私達であっても、先ほど述べたように、世の中のことを考える習慣位は植え付けられながら育てられたように思います。。

 例えば、新聞は最低三紙位読むべきであるとか、多様な情報の中から真偽を見極め自身の意見を抽出せよというような言葉は、ほぼ全員が中学生位までに先生を始めとする大人達から言い聞かされていたと思います。もっとも、その頃の先生方は今よりかなり左寄りの人が多かったようにも思います(私自身の個人的な感想です。また、それを誘導したり強制するような人もいなかったとは思います)。

 また私は、むしろあの頃の方が政治に関する関心が高く、有権者の目も厳しかったのではないかという風にも思います。本当に、昔の選挙の方が政党や政治家個人の理念・政治信条などを判断基準としていたような気がします。特に、政治家の資質を吟味することに関していえば、あの時代の方が厳しかったのではないでしょうか(衆議院・参議院等の国政選挙において)。

 もちろん、中選挙区制から小選挙区制に変わったという選挙制度に起因する問題もありますが、今日の状況はマスコミによるワイドショー文化に影響され過ぎだと思います。また、そのことを背景としたポピュリズムに走る傾向も、強まるばかりのような気がします。まことに、今回のような自らの議席を確保するために~という風な、離合集散を繰り返す野党の動きは悲しささえ覚えます。

 一方の自民党においても、旧態依然とした派閥中心の力学を背景とした駆け引きと、支持団体等からの圧力が発揮される利害関係の現れなど、良く解らない動きの中で行われた公認調整等にはうんざりするばかりでした。特に、あの郵政民営化選挙の後遺症を引きずる岡山県第三選挙区においては、公示直前まで自民党の公認候補が決まらず、2名が自民党無所属という形での立候補となりました。

 一見、当選した方を追加公認するというやり方は公平に見えますが、この地域の保守勢力にできたしこりは中々解消されないような気がします。戦いは、保守本流を貫いてきた父親の跡を継ぐ知名度の無い若者か、落下傘として舞い降りてきた人ではありますが、過去4回に及ぶ比例復活に基づく国会議員としての「実績」を有する人との、悩ましい選択を迫られるものでありました。

 結果は、約三千五百票の差で「実績」の人が勝利しました。背景にある現在の政治状況やこの地域の特殊性など、色々なことが語られています。しかし、どのような結果であれ、当選された人が代議士なのです。文字通り、この地域の住民の血の叫び(かつて、田中角栄が初当選時に述べた議員の発言の重みを語る言葉)を代弁し地域と国家に貢献する責務があります。しっかり、果たして貰いたいと思います。

 さらに、選挙に関していえば、本当に日頃の準備が大切なのだと思います。こまめな、挨拶回りが効果的なのかもしれません。しかし私は、そこでどれだけ地域の悩みや要望をくみ取れるのか、と、いうことが重要だと考えています。それは、国会議員でも県会議員でも、或いは我々市議会議員でも同じ筈です。まさに、市民の血の叫びに耳を傾け、その背景を探るセンサーを備える必要があるのだと思います。

 考えてみれば、それは小さな自治会であっても同じことです。他者を慮る心を、身中に備えるべきだと思います。まさに、自分が皆の為に何を成すべきか、何ができるのかを考えていきたいと考えています。


2017 10月  9日   報道のあり方


 
 朝夕の涼しさは、清涼から秋冷へと変わっていきます。秋は確実に深まって行きますが、名月に思いを馳せながら宴席を渡り、お祭りの子供神輿の来訪を受け、スポーツ祭等のイベントに参加して…趣を味わう暇もないのが実情です。

 まことに、時の過ぎゆく速さに驚き、そして、それを嘆くようになって久しい気がします。さりとて、出現する目の前の課題をこなす生活を変えられもせず、否、むしろ背負うものを増やすような方向へと自ら歩を進めて行くような生き方からは、当分逃れられないような気もしています。好きなことだけ、或いはやりたいことだけをして、生きてはいけないのが人間というものなのでしょう。

 さらには、ついこの前には考えもしなかったような、衆議院の解散などということが現実となり、野党第一党の解党やそれを基にした新たな党の設立など、目まぐるしい政界の動きなども見られます。本当に、一寸先は闇という言葉が思い出されます。一方で、政権選択選挙を標榜する割には解散の大義も腑に落ちず、対抗する野党の動きもポピュリズム的な考え方が中心なような気がします。

 そして、審判を下すべき国民の意識についていえば、ワイドショーを中心としたマスコミの影響を受け、益々それに流されやすくなっているように思います。実際、多様な情報ソースの中から、的確にその内容を精査して、正しい(と、納得できる)判断を出していくことは、今日の社会では中々難しいことでもあります。さらには、フェイクニュース等ネット社会を中心に、情報源の複雑化も進んでいます。

 本当に様々な場面で、何処かのワイドショーでコメンテーターが語っていたような事柄を、訳知り顔で語る人に出会う機会は数多くあります。先ほども述べましたが、多様な情報を咀嚼しながら、幅広い角度から物事を考えて判断していくことが大切です。一方でそのことは、訓練が必要なことでもあります。私自身、若い頃から心がけて来たつもりですが、胸を張る程の自信はありません。

 それでも、新聞各紙の論調の違いや、それに基づくテレビ局の報道姿勢の違い位は感じられる自負はあります。さらには、自分独自のルートや人間関係から得られる情報源については、年相応に拡充してきたつもりです。しかし、何といっても大切なのは、それらを咀嚼し判断を下していくために必要な感性ではないでしょうか。またそれは、所謂「額に汗する普通の人」の感性であるべきです。

 しかし、この頃そのような価値規範が揺らぐようなことがあります。例えば、幼い子供や弱い人に手をかけ、簡単に人の命を奪うような事件を頻繁に耳にする時、この国の常識が変わっていくような虚しさを覚えるのです。また、ある特定の人物について時に持ち上げブームを煽り、場合によってはケチをつけてそれを冷やすというような、話題作り優先のマスコミの姿勢にも違和感を覚えます。

 さらには、そのような視聴率や売上重視を念頭に置いたマスコミのやり方に踊らされている人の数の多さを見る時、私は、空恐ろしいような懸念を感じます。他方、国の危機管理に関することから芸能人の不倫まで同じように扱うワイドショーの「正義感」は、先鋭的に悪者を作ることを得意としています。したがって、今日の我々の社会では「誰が責任を取るのか」ということを常に意識せざるを得ません。

 そのことは、社会からどんどん寛容さを失わせていきます。そして、人々の中に他者との関わりから遠ざかろうとする意識を助長させているのだと思います。誰かの為に、善意で何かを行うよりは、出来るだけ何もしないことが自らが傷つかないことにつながると考える人は増え続けています。一方で、そのような風潮が公に何でも求める、ポピュリズムが高まる要因の一つになっているのだと思います。

 たとえば、今回の総選挙に関する報道などを見ていても、本当にこの国が向かうべき方向性や国家のあり方について、真摯な姿勢で提言をしたり議論しているような印象が薄いように思えてならないのです。第一義的には、どの党が勝ち政権を握るのか、或いは、誰が総理大臣になるのかとかいうような、目先の話題に終始している印象です。それは、週刊誌的な所謂興味本位な姿勢だといえるでしょう。

 そのような意味から言えば、本来私達が咀嚼すべきものとして提供される情報そのものについても、薄っぺらで不十分なものといわざるを得ない気がします。実際、今回の総選挙に関しても、しっかりした取材に基づく核心に迫る内容の論評が聴きたいところですが、当たり障りのない記事や報道姿勢が目立ちます。さらにいえば、地方の行政や政治に関しては、その傾向がさらに強まります。

 まさに、東京都議会選挙の時のようなブームが起きにくい地方こそ、マスコミの担う責任は大きいのだと思います。公正な姿勢を担保した上で、核心に迫る報道を期待したいと思います。

2017 9月  18日   つないでいくもの




 運動会シーズンです。既に、地元の中学校の運動会に出席してきました(小学校は、台風で順延です)。しかし、考えてみれば我が子の時には全く行かなかったなぁ、という記憶が甦りました。

 それは、少し後ろめたいような気持ちでもありましが、一方で、その時代のことを考えれば仕方がないことでもありました。具体的な場面をいえば、中学校の運動会の部活紹介の時に浮かんだ気持ちです。これから世の中に育っていく若い力の躍動を目の当たりにした時、心の底から「頑張れ」という気持ちが湧いてきました。それと同時に、先ほどのような情念が想起されました。

 実は、我が家は家族全員同じ競技(ソフトテニス)をやっておりました。そのようなこともあり、その集団が元気よく私の前を行進してきた時、不覚にも目頭が熱くなりました(寄る年波ですね)。吹奏楽部の演奏をバックに、颯爽と表彰状やラケットを手に行進する母校の後輩達を見た時に「あぁ、我が子らもこの様であったろうなぁ」という思いがこみ上げてきたのでした。

 もちろん、当時の親(特に父親)達はどこでもそのようであったのだと思いますが、リアルタイムで息子や娘の雄姿を見てやりたかったなぁ、と、いう気持が湧き上がってきたのです。時間にすれば、ほんの数秒のことだと思います。本当に、僅かな心の動きでした。実際、そのすぐ後には、エンジニアとして、また、家族を養うために仕事に埋没していた日々が思い出されました。

 考えてみれば、「最後は、人の役に立て」という気持ちで自治会活動などに携わっている今だからこそ、来賓席のイスに座り、若い後輩たちの行進する姿を眺められているのだという風にも思いました。当たり前ですが、「守り育てなければ」と考えていた子供達も成人し、久しく時が過ぎました。もちろん、彼らに注いだつもりの「えも言われず愛おしき」愛情はあの頃と変わりません。

 また、そのような「親の思い」は、夫々に道を見つけ歩み始めている彼らの胸にも、幾何かは伝わり残されているのだと思います。さらには、その思いを彼らの子ども達に繋いでくれるのだと信じています。そうですね。人は、そのようにして心に共鳴し合ったことや、熱伝導のように伝わった熱い思いなどを次世代に繋いでいく生き物なのかもしれませんね。

 上手く言えませんが、経験しないことは心底からは理解できないような気がします。したがって、愛された記憶が無ければ愛することも出来ない(難しい)のではないかと思います。今、私達は、自治会が中心となって公民館を舞台に、地元の小学生を集めて夏休みわくわく教室なるものを開催しています。長い夏休みの内で、僅かな日数で良いから地域に関わった思い出を作ってやりたいという思いからです。

 実は、地方においても格差社会は広がっており、また、多様な価値観の広がりや個人主義の追及は、母子・父子家庭、或いは祖父母との暮らしなど、子供達の心身に負担がかかりやすい家族形態を増やしています。そのような中、本当に一日でも良いから、公民館で夏休みの宿題の問題を一問でも解き、地域のおじさんやおばさんが作ってくれたお昼ご飯を食べた思い出があれば……

 そのような思いから、私達は取り組んでいます。本当に、そのような思い出が一つでもあれば、それが優しい気持ちを育む種のようなものになるはずです。そして、その思いでから起因して「地域の人にしてもらった~」という記憶が甦れば、自分が大人になり、またこの地域に戻ってきた時には、地域の子ども達の為に何かをしてやろう、と、思ってくれるのではないかという思いです。

 もちろん、今日のような不寛容で権利ばかりを主張する世の中では、そのような良識と善意を拠り所とするような取り組みはやり辛いものがあります。実際、二言目には誰が責任を取るのかという風潮が、小・中学校の教育現場から潤いを奪っているといえるでしょう。そもそも、私達日本人の精神性を育み継承してきた社会は、良い意味の寛容さと自らを律する倫理観が基本にあったはずです。

 他者に迷惑をかけず、法律に触れることよりも人として恥ずべきことを厭う社会が、私達の心の中に日本人の精神性を繋いできたのではないでしょうか。紆余曲折した私ですが、父や母から、或いはそのような精神を内在させた友人・先輩などから、心の内奥にあるその種のような部分に、共鳴する思いや温もりを伝えて貰ったからこそ、曲がりなりにも人間らしい情緒感が備わったのだと思います。

 だからこそ私は、繋いでいかなければならないのだと考えています。人としての優しさや、熱い思いをね


2017 9月  4日   時のなせる技



 9月になりました。僅かの間に、稲の色も深まりました。直ぐに、彼方此方にコンバインが出動し、稲株ばかりが見える田圃に変わるのでしょう。益々、一年が短く感じられてきました。

 さて、この度、還暦を迎える同級生の会のメンバーで、伊勢神宮に正式参拝してきました。本当に、一年が短く感じられるはずです。若い頃には、まさか自分がそんなことになるとは想像もしなかった還暦に、遂に、私達もなってしまいました。それでも、私の場合は同級生の中では一番若いので、実際には来年が還暦です(言い訳がましいですが)。

 いずれにしても、和気藹々とバスに乗り込む見慣れた顔を改めて眺めれば、どの顔もそれなりに年を取ったなぁというのが素直な気持ちです。もちろん、この位の年齢になるとかなり個体差もありますが、やんちゃだった少年達も還暦を迎え、それぞれが随分良い人になったなぁという気がしました。お互いに、いたわりあいながら席に着く様子などもみられました。

 そして彼方此方で、予め用意しておいた缶ビールの栓を抜くプシュッという音がすると、いつもの談笑が始まります。本当に、他愛無いいつもの会話の延長です。内容も、同じような話が中心なのですが、何故か大きな笑いが起こり、皆、腹の底から笑います。お互いに、何の遠慮もせず、それでいて見事なまでに絶妙な距離感で、言いたいことを言いあえる仲間です。

 それでいて、その会話の中に、何となく18歳の頃とは違う優しさや暗黙の了解を含めた、お互いへの思いやりのようなものが含まれていることを、私は感じました。また、暑い中スーツや礼服を持参し、神妙な面持ちで厳かに参拝する面々を見ていると、何となく嬉しいような恥ずかしいような気持ちにもなりました。充実した、還暦ツアーであったと思います。

 またそれは、僅か一泊二日の旅でしたが、とても楽しく意義深い旅でもありました。さらにいえば、そのような仲間を持てたことに感謝せずにはいられません。さながら、おじさんたちのの修学旅行といった感じでもありました。そういえば、かつて行った修学旅行の時のエピソードなども、つい昨日のことのように思い出され、お互いに語り合う様子も見られました。

 それでも、直前になって行けなくなった人や、どうしても都合がつかなかった人もいますので、あまり「楽しかった」ことを吹聴し、浮かれている訳にもいきません。大人になると、色々な事情や都合ができてしまうものでもあります。来られなかった人たちの分も、心を込めてお祈りをしておきました。しかし、本来は国家の安寧を願い、その延長線上に我々の安寧があるという祈願なのだとは思います。

 この、お伊勢参りはかなり前から予定していたものでした。しかしながら、私にとっては、結構タイトなスケジュールの中を擦り抜けて行く結果となりました。年々、タイトになるスケジュールではありますが、色々な要素が重なってしまい、ぎりぎりで調整するような場面もありました。それでも、無事参加することができ、宴会の締めで恒例の「同期の桜」を歌えたことに歓びを感じています。

 また、地域や周辺において、予期せぬ出来事や煩わされる事柄もありますので、やらなければならないことは山積みです。実は、本日から議会における一般質問が始まります。毎回、初日一番で通告しておりますが、今回は初日の二番目となりました。以前から構想していたことと、最近の動向などを兼ね合わせ、質問原稿を仕上げましたが、中々満足いくものにはなりません。

 自分では、二元代表制の一方である議会の責務を果たすための取り組みに関して、できる限りの精進をしているつもりですが、その一方で、自身の描くイメージ程には成果が上がっていないもどかしさも感じています。本当に、未来の子どもや孫たちの為に、今やらなければならないことはたくさんあります。そして、このまちに充満する閉塞感を打破し変えていかなければなりません。

 そのような思いは、年齢を重ねるたびに深まります。どういうものか、私の思考回路は年々シンプルになって行くのです。我ながら、不思議な気もしますが、標ぼうし続けてきた「公の人としての判断」が随分と腑に落ちるような感じがしてきました。さらにいえば、真面目な人や弱い人達の為にいきていかなければならないことを、当たり前のこととして思えるようになっても来ました。

  かつてのやんちゃ坊主も、還暦の仲間達と酒を酌み交わしながら、世の中や次世代のことなどを語るようになってしまいました。これも、時の成せる技なのでしょう。

2017 8月  21日   時の流れの中で



 まだまだ、厳しい残暑は続いていますが、お盆が過ぎました。まもなく、夏休みも終わります。田圃の稲穂も頭を垂れ、色づきはじめています。驚くほどの風は感じませんが、秋はそこまで来ています。

 まもなく、我が家の僅かばかりの田圃も、収穫時期を迎えます。これまでのところでは、生育は順調のように見えますが、一方で今年はバッタやイナゴが多いという声も耳にします。月が替われば、そんなことを気にしながら稲刈りの準備をしなければなりません。ついこの前、田植えをしたように思いますが、まことに月日の経つのは早いものです。

 そういえば、今月末(8月31日)を持って小樽の石原裕次郎記念館が閉館となります。1987年7月17日に石原裕次郎が亡くなって、早30年が経つのだそうです。本当に、月日の経つのは早いものです。件の記念館は、1991年(平成3年)7月にオープンしました。私が、年上の友人と渡辺淳一の影響により、北海道を度々訪れるようになったもの、この年辺りからでした。

 流石に、そこを目的地として旅の計画をすることはありませんでしたが、小樽の裕次郎記念館には幾度も足を運びました。私は、以前から繰り返し述べていますが、所謂ミーハー的な感性に依拠した裕次郎ファンだと公言してきました。少し話がずれますが、同様に長嶋茂雄ファンでもあります。そのようなこともあり、本当に小樽の記念館には何度も行きました。

 余談ですが、北海道に行き初めた頃私は、40枚組にも及ぶ石原裕次郎のCDを深夜のテレフォンショッピングで購入しました。実は、これを買うと小樽の記念館に名前が刻まれるというセールストークに惹かれ、高額なCDセットを衝動買いしてしまった訳です。ところが、これも情けない後日談ですが、何度記念館を訪れてもそのような(CD購入者の名が刻まれたような)場所はありませんでした。

 今から思えば、さもありなんというような話だと思いますし浅はかな自分を苦笑いしていますが、裕次郎記念館への訪問回数が多くなった一因には、そのような理由もあったように思います。もちろん、訪問回数については、単純に私が石原裕次郎ファンであったことが最も大きな理由であることに間違いはありません。本当に、訪れる度に大スターの存在感を身近に感じられる場所でもありました。

 特に、幼少期の書画をはじめとする故人の持ち物や縁ある品々を眺めていると、ファンとしての私の心が揺さぶられるような気がしたことを思い出します。実際に、入口の熊谷組のトンネル支保工のセットの前に立つと、黒部の太陽の時の裕次郎の雄姿が彷彿されます。まさに、父と反駁しながら破砕帯に挑む、若きエンジニアの葛藤する姿が活き活きと甦る気がします。

 また、小学校時代に教科書に出てきた破砕帯とかセメントミルクなどという言葉が、極めてリアルなものとして私の脳裏に浮かんでくるような気がしました。本当に、思い出深い施設であったと思います。そんなこともあり、私はかなりの期間において、車のキーホルダーは裕次郎記念館で購入したものを使い続けておりました(この頃のものは、キーホルダー自体が不要ですが)。 

 とはいえ、干支でいうと二回り下の私が石原裕次郎ファンを任じているのは、一般的には少し違和感があるかもしれません。本来の石原裕次郎ファンは、私より一回り上の世代以上が多いのではないでしょうか。子供の頃から、頭でっかちな私がませていたのか、或いは背伸びしたファンだったといえるのかもしれません。今回の、記念館の閉館にはその辺りのことも理由があるのだと思います。

 いくら、昭和を代表する大スターとはいえ、多くの裕次郎ファンが高齢化しているはずです。記念館への来客数が減少している理由もそこにあるのでしょう。他にも、老朽化する施設の維持管理費や、映像設備のデジタル化対応への高額な費用の捻出の問題などが、裕次郎記念館閉館の理由であると言われています。残念に思う気持ちの中で、時の流れと人の世の移ろいも感じます。

 そういえば、一人旅で冬の北海道を訪れ、わざわざ紋別の小山旅館に泊まり「流氷への旅」と書かれた渡辺淳一の額にときめいたことや、そのために札幌の丘珠空港から今は無きYS11に乗り、荒涼とした原野の上を飛んだことなどを鮮明に思い出します。また、たった1週間しか見られない大雪の紅葉を見る為とか、裕次郎に会いたいなどという動機だけであの頃は旅に出ていました。

 いまでも、なるべく心の赴くままに行動しているつもりですが、忙しさを理由に衝動を抑えようとする自分もいます。益々、その速さを実感する時の流れの中で、時間の大切さを痛感しています。


2017 8月  7日   夏の記憶を辿る


 
 今年も、異常なほどの暑い日々が続いています。そして、今年も原爆の日を迎えました。広島・長崎と罪のない多くの一般市民が犠牲になりました。私達は、二度とあの悲惨な戦争を繰り返さない為にも、このことを語り継いでいく必要があるのだと思います。

 あれから72年の時を経た今、この国の夏は真っ盛りです。かつて、戦争により多くの若者が夢を絶たれた憧れの舞台甲子園に、今年も全国の地区予選を勝ち抜き代表校が集いました。本日(8月7日)が開会式の全国高等学校野球選手権大会は、今年で99回を迎えました。私の記憶の中にも、数々の名場面・名勝負・名選手の姿が残されています。また、今年の岡山大会決勝は本当にドラマチックでした。

 例えば、全出場5回の内4回を現場で見た桑田・清原をはじめとし、多くのスターを甲子園球場で直に見ました。その中には、後にプロ野球で活躍した選手が大勢います。本来、私はミーハーな巨人ファンの野球少年でした。というのも、その頃のテレビでは巨人戦しか見られず、そのうえ当時の王・長嶋の活躍は素晴らしく、特にチャンスに強い長嶋の劇的な活躍は少年たちの心を捉えていたものです。

 その長嶋の引退もあり、75年の悲願の初優勝を目の当たりにして、プロ野球においては広島ファンに変節してしまった私ですが、高校野球に対する思い入れは今も持ち続けております。もちろん、「本職」であるテニスへの愛着は強くありますし、ボクシングをはじめとする格闘技やラグビー、サッカーなど、スポーツ全般に平均的な人以上に思い入れと造詣があることを自負しています。

 それでも、何故かこの時期になると、甲子園における高校野球の動向への関心が高まります。何というのか、もし立てるならあのマウンドに一度は立ってみたいと願うのが、私たち世代の男子の多くが抱く共通の妄想だったと思います。何時か、大人になり失ってしまった、あの、ひたすら白球を追いかける純な情熱を、精一杯プレーする今の選手達の中に見出し、疑似体験しているのかもしれませんね。

 そのような思いを想起するとき、私は8月1日が命日の大作詞家を思い出します。その人の名は、かつてスポーツニッポン紙に「甲子園の詩」というタイトルでコラムを寄稿されていた阿久悠さんです。阿久さんは、小説においても瀬戸内少年野球団を執筆し、直木賞候補にもなりました。さらにこの作品は映画化され、夏目雅子の圧倒的な存在感もあり、私の心に残る作品の一つになっています。

 ところで、作詞家阿久悠について語るには、残された誌面は余りにも少なすぎます。なにしろ、その生涯において作詞した曲数は5000曲を超えるといわれています。さらに、そのジャンルも演歌からポップス、アイドルソング等実に幅広く、まさに昭和を代表する大作詞家といえるでしょう。阿久さんは「感動する話は長さではない。3分の歌も2時間の映画も同じである」と語っています。

 時代を捉え、多くの人が心の中に抱えている思いや概念を具象化し、解りやすい言葉として披瀝して見せることにおいて、他の追随を許さない才能を発揮した人であると思います。例えば、また逢う日まで、北の宿から、勝手にしやがれ等定番のレコード大賞受賞曲をはじめ、もしもピアノがひけたなら、あの鐘を鳴らすのはあなた、舟歌、UFOなど枚挙の暇もありません。

 また、石野眞子の狼なんか恐くないで吉田拓郎ともコンビを組んでいます。因みに、加藤和彦作曲で拓郎の歌唱となっている純情という曲も阿久悠作詞です。他にも、私の印象に残っている曲でいうと嫁に来ないかや時代おくれ、時の過ぎゆくままに、街の灯り、熱き心に、5番街のマリー、ジョニーへの伝言……つい並べてしまいましたがたくさんの名曲があります。切りがないことでした。

 さらに、宇宙戦艦ヤマトやウルトラマンタロウ・レオなどのアニメ・ヒーローソングなどにも多くの足跡を残しています。少年時代に結核を患い、身体を使わない職業を志したというエピソードがあり、一方で、同い年で早くくから輝を放っていた美空ひばりに畏怖する程の憧憬の念を抱き、子供の頃溺れかけた時、自分が死んでも「少年水死」の4文字だがひばりが死ねば4万字にもなるだろうと思ったそうです。

 阿久さんは、創作の際におけるテーマ選びの基本として、時代の飢餓感を見極め捉えることを置いていると語られています。そこを満たすのが、歌の使命なのかもしれませんね。一方で、強く思い入れを持って描く作詞スタイルは、必ずしもすべてがヒット曲に繋がる訳ではありません。後年等、時代に沿わないこともあったのだと思いますが、創作スタイルを貫いた人でもありました。

 阿久さんのスポニチコラム甲子園の詩の最後が、あの駒大苫小牧と早稲田実業による引き分け再試合の決勝戦であったことは、野球を愛した阿久さんにふさわしいエピソードであり、大きな感慨を覚えます。多くの人の心の飢餓感を見極めた、唯一無二の作詞家がこの世を去り10年目の夏です。

                                                                   このページの先頭へ