トップページ

コラムリスト            前のページ           次のページ

 NO.2

2003年 7 月 28 日               技術士二次試験を控えて



 記録的な豪雨による土石流の発生などによって、九州地方(特に水俣市宝川内地区)で多くの犠牲者が出ました。心から、お悔やみを申し上げたいと思います。地球を取り巻く環境の変化とは、直接関係ないのかもしれませんが、都市部で一気に降る突然の雨などと併せて、何か恐いようなやるせない気持ちにさせられてしまいます。いずれにしても、このような災害で犠牲になるのは、弱い一般市民であるということです。真の意味で、血の通った社会資本整備への取り組みが求められると思います。

 さて、いよいよ8月3日(総監受験の人は8月2日)が近づいてきました。これまで努力して来た成果を発揮され、多くの人が合格されることを期待しています。しかしながら、試験は一年に一回だけのチャンスであり、その制度も毎年変わっていますから、受験される方は対応が大変だと思います。本当に、ちゃんと努力してきた人が報われるように祈りたいと思います。

 受験に際しての情報収集や参考としては、当HPで紹介しているHPが役に立つと思います。また、受験される部門や科目別にインターネット等で多くの情報が入手可能だと思います。さらに、新聞、業界誌、日経コンストラクションなどからのキーワード、トピックスの把握も大切です。また、それらから得られる多くの情報について、自分のものとして咀嚼したうえで記憶に定着させていく習慣を身に付けておくことも大切だと思います。

 今年から、解答用紙がまた変更になり、600字詰のものとなりました。たいていの場合、午後は、この用紙を3枚×3セットで9枚(建設一般が3枚、選択科目が3枚ずつ)プラス択一問題という出題になります。択一問題に30分みると、受験番号と選択科目、何枚中何枚目などを書き込み、誤字の修正などに最低10分はかかりますから、論文に当てられる時間は200分となります。1枚当りは22分少々ということになります。暗記していることを書き込むだけで、ぎりぎりの時間だと思います。

 択一問題を素早く済ませるなどということもありますが、予期しない問題や勉強していないことも出題されますので、あまりあなどれないかもしれません。それよりも、傾向別(コスト縮減、環境に関するもの、維持管理系など)の「はじめに」「おわりに」をいくつか用意しておき、それぞれの基本的な論文を作っておいた上で、キーワードを箇条書きにしたセンテンスをなるべく多く用意しておくことだと思います。習熟度にもよりますが、それで大体、やまが外れても対応できると思います。

 大切なのは、論文のなかに必ず自分の意見を投影させることです。出題を見てもあなたの意見を述べよ、という問いかけになっていると思います。この「あなたの意見」は、体制を批判するとか自虐的な意見ではなく、建設的で積極的な意見が必要です。そのためには、常日頃、「我が国の……」という書き出しを念頭に置いた生活姿勢が推奨されます。そのような意識でいると、新聞などの記事の中で、キーワードとなる言葉に対して敏感に反応できるようになってくるものです。

 とはいえ、技術士二次試験を受験されようとしている人は、すでに、そのような姿勢でおられると思います。そこで、試験直前に一言述べるとすれば、キーワードやトピックスにとらわれすぎてはいけないということです。このHPで紹介しているHPなどでも、懇切丁寧な解説や指導がされています。それらは、貴重な情報でありとても役に立ちますが、先に述べた自分の意見を見失いがちになります。高い倫理観と熱意に裏付けられた自分の意見は絶対に必要です。

 設問に対して、キーワードやトピックスをあれもこれもと欲張らずに、必要なものを的確に述べ、それに対する自分の考え方を示すことが重要です。インターネット等により、得られる情報は膨大な量があります。また、有名なHPは多くの人が参照しているでしょう。多くのキーワードを並べても、きちんと自分の中で消化し、本当に自分の意見となっていない文章は、同じようなものになってしまいがちだと思います。少なくとも、たくさんの論文を読む試験官の目には、そのようにうつるのではないかと思います。

 別項の実践対策に、試験に臨むコンディション調整や役立つ道具などを紹介しています。少しでも、リラックスして力が発揮しやすい環境を整えて、試験に臨んで欲しいと思います。余談ですが、合格発表までの日にちも長くストレスがたまります。また、それで良い結果が得られなければ、来年の夏まで、長い一年となるわけです。長い1日となる試験日の中で、何度もだめかと思う時があると思います。しかし、最後の最後まであきらめることなく、四つの論文すべてに「以上」を書き込みましょう。

 午前中の経験論文については、ここではふれていません。ほとんど例年通りに出題されると思いますから、科目ごとの出題形式(1例詳述か2例詳述かなど)を想定して、100%に近い記憶で試験に臨むことです。重ねて言いますが、勝負は午後の問題だと思います。受験される皆さんのご検討をお祈りいたします。


2003年 7 月 14 日              クリムゾンタイド



  私にとって衛星放送といえば、ボクシングを初めとしたスポーツの中継と、映画を見るためにあるといっても良いかもしれません。ボクシングなどスポーツの話は何度かしたと思いますので、今回は映画の話をしてみたいと思います。

 私が、劇場で映画を初めて見たのは、父に連れられて行った東映系の映画館だったと思います。確か網走番外地だったと思うのですが、線路のレールの内側と外側に別れて手錠を切るシーンがあり、青い空と、迫り来る蒸気機関車の迫力が強く印象に残っています。また、洋画で最初に見たのはサウンドオブミュージックです。オープニングのさわやかな景色の中で歌うマリア(ジュリー・アンドリュース)の清楚な美しさに魅了され、物語と音楽の素晴らしさに引きずり込まれていき、見終わった時の感動は今でも残っています。

 以来、生きて行く過程の節目において、色々な映画を見たと思います。卒業やある愛の歌、女の子と見に行って、自分の方がわくわくしてしまったジョーズなど、色々な思い出があります。最近は、もっぱらテレビの衛生放送で見ることが多くなってしまいました。新作も余り時間を経ずして見られるので、劇場での迫力はありませんが便利になったと思います。

 そのようななか、最近見た作品の中で印象に残ったのが、デンゼル・ワシントン主演のクリムゾンタイドです。潜水艦アラバマの艦内でおきる核ミサイル発射命令に関して、規則を忠実に守りながら、できることなら核戦争を避けようとする副長と、無線の受信状態が悪い中、当初の命令を履行しようとする艦長との対立が題材となっています。95年の作品ですが、私は今年になって2回見ました。潜水艦の映画では、眼下の敵とレッドオクトーバーを追えが印象に残っていますが、今流行のリスクマネジメントの観点からも、このクリムゾンタイドという映画は面白い映画だと思います。

 たたき上げの艦長を演じるジーン・ハックマンは、あのポセイドンアドベンチャーにおいて、沈没していく豪華客船のなかで強力なリーダシップを発揮し、人々を助けていく(本人の安否は言わずにおきますが)牧師の役を好演していました。そのことを懐かしく思い出したりもしました。その役柄とのギャップもあり、ワシントン演じるハンター副長とのやり取りが一層面白く、過ぎた時間の隔たりをも感じました。

 通信系統にトラブルが発生し、回復できるかどうかわからない状態となる時、最後に中途半端な、「ミサイルを……」という命令が潜水艦に入電します。この後、ラムジー艦長がミサイル発射の命令を遂行しようとする行動と、今一度命令を確認するべきであるとして、抵抗する副長ハンターによる艦内での争いに、白人と黒人との間にある感情、、高学歴者と現場でたたき上げてきたものの誇りなど、様々な要素がからみ合います。

 祖国のことを思い、平和を守ろうとする気持ちは同じであっても、一つ間違えば起こりうる結果は全く違うことになる。そのようなことを強く感じました。最新鋭の潜水艦の中で、事細かく安全を守るためのシステムやマニュアルが確立されていても、それに携わっているのは人間である。このことを考える時、技術の進歩だけではない何かの必要性を感じずにいられませんでした。

 ロシアのミサイルが発射可能となる時刻まであと4分、受信システムの回復まで3分の猶予を与えると言ってから、艦長がハンターに語りかける馬の種類と産地の話などから、多民族国家アメリカの中にある人種感情の根深さを感じました。そのような中、デンゼル・ワシントンの演技は光るものがあったと思います。胸に熱いものを持ちながらも、冷静に事態に対処していく態度は見る側に感動を伝えてきます。

 デンゼル・ワシントンは、マルコムX、ハリケーンなど多くの作品に出演し大スターとなりました。彼の役に取り組む姿勢とその演技力は素晴らしいものがあると思います。それほどたくさん映画を見る人間ではありませんが、そんな私から見ても好きな俳優の一人です。彼の演技からは、現状の不条理なもの(差別・偏見など)を越えて、人を愛するという主人公の姿が浮かび上がってきます。決して卑屈でなくひるまない、しっかりとした信念が熱い魂を包んでいる。そんな印象でしょうか。

 日本でも、故深作監督の遺作となったバトルロワイヤル2などが発表されていますが、本当に、中学生が殺し合いをするような映画が良いのでしょうか(本編は見ておりませんので強くもいえませんが)。深作監督と言えば仁義なき戦いは良く見ましたが、あれは面白いシリーズだったと思います(殺し合いの映画には違いありませんけれど)。しかし私の言いたいのは、なによりも見る人は、少なからず影響を受けるのが映画であると言うことです。

 映画に出てくるヒーローや主人公は、その活躍やカッコよさだけでなく、高いヒューマニズムを持っている必要があると思います。ともすれば、派手なアクションや豪華な仕掛けなどに目がいきがちですが、人間自体をつよく描くような作品が見たいと思います。最近では、チング、アリなどもおもしろかったと思います。あくまでも私の個人的見解と、気が向いてタイミングがあった時に、見ることができた作品についてのみの感想ではありますが……

 最後になりますが、クリムゾンタイドでみた副長ハンターのような軍人や危機に携わる人物が増えることを期待したいと思います。何度も言いますけれど、どのような高度なシステムや素晴らしいマニュアルがあっても、実際に使用するのは人間であり、シチュエーションとしては第一線の現場ということになるからです。


2003年 7 月 2 日           あこがれの人、尊敬する人



  7月17日は「あじさい忌」、昭和が生んだ大スター石原裕次郎の命日です。昭和62年に52歳でこの世を去り、早くも17回忌を迎えることとなりました。戦後の復興と、めざましい経済発展をとげる我が国の時代背景とマッチし、時代を象徴するスーパースターとなった人ですが、私にとっても、あこがれの人です。

 といっても、私の場合はリアルタイムで裕次郎映画を見ていた青春時代では有りません。むしろ、太陽にほえろや西部警察といったテレビドラマのボスというイメージの方が強いかもしれません。しかし、夜霧よ今夜もありがとう、赤いハンカチ、二人の世界など、数々のヒット曲は子供の頃から耳にしていました。また、ときおり再放送される映画を見るにつけ、だんだんとひき付けられていくようになったと思います。カッコ良さだけではなく、男から見ても心をひかれる魅力のある人でした。

 大スターと新人の出会いの場面で、「初めまして、石原です」ときちんと挨拶され、恐縮し、その人柄にいっぺんに惚れた、と、渡哲也現石原プロ社長が語っていましたが、その人柄についてのエピソードはたくさんあるようで、報道や映像で知る限り、男らしさと優しさを兼ね備えていた人だったのではないかと思います。

 ミーハ-的要素の強い私は、小樽の記念館にも度々行きました。そして、そのたびに思いを熱くし、気がつけば記帳をしたりしているのでした。等身大パネルに並んで写真を写したりもしましたが、当時の人としては、桁違いにスタイルもよく足の長い人であったのだと感心したものです。どのようにけちをつけようとしても、とうてい及ばない輝き、それを感じさせるのが、私にとっての石原裕次郎という人です。あこがれの人というのは、そんな人のことを言うのだと思います。

 好きなタレントや歌手・役者は色々いますし、好きなスポーツ選手もたくさんいます。しかし、あこがれの、という冠がつくと、私の場合、スポーツ選手では長島茂雄、芸能人では石原裕次郎ということになります。くしくも、この二人は親友同士であったようです。かつて、長島選手、石原夫妻でアメリカ旅行をし、ニューヨークのヤンキースタジアムを訪れ、ジョー・ディマジオのロッカーを見学した話などは有名です。

 長島さんについて言えば、采配ぶりなど、監督としての資質などについては疑問もありますが、存在そのものが私にとってのあこがれ的存在なのであって、そのことに、細かな理由付けは必要ないのです。石原裕次郎にしてもしかりで、私の個人的な趣味と感覚にねざしているに過ぎないのです。映像からうける印象には、演技や演出で作ったり隠したりすることのできない、その人の個性を垣間見ることができると思います。

 いくら、可愛らしさや優しさをアピールしても、本当の中身が無ければ、見ているこちらに伝わってくるものでは有りません。本人は意識していなくても、生まれながらにその人間的すばらしさを備えているのではないか、と、感じさせる人(実際には、本人なりの葛藤や努力の積み重ねがあると思いますが)こそスーパースターと呼ばれ、人々のあこがれの存在となるのだと思います。

 また、尊敬する人物ということでは、あの幕末にただ一人「日本人」という意識で行動し、その役目を終えると歴史から消えていった坂本竜馬や、最後まで自らを皇帝とすることを嫌い、出師の表をしたため出陣していった諸葛亮孔明、などのような、私欲でなく志に生きた人です。煩悩にさいなまれ、行き当たりばったりに暮らしている自分から考えると、心苦しいきもしますが、そういう意味でも尊敬する人物には違いありません(あこがれの人ともいえるかも)。

 その他、我が国や世界には多くの偉人が歴史上登場してきました。その中には、竜馬や孔明以外にも尊敬する人物はたくさんいます。また、現代において活躍されている人の中にも敬意を表したい人は大勢いると思います。そして、著名な人でなくても、これまで生きてきた中で、敬服するような人は何人もいたと思います。私に「技術者」という意識をもたせてくれた人、人としての根っこの大切さを教えてくれた人など様々です。

 人は誰でも、誰かの影響を受け自分を形作っていくのだと思います。良い意味でも悪い意味でもです。どんな人にでも、自分に良い影響を与えてくれた人はいる筈なのです。大切なのは、それに気がつくセンサーを持っているかどうかだと思います。いくらありがたいお話を聞いていても、聴いている側にそのセンサーがなければ、自己の改革にはつながりません。そのセンサーを持つために必要な感性の勉強をする場として、私には、体育会系の部活や建設現場があったのかなあ、と思うときがあります。

 生まれながらに、そのような感性を持つことは稀有なことです。成長していく中で感性は磨かれていくのだと思います。だからこそ、技術やスキルを伝承するだけでなく、精神を伝えていくための教育が必要になるのだと思います。今日のような社会情勢の中では難しいことかもしれませんが、先輩から受け継いできたもの造りの精神のようなものを、どれだけ後から来る人につないでいけるかが、今の私たちの世代の技術者の使命であるといえるのではないでしょうか。


2003年 6 月 23日             沖縄慰霊の日 



  今日、6月23日は、第二次世界大戦末期に沖縄で犠牲になった人たちを追悼する「慰霊の日」です。今年も、暑い中で戦没者の追悼式が行われると思います。高齢化する遺族などに配慮し、平和祈念公園で行われる「沖縄全戦没者追悼式」は、20分間短縮されて営まれるようです。

 私は、彼の佐藤栄作氏が「もはや、戦後ではない」と言った昭和33年生まれですから、実感として、戦争に関する体験や忌まわしい記憶はありません。しかし、私の父は約1年間ほどですが、徴兵され北海道で軍隊生活を体験しています。戦闘機の周りにただ立っているだけの理不尽な夜警のことや、厳しい訓練の様子などを繰り返し、幼い頃から聞かされていました。また、両親を含めた周りの人々から、戦中、戦後の窮乏生活のことは、幾度となく聞かされ、自らの体験のように思い浮かべることができるように育ったと思います。

 また、小学校時代には、古い木造校舎の講堂などにおいて、戦争で孤児になった子供達の話をテーマにした映画なども見た記憶があります。そして、その小学校時代にも、アメリカと中国・ソ連の代理戦争としてベトナム戦争が繰り広げられていたのでした。たしか、CCR(クリーデンス・クリア・ウォーターリバイバル)の「雨をみたかい」という曲の「雨」とは、雨のように降るナパーム弾のことであると深夜放送かなにかで聞いて、とても衝撃をうけた記憶があります。

 高度経済成長の末期に育ち、無気力世代などと言われながらも、私たちは、育ってきた環境や教育の中から自然に、戦争を嫌悪し、ジョンレノンの傑作イマジンに癒される感性を身につけていったと思います。背伸びしてみていた団塊の世代の、学生が世の中を変えるのだというようなエネルギーも有りませんでしたが、今よりも少しは政治の話もしたし、広島・長崎の原爆に関わるエピソードなどにも真摯に向き合って捉え、自分のことのような痛みを胸に感じて育ったと思います。

 今、岡山の小・中学校などにおいてさえ、修学旅行などで広島の原爆ドームや平和資料館を訪れることが減っていると聞きます。おそらく全国的に見てもその数は減少しているのではないでしょうか。コンビニの周りに座り込んでいる少年達は、あの広島の惨状や、真に国を思い若き命を散らしてしまった人々のことを知っているのでしょうか。我々のように、胸の痛みを伴うものでない単なる知識としてでも、知らない人は増えているのではないでしょうか。

 私は、新婚旅行で沖縄に行きました。平和記念公園で岡山県の碑に花を手向けた思い出があります。今日ここに幸せな自分がいることを、戦没者の御霊に対して素直に感謝する気持ちになれたと思います。ひめゆりの塔を始めとした戦争にまつわる施設や場所にも訪れ、より実感としての反戦意識をもつことになったと思います。

 教育問題を論ずるような立派な人間ではありませんが、最近の私の周りの様子をみていると、原爆や戦争に対する教育がしっかり行われているのかな、というような印象を受けます。ときおりテレビなどで見る若者の意識なども、日本が世界で唯一の被爆国であることさえ知らない人が多いなど、危惧される現状を目にします。

 「教育」などとかまえなくても、私たちが子供の頃きかされたように、戦争の体験やそれにまつわるエピソードについて、語り継いでいく必要があるのではないでしょうか。身近なところで、おじいちゃんから聞いた話として、おりにふれ、また思いついたときに子供達に話す、ということで良いのではないでしょうか。教えられないことに対して造詣を深めることは、普通できることではありません。やはり、繰り返し教えられてこそ、まず知識となり、それから意識したものとなるのではないでしょうか。

 礼儀作法など、だれでも子供の頃、厳しくしつけられたことがあると思います。また、生き方に関することなど、何故そのように叱られたのか訳がわからないことを、子供の頃言われた経験も有るでしょう。しかしそれらはすべて、大人になって、なるほどと感じられることなのではないでしょうか。わけがわからなくても、きちんと教えなければいけないことはたくさんあると思います。その中の一つに平和教育があっても良いのではないでしょうか。

 ときおり目にすることがある北朝鮮の子供達の映像などを見ると、教育というものの恐ろしさを痛感します。法律で決められていなくても守らなければいけないことや、それを示してくれた先人の話を語り継ぐことは大切なことだと思います。古くから我が国には、その良き伝統を踏襲してきた文化がありました。それをつないでいくことと、二度とあの悲惨な戦争の歴史を繰り返さないための意識はもち続けていたいものです。


2003年 6 月 12日          さらばYS-11 流氷への旅



 この5月31日、札幌丘珠空港に就航していたYS-11の定期便がラストフライトを迎えました。エアーニッポンの定期便としては、8月31日の女満別-新千歳間が最後となるようですが、我が国独自の開発により生産された航空機の引退のニュースに、一抹の寂しさを感じられた方は、私以外にもたくさんおられるのではないでしょうか。


 平成3年の2月の第一週、作家渡辺淳一氏と中学校からの先輩の影響により、相当な北海道かぶれとなっていた私は、一人で冬の北海道に出かけました。目的は、札幌の雪祭りと、紋別で小説の舞台となった小山旅館に泊まり、オホーツクの流氷を眺めることでした。そのとき、札幌の丘珠空港からオホーツク紋別空港へのフライトで、ANKのYS-11に乗りました。余談ですが、この時私は、空港につくまで丘珠(おかだま)の読み方を知らず、キュウシュ空港なのかと思っていたました。


 冬の北海道の空模様は予想しがたく、チケットは取ってあったものの、出発するときまで気をもんだのを憶えています。とくに、小さな空港から発着するプロペラ機ですから、紋別へのフライトは心配していました。しかし、願いが通じたのか、夜の雪祭りを歩いたあとの札幌は、雲はありましたが冬ばれの朝をむかえることができました。おりしも、工事中であったため、プレハブのような仮設の建物のターミナルで待ち時間を過ごしました。


 簡単なタラップから乗り込むその機体は、これから厳寒の空に飛び立っていくにしては、少し頼りないくらいの印象をうけました。私は、左のプロペラの横の席でしたので、かなりエンジンの音がうるさく感じました。しかし、気の毒なくらい一生懸命にプロペラを回転させながら、凍てつく滑走路を滑走していく姿に、何か人間的な親しみを覚えました。たまたまかもわかりませんが、とても上品で美しい二人の客室乗務員の優しい対応もあり、気持ちよく空のたびを楽しめたと思います。


 飛行機は、荒涼とした冬の原野と山並みを眼下に飛んでいきます。プロペラ機のためなのか飛行高度も低いようで、その景色も一層身近にかんじられました。この中に不時着すれば、例えその時は助かっても、すぐに助けが来ないとしたならば、たちまち凍死してしまうのだろう、などと考えたりしました。ともあれ、機内にあった雑誌の鮭にかんする記事で、メジカ、クチグロ、トキシラズ、ホッチャレなどについての解説を、興味深く読んでいるうちに紋別上空につきました。


 徐々に高度を下げながら飛行機は、原野を抜けて、前方にみえる少し沈んだ紺色の海の方へ飛んでいきました。(陸地を出てどうするのだろう)そんな思いをよそに、ANKのYS-11はどんどん沖に出て行きます。やがて、海面にうろこ雲のように白い塊が見えてきてきました。何かと思っていたその雲のような集団は、飛行機が高度を下げることにより、流氷の群れであったことがわかりました。


 角の取れた氷の蓮の葉のような形が、はっきり確認できるくらいまで、飛行機は流氷の群れにちかづいていきました。乗客一同が、その光景を見届けたのを確認するように、飛行機は機体を傾け右に大きく旋回して、一旦離れた陸地の方へ戻っていきました。紺色の海の上を徐々に高度を下げていき、群れから離れた蓮氷の形が、もはやはっきりと確認できる高さとなり、左の窓から雪原と所々に立っている樹木が見えてきます。その直後、斜めに陸地に進入したYS-11はオホーツク紋別空港に着陸しました。
 

 時間にして一時間くらいだったのでしょうか、短い空のたびではありました。こちらも工事中のオホーツク紋別空港に表示されていた気温はたしか-10℃であったと思います。残念ながら、先ほど上空から見たとおり、港に押し寄せる流氷の音を聞くことはできませんでしたが、オホーツク流氷祭り、冬の紋別市街の街角に置かれていた氷柱の彫刻など、印象的な光景は今も心に焼き付いており、とても楽しい時間を過ごしました。何しろ、流氷展望台からオホーツクの海を眺めすぎ(二時間くらいボーとしていたと思います)、風邪をひいてしまい、旅の後半の小樽で熱を出した位です。


 この5月で、丘珠空港からのYS-11定期便の就航が打ち切られると聞いて、つれずれに、私版「流氷への旅」の一部を思い出してみました。男の一人旅で、竹内みさごのような可愛い娘に出会うこともありませんでしたが、心情的には、とても楽しい旅であったと思います。その途中で初めて乗った、プロペラ旅客機のYS-11の思い出も、鮮やかに私の記憶にとどまっています。


 戦後、GHQによる航空機の生産・研究・実験の禁止の後、我が国の航空技術の伝承を果たす上で重要な位置付けとして、YS-11の開発は語り継がれるでしょう。また、過酷なローカル線において、極めて事故の発生確率が低い飛行機であるという話も聞きました。しかし、私が四歳であった頃に初飛行をしたこの飛行機の、一番新しい機体でも25年以上を経過していると聞きます。引退していくのもやむなしといいながら、今後における我が国の航空機開発はどうなっているのだろう、などと考えてしまいます。

 例えば飛行機でなくても、自動車、電気製品、はたまた公共建造物など、技術者の創意・工夫と熱い思い入れが作ったものには、多くの人が、それぞれのエピソードや思い出を重ねていきます。そしてそれらの記憶は、それらのものが壊れたり無くなったりした後でも、人々の心の中で生き続けていくでしょう。また、語り継がれることにより、子供や孫たちにも伝わっていくこともあるでしょう。そんな、人の心に残っていくものづくりに携われた人こそ、幸せな技術者なのかもしれません。



 

2003年 6 月  3日           体育会系部活のすすめ



 今朝、民放局のテレビ番組で、東北大学の応援団の話が取り上げられていました。3年連続で新入部員が無く、廃部の危機にあったが、OBの人たちの涙ぐましい努力により、今年、三名の進入部員を迎え、存続の危機を脱することができたと言う話題でした。実は、このような話は他にもあります。確か地元の放送局でも、岡山大学でたった一人の応援団部員の奮闘振りを紹介した番組を、最近放送していたように思います。これらに限らず、広島大学相撲部の話題などのように、応援団や相撲部などといった部活に対して、入部希望者が激減し、その存続が危ぶまれるという話はよく耳にします。過激な運動部から部員が減っているという話も、最近ではよくある話題です。

 かつて、「花の応援団」という漫画があり、これを原作として映画も作られました。四年生は神様で、一年生は人並みの扱いも受けずというような理不尽な内容ですが、満員電車のなかで「蝉」をさせられたり、両手で先輩のタバコの灰を受けるようなシーンを見ながら、自虐的な面白さを感じたりもしました。もちろん、暴力を肯定したり、封建的縦社会を美化するつもりはありませんが、精一杯何かをやりながら、思いっきりぶつかりあったうえで団結していくことのすばらしさなどを感じる上で、応援団を始めとして、厳しい体育会系の部活をやることはとても意義深いと思います。

 私自身は、軟式テニスをやっておりましたが、見かけによらず、この競技の試合時における運動量はラグビーなみでして、相当過酷な練習が必要でした。また、当時はどこでもそうですが、先輩・後輩の上下関係は厳しく、礼儀作法等において、かなりてきびしい指導が伝えられていました。もっとも、私は高卒ですから大学での部活の体験はありません。しかし、かつては、スクールウォーズのモデルのような実業高校は、伏見工業以外にもたくさんありました。我が母校もそのような時期もありましたので、私が過ごした高校時代は、とても密度の濃い時代であったと思いますし、得難い体験であったと思っています。

 話はそれましたが、高度経済成長に陰りが射し、戦後初めてのマイナス成長を迎えたころの学生だった私達ですが、その頃でさえ、便利で豊かになりすぎて、泥にまみれてボールを追いかけることが馬鹿らしいと言う風潮はありました。そんなことをしなくても、他に面白いことがあるじゃないかという話です。その頃に比べても、失業率、新卒者に対する求人状況など、今の方が状態は悪くなっていると思います。しかし、中学生でも携帯電話があたりまえとなり、子供たちの物質的な環境は整えられています。大人にならなければできないこと、が、なくなってしまったような現在、胸を熱くして取り組めるものを探せと言うことの方が、今の若者達にとって酷な話かもしれません。

 しかし、「大人にならなければできないこと」というのは、実はとても大切なことではないでしょうか。大人のように化粧をし、タバコをすったり酒をのむ。夜おそくまでまで遊びまわったり、金銭の授受を伴う男女交際をする。そんなことは大人になってからでもできることです(大人になってもしてはいけないこともありますが、誤解を恐れずに言えば、程度を考えてやればやってもいいし、部活などと平行してもできると思いますし、私もやっておりました)。けれど、泥だらけになって、起き上がれなくなるくらいまで練習することや、ボクシングなどのように、倒されても倒されても立ち上がっていくようなことは、大人になってからではできません。

 応援団や、相撲部などを始めとした体育部で汗を流すことは、カッコイイことではないかもしれません。ダサいことかもしれません。しかし、一見、理不尽とも思えるような、それらの厳しい練習や活動のなかには、先輩から後輩に伝えられていく何かが有るはずです。それは、言葉では上手くいえませんが、人間が生まれながらにもっている本性に通じる熱いものではないでしょうか。知らない人と会えば「初めまして」朝おきれば「おはよう」と言うように、法律とかルールで決まっているわけではないのに、その言葉が自然と出てくるような人になるための訓練のような気もします。

 かつて、私は、建設現場で若い時代を過ごしました。多くの作業員や職人が入り乱れて仕事をしていました。そのような時、まず役に立つのは、体育会系の部活で経験したことでした。挨拶から年長者との接し方まで、かつての経験が役立ちました。人は皆平等です。人権と言う観点にたてば、ベテランも新人もありません。しかし、スコップ一つで三十年も生きて来た人の言葉には、耳を傾けるだけのものがあるものです。脚光を浴びないポジションにいても、それを続けてきた人は、何かしら、聞かせるだけの話をしてくれるものです。

 私は、逆転のPLといわれた頃から、星陵の松井の時代くらいまで、毎年、夏の甲子園に出かけていました。清原と桑田は4回位みました。しかし一番印象に残っているのは、背番号も無いユニフォームを着てスタンドから応援する三年生たちの姿です。甲子園に出場するようなチームの多くは、何十人も部員がいるので、そのような部員は大勢います。憧れの甲子園の土を踏むことも無く、チームが負ければスタンドで現役を終える人たちです。しかし、いざ社会に出ると、報われない三年間を頑張った彼らの方が、仕事の面で力を発揮することが多いし、伸びていく人が多いと思います。

 技術は、人の役に立ってこそ意味があるのではないでしょうか。現場をよく見て経験を生かしてこそ、次につながる良いものを生み出していけるのだと思います。そのとき、理屈ではなく感性として、先人を敬い、素直に状況を受け入れる心が必要になると思います。そのような精神を養う場として、体育会系の部活などは、とても効果があると思います。理屈でないと言うことは、やっているその時には、なかなかその良さはわからないということもいえると思います。しかし、やりとおしてみた時、わかるものがなにかあると思います。

 大人にならなければできないことを、背伸びしながらこそこそとやるところに面白さがあるものです。今のように、何でもありの方が、実はつまらないような気もします。かつての同級生で応援団長だった友人と飲みながら、我々が、教育の話などで今を嘆いているくらいだから、世も末であるなどと話した覚えがあります。こみ上げてくるような熱い情熱は、何でも与えられる環境からは生まれてこないように思います。若いときこそ、がむしゃらでストイックな時間が必要なのでは、と思う次第です。

 

2003年 5月25日          「環境シンポジウムin岡山」



 この、5月23日金曜日に岡山国際交流センター国際会議場において、産・官・学・民と技術士会合同による「環境シンポジウムin岡山」が開催されました。昨年のヨハネスブルグサミットのテーマでもあった「持続可能な開発と環境」を基盤に、技術が支える生活と環境について、萩原岡山市長による基調講演につづいて、我が岡山県技術士会から、コーディネーターとして池田満之氏、パネラーとして笠井博氏が壇上に登られ、併せて出席を頂いた岡大の青山勲教授、JEFホールディングス(株)山口安幸氏、岡山県生活環境次長杉潔氏の各パネラーによる、大変意義深いパネルディスカッションが行われました。

 私は、もっぱらCPD稼ぎと、その後の懇親会目当てという、よこしまな動機で参加したのですが、そのような参加動機が少し恥ずかしくなるような、とても良いシンポジウムであったと思います。正確に言うと、若手の技術士仲間の人たちと杯を交えるための二次会が第一目標でしたので、失礼ながら、シンポジウムの方はおまけのように考えて参加していたのでした。あにはからんや、コーディネーターの池田氏による絶妙な課題抽出と的確なパネラー陣の専門的見解の披露や、新たな問題提起など、環境問題に関する取り組みにおいて、あらためて奥深さと、色々な切り口があることを感じました。

 なかでも、化学部門の技術士である笠井氏が提言された、所属する企業や組織の枠組から離れて(営利目的でなく)環境のための技術について、共同の取り組みをすることが重要である。製造のための技術と異なり、環境のための技術はそれが可能なのではないかという言葉は、うなずかされるものが有りました。根底には、地域の清掃活動などにも積極的に参加され、一人一人が、身近な問題として環境の問題を捉え、考え、行動する必要があるということを感じての発言であると思いました。


 また、リサイクルやきちんとしたゴミの分別などの周知徹底の難しさ、住民意識の個人差などに話題が及んだ時、コーディネーターで環境部門の技術士でもある池田氏が言われた、「大きくは、教育問題が基本ではないかと思います」という一言は、普段から、環境問題を中心としたNPO活動などに積極的に取り組み、教育の場を通じて、小さな子供の頃から自然と親しみ、地球環境を守っていこうとする考え方を植え付けていくことの重要性と必要性をよく認識されての発言であったと思いました。


 ともあれ、日本技術士会主催・岡山県技術士会共催ですから手前味噌になるかもしれませんが、産・官・学に民という考え方を取り入れ、そのとき、技術士がどのようにかかわっていくのか、ということを考えていくうえで、とても有意義なシンポジウムであったと思います。環境といっても様々な分野でいろいろな問題があると思います。そのような中で、難しい技術をわかりやすく説明し、実践に応用していくという意味で、技術士の担える役割があるのだとも感じました。

 
 個人的には、シンポジウム後の懇親会の席で、以前お世話になった懐かしい人にも会うことができました。また、仲の良い若手組(お前は、もうそんなに若くも無いよ。と、前述の人に言われましたが)で大いに親睦を深めることもできましたので、快い酔い心地で帰途に着くことができました。実感として、良い一日であったと思います。ただ、津山線というローカル線の速度の遅さと便数の少なさ、終列車(電車でなく)の時刻の早さに直面する時、あらためて、田舎に住んでいることを実感させられてはしまいましたが……

 技術士制度の改正に伴い、我々技術士には資質向上の責務が課せられるようになりました。しかし、そのこととは関係なく、分野にとらわれることも無く、あらゆることに興味を持ち、知らないことを知りたいと思い、できないことをできるようになりたいと願い、なにか、世の中の役に立っていこうと考えながら、勉強していかなければいけないのだな、と、思いをあらたにしているところです。


 

2003年 5月 12日           少年の日の記憶から思うプロ野球



 カレンダー通りでは、大型ともいえない連休週間であったゴールデンウィークも終わりました。何か、日本列島が何百キロか南西にでもずれたのでは、とでも思いたくなるような感じの天候がここ数年続いている気がします。かつては、4月から5月にかけて五月晴れといわれる好天が続いていましたが、最近ではまるで梅雨時のような、じめじめとした日が続くことが多いように思います。これも、地球の温暖化などによる気象の変化の表れかと危惧している次第です。

 さて、以前ラグビーとボクシングについて書きましたが、私は、他の分野においてもスポーツは好きですし、観戦する際には感情移入の強いミーハー的な観戦者であることに変わりありません。主に野球、サッカー、バスケット、テニス、ゴルフ、などが関心が強い分野といえます。このうちテニスは、ソフトテニス(当時は軟式テニスと呼んでいた)ですが、インターハイ出場の経験がありまして、埼玉県熊谷市で試合があったことを覚えています。

 また、野球はについては、現在は広島カープを応援しています。しかし、巨人のV9時代に育ち、王・長島の活躍を見て育った(テレビは巨人戦しか映らない)世代ですから、かつてはジャイアンツファンでした。けれど、74年長島の引退とともに一気にその熱はさめ、翌75年の広島カープ初優勝の時から広島ファンを続けています。当時、セントラルのお荷物球団と呼ばれ、前年まで、3年連続最下位であったチームの優勝は、私にとって驚きであったし、プロ野球に関する価値観や考え方を変えさせてくれるものでした。

 この頃から、メディアが球団をもつことの不自然さや、日本のプロ野球とメジャーリーグとの違いなどを感じるようになりました。何といっても、アメリカのプロ野球では、球団名にスポンサーの名前が出ているものはありません。これは、日本と決定的な違いであり、また、大切なことだと思います。アメリカでもっとも有名で人気のあるチームの一つであるヤンキースもニューヨーク・ヤンキースと呼ばれるだけです。「読売巨人軍」などと呼ばれることもありませんし、オーナーが強要することもありません。

 考えてみれば、子供の頃のジャイアンツは確かに強かったし、すごいチームであったと思います。しかし、テレビ局が全国ネットで放送し続けたことによる人気の寡占化があったことも事実であると思います。そのときたまたま、王選手や長島選手のようなスーパースターが登場し、すばらしい記録を打ちたて、感動的な場面で何度もヒットやホームランを打ったのではないでしょうか。そのことが、巨人人気を確立させ、支えてきたのだと思います。

 例にもれず、私も、少年野球のチームに所属していました。荒川コーチと王選手の練習物語に感動し、長島選手の劇的なプレーに胸をときめかせ、漫画であった巨人の星の放送を楽しみにしながら過ごす小学生でした。中学に入学した頃、わが町に新しい野球場ができ、このときのこけら落しとして巨人VS阪急によるオープン戦が行われました。実力・人気ともに絶頂のジャイアンツと、名将西本監督率いるパリーグの覇者阪急ブレーブスの試合でした。初めてプロ野球の試合を見た、そのときの感動は今でも鮮明に残っています。さらに、三塁側ベンチ裏で通路の一列目に座っていられた私は、目の前数十センチを歩いていく、青い髭剃り後の精悍な背番号3の格好良さを強烈に覚えています。それは、圧巻だった試合前の打撃練習の模様とともに忘れられないものとなっています。

 それは、次のような光景でした。まず、パリーグの首位打者長池選手を始めとした阪急のバッターの打撃練習がありました。ときおりスタンドまで届く当りを含め、痛烈な打球が左中間・右中間を抜けていくのに目を見張りました。プロのバッターの迫力を感じたものでした。その後、独特のしぐさで背番号3がバッターボックスに入り、バッティングピッチャーの球を打ち始めました。一度、プロのバッティングのすごさを目の当たりにしていた私ですが、それを見て二度驚きました。左中間を抜くと言うような当りは無く、ほとんどの打球が幅の狭いレフとスタンドか、となりのサッカー場に消えていくのです。これは、左打席の王選手も同じでした。この練習を見ただけで、相手チームは戦意を喪失するのではないかとさえ思いました。

 今はもうおじさんとなり、遠い過去の記憶となりましたので試合内容は良く覚えていませんが、O・Nの打撃練習の記憶は鮮やかです。話はそれますが、そんな野球少年たちが見るユニフォームの胸に、TOKYOをやめてYOMIURIなどと画かなければいけないのでしょうか。聞くところによると、そんなことをしても巨人戦の視聴率は、年々下がり続けているようです。大金を投入して他球団などから大物選手を補強していますが、実効はさほどでもないのではないでしょうか。

 今日スポーツを見る側にしても、野球以外にも豊富なジャンルがありますし、外でバットとボールをもって遊んでいる子供も少なくなりました。色々な要素が理由にあると思いますが、ジャイアンツだけが人気がありつづける理由については、もはや希薄であると思います。地域に根ざしたローカルナショナリズム的な応援もあって良いと思います。また、今の時代でも、中村紀、清原、(松井・イチローなどはメジャーに行ってしまいましたが)などスターはいると思います。個性的な選手に心酔しての応援も良いと思います。いずれにしても、エキサイティングで面白い野球が見たいものです。

 去年から、わが岡山県出身の星野監督が阪神に入団され、タイガースは目覚しい変貌を遂げ、今シーズンも破竹の勢いで勝ち続けています。数々のトレードや補強も行いましたが、監督一人替わって、こうもチームが変われるものなのかと驚き感心しています。いかに、人間が情緒や感情などというものに作用されて行動するのか、と、いうことの裏付けだとも感じています。真の意味で信頼できる上司や経営者とならなければ、部下の力を発揮させることもできないし、目標を達成することはできないのだと、あらためて感じています。


2003年5月3日         ヤンマーの赤いフェラーリ



 お花見に浮かれ、その後は、前半、後半とあった県会議員・市町村長・市町村会議員の選挙の喧騒が終わると、もう4月も終わりを迎えてしまいました。光陰矢のごとし、そして、少年老いやすく学なり難し、といったところでしょうか。私も「少年」は昔のこととなり、学なり難しが身にしみるばかりです。

 ともあれ、桜の宴に浮かれた日々も終わり、兼業農家の後継者でもある私は、運動不足で思い体を引きずりながら、わずかばかりの田圃の耕運作業にいそしんでおりました。死んだ父が、農作業をしない罪滅ぼしに「おまえ、これで耕せ」と買ってくれたヤンマーの赤いトラクターは、15年くらい前に我が家に来た時には、もはや中古車でありました。しかしながらこのロートルは、以来、大きな故障も無く、同じく父の残してくれた約3反(30アール)の田圃を耕し続けているのです。

 前後に動く他は、耕運するためのロータリーが上下するだけのシンプルな構造の我が家の赤トラは、そのシンプルさゆえか、オイルと水さえ切らさなければ、本当に機嫌よく、また、根気良く田圃を耕してくれるのです。春の暖かな日差しの中で、はたまた、秋のさわやかな空の下で、この赤トラに乗り単調な折り返しを繰り返していると、とても和やかな気分になります。そして、その繰り返しの中で私は、死んだ父のことを思い出すのです。

 私が小学校の高学年の頃、父は今の私の年くらいでしたが、もはや、糖尿病を患っていたと思います。元々、あまり丈夫な方ではなかったようですが、病気のことなどもあり(横着病として、糖尿になった節も?)農作業などは、もっぱら母親がやっておりました。私も幼い頃は、素直な優しい一面もあり、子供心に母の大変さを思って、折に触れ手伝いなどをしておりました(昔は、素直で優しい一面など関係なく、皆、そのように手伝いをしたし、させられたと思いますが)。

 代わりと言っては何ですが、父は、農作業を自分がやらない分、決して裕福ではない家計の中から、前述の赤トラを購入してくれたのだと思います。私は、元々農作業は嫌いではありませんので、トラクターによる耕運作業は、考え事をするのに丁度良いなどと考えております。しかし、父が死んでからは、父の残した田圃に、父の買ってくれたトラクターで出る時、特別の感情が湧いてくるようになりました。早いもので、この4月に7回忌をすませましたが、その感情は、年々、確かなものとなっていく気がします。
 

 それは、言葉では上手く言えませんが、とても安らいだような気持ちです。また、お墓に参ったときのような感覚にも近いかもしれません。「親父、また来たよ」そういいながら私は、田圃に入っていくことが多い気がします。嫡男でありながら、これという相続財産も無く、それなりの役職などにはつきましたが、悪事に手を染めなかったので(当たり前のことですが)、「信用」の他は、残してくれたものもわずかです。徒党を組み、策略を図ることを良しとせず、己の実力を高めよ、と、教えてくれたと思います。もっとも、生前は反発することばかりで、ずいぶんと期待もうらぎりましたが……

 夕暮れ時、きれいに耕された田圃を後にし全速力で我が家に向かう時、私の赤トラは、シューマッハのフェラーリのように軽快に風をきります。本当にわずかな水田を、ほんの少し耕しただけのことですが、私には、とても充実した感覚が残ります。生きていた頃はできなかった、親父との語らいを、数時間の耕運作業の中ですることができた、そんな感じかもしれません。

 すこし、プライベートな感傷的な文章になったかもしれません。実は、統一地方選挙などに鑑み、地方における民主主義について述べたいと思っていました。しかし、あまりにも情けない、地縁・血縁がらみの情に訴えるだけという、状況を目の当たりにし、ちゃんとした人やしっかりした人、本当に志のある人は立候補しない、という、我がふるさとの選挙事情を思うと、筆が鈍りました。

 世の中を嘆くほどには、力も無く行動力も無く、そんな自分を振り返り、少し感傷的な気持ちになったのかもしれませんが、今後も、愛車である赤トラは大切にしていきたいと考えています。



2003年 4月 12日             いつかきっと役に立つ



 私の住んでいるところの近くには、桜の名所100選に入っている「鶴山公園」があります。この街で誇れるものは、この城跡から眺める満開の桜絵巻ぐらいのものかもしれません。特に、雪洞の灯りに浮かび上がる夜桜は趣があります。待ちわびてまだ咲かず、咲けば妖しく魅了され、名残を惜しむ間もなく散ってゆく。一年かけて待つ恋人、久しぶりの再会に浮かれる日々、いつもながら、花見疲れの肝臓が気にかかります。

 さて、桜といえばその木の下に、人の死体が埋められているなどという恐い話がまことしやかにされても、どこか、さもありなんという気がするのは何故でしょう。せいぜい持って2週間というわずかな期間に、切ないほど一生懸命に咲く姿は、時に、苦しくなるような気さえします。狂おしいまでの妖艶さを見せたかと思うと、潔くさっと散ってしまう。そんなところが、日本人の育んで来た文化に馴染みやすく、私たちが心を惹かれるところかもしれません。

 実は、津山城址である鶴山公園も、昔、県から払い下げられた時には、全山イバラや雑草が生え、「荒城の月状態」であったらしく。明治の頃、払い下げを受けた公園のために、5人の公園委員が選ばれ、その中の一人に大いに尽力された人がおられたという話を聞いたことがあります。「城跡に桜を埋めるとは、あほうの沙汰じゃ」と揶揄されながら、ほとんど私費を投じながら、浄財を集め、植樹を続けたと聞きました。その結果、昭和になって現在の5千本といわれるかたちにまでにし、関西有数の桜の名所として育て上げたという話です。

 昭和32年に、惜しまれながら亡くなられた元市議会議長の話ですが、この話を知ってからは、鶴山の桜をながめるとき、先人への感謝をすることにしています。いつか、どこかで記したいと思っていたことですが、今まさに、満開となった桜の花のエピソードとして書いてみることにしました。かつて我が国と、我が国のこのような施設では、知る人も少ない、このようなお話がたくさんあったはずです。

 幕末、逼迫する財政下において将来を予見し、横須賀製鉄所を造った小栗上野介のような人や、当時の市の予算の何倍もを投じて浄水場を造営した岡山市のような例もあります。子孫の繁栄のために将来を見据え、今の自分たちにあえて厳しい暮らしを選択する。かつて私たちの祖先や、この国に生きてきた多くの志ある人達が、今の我々のために社会資本を整え、文化財を残してくれた筈です。

 その恩恵をむさぼるように享受し、景気回復のためなどと称して赤字国債を多発して箱物建造の画一的公共事業を進めてきた結果が、今の泥沼の不況の元凶なのではないでしょうか。血税であるはずの公共投資の財源の運用にあたるとき、小栗上野介のような志を持った人ばかりであれば、今日のように、「天下り対策」など議論する必要はないかもしれません。少なくても、私たちが育った頃は、大人や先生がそのような話をし、どんな小さな町にも、語り継がれた、前述の「桜の話」のようなエピソードがあったように思います。

 公益などといえば大きな話ですが、世の中の役に立つという考え方からすれば、今だけでなく将来のことも考えていかなければなりませんね。子孫に残していくための社会資本の構築を担う建設部門において、その主体となるべき建設技術者には、心の隅に、というか根っこのところに、自分がやっている仕事が必ず世の中の役に立つのだ、という信念が求められると思います。また、本当に世の中の役に立っているのだろうか、と、自問自答し続けられる自浄能力も併せ持つことが必要です。

 世の中の役に立つ良いものを安く、早く、安全に造る。それは、将来を見越したものであるべきです。かつて、奈良薬師寺再建にあたった棟梁西岡常一は、寸法どうりより若干反り気味に仕上がった屋根について弟子が指摘した時、「千年後にこれでようなる」と言ったそうですが、彼は、「大工は自分が死んではるか後に値打ちを知られるのだ」とも、語っています。その寺が、修復のため解体される時、初めて自分たちの名が後世の人に知れるのだと言っています。

 たとえ名前が残らなくても、自分はそのように考えたもの造りをしてきたな。と、思える人生は技術者冥利に尽きるものではないでしょうか。

 

2003年3月27日              正義とはいかなるものか



 お彼岸を過ぎ、その言葉通りに寒さもやわらぎました。三寒四温を繰り返し、確実に季節は春を深めておりますが、地球規模での嵐は、とうとう我が国を巻き込みながら始まってしまいました。追随するしかない頼りのアメリカは、どう説明しても筋の通らぬような「正義」を振りかざし、どこまで力の論理を押し通すのか。砂嵐の中でハイテク装備のアメリカ軍も苦戦中とか、もしも、ベトナム戦争のときのように退却を余儀なくされるようなことになれば、もはや、国連の存在意義が失墜した今では、世界の秩序はどう保たれるのだろう。などと、安穏な時代に育った身の私でも、行く末を案じずにはいられません。

 また、例によって、アメリカ軍の誤爆による民間人の死傷者のニュースや、イラク側では、相も変らぬ自軍将校などに対する見せしめのための処刑の話が、リアルタイムで飛び込んできます。メディアの発達した現代では、戦争の様子もまさにリアルタイムで届けられます。テレビの中で、シミュレーションゲームのように破壊されていく建造物、その中にも、多くの人間がいるのではないかと思います(建造物の破壊は映し出されても、凄惨な死者・負傷者の映像はあまりない)。その映像を私たちは、またかというようななれた眼差しで、他人事のように見ているのではないでしょうか。

 湾岸戦争の時もあったようですが、どちら側政府にも自国のメディアに対する報道統制があるようです。おたがいに、捕虜の映像の公開などについて非難しあっていますが、アメリカのメディアは、自国兵士が捕らえられている映像は、務めて流さないようにしていると聴きます。あの9/11の同時多発テロ以来、アメリカはテロリストの脅威を強調し、敵対心をあらわにしています。しかし、アフガニスタンへの報復攻撃で死亡した民間人は、貿易センタービルで亡くなった人の数よりも多いのです。

 人間の命は、地球よりも重いといいますから、数で論じるのはおかしいかもしれませんが、アラブ人の命は、アメリカ人のそれよりも軽視されている、自国兵の被害者さえ出なければ良い、という感じのアメリカ側の態度や対応をみると、そのような印象を受けますし、大国のエゴのようなものを感じずにはいられません。アメリカのいう正義は、アメリカの国益のためのものであって、地球の全人類に共通する普遍的なものでは無いように思います。

 もとより、イラクにおけるフセイン大統領の独裁政治や、生物・化学兵器の製造、反体制派への弾圧などを正当化する論旨ではありません。日本にいて、報道等から我々が知る限りでも、その内情はわかります。また、そのことは、我が国にとってもっとも憂慮すべき脅威である北朝鮮にしても同じでしょう。石油という飯の種のない北朝鮮においては、事態はさらに深刻で、国民の窮状は目を覆うばかりです。これらのような非民主主義的な国家が存在することが、許されて良いとは思いません。

 しかし、だからといって強力な軍事力を背景にして、一般市民を巻き込んだ戦争をしても良いのでしょうか。21世紀を迎えた今日、人類は過去の忌まわしい戦争体験や悲惨な歴史を検証してきたはずです。それなのに、大国による利益の争奪合戦は終わらず、あらゆる民族問題・紛争は山積しています。冷戦後、アメリカだけが世界の警察官となり、また、裁判官の資格もあわせもっている状態ですが、自国の利益に馴染まないものへの介入は消極的にみえます。

 序文として、少し時事に触れようとして思いのほか長くなってしまいましたが、現在の我が国をとりまく情勢を見る時、みなさんも同じような感想をお持ちなのではないでしょうか。私も、今まであまり深く考えてこなかったものの一人として、少し真面目に考えてみるべきだと思うようになりました。というのも、「公益の確保」については、世の中の役に立つという視点で考えてきましたが、「世の中」というものの定義づけは非常に難しいと感じるようになりました。

 それは、日本のためにだけ役立てば良いのかという考えも出てきます(公益=国益)。また、昨年のヨハネスブルグサミットの議題でもあった「持続可能な開発の維持」などの面から考えれば、中国における13億人(公称)インドの10億人の人々が、急速な経済発展のものとで、一斉にエアコンつきの自動車を運転し、各マイホームでそれぞれの部屋でエアコンを効かせる生活を始めれば、あっという間に地球の温暖化は進んでしまいひとたまりも無いでしょう。

 人は誰でも幸福を求めて暮らしています。しかし、住んでいる国や環境が違えば、求められるテーマや技術も異なってきます。世の中の役に立つ技術と単純に考えてきましたが、具体的に何をどうやって行くかは本当に難しいものであるし、真剣に考えていかなければいけないのだなと思いました。


2003年3月13日              桜咲く、それとも散るか一年(ひととせ)の



 数日前、おそらく降るときを知ったのか、なごり雪がちらつきました。まもなくお彼岸を迎えますが、私の住んでいるところでは風はまだ冷たいようです。といっても、桜の頃でも花冷えと呼べる夜がよくあります。山陽と山陰に挟まれた小高い盆地、そんなところに住んでおります。

 桜といえば、散ったのか咲いたのか、本日は技術士試験の合格発表の日です。部門の人は12月から、総監の人でも2月初めから、口頭試験を終えて長い待ち時間だったと思います。栄冠をつかんだ人そうでなかった人、明暗の分かれる一日です。とりわけ、5%~10%位といわれている口頭試験まできての不合格者数を考えると、最終発表となる今日までの二次試験合格者の心中は、体験した者の一人として察するものがあります。

 いずれにしても、合格を目指して勉強している身には長く苦しい一年ではないかと思います。というか、常に技術士受験を念頭に置いて生活している位でないと、なかなか合格は難しいと思います。その上、広範囲に及ぶ建設部門全体における勉強と、専門とする分野の掘り下げが必要です。たとえコンディション調整に失敗しても、チャンスは一年に一度しかありません。二次試験に合格し指定された口頭試験の日時は、親が死のうが子供が病気になろうが、変更などしてくれません。そのような、試練を乗り越えて迎えるのが、今日の合格発表です。

 合格された人には、心からおめでとうございますと言いたいと思います。心ならずも不合格となられた人にも、この日までの努力と研鑚に敬意を表したいと思います。たとえ試験には落ちても、技術士を志して勉強したことで、考え方やものの見方は変わったはずです。そして、基本的な部分での技術力の向上にはつながったのではないかと思います。そのことにこそ意味があり、大切なことなのではないでしょうか。

 考えてみると我々は、受験のようなことでもなければ真剣に勉強することは無いかもしれません。少し真面目に勉強するという意味でも、技術士受験は意義があると思います。そしてその時、こう考えたらどうでしょう。「取れたらいいなこの資格」と、「取らなければこの資格」と考えて暮らすのは、結構大変だと思います。もちろん、厳しいリストラのなかで生き残りをかけて、技術士取得が条件のような立場の人もいるかもしれません。しかし、本当の意味で世の中の役に立つ仕事をしていれば、総合的な判断からしても、切り捨てられるはずは無いと思います。また、そのような人をくびにするような会社の将来こそ危ういものです。

 そう考えれば、自分なりの3年・5年計画を立て、「取れたらいいなこの資格」と考えられるはずです。あとは、頭の隅にいつでもあるけれど負担にならない状態を維持して行くことが出来ると思います。受験に際し、体験にもとづいて私が一番言いたいのは、その気持ちの持ち方です。毎日こつこつ型とか週末集中型とか、勉強の仕方は様々でしょうが、一番難しいのは、モチベーションの維持だと思います。

 技術士試験は、真夏の暑い中、1日7時間硬い椅子に座り、狭い机で8800字の論文(かつては12000字)と択一問題をこなすという過酷な試験です。しかし、少しでも楽しむような気持ちがもてれば、ずいぶん気が楽になるものです。勉強してもしなくても時間は過ぎて行きます。どうせなら、目標をもち楽しむ気持ちで勉強することができれば、意義深い時間を過ごすことができるのではないでしょうか。

 結果がでてもでなくても、向上心さえ持ち続けていれば、進歩しつづけていけるでしょう。いつか気がつけば、そんな仲間の中に自分がいられるのではないか、そんな気持ちでいられるよう、自分を叱る毎日です。


                                                                   このページの先頭へ