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これまでのコラムが納めてあります。
※バックナンバーはNO.1~NO49です。できれば、通してお読みください。
  (根底に流れるものを、くみ取っていただけると思います)
                    

                         

                     明治神宮                   春日大社                 唐招提寺            薬師寺(東塔)

NO.49前回のコラム        

2022 12月 29日 一年を振り返り一言   




 早いもので、今年もあと僅かとなりました。戦という、今年を表す漢字のように、波乱と激動の一年であったといえるでしょう。来年こそ、穏やかで優しい風が吹く一年になって欲しいと願うばかりです。

 今年は、北京オリンピックの感動に酔う間もなく、ロシアによるウクライナ進攻によって始まりました。そして、その侵略行為は未だやまず、厳冬の中でウクライナ市民は震えているのだと思います。さらに、忘れてならないのは、心ならずも戦地に送り込まれている多くのロシア兵達も、厳しい寒さに晒されているということです。恐らく、既に彼らの士気は下がり、心は故郷の母や恋人のもとにあるのでしょう。

 本当に、誰だって他者の命を不条理に奪いたいとは願わないはずです。それなのに、どうして行きたくもない戦争に行かされなければならないのかと、ロシアの兵隊もウクライナの兵士も考えているはずです。そのような、本来人々がシンプルに抱く感情や願望などは、国家というような形態になった時にはいとも簡単に奪い去られてしまいます。特に、ロシアをはじめとする専制主義の国では顕著です。

 とはいえ、民主主義を標榜しているこの国において、そのことを含めた真の意味での「民主主義」が行われているかどうかは、意見が分かれるところだと思います。一方で、その別れる意見を自由に述べることができることは、大切なことであり良いことであると思います。願わくば、一人一人がこの国の将来や進むべき方向性をよく考えて、子どもや孫達のための有益な議論が活発に行われることを望みます。

 のっけから、いつものそもそも論的な筆致になってしまいました。元に戻って一年を振り返れば、何といっても7月の安倍元首相の射殺事件が頭に浮かびます。一つには、この国の要人警護をはじめとする安全管理に関する不安を感じました。それよりも、声を大にして言いたいのはマスコミの姿勢です。犯人の動機が、旧統一教会への恨みによるものだと解った途端に、大きく取り組む姿勢を変えました。

 それは、まるでこの問題を今知ったかのような勢いでした。そこに、懐疑と空恐ろしさを感じた人もいたのではないでしょうか。これはあらゆるメディアを通してですが、社会正義の担い手としての自負をしっかりと自覚した報道姿勢を強く望みます。さて、今年も、私が興味を抱いていることや関心をもっている話題 がたくさんありました。中々、少ないスペースでは語り切れませんが、少しだけ触れてみます。

 まず、ボクシングではカネロ(サウル・アルバレス)対ゴロフキンの決着戦です。因みに彼らの試合は全て判定による決着です。しかし私は、一戦目のドローと二戦目のカネロ勝利の判定には異論があり、ゴロフキンが勝っていたと思っています。そのうえで、第三戦をみましたが、今回は判定通りカネロの勝利かなと思いました。やはり、年齢的なこともありゴロフキンはピークを過ぎているなぁという印象でした。

 もちろん、選手としては、敬意を持てる良い選手だと思います。そのことは、村田選手との試合でも垣間見えました。因みに、私はメイウェザーのようなタイプは好きではありません。何といっても、日本人としては井上選手のバンタム級4団体統一が、ハイライトではないでしょうか。まことに、モンスターの名に恥じないPFP(パウンドフォーパウンド)1位と言わせる試合内容での記録達成でした。

 また、ヘビー級の再統一や、テレンス・クロフォード対エロール・スペンス戦など、観たい試合が色々あります。続いて、藤井颯太竜王の活躍が続く将棋界では、来春早々羽生対藤井の王将戦が始まります。これも楽しみですが、A級リーグでも藤井竜王が現在トップで、最年少名人達成への期待もかかります。囲碁界においても、王者井山に許家元・芝野虎丸・一力遼の3人衆の活躍が期待されます。

 一方、サッカーのワールドカップで日本は、競合のドイツ・スペインと強豪を破り決勝トーナメント出場を果たしました。PK戦で惜しくも敗れたクロアチアも、3位に入る見当でしたので、評価されるべき成果だと思います。何よりも、試合内容そのものが「強くなったなぁ」という印象を与えてくれました。改めて、サッカーの持つ大きな影響力も感じました。

 身近なところでは、ウエストランドが年末のM1でチャンピオンになったことは、私を含めたこのまちの人達にとって大きな明るい話題になりました。特に、彼らは息子の同級生(中学校)でもありまして、思わずシンパシーが湧いてきます。これからの活躍にも、大いに期待したいところです。他にも、ゴルフ・野球・好試合を見たアイスホッケー・ラグビーなど、触れたい話題はありますがこの辺にしておきます。

 来年も、読みたい本を読み、観たいものを観て、会いたい人に会うという自身のテーマに従い、少しでも異議ある日々を過ごしていきたいと考えています。最後になりますが、今年も意義深い出会いや、良い人達との意味のある交流を深めることもできました。皆様、良いお年を。来年もよろしくお願いします。



2022 12月 19日 忙中思うこと   




 私の住んでいるところでは、急に寒くなったような気がします。考えてみれば12月で、今年も残りわずかとなりました。つくづく、時の経つ速さを感じているところです。

 幸か不幸か、私も師が走るという、12月の忙しいスケジュールに追われながら過ごしています。また、来年の選挙に向けた取組もしなければなりません。とはいえ、コロナ禍の影響により、ほぼ3年間それらしい活動は出来ませんでしたので、すっかり忘れてしまったような感じです。また、現在も第8波と言われる感染者増の波が訪れているようですから、様子を見ながら慎重に活動している状況です。

 これは、どんな世界でも同じだと思いますが、真面目にやればやるほど「やること」或いは「やるべきこと」が次から次へと出てきてきます。そして、その生活は結構忙しくもなります。もとより、議員などという立場の人は衆目に晒され、厳しい評価を受けることはよく解っています。それでも、夫々の議員に対する評価という視座に立てば、適正な視点からしっかりと吟味してもらいたいものだと思います。

 しかしながら、流言飛語や根拠の怪しいネット情報などが飛び交い、中々、公正な評価がされているなぁとは思えないのが実状です。もちろん、評価などというものは他者がするものですから、される側がどうこう言っても始まりません。それでも、せめて自身で質問原稿を書いているか、或いはそれが他者が書いたものであっても、きちんと理解し咀嚼できているか位は見極めて欲しいと思います。

 また、ともすれば敵とか見方とかの構図を作り、ファイティングポーズを取りたがる人達もいます。そのような姿勢で、子どもや孫たちのための未来に資する施策実施のチェックや、提案は出来ないことは明らかです。自分自身への戒めも含めて、真に是々非々で議論する姿勢を持ち続けたいと思います。明日には12月議会が終わりますが、今年一年の議員活動を振り返り、そのようなことを考えています。

 ところで、防衛費の2%枠への拡大を踏まえて、財源としての増税議論が俄かに高まり、いつものように強引とも思える提案と玉虫色といえる決着(暫定)がなされました。そのようなことは、元統一教会に関する救済法案成立を巡る様子を見ていても、同様に感じることです。何か、目先の課題に対して行き当たりばったりで、その場しのぎのような対応を図っているという印象が拭えません。

 例えば、根本的な考え方に立ち返り、増税の議論をする前に国会議員の定数を削減したらどうかと思います。今のような、違憲状態といわれてその場しのぎのつじつま合わせを行うよりも、シンプルに考えたらどうでしょうか。一例ですが、基本的に各県に最低一人を割り振り、後は東京を20人程度と決め、その他の道府県の人口に対して比例配分で割り振っていけば良いのではないでしょうか。

 予断を排して、シンプルなルールで事務的に決めれば、250人~300人位にすることは簡単なはずです。また、そのことにより増税で確保したい財源の3~5%が確保できるはずです。金額よりも、国民の負託を受けて国の舵取りをすべき議員自身が、身を切る姿勢を示すことが大切です。現状のように、小さな選挙区で内向きにご機嫌を窺うような仕組みでは、国家存亡に関わる議論は難しいと思います。

 私も、ときおり、国会議員が本業をそっちのけにしで、挨拶回りやイベントへの参加に奔走する姿などを見かけます。もちろん、そのような人ばかりではありませんが、心から何をやっているのか~と残念な気持ちになることがあります。そして、自らの志を問い直すことになります。胸に手を当てて恥ずかしくない行動をするという、私達が子供の頃から叩き込まれた日本人の精神性が、改めて思い出されます。

 そして、もう一つ思うことは、何をするにしても人が良くなければ上手くいかないということです。言い換えれば、人さえ良ければ~ということになりますが、それが、私がこれまでの活動を通してたどり着いた一つの答えでもあります。だからこそ、例え時間がかかってもそのための「人づくり」をしていくことが大切だと思います。既に、私の廻りには地道にそのことに取り組んでいる人達が何人もおられます。

 私も、僅かながらでも出来ることを模索していきたいと考えています。何というのか、意識を変え取り組む姿勢を持つことが大切なのだと思います。何もやらなければ、ただ衰退していくばかりです。そのことは、半導体分野における我が国の衰退や、いつの間にか日本の技術を基に、躍進を果した隣国の企業達をみれば明らかです。しかもそれは、20年~30年というスパンで起きた事実です。

 実際、それ位のスパンがあれば、充分「人づくり」も可能なはずです。そのことの一助を担えたらなぁと考えています。M1でウエストランドがチャンピオンになり、素晴らしい激戦を制してアルゼンチンがワールドカップを手にした未明に、つれづれに浮かぶ思いを綴ってみました。



2022 12月 5日 経験知の礎




 いよいよ師走に入りました。ワールドカップ日本代表は、ドーハの歓喜から落胆、そしてまた歓喜といった感じで一次リーグを通過しました。初めての、ベスト8以上を目指して頑張って欲しいところです。

 明るい話題の乏しい今、その結果に一喜一憂しながら、日本中の人達が盛り上がっているという状況ではないでしょうか。私もその一人ですが、つくづく見ている方は楽だなぁと思います。実際に、試合に臨んでいる選手や監督の胸中は、どんなものであろうかと考えたりします。また、その試合に臨んでいる一人一人についていえば、ここまで歩んできた経緯を踏まえた夫々の思いがあるはずです。

 かつて「外れるのはカズ」と、緊張した面持ちでメンバーを発表した岡田監督の顔が思い出されます。その他にも、日本代表メンバーの選考に関しては、これまでにも様々なエピソードやドラマがありました。今回も、大迫がどうなるのかということが注目されていたと思いますが、最終的にはチーム作りは監督の権限です。また、ここまでの結果からいえば良い判断だったということになるのでしょう。

 もちろん、サッカーの試合は団体戦ですから勝つことがベストだと思います。一方で、選手には試合に出て活躍したいという願望が常にあるはずです。そうなると、自分が出ていない試合に関しての、結果や評価に対する考え方は変わってくるのではないかと思います。また、そもそも代表メンバーに選ばれるかどうかという時点における精神的な負担や葛藤を考えると、大変だなぁと思います。

 ところで、私などはあまり団体競技には向かないタイプのようでありまして、勝った試合でも自分が活躍していないと満足できないようなところがあります。例えば、私がかつてやっていたテニスや柔道・剣道などとにおける団体戦は、個人同士が対決する形の団体戦ですが、例えチームが勝っても自分が負けた場合には納得がいかず、結構へこむタイプであったように思います。

 単純に言えば、そこには見栄っ張りで自己顕示欲が強い私の性格が現れているということなのかもしれませんが、強ちそうばかりでもないような気もします。上手く言えませんが、あえていえば責任感の表れであるといえるような気がします。そのようなこともありまして、若い頃の私は今からは想像できない位プレッシャーに弱いというか、試合において所謂ビビるタイプであったと思います。

 少し話はそれますが、私はスポーツにおけるプレッシャーのかかり方は、そのスポーツによる作用点の近さに関係していると考えています。簡単に言えば、力を発揮する位置が身体に近いほど精神的な影響を受けにくいということです。まず、シンプルに走る・跳ぶ・投げるというような協議では、身体に伝わる意思伝達が比較的スムーズに行われるのではないでしょうか。

 その次に、柔道やレスリングのように身体を密着させて闘う競技が、プレッシャーを受けにくいように思います。また、よく似てはいますが、相撲や空手のように相手との間に少し隙間が空くと、所謂番狂わせの確率は高くなってきます。同様に、ラグビーやバスケットよりもサッカーの方が、勝敗結果が予想がし辛いものになりますし、野球・ゴルフというように作用点が遠くなればその傾向は強まります。

 そのことは、スポーツは人間が身体を動かしてやるということを考えれば、当たり前のような気がします。したがって、その時の情緒感や精神状態などによって、得られる結果が大きく左右されることもあるように思います。事実、イベントや女子との交流などが関係していると、調子を乱す場面はいくらでもあったような気がします。もちろん、それは私の周囲の人達を含めて言えることだと思います。

 一方で、人間は、そうした部分においても生い立ちや、経験してきた体験が投影される生き物だと思います。もちろん、個人が備えているDNAが行動を司るということは前提ですが、それまでの体験や経験によって冷静な状況判断力や集中力が身につき、何となく勝負強くなったなぁと感じることがあります。また、そこでいう体験や経験は、直接競技や仕事などとは関係ないことが多々あります。

 そこには、修行や修練のような形で励んだことばかりではなく、何も考えずひたすら求めて取り組んだことや夢中になって遊んだ記憶などが、意外と影響しているように思います。まことに、人の心の中は、自分自身でも解らないし掴めないものだと思いますが、無駄に思えることや利害関係を考えずに行動してきたことの中にある要素が、安定した情緒感や冷静な判断力の礎になるような気がします。

 今の社会では、何でも検索すれば答えが解るような錯覚を覚えますが、実は、それでは解らないことの方が多いはずです。ひたすらやってみた先にこそ、何かが見えるはずです。できる限り、そんな姿勢で世の中の役に立つ仕事をしていきたいものだと願います。



2022 11月21日   言葉




 明後日は勤労感謝の日です。12月には祭日が無くなりましたので、今年最後の祝祭日ということになるのでしょうか。カレンダーも、人間の都合で変わっていくものではあります。

 さて、随分朝晩は冷えるようになってきました。とはいえ、先日新潟方面に出張する機会がありまして、こちらとは違う冷え込み方を感じてきました。帰ってきてから思うことは、日頃「冷える」というような言葉を軽々しく使い過ぎているのではないかという自己反省です。それに加え、訪れた先の人々の優しさと穏やかさにも触れました。概して、気候が厳しい方が人々が優しいように感じるのは私だけでしょうか。

 そのことは、比較的温暖で災害が少ない地域に住みながら、他者への思いやりや協調性などという面において、何度も首を傾げたくなる思いをしてきたことに由来しています。そのような気持ちは、簡単に言葉で表せないものですが、常日頃私が標榜している「人さえ良ければ」という概念に結びついているものです。一方で、私と価値観を共有してもらっている人達の間では、共通した認識だと思います。

 まったく、言葉というものは人間にとって不可欠なものでありながら、中々取り扱いが難しいものだと思います。何しろ、言語というものは同じ言葉であっても、人それぞれに理解や認識が違ってしまうという宿命のような課題を背負っています。ある人が「疲れた」という時、どれくらい疲れているのか、或いはそれは身体だけでなく精神の面でも疲れているのかどうかなどは、中々読み取ることはできません。

 むしろ、その言葉を聴く側の人との関係性に依存する部分の方が大きくなるように思います。その言葉を聴いた人が、相手の置かれた状況を慮ったうえで、喋っている表情などから本来の心情を推察することになるからです。しかしながら、それでも完璧に他者の思いを理解することは不可能です。あの時のあの言葉は、実はそういう意味もあったのか~と自らの配慮の足りなさを悔やむことは良くあります。

 一方、相手の言うことに簡単に頷きながら、同じように相手の意向に沿わない言動を繰り返す人もいます。実際、日常生活においては、そのようなことは本当によく見かけられることです。さらに、質が悪いのは「理解しているようなふり」をして、平気で同様の振舞を繰り返す人がいることです。基本的に、人間は聴きたいことしか聴かない生き物ではありますが、虚しさを覚えることも多いものです。

 もっとも、そのような振舞に関する責任は人間にあるのであって、人間が生み出した言葉に責任がある訳ではありません。ところが、若い頃には言葉によって、そのような振舞をする人を質そう(糺そう)としがちです。私などは、その典型のような人間であったかもしれません。しかしながらこの頃思うことは、人は自分の聴きたいことしか聴かないし、容易に他者の考え方を変えることもできないということです。

 したがって、年齢と共に同じような価値観を共有できるような人達との関係が、深まっていくことになります。また、上手くは言えませんが、そのようにして人間関係は収斂されていくものではないでしょうか。幸いにも(というべきかどうかわかりませんが)、私の信条はそのようにしてシンプルになっていき、現在の心情はかなり落ち着いたものになってきていると思います。

 まさに、あれもこれもという風ではなく、大切なものを吟味しながらここまできたような感じです。そして、そのような思いを深めていく過程において、言葉というものに対しても、より真摯に向きあいたいなぁと思うような気持ちが強くなってきたように思います。元々私は、ことある毎に日本語に愛着があることを標榜してきましたが、その気持ちはこれからも大切にしていきたいと思います。

 日本語にはあいまいな表現も多く、最後まで聞かなければ解らないようなこともあります。また、相手を表す言葉も英語ならYOUの一言ですが、貴方・お前・貴様から自分・あんた~まことに多様な表現形態があります。それでも私は、それだからこそ日本語が好きなのだと思います。シチュエーションや状況設定により、最もふさわしい表現とはどのようなものだろうと考えることが好きなのかもしれません。
 
 ところで、この度ルール変更してまで異例の3期目の政権を手にした、隣国のリーダーのキャビネットのNO2は、李克強から李強に替わりました。克は克服に通じ、物事を制するという意味があります。一方で、中国語には物事を厳格に定めるという意味もあるようです。まことに勝手な解釈ですが、克という字が抜けてルールがなし崩しになっていくことを象徴しているのかなぁと考えてしまいます。

 相変わらず、物事を斜めから見る傾向があり、厭世的な表現になりがちの小欄ですが、これからも忌憚なく思うところを述べていこうと考えています。



2022 11月7日  心の欲求




 暦は、早、立冬です。とはいえ、体感的には秋深し~という感じです。周辺では、「三年ぶり」という言葉と共に、文化祭などイベントが行われています。一日も早い、当たり前の日々への回帰を願います。

 さて、読みたいものを読み、観たいものを観て、会いたい人に会うというのが私の信条であることは、常日頃から繰り返し述べているところです。しかしながら、人がいつでも自分の思うままに過ごせるわけではないことは、改めて語る必要もないことでしょう。また、世の中の多くの人が、様々なしがらみの中で、こなさなければならない務めを果たしながら生きているのだと思います。

 もちろん、私もその中の一人として、応分の義務を果たしながら生きている訳です。さらにいえば、人のために良かれ~などと思うようなことも含めて、自らの頭と体を動かしているつもりです。一方で、その行動に対する成果が自らが企図したものになるか、また、その評価が自らが望んだようなものになるかという保証はありません。長年の経験から言うと、そうでないことの方が多いともいえるでしょう。

 さはさりとて、人は自身が思うようにしか生きられないのも事実です。したがって、複雑な社会情勢や人間関係の中で、できるだけ自らの内面から湧き上がる欲求に従って生きようと思うはずです。私自身、そのような考えで物事を取捨選択しながら、ここまで生きて来たのだと思います。そして、そのような生き方の中から生まれたのが読みたいものを読み、観たいものを観て、会いたい人に会うという信条です。

 考えてみれば、一人の人間に与えられた時間などというものには制約がありますから、思いつくことを際限なくやることは出来ません。そう思うと、貴重な時間を使って出来ることや、やるべきことを選ぶような気持ちが出て来たのだと思います。それは、一見良いことのように思いますが、もう少し早くそのような気持ちになれなかったのかという、自身の未熟さへの悔恨のような気持ちも浮かんできます。

 いずれにしても、齢を経たそのような感覚で抱く信条に従い、自らの好奇心を満たそうとしているというのが、最近の私の生活実態です。したがって、書籍の形態を問わず活字に親しみ、興味を引く話題にあたっています。実際、乱読の斜め読み傾向がありますので、随分危なっかしいところもある私です。何よりも、その物事の概要を早く知りたいタイプなので、気を付けないといけないなぁとは思います。

 ところで、色々触れたい話題はありますが、最近囲碁・将棋界に言及していませんでしたので、少しだけ触れたいと思います。囲碁界では、先日名人戦が終わりました。1勝3敗からフルセットまで持ち込んだ井山裕太本因坊が、名人位を芝野虎丸新名人に奪われました。実は、芝野虎丸(虎ちゃん)は3年前に史上最年少名人になっており、井山本因坊が取り返し連覇した後の今回のタイトル戦でした。

 その井山裕太は、年間7大タイトル制覇を二回も達成するなど、近年の囲碁界をけん引してきた看板棋士ですが、ようやく一力遼棋聖と芝野虎丸名人による3強体制の様相を呈してきたことは、囲碁界の活性化に繋がるものだと思います。一方の将棋界では、対局中のマスク不着用で佐藤天彦九段が反則負けとなる事例がありました。佐藤九段は不服申し立てをしており、その経緯には疑問も残ります。

 そもそも、マスク着用に関して注意を促すとか、このような場合失格にするという明確な規定があったのかどうかと思います。まぁ人情的には、「マスク忘れてますよ」で済むことのようにも思いました。一方で、そのことによる発奮の成果なのか、佐藤九段は棋王戦の予選トーナメントであの藤井颯太竜王(五冠)から勝利を挙げました。佐藤九段の、A級リーグにおける今季の苦戦を考えると少しほっとします。

 これには余談があり、その棋王戦の挑戦権獲得に関しては、目下のところ羽生善治九段が最有力候補として佐藤九段を待ち構えている状況です。因みに、羽生善治九段は棋王のタイトルを獲得すると、生涯獲得タイトルが100期となります。また彼は、全てのタイトルにおいて永世称号を獲得しているレジェンドですが、52歳になった現在の活躍が多くのベテラン世代を励ますことに繋がっています。

 励まされるといえば、毎年文化の日に行われる全日本剣道選手権大会で、愛媛の村上哲彦5段が優勝しました。現在の剣道界で、30歳がベテランと言えるかどうかわかりませんが、準々決勝のあたりから中継を見ておりますと、そこに至るまでの各自のドラマなどが彷彿とされてきます。秋の日の午後、剣道という競技の持つ独特の雰囲気の中に、精神性という大切なものをしっかりと感じさせてもらいました。

 そんな感じで、概ね観たいものも観られています。さらには、点と点を結ぶようなスケジュール調整をしながら、こんな組み合わせで飲めるのかというような楽しい宴も催すこともできました。これから年末に向かいますが、そのようにして、なるべく心の欲求に忠実に暮らしていきたいと考えています。



2022 10月24日 疲れないように真面目に




 すっかり、秋が深まりました。現在は、暑さと寒さが二極化する傾向にあると思います。それでも、その中間にあたる秋の情緒は残っています。これ以上、味気ない二極化が進まないことを願います。

 二極化といえば、アメリカや中国など超大国の実体経済を思い出します。またそれは、一部の富める人が富を独占し、貧しい人が増え続ける実態に支えられて成り立っているものだといえるでしょう。もちろん、政体からいえば専制主義と民主主義の違いはあります。しかしながら、結果的に起きている現象は似通ったものになっています。まことに、皮肉なことだと思います。

 かつて、鄧小平が改革開放に舵を切った時、キッシンジャーは経済が資本主義で政治が共産主義というダブルスタンダードは長く続かないと言いました。そのような政体は、必ず内部から崩壊するとも語っていました。しかしながら、指導者という名の人物が全権を掌握するような政体は、彼の国で今も続いています。のみならず、指導者が自らの権力を強化し、掌握し続ける体制さえ構築されています。

 振り返ってみると、そのやり方は、犯罪ともいえるやり方で隣国に侵略戦争を仕掛けたもう一つの大国の指導者の手法を、大いに参考にしているように感じられます。なるほど、やりたければルールを変えれば良いんだ~という感じでしょうか。いずれにしても、一人の権力者が大国を牛耳っていくという構図は、これからも続いていくのだと思います。事実、内側からの変革というのは難しいようです。

 所謂、民主主義という視点に立てば忸怩たる思いですが、その民主主義の旗頭としてあるべき世界一の経済大国でも、強権的なリーダーシップを望む動きは高まりを見せています。また、自由主義という政体においても、一部の富裕層が富を独占する寡占化は顕著になるばかりです。結果的に、これまで中流と位置付けられていた階級の地盤沈下というか、レベルダウンが進んでいます。

 その原因の一つとして、超大国を中心に進められてきた経済のグローバリズムを追及する流れが、我が国へも大きな影響を及ぼしていると思います。また、長年給料が上がらないこの国では、所謂中間層の地盤沈下はさらに深刻な状況です。その背景には、資源のない国において取り組まなければならないはずの、技術力やそれを支えるための基礎研究を支援し育てることを怠ってきたことがあります。

 さらにいえば、国家の根幹を支えるための人づくりという意味において、教育施策のあり方が問われるといわざるを得ないでしょう。やはり私は、本来の日本人の精神性に支えられた、高い志を備えた人を育てていくための教育が必要だと思います。また、その取り組みを支えるために、地域の子どもは地域で育てるというような、かつてこの国のどこにもあった地域社会の形成が必要です。

 しかしながら、実際には残念な事例に接する機会が多く、人さえ良ければ~という思いを抱きながら、葛藤する日々を過ごしているというのが実状です。心にも、疲労感が澱のように溜まっていきます。そのような時、その疲労感や虚しさを癒してくれるのが、同じような考え方や価値観を備えた人達との交流です。上手く言えませんが、私の場合この部分においてはとても恵まれていると思います。

 それは、これまでの私の人生において培い育んできたものだと考えています。言い方を換えれば、私の財産と言うべきものでもありますし、大事にしていきたいものだと考えています。一方でそれは、読みたいものを読み、観たいものを見て、会いたい人に会うという、私のライフスタイルを支えてくれる大切な柱でもあります。いまさらながら、有難いなぁとしみじみ思っています。

 ところで、読みたいものの中には週刊誌(主に文春・新潮)もあります。基本的に、気に入った人のコラムを楽しみに読んでいますが、項数を考えると文庫本等に比べるとコスパは良いとは言えないかもしれません。それでも、90歳を超えた五木寛之氏のご健勝の様子を確認したり、ほのぼのとした福岡ハカセの文章に癒されたりすることは、私にとっては意味のあることに違いはありません。

 そういえば、大作家の五木先生でも、言葉を荒らげるという表現について「あらげる」という風に使っていたことを述べられ、間違った語句の使用や思い違いなど、人間の持つ意識の危うさなどについて語っていました。とても面白かったです。その他、色々な人のコラム記事や川柳・俳句・漫画など、短期間に楽しめる記事も掲載されているので、強ちコスパが悪いとも言えないかもしれません。

 何といっても、寿司屋のカウンターで薔薇や檸檬といった漢字を書いて、あの夏目雅子を口説いた博打の師匠的な人(私の一方的な思いですが)が、人生相談などをやっているのをみるとにやけてしまう自分がいます。肩肘張らなくても良いんだと、気持ちにゆとりが生まれる気がします。そして、疲れないように、真面目に生きていこうという気持ちが湧いてきます。



2022 10月10日 人間の都合




 暦は寒露となり、かつての体育の日を迎えました。確か、前回のオリンピック(東京)の開会式が行われたことを記念して制定され日だったと思います。

 今日では、我が国の祝祭日のあり方は一変しており、そのような歴史的意義よりも、休日としての使い勝手に主眼が置かれた扱いになっています。まさに、人間の都合に合わせた取り扱いといえるでしょう。レジャーなど、休日の予定などを考える時には便利ですが、記念とすべき日について考えたり思いを馳せるという意味においては、当初の目的からそれてしまうような気がします。

 ともあれ、ようやく爽やかな秋風が吹き始めました。むしろ、少し肌寒く感じることもあります。実際、この頃の我が国の気候は春と秋が短くなり、いきなり暑くなったり寒くなるような傾向がみられます。ここにも、地球温暖化の影響があるのだと思います。それもまた、人間の都合によってもたらされた現象だといえるでしょう。そう考えれば、人間の都合で元に戻すことはできるはずです。

 さて、緩やかなペースではありますが新たなコロナ感染者数は減少しており、感染症対策に配慮しながら行事やイベントを開催する動きは高まっています。そのような中、私も同級生達と以前から計画していた小旅行に出かけてきました。日程は、10月2日(日)・3日(月)で奈良を訪れました。主な目標は、春日大社に参拝することをメインとしたもので、所謂社寺廻りのツアーというところでしょうか。

 具体的には、総勢13名ながら観光バスをチャーターして、昔ながらの団体旅行風のバス旅行をしてきました。この仲間達については、いつか話したことがあるかと思いますが、地元の工業高校の同期生によるメンバーで構成された集まりです。元々は、1年に何回か集まってゴルフをやる集まりでした。正確には覚えてはいませんが、もう30年位は続いている強い絆で結ばれた集まりでもあります。

 長い間には、先立つ友もおりましたし、色々な事情でメンバーも減っていくのが世の常でもあります。そうした背景もあり、年と共にゴルフに拘らず、集まることの方に重点が置かれるようになりました。その流れの中で、私達は50歳を迎える年にサイパンゴルフツアーに出かけました。そもそも、この旅がことの他楽しいものであったことから、また、皆でどこかへ出かけようという声が高まっていったと思います。

 近年では、還暦ツアーでお伊勢参りなどもしました。また、東行庵を経由して萩を訪れたこともあります。基本的に親睦が目的なので、旅行に行くからといってこれといった明確なテーマがある訳ではありません。それでも、何となく歴史に纏わるテーマを設定して行先を決めるような傾向はあります。強いて言えば、寄る年波か、神社仏閣などを訪れ夫々の健康祈願などをするような傾向はあります。

 今回も、まずは春日大社で有難いお祓いを受け、お札を貰いました。そのうえで、阿倍仲麻呂と鑑真和上に纏わるエピソードや、吉備真備、和気清麻呂他、天平から奈良時代にかけての歴史探訪などと称してコース設定を図り、春日大社・興福寺・薬師寺・唐招提寺等を廻りました。また、春日大社の前に東大寺大仏殿を訪れ、修学旅行気分にも浸りました(コース的に一連の流れでもあります)。

 夜の宴会の席では、夫々が近況や日頃思うところを忌憚なく語り、その都度的確(?)な突っ込みを誰かがするなど、賑やかで楽しい交歓が続きました。といっても、いつもと同じような話題でいつものように盛り上がることに違いはありませんが、本当に楽しい一時でした。ありきたりな表現ですが、そのような時間はとても短く感じます。さらに、1つの部屋に集まり延長戦を遅くまでやりました。

 暮には、また楽しい忘年会を開くことを約束して、夫々がバスから降りて行きました。今のご時世から考えると、良く出来たなぁと思われるミニ修学旅行のような旅でした。改めて、集まってきた仲間達に感謝したいと思います。これはいつも述べていますが、同級生というのは、4月2日~翌年の4月1日の間に概ねこの地域に生まれたというだけの関係ですが、長い年月を経てかけがえのない人達になります。

 考えてみれば、その一学年というくくり(区分)も、人間の都合で決められたものです。さらにいえば、世の中にある多くの決め事やルールは人間の都合で決められたもののはずです。にも関わらず、それもまた人間の都合で容易に反故にされたり、変えられたりすることがあります。結果的に、ロシアによるウクライナへの侵略などのように、不条理で納得いかないことが世の中に溢れています。

 そんな中で、自分の都合に囚われながら目先の雑事に追われている日々ですが、今回の旅を通して、ほんの一時でも仲麻呂や鑑真の境地を偲ぶ時間が持てたことに対して、同じ時間を共有してくれた仲間達に感謝したいと思います。



2022 9月26日  言葉狩り




 9月最終週の月曜日です。台風通過後、ようやくという感じで稲の収穫を終えました。といっても、数年前から所謂「刈ってもらう」形態に移行しているので楽にはなりました。が、いつまで続くやら。

 9月は一週とびましたので、本来の更新日に今月2回目を綴ります。これは以前から公言しておりますが、私は季節の中では秋が一番好きです。もっとも、この頃では「生きているだけで幸せ」感が強く、どの季節にも味わいを感じるようにはなってきました。それでも、やはり秋は良いなぁと思います。空が高くなり空気も落ち着いて来るようで、常に浮つきそうな私の心を落ち着かせてくれるような気がします。

 私には、落ち着く秋ですが、世の中は落ち着きません。安倍元首相の国葬を明日に控え、反対デモや政府に対する批判の声は高まっています。また、占領地域の併合を目論むロシアによるウクライナ諸州における住民投票の動きなど、あまり聞きたくない話題も減りません。特にウクライナ問題では、1人のの意固地な我儘が自国・他国の多くの命を奪い、人々を苦しめていると思うと虚しさが募ります。

 一方、ワイドショーなどでは旧統一教会に関する話題が、連日賑やかに伝えられています。本当に、聞けば聞くほど胡散臭く、問題がある団体だなぁと思います。が、これも今始まった話ではないので、今度こそジャーナリズムによる社会正義の実現を見せて欲しいと思います。ところで、ジャーナリズムというものを考える時、ポピュリムや権力者による圧力の他にも気になる問題があります。

 それは、現在の行き過ぎたポリコレ(ポリティカルコレクトネス)の有り様です。私は、現在の言葉狩りのような風潮がどんどん進んでいくことに、強い違和感を感じています。所謂、差別用語などを断罪し吊るし上げようとする風潮です。例えば、誰かが問題だと言い出し差別の認定を受ければ、たちまち今まで使っていた言葉が使えなくなります。最近は、本当に些細な言葉遣いを気にするようになりました。

 先日も、大谷選手の試合中継を見ておりましたら、メジャーリーグで親しみを持っていた球団の1つであるクリーブランドインディアンスが、ガーディアンズに改名していることに気づきました。これも、先住民族を指すチーム名が人種差別と結びつくという判断の基に行われたということです。考えてみれば、エスキモーはイヌイットに、その他はネイティブ○○というような表現が用いられています。

 この他、現在では定着している看護師に始まり、フォトグラファー(カメラマン)、パートナー(彼氏・彼女)など、男女差別を感じさせるようなものは次々に言い換えられています。また、私自身も配偶者に関する表現をする時、ご主人とか旦那さんと言うような言い方をして良いのかなぁと考えることがあります。そう考えれば、奥さんというのは逆差別にならないのかなどと、疑心暗鬼に陥ってしまいます。

 つまり、配慮する考え方に立てば、それは際限なく続く気がします。結果的に、公の場における発言やテレビ・映画など表現を伴う制作者に、大きなプレッシャーがかかることになります。いつ言葉尻を捉えられ吊るし上げられるかもしれないと思うと、自然と発言内容は疎なものになりがちです。また、ドラマや映画、或いは舞台など、リアルな表現をする分野が委縮し、面白くなくなってしまうような気がします。

 たとえば、仁義なき戦いのような作品ばかりでなく黒部の太陽など、多くの名作が今日では大っぴらに上演し辛い状況ではないでしょうか。他方、アウトレージなどもそうですが、反社会的な人物を描いた映画でも、車に乗ればシートベルトを着用し煙草を吸うようなシーンは極力減らされ、リアリティという意味で精彩を欠いた表現になりがちです。本当に、世の中は綺麗なことばかりでないはずです。

 他方、教育現場では○○君とか□□ちゃんという表現についても、性別差別を防ぐという考え方から△△さんを基本とするように方向づけられているようです。私も時々地元小学校などに赴きますが、先生が小さな子供をさん付で呼んでいるのを聴くと、何となく違和感を抱いてしまいます。私の考えが古いのかもしれませんが、子ども同士は○○君□□ちゃんと呼びあっても良いのではないかと思います。

 また、ニックネームや所謂あだなというものに関してもそうです。子ども達の社会では、自然に呼称や敬称が定まっていくものです。その過程において、大人がきちんと目を光らせていて、問題のない表現を指導していけば良いのではないでしょうか。何というのか、問題の発生(責任追及)を恐れ、何でも一律に規制しようとする考え方の方が、私には気持ち悪く感じられてしまいます。

 振り返ると、私には子供の頃からニックネームやあだなというものがなく、何となく物足りない感じがして、それを持つ人を羨むようなところがありました。悪意あるものや他者を傷つけるものは論外ですが、心地よい愛称が生まれ認められるような寛容さを備えた社会であって欲しいと思います。



2022 9月19日 基本は同じ




 日中は暑い日もありますが、随分しのぎやすくなってきました(台風接近中ですが)。気が付けば彼岸です。秋のお彼岸はお盆から日が近く、その訪れがことのほか早く感じます。いよいよ秋ですね。

 ほぼ、2週間ごとに更新している小欄ですが、つい忙しさにかまけ、気が付けば一週間が過ぎてしまいました。まことに体たらくですが、元々、思いついた時に思いついたことを記すスタイルが基本なので、ご容赦いただきたいと思います。一方、暮らしぶりはと言えば、相変わらず読みたいものを読み、観たいものを観て、会いたい人に会うというようなライフスタイルを可能な限り貫いています。

 実際、多様なチャンネルを駆使して、大谷選手や渋野選手の動向を追いかけています。本当に、渋野選手は良くても悪くても意外性があって面白いです。また、将棋界・囲碁界の状況も見ています。現在、岡山勢を代表し、菅井八段がA級リーグで藤井颯太竜王に勝ち2勝1敗です。名人挑戦に向け、頑張って欲しいところです。囲碁界では、9歳6か月の藤田玲央初段が最年少プロデビューを果しました。

 女子でも、中村菫二段の記録を破る若手の出現も見られます。現在行われている、井山対芝野の名人戦の動向と併せ、興味を惹く話題には事欠きません。またそれは、他の分野でも同様です。ところで、ロシアによるウクライナへの進攻(侵略)は、既に半年を超えました。長期化する戦闘の中で、ようやくウクライナ側が押し戻すような展開も報道されましたが、収束に向けた動きは未だに窺がえません。

 この間、ロシア兵による虐殺や拷問など、悲惨な戦争犯罪の様子が報じられ、強く心を傷めているのは私だけではないはずです。また、最近の我が国を取り巻く周辺国の動きやその指導者達の動向が、我々の精神を苛ませています。もっと穏やかで、安心して暮らせる世の中になって欲しいと願うばかりです。そのことは、私が小欄を綴ってきたこの20年の中で、今、最も強く感じていることです。

 もう少し言えば、技術者として持つべき志や、その根幹を支えることになる日本人の精神性というものについても、この20年間鳴らし続けた警鐘の効果は薄く、随分危うくなってきた気がします。一方で、この20年間を振り返れば、不思議に思うことがあります。その1つは、旧統一教会に関するマスコミ報道のあり様です。まるで、初めてこの問題を発見したかの如く、連日喧しく騒ぎ立てています。

 もちろん、霊感商法などにより多くの被害者を出した団体に関して、政治家との関係を厳しく追及することは大切なことです。しかしながら、安倍元首相が凶弾に倒れ、その背後に加害者と教団の関係があったことが明るみに出なければ、果たして現在のような騒ぎになっていたのか疑いたくなります。かつて、この問題を社会に問うていたはずのマスコミが、いつの間にか鳴りを潜めたのは周知の如しです。

 まことに、話題性というのか視聴率優先というのか、何かインパクトのあるきっかけが無ければ社会正義の番人であるはずのマスコミは、容易に腰を上げないのが実態です。一方で、話題性やポピュリズムに迎合する傾向は強く、物事を最後まで検証するという姿勢は希薄です。いずれにしても、今回の元統一教会に関するる追及は必要なことだと思いますので、最後まで追及してもらいたいと思います。

 他方、私達自身をはじめ見ている側が肝に銘じなければならないことは、ワイドショーのコメンテーター等の発言にに踊らされたりしない姿勢です。多様な情報ソースからもたらされる情報をしっかりと吟味し、冷静な判断をしていく必要があります。そのうえで、言うべき時には、言わなければならないことをはっきりと言うことが大切です。このことは、この20年間の私の歩みを通して断言できることです。

 反面、そこまで言わなければ解らないのか、というような発言はあまりしたくないものです。しかし私は、放っておいたらとんでもないことになる現実を、何度も見てきました。結局、言わずもがなの正論を吐くことになります。かつては、もう少し常識というものが、社会にも地域にもあったように思います。それは、現在直面する社会問題や地域の課題についても、同じようにいえることです。

 いつものぼやきですが、こうして私は、これからもぼやき続けるのだと思います。さらに、私の生き様は変えようがありません。そのようなこともあり、降りかかる火の粉も払わなければなりません。法律的な対応を含め、色々なことを考える必要があります。一方、振り返えれば私がこの20年間してきたことは、そんな思いを持ち、邪な考えや不条理な現実と闘い続けることを基本としていたように思います。

 過ぎてみれば、20年はあっという間です。しかしながら、人生からいえば結構長いスパンです。私は私なりに、意義ある時間を過ごしたつもりです。結果的に、自らの世界は広がり、大切な友人知己も増えました。その原点に小欄があると考えています。今後も、自然体で思うところを述べていくつもりです。



2022 8月29日 出会いとタイミング




 8月が終わります。日中は、まだまだ暑い日がありますが、確実に秋の気配は訪れています。季節の移ろいを感じる周期(サイクル)は、どんどん速くなっていく気がします。

 それは、同世代の人であれば、大いに頷いてくれる感覚だと思います。そして、そのような感覚は、年齢と共に強くなっていきます。さらにいえば、現実に時間の流れが速くなったわけではなく、感じる側の感覚の変化だと思います。その理由として、歳をとると新たに体験する項目が少なくなるからだなど、色々な説がとなえられていますが、理屈はどうであれ、実感として感じられることに違いはありません。

 一方で、人は年齢と共に知識量が増えることによって、世界観は拡がっていきます。その結果、身近な世界は、より小さなものとして感じるようになります。例えば、子供の頃とても大きく考えていた地球の大きさは、この頃では随分小さなものとして認識されるようになりました。そこには、自身の経験や情報として得た知識から、約4万キロという地球の外周距離がイメージできるようになったことがあります。

 実際、ベトナムのホーチミンまであれ位で行けたから、ロンドンまではこれ位で行けるのだろう~などと想像することができます。そして、そのイギリスからリアルタイムで女子ゴルフの映像が届き、観戦などしていると、さらに地球の大きさは小さく感じられていきます。前回も述べましたが、幼少期の私の世界は歩いて行けるような範囲が基本でした。その頃と比較すると、私の地球は本当に小さくなりました。

 余談ですが、伊能忠敬が知りたいと熱望した地球の大きさは、彼が苦難の末に知りえた時にどのように感じられたのでしょうか。非常に興味があります。一方で、伊能忠敬や若き師匠であった高橋至時の実感していた地球の大きさは、少年の頃私が抱いていたものとそれ程変わらないのではないかという気がします。もちろん、人は生まれる場所も時期も選ぶことは出来ませんが、そうした考えも浮かびます。

 同様に、人との出会いや様々なものとの出会いを考える時、いつ出会うかというようなタイミングに関しては、不思議な妙味を感じることが良くあります。読みたいものを読み、観たいものを見て、会いたい人に会うという主義に基づき行動しているつもりですが、そのことは強く感じます。読みたいものといえば、最近では松本清張の「火の路」を読みました。この本との出会いにも、そのようなことを感じています。

 この作品は、かつて朝日新聞の朝刊に連載されたものですが、当時「難しすぎる」という苦情が数多く寄せられたそうです。ネタバレするようなことは書けませんが、飛鳥の石造物群に関する考察が主要なモチーフとなっています。そのことに関する主人公の論文(もちろん、清張先生自身の考察によるものですが)をそのまま小説に掲載しているので、苦情が寄せられるのも頷ける気がしました。

 先程も述べましたが、この本との出会いについていえば、この年になったからこそ解ることや、今興味を持っていることにぴったりフィットしているという意味で、まさにジャストタイミングな感じがしました。私の好きな、阿倍仲麻呂や鑑真和上が生きた時代に連なるイメージが想起されて、とても面白く読むことができました。改めて、松本清張という人の知識量と、常にそれを追及する情熱の凄さを感じました。

 ところで、この作品では本筋とは関係ありませんが、主人公の歴史的考察に大きな影響を及ぼす人物について、「岡山県津山の高校で歴史を教えていた教師」という設定がされていました。約1000ページという長編の中で、僅かに3か所出てくるだけです。それも必要だから~という感じで出てくるだけのことですが、驚きと感動を覚えました。その理由を聞いてみたいところですが、今ではそれも叶いません。

 他方、観るという方からは、話題になった「ドライブマイカー」を録画して観ました。嗜好という問題もありますので、簡単には語れませんが、私は、ノルウェーの森を読んだ時の印象に近い感覚を覚えました。そのうえで、村上春樹独特の世界観を持てば、面白い作品なんだろうなぁとも思いました。他方、西島秀俊をはじめ、役者というのは本当に凄いなぁ、と、改めて思わされる映画でもありました。

 実際、本であれ映画であれ、いつ読むのかまたいつ観るのかという出会いのタイミングがあると思います。そして、それは人それぞれによって異なるものですが、結構重要な要素だと思います。それでも、私自身はかなり恵まれていると考えています。よく天啓が~などと嘯いておりますが、まったくのほら話ではなく、結構真面目にそう考えている部分があります。また、それだけ出会いは大切だと思っています。

 当然ですが、人との出会いは、出会いの中でも最も大切なことだと思います。そして、自身を振り返ってみれば、色々な人との出会いやタイミングについても、それぞれに妙味があるなぁと思います。そのことは、本当に、大切にしていきたいと考えています。

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