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NO.4

2004年 4月 19日        この頃、春に思うこと(河島英五を偲ぶ) 



 枯れていた山の木々に一斉に芽が吹き、薄緑色がどんどん拡がっていきます。常緑樹の濃い緑を包み込むように、その若葉の色が山容を占め、ポツリポツリと点在する山桜が彩りを添えています。ついこの前、少し肌寒い夜桜を楽しんだばかりで
すが、春はもうその最中を迎えています。

 桜前線は、まだ東北地方ぐらいを上っているのでしょうか。しかし、私の家の目の前に見える山の頂上には、赤くさいているつつじの花が見えます。一気に拡がってきた若葉の色と、中腹あたりに見える(年々増える気もしますが)山桜の色とのコントラストがとても綺麗です。まさに春は、生命の息吹を感じさせる季節であると思います。

 しかし私は、このもえたつような春があまり好きではありませんでした。それは、花粉症のため鼻水や目のかゆみに悩まされてきたということばかりが理由ではありません。春になって、それまで茶褐色に沈んでいた山が一気に萌えたち、薄い緑から濃い緑色へと日に日に山容を変えていく様子を見ていると、自然の持つ生命力の強さを感じます。それは、本当に素晴らしいことだと思います。

 それでも、その春の持つ積極的なイメージが若い頃の私は苦手でした。また、日に日に力強く色を変えていく新緑の色などは、むしろ、その勢いを息苦しく感じたりして鬱陶しく思ったりもしていました。反対に、空が高くなり空気が澄んでくる秋の方に好感を抱いていたと思います。しんみりとして、遠慮気味な感じがする秋の風情を一番好んでいるのは、今も変わりは無いかもしれません。

 ところが、今から五年ぐらい前だったと思うのですが、ラジオ番組の中で河島英五さんが同じような話をされていたのを聴いたことがありました。その時、河島さんは丁度今の私の年齢ぐらいだったのではないかと思います。その番組の中で河島さんは、かつては春は嫌いだったけれど「歳をとってくるとねえ、芽吹いていく春の勢いもいいもんだなあ、と思うようになってきたんですよ」と話されていました。人懐こく優しい声が耳に残りました。それでもその時は、何となくそんなもんかなあと思ったりしました。

 三年前の今頃、私の好きな歌手河島英五は48歳という若さで亡くなりました。病をおして演奏活動を続けたことが、その死期を早めたといわれています。しかし彼は、最後まで歌い続けたかったのだと思います河島節を……。何年か前、岡山の県北にある上斎原村という所に小さな音楽ホールが出来ました。そのこけら落しに、野風増を作った同村出身の山本寛之氏と一緒に河島さんは来演され、「腹の底から心の叫びを伝えるのが河島節です」と言いながら野風増などを熱唱してくれました。

 私はその時、白いスタインウエイのグランドピアノを弾きながら歌う河島英五をわずか数メートルの所で見ました。骨太な感じの優しい笑顔に魅了されました。いみじくも今、その河島さんが「春もいいもんだなあ」と思うようになった年齢に私はなってきました。この頃、あの時のラジオ放送での河島さんの話声を思い出したりします。そして、新しい命が芽生え、目に見えるすべてのものが活気を取り戻していく春の勢いのある景色を見て、いいもんだなあと思うようになってきました。

 ドラマ「前略おふくろ様」がヒットした頃、ショーケンの歌声で初めて聴いた「酒と泪と男と女」以来、野風増、時代遅れなど、私の人生の節目の中に、川島節が流れていたのだと思う時もあります。亡くなられた頃、TBS系のウルルン滞在記のエンディングテーマで「旧友再会」が流されていましたね。友を愛し、歌を愛し、そして酒を愛した河島さんを彷彿させる曲だったと思います。

 歌手生活の中で4000回以上のライブをこなし、阪神淡路大震災の復興支援コンサート「復興の詩」をプロデュースするなど、常に「誰かに何かを伝えるため」に河島さんは活動されていたように思います。性善説や人生においてはその長さが問題なのではない、という言葉を信じたくなるような人だったと思います。

 

2004年 4月 5日        正しい技術とノウハウの伝承を 

                     


 花に嵐か、2日には強い風が吹きました。空は晴れているのですが、風は冷たく感じられ、桜の花への影響を心配したりしました。鶴山公園の桜も、今や満開を迎えています。3日の夜には夜桜に出かけて行きましたが、心配も杞憂に終わり、幽玄に拡がる満開の夜桜の海を堪能してきました。毎年、つかの間の宴には違いありませんが、齢を重ねるほどに心を惹かれていく気がします。

 さて、前回にも少し触れましたが、テコンドーの岡本依子選手のオリンピック出場は、個人枠とかなんとか、手続きはよくわかりませんが、希望が持てるようですね。しかし、マスコミによる報道などが無ければどうなっていたのだろうか、などとも考えてしまいます。いまだに、協会の方の統一についてはお話にもならない様子ですし、JOCもまずは建前論で、IOCにお伺いをたててからの対応であるようです。

 いずれにしても、単に出場するということに対する手続きの段階で、その可否について、これだけ選手に心労を与えるような状態が好ましいはずは無く、有識者であるはずの、大人の人たちによる賢明なバックアップ体制づくりを望みたいと思います。どのような連盟や団体でも、もともとはその競技に携わっていた人や、深い造詣を持っている人が役員や責任ある立場に立っているはずです。それならば、取り組んでいる選手の気持ちになることは、それほど難しいこととは思えない気がします。

 そのように考えると、ある程度年をとってくると、後から続く人のために何か役に立ちたいと考えるのは、自然な感情であると思います。私が、自分の未熟さも省みず、このようなHPを立ち上げているのも、技術者として持ち続けるべきポリシーを少しでも伝えたい、と、願う気持ちに基づくものに他なりません。

 今、発注から施工の段階まで建設部門においては、ものづくりに関する技術や取組みへのノウハウなどの伝承が、上手くなされていない気がします。事業の減少による価格破壊、建設コンサルタントによる不毛なサービスの提供と、発注者側からの押し付け、それらに伴う発注者側の不勉強と施工業者の技術者における考える力の低下など、多くの問題を抱えていると思います。

 もちろん現在でも、世の中の役に立つものづくりを目指して、日々努力している人も数多くいると思います。しかし、前述したような傾向は、私が、建設会社にいた頃に比べると格段に進んでいると思います。以前にも述べましたが、施工業者の技術者が「図面通りにつくったのに、おかしなものができた。」などと発注者に文句を言い、発注者は詳細も確かめずコンサルに対応させる、というような話をよく耳にします。

 おかしなものが出来上がるまで、その設計なり計画なりがおかしいと思わないような感覚と技術力では、良い技術者とはいえません。また、建設現場においては、設計変更や現地に適した納まりの工夫は当然のことですし、技術者として一番面白いところでもあるはずです。また、施工図的な細かな図面や、設計変更とならないような対応を建設コンサルタントに求めることが、発注者サイドにおける技術やノウハウの伝承を妨げ、対応力の低下の要因となっているのだと思います。

 考えてみれば、建設コンサルタントというものが隆盛を極め、また一転して厳しい生き残り競争を繰り広げるようになったこの15年位の間に、私はその中に居り、今述べたようなことを肌で感じてきた気がします。そしてその傾向は、時代と共にだんだん強くなって来たように感じます。それらに対する危惧のような気持ちも、このHPを更新し続けている理由のひとつにあると思います。

 手前味噌ですが、今年、岡山県技術士会の年会報が創刊され、その中でも、今述べたような建設技術者というものについて述べさせていただきました。また、例会における講演などでもお話をさせていただき、発注者側である方々からも賛同のご意見を頂きました。また、添削などを通して発注者側の技術者の方々にも、たくさんの志を持った人が居られることを知りました。発注者側に意識が無ければ、中々、受注者側からの改革は難しいと思います。そのような意味で、まだまだ捨てたものではないなと感じています。

 発注者・設計者・施工業者・資材資源関係等、それぞれに抱える問題や悩みはあると思います。しかしそれぞれが今一度、各々の立場においてなすべきことを見つめなおして、先輩から後輩へ技術とノウハウが正しく意義ある形で、伝承されることを目指して欲しいと願うばかりです。そして、そのことに少しでも役にたてたらなあと私は考えています。


2004年 3月 22日       オリンピックイヤーに考える



 この間、おだやかな春の日の午後、今年になって初めてトラクターに乗り、わずかばかりの我が家の圃場を耕運にいってきました。私の愛車であるヤンマーの赤トラは、そのシンプルな構造のためか故障も知らず、トントンという小気味良いディーゼル音を響かせながら、同じく父が残してくれた田圃を機嫌よく耕しておりました。いつもながら不肖の跡取り息子は、そんな折ぐらいにしか父親を思い出すこともなく、フェラーリのように風を切って走る帰り道になって、ふと、お彼岸を迎える準備の心配などをしたものでした。

 さて、今年はオリンピックイヤーでしたね。サッカーU23チームは、ハラハラさせながらも最終戦ではUAEから3点取り、見事にオリンピック出場を決めました。色々とありましたが、やはり大久保・平山の国見による先輩・後輩の二人に、田中達也を合わせたスリートップは攻撃力があり、得点の期待を抱かせるものがありました。オリンピック出場の際においても、有効な布陣ではないかと思いました。

 それから、あの気丈な笑顔による記者会見で心が救われましたが、高橋尚子選手のマラソン代表落選は衝撃的でした。個人的には、やはりという気もしましたし、残念であるという気もしました。苦渋の決断という陸連の説明には、納得がいくようでいかない、もやもやした気分が残りました。それは、私だけが感じたことではないと思います。

 発表されるまで、どうなるのか分からない「不明確な選考基準とその運用」のなかで、陸連の本音と建前が見え隠れしてくる様が、見ている側に疑念をいだかせる大きな原因になったのではないかと思います。
実際、選考レースを基準にしたといいますが、男女合わせて、統一した判断基準に基づいているとは思えない気もしました。また、それならそれで、東京のレースしか選考の判断基準になりませんよと、高橋選手に伝える位しても良かったのではないかと思います。

 一方で、代表選手決定後、土佐選手や所属するチームに対し、心無い人からの嫌がらせの電話や抗議があったという話も聞きました。情けないことですし、胸が痛む思いがします。女子の土佐・坂本両選手、男子の諏訪選手など、代表に選出された選手たちはここにくるまでに、言葉では表せないような努力と精進をつんで、その座をつかんだのだと思います。本当に、選ばれた選手たちには、何の責任も罪もありません。

 また、出来る限りのコンディション調整と必要な練習をこなして、アテネでは悔いの無いレースをして欲しいと思います。その限りにおいて、期待された結果を得られなくても、彼らがその「責任」などを問われるべきではないと思います。責任があるとすれば、オリンピック代表を決め派遣した側にある訳ですから。そのように考えると今回のやり方が、真に公平で公正な代表選手の選出であったのか、と、思わずにはいられなくなります(男子も女子も、またその統一性も含めて)。

 個人的には、アテネでオリンピック二連覇を目指し、快走する高橋尚子選手を見たかった気がします。また、営業マンランナーとしてがんばってきた大崎悟選手を、オリンピックに行かせてあげたい気持ちもしました。いずれにしても、様々な思いが交じり合って、中々すっきりしない気分でした。そして、「公平であること」というのは、本当に難しいことだなあとも思いました。特に、国の威信や国益などがからむと、その判断はさらに難しくなるものであると思います。

 また、そのような大きな話題の影で、シドニーオリンピックで銅メダルを獲得したテコンドーの岡本依子選手は、みずからアジア予選で出場枠を獲得しながら、国内のテコンドーの統括団体が分裂しているなどという、なんとも理不尽な理由で五輪出場が危ぶまれています。ご両親と後援会などは、この25日までに一万人を目標として署名活動をされているようです。JOCは、三月中の組織一本化がなければ、五輪派遣を見送るとしています。

 
 分裂の原因はよく知りませんし、どうして一本化してないとオリンピックに出られないのかもよく分かりませんが、一昨年の釜山アジア大会にも不参加だったと記憶しています。いずれにしても、「大人」たちの権力や名誉などを手中にするための争いや、面子や意地などというものなどのために、優秀なアスリートの活躍する場所や機会、また、それぞれが抱いている夢が奪われても良いのでしょうか。

 岡本選手にかぎらず、オリンピックを目指す選手たちは、一生に一度あるかないかのチャンスにむかって、命を削るような節制をし努力を重ねているのです。それに対して、陸連やそれぞれの協会の幹部を始めとした責任ある立場の「大人」たちは、公正で明確な基準と、胸を張ってこたえられるような指針を示し、物心両面からのサポートを提供すべき立場にあるはずです。

 マラソンに限らず他の競技においても、見ている側・選手それぞれにおいても、きっちり納得の出来るような、代表選出のあり方を望みたい気持ちです。強い権力や高い地位を持つ人ほど、公正で公平な判断と行動が求められるのだ、と、いうことをあらためて強く感じました。

 最後に、私など精神の未熟なものからは想像もつかないほど、しっかりと立派な記者会見をされた高橋尚子選手の、再び元気で走る姿が見られる日を待ちたいと思います。そしてまた、テコンドーにおいては奇跡的な展開となり、岡本依子選手のこぼれるような笑顔が見たいものです。


2004年 3月 9日           みかさの山にいでし月かも



 三寒四温というには、少し長い「寒」が続きましたね。啓蟄も過ぎ、桜の咲くのが待たれるばかりです。以前、津山城址に桜を植え続けた人の話をしましたが、ここ数年、私が続けて訪れている勝山町の雛祭りでもそうです。マーケティングや経営戦略というようなものはでなく、人の心の中にある「こんな風になれば、どんなに良いだろう」というような気持ちから始まったものが、人の気持ちをつないで拡がっていくのだなあと感じています。

 そのように考えるとき、我が国の先人たちの熱く尊い志を、歴史の中に垣間見ることがあります。たとえば天平の頃、仏教発展のために、鑑真の渡日を招請した栄叡、普照ら若き僧侶たちの働きなどもその例ではないでしょうか。五たび失敗し六度目にしてついに日本の土を踏んだときには、失明し光を失っていたという壮絶ともいえる苦難の果てに、唐の高僧鑑真は日本へ来ました。

 私は、子供の頃聞いていたこの史実をテーマとした「天平の甍」を大人になって読んだ時、体の芯から沸いてくるような感動を覚えました。普照・栄叡の他、戒融、玄郎、業行らそれぞれの生き方を通して、広大な時の流れの中で、いかに人間が小さく微力なものかを感じさせられました。また、才知に長けていることや利発であるということに、どれほどの意味があるのかを考えさせられました。その上で、その微々たる力しか持たない人間が、他の人々や後世の子孫たちに対してどれほど大きな仕事をすることができるのか、ということも考えさせられました。

 また、この小説を読んで知ることとなったことがもう一つありました。それは阿倍仲麻呂についてです。「天のはら、ふりさけみれば春日なる、三笠の山にいでし月かも」この歌が、子供の頃に遊びでやっていた小倉百人一首の中にありまして、私の記憶の中におぼろげに残っておりました。それが、奇しくも鑑真6度目の渡日にむけた遣唐使船団に同行し、中国側の使節として待望の帰国を果たすはずであった時に、仲麻呂の詠んだ歌であったことをその時知りました。

 二十歳で唐に渡り科挙に合格し、唐朝の諸官を歴任し玄宗にもに仕え、唐の高官にまでなった仲麻呂の優れた才能については、いまさら並べる必要も無いと思います。しかし、その才ゆえに帰国もままならなかったことも事実だと思います。それでも、当時は小さな異国であった日本の若者に対しても、その才能を認め地位を与えた中国や、中国人の考え方に心を打たれる気がします。そしてそのような環境の中で、李白や王維などと親交を暖め、活躍した日本人がいたのだということを考えると、嬉しくなるような気がしました。

 天のはら~と続くこの歌が、遠く長江南岸において千二百年以上も昔に詠まれたことを知った時には、本当に歴史の重みを強く感じました。また、人間にとって志というものがいかに大切であるかを思わせられました。命がけで唐に赴き、学問を究めた阿倍仲麻呂や、日本の仏教に戒律をもたらすため、命をかけて渡日を果たした鑑真の抱いていた志は凄絶なものであったでしょう。

 しかし、その凄絶なまでの志があったからこそ、彼らの偉業は今日まで語り継がれるのだと思います。「若葉して、御目の雫ぬぐはばや」和上像と対面して芭蕉が残したこの句は有名ですが、仏教徒ではなくても鑑真の志と行動には、多くの人が感銘を覚えるのではないかと思います。また、そのような人たちの生き様を大切に伝えて来た文化が、本来の我が国にはあったのではないでしょうか。

 身分の上下を問わず、高い志と倫理観を持つことの大切さについて、私たちの祖先は、ごく自然な形で身に付けていたのではないかと思います。だからこそ、同じ封建制度の時代にあっても西洋のそれとは違い、池田藩のおたすけ米のような制度が存在したりしたのではないでしょうか。また岡山には、農民出身で備中松山藩の参政(宰相)までになり、義をもって財政や藩政の改革にあたった山田方谷のような例もあります。

 日本についた鑑真が奈良に入ったのは、2月4日といわれており旧暦だと思いますから、丁度今ごろのような季節だったのではないかと思います。まだ早い春の冷たい風を頬に感じながら、艱難辛苦の果てにたどり着いた異国の地に対し、彼の高僧はどのような感想を抱いたのでしょうか。今となっては知る由もありませんが、67歳となり、10年以上もの歳月をかけてやってきた日本において、鑑真が没するまでの年月はわずかに9年間です。

 高僧自身も感じていたのだとは思いますが、本当に短くはかない、そして尊い9年間であったのではないでしょうか。そのように考えると、月並みな表現になりますが、時間というものは大切なものなのだなあと感じます。ともすれば、つい怠けてしまいそうになる自分自身に対して、少しでも戒めとなればと思いながら、キーボードをたたいているような気もします。また、歴史と東シナ海の波に翻弄された阿倍仲麻呂の心中などを慮れば、あたやおろそかに日々を過ごしてもいられまい、などと思わされたりもします。

 鑑真がたどり着いた奈良の都、その地に建つ春日大社、そしてその背後に見える山が三笠の山だそうです。天皇にさしかけられる衣笠に、山容が似ていることからその名が付いたそうですが、遠く長安に骨を埋めた仲麻呂が、再びその山にかかる月を眺めることはありませんでした。明日は東京大空襲のあった日だそうです。過去を未来に生かすことが大切であると思います。そして、そのような長い歴史のなかで、今日、私が思うことは、千二百五十年も昔のことでした。

 

2004年 3月 1日           伝えることの大切さと難しさ



 つくづく思うことですが、四季のある国に暮らしていられるということは幸せなことだと感じます。私の住んでいるところでも、ここ数日めっきり暖かい日が続きました。本当に、春がそこまで来ているのだと実感させるような陽気でした。桜が咲き緑が芽吹き、生命の誕生をイメージさせる季節ですが、実は、私は若干の花粉症持ちなので、少しうっとうしい季節でもあります。

 春といえば、間もなく選抜高校野球大会が開催されますが、今年も将来の球界を担うような選手の登場が期待されます。それにしても最近は、印象に残る試合が減ったような気がします。見ている私の年のせいかもしれませんが、野球だけに優れた運動選手が集中していた時代ではなくなったことが一番の理由なのかも知れませんね。

 以前にも述べましたが、高校野球を始めとしたスポーツの実況中継では、それを伝えるアナウンサーの技量は非常に大切です。私は、2000年にNHKを退社され、現在は、WOWWOWでゴルフやテニスなどをやっておられる島村俊治さんの実況姿勢がとても好きです。島村さんの実況は何より安心して聞いていられるし、その場所における感動が本当に実感として伝わってくるような気がします。

 有名なところでは、ソウルオリンピックにおける鈴木大地選手、また、長野五輪の清水宏保選手の金メダル実況中継などがありますが、島村さんの実況された名場面は数え切れないと思います。特に私は、若いときに車のラジオで聴いた「江夏の21球」の、その場の緊張感が目の前に再現されるような実況が印象に残っています。後から、テレビでの映像をみてさらにその思いが深まったことを覚えています。

 立場を中立においておかないと、目が狂って勝負を間違って伝えるから、オリンピックなどの国際試合では「ガンバレ」という言葉を使わないことがポリシーである、と島村さんは語っておられます。しかし、さよなら負けの勝負が決まっても、必至にボールを追いかける甲子園球児などの姿を伝える時、感極まり絶句することがあるような感性と、情熱を持ちながら実況中継されているからこそ、その放送を見たり聞いたりしている私たちに、素直な感動が伝わってくるのだと思います。

 発声、滑舌、ボキャブラリー、描写力など、アナウンサーとしての技量の高さも必要でしょう。しかし、その人の人間的な魅力というか、存在感が最も大切であると私は考えています。奇をてらった言葉を駆使したり、過剰に騒ぎ立てる実況が多い今日では、かえってうすっぺらなものしか伝わってこないことの方が多いように思います。

 さて、その島村さんですが、NHK入社当時はアナウンサーが好きではなかったと聞いています。最初の赴任地は鳥取でしたが「毎日ふてくされて酒をのんでばかりいた」時に、中国大会の準決勝で岡山東商の平松と、関西高校の森安の対戦を見られたそうです。その試合は素晴らしい投手戦で、島村さんはとても感激されたそうです。その時の感動が、スポーツ実況へのめりこむスタートであると語られています。岡山が生んだ大投手二人が(森安敏明の名は知らない人もいるかもしれませんが、私の知る限り、岡山県で一番速かった投手だったのではないかと思います)名アナウンサー島村さんに影響を与えたのだと思うと、何か嬉しいような気がします。

 そして、人は誰でも他の誰かの影響を受け、それを自分の変化や向上していくための糧にしていくのだなとも思いました。私にも影響を受けた先輩技術者の人がいますし、分野は違っても目標としたり指針とするための人がいます。またそれは、友人の中にも年齢が自分より下の人の中にも存在するものだと思います。そう考えると、少しでも誰かの役に立つというか、参考になればと考えることも出来ます。自身の未熟さも省みず、このようなHPの更新を重ねている私ですが、改めて勉強を継続していかなければ、という思いが湧いてきます。

 かつて私に、建設技術者という意識を持つことの大切さを教えてくれた人のように、なれるかどうかはわかりませんが、熱い情熱や向上心はあっても、努力の仕方がわからない人に対して、少しでもお役に立てればと考えています。そういえば、私たちが建設現場に出始めの頃は、厳しいけれど仕事のできる実は優しい人たちが、今よりもたくさんいたように思います。技術も技能もそのような人たちのもとで、愛のある緊張感に包まれて伝承されていくのではないでしょうか。

 話は戻りますが、人間が限界に挑み努力を重ねていくという点で、スポーツはすばらしいものだと思います。その姿を伝えるわけですから、実況アナの責任も大きなものがあるはずです。島村さんの言う「現場のみに感動がある」という言葉は、中坊公平さんの言う「現場に神宿る」と似ていると思います。そのものの実態を実際に目で見て、自分が受けた感覚を伝えるものでなければ、その感動を人に伝えることは難しいと思います。

 同じように言えば、技術者としてのポリシーも似ていると思います。そのものの何たるやを知らずして、創意・工夫など出来るはずも無いだろうと私は思います。

 

2004年 2月 17日          きっとパスが来る



 岡山の県北では、まだまだ寒い日が続いています。しかし、晴れた日に吹く風は、明らかに春が近いことを感じさせるぬくもりを含むようになりました。この近くで谷崎が疎開していた勝山町では、3月になれば町を挙げてのひな祭りが催されます。各々の家に伝わる古い雛人形などが、商店街を中心にかざられとても趣があります。なによりも、それを行う街の人々の気持ちの良い団結がうかがえるお祭りです。

 さて、待ちかねていた技術士二次試験の合格発表がやっときましたね。おかげさまで、私も他科目(施工計画)で合格することができました。口頭試験は、どのような手ごたえであっても発表までは不安な日が続く、というのが正直なところではないかと思います。結果に甘んじることなく、今後も努力していきたいと思います。また、ベテランの方々も、あきらめないで頑張って欲しいと思います。

 話は変わりますが、昨夜は寝付かれない私には幸いという感じで、NBAオールスターゲームをやっていましたね。オープニングから見始めると、試合終了まで、あっという間に時間がたってしまったという感じです。地元ロサンゼルスレイカーズのシャッキール・オニールがMVPになり、オールウエストが僅差で勝ちましたが、目を見張るプレーの連続で素晴らしいゲームでした。

 シャックといえば、以前神戸に行ったときに北野の異人館街の一角で、スポーツ選手のグッズやユニフォームが展示されている喫茶店で、彼のはいていたというバスケットシューズを見ましたが、「船のような」その大きさに目を見張った記憶があります。その店には他にも、その名が神戸にちなんで名づけられたというコービー・ブライアントのユニフォームや、MLBに行った佐々木やイチローのものなどもかざってあったとおもいます。
 
 NBAオールスターゲームのほうに戻りますが、さすがに、スターの中のスターたちが見せるためのプレーをするわけですから、テレビで見ていてもわくわくするような試合でした。シャック、コービーの他にもアジアの星ヨウメイ、レイ・アレン、ティム・ダンカン、ベン・ウォレス、アレン・アイバーソン……数え挙げればきりがありませんが、それぞれの持ち味を存分に発揮したスーパープレイの連続でした。

 私の場合は、何といってもブルズの23番マイケル・ジョーダンの印象が強いので(フィル・ジャクソンのもとでピッペンなどと築いた黄金時代はあまりにも強烈)、最近はあまりNBAをみておりませんでしたが、あらためてその素晴らしさを実感しました。何といっても驚かされるのは、個人個人の身体的・技術的な能力の高さはいうまでもなく、プレーのなかであらゆる可能性を探りながら、最高のパフォーマンスをみせるチャンスをそれぞれが狙っている点です。

 ボールを持って走る選手の後を必ず誰かがついており、自分にボールがまわってくることを想定しながらプレーしているのです。前を行く選手もそれを感じているからこそ、相手に予想外のパスが出来るのだと思います。その結果が、ファンが興奮するようなダンクシュートやエア・プレーに結びつくのです。可能性を信じ力いっぱいのプレーをしていなければ、急にボールが来てもスーパーゴールを見せることはできません。そのように感じました。

 「可能性を信じる」というのは、ラグビーでもサッカーでも他のスポーツでも同じように大切なことだと思います。その気持ちを持って全力でプレーしている選手でなければ、見る人に感動を与えられる選手にはなれないのは、どの競技でも同じなんだろうと思います。また、可能性を探るところに創造力がうまれるのではないでしょうか。「このようなシチュエーションになればこのような展開もある。そうすれば、こんなことも可能だ」と言う具合にです。

 一次試験を突破すれば二次試験に受験が可能です(一次試験を越えなければ二次試験を受けられないとは考えず)。そうすれば、こんな経験がアピールできないか、あの時やった工夫を思い出してみよう。などとイメージしてみたらどうでしょうか。以前にも述べましたが、具体的に目標として描かなければそこに近づくことはありません。目標としてあれば、歩みを止めないかぎり近づいていきます。

 「きっとパスが来る」そんな思いを胸に秘めながら走り続けましょう。、そしてそのパスが来たときに、自分の最高のパフォーマンスが出来るように、その時に備えた努力をしていきたいものです。


2004年 2月 8日          言葉は大切なものである



 立春を過ぎました。しかし、寒さは今が最中と言う感じです。それでも、冬が寒ければ春に咲く桜の、花の持ちが良いというような話を聞いたことがあります。また、昨年秋に耕した我が家のわずかばかりの田圃も、凍みることで害虫の駆除と、やわらかな状態で春を迎えることにつながるのでは、などと母からの受け売りの言葉を呟いております。それらのことの真偽がどうであれ、そこまで来ている春の訪れを待ちわびる心には、それを鎮めるためのお話は必要なのだと思います。

 さて、以前NHKの「人間ドキュメント」についてふれたことがありましたが、2月6日にも剣道の栄花直輝選手のお話が再放送されていましたね(アンコールの声が非常に多かったと聞いています)。また、今年の1月に放送された「浜の大横綱~」・「いのち救う最前線」などは、とても素晴らしい内容であったと思います。

 今日、我々が情報を得る手段の中心であり、最も影響の大きいものがテレビではないでしょうか。熾烈な視聴率争いの中で、面白く興味をひけばそれで良いという風潮がありますが、一方で、NHKのみならず民法にも良い番組があると思います。特に、何かに真剣に取り組み、自分を高めていく人を追いかけていくドキュメンタリー番組などは、見る側に感動を与え、心の浄化につながると思います。

 それだけに、過度な演出ややらせなどがあると、視聴者を裏切るばかりでなく、対象となっている個人や団体の名誉を傷つけることにもなります。熱い思いを秘めながらも、冷静で公正な取材に基づいた番組制作が望まれるところです。また、スポーツの実況中継などにおいても、それを伝えるアナウンサーの過剰な興奮や、公平さと冷静な分析や、きちんとした理論に基づかない解説などは逆効果となってしまいます。

 そのような時に思うのは、事実は冷静に伝えながら、難しい理論やルールなどについては分かりやすく説明できる人が、それらの業務に携わってほしいということです。もちろん取材の過程などで感じた思い入れなども表現されても良いと思いますが、特に、スポーツなどにおいては、スポットをあてた人のみが正義であるかのような構成はどうかと思います。

 勝負の世界に勝ち負けはつきものですから、放送する側が期待したような展開にならないこともよくあります。それでも、その事実の中にこそ、本当の人間ドラマがあるのだと思います。目標に向かって取り組んでいる一人一人は、それぞれの人生においてそれぞれが主役なのです。期待された選手が脚光をあびる場面よりも、思いかなわず敗れていく姿を人生の糧とし、自分をを励ましていく人も多いのではないでしょうか。

 また、スポーツ中継で特に目に付くのは、バレーとボクシングなどの中継ですかね。日本チームや日本選手だけが勝てば良いというような中継姿勢が目立ちます。そのような放送を見ると、かえって見る側はしらけてしまいます。私の好きなボクシングなどでは、そのような報道姿勢が、我が国の低迷の一因であると思います。良い試合を公平なスタンスで提供してこそ、その競技のファンや人気は増えていくのではないでしょうか(ラスベガスのリングで高いペーパービューを取って試合をする選手の試合は見るべきものがあります)。

 事実は小説よりも奇なり、とバイロンは言っています。今年のラグビー大学選手権の同志社対早稲田の試合や、NFLスーパーボール決勝の劇的な結末などは、演出してうまれるものではありません。そして、忘れてはならないことは、そこを目指していく選手それぞれには、各々の人生のドラマがあり、それぞれがそのドラマの主役であるということです。

 マービン・ハグラーはその強さの秘密を「自分は負けたことがあるからだ」といっていましたし、その再来を自負し、ロイ・ジョーンズに敗れて以来10年間負けていないバーナード・ホプキンスは38歳となっても惚れ惚れするようなボディを維持しています。「どついたるねん」・「けんかボクシングや」というようなモチベーションだけでは、そのような域に達することは難しいのではないかと思います(スタートはそうであっても、精神の熟成がなされなければハグラーのようにはなれない)。

 むしろ、それらのスーパースターが人知れずやっている努力や節制を思い浮かべる時にこそ、私は熱い感動をおぼえるのです。それと同時に、熱気を帯びた派手な言葉の羅列による実況中継をすることだけでは、本当の感動はつたわらないのでは無いかとも思います。また、見ている側にしても、実際の映像などから自分が受ける印象で判断したいものです。

 そのように見ていると、表面の言葉などより深いところにある何かが見えてくるように思います。マラソン中継で、脱落していく日本選手について、アナウンサーが楽観的なことを言うと、具体的な理由を述べ、明確にそれを否定する宗茂さんの解説などは、むしろ好感が持てるのではないでしょうか。

 そのような意味からも、本当に言葉というものは恐いものだと思います。かつて私が建設会社にいた頃、後輩の技術者に「先輩のやったことをよく勉強し、自分に活かせ」と話したら、「温故知新ということですね」という言葉がすかさず返ってきました。そんなに簡単に、私の言葉の意味がわかるはずなどあり得ないと思い、がっかりさせられた記憶があります(ちなみに彼は、苦しい場面を投げ出し、その会社を辞めていきました。その後も、他の建設会社などを渡り歩きましたが、同じような場面で入院したり辞めたりしていたようです)。

 少し回りくどい言い方ですが、現代では、用いられる言葉の意味が軽すぎるような気がします。本当に努力している人や、向上心を胸に秘めている人は、他人に言葉でアピールする必要をそれほど感じないのではないでしょうか。そのことが誤解をまねくこともありますが、どこか、今のテレビを中心とした報道などでは、表面的な盛り上がりを求めすぎ、過剰な表現が多すぎると思います。

 言葉は大切なものです。同じ言葉でも、「無の境地の一打」と栄花選手が語るときにこそ、それを聞く人の胸を打つのだと思います。また、神戸レスキュー隊の古市さんや山本さんの言葉は、厳しくても訓練生の心の支えとなったはずです。そして、もう一つ言いたいことは、そのような、スポーツやドキュメントの映像からだけでなく、自分の体験によって心を揺さぶるようにしたいものですね。本当に地道な勉強を積み上げて、目標の試験をクリアするというようなことは、それに当ると思います。派手でなくても良いのではないでしょうか。継続して努力していくことは素晴らしいことです。


2004年 1月 30日          平成15年度技術士一次試験合格発表



 大寒から立春までの間が一年で一番寒い時期だそうですが、言葉通り先週末には雪も降りましたし、この冬一番の冷え込み(私の住んでいる所で-9℃)となりました。昨日から今日と穏やかな日が続いていますが、冬はやはり寒くないといけないのであるなどと言いながら、暖房の効いた部屋から外を眺めている次第です。

 さて、本日は平成15年度技術士一次試験の合格発表日です。私も、朝から文部科学省のHPなどにアクセスし、知り合いの名前などを探してみました。熱心に取り組まれていた人の名前を見つけると、ホッとするような嬉しいような気持ちになりました。また、その反対に名前を見つけられない場合には、少し沈鬱となる感情を禁じえませんでした。

 大量、約67,000人の受験者数となった一次試験でしたが、実際の受験者数は59,600人(既技術士22,800人)で約85%程度ということでした。このうち合格者数は28,800人ということですから約51%の合格率ですが、既技術士の合格率は95%以上ということなので、一般の合格者は7,100人程度と予想されます。この方々の合格率は約
21%程度となりますので、昨年までより高くなりましたが、極端に高くなったとはいえないと思います。※この記述は、当日、他のHPから数字を引用していましたが、私自信が確認をしておりませんでした。後述のAPEC氏HPなどに正確な数字が掲載されています。お詫びいたしますともに、そちらをご参照ください(一般の合格率は40%を超えていたようです)。

 一次試験の問題については、かなりレベルの高いものであると思いますし、技術士の取得者が皆合格できるのかなどという議論もみかけました。実際、難関であることには違いないと思います。そして、制度やしくみは今回の結果を踏まえてまた変わっていくと思います。また、今年度からは不合格の際における採点内容なども通知されるようなので、弱点の克服などはしやすくなるでしょう。

 いずれにしても、一次試験をクリアしないと二次試験には進めません。JABEE認定プログラムを修了して一次試験を免除される方法もありますが、ベテランの技術者には現実的な話ではありませんから、是が非でも一次試験突破を目指す必要があります。これまでの問題をみると、一つ一つの問題の解釈についても難解なものが多く、実際、出題ミスなどもありました。したがって、過去問や想定問題に数多くあたり、出題のパターンや傾向をつかむことが重要であると思います。


  今後においても、試験制度や施行体制は変わっていくのだと思います。そのことの是非に関する議論も必要だとは思いますが、あまり良くないルールであってもルールはルールです。その制度や規則のなかで克服していくしかありません。要点を的確に捉えたうえで、合格に向けた効果的な取り組みを工夫していくしか方法はありません。

 今日、インターネットの普及は隔世の感があります。APECさんのように真摯で熱意のある指導や情報提供をされている人もおられますから、必要と思われる情報を効率的に入手していくことです。その上で、合格のためにはある程度の量的な勉強は不可欠であると思います。また、100点を取る必要はないのですから、合格に必要な得点を科目ごとに想定して、弱点の克服と得意科目のさらなる強化を行いましょう。

 重ねて言いますが、制度等に関する議論については、合格してから発言しても良いのではないかと思います。何が正しいかということを探っているうちにも時間は過ぎていきますから、限られた時間は有効に使う方が良いと思います(そのような姿勢を問う人もいるとおもいますが)。それは、私の実感として45才を過ぎた今では、40才であった5年まえとくらべてはるかに時の経つ早さを感じるからです。

 20才の人の1日も50才の人の1日も時間は同じはずです。しかし、体感時間はぜんぜん違うと思います。若いときは、時間などいくらでもあると思いがちです。しかし、その時々に必要なことを吸収しておかなければ、年を経てから勉強していくのは中々大変です。若い人に言いたいのは、明確な目標をきちんと持とうということです。逆に、ベテランの方々に伝えたいことは、無駄のない効率的な取り組みの勧めです。

 さらに、重ねて言いたいことは、ベテランの方々に対して、「焦らず、それでもきちんとやりましょう」ということです。忙しい仕事や業務に逃げたり、制度や仕組みに対する不条理のせいにしたり、また、その議論の論客になったりすることよりも、合格するための取り組みをいかに効率的にやるかを考えましょう。そして、資格を取得してから、胸に秘めた志の実現に取り組みましょう。

 「世の中の役に立つものづくりへの貢献」私の場合でしたら、このようなことでしょうか。そのような志を胸に秘めながら、一つ一つ課題を克服していきましょう。一歩ずつでも進んでいれば、必ずゴールへは近づいていきます。大切なのは、その歩みを止めないことだと思います。桜咲いた人も散った人も、次への取り組みをすぐに始めましょう。けっして焦らずに……



2004年 1月 19日           防災より防犯とは



 いつのまにか、「あけまして」の挨拶もいらなくなりました。年度末に向かって忙しく業務に追われている人が多いのではないでしょうか。疲れて体調を崩し、風邪をひいたりしないように気をつけたいところです。根が好きなため、新年会などではついついはめをはずしてしまい、体調不良と自己嫌悪の朝を迎えることが多い私などが、えらそうに言うことでもありませんが……

 さて、この17日で、あの阪神大震災から9年目を迎えました。6433人という多くの犠牲者が出た未曾有の大災害から9年が経ってしまったのですね。神戸からは遥かに離れておりますが、あの明け方の強い揺れは今でもしっかり記憶しています。いやな予感を持ちながら、テレビのスイッチを入れたのを思い出します。

 その後、テレビの画面から映し出された光景はとても悲惨なものでした。阪神高速の倒壊した様子などは、我が国で起きた事実として受け入れることが出来ないくらい衝撃的でした。また、あちらこちらから上がる火の手の中で、それを伝えるだけで何の手立ても持たずに、むなしく飛び回るヘリコプターの姿が印象的に見えたことをはっきりとおぼえています。

 それでも、96年9月には阪神高速神戸線が全線開通し、97年5月には復興宣言が出されるなど、目覚しいスピードで神戸は復興していきました。もちろん、長年住み慣れた土地から離れざるを得なかった人達や、多額の借金・ローンの重複、弱者の立場を汲取りきれないジレンマなど、たくさんの傷跡を残しての復興であることには違いないと思います。

 しかし、私が日本人としてというか、この国に住むものの一人として誇りに思えたのは、あの大災害でパニック状態になった中でも、被災者の人たちが助け合い励ましあいながら復興へと向かう姿でした。心無い人間による火事場泥棒なども少しは有ったように聴いていますが、外国で起こるような略奪や暴動などは無かったと記憶しています。また、国籍や肌の色、それにまつわる難しい問題を度外視した協調もあったと聞いています。

 まさに、そのことがこの国に住み暮らす人間としての誇りのように、当時の私は感じておりました。しかしながら、あの震災から9年が経った今日、神戸や関西の百貨店などでは、防犯用品の売れ行きにおされ、防災用品があまり売れないと言う話を聞きました。時間の経過による災害の痛みが薄らいだと言う考え方もあります。

 しかし私は、あの未曾有の大災害の中でも協力しあい、防犯などにそれほど力を注ぐ必要の無かった住民のポリシーが低下しているのではないかと、不安な気持ちを抱かずにはいられません。数字ではわかりませんが、実感としては、震災のあった95年頃に比べて、最近の方が凶悪な犯罪やすさんだ事件が多い気がします。

 考えてみれば、我々は自分で自分の首をしめているのかもしれません。人々に高い倫理観や道徳観があれば、セキュリティにかける費用は少なくてすむはずなのに、権利や欲望の追求に進むあまり、公共というものや環境への配慮が置き去りにされる傾向にあるのではないでしょうか。犯罪の発生率の低下や治安の向上のためには、単に警察官が増員されればことが足りるのでしょうか。

 少なくとも、私たちが成長していく過程にあった時代では(今の若いものはと嘆くお年よりもおりましたが)、考えられないような光景も見ます。制服のまま堂々とタバコをふかす中高生(かつては、少なくとも大人の目は気にしていた)や、平気で大人につっかかる若者達です。また、陰湿に一人を大勢でいじめたり、暴力を加えるという話があまりにも多すぎると思います。

 我々大人が、手本となるような生き方をしていないからだと言えばそれまでですが、子供の頃から、きちんと叱られたり教えられたりして育っていないからわからない、というのが実際のところだと思います。人は誰でも、優しい気持ちや人の役に立とうと言う気持ちを持って生まれてくるはずです。しかし、愛情を受けてきっちり教えられなければ、そのような気持ちを形にすることが出来ないのだと思います。

 少し話はそれましたが、防災よりも防犯に力を注がなければならない世の中が良いはずはありません。防犯カメラがいくら増えても犯罪は減らないのだと思います。かつて、私たちの先祖が培ってきた日本人のポリシーというものが、我々の社会の一つの規範として甦ることが必要なのだと感じています。

 防犯やセキュリティにかける費用を減らし、その分防災に関する技術開発や、社会資本整備に資金が回るような世の中を目指したいものです。


2004年 1月 5 日          箱根駅伝に思う



 新年、明けましておめでとうございます。このHPを立ち上げてから二度目の正月を迎えることとなりました。戸惑いながら手探りで、何とか続けてきたような気もします。それでも、誰かの心に何がしかの思いが伝わることを信じて、また、そのことにより技術だけでなく、技術者としての心意気のようなものを育んでいく人が増えることを期待しながら、このコラムを書いて行きたいと思います。

 さて、正月といえばサッカー、駅伝、ラグビーなどスポーツイベントも盛りだくさんで、テレビ観戦もつい力が入ります。しかし、ラグビーなどは、トップリーグが創設されレベルアップしているのかもしれませんが、かつて、新日鉄釜石が七連覇していた頃の試合方式が面白かったと思います。社会人のトップと学生のナンバーワンが成人の日に激突するという構図が懐かしい気がします。

 最近では、2日・3日と行われる箱根駅伝が、私にとって一番注目するテレビ中継かもしれません。それにしても、この駅伝は一区間が20km以上というとても過酷なレースです。毎年のように、体調不良による大きなブレーキや、怪我にともなう棄権など、様々なアクシデントが起こります。どのチームが勝つのかということも興味がありますが、そのようなアクシデントが起こらないことを祈りながら見ていることが多い気がします。

 今年も、優勝候補の一角と言われていた大東文化大学の馬場選手が5区で脱水症状を起こし、大きなブレーキとなりました。ふらふらになりながらゴールした姿もそうですが、復路のゴールでアンカーを迎える時に見た悲痛な姿に胸が痛みます。おそらく、どのような慰めの言葉にも心が癒されることは無いのではないでしょうか。

 実は、私も同じような経験をしています。私の場合は、陸上競技では無くソフトテニスという競技ですが、高校生の時の最後の試合を棄権しています。知らない人もいるかと思いますが、ソフトテニスは二人一組のペアで試合をします(シングルスもありますがダブルスが基本です)。

 その、最後の試合というのは、国体の予選でした。8月のお盆の頃だったと思いますが、とても暑い日が続いていたと思います。当時キャプテンをしていた私の相方は、前衛としてとても素晴らしい選手でした。今でも私は、同期の県内の前衛の中で彼が一番上手だったと思っています。事実、我々はその年のインターハイにも出場していましたし、ベスト8の総当りのリーグ戦を勝ち抜き、岡山代表の3ペアに残る自信も有りました。また、周囲からも期待されていました。

 しかし、今より10kg以上も細かった私は、国体予選にむけた合宿の間にさらに体重が減り、一週間のその間に4kg位痩せて体力も疲弊していました。理由は、偏食が多く何でも食べられなかったことと、板場のような固い床に寝ていたことにより疲れが取れなかったことだと思います。他の仲間も同じような環境におりましたが、当時の私は、今とは比べ物にならないほどひ弱で、気持ちばかりがとがっていた人間だったと思います。

 そして試合当日、冷たい缶ジュースを飲んだ後激しく嘔吐し脱水症状をおこしました。救急病院に運ばれ点滴などを受けましたが、その日に立ち上がることは出来ませんでした。試合を後に回してもらい、相方が病院に迎えにきてくれましたが、とても、試合に出られる状態ではありませんでした。数日入院したあと、岡山の叔父が迎えに来てくれて家まで運んでくれたのを覚えています。

 本当に悲しく、ボロボロ涙を流してなきました。それは、私よりも相方の方が辛かったと思いますが、わたしの心にも深く傷として残っています。後日彼が、私たちが試合をするはずだったコートのネットの下に、埼玉インターハイの時の記念バッジを埋めて泣いていたことを他の人から聞きました。それが、私たちにとって高校生最後の試合(公式戦)となったのでした。

 自分の体調を考え、チームに迷惑をかけないことはとても大切なことです。一口にコンディション調整などといいますが、極限まで頑張らなければならない条件のなかでのそれは、とても難しいことだと思います。ですから、年末の高校駅伝や正月の箱根駅伝を見ると、それぞれが持てる力を存分に発揮し、悔いの無いレースが行われるように祈らずにはいられません。

 幸いなのかどうか、大東文化の馬場選手は3年生だったと思いますので、来年に雪辱を晴らすことも出来ると思います。それでも、胸の傷が消えることは無いでしょう。しかし、長い人生を生きていくうえでは、必ずその体験が役に立つときがあるはずです。陸上競技だけでなく、他の仕事についたときなどにおいても、必ず役にたつことがあると思います。是非、人生の糧として欲しいと思います。

 正月としては少し辛い話をしましたが、辛いことや苦しい経験は必ずあとから自分の役に立つものだと思います。また、それは、できるだけ若いときにたくさんしておく方が良いと思います。年をとってくると、わずかな逆風でも強く感じるものですし、立ち直る力も弱くなってしまいます。若いときにそのような経験を積んでおけば、痛みに耐える力もそれだけ強くなるのだと私は思います。

 それと、できれば自分自身の体で感動する体験をしましょう。テレビ観戦なども良いですけれど、若いときに、自分の極限に挑戦した思い出がたくさんあれば、なお胸にせまるものがあると思います。年々、涙腺が弱くなっていく自分に対して、そのような言い訳を思いついている新年です。


                                                                   このページの先頭へ