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※これまでのコラムが納めてあります。
できれば、通してお読みください。(根底に流れるものを、くみ取っていただけると思います)

                     

              宇佐神宮西大門             津山市市政功労者表彰      津山城跡~リニューアルした文化センタ-及び市役所方向    余部鉄橋(恩師との思いで)

NO.42       

2020  5月  17日  読書の薦め

  


ようやく、全国的な緊急事態宣言が解除され、地域により差はありますが小・中学校も再開される動きです。誰もが、第二波・第三波への不安を感じながらも、目の前の課題をこなしていくしかありません。

 さて、本市でも新型コロナウイルス感染症対策として、一般会計115億5,592万円、特別会計648万円が計上された5月臨時議会が終わりました。この際、我々議員も期末手当の20%をカットし、新型コロナウイルス感染症対策に資する為の議案も全会一致で可決されました。速やかに予算が執行され、この難局にあえいでいる人達のために役立つことを願うばかりです。そして、直ぐに6月議会が始まります。

 来る6月議会では、この度の第一次補正に盛り込めなかったものや、政府の動向に合わせ緊急的に執行すべきものなどが、第二次補正予算案として上程されることになります。市民の為に、本当に役立つ施策実施を図るため、意義ある質疑を速やかに進めていく必要があります。私も、行動的政策集団-会派未来の仲間達と知恵を絞りながら、執行部との意義深い議論に取り組むつもりです。

 今後、私達は過去に体験したことのない取り組みが求められています。それは、密集・密閉・密接の三密を避けるというような、人との接触機会を減らすことを強いられる生き方です。基本的に、人間社会はコミュニュケーションの上に成り立っています。また、人類の進化の中で我々ホモサピエンスが生き残り繁栄したのは、声帯の発達などコミュニュケーション能力に優れていたからだともいわれています。

 その我々が、仲間である他者との関わりを制限されるということは、本当に厳しい状況だといわざるを得ません。一方で、情報通信環境の進歩は著しく、テレワークやネット会議等もスムーズにできるようになってきました。これを活用して、働き方の見直しや学校教育の充実が叫ばれています。とはいえ、例えば学校教育に関していえば、情報通信環境の格差やサポート体制の不備などが明らかになりました。

 まだまだ、これまで学校で行ってきた教育内容を、家庭にいながら享受できる社会ではないようです。それでも、テレワークやテレビ会議などは一定の成果を見せていますが、どうしてもこれに馴染まない分野や実効が上がらない部分もあります。やはり、最終的には人と人が密接に関われる環境を取り戻すことが望まれます。そのためにも今は、「新しい生活様式」を実践していく他に手はないのでしょう。

 さて、そのような辛抱が続く生活の中において、私が友人知己から聴く話の中で多いのが「遊ぶ時間が減って本を読む機会が増えた」という声です。実際、私もいつも以上に書店に問い合わせる機会が増えました(あまり、アマゾン等を利用しないので)。大体私は、本屋や書店を覗き、書棚を眺めながら本を物色するタイプです。そうでなければ、文春・新潮などから情報を得て書店に発注するのが常です。

 そして、これもいつも述べていますが、基本的に文庫本によって読書をする主義です。一方で、読んだ本はとりあえず手元に置く主義でもあります。それでも置き場所にこまり、これまでに何度か処分しました。しかし、基本的には手元に置きたいと思う質です。実際、ふとフレーズを思い出して、彼方此方ひっくり返すこともしばしばです。一方で、一度読んだ小説を読み返して新たな感動を得ることもあります。

 先ほど、人類の発展の要素としてのコミュニュケーション能力に触れましたが、文字による情報伝達も重要な要素です。本来、人は経験により知性と感性を磨くものだと思いますが、自分自身でできることは限られており、読書によって知識を増やすことはとても意味があります。基本的に、データとして一定の知識量がなければ、ファクトとロジックに基づく判断が不正確になってしまいがちです。

 したがって、バランス良く多様な知識を習得することが大切ですが、私は手当たり次第という読書スタイルも良いのではと考えています。自身の体験から言えば、私は読みたいものを読みたいように読んできただけですが、一定の年齢に達してくると闇雲に集めた筈の知識が不思議と繋がってくるのを感じました。歴史・文化・宗教・哲学…多様な知識が融合し一定の思慮分別が構築されてきたように思います。

 とはいえ、分別の方は甚だ自身がありませんし、あてにはなりません。いずれにしても、たくさん本を読むことは良いことだと思います。また、そのやり方は夫々自由です。そして私は、人生の中で出会う人達に恵まれたように、出会う本にも恵まれたと思っています。また、勝手に天啓などと嘯きながら読みたい本に手を伸ばす生き方でもあります。何はともあれ、読まないよりは読んだ方が良いのは確かです。

 新しい生活様式の実践といえば窮屈なイメージですが、少しは読書に使える時間も増えるのではないかと思います。これを良い機会と捉え、活字に親しむ生活も充実させていきたいと考えています。



2020  5月  11日  表現は自由




 静かな、ゴールデンウイークが終わりました。しかしながら、新型ウイルスとの戦いは容易なものではないようです。私達は生活様式さえ見直し、長い闘いを続ける必要があるのかもしれません。

 本当に、多くの国民が我慢しあう(一部情けない光景も見ました)休日でした。結果的に宣言は延長され、今後の対応も自治体で夫々です。本市でも、ようやく(5月12日~15日)臨時議会が開かれます。国の施策を踏まえ、多様な角度から効果的な対策を打ち出す為の議論をしなければなりません。ところでここまでの間に、興味本位や悪意に依ると思われる大量の情報がネットやSNS上を伝わってきました。

 なるほど、このようにして不確かな情報が拡散するのかと、思うことしきりです。改めて、見極める力の大切さを痛感しています。ことほど左様に、現代社会ではネット上などから多様な情報が溢れ、それらを発信するSNS等のサポートアイテムは多様な進化を続けています。実際、スマホの端末さえあれば、あらゆる情報が容易に得られる環境になりました。そのこと自体は、本当に便利なことだと思います。

 しかしながら、私達はそのように簡単に情報が得られることに、慣れ過ぎてはいないでしょうか。その結果、私達は得られた情報を吟味して見極めるという作業を怠り、軽んじるようになったような気がします。言い換えれば、入手が容易になればなるほど、情報の価値が軽くなるように思います。そのような受け取る側の意識低下もあり、溢れる情報の中から肝心なキーワードを見失う危険性は高まっています。

 また、現在のような情報が容易に入手できる環境下では、頭の中の所謂「浅い部分」による情報分析と判断が行われがちです。そのような傾向が、寛容さを欠き雰囲気に流されやすくなる風潮を、益々助長させるのだと思います。そうした下地の上に、ワイドショー文化の影響を受けた発言者達(玄人も素人も)が偏った自説を声高に叫び、胡散臭い正義を振り回す構図が描かれるのだと思います。

 今日の情報化社会を概観する時、脆弱さを感じてしまうのは私だけではないはずです。だからこそ猶更、今を生きる私達にはロジック(論理)とファクト(事実)に基づき、情報を的確に分析する能力が求められます。その中でも「誰が言っているのか」や「出典はあるか、確かか」という点に関する精査は必須であり、極めて重要なチェックポイントです。一方で忘れてならないのは、情報を発信する側の問題です。

 むしろ私は、今日顕在化している問題の多くは、そちら側に起因するものだと考えています(複合的なものもありますが)。情報を発信する側に、高い倫理観に裏付けられた責任とモラルが担保されなければ、受け取る側における正しい判断は困難になります。また、そこら辺りの不確かさが、現在の他者に対する容赦のない責任追及や、寛容さを欠く表現の多さに繋がっているように思います。

 ほんの一例ですが、この前まで国のトップの発言や行動を酷評していた人(国会議員)が、とても残念な自身の行動が明るみに出て、所属する政党を除籍されるという事例がありました。実際、件の議員に関していえば、正義の使者然として他者を厳しく糾弾するアピールをSNSなどで繰り返していたはずです。まさにブーメラン現象の典型ですが、その前に発信者としてのチェックが必要だったということです。

 また、我先にネット上に情報を書き込みたがる人達の目から見れば、世の中の事象にタイムリーに反応し、舌鋒鋭く他者をけん責するような行為が格好良く映るのではないでしょうか。そしてその行為は、少なからず快感を伴うのではないかとも思います。以前にも取り上げましたが、負の感情に依る情報伝達が通常のそれより20倍も速く拡散するという背景に、そのような人間心理が垣間見える気がします。

 だからこそ、十分な確認と精査をしないまま情報を流すことや、そのような姿勢で声高に他者を糾弾するような行為は、厳に慎まなければなりません。例えば、新聞や週刊誌に掲載される、謝罪記事(広告)の効果の無さを見れば明白ですが、ある情報が一旦マスコミやネット上に広がってしまえば、それを払拭することはほぼ不可能です。真の意味で、被害者が救済されることは無いといえるでしょう。

 とはいえ、議員活動などをしていれば、積極的な発信や発言を求められる部分もあります。それはその通りですし、必要なことだと思います。しかしながら私は、この「積極的に」という部分の解釈には注意が必要だと考えています。積極的な情報公開・発言とは、独りよがりの思いつきや思い込みによる強い自己主張、或いは他者への容赦のない攻撃的な発言などと同義語ではないはずです。

 表現することは自由です。積極的な情報公開も必要だと思います。しかしながら私は、胸に手を当てて物事を考える姿勢は、どんな時にも必要なものであると考えています。自らのへの戒めも込めて。



2020  4月  27日  不条理そして哀悼の春




 4月が、終わります。しかしながら、今年は静かなゴールデンウイークとなりそうです。個人的にも、人の世の無常を感じているところです。色々な意味で、祈りの春となりました。
 
 世はまさに、新型コロナウイルス禍一色です。ついに、私が住んでいるまちにも感染者が出る状況となりました。女優の岡江久美子さんの訃報もあり、一層身近に恐怖感が迫ります。既に全国に緊急事態が宣言され、国民に対して強い行動の自粛が求められていますが、その目論見通りに私達一人ひとりの接触機会が減ることによって、新型コロナウイルス感染者数が減少することを祈るばかりです。

 実際、私達は祈るしかないないような、歴史的事象に遭遇しているのかもしれません。とはいえ、私自身はアルベール・カミュが「ペスト」の中に自身を投影させて描いた医師ベルナール・リウーと同様に、宗教的な絶対者を信じる人間ではありません。しかしながら、人間の無力さや世の無常のような感覚は、誰もがふと抱くものだと思います。私も、時として強い無力感や虚しさに包まれることがあります。

 特に、身近な人や大切な人の訃報に接する時、多くの人がそのような感覚を覚える筈です。この不条理なウイルス禍中の春、私は、人生の中で巡り合った大切な人を何人か失いました。特にS先生は、私だけではなく、この地域においてもかけがえのない人でした。先生は、生涯教職を歩まれ、その最後は津山高専で数学の教授として終えられました。人望が厚く、所謂地域の「名士」といわれる人でした。

 ところで、私の人生は有難いことに友人知己・先輩・後輩等、人との出会いに恵まれた人生だと思っています。その中には、師と仰ぐべき人がたくさんいますが、S先生は恩師であり特別な存在でした。先生との出会いは、今から15~16年前のことになります。私が、所謂「力の強い人」が牛耳っていた自治会運営に対して異を唱え、本来の姿である「民主化」を図るための改革に取り組み始めた頃です。

 これはどこでも同じだと思いますが、日本の地方都市においては自主防犯・防災、青少年健全育成など、多様な住民自治活動が行われています。そして、そこには民生委員・愛育委員・消防団など各種の団体が加わります。その中心にあるのが町内会という組織です。もう、何の会合であったかさえ忘れましたが、私が新しい町内会長として臨席した懇親会のような席が、先生との初めての出会いでした。

 先生は、本市で最初に青少年健全育成会を立ち上げた人でした。そのうえ、正義感が強く筋を通すイメージがあり、中々近寄り難い雰囲気を醸し出されていました。しかしながら、私に関する予備知識もお持ち下さり、意外と心安く声をかけていただきました。さらには、「お前、○○町内なら□□を知っとるか」と、先生の盟友であり地域でも周りから一目置かれる人との、親交の基を作っていただきました。
 
 そのおかげもあり、私の地域改革は大きな成果を挙げることができたと思っています。また先生は、本来は数学の教授ですが、歴史や文化に関しても大変造詣が深い人でした。私は、地域の視察や旅行などに際して、様々な史跡や文化的施設にご一緒させていただきました(トップページの写真もそうです)。その度に、そこに関連する史実やエピソードを、想い入れのある言葉で聞かせていただきました。

 また、津山高専でお世話になった息子から、夏のソフトテニス部の合宿の最終日にフィナーレとして行われる試合の冠称が「S山杯」であるという話を聞き驚いたことがあります。このことについて、直接先生に確認してみましたが、「試合の冠称は固有名詞ではない~」と半ば強引に学生に押し切られる形で、承諾されたということでした。そのようなところにも、多くの人から人望を集めた人柄が偲ばれます。

 実は、先生は数年前まで作楽神社の総代長もされていました。年齢と健康面などの理由から、先生が総代長を勇退されることになり、仕方なく若輩ですが私が後任を引き継いだ形です。創建が明治二年で、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中で誕生したお宮は氏子を持たず、近年の厳しい経営状況の中、先生の人徳により何とか凌いできた部分もあります。残された我々の責務は、重いものがあります。

 人は、好むと好まざるに関係なく、時の流れの中で齢を重ねていきます。私も、大切な恩師との別れがいつか来ることは、観念的には理解しているつもりでした。しかし、実際にその場面に遭遇すると、大きな喪失感と深い悲しみが心を支配しています。このような状況(コロナウイルスによる接触禁止)になる前に病床を訪ねた際、手を握り「今まで通り、筋を通して生きなさい」と声をかけていただきました。

 また、かつて「お前が悪いんじゃない。お前の考えに皆が着いてこれんのじゃ」と、火中に栗を拾うように後援会長を引き受けて下さったお礼も伝えました。その時の、手の温もりが今でも残っています。ただ今は「本当にお世話になりました」という言葉しかありません。心より、ご冥福をお祈りいたします。合掌。


2020  4月  13日  溢れる情報と見極める力




 雨の日曜日、寒い作楽神社の拝殿にて、春の大祭の神事を行いました。しかし、大祭に合わせて催し続けてきた行事の「たかのり祭り」は中止しました。春は本番ですが、それだけに寂しさもつのります。
 
 まさに、人の世の混迷とは無関係に、桜は満開を迎えました。そして、風に花びらを散らしています。その、あまりにも潔い散りざまは、鮮やかな美しさの中に切なさを秘めています。そのようなイメージが、私の感性と共鳴するのだと思います。いつの頃からか、この花に魅かれ続けている私がいます。まことに残念ですが、今年は仲間達との細やかな宴もできず、一人静かに散りゆく花を惜しんでいます。

 さて、遂に緊急事態宣言が出される事態となりました。当初は、単なるインフルエンザの一種位に、軽く考えていた部分もありましたが、事態は深刻です。まして、日ごろから見慣れ、身近に感じていた有名人(志村けんさん他)が死亡するというニュースに接すると、一気にその脅威が切実なものになります。言い換えれば、そのような危機管理に関する意識でさえ、私達は曖昧に捉えているのだと思います。

 いずれにしても、人間社会ではテレビや新聞、或いはネット等から様々な情報がもたらされます。そして、私達はそれらの情報を吟味しながら、危機管理への対応などを判断することになります。一方で、情報通信に関する技術の進歩は凄まじく、現代社会の我々が受け取る情報量は膨大なものになります。また、そこにはネット環境やSNSなどからの、精査が必要なものや怪しい情報が混入してきます。

 単に、判断材料という視点からいえば、情報量は多いに越したことはありません。しかしながら、急激なテクノロジーの進歩(例えばディープラーニングによるAIの進歩など)を背景としたインターネット社会の発展は、多くの問題や危険を孕んでいます。最近では、数多のフェイクニュースが世界中にばらまかれ、事実に基づかない誤った世論が形成されるなどして、悲劇に至るような事件も起きています。

 先日、NHKのテレビ番組で放送された話です。メキシコで一組の親子が路上飲酒の取り調べを受けていたところ、その地域で頻発している誘拐犯だと誤解させるヒステリックな内容のツイートが発信・拡散され、一気に集まった住民からリンチを受け死亡する(火をつけられて)というショッキングな内容でした。特に、私が最も驚いたのは、最初のツイートが発信されて僅か2時間でその暴挙に至ったことです。

 また、その番組では、若い女性が顔から下をすり替えられたポルノ画像をばらまかれ、回収不能の事態に陥ったこと、さらにそれを否定する内容の書き込みをしたら、逆にそれをフェイクにされるような状況になったという話もされていました。そうした、人を貶めるような内容→所謂「負の感情」に基づく情報の拡散は、一般的な内容のものと比べ、20倍もの速度で拡がるという研究成果も示されていました。

 まさに、誰もがSNSなどによって簡単に情報を発信することができる、今日のネット社会が抱える危険性について、深く考えせられる番組内容であったと思います。他方、日ごろ私達が目にする機会が最も多いといえるテレビはどうでしょうか。一例を挙げると、ともすれば誰かの失言やミスをあげつらい、あたかも正義の使者のごとく対象者をつるし上げようとする風潮が、益々顕著になりつつあります。

 私は、そのような風潮をワイドショー文化と呼んでいますが、井戸端会議の延長線上のような興味本位の視点から上辺だけの正義感が語られ、有無を言わさぬような雰囲気を醸し出すのが特徴です。また、そのことと、ネット社会における負の感情の急速な拡散の根底にあるものには、どこか共通する人間の持つ感覚があるように思われます。所謂、他人の不幸は蜜の味というような感覚でしょうか。

 そもそも人は、自分の聴きたいことしか聞こうとしない傾向があります。このことは、古来多くの人が指摘していますし、私自身の体験からも思うことです。とりわけ、経済を中心に格差が進み人々の心から余裕が減っていく社会では、何かの機会に手っ取り早く「悪者」というか攻撃対象を作り、容赦なく痛めつけることで自らの鬱屈を晴らそうとするような、いやぁな感じの風潮が色濃くなっていく気がします。

 本当に、情報が氾濫する現代社会では、その真贋を見極め正しく判断することが大切です。そのためには、ロジック(論理)とファクト(事実)に基づく分析が必要です。具体的には、複数の新聞やテレビの多様なニュースを見比べ、実態を自ら調べる習慣です。かつて、司馬遼太郎は小説「坂の上の雲」の中で、秋山好古をして弟真之に対し「己が無いものが読まなくて良い」といって新聞を取り上げさせました。

 私も、基本的に同感です。さらに、もう一言述べれば、ポストにお届けするような形式のSNSではなく、本屋か図書館の本のように、ここまで読みに来ていただかなければ読んで貰えない今の形で、これからも小欄は書き続けていきたいと考えています。



2020  3月  30日  キャピタリズムの行方




  いよいよ、新年度です。しかしながら、今年の桜は静かに満開を迎えようとしています。その背景には、人間社会の事情があるのですが、皮肉にも、その分妖艶さが増すような気がします。

 さて、まだまだ先が見えないのが、新型コロナウイルス感染症禍です。遂に、アメリカでも感染爆発がおこり、極めて高い致死率のイタリアをはじめ、欧米各地で猛威を振るっています。特効薬や、ワクチンの開発には、まだ相当の時間がかかると思います。小欄では、同じ話題について何度も繰り返し触れることはありませんでしたが、この度はそうもいきません。それだけ、現状は深刻な状況です。

 一方、公式行事をはじめとしてイベントや催し物などが、次々に中止や延期となっています。そのような状況下、ついに東京オリンピック・パラリンピックについて延期の方向性が示されました。そのこと自体は、現状や将来の方向性を見れば仕方がないことだと思います。しかしながら、コンディション調整やモチベーション維持など選手への負担や代表選考に関することなど、様々な問題が考えられます。

 また、チケットの扱いや運営に関すること、或いは、選手村の施設をオリンピック開催後にマンション分譲することなど、多方面に渡る経済的な影響も懸念されます。そもそも、東京オリンピック・パラリンピックの開催日程は、IOCに莫大な放映権料を支払うメディア(NBCは14年のソチ~32年夏までで1兆3000億円)の意向が強く投影され、7月下旬~8月初旬という過酷なものになっていました。

 この背景には、9月になるとアメリカのプロスポーツが相次いでシーズンインすることがあり、この時期を外したいというテレビ局の思惑が窺えます。因みに、放映権料はIOCの収益の約8割を占めるといわれ、ここでも経済力が発言力という構図です。とはいえ、オリンピックの中継などは誰もが見たいと思うのが人情です。スポンサーも競合するでしょうし、仕方がないといえば仕方のないことなのでしょう。

 まさに、何ごとも金が基本の人間社会ということでしょうか。他方、この頃ではキャッシュレスや電子マネーなど、現金や通貨に関するパラダイムシフトの動きがみられますが、経済が人間社会を動かしていることに異論を唱える人はいないと思います。そのような、経済への影響という視点から考えると、この度のコロナウイルスによるそれは、どれほど深刻なものになるのか想像さえつかない状況です。

 エコノミストは、口をそろえて「リーマンショックを超える」と警鐘を鳴らしていますが、いずれにしても、経済情勢の変動による影響をまともに受けるのは、いつの世も社会的には弱者といわれる人々に他なりません。そこで、私がいつも考えるのは資本主義と民主主義ということについてです。本来、資本主義社会を支えるものとして、民主主義が前提にあると考えるのが通常の考え方だと思います。

 ところが、金を持つ者が豊かになり続ける資本主義の発展の陰で、本来の民主主義の考え方であるはずの「一人ひとりが政治的に平等である」ことが担保され難くなっているのが、今日の社会情勢だと思います。例えば、かつてアメリカンドリームを実現した人の言葉に「社会に貢献するために豊かになる」というのがありましたが、今日、彼の国で目立つのは限られた人達による富の独占ばかりです。

 また我が国でも、メディアやネット環境を利用して巨額な利益を得た人が、誠に情けないお金の使い方をしているのを見かけます。情けない限りです。一方、どこが社会主義なのかと首をかしげたくなるような隣国の急激な経済発展を見るとき、まことに割り切れない感情にも直面します。とはいえ、資本を持つ者が持たないものを利用し、収益(収奪)するやり方は資本主義そのものなのかもしれません。

 そこに、政治的な支配が投影された影響なども見透かされますが、行われている経済活動は資本主義の形態であり、それにより世界ともとつながっている訳です。その成果として、目先の急激な経済発展がもたらされています。しかしながら、そのことによって民主主義の基本である、発言や行動の自由が制約されることに関しては、支配する側が巧みに目をそらさせているという図式ではないでしょうか。

 かつて、鄧小平路線を評してキッシンジャーが述べた「経済と政治のダブルスタンダードはあり得ない」という言葉が虚しく思い出されます。彼は、必ず内側から変革が起こると語りましたが、彼の国では天安門事件さえなかったことにされようとしています。一方で、民主主義をやっている筈の私達の社会も矛盾だらけです。今一度、民主主義の在り方と資本主義について、考え直す必要があるのだと思います。
 
 考えてみれば、人類が完璧な統治形態や政治システムを獲得した歴史もありません。また、限りある地球上で、「成長」し続けることを前提とした経済の考え方が本当に正しいのでしょうか。そのことも含めて、私たちは今一度考える直す必要があるのではないでしょうか。



2020  3月  16日        イムジン河




 早、お彼岸に入ります。依然、終息の気配が見えない新型コロナウイルス感染症の禍中ですが、今年もできるだけ時間を作って、縁のある人のお墓に足を運びたいとは考えています。

 本当に、新型ウイルスによる被害の拡大と、世界経済への影響は深刻な状況です。一方で、残念ながら、明確な終息の目途さえたたないのが現実でもあります。一日も、一刻も早く穏やかな日常が戻るように祈る気持ちは、誰もが同じだと思います。さて、一刻も早く元に戻れといえば、わが国の北方領土の問題と、朝鮮半島を二つに分けたまま停戦中となっている、北と南の問題が思い出されます。

 ところで、あの名曲イムジン河のモチーフとなっているのは、北と南の国境線(本来は軍事境界線ですが)付近を流れる臨津江です。韓国読みではイムジンガン・北朝鮮の読み方ではリムジンガンとなり、北と南で読み方も違うようです。韓国にあるオドゥ山(烏頭山)統一展望台付近で、漢江と合流した後黄海に注ぐ川です。この、オドゥ山統一展望台からは、北朝鮮領の様子を見ることができます。

 私も、何度かそこに立ち、彼の地の様子を眺めたことがあります。また、臨津江を少しさかのぼるとドラ山(都羅山)展望台というのがあり、一度だけですがそこにも訪れたことがあります。こちらは、民間人統制区域内にあるため、DMZ(非武装地帯)ツアーに参加しなければ行くことはできません。また、このツアーでは、まだ川幅の狭い臨津江を見ることができます(私の感覚では、100m位に感じました)。

 その時は、北に向かう京義線の都羅山駅にも行きましたので、陸続きにある国境の緊張感を肌で感じることができました。さらには、第三トンネル見学というのがあり、北朝鮮から越境して掘られたトンネル内を見学することもできました。ヘルメットをかぶり、トロッコ列車に乗って地下に降りて行きますが、よくもこれを人の手で掘ってきたなぁという驚きと、複雑な感慨が浮かんだことを思い出します。

 思えば、貴重な体験でした。展望台やトンネルの印象、同行した中国人ツアー客のマナーなど、たくさん思い出があります。それは、また別の機会に述べたいと思いますが、振り返ってみればそのような体験も「天啓」の一つのように感じることがあります。このことはいつも述べていることですが、私は天から与えられるようにして、見なければならないものや出会うべき人に巡り合ってきたのだと考えています。

 実際は、その時々に読みたい本を読み、聴きたい音楽を聴き、見たい映画を見るようにして、がむしゃらに知的好奇心を満たしてきただけのことです。が、ある程度年齢を重ねた頃、それらの繋がりによって自分が居るのだと考えるようになりました。例えば、小学生の頃孫基禎選手(日本人初のマラソン金メダリスト)を知り、中学になって発売禁止となったイムジン河を知ったこともその一つだと思っています。

 そして、フォークルのイムジン河の素晴らしさと発売禁止の経緯に触れ、さらには、発禁の悔しさから譜面を逆に辿ることでイメージを想起し、僅か3時間程で「悲しくてやりきれない」を作った加藤和彦の音楽的天才を知りました。一方、イムジン河がフォーククルセダースの曲になる経緯は知る人ぞ知るですが、この曲は元々北朝鮮で生まれた楽曲です。作者も北朝鮮の人で、本来の歌詞もありました。

 事の起こりは、京都において松山猛氏が、日ごろ喧嘩ばかりしている朝鮮高校にサッカーの試合を申し込みに行き、その帰りに合唱の練習のようなものを聴いて心を奪われ、それを加藤氏に伝えた(加藤和彦が譜面に起こした)ことが話の始まりです。しかし、松山氏が、朝鮮高校の友人の助けを借りて訳した一番だけでは、フォークルが演奏するには短く、松山氏が二番と三番の作詞をすることになります。

 実は、このことが発売禁止の理由の一つにもなります。前述したように、イムジン河には北朝鮮の作者がいる訳です。さらには、本来の詞には北の方が優れているという内容もあったようです。そのようなことで、発売元の東芝音楽工業に対し朝鮮総連から、謝罪と曲が北の唄であることや作者名の明示が求められたという話です(所説あります)。また、当時の社会情勢や、世の中の空気もあったと思います。
 
 しかし私は、この唄は日本で完成したものではないかと思っています。元々の、圧倒的なメロディーの存在感に、松山氏の素直な詞が絶妙に符合していると思います。もう少し言えば、二番の「誰が祖国を二つに~」や三番の「~虹よかかっておくれ」などは、当時の時代背景と北・南・在日というアイデンティティや葛藤を包むカオスの中で、少年松山猛の心の中に自然な形で抽出されたイメージだと思います。

 そして、私は、イムジン河が結果的に日本で完成したことに意味があると考えています。真の意味で、北と南を結ぶ唄になればと思いますし、それにふさわしい名曲であると思います。



2020  3月  2日       得も言われぬ気持ち




 3月になりました。気が付けば啓蟄といった感じですが、そもそも虫達に冬眠の必要があったのだろうか、などと、考えるような冬でした。今年の桜が、いつもより早く咲きすぎないことを願っています。

 ついに、学校まで休みになりました。どこまで拡がるのかという感じで、新型コロナウィルスに関するニュースが伝えられています。中には、信ぴょう性の薄いものやデマなどもあるようです。この薬が効くという、明確な治療法がない病気(それが新型ウィルスということになるのだと思いますが)への不安が、過剰とも思えるようなマスコミ報道や、信頼できない情報が溢れる結果を招くのだと思います。

 症状としては、倦怠感を覚え高熱が出ることもあり、肺炎を引き起こし死に至るケースがあるということです。それ自体は、所謂風邪やインフルエンザと同じような症状なのですが、問題なのは「新種」ということで、ワクチンや確立された治療法がないことです。ただ、通常のインフルエンザよりは致死率が低いといわれていますが、すでに国内でも感染ルートの特定できない感染者が報告され、死者も出ました。

 ここまでの情報を総合すれば、その症状や致死率を考えると、極端に恐れる必要はないように思います。一方で、特効薬がない以上、罹患すると死に至る危険性は拭えません。したがって、基本的な免疫力というのか、病気に対する抵抗力を高めるしかありません。また、なるべく人混みを避け外出時にはマスクをし、帰宅すれば良く手洗いをするというような予防策をとるしかないのだと思います。

 そもそも、ウィルスの発生源である、中国の対応や情報提供に関する様子をみていると、胡散臭さが拭えません。何よりも、我が国をはじめとする世界的な経済社会への、大きな影響が懸念されるところです。また、明確な根拠に依らず、差別や迫害が行われるような報道も聴きます。繰り返しになりますが、新興感染症という未知なるものへの恐怖が、世界中に混乱を招いていることに違いはありません。

 ところで、今回のような新興感染症の事例に遭遇すると、まず思い出されるのはアルベール・カミュのペストだと思います。自身が生まれたアルジェリアの港町を舞台にした、恐ろしい未知の疫病渦の中で苦闘する医師ベルナール・リウーを主人公とした、不条理をテーマとする小説です。私も、若い頃ですが異邦人及びシーシュポスの神話、そしてこのペストとへと引き込まれるようにカミュは読みました。

 本来、洋書ですから「原書にあたれ」という金言があります。しかし、翻訳されたものしか読めないのも事実です。一方、同書は宮崎峰雄という素晴らしい翻訳家を得ています。同氏は、文庫本(私の読書は基本的に文庫本です)では、解説も書いておられます。極めて、高度な価値規範や倫理観を考えるときの舞台として、新興感染症(同書ではペスト)によるパンデミックのような状況を設定したお話です。

 例えば宗教や哲学、そして政治的思想などのいずれによっても、解決し得ない不条理な状況下に置かれた時、人間が何を考えどのように動くのかということを、それぞれの分野や立場を象徴する登場人物を登場させ、さらには彼らの言動を通して、背景にある宗教・哲学・思想の矛盾と人間の資質による可能性を描いたものだと思います。人として、生きるべき方向性を示唆するような傑作だと思います。

 実は、私も二歳になるかならないかの頃、風邪をこじらせ肺炎を起こし(恐らく、インフルエンザだったのでしょう)町中の小児科医から匙を投げられる程の危機があった、と、聴かされています。折に触れ、結婚後十年にしてようやく授かった我が子を助けるために、「もがいた」と振り返る母の苦労話によると、季節は今頃かと思います(隙間風を防ぐため、粗末な家の壁に新聞紙で目張りをしたという話です)。

  幸いにも、吉井川の向うに親切なお医者さんがおられ「もし、この子がこれを飲めれば~」と大人が飲むような抗生剤を母に手渡してくれたそうです。薬名は定かではありませんが、ストレプトマイシンだと聴いています。また、当時の薬は、大人でも飲み辛いものであったとも聴いています。ともあれ、その薬を飲むと一気に症状が改善し熱も下がったという話で、結果的に今の私が存在する訳です。

 いずれにしても、「この子を何としても~」と必死に動いてくれた両親に感謝する他はありません。その一方で、期待を裏切り続けた若い日々(今もか)を申し訳なく思うことしきりです。また、年を重ねるほどに「後ろめたいことがなければ、恐ろしいものなどはない」と諭してくれた亡き父のことや、「得も言われぬ愛おしさ」というような人間らしい感情を育んでくれた、母に対する感謝の気持ちも深まります。

 ほぼ、無神論者の私ですが「天」のような概念は持っています。それは、出会う人、出会う本、出合う仕事…それらを通して何となく感じる概念ですが、この、不条理な世界を生きていても抱く概念です。



2020  2月  17日        存在感があれば




 逃げる㋁も、半分以上が過ぎました。本来は、雪になるはずの雨を横目に眺めながら、雑事に忙殺されていく口実を探す自分がいます。本当に、時の経つのは速いですね。

 さて、そのような多忙な日々を過ごす身にあっては、中々集中して本を読むこともできません。私にとっては、この「集中して」というのが極めて重要な要素でありまして、どうしても、一度ページをめくれば最後まで読み切ってしまいたくなってしまいます。したがって、ある程度まとまった時間が欲しくなる次第です。ともすれば、しなければならないことをぎりぎりまでうっちゃっておいて、文字を追うこともあります。

 そのようなこともあり、最近では気軽に活字が読める雑誌に手を伸ばす機会が多くなりました。コスパ的には、必ずしも良いとはいえませんが、主に週刊文春・新潮(二冊で880円)が近頃の私の情報ソースの一つとなっています。時折、文春砲などといわれることもありますが、スキャンダルばかりではなくコラム記事などには面白いものがあり、手軽に活字不足に対する欲求不満を解消してくれます。

 先頃、その週刊文春の中で人生相談を担当されていた伊集院静氏が、くも膜下出血で倒れたというニュースを耳にしました。突然のことで、非常に驚きました。実は、直木賞受賞作の受け月をはじめとして、海峡、機関車先生、遠い昨日、三年坂、オルゴール…ある程度は読ませていただいています。作品に関しては、生意気を承知で素直な感想を述べれば、強く惹かれるような印象は持っておりません。

 しかしながら、その見た目を含めた生き方に関しては、憧憬の念を抱く気持ちを禁じ得ないのです。なんといっても、寿司屋のカウンターで薔薇・檸檬などという漢字を書いて見せながら、あの、女優夏目雅子を口説いたというエピソードは、私に強いインパクトを与えました。その話を聞いたとき、改めて自らの危うい記憶をなぞりながら、書ける漢字を思い浮かべてみたりしたことを覚えています。

 その、夏目雅子が他界した後の数年間、ボストンバッグに現金を詰めて全国の競輪場を彷徨っていたという話なども、私にとっては、なんとなく心惹かれる部分となっています。また、伝説の雀士といわれる浅田哲也氏との交流や、ギャンブルに関するエピソードを挙げれば枚挙のいとまがなく、私自身が感情移入するような部分も多々あり、自然とシンパシーのような感情が湧き上がってきます。
 
 一方で、氏が若い頃家業を継ぐことを拒んだ頃、父親が大きな期待を寄せていた弟さんが高校生の時に亡くなり、大きなショックと喪失感を覚えたというエピソードもあります。私は、時々思うのですが、何か大きなものを手にする人は、それに匹敵するような大きなものを失っている(若しくは、得られない)ような気がします。例えば、裕次郎・イチロー・ひばりなどに実子がいないようなことです。

 私自身を振り返っても、本当に渇望したもの(欲しかったもの)は得られなかったものの中にあるような気もします。そして、誰だって清く正しく立派に生きているわけではないのだということ、さらには、そのように生きていても、拘ることや貫くべきことはあるのだということを、さりげなく感じさせてくれる人でもありました(倒れたたという報道以外に、詳細がわからないのに失礼な書き方ですが)。

 他方、氏は数々の浮名を流したことでも知られています。誤解を恐れずにいえば、私は異性にもてない奴に面白いものはかけない~などと思うところもありまして、ついつい、女にもててなんぼだろ~などと嘯く氏の発言に同調してしまいます。実際、そのように好き嫌いの好みは割とはっきりしているので、文春のコラムの中では、特定の有名な女性作家のページは読んだことがありません。

 また、もてるもてないというような視点からいえば、伊集院氏は圧倒的な存在感を備えているのだと思います。一方で、レイシズムとかディスクリミネーションなどという大仰な話でなくても、出自についてあれこれ言いたがる人はいるものです。例えば、伊集院氏が在日の人であることは誰もが知っていることだと思いますが、氏の持つ圧倒的な存在感もあり、出自をあげつらう話はききません。
 
 そんなところにも、私の中にシンパシーが湧く理由があるのかと思う時があります。氏と同じ頃、下関の遊郭街の一角で韓国籍の母親から非嫡出子として生まれたのが松田優作です。この人にも、圧倒的な存在感がありましたが、出自をとやかく言う人も見受けません。そんな妙な思い入れからか、かつて防府競輪場から花街の跡を一人で歩き、若い日の優作や伊集院静に思いを馳せた記憶もあります。

 圧倒的でなくても、それなりの存在感を備え、周りを気にせずに生きていきたいとは思います。



2020  2月  4日    人さえ良ければ




 立春を迎えました。それにしても、記録的な暖冬です。節気とは裏腹に、2月になってからようやく訪れた寒波に、一際寒さが実感させられるような気がします。

 ところで、紆余曲折を経て現在の小欄はほぼ二週間に一度更新する形にしています。とはいえ、書くことがなければキーボードをたたきませんし、私のスケジュールの都合でずれることもあります。一方で、それが私のペースだとも思っています。今回、冒頭の書き出しを綴りながらふと思ったのですが、この二週間に一度というペースは暦の二十四節気とほぼ重なることになります。

 ここでいう暦は、もちろん旧暦です。本来は、太陰暦による季節とのずれと無関係に一年を二十四等分し、農事暦として用いるために考えられたものだと思います。いずれにしても、元々中国でできたものですから日本の気候にピッタリマッチングしないのですが、とかく「暦のうえでは~」という表現がもちいられるように、季節を語る上では我々の生活に馴染んだものではあります。

 また、一年を春夏秋冬という大きな節に区分するという意味において、日本人の情緒感に馴染み根付いているものだと思います。実際、立春・立夏・立秋・立冬という大きな季節の変わり目を節分というわけですが、例えば立春の節分に豆まきをする慣習など、私たちには馴染みの深いものであると思います。さらにいえば、旬を楽しむような微妙な季節感を味わえるものでもあります。

 さて、その旧暦では立春を迎えようとする先月末に、大分県の豊後高田市を訪れ教育のまちづくり等に関する視察・研修をする機会がありました。そこで、九州とはいえ春先のような強く暖かい風に吹かれて、なんとなく薄気味悪い感覚を覚えました。巷では、地球温暖化の話題がマスコミで喧しく取り上げられていますが、視察の時に感じた生暖かい強風の体感は否応なしにそれを実感させられました。

 一方で、正義の使者のごとく喧伝し警鐘を鳴らすマスコミ関係者が、何かそのために積極的な行動をしたという話も聴かないなぁ、などと、自らが抱えている後ろめたい気持ちをうっちゃろうとする自分がいることも、実は自分が一番よく解っていることではあります。などと、技術士論文では最もやってはいけない冗長な表現をしてしまいました。とはいえ、思いつくままに気持ちを述べるとそのようになります。

 他方、私はそのような婉曲な表現ができるところにも、日本語の良さがあるのだと考えています。曖昧な言語などといわれることもありますが、私は日本語が好きです。もちろん、的確に他者に要点を伝えるための文章と、徒然に思いを綴る文章に違いがあるのは当然なことでもあります。TPOに合わせ、必要な表現を用いることが肝要であることは、改めていうまでもないことでしょう。

 そのうえで私の希望をいえば、その日本語を通してきちんと言葉の通じ合う人とだけ関わっていたいというのが本音です。ここでいう「通じる」の意味は、多分に価値観や情緒感という要素に依拠しているような気がします。したがって、厳密にいえば日本語そのものへの造詣にはあまり関係ないのかもしれません。これも、婉曲に表現していますが、簡単に言えば人間性を求めているということに他なりません。

 つい先日、そのような意味からいえば本当にありがたい集いを行うことができました。それは、きちんと言葉が通い合いお互いをいたわりあえるような人達による集まりでした。もちろん、前回小欄で述べた、私が敬愛している先輩や先達の方々も顔を見せていただきました。ともすれば、わけのわからない理不尽な振舞などに遭遇しうんざりすることの多い日常の中で、ひと時癒される時間を持てました。

 本来、私は群れを作ったり徒党を組むようなことは好きではありません。特に、一時の欲望や感情の高まりによって、他者を陥れようとするような行動や結びつきには嫌悪感さえ覚えます。しかしながら、厚顔無恥に私欲を貪るような考え方も一つの考え方なら、類が友を呼び徒党を組むことがあるのが現実です。時として、無理が通れば道理が引っ込むようなこともあり、残念ではすまないこともあります。

 だからこそ、良い子どもを育て良い大人になってもらうような、気の長い取り組みを続けているわけなのですが、志を持ち続けることも中々大変です。一方で、長野県で見たような住民自治に取り組む人たちの意識の高さや、先日の豊後高田における人材育成の取り組みの成果などを見るとき、何をするにも人間がよくなければなぁ~と心から思います。

 豊後高田市の隣の宇佐市には、全国の八幡神社の総本社宇佐神宮があります。和気清麻呂がご宣託を得た故事や、八幡太郎義家のことを思いながら参拝しました。故人に倣い、筋を通していきたいと思います。



2020  1月  20日  まともでありつづけよう




 大寒です。昔と比べて、随分暖かい印象です。今年も、膨張し続ける人類の欲望と限りある地球との相克(地球の思いは解りませんが)を憂いながらも、目先の雑事をこなす日々なのかもしれません。

 本当に、そうですね。これまでにも、地球環境を憂うような言葉を述べながらも、自らの生活すら一向に改められないことを嘆いてきました。それでも、蛇口の捻り方や電気機器の使い方など…暮らしぶりは以前と随分変わってきたようにも思います。これもまた、目の前のこと(できること)を一つ一つやっていくということなのかもしれません。いずれにしても、昨日の自分よりは向上したいと願うばかりです。

 また、そのような多忙で流される日々の中においても、良いことや悪いことに遭遇するのが人生でもあります。私の場合、基本的には性善説を信じさせてくれる仲間に囲まれ、自らが信じる筋を通す生き方を貫かせてもらっています。しかしながら、智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ~という漱石の草枕ではありませんが、筋を通して生きるのは楽ではありません。

 まず、公益を第一に考え筋を通す~というような生き方は、邪な考えを持つ人や私利私欲を価値規範としているような人には、受け入れられないものでもあります。何よりも、理解できないのではないかと思います。そのような意味からいえば、最近大変残念なことがありました。私個人の立場も関係していますので詳細は省きますが、地域の住民自治を考えれば大きな懸念が残りました。

 もちろん、私自身に関して言えば、何ら恥じるところもなく後ろめたいこともありませんので、これまで通り自らにできることを考え、少しでも世の中の役に立つ生き方を模索していこうと思っています。幸い、私の周りにはそのような私の考えを理解し、また、そのうえで共鳴し支援してくれる仲間がたくさんいます。また、その中には心から尊敬できる人生の先輩方の存在もあります。

 例えば、いつも小欄や議会報告に目を通していただき言葉をかけていただく人は、私より一回り年長ですがその体形は何年経っても変わりません。日々の節制や鍛錬が偲ばれます。またその努力は、私などが推し量れるようなものではないと思います。一方、共に地域住民自治活動に携わっていただいている施設長の人や、同じく私の高校の先輩でもある方々にも、只々頭が下がるばかりです。

 さらには、声の大きな人や前代的な地域の人間関係を恐れ、尻込みする人が多い中、火中に栗を拾う形で後ろ盾となっていただいた先生や先達の方々など、私には多くの敬愛すべき人がいるのだと思います。また、あの池江選手よりもずうっと前に「天は、越えられない試練は与えない」と励ましていただいた方は、実は、私よりもはるかに過酷な体験と状況を超えて、その言葉をくれた人でもありました。

 他方、私は常々「人さえ良ければ~」という話をしますが、そのような、人を育てるという視点に立てば、教育は熱伝導であると考えています。そのような意味からいえば、私の周りには教育者としての、熱い魂や思いを備えた人が幾人もおられることに気づきます。また、この度その中の代表的な先生に、我が陣営の重責を担っていただくことも決まりました。本当に、ありがたいことだと思っています。

 少し話はそれますが、ここまで敬愛する人達に触れてきました。そこで、ふと考えると漱石を敬愛した龍之介、さらには、その龍之介の名を冠した芥川賞の受賞を懇願した太宰へと、先駆者を敬愛する流れは繋がっていたりもします。残念ながら、今述べた超天才的感性の繋がりは、自死という不幸な流れも受け継いでいます。それも、天才の宿命なのかもしれませんが、生きることも過酷です。

 ところで、これもいつも述べていることですが、私は、ビジネス書やハウトゥー本はまず読みません。また、流行りの本もあまり読みません。一方で、先ほどの三作家をはじめ周五郎・谷崎・三島・司馬・吉川…先人の著書には良く手を伸ばします。それは、これまで読めなかったものもありますし、かつて読んだものもあります。概していうならば、良いものは時を経ても読む価値があるなぁと思います。

 最近では、芥川龍之介の河童・或阿呆の一生・歯車などが入った文庫本を読みました。いずれも、短い芥川の人生の、そのまた最終章と呼ぶべき頃の心象風景に迫る秀作ばかりだと思います。中には、かつて読んで理解できなかったものもありますが、鋭敏すぎる感性を持って生まれた天才の悩みや葛藤について、木漏れ日のように頼りなくではありますが、理解し共鳴する自分がおりました。

 三島由紀夫もそうですが、感性が鋭敏で綺麗な人たちには、この人の世はいつの時代も住み辛いのかもしれませんね。それでも、汚くはなれない人間であり続けたいと思っています。

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