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NO.3

2003年 12月 21 日         一年を振り返り一言



 この18日で、技術士二次試験の口頭試験も終わりました。暖冬といわれておりましたが突然寒波がやってきて、20日には久しぶりに30cmを越える大雪が降りました。家族が一人ずつ熱を出していく中で、何とか風邪を引かないようにとは思っていますが、忘年会疲れと不摂生のためか、体調は今ひとつといったところです。

 本当に、何をなしたということはありませんが、気がつけば早一年が終わろうとしています。目標を持たれて区切りがついた人、残念ながら届かなかった人など、年の瀬の思いは様々だと思います。私も、情熱をもって業務や後進の指導にあたられている人達に影響され、再度の技術士受験を宣言するなど、思いがけない展開を迎えることとなりました。

 そのような思いから、一年の締めくくりとして、独断と偏見に基づく資格取得に向けた受験態勢・姿勢などを述べてみたいと思います。これは、私が実際にやってきた体験と、日頃考えている心情に根ざしているものですから、参考にならない人には全く参考にならないと思います。また、少し角の立つような表現もあるかもしれませんが、特定の個人を攻撃するような意図は有りませんので悪しからず。
 
 資格試験に対する受験対策だけでなく、物事に挑んでいく時の考え方にはいろいろなものがあると思います。私は、少し古い考え方を持っているのかもしれませんが、精神的な心のありようが大切であると考えています。もちろん、私のような不埒な人間が言うことではないこともわかっていますし、自分が熟成されているなどと述べる気はさらに有りません。実際、弁護士、医師などを始めとして、尊敬できるような人ばかりが試験に合格しているわけではありません。しかしそれでも、世の中の役に立とうという志を持った人に合格してもらいたいと私は考えています。

 3年とか5年とか計画を立てて、具体的な目標を持つことの必要性は前回述べました。今回は、もう少し踏み込んだ、心のありようについて述べたいと思います。例えば、強い気持ちで合格したいと思うなら、他人にどのように思われようと、素直に行動することが一番だと思います。例えば、ポストが自分より下の人でも、また、ライバル関係にある会社の人でも、良いアドバイスをくれる人の意見は進んで聞き、取り入れましょう。

 さらに、技術士論文などはなるべく多くの先輩技術士に読んでもらい批評してもらうべきです。その時、私が一番言いたいのは、批判や欠点を指摘されることに対してタフになるべきだということです。私のところにも、添削依頼がよく来ますので、思うところを指摘して送り返すと、ぷっつりと連絡が途絶え、それまで、必ず来ていた受信を確認するメールさえこなくなる人が時々います。

 往々にして、そのような人は経験的には優れている人や、知識レベルの高い人が多いので、私の指摘がプライドを傷つけるのかもしれません。しかし、本当に合格したいのならそのようなプライドは捨てるべきだと私は思います。また、世の中の役に立つ仕事をしていくという面から考えると、他人の意見をしっかり聴けるゆとりも大切だと思います。確認しておきますと、論文の添削については、私の志として無料でやらせていただいております。少しでもプラスになればとは思いますが、否定的な心情に根ざして行っているものでは有りません。

 また、これは些細なことですが、先ほど述べたような人に多いのが、私の送ったメールにそのままレスをつけて送信してくる人ですね。新たに相手に意思を伝える時に、相手のメールで返信するというのは、手書きの手紙に慣れた私のような人間からすると、少し礼儀に欠けている気がします。もちろん、親しい間柄などでは何の問題もないと思いますが、あて先から新たなメールを作成することが、それほどに煩わしい作業とは思えないのです。

 今述べていることは、些細なことであり、実際の受験態勢には直接結びつかないかもしれません。しかし、地方のあまり良いとはいえない環境にある建設現場で育った私は、どうしても「人なり」というものを見てしまいがちになります。主義・主張などは自由です。社会主義でも資本主義でもかまいません。しかし、人間としての礼儀を身につけ、人として持つべきしっかりとした強さや優しさは、根底に備えていて欲しいと願わずにはいられないのです。

 私が最初に受験を志した頃に比べれば、現在では、インターネットなどあらゆる分野において、情報は得やすくなりました。合格に向けたテクニックなども披露されていると思います。しかし、合格後における技術者としての充実を考えると、自分自身で苦労して情報を集め、何度も論文を書き込み、磨いていく作業にこそ意味があると思います。

 私は、そのような努力の結果として、技術士会などの集まりなどにも参加できるようになった自分がいるのだと、今は素直に思うことにしています。自分のような者でも暖かく迎え入れてくださり、多くの見識と厚情を与えて頂いた岡山県技術士会の先輩方や、技術士仲間の方々に感謝するとともに、そこに加わることができた自分に誇りを持ちたいと思います。受験への態勢などと言う割には、取りとめのない文章になってしまいましたね。それでも、思うところは汲み取って欲しいと思います。

 今年は、私の好きだった春風亭柳昇師匠も他界されました。将棋の世界では、羽生、佐藤、森内など若い実力者たちの活躍の中で米長永世棋聖が引退を表明されました。高い実力を持ちながら力まずさわやかである。そんな人たちが一線から消えていきます。米長さんは、50才を迎えるとき、ついに念願の名人位を獲得されました。さわやか流という感じがピタリとはまり、仲の良い内藤国男さん同様色気があり、私の好きな好きな棋士の一人でした。

 人生死ぬまで勉強などと、心の隅のほうで呟きながら、肩肘張らずに、それでもできる限り努力していこうと考えています。ともすれば、図に乗ってしまいがちな、お調子者の性格に手綱をかけながら、できるだけ多くの人々の意見に耳を傾け、少しでも、後から来る人たちの役に立って行きたいと思っています。

       それでは良いお年を、頑張っておられる皆さんの明るい来年をお祈りいたします。


2003年 12月 3 日       夢なら今は……深くとじこめたまま



 
 師走となりました。何をなしたと言うことも無いまま、あっという間に一年が過ぎていくというのがこの頃の実感です。正月のほろ酔い気分が抜ければ桜が咲き、田植を済ませて花火を見たと思えば稲刈りで、高くなった空にさわやかな秋を感じたかと思えば、はや師走のあわただしさという具合で、まさに「光陰矢の如し」という言葉が、年とともに実感させられるのは、私ばかりではないと思います。

 思えば、子供の頃の一年は長く、夏休みは本当に長い休みであり、クリスマスから正月までの間でさえ本当に待ち遠しい気がしたものでした。それは、やはり日々の暮らしから吸収することが多く、自分の中に取り込み消化していくためにエネルギーを必要とし、使っていたからではないかと思います。学校の勉強は別として、常に新たな知識や経験を積む機会が多く、それに対応する体力も充実しており、疲れるということも少なかったのだと思います。

 そのように考えると、何かに興味を持ち知識を深めていくことなどは、矢のように過ぎる感じがする時間の速度に、多少なりとも意味を持たせてくれることにつながるのかもしれません。よく、楽しいことをしている時間は短いと言いますが、それが、自分の能力や見識をを向上させてくれることにつながっていれば、そのことの意義は確かにあるはずだと思います。

 何もしなくても時は過ぎ、人は衰えていくものです。若くて健康な時には、「少し頑張ればそれ位いつでもやれる」と思いがちです。また、貴重な時間も自分には無限にあるような錯覚に陥りがちです。何か強制的なプレッシャーでもない限り、真剣に努力をして見ようなどとは思えないのが普通だと思います。かく言う私もそうだったと思います(四十半ばの今でもあまり進歩しているとはいえませんが)。

 一つの考え方として、自分自身の3年・5年計画などを立ててみるのが良いのではないかと思います。「計画」というような大仰なものでなくても良いですから、3年後・5年後にこんな感じだったらいいなとか、このくらいの能力を身に付けたいとか言うものがあるといいと思います。そしてそれを、おぼろげなイメージで良いですからいつも頭の片隅に置いておくことが大切です。

 そのような時、モチベーションを維持するための人、できれば、身近にそのような影響を与えてくれる先輩や友人がいると良いですね。仕事や人としての生き方などについては、影響を受け、刺激される人は誰しもいるはずです。私も、お世話になった、また、お世話になっている先輩や、友人など多くの人に影響されながら、ひるみそうになる向上心・向学心を維持しているというのが正直なところです。

 しかし、そのような人達の助け(精神的な)を借りながらでも、3年後・5年後における具体的な目標を持つことは大切です。私自身、40才のときに先輩の技術士の人に影響され、技術士への挑戦を思いつき、45才までに取れたらいいなという目標をもてたことに対して、良かったなと思っていますし、その先輩技術士の方に感謝もしています。また、目標を失いかけた時に、新たな部門(総合技術監理部門)が創設されたことや、複数部門の取得にむけて頑張っておられる人達の事を知り、50才に向けた目標にしたいと思うようになりました。

 ぼやっとしていても時間はたちますし、仕事の忙しさに逃げていても時間は過ぎていきます。仕事や身の回りの忙しさを理由に目標を直視することを避けても、自分の心をごまかすことは出来ません。そのような意味でも、具体的な目標をもつことに大切な意味があるのだと思います。おおよそ、一般的な社会生活を営んでいれば、思い通りに時間を使える人などはいないといえるでしょう。だれもが、やりたいことのために時間を作り出しているのだと思います。問題は、その時間をどのように使うかということではないでしょうか。

 プレッシャーに弱い私は、けじめたり、しなければならないと思うと、それが達成できない時にひどく落ち込み自己嫌悪になるので、具体的な目標ではあっても「できたらいいな」というようなおぼろげな感じで持つことにしています。資格試験などは、それを取らなければリストラなどというような厳しい話も聞きますが、そのような時でも、「とれたらいいな」と思えることが大切なことです。一生懸命に頑張って、やっとプラマイゼロになることを目指すのはつらいことです。

 私の体験からですが、贅沢を言わなければどんなことをしても生きてはいけるし、家族がいれば生きていかなければなりません(その意味では、本当に若かった時に体験した建設現場での経験が大きく支えになっていると思います)。そのうえで、プラスアルファとして考えると、新たな資格取得に挑戦していくということも、結構楽しいものになっていくと思います。また、例え合格できなかったとしても、そのために努力して過ごした月日が、結果的に自分を成長させてくれるのだと思います。

 これから、今年も忘年会のシーズンに入っていきます。反省するべき点や後悔することは多々ありますが、少しは頑張ったなといえる自分であったと思いましょう。そんな思いを語り合える人達や、変わらない友人、そして大切な家族などと、一年を振り返りながら、また、来年へつづく夢を描きながら美味い酒をのみましょう。興がのれば、歌いましょうか千春でも……


2003年 11月 18 日            節約すべきもの 



 東京マラソンでは、11月中旬だというのに24度を上回る気温を記録し、あの高橋直子選手でさえ、おかしくなってしまったようですが、全体を通してみれば確実に秋は深まっており、もうそこに、冬の足音が聞こえてきそうな気がします。四季の有る国に暮らせることの幸せを感謝すべきかもしれません。

 寒いと言えば、最近ニュースで耳にしたところによりますと、財政難のため、南極観測船しらせの後継船の建造費に関する予算がつかないおそれがあるとのことでした。そのような話を聞くと、寂しい気持ちになるのは私ばかりではないと思います。我が国は、約400億円という後継船の建造費すらも捻出できない国家なのでしょうか。

 かつて、現在のしらせの名の由来である白瀬中尉は、個人でその費用(現在のお金で二億以上とか)を捻出し、借金返済のための後半生をおくられたといいます。一説によりますと、このときも時の政府は、白瀬中尉に対してその数倍の資金援助を約束していましたが、実際には約束は反故にされ、一円も支払われなかったと言いますから、現在も似たようなものかもしれませんが……

 私が小学生の頃の南極観測船は、「ふじ」でした。学研の科学や学習でよく南極観測船や越冬隊のことがとりあげられていました。昭和基地の様子や、南極の寒さなどについて心をときめかせながらそれらの雑誌を読んだ思い出があります。また、年末の紅白歌合戦の時に、南極観測隊から届くメッセージを聞くと、大晦日でも家に帰らないで仕事をしているんだなと思いをめぐらせたものです。

 南極観測といえば、私の中で一番強く印象に残っているのは、第一次越冬隊長を務められた西堀栄三郎さんのことです。あの雪山賛歌の作者として、また、アインシュタインが日本を訪れた時の案内役としても知られていますが、何といっても、その探究心により、後から続く科学者や研究者に大きな影響を与えたことだと思います。

 NHKのプロジェクトXで南極越冬隊のことが取り上げられ、スタジオに出演された北村泰一先生が、西堀さんの思い出を語る時の、こらえきれず涙される場面は、強烈に私の脳裏に残っています。「北村を手ぶらで帰すわけにはいかんな」と、観測小屋を燃やしてしまった北村さんをとがめることもなく、急ごしらえで作った手製の観測機を手渡されたエピソードは、何度思い出しても感動的です。

 また西堀さんは、実際に足を運び体でつかんだ知識は、ただ頭で覚えたものより数倍もその人の役にたつ、とも言われています。今日、コンピュータ等の電子機器が飛躍的な進歩を遂げるなか、現場を知らない技術者も増えてきているのではないでしょうか。私も、現場至上主義ではありませんが、経験に根ざした知識は必ずその人の役に立つと信じています。また、技術者個人の役に立つということは、ひいては社会の役にも立つということではないでしょうか。

 磁石である地球の両極の一つである南極には、汚染された大気も集まるでしょう。また、何万年も前の氷に閉ざされた大昔の空気やオゾンホールなど、研究すべきことは計り知れないと思います。また、気象などのデータは、一度観測が途切れてしまうと、その意味を失いかねません。根気よく地道に続けていくことが大切なのではないでしょうか。

 しらせの後継船の建造にかかる費用の約400億円が高いのか安いのかよくわかりませんが、イージス艦の約半分もあれば建造できるとか……本当に節約すべきものは他にもあるのではないでしょうか。また、南極観測も当初は、民間からの資金に負うところが多かったと聞いています。募金を募るような方法もあると思います。いずれにしても、これまで続けてこられた貴重な観測が無駄にならないようにして欲しいと思います。

 どんなに機械化が進み、遠隔操作などが可能になっても、実際に目でみて肌で感じて観測する有人観測は必要であると、私は思います。自然の事象などの微細な変化などには、豊富な経験と知識をもっている研究者のみが気がつくことが必ずあると思うからです。


2003年 11月 7 日          二次試験の筆記試験合格発表



 すっかり秋も深まり、日の暮れるのも早くなってきました。思えば、去年の11月1日に立ち上げたこのHPも、なんとか更新を続けながら一周年目を迎えることが出来ました。建設技術者というスタンスとモチベーションの維持のために、コラム欄などを通して何かを伝えていくことができれば、と、思いながらこのコラム欄を書いてきたつもりですが、良く考えてみると、自分のなかの気持ちを整理していくためにもこれを書いているようにも思います。

 最初は、熱い思いのほうが強くて文章が空回りしていたようにも思いますが、書き続けていくうちに、何となく方向性が見えてきたような気もします。それはやはり、技術者としてのあり方を探ることと、自身への戒めを込めた建設技術者としてのモチベーションの維持についてであると思います。経験工学である建設分野においては、実際に現場で体験をつみながら成長していくことは大切なことです。そしてその考え方の根本に、「世の中の役に立とう」という基本理念が宿って欲しいと思います。そのようなことを、少しでも伝えていくことが出来れば良いなと思いながら、これからもコラム欄を書いていきたいと考えています。

 話は変わって、今日は技術士二次試験の合格発表でした。合格された皆様おめでとうございます。実は、私も受験生の一人でした。施工計画、施工設備及び積算で受験しておりました。おかげさまで、何とか引っかかっていたようです。準備不足であったこともあり、この場で発表する勇気が足りず、機会を逸してしまいました。受験指導欄で触れた直前対策などは、私自身の受験態勢そのものでした。なんとか、東京に行けることとなり、ホッとしております。

 実は、心の中では50才位までは他の科目や部門に挑戦し続けたいと考えています。日増しに衰えていく記憶力との戦いですから、どれ程やれるかはわかりませんが、向上心を持つことを薦める者として、自身の能力の向上に励んでゆきたいと思います。現時点では、夏に書いた論文の復元など、やるべきことが山積しておりますので、他の部門や科目については頭が回りませんが、とにかく来年以降も頑張ろうと思っています。

 自身の受験について公開することは、それを決意した頃から悩んでおりましたが、中々決心がつきませんでした。しかし、このH・PでもリンクさせてもらっているAPECさんの情熱と誠意ある活動ぶりにも影響されたところが大きいかもしれません。私の場合は、APECさんのように充実したサポートはできませんが、主に二次試験に臨む方々に対して、論文の添削などでお役に立てればと考えています。

 二次試験の場合どうしても、ある程度の量の書き込みをして、論文の完成度をあげていく必要があると思います。他の誰かに読んでもらって意見を求めることは、実際に意義のあることです。最初は、なるべく多数の人に読んでもらうのが良いのではないかと私は考えています。また、奥さんや子供さんが読んでみて、何がいいたいのかわかるようなわかりやすさも必要です。さらに言えば、前回も触れましたが、文芸書などにも親しみ表現力を身につけることも大切だと思います。

 技術士試験・エンジニアの資格やありかたなどについては、様々な場所で色々な議論がされているようですが、ベテランであれ若手であれ、常に向上心を忘れずに持ち、技術者としての進化を続けていかなければならないのだと思います。あえてここに書き記すことにより、自分自身の戒めとしていきたいと思います。

 また私は、建設部門のなかで育てられ、様々な事を学ばせてもらって今があると思っています。少しでもそのお返しをすることが出来れば、また、せめて気持ちの持ち方だけでも伝えていければ、と、考えてこのH・Pも立ち上げました。一周年を迎えた今、これを続けることで、未熟な自分を磨いていくことにつなげていきたいと考えています。

 

2003 年 10月 22 日            技術者こそ文芸書を



 秋も深まってまいりました。生ビールのジョッキから鍋を囲んでの瓶ビール、そして湯割りの焼酎へと、手にするグラスも替わってきました。いずれにしても、気心知れた仲間との酒宴は、ささやかなものであれ楽しいものです。そんな席に「必要な顔」として思い出してもらえる存在になることが、私の人生の目標の一つです。

 秋といえば、食欲・スポーツ・行楽など、何をするにも冒頭につくほどに「適した」季節であると言われています。しかし、秋と言う言葉で、最初に私が連想するものは読書です。これまで、それほど多くの書物に親しんだ方ではありませんが、私は本が好きな方だと思います。それと併せて、日本語が好きなのだと思います(かといって、外国語ができるというのでもありませんが)。

 英語で言えば、あなたも君も貴様もてめえもおんどれ(だんだんはしたなくなりますが)もYOUですが、日本語では、多様な表現があります。元来、日本人は表現力が乏しく何を考えているのかわからない、などと言われることの裏には、使用している言語に大きく由来するものがあると思います。また、君と貴様を同じYOUで表現しなければならない英語圏の人が、ボディランゲージが豊かになるのは当然であるとも思われます。

 また、日本語には、ひらがなやカタカナがありますし、助詞の用い方によるところのてにをはのかげんにより、文法に縛られなくても良い(もちろん正しい使い方はあると思いますが)傾向もあります。したがって、書き手による細やかな文章表現が可能になるのではないかと思います。それと同時に、きちんと助詞を使って正確な表現をしないと、技術論文などにおいては正しく意図が伝わらない、ということもあります。

 一般に、理工系の人は文章を書くのが苦手で、高度な技術や高い見識を持っていても、それを論文などにまとめ、人に伝えることが下手であると言われます。例えば、技術士の試験などを考えてみても、確かに実力もキャリアもあるのに中々合格できない人がいて、そのような人は、やはり作文が苦手であるという場合が多いように思います。しかしこれも、練習というか、たくさん書いて見て、いろいろな人に読んでもらい批評をしてもらえば必ず上達するはずです。

 その上で、一つ私が言いたいことは、それを書いている自分の気持ちがどれだけ伝えられるか、ということです。物事の事象を時系列で表し、定量的な評価をしていく文章に情緒感は必要ありません。それでも、何故それが必要なのかを訴え、その分野のあるべき姿を説くときなどには、その技術者個人の思想や内面からでてくる使命感を表現しなければなりません。そのような時にこそ、文章による表現力が必要になるのだと思います。

 そこで提案したいのが、エンジニアこそ文芸書をたくさん読むことです。歴史小説や恋愛小説を読むことは、専門書を読むことのように技術の向上には直結しません。しかし、人間が理論や理屈のみで生きているのではなく、これまで人類が残してきた文化は、むしろ人間のもっている感覚的な情緒感に起因するのではないか、ということを確認していく上でも文芸書に親しむ意味があると思います。

 また、「人に優しいものづくり」などといいますが、理論的な観念や数値的な定義でなく、情緒的に弱者や高齢者への配慮が出来る人の方が、そのような感覚のない人には気がつかない点に目が行くこともあるはずです。私の好きな作家の一人に、失楽園/エ・アロール等で有名な渡辺淳一氏がいますが、この人も元は札幌医大の外科医でした。我が国初の心臓移植をテーマにしたダブルハートという小説を書いたあと、作家一本になられたと記憶しています。

 渡辺先生の文章を通じていつも感じることは、外科医(整形外科:美容整形ではない)という職業で、人間の生と死に冷静に直面し、真摯に携わってきたからこそ、人生の意義やロマンを描くことを考えるようになったのではないか、ということです。日頃、パソコンの前に座り、キャド操作に疲れた目をこすっていると、感覚は無機質なものになりがちです。文学の世界において、透徹した科学者の目が、人々をときめかせる宝石のような文章を紡ぎだしていったのだとすると、技術を世の中に生かしていく立場の人間こそ、人としての柔らかな感性や、高いヒューマニズムが求められるのではないかと思います。

 そのためにも文芸書をよく読み、感性を豊かにすることは意味があると思います。また、読書の良いところは、読んだ人の感性にもとづき、それぞれ違った映像が思い描かれるというところです。吉川英治の宮本武蔵を百人読めば、百人の武蔵がそれぞれに思い描かれることでしょう。そのことが、とても大切なのではないでしょうか。これは、前回も述べましたが、読書により身につく想像力は、世の中の役に立つものを創造する力につながっていくと思います。

 かつてまだ私が若かった頃、司馬遼太郎の竜馬が行くについて熱く知り合いに語った時、「お前は、その竜馬の言葉をきいたのか」と、揶揄されたことがありました。しかし、司馬先生の描かれた坂本竜馬は、確かにそのような言葉を発したと私には思われたのです。明治新政府の役割を述べる竜馬の口から、自分の名前がかたられない。その船の中の光景が、私にはありありと浮かんできたのだと思います。

 文章から映像を思い浮かべることは、二次元の図面から完成した構造物の姿を想像する上でも役に立つような気がします。実際に出来上がった姿を思い浮かべるのには、もの造りの経験と技術的な造詣が必要です。さらに、文芸書などをたくさん読んでいる人は、その出来上がった構造物などの使われ方や、そこに集まる人々の表情などが描けるのではないでしょうか。

 文字は、人に思いを伝えるためにあるはずです。かつて、司馬遷が屈辱の刑を受けても史記を書き残したように、どのような体験や意見も、きちんと伝えていかなければ誰かの役にたたないのです。そのようなとき、少しでもわかりやすく豊かな表現をしていくためにも、技術者こそ専門書以外の本を読む習慣を持つべきなのではないかと思います。

 

2003年 10月 12 日             里の秋雑感



 空が高くなり、空気が澄んできました。青い空にいわし雲が浮かび、さわやかな季節を迎えています。10月10日が体育の日(東京オリンピックの開催日)に選ばれたほど、一年のうちで最も気候の安定した時期なのかもしれません。初秋から深まってゆき晩秋となるまで、私は、四季のなかで一番秋が好きな季節です。

 そういえば、唱歌でも秋には良い歌があります。赤とんぼ、もみじ、そして里の秋など……。この里の秋では、かつて私は、ああ母さんとただ二人、栗の実煮てます囲炉裏ばた、の、栗の実煮てますを、栗の実見てますと勘違いしておぼえておりました。それは、成人してから何年もたっていた頃までです。この歌の三番の歌詞を知り、その優しいメロディーだけでなく、歌の持つ深い味わいを知る時まで、正確な歌詞を知りませんでした。

 聞くところによると、小・中学校の音楽の時間から、昔からあった唱歌が消えて行っているようですね。あの名曲、荒城の月なども削除されているという話も聞きました。音楽は、人間の情緒や感性を豊かなものにするためにとても重要なものだと思います。感覚がやわらかく、柔軟で邪心の少ない時期にこそ、ふるさとや花、春の小川など、情景が浮かんでくるような唱歌を教え、それにまつわるエピソードやその歌の背景などを語ることは、とても意味があると私は思います。

 もっとも、朧月のかかるような菜の花畑や、ほととぎすの来て鳴くような垣根のある家も、現代の生活では、あまりにも目にする機会が少ないのかもしれません。春の小川の歌われた頃は、下水道の普及率も低く、蝿が多くて快適ではなかった。と、言う意見もあるくらいです。しかし、かつて歌われ親しまれた唱歌は、みな豊かな自然や、その中で謙虚に生活する人間の感性から生まれて来たのではないでしょうか。それらを作った人たちは、ふるさとの山や川、そこに住む家族や知人の姿を思い浮かべ、自らの感傷や情念を表現したからこそ、そのような名曲の作者となりえたのだと思います。

 また私のように、それがただ単に、深まりゆく秋の中で母と子が秋の味覚の栗を、美味しそうに眺めているのだと、里の秋について思い込んでいた人間がいるように、本当のことを教えてくれる人がいると、どれだけ有意義なことだろうとも思います。個人の感性は多様なものですから、それぞれの胸にそれぞれの里の秋がしみこんでいくでしょう。その、それぞれが思い描く映像は、テレビや写真と違い、本当にそれぞれ違ったイメージになると思います。

 たぶん音楽や文章の良いところは、それから受ける大まかな概念は共通のものであっても、自分の中で膨らむイメージがそれぞれ個人の想像力により異なると言うところではないでしょか。良い読み物や音楽などに出来るだけ多く触れる事で、個性的な想像力が育まれていくのだと思います。その想像力が新しいものや面白いもの、役に立つものを生み出す創造力につながるのだと思います。

 そして、そのような創造力を磨くためには、感性のやわらかい幼少年期における体験がとても重要です。小さい時から英語の勉強や数学の知識ばかりを詰め込むことは、受験戦争を勝ち抜くためには有効ですが、その後どんなことをやりたいのか、何を造りたいのかさえ思い浮かばない「勉強が出来た子」を作るだけになりがちです。

 私はかつて、「美術の宿題はお母さんがやるから、あなたは受験用の科目だけ勉強しなさい」そういって、息子の替わりに絵を画いている母親の話を聞いたことがあります。幸い?にもその息子さんは、一浪の後、旧帝大の内の一つに進まれたようですが、やりたい仕事などあるのでしょうか。たとえ、なりたいものになれても、世の中の役にたつ人になってくれるような期待をすることが私には出来ません。

 明日、10月13日は技術士一次試験の日となっています。二次試験と反対で大量の受験者数となっているようです。結果的に大勢の方が合格され、二次試験を目指すことになると思います。世の中の役にたつもの造りを考えていただけるような、志のある人にエールを送りたいと思います。そして、二次試験を目指し頑張ってもらいたいと思います。その熱い志を忘れずに……

 

2003年 9 月 28 日             食料自給率



 先日、我が家のわずかばかりの田圃の収穫をしました。台風が接近する直前で、暑いような秋晴れの日でした。しかしながら、収量は例年の75%程度となりました。天候不順の中、比較的に順調であった我が家の田圃でさえこのありさまなので、推して知るべき専業農家の苦しみは、いかばかりかと思わずにはいられません。

 米の不作が伝えられると思い出されるのは、我が国の食糧自給率の低さです。この前も、岡山県技術士会の勉強会で、そちらの部門の方のお話を聞かせてもらう機会がありました。全体でも40%に達しないような数字で、米と卵は100%であるから、それを考慮すると30%にも満たない食料自給率であると聞きました。

 農地の面積が少ない我が国においては、循環思想にもとづき環境保全的集約農業を行う必要があるといわれていました。自然環境に負荷を与えない循環型の社会形成は、農業部門にとどまらず重要な考え方であると思います。当日は、下水処理により発生するコンポストなどの有効利用などとあわせ、限り有る資源の有効利用やコスト縮減などに関しての意見も出されました。

 面白かったのは、我々が子供の頃に食べた大根やきゅうり(曲がったり少々虫に食われたようなもの)が店頭に並ばない、というところでした。そのような、見た目の悪い物は消費者が好まないから流通にのらないのだという意見がありました。しかし私は、消費者が好まないのではなく、そのような生産品は流通段階で管理しにくいので、売る側や監督する側に好まれないのだという意見の方にうなづきました。

 考えてみれば私たちは、まっすぐ伸びたきゅうりばかりが詰められたパックのほうがおかしい、と、思う感覚さえ忘れているのではないでしょうか。子供の頃の夏休みに母の田舎に行って、畑になっているトマトやきゅうりをかじった時の、あの強い味がする野菜は、きれいに陳列されたスーパーの店頭にはありません。キャベツにしても白菜にしても、かつてはもっと濃い味がしたと思います。

 接ぎ木をしないきゅうりを育てることの難しさとか、化学肥料や農薬の問題とか、技術やコストの問題はたくさんあると思います。しかし、環境問題や食品の安全性などに今日のように関心が高い中、ふぞろいでも、おいしくて体に良い物は必ず売れるし、現在でもそれが求められる方向にあると思います。

 昔の話ばかりになりますが、子供の頃、私の家にも犬を飼っておりましたが、彼の食事はもっぱら家族の食べ残しによるものでした。愛犬家には叱られるかも知れませんが(ペットの健康や味に配慮したペットフードのCMの多さ)、そのようなことにより残飯の量も減らしていたのだと思います。し尿などは別として、野菜くずなどは畑に入れたりして肥料にしたと思います。

 今日、きれいで便利な生活になっていく過程で、環境に対する負荷とそれを救済するためのコストは著しく上昇し、受け入れる自然のキャパのほうがが悲鳴をあげていると思います。下水道に流されていく汚物の行く先と、それを浄化するためにかかる費用(東京都の消費電力の1割は下水処理に費やされるとか)や環境への影響について、だれもが考えてみるべき時期だと思います。

 「昔」といいますが、つい30年くらい前までは目の前の吉井川で子供たちは泳いでいました。そして、私の記憶に残るその水の色は、とても透きとおっていたと思います。川遊びが危険だからと遊泳禁止にしなくても、流れている水を見ていれば、誰も泳ぐ気などしないのではないでしょうか。かつて私たちが、部活の練習のあとがぶ飲みした学校の水道も、今、積極的にそれを子供に飲ませる親はいないと思います。

 前回も述べましたが、安全にコストがかかる時代には安心にも多大なコストがかかっているのです。そして、これも前回述べましたが、設備やシステムにお金をかけることよりも、運用する人間を育てることに力を注いだほうが、はるかに低コストで、しかも効果的であると思います。

 農地や森林を手入れすることは、治水の面からも効果があります。また、豊かな森を構築しかつての生態系をよみがえらせる事は、漁業などを始めとして自然からの恩恵を増やすことにつながります。しかし、それに携わることが、高収入に結びつくことにはならないでしょう。それでもそれを訴え、田舎に入ったりして山里に暮らす人もいます(C・Wニコル氏のような外国人も)。また、我が国で初めてFSCの認証を受けた速水林業のような例もあります。

 物の無い時代に育った私は、幸い米だけはありますから海外からの輸入が止まっても、畑で野菜など作れば生きてはいけるなあ、と、思いますが、物があふれる時代に生まれ育った子供たちには、想像もつかないことだと思います。安い居酒屋チェーン店の焼き鳥の串が、フィリピンなどでさされている事とあわせて……


2003年 9 月 16 日          安全にはコストがかかる



 
日本で開催された世界柔道が終わりました。大体納得のいく結果だったのだと思います。私が、このような実感をもつことからして、競技する側の苦労と見ている側の気楽さには、計り知れない隔たりがあるものと思います。個人的には、井上康生選手の強さと、野村選手の悔しそうな顔およびアテネへ挑戦が、印象に残り、また気になるところです。

 また昨日は、阪神18年ぶりの優勝の映像を、様々な放送局の放送で見ることとなりました。我が岡山出身の星野監督が胴上げされる様は、阪神ファンならずとも胸が熱くなる思いでした。指揮をとるリーダーの交代で、これほどまでにチームが変わるものかと思い知らされ、改めて、指導者の持つ資質の大切さと、それを見極める能力を身に付けることの必要性を感じています。

 ところで、先日、初めて参加させていただいた勉強会で、「安全」についてのお話を拝聴しました。電気・電子部門の技術士の方のお話ですが、接地方式による感電事故防止のような内容でした。わかりやい説明でしたので、何となくですが理解することが出来ました。とりわけ、「安全」に関する日米における国民性の比較などは興味深く、なるほどと思う点が多々ありました。

 特に、安全に対する意識についての話では、我が国においては、何でもこと細かく基準やマニュアルを作り、上からの命令とか指示するという形で安全に取り組んでいるが、アメリカでは、安全追求などというものは、人間の欲求の初歩的段階のもの(マズローの欲求発達仮説①生理的欲求②安全欲求③社会的欲求④自我欲求⑤自己実現欲求)なので、取り立てて意識するものでなく、ルールに基づき淡々と行われるものである、という認識が一般的である。というものでした。

 なるほどと思いました。確かに我が国においては、決められた基準や規定を遵守することが安全管理であり、それを守っている限りにおいて、安全は保障されているという観念があったように思います。また、逆の意味でいうと、いくら対策を施していても、損失や危険を回避できないものもあるはずです。それこそ、人知の及ばないような災害もあります。

 何をリスクとして捉え、どこまでの対策を施すのか、それが、リスクマネジメントということになるのだと思いますが、そのような考え方もとりいれていく必要があると思います(まさに、技術士:総合技術監理部門におけるテーマ)。私たちが子供の頃は、犯罪検挙率も高く、「安全と水はただである」という感じがしておりました。しかし、いつの間にか、ペットボトルの水を持ち歩く光景に違和感を感じなくなってしまいました(かつて私は、お茶が自動販売機で発売された時、こんな物が売れるのだろうか、と思った経験があります)。

 先日の、ブリジストンタイヤ栃木工場の火災についての報道では、初期消火の段階で、大型の化学消防車が必要であったが、この地域の「基準」では、設置が義務付けられておらなかったとのことでした。まさに、お上の決めた基準を守っていても、安全は保障されない時代なのだと思いました。あのような、タイヤの原料がたくさんある工場で火災が発生すれば、人が手に持って放水するような化学消防車では追いつかないことは、考えてみれば当然のことです。

 しかし、基準やマニュアルにどっぷり使った視点からは、そこに潜んでいるリスクが見えなかったのではないでしょうか。また、そのリスクに誰かが気がついていたとしても、経済的な負担の受け持ち分担などを考える時、口を開く者もいなかったのかもしれません。まさに、安全にも、安心して飲める水にも高いコストのかかる時代になってしまったといえると思います。

 便利さに流され、自然や周辺環境をないがしろにして来た結果、飲料水にかかるコストはどんどん上昇してきました。同じように、目先の進学競争におわれ、人としての教育をおろそかにしてきたために、人々の道徳観は低下し、安全に対するコストも上昇してきたのではないでしょうか。コンビニのまわりで地べたにすわって屯している若者たちに、「川は国の血管である」と、森の保護を訴えるC・Wニコル氏の言葉が響くとは思えない気がします。

 私は、人は生まれながらにして悪人ではないというか、性善説にもとづいて物事を考えていますが、この頃、自分とは異質な人がいるのだ、という風に考えざるをえないときがあります。いわゆる根っこのところが違うと感じる人をみるとき、出会うときがあるようになりました。誤解を恐れずに言えば、「愛されて育っていない」ということだと思います。

 この、愛されるというのは、物や金銭を与えられるという意味ではなく、きちんと叱られたり、社会に適合できるようにしつけてくれるというような、慈悲にみちたしっかりとした愛情をうけて育つという意味です。少子化の中で、親の方が我慢できずに、こどもに物や金銭を与えることでしか、愛情を表現できないことが多いのではないでしょうか。少し無理をして物を買い与えることより、心を鬼にして、どうしてそれを買い与えないか子供におしえ、その分の時間を割き一緒に過ごすことの方が、はるかにつらく意味があることだと思います。

 話はそれましたが、性善説であれ、性悪説であれ、世の中のシステムは人が作り人が動かしているのです。どちらの観点に基づいて安全管理のシステムを構築しても、完璧ということはありえません。そして、安全にはコストがかかってしまうものです。そこで、私が言いたいのは、人づくりというものにもう少しコストをかけても良いのではないかということと、コストのかけ方が違うのではないかということです。

 どのようなシステムにおいても、運用する人間の資質が素晴らしければ、低コストで高い安全性を確保できるのではないでしょうか。現在、我が国が向かおうとしているやり方の多くは、その反対の方向を見ている気がしてなりません。一見、長い期間と多くの労力がかかるように見えますが、ちゃんとした人をつくっていくことが、本当はもっとも安上がりで確実な手法であると思います。


2003年 9 月 5 日        才能とは、継続して努力できる精神



 
8月の終盤は、世界陸上の中継番組を見るために寝不足の日が続いておりました。末次選手など日本選手の活躍もあり、わくわくしながらテレビを見ておりました。また、短距離のスタートにおけるルール改正とフライング検出装置の作動具合により、多くの選手が苦しんでいる姿は、公正さの確保とそれに対する技術の関わり方の難しさを痛感しました。

 今回の世界陸上で特に印象に残ったのは、直前に怪我をしたにもかかわらず見事メダルを獲得した室伏選手の冷静な態度とあきらめない姿勢でした。また、我が国の短距離界で初めてのメダル獲得となった二百メートルの末次選手が、余裕を持ちながら決勝に勝ちあがっていく様は圧巻でした。それは、私たちがこれまで見ることの無かった陸上競技における日本選手の姿だったのではないでしょうか。

 後続のレースに備え、横目で他の選手の位置を確認し、終盤を流しながらゴールする姿は、まるでアメリカの選手が見せるような自信と余裕を感じました。加熱する報道と周囲からの期待、メダルを取ると公言している自分に対してなど、計り知れないプレッシャーがあったと思います。そんな中で、最後、百分の一秒(約十センチ)の差を制して、彼は表彰台に登りました。最後まで、自分のフォームを乱さず走ることが出来たことが勝因であるといわれています。また、それを実践するための練習は、我々が想像するよりもはるかに厳しいものがあったと思います。レース終了後、彼の目からあふれた涙がその苦しさを物語っていたのだとと感じました。

 まさに、天から与えられた素質と、言い知れぬ努力がこの結果をもたらしたといえるでしょう。その意味で、末次選手は才能のある人と呼べると思います。しかし私の言う才能とは、単に運動神経が良いとか速く走ることの出来る、と、言う意味の才能ではありません。素質的にいえば、短距離に関して彼よりも早く走れる能力をもち生まれてきた人は、おそらく、日本中にはたくさんいるのではないでしょうか。

 それでも、ものの無い時代と違い、何でも直ぐに与えられる時代にあって、また、多様な価値観があり、ともすればスポーツに精進することに対して、懐疑的で頽廃的な風潮がある中で、もくもくとトレーニングメニューをこなしていくことは大変なことだと思います。享楽的な娯楽や遊びなど、誘惑の種類も多いと思います。かといって、彼が仙人のようなストイックな生活を送っていたという話も聞きませんので、精神的にも自分をコントロールできていたのだと思います。

 末次選手と四位の選手との差は、わずか百分の一秒でした。距離にしてわずか十センチ程度です。しかし、その差が世界選手権のメダリストとその他の選手という大きな立場の違いを作るのです。余り良いスタートがきれず、途中で足がちぎれそうな気がしたと彼は振り返りましたが、見ている側もはらはらしました。しかし、周りの人たちのためにも彼はあきらめずに頑張りました。

 例えは違いますが、技術士試験などにおいては、量的にも質的にもたくさんの知識や経験が要求されます。短い時間の中で(といっても、1日7時間の過酷な試験ですが)圧倒的に多くの文章を書きなぐっていくことになります。試験当日、何度も「もうだめだ」と思うことがあります。その時にこそ、末次選手の周りの人のように、思い出せる人があると救われると思います。家族や友人、お世話になった先輩、指導してくれた仲間、合格を宣言した人々などを思い出し、絶対にあきらめないことが大切です。

 末次選手の百分の一秒とは違いますが、資格試験においては、わずか一点という表現になると思います。例えば、合格点数が70点だとすると、70点とれれば結果的には100点と言えますが、69点では0点と同じです。その一点が、勝者(合格者)と敗者(不合格者)を分けるのです。陸上競技などでは、あきらめないことが、どれだけ速く走ることにつながるのかは良く分かりませんが、技術士試験で言えば、最後まで書き切り「以上」を記した論文を全科目において提出することだと思います。

 そのようなことは、技術士試験でなくても他の試験でも同じだと思います。あきらめずにやりきる。それが一番大切なことだと思います。通常の場合多くの資格試験では、次に挑戦する機会は翌年まで待たなければ与えられません(一年一度のチャンス)。そういう意味でも、決してあきらめてはいけません。かつて、指導していただいた先輩技術士の方に、「とりあえず受けに行ってきます」と言ったら、「とりあえず」ならいくなと叱られた経験があります。今、私が良く口にすることも同じで、いくからにはベストを尽くせと言うことです(思いつく限りの準備をして)。

 自虐的な楽しみかもしれませんが、試験が終わって、全てを出し尽くしたような疲労感で駅までたどり着き、久しぶりに口にする生ビールの味は格別のものだと思います。結果はどうであれ、よし、また頑張るぞと言う気持ちが湧いてくるものです。そのような、楽しみも自分で見つけ出して見るのも良いと思います。また、受験後、抜け殻のように歩いていく他の受験者の人たちを観察するのも結構面白いものです。


 「正しいことをやることは、厳しくてつらいことである」剣道の世界選手権で、日本の連覇を支えた栄花直樹選手は、勝ち負けに拘らず精一杯努力することの大切さを語り、継続して努力していくことの困難をそのように話していました(NHK人間ドキュメント)。胸を打つ言葉は、胸を打つ人生を送っている人の口から放たれる。


2003年 8 月 25 日              にらみ合いの松



 冷夏を嘆いていた夏でしたが、お盆を過ぎてから思い出したような暑さとなりました。といっても、私の住んでいる地方での話なので、東北地方で聞かれる冷害などに対して、どれほどの効果があるのだろうと考えたりしています。

 さて、その、私の住んでいる場所の直ぐ近くには、津山の史跡「にらみ合いの松」があります。小さな公園の中に、2~30メートルを隔てて円形に盛り土された場所があり、少し小ぶりの松が植えられています。あたかも、侍が対峙するように植えられた二つの松は、津山城築城の歴史に関する重要な史跡ですが、地元の人からも忘れられているか、知らない人も多いのではないかと思います。

 それは、初代津山藩主森忠政が、津山に入封するときに起きた事件に由来して植えられたものだといわれています。はじめは、この場所の近く(院庄)に築城が予定されていましたが、途中から方針が変わり、現在の鶴山公園のある場所に築城することになりました。このとき、当初の普請場で築城協議中であった重臣の普請奉行に対して、忠政の室の実弟が切りつけ、逆に剛勇の奉行に切り伏せられました。

 その奉行も、他の武士たちにより命を落とし、また、彼の弟たちも差し向けられた刺客によって討たれたということです。時に、慶長八年(1603年)初夏の出来事であると聞いたことがあります。なかなか、血なまぐさい事件ですが、藩主忠政の意思が働いていたことは想像に難くないことだと思います。この、井戸、名護屋という二氏の墓が出雲街道の南北にあり、互いに盛衰を繰り返したというのが、にらみ合いの松の由来であるといわれています。

 事実、私が子供の頃には田圃の中に、おそらく初代ではないかと思われる松がありました。こんもりした塚のような土盛りの上に、なにか威厳を感じさせる美しい姿の松があったことを記憶しています。その頃すでに、一方は枯れて塚だけだったようなきがしますし、小さな苗木が植えられていたような気もしますが、定かではありません。いずれにしても、不思議と、どちらかが栄えればどちらかが衰えるという話は良く聴かされていました。

 現在では、公園として整備された小さな敷地内にひっそりとたたずんでいます。それほど手入れされているわけでもなく、枝ぶりも、昔のものと比べると比較にならないほどお粗末ですが、どちらか一方の方が勢いが良いというのは同じことのようです。小さな案内板のようなものはありますが、もう少し、周知をはかるようなことをしても良いのではないかとも思います。何といっても、故郷の史実を語る史跡なのですから……

 おそらくは、討たれた方も追討された方も藩や藩主のために命をかけて働いていたのだと思います。盆明けの暑い西日の当る中、そのなごりともいえる二本の松を眺めていると、歴史に埋もれていった人々の志を感じる気がします。今日、私たちは、命をかけるというような思いで仕事をすることは少ないと思います(無いかもしれませんね)。当時の社会制度、教育・思想・風俗などを考え合わせても、今の私たちが忘れてしまった何かを感じずにはいられません。

 武士であれ農民であれ、はたまたそれ以下に虐げられた人たちであれ、私たちの先祖は誇りを持って生きてきた人が多かったのではないでしょうか。そして、その誇りに命をかけ、仕事をしていったのだと思います。そこに、日本人が持つ独特の道徳観や倫理観が生まれていったのではないでしょうか。6月の岡山県技術士会の勉強会で拝聴した就実大学の柴田先生のお話の中にあった、池田輝政、綱政親子の時代に関する領民と君主の関係などともあわせ、西洋の封建制度には見られないものだと思います。

 とくに、名君といわれた輝政公の時代ではなく、凡君とさえ言われる綱政公の時代において、後楽園の造営を初めとした後世に残るような事業が数多く成し遂げられたという話などは、天才的な実務家として二代に仕えた津田永忠の存在をはじめとして、人を動かし働かせることの大切さと難しさを強く感じました。

 厳しい残暑の中、わずかばかりの田圃の水口に立ち、稲の穂が水の取り入れ口付近だけ出遅れているのを見ました。、それだけ、今年は冷たい水が流れていたのでしょう。温暖な土地でさえこの状態にある時、くらかけ山の水は温んでいるのか、と、心煩わせながら、本当の意味で、世の中の役に立つものづくりとはどんなことなのか、今一度考えさせられているところです。


2003年 8 月 11 日               旧盆雑考



 
いつのまにか、暑中見舞いから残暑見舞いに葉書の書き出しの言葉も変わりました。今年も高校野球が始まり、夏休みの故郷でテレビ観戦する人も多いのではないかと思います。私も、ほろ酔い加減で「思い出のメロディーを」見ながら、懐かしい歌を口ずさみ、一年が経つのが早いなと感じるような年齢になってしまいました。我が国における一年のターニングポイントである旧盆を迎えました。

 先日、母が草をむしる横で、まだ新しい父の墓石を洗いながら、胸の中で、自分の思い出だけの親父に話し掛ける私がおりました。季節とか節目を感じることの少なくなった日本のなかで、私が一番その訪れを意識するのがお盆です。だいたいは夕暮れ時に、近所にある墓地へ家族一緒にとお参りします。きれいに掃除され、花が供えられた各家々の墓所の前に灯された燈籠の灯りが幻想的にさえ感じられ、なんとなく、これもいいもんだなと思うようになりました。

 子供の頃などは、両親に連れられてお墓参りをしたものです。その頃は、どうして行くのかや何のために行くのかなど考えたこともありませんでした。ただ、言われるままに線香をあげ手を合わせていただけでした。しかし、不思議なことにある程度大きくなって、遊びのことや友達との付き合いなどができても、お盆には先祖のお墓にお参りしなければ、何となく後ろめたいような気持ちがするようになりました。夏休み、夕暮れ、盆帰り、というような連想が浮かんできます。

 小
学校の頃には夏休みの間中、母の実家で過ごすことも多かったですから、お盆もそちらのお墓にお参りしておりました。同じ県内ですが、朝起きると雲海が見えるようなところで、ボンネットバスがとまる吉田屋という小さなよろずやから、徒歩で二キロくらい山を登る場所でした。まるで、アルプスの少女ハイジのような生活をしているところで、おおよそ悪人というような人は見たことがありませんでした。今から考えると、母は、よくあそこからこの場所に嫁いで来たものだと思います。そんな、小学校の頃の想い出は私の中に強く残っています。母の実家で過ごした夏休みの光景などは、また別の機会に詳しくふれてみたいと思います。

 人は誰でも、生まれた場所や育った環境に影響を受けます。そして、育ててくれた人、関わった人たちにも大きな影響を受けます。お盆にお墓に参り、悲惨な戦争の話を聴き、田舎の人のおおらかな優しさに触れなければ、私の中に、せめてお盆くらいは自分にゆかりのある人を偲んで見ようなどという観念は育たなかったのではないかと思います。そのような意味で、むしゃくしゃしたとか言うような理由で、広島の折鶴を燃やした大学生の気持ちが理解できないのです。


 か
つては、私も真面目な方ではありませんでしたが、どんな不良と呼ばれる者でも暴走族でも、平和記念公園の折鶴のようなもの(魂のこもったもの)を冒涜するような行為はしなかったと思います。それは、少し前の日本では当たり前だった、どこの家でも教えられてきたことが、語られなくなり教えられなくなっていることの現われではないでしょうか。子供の頃から、両親などに戦争の話を聞いて育てば、また、仏壇に手を合わせる母の姿を見て育てば(仏壇がある家も少ないとは思いますが)、自然と備わる筈の感性を持たない人が多くなったのではないでしょうか。

 私の家は浄土真宗で、個人的に親鸞は好きですが、気持ちの中では無神論者に近いと思っています。しかし、広島の原爆資料館や平和公園に行くと、自然に手を合わせたくなります。沖縄の戦没者慰霊の碑の前でもそうです。人は、成長していくなかで、多くの知識や物事を学びます。しかし、あくまでもそれを吸収する土台は感性であり、血の通った魂が必要なのではないでしょうか。知識は、必要と思う時に身に付けられますが、人の心、感性は時系列でなければ育たない気がします。

 子供の時には子供らしい遊びやしつけが必要です。また、学生の時には学生らしい生活があるのではないでしょうか。この「らしい」ということが大切だと思います。中学生の頃、当時は丸坊主がきまりで、長髪を認めてもらうための先生との議論で、中学生らしくという言葉に対して、中学生らしいとはどういう定義づけになるのか、などと屁理屈をこねていた私が思うのですから、やはり、~らしいというのは良いものだとおもいます(全部というわけではありませんが)。

 ともあれ、一年に一度くらいはふるさとに帰り、先祖のお墓に参り、懐かしい人に会い旧交を温める。田舎に住む人は、そんな返ってくる人と会える楽しみをもつ。そのような意味でも、お盆の存在意義があると思います。最近では、正月に必ず帰郷するという人も減りました。成人の日も1月15日に固定されておりませんから、お墓参りに帰ってくる人の多いお盆の頃、成人式を行う町や村の話をきくことがあります。夏の成人式は、和気藹々として楽しげに見えました。女性の服装も涼しげな洋装が多く、着物の豪華さを競うようなところも無くて好感が持て、良いなと思いました。

 とりとめのない文章となりました。現在、新しい技術や文化などがどんどん海外から日本に入ってきて、我が国の伝統や文化も変わっています。しかし、震災が起きても略奪などが起きず、市民の中に自然と助け合う動きがうまれるような国であり続けて欲しいと願わずにはいられません。そんな思いの中で、お盆のことなどを考えてみました。



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