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これまでのコラムが納めてあります。
※バックナンバーはNO.1~NO47です。できれば、通してお読みください。
  (根底に流れるものを、くみ取っていただけると思います)
                    

                         

               2021年6月議会一般質問          夏の終わりの夕景(岡山市)      熊本市桜町バスセンタービル         

NO.46          

2021   11月 1日 秋深し、行間に思いを




 11月です。めっきり涼しくなりました。本当の理由は解らないまま第5波が収まった今、少しでも滞っていたいた旧交を温めたいと願いますが、既に宴の形も様変わりしてしまいました。

 さて、ほぼ4年ぶりとなった衆議院議員選挙が終わりました。選挙結果に関していえば、マスコミの予想が当たった部分とそうでない部分があったと思います。まず、自民党の議席減は予想を下回り、単独で絶対安定多数(17の委員会すべてに委員長を出したうえで、過半数の委員を確保できる→261議席)を獲得しました。これは、230議席前後を基本としていたマスコミ各社の予想を覆すものです。

 このことと連動して、野党共闘を目論んだ立憲民主党の躍進は見られず、逆に14議席減らすことになりました。シンプルに考えて、例え限定的(政権を獲得すれば、閣外から限定的に共産党は協力するというような)であっても、国家観や基本政策が異なる共産党との協力は有権者からの理解を得辛いものであったのだと思います。そもそも、候補者に不安と戸惑いを与えていたように思います。

 一方、史上初といわれていますが、現職の自民党幹事長が選挙区で落選するようなこともありました。このことは、政治への無関心に対する警鐘が鳴らされる今日において、市民の目がまったく節穴ではなかったことの証明ともいえるでしょう。さらには、客寄せプロダクションが解散した自民党の派閥領袖、東北で無敗を続けて来た剛腕政治家など、大物の落選(比例復活もありますが)が相次ぎました。

 他方、大阪での勢いが全国に波及した感がある、日本維新の会の躍進も見られました。特に大阪では、先の都構想に対する自民党の反対への府民の評価が、顕著に表れたともいえるでしょう。既に、代表ではありませんが、どこかのテレビ局の選挙番組で宗教法人の優遇税制の見直しや、20年も党首をやっていることに対する批判を、当人にズバリ糺していた橋本氏の発言は痛快な感じさえしました。

 総体的に見れば、まずこのようなところかなと思う結果であったと思います。そして、市民(有権者)は意外と見ているものだなぁと思うところもありました。それは、既に長い間捻じれ状態が続いている岡山第3選挙区における動きと、選挙結果からもいえることです。色々な人が夫々の思惑で動くのが選挙ですから、ことの是非を含め詳細を語る必要もありませんが、情けないエピソードも色々目にしました。

 そのようなことを含めて、見ている人は見ている~という思いを再確認させられました。沸々と、人の振り見て我が振り直すという気持ちが強く湧き上がってきました。まさに、他山の石として~というところでしょうか。ところで、この他山の石に関しては寺田寅彦が「科学者の文学観は少数なので、他山の石の石くずぐらいにはなるかもしれないというのが、自分への申し訳である」と著書で述べています。

 自然科学者でありながら、文学への造詣も深い寺田は多くの著作を残しています。また、以前小欄でも述べた「教科書名短編」シリーズには、科学随筆集として「科学者とあたま」他6編が収められています。冒頭の、科学者とあたまでは、「科学者はあたまがよくなくてはいけない」という一般的な命題も本当であるが、「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」という持つべき姿勢について述べています。

 このことは、以前述べた「器用な子は名人になれない」という西岡常一の言葉にも通じるところがあり、科学者として持つべき姿勢が巧みに示唆されたものだと思います。他の6編は、日常における自然界の動植物に対する鋭い観察眼と、柔軟な発想に基づく随筆でした。面白く、頷きながら読みました。それは、これから学問を通して技術や研究に興味を持とうとする人達への、福音の書のような気がしました。

 そもそも、教科書名短編という本に収められているのですから、何れかの場面で教科書に載っていたのだと思います。このシリーズでは、湯川秀樹の「具象以前」など、私の記憶に甦る作品が幾つも出てくるので愉しく読ませてもらっています。一方で、寺田寅彦の随筆からも汲み取れることですが、本書に掲載された人達における、人間が物事を考えるときの意義や姿勢に関する共通した理念を感じます。

 私は、技術士論文の添削指導にあたって「技術者こそ文芸書を~」と何人かにアドバイスしたことがあります。それは、自身の経験を通して自然に出た言葉ですが、年齢を重ねて感じることは的外れなアドバイスではなかった~という思いです。行間を通して、「世の中の役に立つものづくり」という志を効果的に伝えるために、専門書だけでなく文芸書に親しむ必要があるのだと考えています。

 また、このことも繰り返し述べていますが、その文芸書は流行りの本でなくても良いのだと思います。むしろ、文庫本になるくらいのものの方が面白くためになる場合が多いのではないでしょうか。

 

2021   10 月 18日  大切な人の声は心に




 10月も、半ば過ぎました。日に日に、秋は深まり行きます。花粉症持ちだから…ということばかりでなく、秋は一番好きな季節です。もっとも、生かされている身に季節の選り好みは許されないことかも。

 さて、このコロナ禍で一番変わったことといえば、多くの人が集まることができないことによる、セレモニーの簡素化ではないでしょうか。また、冠婚葬祭の中では、葬儀についての簡素化がかなり定着した印象です。具体的には、家族葬という名の葬儀のやり方が極めて多くなりました。その理由として、コロナ禍におけるソーシャルディスタンスの確保や、密集を避けるという意味があるのだと思います。

 一方で、この家族葬で~という風潮が定着していく理由には、新型コロナウイルス感染症対策だけでなく、私達の生活様式の変化というのか、これまで行われて来た付き合いを簡略化したいという思いが潜んでいるように思います。当たり前のことですが、地域や親戚、或いは交友関係のある方から寄せられるお悔やみや香典については、いただいた方のご不幸があればお返しすることになります。

 しかしながら、少子・高齢化が急激に進む我が国の社会では、後継者問題もあり、その努めを継承していける保証はありません。そうしたことを背景に、近年、弔問をお断りし家族のみで葬儀を済ませる傾向は強まり続けていました。そして、この度のコロナ禍によってその傾向が一層進んだ気がしますが、人間同士の付き合いが疎遠に(浅く・薄く)なっていくことについては、少し寂しい気持ちも湧いてきます。
 
 ところで、このような風潮で困ることは、家族葬といいながら香典は受け付けるとか、或いは訪れる人は拒まないという場合があるということです。もっとも、このことは、遺族だけでは中々判断がつかないことも容易に想像できます。したがって、通夜から葬儀の慌ただしさの中で、徹底が図れないこともあるようです。そもそも、葬儀のあり方や形態などを念頭に置きつつ、生活している人は少ないでしょう。

 いずれにしても、縁のある人や大切な人との別れは突然に訪れるものです。そして、それがいつか来ることは知っているつもりでも、やるせない哀しみを伴うものでもあります。つい最近も、秋風に誘われるように、私にとって縁の濃い人達が何人か先立たれました。中でも、恩師の奥様の訃報を聴いた時には、大きな衝撃を受けることになりました。本当に、予期せぬ出来事でした。

 確か、恩師の一周忌の頃(約半年前)にお目にかかり、先生の好きだった果物をお供えして思い出話をさせていただいたばかりであったと思います。奥様も、かつては教職に就いておられたので、私は〇〇子先生と名前で呼ばせていただいておりました。かつて私が、若輩ながら自治会活動に取り組むようになり、ご主人である恩師の先生とご縁をいただいたことにより、同様のご厚情をいただきました。

 奥様からは、折に触れ本当に暖かい言葉や励ましをいただきました。特に、歴史や文学に関して、色々なことを教えていただきました。失礼を省みず形容すれば、どこか文学少女の面影を残されたような雰囲気を漂わせたひとでした。優しい眼差しで、語られる表情が今も残ります。また、言葉にすれば軽くなってしまいますが、先に亡くなられた先生が呼び寄せられたような気もしています。

 それほど、生前中の恩師ご夫妻は、お互いへの敬意と固い結びつきを感じさせるお二人であったと思います。そういえば、去年の夏我が家の窓辺に蛍が単身訪れ、名残惜しそうに飛んで行ったお話を奥様にしたことがありますが、「それは、間違いなく主人ですよ」と、私の思惑を確信として裏付けていただきました。それは、言葉では上手く言えませんが、とても心が癒される一時でもありました。

 お互いの中に、大切な人の姿を共有することができた瞬間であったと思います。私の生涯において、忘れることのできない御恩と有難い思い出を与えてくれた人が、また一人先立たれていきました。心から、ご冥福をお祈りいたします。一方で、忙しくささくれた日常を過ごす私達は、縁ある人や大切な人の死に接するまで、先程述べたようなことさえ思い出せないことを改めて痛感しています。

 現実は、本当に情けなくなるような光景に遭遇することばかりです。それでも、人さえ良ければ~という思いについて、そして日本人の精神性について、飽きることなく語り続けるしかできないのかもしれません。結果的に、マンネリ化を指摘され、厭世的な精神の背景をご心配いただくこともあります。それはそれで、本当に有難いことだと考えています。またそれは、小欄を読んだからこその指摘です。

 考えてみれば、根底に流れるものが同じなので、マンネリ化してしまうことは否定できません。それでも、その時の心象風景に基づき、素直な気持ちを述べ続けたいと考えています。




2021   10 月 3日 吟味して見極める大切さ




 早くも10月です。先日は、自民党の新たな総裁も決まりました。予想通りという人も、予想を裏切られた人も、本当に注目すべきは何が変わって何が変わらないのかということだと思います。

 ところで、今回の総裁選の経緯を見ておりますと、改めてメディアによる情報提供のあり方や影響について考えさせられました。簡単にいえば、テレビのワイドショー番組などの分析や結果予想が、実際の総裁選に大きな影響を与えることや、民意(実際は自民党員の意思ですが)が反映された結果にはならない選挙のやり方への疑問も感じました。また、「民意」そのものについても考えさせらることになりました。

 今の社会では、ネットやSNSをはじめとする多様な情報ソースがあります。しかしながら、今回の自民党総裁選や間もなく行われる衆議院議員選挙などに際しては、テレビを中心にした以前からあるメディアの影響力が大きいことに変わりないように思います。特に、テレビの持つ力は大きく、そこでの情報分析や評価が、立候補している人の振舞や有権者の投票行動に大きく影響するのだと思います。

 実際、情報番組やワイドショーなどによって何度も行われた討論会や質疑の様子をみて、世論が影響され変化していく様子を見ました。そこには、時代と共に解像度が上がるテレビ画面を通して、候補者の様子や対応力が視聴者によりリアルに伝わる傾向は強くなっています。結果的に、そのことが見ている人の判断に影響する度合いも強くなっていきます。そこで、見逃せないのがその場の雰囲気です。

 この「雰囲気」というものは、番組を制作しているテレビ局や司会者等の出演者による思惑が投影されて出来上がります。本来、公正中立が報道機関が持つべき基本的なスタンスである筈ですが、夫々の思惑が微妙に投影され、異なった印象を与えることも事実です。そうした意味からいえば、余分な演出効果を排除して、候補者の持つ政治理念や考えている施策を十分聴けるような報道を期待します。
 
 ところが、実際は中々そのようにはなりません。また、視聴率を意識した面白いものにしようとする傾向も否めないものです。いずれにしても、多くの人々がテレビによる影響を強く受け、投票行動をとることに変わりはないと思います。他方、ネットを中心とした情報伝達によって、世論が形成されていくことも多くなりました。そこで私が感じる懸念は、噂話的な情報が驚くほどの速さで一気に拡散していくことです。

 巷の噂話もそうですが、よく確かめないままに無責任な感想を付け加えて噂話を広げる人は、以外に多いものです。それが、誤ったものであっても、人々の興味を引くものであれば一気に広がってしまいます。本来、手にした情報はしっかり吟味したうえで、自分の中で咀嚼してから意見を述べる必要があります。しかしながら、ネット社会における情報伝達では一層省略されがちで、危うさを強く感じます。

 一方、このことはテレビなどの報道でも同様ですが、情報の送り手側における信用の担保と倫理的な資質の維持・向上は不可欠であり、強く求められることです。この部分については、匿名で容易に情報を発信できるSNSなどのネットメディアのほうが、より緩みがちになることは事実です。その背景には、先ほど述べた面白さが優先され、興味本位になりやすいという宿命があるのだと思います。

 そのような成り立ちや発信の動機を内包しながら、現代社会におけるネットメディアの影響力は膨らみ続けています。そんな中、影響力のある人による誤った発言や特別な意図を持った発言が、多くの人の心情に影響を与え、噂話的な情報が拡がってしまう場面はよく見かけられます。結果的に、深刻な被害者を出すことに繋がるくケースもあります。多くの場合、そうしたダメージの修復は非常に困難です。

 よく、奔放な発言をする人が、間違えたら直ちに修正すれば良いとか、誤れば良いなどと発言するのを見かけますが、実際にはそれで大きなダメージを修復することはできません。人間の心理として、刻まれたマイナスの印象を書き換えるのは容易ではないからです。その一方で、政治絡みでは他者を貶めることを目的とする、悪意ある情報の利用や拡散が行われる場面を見かけることもよくあります。

 そのような人達は、先程の「誤りは~」という言葉を巧みに使い、過ぎたことには知らん顔です。しかし、公に向かって発言する際には、モラルや品位の確保が大切です。当然ながら、自由に発言する権利は尊重されるべきですが、悪意に基づき巧みに印象操作を狙うようなやり方は厳に慎むべきであると思います。一方で、そんな行為をする人を「やり手」と評価するような空気にも強い違和感を覚えます。

 ところで、先日新聞を広げて呉の高炉の火が消える~というニュースを見ました。例えばこのような記事は、ネットでは見つけづらいものです。情報には、提供する側の資質が大きく影響し、大切だなぁと思いました。そして、受け取る側の取捨選択し咀嚼できる能力を磨き続ける努力も大切だと思います。



2021   9 月 22日 難しいことを簡単に




 中秋の名月、今年は本当に綺麗に見えました。お彼岸を迎え、この前まで使っていた「暑いね」という挨拶代わりの言葉も、使うことがなくなってきました。大まかな季節の流れは、まだ生きているようです。

 さて、彼岸の入りにふさわしい秋晴れの一日、縁の人の眠るお墓にお参りをしてきました。有難い一時でした。考えてみると、秋のお彼岸はお盆から間がないので、ついこの前訪れたばかりのような気がしてしまいます。しかしながら、汗を拭きながらであったお盆の時とは、明らかに趣は異なります。改めて、この国には四季の移ろいに合わせた行事が、巧みにちりばめられているということに気付かされます。

 それは、山や海に神を見出すアニミズムから始まり、海を渡ってくる多様な宗教を上手く咀嚼しながら寛容に受け入れて、高い精神性を築き上げてきたこの国の先達たちが育んできた営みでもあります。振り返れば、私はその大切さを訴えるために小欄を綴り続けて来たのだと思います。また、心の有り様の大切さに関しても繰り返し述べてきました。気が付けば、20年の歳月が過ぎようとしています。

 当初は、自らの体験(情報収集や受験指導など支援者・組織が少なく苦労した)から技術士受験の支援に主眼をおいて当HPを立ち上げました。しかしながら、取り組んでいるうちに一つの疑念が湧いてきました。それは、無条件に誰でも支援することに対する疑念です。実際に、単に受験の為の情報を効率よく集め、受験テクニックだけを要領よく得ようとする人に遭遇する体験をしたからです。

 丁度その頃、恩師から「顔も見ずにやるのか~」という言葉をいただく機会がありました。また、手伝ってくれる仲間達の考え方も同じようなものがありました。そうした中で、私の思いは「志を備えた人」を支援するべきであるという考え方に収斂されて行きました。また、私がそのようにして日本人の精神性に言及するようになったのは偶然ではなく、何かに導かれるような必然的な流れであったとも思っています。

 元々、闇雲に読み散らかしてきた(まさに、そのような感覚です)読書の中で哲学や宗教などに興味を持ち、心や魂というような形而上的なものを考えたがる癖は少年時代からあったと思います。したがって、時期を限って言えば偏ったものに傾倒している時期もあったのだと思います。上手く言えませんが、色々やっていると自然に余分なものが淘汰されて、一つの方向に収斂されるような気がします。

 その一つの方向性が、繰り返し述べている日本人の精神性というようなことではないかと思います。ところで、精神性などというとその言葉だけを捉えて嫌悪感を示す人もいます。そのことは、河合隼雄をはじめとする私が尊敬する先達でさえ口にされています。もちろん、それはあの戦争に突き進んでいく過程において、この国に溢れていた「精神性」というフレーズを指しての発言だと思います。

 一方で、それらの先達は所謂良い意味でも、日本人の精神性について語っています。それが、多様な宗教や考え方を寛容に受け入れ咀嚼したうえで高い文化を作り上げて来た、この国において培われて来た精神性という意味だと思います。私自身、齢を重ねていくほどそうした考え方に対する思い入れは、深まり続けています。また、必然的に生き方にもそのような考え方は投影されて行きます。
 
 他方、人は自分のききたいことしか聞かない~というカエサルの格言も齢と共に腑に落ちていきます。したがって、若い頃のように自ら進んで語りかけることは少なくなりました。ところが、たまに思いがけない人から共鳴する言葉を聴く機会があります。つい最近も、まったく予期していない形で、ある人と歴史・哲学・宗教などについて、踏み込んで意見交換をする機会を得ました。愉しい一時でした。

 その理由の一つは、お互いに河合隼雄に対する敬意を持っているという点にあったと思います。差しさわりがありますので詳細には述べられませんが、「難しいことを簡単に説いてくれる」という点において大いに共感しました。本当に、言語として学習するには極めて難解なことであるはずなのに、この人の書物を読むことにより、さらには講演をきくことによって、すうっと腑に落ちるのが不思議です。

 有難いことに、今日ではユーチューブで色々なものがみられ、この頃私が繰り返し見るものの一つが河合先生の講演などの動画です。訥々とした語りの中に、深い意味を解りやすく伝える力が込められています。それは、まさに滋味深い語りです。実は、その「難しいことを解りやすく」伝える力こそ、技術士に求められる能力なのです。多くの受験者が、最初に陥りやすい勘違いの元でもあります。

 ユーチューブでは、京大教授として最後の講義をする皆藤教授の動画も見られます。随所に登場する河合隼雄エピソードが、改めてその凄さを感じさせてくれます。個人的には、初めて口頭試験に赴いた東京駅新幹線ホームでの偶然の出会いの記憶が鮮やかに蘇ります。振り返れば、有難いことでした。



2021   9 月 6日    遠い記憶




 9月になりました。まだまだ蒸し暑さは残りますが、「目にはさやかに見えねども~」という秋の風の気配は感じました。早くも一年の三分の二が終わり、時の流れの速さと、その大切さを噛みしめています。

 世の中は、一寸先は闇という言葉の通り、時の総理が総裁選に出馬しないと表明するなど、何が起こるか解りません。未だ終息が見えないコロナ禍への対応に専念するという理由ですが、それならば、今までは何をしていたのか~ということになってしまいます。とはいえ、本日が議会における一般質問初日です。私も登壇しますので、中央の大きな話題に突っ込んでいる閑もありません。

 一方、予断は許しませんが、緊急事態宣言発出後は岡山県自体の新規感染者数は減少傾向になりました。他方、私が住んでいる津山市はクラスターなどもあり、中々沈静化が確認できない状況でもあります。このことに、因果関係があるのかどうか解りませんが、概ね岡山市の方での新規感染者数が減少し始めると、本市におけるその数が増え始めるというのが、私が感じているこれまでの傾向です。

 いずれにしても、緊急事態宣言の延長とならないように祈るしかありません。さて、前回は小松左京の復活の日に触れました。構想・設定・ディテールなど、本当に筆者の卓越した力量を感じさせる作品でした。この手の作品では、あまり内容に言及するとネタバレして迷惑が掛かりますので、詳細は語りませんが時を感じさせない、というか、時を経ても大変面白い小説であったと思います。

 この、時を経ても~というのが私の読書の一つのキーワードでもあります。私は、良い本は時を経ても
読み継がれるものであると考えています。したがって、書店で手にするのは殆どが文庫本です。そこには、単にコストが安いという理由もあったのですが、最近では随分値段が高くなりました。つい先日も、面白そうなので手にした文庫が一冊700円+消費税でした。どうしても、違和感を覚えてしまいます。

 結局、その一冊が面白かったので、最終的にはシリーズで出されている残り二巻を注文して手に入れたのですが、230ページの文庫本が770円するというのは、昭和30年代生まれの身には違和感があります。その本は「教科書 名短編」という名のシリーズもので、現在第三巻まで発刊されています(私の知るところでは)。著名な作家の「いつか読んだような~」珠玉の短編が収められています。

 まず、司馬遼太郎の「無名の人」「ある情熱」から始まり、それから森鴎外の「最後の一句」「高瀬舟」と続く第一巻から、五木寛之の「私が哀号と呟くとき」向田邦子の「字のない葉書」「ごはん」で終わる第三巻まで、感動的な作品がたくさん収められています。何度も胸が熱くなり、涙腺を刺激される場面も多々ありました。また、もう一度読みかえしたくなるような作品ばかりでもありました。

 そして読書に関しては、私のような「一気に読み終えてしまいたい症候群」の人間であっても、作者ごとに短い作品が区切られていることが有難いことでもあります。実際には、手にしたとたんに一気に読んでしまいましたが、先程も述べましたように「また、読みかえしてみよう」を思わされる作品の数々は、僅かな時間しかない時の拠り所として、有難いものになることを予感させてくれます。

 他方、考えてみると人にはいつか見た、或いはいつか聞いたというような、情緒感を形成する過程で体験してきた記憶がとても大切なのだと思います。またその記憶には、匂いや触感などというものもあると思います。先程の、教科書~という響きにはそんな意味合いもあります。件の本が、何故か私の琴線に触れるのは、そのような遠い記憶とオーバーラップするという部分があるのかもしれません。

 振り返れば、私もある程度の書籍に親しんできましたが、基本的な情緒感が養われるころに読んだ文章の多くが、小学生や中学生の時に読んだ教科書の中に収められていたような記憶が蘇ります。そして、その記憶と同時に、先程述べた五感をはじめとする様々な感覚が一緒に甦ってきます。そうした、頭の中で行われる作業というのかプロセスが、澱んでいた感性を浄化する作用があるように思います。

  今更ですが、ほんの少しでも書物に親しめる下地を植え付けてくれたことに対して、両親に感謝したい気持ちが湧いてきます。とはいえ、私の場合は、そこに現実逃避や頭でっかちな邪な思惑も加味されてはおりましたが。藤原正彦先生ではありませんが「英語より、まず日本語でしょ」と思える感性は比較的早い時期から養われていたと思います。とにかく、日本語が好きなことに変わりはありません。

 昔、ようやくサンタクロースが訪れだしたころ、枕元に置かれていた曽我兄弟の仇討ち物語を恨んだ少年は、いつしか本好きの大人(爺)になりました。厳しかった父の優しさを、遠い記憶の中に探る秋です。




2021   8 月 23日    復活の日




 岡山県は、再び「まん延防止等重点措置」対象地域となりました。誰もが容易に、旧盆絡みの人流増加は想定できたはずです。しかし、多くの人の想像通り、感染者数は急増しました。

 一方で、私を含めて本当に多くの人々がその兆候が見えてから今日まで、これほど長期間に渡ってこのウイルスによる災禍が続くとは思っていなかったのではないでしょうか。依然として、コロナ禍と名付けられたこの災禍による混迷の度合いは、深まるばかりです。また、これまでの世界情勢の中における我が国の対応やそこから垣間見える国情を知る度に、私の中に虚しい気持ちが募ります。

 振り返れば、私達の世代は高度経済成長が終焉を迎える辺りに幼少期を過ごしました。ところで、丁度高校受験の頃にオイルショックに遭遇するという点において、一学年上の世代とも一学年下の世代とも、微妙なジェネレーションギャップがあると感じています。また、良きにしろ悪しきにしろ団塊の世代から続いてきた、熱いエネルギーを内包した伝統的縦社会が一気に変容していく様子も見てきました。

 つまり、私達は前代から培われた「みて解らん奴に教えても解るか…」という、いわば現場や日常生活の場面で当然のようにこの国に充満していた価値観を当たり前のようにたたきこまれ、そのことを疑うことも無く次世代に継承しようとして「教えられないことができる訳がない」と予想外の反発に遭遇し、一方で、これもまた当然のように、指導や人材育成の大切さを学ばされた世代であったように思います。

 それは、まだこの国がバブル経済に向かうエネルギーを持ち、人々の中にもギラギラした野心や向上心が漲っていた時代でもありました。さらには、依然として「手に職を付ければ~」という考え方が共有されており、職人がやっていけないような社会など想像できませんでした。現在、私が「何故我が国独自のワクチンが出来ないのか」などと考えるのは、そんな時代を生きて来たことに依るのだと思います。

 一方で、子どもであれ大人であれ社会問題に対して、今よりはるかに関心を持ち考えていた時代でもありました。私自身についても、随分背伸びをしながら社会情勢を捉え、小学校の高学年以降を過ごしたように思います。例えば、平均的な人よりは多くの本を読んだと思います。余談ですが、その中には勉強したくないための理論武装を図るために積んだ読書もあります。所謂、曲学阿世の典型です。

 とはいえ、本に親しむことによって私の中に多少の知識と論理的な考え方が、いくらかでも養われたことは幸せなことであると考えています。また、私の読書には現実逃避的な理由もありましたので、早川書房他SF作品にも親しんだ記憶があります。そのようにして、私の中に多少なりとも想像力の萌芽が起こり、同時に科学技術に対する信頼と、信奉のような概念が形成されて行ったのだと思います。

 そうして私は、科学技術の進歩に大きく期待し、可能性を強く信じる人間になって行ったと思います。一方で、人間には心というものがあり、このことに基づく問題が世の事象全ての背景にあるのだという概念も少しずつ形成されて行きました。今日では、むしろそちらの方を強く意識した思考形態をしていると思います。先日、そんな私の心象と現在起きている事象に鑑み、極めてタイムリーな作品を読みました。

 その作者が、小松左京という人です。彼は今から50年以上前に、今日の新型コロナウイルスのようなウイルスによる、パンデミックの発生を描いています。細胞を介しなければ増殖できないウイルスをテーマに、そしてそのウイルスをインフルエンザウイルスに設定しているところなどは秀逸だと思います。まことに、「ただのかぜで人類が滅びるような話」を圧倒的な知識の裏付けを持って構築されています。

 本の名は「復活の日」という作品ですが、当時の社会情勢を背景に(現在もあまり変わらないと思いますが)、所謂国家という概念に基づく覇権争いや戦争への危機・回避などを巧みに描き、人類の限界と可能性に迫る筆致は素晴らしいものがあります。何といっても、一つ一つのディテールやエピソードが極めて高い水準の科学・哲学・歴史・政治経済の知識に依拠しているので、とにかく面白いと思います。

 実際、現実に起きる災禍やパンデミックを想定し描いた作品は、他にもたくさんあります。しかしながら、「ただのかぜで人類が滅びる」ような物語をここまで描ける作家はそれ程いないはずです。パンデミック下における人間の生き方や心の有り様に関して、私の教科書はカミュのペストです。他方、人類全体を捉えた社会構造や科学技術のあり方の参考書として、小松左京の復活の日を挙げたいと思います。

 もちろん、文学作品(小説)ですから、もう少し描いて欲しいと思うことや、ここはどうなの?と思うこと(個人の嗜好による)はありますが、久々に、集中して読むことができた作品でした。




2021   8 月 9日  時感という概念




 たくさんの感動を残し、オリンピックは閉会しました。その感動を生み出した多くのアスリートと、それを陰で支えた方々に、心より敬意を表したいと思います。

 本当に、東京オリンピックでは多くのアスリートからたくさんの感動をもらいました。収束どころか、感染者数の増大が進む状況下、開催そのものが危ぶまれた経緯を考えると、オリンピックに向けて精進されて来た選手達の心の内面の苦しみは、筆舌に尽くしがたいものがあったはずです。そのことは、前回も述べましたし、その時既にみられたソフトボール・柔道・卓球など活躍の兆しにも触れたと思います。

 結果的に、日本は合計58個(金27・銀14・銅17)のメダルを獲得し、史上最多となりました。誌面の関係で一つ一つ取り上げることは出来ませんが、夫々に胸を打つドラマやエピソードが背景にあったことは言うまでもありません。その中には、卓球・柔道・ソフトボール・女子バスケットボール…私などから見ても選手と指導者を含めた、組織的な充実を感じさせる分野がいくつもみられました。

 一例ですが、劇的なスリーポイントでベルギーに逆転勝ちした女子バスケットでは、日本語で叱咤激励するトム・ホーバス監督の姿が強く印象に残りました。彼の経歴から、元々日本語は話せたそうですが、指導するために更に勉強したという話を聴きました。やはり、同じ言語で~というのは大きな要素だと思います。私は、このことについてサッカーなどを見ていて何となく違和感を感じていました。

 また、柔道のメダリスト達が発するコメントを聴いておりますと、端々に井上監督に対する敬意と感謝が滲み出てくるのを感じました。このことも、胸が熱くなる一例です。その他の協議でも同様ですが、指導者と選手の信頼関係の醸成と構築は成功の重要な要素だと思います。この度、良い成果を収められた競技種目における関係性などを垣間見ると、改めてそのようなことを実感させられました。

 関係性ということからいえば、残念なニュースも耳にしました。今日(8月9日)は長崎の原爆記念日ですが、6日の広島での記念式典における首相の挨拶において、一部内容を飛ばして読んだという報道がありました。その後、蛇腹になっていた原稿の継ぎ目ののりがくっついていたという言い訳がされていました。しかし、明らかに脈略が付かない文章を読むこと自体「気持ちが入っていない」ことの証です。

 本日の長崎での式典には、そのことに懲りた挨拶を期待しましたが、精一杯原稿を読んでいる割には聴く側に想いが伝わらないと感じたのは、私だけではないはずです。そのことは、被爆者代表で92歳になられる岡信子さんが語られた、体験を披歴されながらの感動的なスピーチの後では猶更強く感じました。原爆が投下された終戦の年から76年目を迎える今、改めて考えさせられる体験談でした。

 実際、今日の私達は先の戦争に関する話やエピソードに接する機会が、本当に少なくなりました。それでも、私自身は幼少期を通じて父や母から多くの体験談や当時の様子を聴いて育った方だと思います。何というのか、私の家では周りの家庭に比べてそのような会話を良くしていたと思います。また、理不尽さを体現する父親でしたが、不条理と人間としての価値規範はしっかり学ばせてくれたと思います。

 そのように、かつては家庭の中で当たり前のように、平和に対する意識づけ行われていたのだと思います。ところが現在では、悲喜こもごもの戦争体験談(殆どが悲惨で惨めなお話ですが、時代背景や人間の性が現れ、笑ってしまうようなエピソードもあるはずです)について、体験者から日常生活の中で聴く機会がなくなってきたのも事実です。それは、時の流れの中で仕方のないことでもあります。

 しかしながら、この時の流れということに関していえば、それを感じる人によって随分違うものでもあります。例えば、先ほど述べた長崎の被爆者代表の岡信子さんの76年を考えれば、自身の怪我を省みず被爆された方々の救護にあたった体験や、ご尊父様を探す不安な気持ちはつい昨日のことのように鮮明な記憶なのだと思います。そして、それは私達から次世代に語り継ぐべき記憶でもあります。

 同様に、私達が耳や目を通して先人から得た所謂「疑似体験的な記憶」についても、次世代を担う人達に語り継いでいくことが大切なのだと思います。またそれは、ふとした日常会話の中において、親から子へと当たり前のように語り継がれるべきものでもあります。気が付けば、子や孫の世代に対して語りかけることの少なくなった自分に対して、改めて反省と自戒の思いが浮かんできます。

 私達は、一年の中に多くの記念日や節目の日を持っています。それは、時の流れ中で遭遇するものですが、私は、心が時を得て感じる「時感」という概念があるのだと思います。そのような感覚は、大切にしていきたいと思います。




2021   7 月 26日   目を開き見るべきこと




 色々と物議は醸しましたが、予定通りにオリンピックは始まりました。コロナ禍の難しい世論や競技環境の中、選手たちの懸命な頑張りが見るものに大きな感動を与えてくれています。

 本来の、開催年である昨年から既に一年延期され、そのうえ地元開催にも関わらず無観客という状況下において、ひたむきに闘う選手達に頭が下がります。そして、自然と胸が熱くなるのを禁じえません。やはり、オリンピックは特別なものであり、その目標に向かい精進を重ねて来たアスリートの想いも、また特別なもがあります。それが発揮される場面が、見る人の感動を呼ぶことも必然といえるでしょう。

 もちろん、成績だけが全てではありませんが、日曜日の時点でも金・銀のメダルを確定させたソフトボール(後藤投手というニューヒロインの誕生も)、安部兄妹の金メダル及び高藤・渡名喜選手の活躍に沸く柔道、水泳の大橋悠依選手の金メダル、水谷・伊藤組の卓球混合ダブルス(金・銀以上確定)などの活躍が挙げられます。この他、バドミントンや体操などに関しても、大いに期待したいところです。

 さて、熱海で発生した土石流災害から3週間が過ぎました。これまで、20人の死亡が確認され未だ8人が行方不明という状況です。猛暑の中、懸命の捜索活動が展開されていますが、日曜日からは大幅な重機の追加投入が図られるようです。また、順次ボランティアの参加も認められるようです。現地で苦労されている関係者の皆様のご尽力に、心より敬意を表すと共にお疲れを労いたいと思います。

 ところで、この事象に関しては単なる天災ではなく、人災としての側面が浮かび上がっています。土石流の発生当初においては、流出した土砂の量は10万㎥程度と報道されていました。しかしながら、時間と共に正確な分析が進み、実際の流出土砂量は約5万5千㎥であったと推計されています。さらに、そのほとんどが、最上流部に盛土されていた土砂等(怪しいものも含まれていた…)のようです。

 しかもその盛土は、元々残土処理目的で届け出されたもののようですが、計画数量を大幅に上回っていたようです。また、当初の施工業者から所有者も変わっており、どちらも「自分の責任ではない」と主張しているようです。さらに、最初の所有者であった業者の代表者は地元では有名な人であったようで、これまでの荒っぽい仕事ぶりや振る舞いに関する記載が、ネット上の彼方此方で散見されます。

 前回、詳細な調査や検証を行わなければ軽々に物事を語ることは出来ないと述べました。しかし、報道の映像を見て私が直感したのは、何故このような谷の上部に盛土の施工を許可したのかということと、崩壊した盛土施工個所の状況の不自然さでした。それは、一見して表面を走る水が集まりやすく湧水の発生が想定される現地において、盛土内からの排水対策をした痕跡が見られなかったことです。

 例えば、それ程専門的な知識を備えていなくても、土木工事においては盛土工事は水との戦いであることは、建設部門に携わっている人(でなくても)なら常識的に理解しているはずです。特に谷部では、発生する湧水を速やかに盛土外に排出し、過剰間隙水圧を発生させないようにしなければなりません。その他、旧地山との接合面対策やその部分の湧水処理など、様々な対策が必要です。

 通常、盛土の崩壊現場を見れば、それらの対策を施した痕跡がいくらかは窺がえるものです。しかしながら、今回の崩壊現場からは一切そのような痕跡は窺えませんでした。伝えられるような、関係者の行状に関する情報から推察しても、適正な対策が施されていたとは思えないのも実感です。また、産業廃棄物のようなものも混入していたという話もあり、適正な施工管理などは到底望めません。

 これまでに得られた情報をもとに、現時点に置ける所見をのべれば、今回の土石流による惨事は人災といわざるを得ないように思います。第一義的には、盛土を施工した業者に責任がありますが、現在の所有者に所有権が移転する際の経緯、管理者としての静岡県や熱海市などの責任の所在などについて、今後技術的・法律的な視点を踏まえ、様々な検証が行われるのだと思います。

 一方で、今回のケースでは複雑な要素を孕んだ話も聴かれます。それでも、突然理不尽に命を落とされた多くの人達のことを考えると、徹底した検証と責任の所在の確認が行われるべきであることはいうまでもありません。少し話はそれますが、現在のわが国では、太陽光発電に関する造成工事などにおいて腑に落ちない事例を目にすることがよくあります。そのようなことへの検証も不可欠です。

 例えば、それらの事例をはじめとして、、本当は目を背けてはいけないことが私達の廻りには潜んでいるのだと思います。このことも、常々述べていることですが、ぼうっとしていてはいけないことがある筈です。



2021   7 月 12日   知的好奇心




 7月になり、1年は折り返し地点を過ぎました。いつもながらですが、改めて脆弱な国土に暮らしていることや、温暖化が進む中で起こる気候変動について考えさせられる厳しい梅雨の終わりです。

 本当に、まるで梅雨の終わりの断末魔とでもいうような、大量の降雨が彼方此方で猛威を振るっています。特に、熱海市では土石流の発生により、多大な被害がもたらされました。ところで、多くの人が当たり前のようにスマホの端末などを持っている現代社会では、私達はそのような切迫した光景を当たり前のように、リアルタイムに近い形で見ることができます(そのことの、是非は別として)。

 私も、複数の民家を呑み込みながら流れ下る、激しい泥流の勢いに驚きました。それは、急峻な地形を背景に走る典型的な土石流に見えましたが、異なる要因もあるようです。素人が、適当なコメントをしているワイドショーのことはさておき、ニュース番組などにも防災・地質に関する権威や大学の先生などが出られていましたが、現地を入念に調査・検証しなければ軽々に物事は語れないのだと思います。

 実際、地球を相手に事象を分析し物事を考える土木工学は、経験工学とでもいうべき分野です。したがって、起きた事象を説明することは出来ますが、これから起こりうる危機を的確に予測することは極めて困難です。例えば、このようなところが危険である~とはいえますが、こういう状況下になると必ずこの範囲でこれだけの災害が発生するというように、定量的に示すことは極めて困難です。

 誤解を恐れずにいえば、既に発生した災害の分析しかできないのが、人類の英知の限界であると思います。基本的に、土壌雨量指数など気象に関するデータや、その地域の地質及び強度特性に基づく地盤の崩れやすさ、地形などによる現地の特徴など様々な要素からの分析を行い、災害の発生に関するメカニズムを検証・考察していく流れの中で、被害を最小限に抑えることを模索することになります。

 例えば、斜面崩壊の状況を表層崩壊や深層崩壊(比較的、最近使われだした表現ですが)などと「命名」することはできますが、事前にどの場所で発生するのかなどについて詳細な予測はできません。一般的に、この地域は危ない~というようなことは言えますが、ピンポイントに位置と時期を断定する予測はできません。また、想定の許容量を超えた降水量があっても災害が発生しないこともあります。

 同様に、降水量や降雨強度について語る時にも、どれ位の時間を念頭に置いて考えるのかということがあります。よく、洪水確立を1/100(100年に一度)から1/1000(1000年に一度)にするべきだ、或いは1/1000にしたから安心だいうようなことを聞きますが、問題はそんなに単純な話ではなく、災害の発生確率と被害を最小限に抑えるという視点から考えるべきものです(誌面の関係で詳述しませんが)。

 そのことは、土木工学で用いられる安全率の考え方からもいえることです。一例として、鉄筋やH鋼などの例を挙げてみます。工場生産される鋼材などでは、引張応力を高い精度で把握できます。一方、擁壁など構造物の安定に関する安全率は、地形・地質・気象など多様な要素を踏まえた経験値に基づき定めることになります。これは、人間が自然の摂理を経験で判断して決めたものといえるでしょう。

 経験的に、1.5倍を安全率にするというようなことです。一方で、事象に対しどのようなパラダイムやメソッドを構築して当てはめれば良いのかという知的好奇心に導かれ、人類はこの分野の学問としての体系化を試みてきたともいえるでしょう。ところで、知的好奇心といえば、先ごろ「知の巨人」立花隆氏が亡くなられました。宇宙や科学から宗教・哲学など、あらゆる分野で圧倒的な知識量を持たれた人でした。

 その源に、強い知的欲求があったことはいうまでもありません。ご自身の癌体験さえ、興味の対象とされたというエピソードもあります。また、ジャーナリストとしての地位を確立することになった、徹底的な取材と検証に基づく田中角栄研究は大きな業績ですが「それがなければ、もっとサイエンスがやれた」とも語られていました。その想いは、医療・経済・環境問題…多岐に渡る著述量からも偲ばれます。

 一方、立花さんと関わった編集者などの証言を聴きますと、つい私どもが言いそうな「こんなことも知らないのか~」というようなことは絶対言わず、「こう言えば解る?」と解りやすく説明する工夫を楽しむような人であったそうです。「人に死が訪れないなら、人は努力などしないだろう」と語られたことが、ドキュメンタリー番組の中で紹介されていました。まことに、惜しまれて亡くなる人の典型といえるでしょう。

 私などが、心情を慮ることなどできませんが、正直にそう思います。そういえば、私が本に付箋を付けるようになったのは立花さんを真似してのことです。もちろん、貼った付箋の個所を見直す機会は、比べ物にならない程少ないのだとは思いますが。




2021   6 月 28日   時のいたずら




 夏至が過ぎ、6月が終わろうとしています。既に、1年の半分が過ぎたことになります。もはや「少年」の日々は遠い昔ですが、「学成り難し~」の言葉だけがしみじみと身に沁みる日々です。

 相変わらず、世の中は流行り病に席巻されています。元々は、この国の誰もが待ち望んでいたはずのオリンピックは、開催すること自体が「いけないこと」になりつつあります。実際、僅か9人の選手団の受け入れに際して、入国時及びその後に感染者が確認されたこと、また、一連の頼りない水際対策のあり様を見ていれば、多くの人々の間に疑念や不安が拡がることは仕方ないことだと思います。

 他方、首相が頼みの綱とし力を注ぐワクチン接種策は、一見順調に進んでいるように見えます。しかし、次々と新たな変異株の出現が報道され、世の中に漂う停滞感を吹き飛ばすほどの力は無いように思います。それでも、現時点(小欄を書いている時点で)において、決定的な治療薬が開発されたというニュースは聞きませんから、とりあえずはワクチン接種の促進に期待するしかないのが実態です。

 そのような状況下、オリンピックは開催自体の是非が議論され(何となく、「揺るぎない」政府の意向のようなものは感じますが)、大会運営や内容に関しても不確定な状況にあります。当然ですが、第一義的に考えるべきことは、国民の健康と生命の保全であるべきです。一方で、ここまで夫々の人生をかけるようにして精進してきたアスリートの気持ちを考えると、色々な感情や思いが浮かんできます。

 既に、開催が1年延期されたことにより、悲喜交々(悲の方が多いと思いますが)のドラマが幾つも生まれているはずです。例えば、去年開催されていれば代表となり出場できるはずだった人が、今年に延期されたために出られないというようなこともあるでしょう。また、その逆も考えられます。さらにいえば、多くの一流選手達が「本番の日」を想定して、ピークを合わせられるように調整してきていたはずです。

 そのような意味からいえば、昨年からの延期や現在の先が見えない状況は、大きな痛手であり負担になることに違いありません。例えば、先週末から陸上の日本選手権が開催されましたが、ここでも選手としてピークを合わせることの大変さをはじめとする、多くのドラマが展開されました。まず、男子100mでは5人の標準記録突破者がいましたが、3人の枠に確定したのは山縣・多田の両選手だけです。

 3人目として、小池選手が有力視されていますが、全日本での2着はデーデーブルーノ選手ですし、桐生選手とサニブラウン選手の差は1/100秒差です。小池選手は、200mでも初の日本一になりました。一方、日本がメダル獲得を目指すリレーメンバーという視点から考えると、どのような編成が最適なのかということもあります。興味は尽きませんが、いずれにしても選ばれる人とそうでない人に別れます。

 本当に、男子100mという一つの種目について考えても、そのような悲喜こもごもの様子が窺えます。この他、オリンピックの種目には陸上競技に限らず、多種多様なものがあります。それらの競技一つ一つにおいて、様々なドラマが展開されます。一例ですが、池江選手の水泳(萩野・瀬戸に関する話題もありました)、内村選手が鉄棒一本にかけた体操(男女とも、熾烈な代表争いがありました)などがあります。

 陸上競技に話を戻しても、色々な話題がみられました。転倒しながらも、3000m障害で自らの日本記録を更新した三浦選手、歯科医になるため、今季を最後と考えている金井選手が2着となった男子110mハードルでは、泉谷選手が凄い日本記録を出し高山選手と3人が代表入りです。また女子の寺田選手は、ママとなり11年ぶりで貫禄の日本一となりました(標準記録まで3/100秒の日本記録保持者)。

 その他、枚挙の暇がありませんのでエピソードは切り上げますが、目標に向かって精進するアスリートの姿は、私達にこみあげてくるような独特の感動を与えてくれます。そして、もしも去年オリンピックが行われていたら~と考えると別のドラマが浮かびます。一例として「時のいたずら」を挙げれば、渋野選手がオリンピックで、スマイルシンデレラとして更に輝く姿を思い浮かべるのは私だけではないはずです。

 人は、生まれる場所も時も選べません。また、前述した池江選手の例のように、時として運命は理不尽で不条理な顔を見せます。そして、私達は「もしもあの時~」と、不条理な場面の違う展開を考えずにはいられない生き物です。それでも、腐らずに生きる他になす術がないことも、先人達の言葉に明らかです。さらに、そのように頑張れる人にしか次の良い「時のいたずら」は起きないともいわれています。

 
まことに、自分の意思や想いだけではどうにもならないのが人生です。ふと、「時のいたずらだね。苦笑いだね~」千春の高音が浮かびました。同時に、同じ高音で「何かを信じて生きていこう~」というサボテンの花の財津氏の声も蘇りました。いずれにしても、一人では生きられない身ではありました。
 
 

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