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これまでのコラムが納めてあります。
※バックナンバーはNO.1~NO53です。できれば、通してお読みください。
  (根底に流れるものを、くみ取っていただけると思います)
                                              

                 グリーナブルヒルゼン          漢江の夜明け
NO.53前回のコラム  

2024 4月8日   桜と、繋がる人達 



 今か今かと気を揉んでいましたが、一気に桜は咲きました。少し雨なども降り、ぐずついた日もありましたが、今年はその姿を存分に見せてくれた年といえるでしょう

 私も、公的な行事と私的な振舞を併せ、何度かお城山と呼ばれる鶴山公園に足を運びました。そこには、これまで息を潜めていたコロナ騒ぎが、一応収束したという世の中の空気が少なからず影響しています。公的にも、他都市からのお客さんを招き鶴山の桜を眺めてもらえるようになったことは、このまちにとっては大変喜ばしいことであり、また、有難いことだと思います。

 一方、個人的にはこれまで長い間、エンジニア仲間に声をかけて続けてきていた夜桜を見る宴を、5年ぶり(恐らく)に再開することができました。旧知の人に加え、最近資格取得した人達に声をかけ、鴨鍋を囲んで交流を深めました。その中には、この集まりのためにわざわざ鹿児島から足を運んでくれた人もいます。このことには、いつもながら感謝するばかりです。本当に有難いことです。

 手前味噌ですが、この資格を取得し、志を持ちながらあと一歩届かない人達を支援してきて良かったなぁと思います。また、その活動を通したご縁をいただきましたが、そこには巡り合う時期や私の置かれた状況や精神的な背景など、多様な条件がマッチして現在のような人間関係が構築されているのだと思います。それは、たくさんの偶然と多くの必然がまじりあって出来上がったものでもあります。

 そうした意味から、ご縁というような言葉を使いました。その中で少し触れてみたいことは、最近資格を取得したような若い人とベテランと言われる人達を繋げることによって、良い意味での化学反応が起こるということです。それは、主に若い技術者の方に起こります。大体において、彼らは平素業務を行っている組織以外の人との関りは薄く、多様な分野の先輩たちと話をすることは意義深いことだと思います。

 今回も、参加してくれた人達からは、視野や考え方が広がったという感想をもらいました。実際、この資格を取得することによって、他分野の人との交流機会や刺激を受ける機会は格段に広がります。そのことは、これまで私が生きてきた中で強く感じていることでもあります。そのような意味からも、また、私自身が心から楽しめる宴として、これからも出来得る限り続けていきたいと考えています。

 一方で、そのような人とのつながりを考える時、その関係性をどのように表現したらよいのかと考える時があります。私は、ここまで述べてきたような人達、所謂、私が会いたいと思う人達に関していえば、友情のようなもので繋がっているのではないかと思います。しかしながら、友情という一言で表現できる関係でもないように思います。そこには、当然ですが利害関係を超えた何かがあると思うのです。

 また、その結びつきの支えとなる感覚には、年齢差なども関係ありません。ただ、.お互いの人間性や価値観に基づいて、出来上がっていく情愛のような感覚が根底をなすものだと思います。この理屈だけでは割り切れない感覚について述べるには誌面が足りません。また、この場では、そのように理論的に背景を論ずることよりも、直感的な私の思いを語りたいと考えています。

 ところで、この、情愛とか友情に関する考察は、河合隼雄が「大人の友情」という著書で行っています。話はそれますが、この人は、考えれば考える程表現することが難しい人間の内面に関する事柄について、なるほど~と納得させてくれる数少ない表現者でもあります。うまく言えませんが、その背景にも、その人自体が持つ人間性が大きく投影され、他者に影響を及ぼすようなことがあるのだと思います。

 因みに、私自身があいたいと思う人は多岐に渡ります。また、そこには年齢とか性別などという条件もありません。どちらかといえば、年長者というのか、私より年上の人の方が多いかもしれません。そうした動機で面会のために足を運ぶ時、じじいがじじいに会いに行く~などと心の中で嘯いたりすることもありますが、既に鬼籍に入られた師匠や先生方を含めて年長者に会いたいと思う傾向はあります。

 もちろん、単に年を取っていれば良いということではありません。繰り返しになりますが、年齢差に関係なく「この人に会いたいなぁ」という想念が自然と湧き上がってくるものです。余談ですが、今回のエンジニアの宴にも、一人だけ門外漢ともいえるかつての同僚(期数は先輩)も参加してもらいました。それも、私の勝手なつごうですが、とても楽しい一時を共有してくれたことに感謝しています。

 大谷のドジャースを、今永が抑えている状況下、雨による試合中断の再開を気にしながらキーボードを叩いています。少し、とりとめの無い話になりましたが、桜の花から想起される思いを綴りました。予想される今日からの雨を受け潔く散っていくとは思いますが、愛おしい花ではあります。



2024 3月25日    若さを考える



 生みの苦しみ、と、でもいうのでしょうか。春の陽光が訪れる前に、ぐずついた空模様が続いています。それでも、濡れた枝の先にある桜の蕾は綻びかけています。もう少しです。確かに春は来ています。

 さて、荒れる春場所は、新入幕尊富士の優勝という快挙で幕を閉じました。「記録だけでなく、記憶にも残りたい」と答えたインタビューは、その落ち着いた態度と共に強い共感を覚えました。まことに、賞賛されるべき内容の相撲と土俵態度であったと思います。同じく、大学相撲出身の大の里の活躍などもあり、若い世代の躍進が大いに期待されます。改めて、若さの持つ素晴らしさを感じています。

 一方で、その若さを持っている時には、若さの素晴らしさや有難さを十分認識できないのが、人間の愚かなところとも言えるでしょう。まぁ、愚かというよりは、仕方のないところかなぁと思います。本当に、若い時は明日を約束されていない命でありながら、果てしなくいつまでも生きるような気持ちで暮らしている人が大半だと思います。だからこそ、「何のために生きるのか~」などという議論を挑みがちです。

 反面、そうした議論などから見つけたはずのやるべきことについては、またそんな機会があるだろう~などと、いくらでも時間があるように錯覚してしまいがちなのが、若さというものかもしれません。他方、何もわからなくても、とにかくやってみるエネルギーを備えているのも、若さの持つ長所といえるでしょう。さらには、傷つくことや挫折に対する復元力というか、耐えられる力を持っているのも若さの特権です。

 また、先ほど述べた、とにかくやってみるということでは、がむしゃらにという前置詞を置いても良いかもしれませんね。例えば、私自身がしてきた読書に関していえば、若い頃からなんの脈略もなくがむしゃらに読み漁っていただけのことでした。ところが、50歳を過ぎる辺りで気が付いたことがあります。それは、夫々のジャンルの必要な知識やデータが、概ね系統立てて蓄積されていることです。

 考えてみれば、手当たり次第といっても、やはり好きなものや興味のあるジャンルの本に手を伸ばしている訳ですから、ある程度の時間を経てデータが蓄積されれば、それらが繋がってくるのは当たり前のことかもしれません。うまく言えませんが、この一例をとっても、先のことなど考えず、がむしゃらにやってみることの大切さが解るような気がします。本当は、やってみなければ解らないことばかりの筈です。

 ところで、やってみなければ解らないことの一つに、人との関り、付き合いというものがあると思います。いわずもがなのことですが、人は一人では生きていけません。また、知らず知らずのうちに誰かの世話になりながら生きているものでもあります。さらにいえば、肉親を含めて、誰かと関わりながら自身の価値観や感性を備えていくのが人間です。と、考えれば、人との出会いや関りは大切です。

 私は、そのような意味からも、良い知己を得ることができれば人生はほぼ成功だと考えています。とはいえ、人間関係というものはそんなに簡単なものではなく、やってみなければ解らないことでもあります。その、代表的なことの一つが結婚ということになるでしょう。例えばそれは、若さに任せて、熱い情熱にかられて思い切らなければ、できないことだと思います。ある意味、大きな博打です。

 すこし、言い方は悪いかもしれませんが、やってみなければ解らないという時点で大きな賭け事ともいえるはずです。また、あとさきを考えないくらいの情熱が無ければ、結婚などできないように思います。そう考えると、いくら熟考を重ねた判断であっても、真の意味の相性などが解るはずはありません。結果的に、描いた結婚生活とは異なり、異なる道を選んだりすることもあるでしょう。

 そのような時、若さが持つ傷ついても耐える力や復元力が大切になります。もちろんそれは、ある程度年齢を重ねても必要ですが、年と共に弱っていくものでもあります。このことは、理屈ではなく体験的に私が思う感覚です。また、レジリエンスというのかそうした復元力は、全ての人間関係において必要です。だからこそ、良い知己を得ることができれば人生は半ば成功していると思うのです。

 近況を語れば、つい最近も、古くから続く親しい人達と、細やかなミステリーツアーを体験することができました。それから、私が議員としての活動を始めた時からの、心を許せる大切な友人が訪れてくれました。二人で、近況などを親しく語り合いました。さらには、このまちの向かうべき方向性や、政治に携わる者としての考え方、とるべき姿勢などについて、自らを確認することができる時間にもなりました。

 そのような時間は、本当に有難い時間だなぁと思います。そして、最終的には、貴方の文章は「世の中の役に立つ~」に帰結していきますね、と、言ってくれた時に、ぶれてない自分を確認することができました。そんな有難い仲間達との宴や面会に関する計画をたてている時が、今の私の一番幸せな時間です



2024 3月11日    早春に思うこと 



 私の住む地域では、啓蟄が過ぎ、いよいよ暖かくなるのかなぁと思っていると名残雪が舞い、時に霙のような雨が降るといった具合です。うららかや、のどかという言葉が似あう情景ではありません。

 とはいえ、好天に恵まれた日曜日には、名古屋でウィメンズマラソンが行われました。そちらは、安藤友香選手が、7年ぶりに自己ベストをマークして優勝しました。一方で、パリオリンピックの代表には、日本記録で大阪を制した天満屋の前田穂南選手が内定しました。嬉しいことですが、これまでのマラソンのオリンピック代表選手に関しては、選考過程に関する印象がすっきりしない部分がありました。

 例えば、レースやコースの設定など、男子の場合も含めてどうかなぁと思うことがあります。考えてみれば、そのようなことは瀬古・中山と言っていた頃からありました。実際、多様な分野における色々な種類の選考過程において、そのような葛藤があるのだと思います。基本的に、求められる資質・条件に対して、正しく実力が評価されて物事が決まる世の中であって欲しいと思います。

 とはいえ、理不尽がまかり通る不条理な世の中では、正しいものが正当に評価されることの方が少ないのかもしれません。そうした視点からいえば、「正しい」の定義すら解らなくなることもしばしばです。また、今日のようにDXが叫ばれ急速なICT技術の進歩が進む社会においては、チャットGPTなど生成AIが人間に替わって文章や必要な資料を作成することも普通になってきました。

 既に、大学におけるレポート提出やその評価に関していえば、真に本人が作成したものかどうかという検証さえ難しくなっているという話を聞きました。したがって、個々の能力を正しく判定することも困難になってきているのだと思います。そのような背景もあり、多くの人間の仕事がコンピューターに取って代わられる~というような話が真実味を帯び、また何となく実感されるようになってきました。

 私も、ICT活用の推進によるDXとか、生成AIに関する講演会や勉強会に参加することがあります。そこでは、グーグルジェミニとかマイクソフトのコパイロットなど、最新のオープンAIが紹介されています。それらのバージョンについても、3.5から4..0になり飛躍的に性能があがっており、もはや、導入するとかしないとかという選択肢はなく、何時入れるかであるなどという話が主体となっています。

 そして、そのことがカーボンニュートラルや新技術の開発、企業や組織における構造改革、製造・生産現場におけるコストダウンなど、多くの場面で活用される可能性についても言及されています。世界中に大量に存在する、所謂ビッグデータの中から必要なものを探し出して、生成AIがディープラーニングを繰り返し、人間が必要とする資料を作成するというものだと思います。

 それは、まるで子供の頃SF小説で読んだ世界のようです。一方で、私が何となく空恐ろしさのようなものを感じるのは、そのような方向に向かう社会の流れのスピードの速さです。それは、10年前・5年前・2年前という風に区切って考えるとよく解ります。まるで、二次曲線の放物線が立ち上がるように、加速度的に進んでいるように見えます。正直にいえば、その速さに人間がついて行けるのかと思います。

 そのことは、私のような情緒感を大切にするタイプの人間でなくても、多くの人が同じような感覚でとらえているのではないでしょうか。やはり、目と目を見て語り合い、お互いの表情から気持ちの疎通を感じ合うコミュニケーションが、人間の基本だと思います。それでも、昨今たくさん生み出されるフェイクニュースなどの中には、容易にうそが見抜けないようなものもみられます。

 だからこそ、私は、人間でなければならない資質・能力を高める必要があるのだと考えています。それは、基本的に人間が子供の頃から養う能力であり、非認知能力と呼ぶものかもしれません。人は、生まれた瞬間から親の体温やにおいを感じ、声や視線を交わしながら情緒感を形成していくものだと思います。そのことが、成長する過程において繰り返し行われ、個々の人格が形成されるはずです。

 既に、教育現場でさえ、圧倒的なICTの進展を危惧する声が聴かれます。それは、今の子供たちが大きくなった頃には、コンピューターに支配されたような世の中になってしまうのではないかという、危惧を背景とした意見です。しかし私は、先ほど述べた人間が人間として本来備えるべき情緒感の醸成が、そのような不毛な社会が形成されることから、人類を守ることに繋がることを信じています。

  私が、昔読んだSF小説では、女性型ロボットに恋する主人公の葛藤が描かれたものがあったと思います。そのお話では、ロボットに心は備えられなかったと思います。人の心というものから考えると、いったいどうなっていくのでしょうか。



2024 2月26日    春遠からじ 


 
 2月26日です。かつて(昭和11年)226事件が起きた日です。その日は、とても寒い日で、大雪も降ったようです。日本が、戦争に突き進んでいく過程の出来事です。まさに、昭和は遠くなりにけり~というところでしょうか。

 当時からいえば、随分地球も暖かくなりました。それでも、暦の上で立春は過ぎましたが、本来は今が一番寒い時期ではないでしょうか。どうしても、日増しに長くなる日差しを感じながら、雪不足に悩まされているスキー場などの話題に、関心が行ってしまいます。本当に、この国の文化や精神性の構成に大きく影響を及ぼしてきた、美しい四季を裏付ける気候には、地球規模の狂いが生じ続けています。

 さて、昭和は遠くなりにけり~ですが、本来は中村草田男が詠んだ「降る雪や明治は遠くなりにけり」で
す。その句は昭和6年に詠まれています。また、その時既に明治の人が備えていた日本人の精神性が、失われたことを嘆いて詠まれた句だともいわれています。現在の、この国の様相を眺めた時、強い危機感と寂しさを覚える私からすれば、気分はさながら昭和は遠くなりにけり~と呟きたいところです。

 ところで、この226事件の前には、昭和7年に515事件が起きています。岡山縁の犬養毅が暗殺されましたが、私も、子供の頃から「話せばわかる~」という台詞は、ことある毎に耳にして育ちました。実際に、その通りの言葉を発したかどうかわかりませんが、銃撃を受けて絶命するまでの間に、そう語ったといわれています。まことに、憲政の神様といわれた人の最後を彷彿させる言葉だと思います。

 今は昔といいましょうか。いずれにしても、政治家が政治家であろうとしていた時代のお話です。しかしながら今日では、政治家も官僚も、或いは教師や企業人においても、日本人の精神性とか矜持などという言葉を感じられる人は、めっきり少なくなってしまったような気がします。まぁ、そんな時代だからこそ、本来の日本人の持つべき精神性の大切さについて、あえて私は論じているともいえます。

 例えばそれは、胸に手を当てて恥ずかしくないと思える生き方というようなものであって、本来は大仰に語る必要のないことであったはずのものです。少なくとも、私の子どもの頃には、確かに身近に感じられたものでした。またそれは、この国の大人が、当然備えるべき常識のようなものでもありました。もちろん、そうでない人もいましたが、だからこそそのような人が、道に外れた人といわれた訳です。

 何というのか、あえて言葉にしなくても、社会の中に規範とすべき暗黙のルールのようなものがあって、その裏付けとして日本人の持つべき精神性があったはずです。そのことを思うと、現在のこの国の変容ぶりは情けない限りです。とはいえ、実際には、そのような考え方を規範としている人は、まだまだいるのだと思います。そのような思いも込めて、私は小欄を綴り続けてきました。

 しかしながら、中々、鳴らす警鐘は届きません。その一方で、気持ちの通い合う仲間は、確実に増えてきました。この頃では、そうした人たちと語り合うために、席を設けるような傾向が顕著になりました。それが、私にとっての会いたい人という訳です。スケジュールなどの制約はありますが、観たいものをみて、読みたいものを読み、会いたい人に会う暮らし向きの拠り所となる人たちでもあります。

 先日も、若く志のある人たちと、忌憚のない意見交換をし、有意義な会話を楽しんできました。言い換えれば、そのような時間をを支えにしながら、やらなければならないことをこなす日々を過ごしています。そして、そんな計画を企みながら、寒さの中でそこまで来ている春を待っている状況です。今の時期が寒ければ寒いほど、いつも通りに綺麗な桜が咲いてくれるのではないかなぁ~という風です。

 余談ですが、私の家の母屋(今はそちらに母が居り、私は別棟で寝起きしています)には、時間ですよが放送されていた時代に、父が貰って来た森光子の色紙がありました。その色紙には「冬きたりなば、春遠からじ」という言葉が書かれ、冬と春の文字が少し大きく書かれていました。我が家には、その手のものはたくさんありましたので、今でもどこかにしまわれていると思います。

 ところで、私は、著名な政治家のものなどよりも、その優しい感じのする文字の色紙に、好感を持って眺めていたように思います。そこに、松の湯のおかみさんの姿を投影させていたのかもしれません。やはり、映像から受ける印象というものは大きなものがあったのでしょう。もう少し言えば、受け取る此方における環境や精神状態が、事象から受ける印象を決定づける大きな要因にもなります。

 暖冬とはいえ、外を吹く風はまだまだ冷たいですが、春はそこまで来ている筈です。今はただ、春遠からじ~の思いで待ちたいと思います。


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