トップページ

コラムリスト            前のページ           次のページ

NO.5

2004年 10月 25日            大陸の花嫁



 毎度のように触れた台風の話題にも辟易という感じでしたが、このたびの23号による犠牲者は平成最悪となりました。岡山県でも多くの犠牲者がでてしまいました。その傷跡も生々しい時に、新潟中越地震が発生しました。道路やライフラインが寸断された中で、災害弱者といわれるお年寄りや子供を中心に多くの犠牲者がでた模様です。状況が明らかになるにつれて、被害にあわれた犠牲者は増えるのかもしれません。

 被害にあわれた方がたに、心からお悔やみを申し上げたいと思います。また、一刻も早い復旧が行われ、不安な思いで避難されている方々が、安心して生活できるようになることを祈りたいと思います。このような、空しい憤りの矛先をどこに向ければ良いのでしょうか。台風で飛ばされた町内のゴミステーションの復旧など、身の回りの小さな災害復旧におわれつつ溜息をつきながら、やるせない思いにひたっております。

 それでも、台風一過とでもいうのでしょうか、あの嵐が嘘のように空気が清んで空が高くなって来ました。だいぶ秋らしくはなってきましたね。本来、私は一年の中で秋が一番好きな季節だと思っています。同じような穏やかな気候でも、夏に向かって活気づいて華やかな感じがする春よりも、深まるにつれてしっとりとした落ち着きを増していく秋の方に心をひかれる気がします。

 秋といえば読書ということでもありませんが、最近読んだ本の話をしてみたいと思います。といっても私は、ベストセラーとか売れている本というのはあまり読みませんから、タイムリーな話題にはつながらないかもしれません。何かの拍子にピントきたとか、その時に目に付いたものを読む事というのが私の本の読み方です。それは、「大陸の花嫁」と題され、井筒紀久枝さんといわれる方が書かれた本でした。

 越前和紙の里といいながら、紙漉きしか出来ないような寒村に生まれ育ち、先の戦争を体験され筆舌に尽くしがたい苦労をされた筆者の自叙伝のような手記です。終戦を控えた昭和18年、貧しさと生きていく苦しさから逃れるようにして満州の開拓団の人に嫁いでいき、落ち着く間もなく敗戦の混乱と苦難に遭遇し、命からがらの帰国を目指す中で目の当たりにした多くの人の死と、自らの凄惨な体験を振り返って書かれた手記です。

 井筒さんは、この大陸の花嫁を出版される前に、「生かされて生き万緑の中に老ゆ」というこの本のもとになる自分史をまとめられています。七十才を過ぎて書かれたこの作品により、NHK学園三十周年記念自分史文学賞を受賞されています。したがって、「私は自分の父親を知らない。」という強烈な書き出しのまえがきで始まる本編をまとめられる頃は、八十の手習いといわれるご本人の言葉通り、ご高齢になられてから昔の記憶をたどるという作業であったのだと思います。

 あとがきで娘さんの陽子さんも触れられていますが、晩年になって戦争体験を手記にまとめられる人たちは、「この歳になったからこそ、やっと書けたのだ」といわれる人が多いそうです。また、体験談を語る決心がつくと、堰を切ったように当時の思い出が溢れ出すとも書かれています。思い出したくもない過酷な体験でありながら、忘れたくても死ぬまで忘れられない記憶を胸に、多くの方々が暮らして来られたのだと思います。

 それでも私は書きたかったのだと井筒さんは述べられています。本当に悲惨な体験であるからこそ忘れてはならないし、後世に伝えていかなければならないのだと考えておられたようです。戦争を体験し、過酷な経験を身をもってされてきた人の数はだんだん減っていくのが自然の趨勢です。それとともに、貴重な体験談などを聞く機会も少なくなっていきます。子供の頃から聞かされてきた、父や母の苦労話の延長線上にそれらの方々のお話を投影して思い浮かべることの出来る私ですが、子供に対し、どれだけその悲惨さを伝えらるのかは自信がありません。

 歴史を振り返って見ればわかりますが、いったん戦争に向かって世の中が動き出すと、それこそ誰も止めることは出来ません。多くの人が、その不幸と不条理をかみしめながら時代に翻弄されていったというのが実際のところだと思います。しかし、その始まりのところは、ほんの些細な人間の傲慢さや驕りに端を発していることは明らかです。小さなゆらぎの中にある間に、それを修正しコントロールしていける世論を持つことが出来る国家であるために、小さな個人個人の意識が重要なのだと思います。

 そのために、せめて自分の子供たちにだけでも、そのような話をしていきたいと考えています。また、どんな時代や世の中になっても、精一杯の努力をして生き延びていくことの大切さを説きたいとも思っています。生き延びて命を大切にして、誰かの役に立てと言いたいのです。だからといって、表立って何かの活動をするとか、社会にアピールしていこうというようなエネルギーも持ち合わせておりませんし、また、それが似合うような人間でも私はありません。

 それでも、そのようなことを頭の中で考えていれば、何かの機会に意見を述べなければならないときや、本当に危機感を覚えたときの判断を間違えないのではないかと思います。人は誰でも弱く流されやすいものだと思います。世の中の動きや情勢をながめる時、まあ良いか、と思う前に少し踏み込んで考えるためにも、平和であることの大切さを確認する時間を持つことは意味があると思います。そのような時に、かつて戦争を体験された方々のお話を聞いたり、著書に触れてみることは意義深いことです。

 怠惰に暮らしている私のような人間が、意に任せて自己満足のためにこのような文章を綴ることができるのも、平和な社会であることの恩恵に他なりません。そのような意味からも「大陸の花嫁」「生かされて生き万緑の中に老ゆ」(こちらは絶版のようですがインターネット上で読むことが出来ます)とあわせてご一読お薦めいたします。

  参考までに http://www.balloon.ne.jp/453room/index.html


2004年 10月 14日            勝者の理論



 これでもかとばかりに台風22号が上陸し、またも大きなつめあとを残していきました。被害にあわれた方々に心からお見舞いを申し上げたいと思います。また、私の住んでいるところでは、蒸し暑い日が続いたりしていました。10月のさわやかな気候はどこにいったのか、そういいたくなるような気がします。明確な根拠はありませんが、まわりの環境は良い方向に進んでいないのが実感されるところです。

 さて、先日高校の同窓会にいってきました。卒業後28年で、前回の同窓会から約20年ぶりですから、ずいぶん変わった者もおりますし、懐かしい顔ぶれもありました。恩師から、「泥臭く荒っぽかった土木科にあって、君たちの年代は一際スマートな年代であった」などと、まとまりの良かったことなどをほめていただき、終始なごやかな楽しいひと時を過ごすことが出来たと思います。

 しかし私は、この同窓会に関しては、反省すべき点が多々あったと思うのです。卒業後25年でもなく30年でもない今年、何故開催しなければならなかったのか?また、10月9日(土)という中途半端で、各々が忙しいと思われる日時でなければならなかったのか?など、多くの疑問が残ります。さらに、いくらホテルでの集まりでも1万5千円という会費(一次会のみ)についても頷けない感じもしました。

 といいながら、案内の葉書に幹事の一員として名前を載せ(事後承諾ではありましたが)、当日司会のマイクを握っていたのですから、私自身を含めて反省しなければならないということははいうまでもありません。もともとは、県南の方で苦労の末に社長になった者や、企業内でしかるべきポストについている人間が、酒を酌み交わしている内に盛り上がって出来た話のようです。夏ごろでしたか、案内状に名前を載せる旨の承諾を求められ、仔細も聞かず応諾していた私にも十分な非があるところです。

 まず、10月9日午後4時という日時の設定についていえば、確かに三連休のところもあり休みやすい日であるかもしれません。しかし、体育の日の前にあたるこの日は、秋祭りなども多く、その準備のための日になることも良くあります。各自が、しかるべき年齢となっている今、責任ある立場でその任にあたってさしつかえる者もおりました。また、私と同じような業界にいるものの中には、技術士一次試験を控え、それどころではないというものもおりました。

 気候も良いし、体育の日の前のこのあたりで良いのではないか、などという安易な発想に基づいた日時の設定であったと思います。また、その心の底に、「来られるものだけ来れば良い」という意識が無かったとはいえない気もします。同様に、会場と金額について、自分の名が幹事の一員となっている葉書をみながら「うーん」とうなったことを記憶しています。その時点で、再考を促すよう、細かな連絡をとれば良かったと反省しております。

 もともと同窓会などというものは、社会にでて成功した者たちが発案することには違い無いものかもしれません。しかし、入学と同時にオイルショックを体験し、戦後初のマイナス成長の中で、就職が決まらずやむを得ず進学にまわる者もいた時代、恩師にも褒めて頂きましたが、私たちの同期生は明るく良くまとまっていたと思います。この同じ時代を共有した仲間の間には、社長や従業員という社会的な地位は関係ありません。

 いかに苦労して今の地位を築き上げたかなどという話は、愛する家族と一家団欒の中ですれば良いのだと思いました。自分自身への自戒を含めて思うことですが、今回の同窓会の開催に関する決め事をしていく中では、「勝者の理論」に基づいた発想が働いていたのではないかと思います。「それでも、来んやつは来ん」という意見もありました。しかし、少しでも多くの同級生が集まれるように、また集まりやすいように考えるのが、本来、段取りをする者の努めだと思います。

 「世の中の役に立つものづくり」などと提唱している自分の中に、本当に、他人の気持ちになって物事を考える姿勢があるのか、ということについて考えさせられた気がします。次回、30周年になるか35周年になるかはわかりませんが、自ら音頭をとってでも、意義深い同窓会を開きたいなあと今は考えています。

 かつてのやんちゃぶりから、ずいぶん「良い大人」になったなどと同級生にいわれるたびに、首をかしげてばかりおりました。今も昔も心は少年のままのつもりですが、少しは人の気持ちがわかるようになった自分がいるのかもしれません。それならば尚のこと、己を戒めていかなければならないのだとは思いました(全く、言うは易しに他なりませんが)。

 昔の友には優しくて、変わらぬ友と信じ込み、あれこれ仕事もあるくせに自分のことは後にする……         河島さんはそんな同級生のことなど思いながら時代遅れを創ったのかも、などと思いつつ筆をおくこととします。


2004年 9月 21日            ファンは良く見ている 

                     


 暑い夏の終わりは、毎週のように台風が上陸し、各地で多大な被害を出すという風でしたが、早くも秋のお彼岸をむかえることとなりました。16号・18号台風によってなぎ倒された稲をいつ刈るかということが、母と私の合言葉のような日々でしたが、今年の稲刈りはいつもの年の二倍の手間がかかったように思います。また、「くず米」が多く、収量も去年ほどではありませんが今ひとつの結果となりました。途中までは絶好調の生育であっただけに、母の悔しがりようもひとしおです。

 さて、週末には初めてプロ野球のストライキが行われましたね。このところのごたごたで、私はプロ野球への関心が薄れておりましたので、さして気にもならないという感じではありました。ごたごたといっても、主に問題は経営者側のほうにあることは、誰が見ても明白なように思います。ストは良くないことかも知れませんが、多くのファンが支持していることを考えれば、選手会の言い分のほうがプロ野球ファンの気持ちに近いのだと思います。

 そんな中19日の日曜日には、ボクシング界のスーパースターオスカー・デラホーヤがバーナード・ホプキンスと四団体(WBC・WBA・IBF・WBO)の統一王座をかけたミドル級のタイトル戦が行われました。残念ながらというか予想通りというか、9ラウンド初のKO負けで、オスカー・デラホーヤはマットに沈みました。ホプキンスの強烈なボディへの左フックに、さしものスーパースターも苦悶の表情を浮かべ、立ち上がることは出来ませんでした。

 しかし、この試合におけるファイトマネーは、最低でもデラホーヤが約39億円、ホプキンスが約17億円という話でした。その実力の割りに、悪役的なイメージが強かったホプキンスには破格のビッグマネーですが、試合の構図はあくまでもベイビーフェイスのデラホーヤが主役だったことに違いはありません。そのため、アメリカを始め世界中の多くのデラホーヤファンはがっかりしたことだと思います。

 それでも彼は、おそらく初めてかもしれませんが、前評判の時点から不利な下馬評の中で、ミドル級の下限値位の体重で試合に臨み、素早い動きと切れのあるパンチで「死刑執行人」バーナード・ホプキンスに挑んでいきました。結果的にはパワーの違いを克服することは出来ず、ホプキンスの強打の前に敗れましたが、勇敢な戦いぶりは賞賛されるものだと思いました。

 また、一方のホプキンスは以前のハグラーを思い出させるような苦労人で、その強さのわりには人気を得られず、とにかく勝ち続けることで、ここまで登りつめてきたような感じがします。死刑執行人(エクスキュージョナー)などといわれる強面の印象と反して、39歳にして体脂肪率3%というその体は、いかに普段節制しトレーニングに励んでいるかをうかがわせるに十分でした。

 ここで私が言いたいことは、HBOを始めアメリカのメディアやプロモーターたちは、大衆やファンが何を望んでいるかを研究し熟知しているということです。それは、バスケットや野球の世界でもそうだと思います。経営などの面からいえば、全ての球団やチームが上手く言っているとはいえないかもしれませんが、「お客さんは何をもとめているか」を考えないスポーツが発展するなどとは考えにくいのではないでしょうか。
 
 敗れましたが、みんなの期待を背負い果敢に挑んでいったデラホーヤに対し、惜しみない拍手が送られたことはいうまでもありませんが、勝ったホプキンスの実力に対する評価はさらに高まるものとなりました。それは、演出を超えたドラマを闘った両者の姿を、しっかりと見ている多くのボクシングファンがいたからなのだと思います。大好きだったトリニダードに続いてデラホーヤも倒したホプキンスに対して、私も、ハグラーに抱いたような敬意を持つようになりました。

 我が国のプロ野球も、ファンは見ているということを今一度考え直す必要があると思います。今回の騒動の中で、来シーズン5球団(パリーグ)その後さらに合併などして、やがて一リーグ制への移行、という図式が経営者側の思惑としてあることなど、それほどの識者でなくても、プロ野球ファンは見抜いているのではないでしょうか。そのことを忘れて、既定路線に固執した対応しかとれないのであれば、多くのファンがプロ野球を見放してしまうことになるでしょう。

 私は以前から述べていますが、親会社の名を球団名につけないことや、ドラフトのウエーバー方式の採用、逆指名の廃止などを始めとする公正な競争のためのルール作りと、キャラクター商品のプロ野球機構による販売や利益のプール制など、経営改善の施策など、大胆な改革をする良い機会であると思います。そのような改革を示すことが、将来のプロ野球のために本当に必要なことだと思います。

 大衆の心を見ようとしない経営者には、どんなビジネスであれ最終的な成功はないのだと思います。私の好きだった巨人は、王・長島の巨人だったのです。巨人の星の時代の巨人だったのだと思います。長島茂雄の引退により、私は広島ファンに変わりましたが、昔からジャイアンツを応援している人の中にも、なんか納得のいかない気持ちがあるのではないでしょうか。聞くところによる巨人戦の視聴率の低迷が、その事を物語っているのだと思います。

 ファン(お客さん、依頼者、大衆など広い範囲の人々)は良く見ている。



2004年 8月 30日            フェアーであること 

                     


 盛り上がったアテネオリンピックが終わりました。柔道・体操・水泳などを始めとして日本勢の活躍はすばらしいものがありました。多くの国民に感動を与えてくれた選手の方々に「お疲れ様でした」といいたいと思います。まずは、心と体をゆっくりと休めて欲しいと思います。

 オリンピックでメダルを獲得したり入賞したりして夢をかなえた人、かなえられなかった人、結果は様々ですが、その舞台に立てただけでも素晴らしい体験であったと思います。そのことにより、得がたい感動と多くのことを学ぶことが出来たはずです。その体験は必ず人生の糧となり、自分自身の向上につながるのだと思います。

 多くの選手は、そのような感動を胸に自己の可能性を最大限に発揮するために、それこそ必死で競技していたのだと思います。その事を考えるとき、ドーピングの問題や審判の不手際、また、男子マラソンのような観客による妨害などが起きると、本当に残念な気持ちになります。また、その影響を受けた選手の受けるダメージは、言葉では言い表せないものがあるのではないでしょうか

 最終日の男子マラソンでは、先頭を行くブラジルの選手が35kmを過ぎたあたりで、沿道から飛び出した観衆の一人によって、走行を妨げられ、路側の観客の中にに押し付けられるハプニングがありました。同じ観客に助けられ、わずかのタイムロスで再び走路に戻り、ゴールを目指して走り出しましたが、解説の谷口さんも指摘されていたように、明らかに走りのリズムは狂わされていたように思います。

 優勝したイタリアの選手と2位に入ったアメリカの選手たちが、じりじり追い上げていた場面でしたから、ゴール地点までには、彼は抜かれていたかもわかりませんが、そのハプニングがなければ、1位でゴールしていた可能性もあります。その後良く頑張り3位でゴールする時には、両手を広げて喜びを表しながら観衆に応えていたので、少し救われた気持ちになりましたが、もし私がその立場であったなら、あのような粘りと最後の笑顔が出来たのだろうか、などと考えずにはいられませんでした。

 マラソンのレース後、ハンマー投げの室伏選手が繰上げの金メダルとなったための記者会見の模様が放送されました。「結果に関らず、努力することの大切さを感じている」とのべながらも、戸惑いを隠せない複雑な表情の室伏選手を見て、何とも気の毒な気がしました。落ち着いたしっかりした対応に感心しながら、「出来れば表彰台のうえで……」というあたりで私も大きく頷いておりました。

 その他、レスリングや野球などの競技に関する判定に関しての不手際・統一性の問題なども、今ひとつ納得がいかない場面もあったように思います。レースや試合の結果により、選手たちが得られるものは大きく違ってきます。国の威信や名誉だけでなく、物やお金の面からも大変な違いが出ると思います。

 そのことの是非は別として、選手たちが人生をかけて精進していく上で、また、モチベーションを維持していく上でも重要なインセンティブであることには違いありません。いずれにしても、まさに人生を賭けて競技している選手たちが4年に1度のビッグチャンスに挑んでいるのですから、真の意味で公正で平等な競技・運営が行われて欲しいと強く思いました。

 また、ドーピングの問題などは、年々巧妙化するドーピングのテクニックと高度・精密になる検査技術のいたちごっこが続く中で、一方では風邪薬も飲めないような対応を選手に強いる結果となっています。公正で平等な競争をするということが、なぜ、そのような結果をまねくのかと考えさせられてしまいます。

 本来の精神である「フェアープレー」を選手や関係者全員が守れば、無駄なお金もかからず、不幸な悲劇に巻き込まれる選手も出ないのだと思いますが、いつの世も、ズルをしたり助けたりする行為は後を絶たないことでもあります。そのような中で、本当に公正な競争が行われるために、一層の技術的な進歩と公平なルール作りが望まれるところであります。

 余談ですが私は、小賢しい振る舞いや、そのような勝負の仕方があまり好きではありません。ルールを研究して、効果的な戦法を取ることと、そのルール上、ここまではペナルティを受けないか、もしくは受けてもリスクが小さいから、反則してでも勝とうとすることは大きく違います。言い換えれば、法律に触れなければぎりぎりまで踏み込んでやれば良いんだという考え方に似ていると思います。

 フェアーであることはとても大切なことだと思います。当たり前のことですが、大切なことだなあと今強く感じています。


2004年 8月 16日            終戦記念日を考える



 6月1日にあわただしく植えた稲も、はや穂を出し頭を垂れようとしています。去年のことを思うと、とても暑いお盆を迎えました。まだ、暑さの残る夕暮れ時、七回忌を過ぎた父の墓に参りながら、何となくほっとするような気持ちになりました。お盆というのは、日本の良い風習の一つだなあと思いながら帰ってきました。

 オリンピックが始まり、アテネからは、野村選手三連覇、柔らちゃんの連続金メダルなど、ホットな情報も伝えられてています。しかし、そのようなオリンピック気分の中で、どうしても私は8月15日というとしなければならない話があると思うのです。

 昨日(といっても数時間前ですが)、8月15日といえば終戦記念日ですね。この時期、戦没者の方々を追討する催しや、テレビ番組なども数多く目にします。しかし何となく、年々、戦争に対する意識と言うようなものは薄れていっているような気がします。特に、若い世代へその悲惨さを引き継いでいくことが、うまく行われていないような気がします。内務省発表資料によると、戦死者約212万人、空襲による死者約24万人とされています。それ以外にも多くの人たちが戦争のために命を落としたり痛手を負ったのだと思います。

 今年で59回目のこの日を迎えても、今ひとつ戦争に対する議論などが盛り上がってこない風潮を感じるのは私だけではないと思います。水や空気のように平和というものが存在するこの国に暮らしていると、その意味やありがたさを感じることにも鈍感になってしまっているというのが、実際のところだたと思います。

 先日、NHK人間ドキュメント(船の棺)を見ました。太平洋戦争で犠牲になった民間の船は7000隻を超え、六万人以上の民間船員が犠牲になったといわれています。その撃沈された船を、模型として再現し、乗組員の遺族に送り続けておられる佐藤明雄さんのお話でした。数少ない資料や手がかりをもとに、何とか当時の船の姿を復元し、遺族のもとに送り届ける活動をされています。

 多くの場合、魚雷などにより撃沈されたそれらの船の乗組員については、遺骨などは遺族のもとに届くことはありませんでした。本当にたくさんの人たちが、肉親の死を受け入れることが出来ず、終わらない戦後を過ごしてきているのだと思いました。佐藤さんにより届けられた模型船を目の当たりにし、亡き父や夫の死を現実のものとしてようやく受け入れることが出来たと涙する遺族の表情を見るとき、私たちは、そのような話を語りついでいかなければならないのだと強く感じました。

 先月、高校時代にお世話になった先輩の葬儀に出た話をしましたが、ガンとの激しい戦いをされた先輩の亡がらは、頑強だった選手時代の欠片もなく、本当に見るのが辛いほどやつれていました。しかし私は、生きているものの努めとして、しっかりお別れをさせていただきました。生きているもののつとめとして、先輩が言いたかったことややり残したことを、後に続くものに伝えたり、実践していかなければならないのだと感じたからです。

 戦後60年を経ても、今なお愛する人を失った悲しみを引きずりながら、終わらぬ戦後を生きている人がたくさんいます。そのように考えるとき、せめて私たちは、父や母から聞いたその頃の悲惨な体験や苦労した話などを、自分の子供たちを始めとして、自分より若い人たちに聞かせることぐらいは、しなければならないと思います。本当に安穏として、ただ流されるように生きてきた私でも、この頃はそのように考えるようになりました。

 奈良の薬師寺再建に大きく貢献された故高田好胤管長は宗教を次のように語られています。「宗教というのは、佛教であれキリスト教であれ、天理教であれ金光教であれ、教え方説き方は違っていても、底の心は一つでなければいけません。神仏の前に敬虔な姿を持ち、謙虚な心をもってぬかずくということです。無我の心なのです。自分以外のものを認めないのは自我です。これは宗教の最も基本的態度、最も基本的資格を自ら忘れ果てている悲しい人々であります。」

 このことは、宗教という概念を超えて、人間の考え方の基本として普遍的にもつべきもののように思います。日本に限らず、国政を預かったり、国運を握るような仕事につく人たちは、皆、豊かな才能を持ち、高度な学歴や見識を備えているはずなのに、高田管長の説かれた、無我の境地を求める姿勢を持つことなどに対し、少しでも興味を持つ人はいないものかと、考えずにはいられない気持ちになるときがあります。

 昭和20年5月中頃にここ津山に疎開し、7月にはさらに勝山町に移り、8月13日にわざわざ尋ねてきた永井荷風と旧交を温め、8月15日に玉音放送を聞いたという谷崎潤一郎のことなど、細雪の内五十枚ぐらいはこちらでの筆によることなどを含め、触れてみたいところですが、やはり今回は、終戦記念日について思うところを述べなければ、心のおさまりがつかないような気がしてしまい、とりとめもない文章となりました。


2004年 8月 2日            二次試験直前にひとこと



 「言うまいと、思えど今日の暑さかな」まさにこの句がぴったりの日が続いておりました。しかし、8月に入るのを狙ったように、いつもとは逆の方向から台風がやってきました。私の住んでいるところでは、多少強い風が吹きましたが目立った被害はありませんでした。水不足が解消されるぐらいの影響で済めば何も言うことはないのですが、それでも、腑に落ちないような納得がいかないような気候になってきているような気がして仕方ありません。

 さて、いよいよ技術士二次試験の日が迫ってきましたね。受験される方々は、本当に最後の追い込みをされているところだと思います。何といっても、チャンスは一年に一度しかありません。悔いが残らないようにして下さい(合格すれば悔いは残らないと思いますが、不合格であっても全力を出し切り、次への手ごたえをつかむことが大切です)。

 この暑い日が続く中で、日常の業務を持ちながら勉強をするということは、とても大変なことだと思います。まして、家族がいれば、そちらへも負担を強いることにもなりますから、精神的にもストレスがたまるところだと思います。毎日こつこつやるタイプの人、週末にまとめて時間をとり集中して勉強する人など、やり方は様々だと思いますが、いずれにしてもあと数日の辛抱です。言い方を替えれば、あと数日しかないともいえますが……

 午前中の経験論文については、あらかじめ準備が可能ですから(出題にあわせて多少の編集的アジャストは必要でしょうが)、しっかり記憶しておくことが必要だと思います。ただ最近は、昨年の道路科目のように、例年踏襲されてきた3例略記1例詳述から、突然2例詳述に変わるようなこともあります。ある程度、そのようなことを想定した準備も必要になってくると思います。

 しかし、何といっても技術士二次試験においての勝負は、午後の問題だと思います。論文の枚数が減り、記述する量としては楽になったと思いますが、一般科目の択一問題をこなしていくとあまり余裕はありません。時間配分としては、まず、択一問題を30分程度とすると、一般論文70分、専門科目2題で130分、受験番号や部門、科目等の記入と見直しをあわせて10分しか残りません。

 まさに時間との戦いとなります。だいたい600字詰の解答用紙一枚を20分位で書ける練習をしておくことが望まれます。やってみると良く分かりますが、原稿を書き写すという作業では、そのような速さで書き上げることは困難です。出題されそうなテーマに対して、どれだけ多くの文章の引き出しを用意できるか、というような表現が適切かもしれません。もちろん、「あなたの意見」として自分なりに咀嚼したものでなければならないことは言うまでもありません。

 添削をしていると良く見かけるのは、白書や業界誌などからの引用に終始した文章です。もちろん題材や話題はそのようなところから求めなければなりませんが、きちんとした自分の意見として表現できなければ良い評価を得るのは難しいと思います。常に、我が国の~という書き出しを念頭に置いた生活をどれだけ心がけているかが問われるところです。

 逆にいうと、少し位テーマが外れても、しっかりした自分の意見というものを持っていれば、最近のトピックスなどとからめてアピールが出来ることもあります。問題をよく読み、出題意図に対してどのような課題と対応策があるのか、また、その分野の留意点はどのようなものか、あるいは、工法・手法はどのようなものがあるのかなど、冷静に思い浮かべることが大切です。

 あとは、それらの項目について、どれだけ読みやすくわかりやすい文章で書くのかに細心の注意を払いながら書き上げていきます。主語述語をはっきりイメージしながら、極力冗長とならないように心がけ、簡潔で読みやすい文章を心がけていくことが大切です。その中で、建設的な自分の意見を披瀝していきます。このとき、普段の業務や今までの経験の中から感じてきた技術者としての熱いポリシーを示すことが大切です。

 試験直前ですが、私なりに思い付く点を述べてみました。実践に備えた細かなアドバイスも別項に示していますので参考にしていただければと思います。いずれにしても真夏の1日、大学などのかたい椅子に座りながら、7時間の過酷な戦いです。体調面でも十分な配慮をして望みましょう。また、最近では、暑さ対策よりも冷房対策をしていく必要性のほうがあるようにも思います。時間との戦いですが、最後まであきらめずに書き続けましょう。

 力を出し尽くし、ふらふらになってたどり着いた店で飲む生ビールの味は格別なものがあります(一年で一番美味いビールかも)。また、例え不合格となっても、これまで勉強してきたことは必ず自分を向上させてくれているはずです。このことは、精一杯努力された方にはわかることだと思います。

 個人的意見ですが、合格すればそれで良いというものではありません。技術士となっても常に志を高く持ち、世の中の役に立つものづくりを目指せる人達に、一人でも多く合格して欲しいと願うところであります。そのような皆様のご健闘をお祈りいたします。

 

2004年 7月 20日               先立つ人を偲びつつ考える



 梅雨が明け、私の住んでいるところでは、去年とは比べ物にならない暑い日が続いています。しかしながら、私が、ここ数年いつも感じている腑に落ちないような、納得のいかないような雨の降り方が、先日、新潟や福井でありました。記録的な豪雨は、多大な被害をももたらしました。また、多くの高齢者の方々が犠牲になられました。心からお悔やみとお見舞いを申し上げたいと思います。

  暗い話題が続きますが、先日、高校時代に部活でお世話になった先輩の通夜・葬儀に参列してきました。昭和28年生まれの人ですから、満年齢ではまだ51才の若さだったのだと思います。先輩は、骨太のがっしりした体格のスポーツマンでした。昨年、胃がんの手術をされたと聞いておりましたが、かつてのタフネスを思うと、まさか、このように早く亡くなられるとは思いませんでした。

 自分でいうのもおかしな話ですが、わが母校のソフトテニス部は、二級上あたりから頭角をあらわし、私たちの年代から二級下までの時代をピークとして、強豪ひしめく県南勢と互角以上に戦い、全国大会出場などの活躍をしたと思います(今では見る影もありませんが)。指導する顧問の先生も出てこないような部活において、この度なくなられた先輩を始め、多くのOBの方々が練習に訪れたり、経済的な援助をしてくれたことが、その最も大きな原動力になったのだと思います。

 通夜、葬儀の席を通して、本当に久しぶりに同級生や先輩・後輩を含めた当時の仲間たちと顔をあわせることが出来ました。皆、一応に齢を重ね、白髪が増えた人やめっきり髪が薄くなった人もおりました。互いに、相手の老けたことばかりを口にしながらも、懐かしい旧友たちとの会話を楽しむことが出来ました。強いリーダーシップを持っておられた故人が、私たちを引き合わせてくれたのだと思います。

 私は、亡くなられた先輩には本当にお世話になりました。実際には、「勉強する目的も持たず、進学するべからず」という父の一言でやむなくあきらめましたが、先輩の在籍していた大学へのスポーツによる特待入学についても骨を折っていただいたこともありました。その他、大学で行われている合理的な練習方法の導入や、ラケットやガット、それからユニフォームなどのメーカーなどからの支援なども取り付けていただきました。

 今から思うと、よくもあれだけやれたものだと思えるほどの練習量をこなしていく中で、私たちは勝つことを覚え、やれば出来るんだという自身をつかんでいったのだと思います。大勢入部した同期生も、最後ははわずか6人になってしまいました。あれだけ密度の濃い時間を共有した同級生とは、時々酒を酌み交わしますが、今も三十年前の頃と気持ちは変わりません。しかし、上下の先輩・後輩となると本当に久しぶりの再会でした。

 それぞれ家族や仕事があるので、多くの人が、通夜か葬儀かどちらかだけの出席となったり、それが済むと足早に帰っていくような状態でしたが、わずかな会話の中にも、気持ちの通じ合うひと時を過ごすことが出来たと思います。それほど真面目とはいえなかった私ですが、今から思えば、良くぞ辞めずに3年間在籍していたものだと思います。

 最近では、バイトに精出す若者は増えても、部活でひたすら汗を流そうという人は減ってきているように思います。わずかな(若い人にはそうでも無いかも知れませんが)お金を稼ぐことよりも、若いときにしか出来ないことを精一杯やってみることの方が、どれだけ人生においては、意義があることか計りしれません。私にとっては、この時期における部活での経験がその一つであり、その後、過酷な労働条件下における建設現場において重ねた勉強に対して、大きく役立っていると思います。

 また、それまでの知識優先で屁理屈をこねるばかりであった、曲学阿世を絵に描いたような考え方から、「理屈ではなく肌で感じたものを信じる」ことが出来るように変わっていくきっかけを作ってくれたのも、この頃の、厳しい練習や仲間とのふれあいがもとになっていると思います。

 亡くなられた先輩は、つい最近までも、在籍されていたクラブや協会などの役職をこなし、後進の指導や自身の試合出場などを通して、ソフトテニスの普及と振興に力を注いでおられたようです。葬儀にあたっては、関係した多くの方々が訪れていました。テニスのラケットの形に飾られた祭壇の花に挟まれた遺影は、元気だった頃の優しい笑顔で笑っておられました。私はお別れに際し、「お疲れ様でした。本当にお世話になりありがとうございました。」と合掌しました。

 人生には、そのことが良かったのか悪かったのか過ぎてみなければわからないことがいくつもあると思います。そういう意味で、知識の集積だけではなく、部活などを通して情緒の集積を図ることはとても大切なことだと思います。しかもそれは、年齢の若い時にこそ大切なことなんだなあ、と、このごろしみじみ思うようになりました。このことは、歳のせいばかりではなく、そのように思えるようになったのだと感じています。

 

2004年 7月 5日               夏休み雑考



 7月に入りました。私の住んでいるところでも、ここ数日蒸し暑い日が続いています。もうすぐ、夏休みですね。子供の頃には胸をときめかせて待ったものですが、いつの頃からか7月20日も、ただの7月のなかの1日になってしまいました。それにしても、いつからこんなに1日が短くなったのかと、溜息をつきながら過ごす今日この頃です。

 夏休みといえば、母に連れられていった山の中の暮らしを思い出します。母の実家は、汽車とバスをいくつも乗り継いでいく、雲海が見えるような高い所にありました。平らな土地も少なく、葉タバコを主に栽培する他は、わずかな水田と畑を耕す生活を送る村だったと思います。本当に何もない静かなところでしたが、子供の頃の私の記憶には、いわゆる「悪い人」を見た覚えは無く、とてもやすらいで過ごせる場所だったと思います。

 近くの林には、目を見張るくらい大きなミヤマクワガタがたくさんいましたし、井戸水で冷やした西瓜やトマトなどの味は忘れるものではありません。また、塩をかけて食べた取れたての胡瓜や、本当に甘く感じられたまくわうりの味もしっかりと記憶に残っています。何よりも私にとっては、そこにいくと自由に食べることが出来たインスタントラーメンの味が忘れられないものかもしれません。

 
 小学校位まで、私は父に厳しく育てられました。結婚後10年たって、それも養子を貰うことになるときになって、ようやく誕生した長男に対して、期待するところが大きかったのだと思いますが、かなり理不尽な(子供心には)命令も多かったと思います。その一つが、インスタントラーメンのようなものは体に悪いから食すべからず、というものでした。当時すでに糖尿病にかかり、肝臓も患っておりました父は、肝臓に悪いなどといって、子供のあこがれの食べ物を私から取り上げていたのでした。

 そのようなわけで、母につれられて実家にいくと、父の目の届かないのを良いことに、買い置きしてあるインスタントラーメンをせがむのでした。けっこう素直で良い子だった私は、そうは言っても父親が言うからには、本当に体に悪いのかもしらんと思い、数日おきに遠慮がちに食べるだけでした。先日、母方の一番下の叔父(20歳近く母よりは若い)と飲んだとき、その時の様子を覚えていて、笑いながら話してくれました。


 「夏休みの友」とわずかな宿題をする以外は、ほとんど毎日外で遊んでいました。若い叔母さんたちが遊んでくれることもあるし、近所の子供と遊ぶこともありました。また、一人で弓矢を作ったり、たわいの無い遊びを考えたりしていれば、いくらでもやることがあったように思います。それでも、葉タバコの収穫や畑での農作業など、我ながらお手伝いもよくやったと思います。ほめられるのが嬉しくて、本当に根気良く手伝いをしたのだと思います。

 中学に入った頃には、そんな田舎の生活に耐えられなくなり、跡を継いでいた母のすぐ下の叔父が県南の方に出てしまったので、そこを訪れることはなくなりました。結局、中学生となった私は、頭でっかちな知識の吸収とそれまでの抑圧された状態からの反動で、父の期待を大きく裏切り、成績も哀れなものとなっていったのですが、どんな時も、母親だけはかばってくれたように思います。まったく、100%の厳しさ(父親)と100%の優しさ(母親)というのが、その頃の私の両親に対するイメージだったかもしれません。

 話はそれましたが、もし私に、根気のようなものが養われたとしたら、あの小学校の頃の夏休みの間に、母の実家で農業を手伝ったことに起因しているのだと思います。おそらく5~6年生の時だったと思いますが、こちらに帰ったあと、母と二人で田圃の草むしりをしたとき(これは父の苦労の賜物で、新しく手に入れたばかりで荒らされていたのです)には、近所のおばさんが、本当に感心するぐらいの働き振りでした。今となっては信じてくれない友人もおりますが……

 多かれ少なかれ、私と同世代の人たちなら同じような子供時代を過ごされたのだと思います。もし、今の暮らしから便利なものが全てなくなっても、あの頃の暮らしを経験し、その大変さと面白さを知っている私たちの世代なら、案外やっていけるような気もします。しかし、うまれた時から何でもそろっている環境に育ち、携帯電話をかた時も離さない子供たちを見ていると、とても、そのようなことはおぼつかないように思います。

 何でもあるのが当たり前の世の中で、幸せを実感していくことの難しさを感じています。食堂の入り口に「冷水あります」と貼ってあったことや、わずかなお金を握り締めてそこに入り、頭がキーンといたくなるほどに慌てて食べたかき氷の味は、暑い夏の景色として心に染み付いています。そう言えばこの頃、夏になったら食べたいものなんて思いつかなくなりましたね。

 冷たい西瓜、朝とれたての胡瓜、トマト、かき氷、縁日の冷やし飴、綿菓子、それぞれに思い出せる景色や人の顔が浮かんでくるような気がします。



2004年 6月 21日          人が判定(ジャッジ)するということ


                    

 6月に入って、予定外の出張があったりしました。さらに、日露戦争から百年目を迎えた大連を訪れたりすることになり、その疲れなどから体調を壊してしまいました。ようやく、キーボードに向かう気力がでたところで、迫りくる台風情報に気をとられながらこれを書いております。

 さて今月初旬、あのオスカー・デラホーヤが6階級制覇を成し遂げました。9月には、いよいよミドル級の統一王者バーナード・ホプキンスとビッグマッチが行われるようです。久々に行われる世紀のビッグマッチになるでしょう。しかし、WBO王者フェリックス・シュトルムからデラホーヤがタイトルを獲得した今回の試合は、結果的には史上初の6階級制覇という形になりましたが、すっきりしない判定であったと思います。

 試合後、デラホーヤ自身も試合内容については、上手くいかなかったと語りましたが、結果はきわどい判定での勝利でした。テレビの実況中継を見ていた私の「素人採点」では、2ポイントチャンピオン有利というものでした。また、試合全体を見たとき、期待していたスピードやパンチの切れ、その強さというような点で、デラホーヤは精彩を欠いていたように思いました。

 アメリカのスーパースターがラスベガスにドイツのチャンピオンを迎えた試合であり、観客のほとんどがデラホーヤを応援しているという状況から考えれば、当然といえる判定だったのかもしれません。まして、次に統一戦が予定されているバーナードホプキンスの試合が、前座とも言えるセミファイナルで行われ、結果的に大差の判定(まったくの余裕)でホプキンスが勝利をおさめた後でした。

 何となくホッとしたような、少し割り切れないような気分の中で、私は87年に行われたハグラー対レイナードの試合を思い出していました。結局、僅差の判定で敗れたマービン・ハグラーはリングを去りましたが、私は、今でもあの試合はハグラーが勝っていたと思っています。しかし事実として残っているのは、あの強豪ひしめいていたミドル級において、11年間負けなかったハグラーが、この敗戦を最後に引退したということだけです。

 当時、恵まれない環境の中で不良少年として育ったハグラーに比べ、オリンピックで金メダルを獲得し華やかな道を歩んできたレイナード(ニックネームはシュガー・レイ)の人気は絶大なものがありました。また、それにふさわしいボクサーとしての華もありました。そのような中で、微妙な内容の試合展開となれば、やはり同じような判定になるのだろうと思います。今回の元チャンピオンフェリックス・シュトルムに比べるとハグラーの方が人気もネームバリューもあったと思いますが、何となく状況が似ているようにも思います。

 その、マービン・ハグラーの試合と彼のその後を考えると、判定(ジャッジ)ということの厳しさと大切さを思わずにはいられないのです。長く厳しいトレーニングを重ね想像を絶する節制を続けた上で、ボクサーはリングに上がります。その結果、どちらかが勝者となり一方は敗者となるわけです。それによって得られるものは、天と地の差がついてしまうこともあります。圧倒的な力の差がありKO勝ちしない限り、勝負の行方は第三者の判定に任されることになります。

 だからこそ、判定に際しては真摯で平等な目を持って臨んで欲しいと思います。人気選手によるビッグマッチを見たいという、観客やファンの期待を感じたりするかもしれませんが、あくまでも冷静で公平な判定を望みたいと思います。アントニオ・ターバ-にKO負けする引き金となったロイ・ジョーンズの第一戦のように、素人の私が見てもおかしいのでは、と思うような試合も時々あります。

 話は変わりますが、かつて「王ボール」「長島ボール」というのがあり、王・長島が見逃せばボールだというような言葉を聞いたことがありました。子供の頃のことですから、やっぱり王や長島はすごいんだと感心するばかりでしたが、やはり、厳しい勝負を判定するわけですから、その判定というものは公平でなければいけないのだと思います。

 試合後のインタビューで、自身のことよりもデラホーヤが勝利したことを喜んでいたバーナード・ホプキンスの表情が印象に残りました。もし、デラホーヤが敗れていれば9月に行われる統一戦の相手はシュトルムとなり、ファイトマネーも月並みな金額にとどまってしまうところでした。ハグラーの再来を自認し、統一ミドル級王者に君臨するホプキンスももう39歳です。ビッグマネーを手にするためのビッグファイトは最後かもしれません。デラホーヤ戦を見守る時の不安そうな顔や試合後の安堵の表情が、何よりもそのことを物語っていたと思います。

 ボクシングに限らず、スポーツの世界では人間が判定を下すものがたくさんあります。また、それ以外の分野においても文学・芸術など、多くの世界で人間が判定を下して評価を決める場面は意外と多いのだと思います(論文を査読するような試験などもその範疇では)。そのような時、ほんとうに客観的な要素を排除したうえで、冷静で公平な判断に基づいた判定が下されることを強く望みたいと思います。その時ジャッジする人は、ジャッジされる人の人生を握っているわけですから。



2004年 6月 1日          美しき棚田の裏側で 



 五月が終わりました。吉井川からの用水の関係もあり、待ちかねておりました我が家の田植も、一応済ませることが出来ました。天気は、プレ梅雨のあとにわずかな晴天を垣間見せ、本当の梅雨に入りました。まったくもって、今年の夏は期待通りに暑い夏となるのでしょうか。専業農家ならずとも、思いやられる気がします。

 ところで、ここからそう遠くないところに、日本の棚田百選に選ばれた大垪和(おおはが)の棚田があります。標高約400メートルの中山間地に八百枚を超える(約42ha)棚田が広がっています。等高線に沿った美しい曲線が描き出す縞模様は、素晴らしい景観をみせてくれます。自然の中に人間が溶け込み、真の意味で、開発と環境の保護とが調和した上に造営された景色だと思います。そのような意味からも、心がなごむ景色といえるのではないでしょうか。

 しかし、過疎化や高齢化によって、その維持や保全が危ぶまれています。自由競争の方向に向かう中で、米価の低落傾向などによる、農家の稲作からの撤退なども理由となっています。棚田は、その美しい景観とは裏腹に、農作業をするには非常に困難な田圃です。急な勾配の中に小さな面積の圃場が点在し、湾曲しているその形状ゆえに機械化が極めて難しいのです。したがって、単位あたりの収量は平野部の水田よりはるかに劣りますし、労力がかかってしまいます。

 実際、大垪和のような田舎に住んで主に米を作って暮らす生活などは、経済的に考えれば不可能といえるでしょう。先祖からの土地を荒らしてはいけない。とか、耕作を放棄すると、水利や環境の面から周りの人に迷惑をかけるからというような理由で、年老いた人たちが、あと一年、もう一年と必死で頑張っているというのが現状だと思います。

 先日テレビで、子供さんたちは都市で就職したりして後継者のいない老夫婦が、十分ではない体調をいたわりあいながら、棚田での米作りに励んでいる姿が取り上げられていました。現在でも、棚田の四割は休耕田であるといいますし、耕作を放棄する農家は後をたちません。その老夫婦についても、あの深く刻み込まれた皺に浮かぶ、味のある笑顔をいつまで見られるのだろうと思いました。本当に、いつまで持ちこたえられるのか、という感じだと思いました。

 現在、かろうじて日本の田舎には田園風景が残っています。美しい棚田や段々畑の光景もまだ見ることが出来ます。しかし、それを支えているのは大垪和に限らず、年老いた人たちばかりです。いいかえれば、経済社会の仕組みの中で、割に合わないことをやる人たちによって、かろうじてその美しい景観は保たれているのではないでしょうか。

 保水力のある棚田が荒廃したために、大雨などで地すべりが起こったという事例も聞いたことがあります。また、水田として管理されている状態であれば、雑草などもはびこらず害虫なども発生しにくいと思います。さらに、長年築き上げられてきた用排水系統を維持していく上でも、耕作放棄などがあると大きな障害となります。単に、素晴らしい景観を維持するためでなく、棚田を守っていくことによるメリットは非常に大きなものがあると思います。


 現在では、棚田を耕作していくことにおいて、わずかばかりの補助金のようなものが出されています。国の財政が逼迫する中、そのようなお金に対しても縮小論が出ていると聞きます。前回も述べましたが、肌で感じてみたらいかがでしょう。便利な都会の空調の効いたオフィスの中だけで、深刻化する中山間地における環境の維持や農業後継者などの問題を論じても、本当に血の通った施策が打ち出せるとは思えません。

 棚田の岸は高いので、大雨などがあるとしばしば崩れます。私は、田舎の土建屋育ちですから、農地などの災害復旧工事で、大垪和や同じような棚田のある場所に何度もいったことがあります。わずか5mや10mの長さ(高さも2~3m)の田圃の岸を直すために、2トン車しか入らない道をさらに補強したりして、ほとんどが人力というような工事をやったこともあります。それでも、地主である農家の人たちが、喜んでくれるとこちらも嬉しい気持ちになりました。

 崩れた岸をブロック積などで復旧しても、床掘で影響した部分などにも石を積んだりしなければなりません。そのような費用は、積算上は組み込まれていません。同じように、湧水箇所などがあれば、パイプなどを自主的に取り付け排水します。現場において、実際にやって見なければ分からないことはたくさんあります。なんでも、図面通りにつくれば良いというものでもありません。

 どうしたら、そこに暮らす人たちの役に立つものがつくれるのか、そしてそれは、将来にわたって考えてみたとき、本当に必要で大切な資産となっていくのか、と、いうことを考えた取り組みが大切なんだと思います。そのような時、机に座ってモニターを眺めて考えるだけでなく、足しげく現場に通うということが本当に必要であると思います。


2004年 5月 19日          肌で感じることの大切さ 



 風薫る5月といいますが清々しい日々などは続かず、まるで、梅雨時のようにじめじめとした日が続いております。地球温暖化のせいなのか、私の住んでいる地方では、ここ数年、梅雨が今頃と6月から7月にかけての2回あるような状況となっています。具体的な根拠はありませんが、このような状態が人にも農作物にも良いはずなどは無いであろうという、おぼろげな不安を抱かずにはおられません。

 中々乾かない田圃を尻目に、雨で十分な潤いを得た苗はどんどん延びていくのですが、用水の関係から31日以降でなければ我が家の田植は出来ません。それまでに、もう一度耕運したいなと考えておりますが、おぼつかない状況となっています。もし、昨年のように本来の梅雨が長びけば、またしても米の不作となってしまうかもしれません。私のように、兼業でわずかばかりの米を作っているものでさえ、気がかりな空模様がつづいております。

 本来、5月の空は晴れ渡り、日差しも4月のそれとは変わり逞しいものとなります。ですから、5月に入っての耕運は全く効果があり、雑草なども強くなった日差しでよく乾いて土に溶け込んでいくのです。しかしながらここ数年の天候では、耕運し雑草を枯らしていかなければならない大切な時期に太陽があたらず、じめじめと降る雨の恵を受け、雑草ばかりがのびていく事が多くなっています。

 また、この時期に十分な日照が得られないと、病害虫の発生することが多くなるようにも思います。5月の強い日差しにあたることで、田圃は乾燥とともに消毒・殺菌というような恩恵を受けるのではないかと思います。といっても、そのことを裏付けるデータや科学的な根拠があるわけではありません。私は農業のプロではありませんが、身の回りの事象から体験を通した感想を述べているだけのことです。

 しかし考えてみると、この「なんかへんだな」と思う気持ちというか、それを感じる感覚が大切なのではないかとも思います。今日、我が国の平均気温はこの百年で約0.9℃上昇したとか、その中でも東京は約2℃も上昇しているという話を聞きました。しかし、そのような数字を聞いても、都会に住み空調の効いた空間で仕事や生活をしていれば、あまり実感することは無いのではないかと思います。

 それでも、田舎に住んでいますと、子供の頃に比べ雪が降らなくなったしあまり積もらなくなったと感じます。また、不順な天候が多くなり、一応な「夏」「冬」というイメージの気候が繰り返すことがすくなくなったことを身近に感じます。さらに、大きな川の水量もめっきり減ったように思いますし、水質も濁り魚の種類も減り変わりました。直接気候とは関係ありませんが、目の前の吉井川で子供が遊んでいたことなど、今からは想像もつかないことだと思います。

 何より今の季節、雨が続いて気温が上がらないというようなことはあまり記憶にありません。かつて、この時期は「麦秋」と呼ばれ、二毛作をしている農家では麦の刈り取りをしていた頃です。子供の頃の記憶として、暑い日差しの中で近所の農家の人たちが、その作業をする光景を私は覚えています。

 空調の効いた部屋でキーボードをたたく生活をし、たまにわずかばかりの田圃に出て行く程度の私でさえ、「なんかおかしいなあ」という納得のいかない気持ちでいるわけですから、もっと深く農業や林業、水産業などの職業にかかわり自然と身近に接している人たちは、さらに強い危機感をもっているのではないかと思います。便利さや豊かさと引き換えという形で、地球環境に負荷を与え続けて来たことを直視しない姿勢を改めねばと思います。

 百聞は一見にしかずといいますが、報道等による情報や知識としての環境の悪化という認識よりも、実際に肌で感じることの方が危機感を覚えます。同様に、快適な生活や効率の良いビジネス環境の中で、議題やテーマとしてだけの環境問題を論ずることの危うさも感じています。先月末、北海道に行きました。アイヌのコタンなどを訪れましたが、自然に敬意を抱きながら巧にその自然を利用していた生活ぶりに胸を打たれる思いがしました。

 私たちは、科学や技術に対し研究や研鑚を深めていくことが全てであると思いがちですが、「肌で感じる」感性を養うことも大切なのだと強く思いました。とはいえ、身近なゴミの分別やリサイクル収集にいそしむ程度の私ですが、少なくとも、歯磨きをするときに水道の水を流しっぱなしにして、後ろめたいと思うぐらいの感覚は忘れたくないと思っています。


2004年 5月 6日       今、何故韓国の映画やドラマが流行るのか



 いつの間にか立夏を迎え、暦の上では夏に入りました。我が家でもゴールデンウイークの1日、老いた母の先導で恒例の籾蒔きを行いました。県北にしては遅い田植に備えて、わずかながらですが自家製の苗を育てています。今年も、親子で田圃に立てることを何よりの喜びとしたいと思うようになりました。

 さて、話は変わりますが、先日来日して話題をさらったペ・ヨンジュンやチェ・ジウの冬のソナタを始めとして、今、韓国の映画やドラマが日本で好評を得ていますね。見ていて、確かに引き込まれていくのは何故でしょうか。例えば冬のソナタなどを見ても、ストーリー的にはそれほど目新しいものではないと思います。

 それなのに何故、見ている私たちを引き込んでいくのでしょうか?それは、私たちが本来持っているけれど忘れてしまっている感情、シンプルな形での愛とか憎しみとか嫉妬というものを、素直に表現しているからではないでしょうか。今の日本では、映像的なテクニックとか機をてらいすぎたストーリー展開に走りすぎ、ともすれば、過激で極限的な表現になりすぎたドラマや映画が多すぎるのだと思います。

 このことは、また別の機会に述べたいと思いますが、プロレスの衰退にも通じるものがあるように思います。いくら過激なパフォーマンスを求めても、人間の体力には限界があるはずです。派手な大技を常に披露しなければ、観客は飽きてしまうでしょう。私は、プライドもUFCも見ますが、命をやり取りするような格闘技(真剣に取組んでいる人は、ボクシングでも空手でもそれ位の覚悟で臨んでいるとは思いますが)の中継映像は、あまり好きではありません。

 話を元に戻しましょう。一昨日、JSAをみました。38度線で対峙する兵士たちの心のふれあいを描いた映画です。極度の緊張感が漂う中で、もしかしたらあのようなドラマがあるのかもしれない。と思うと同時に、キョンビルとスンヒョク、ソンシクやウジンのような関係が成立すれば良いなあ、という気持ちにもなりました。どのような極限状態にあっても、対峙しているのは人間同士であり、尚かつそれは同じ民族同士である。そのことの切なさも痛感させられました。

 今、日本で製作されているドラマや映画等を見ると、言葉や状況設定についての過激さや特異さの追求の競争のように思います。また、カリスマ~とか超~とかいう言葉が簡単に使われすぎているのではないでしょうか?カリスマ=神から賜りしもの、という意味だと思いますが、そんなに簡単に冠して用いる言葉ではないと思います。本来、人が感動するのは、言葉や映像での過激な表現やテクニックではなく、自身に置き換えてみた時のイメージの同化ではないでしょうか?

 シュり、チングなどを見てもそうですが、テーマをきちんと捉え、訴えたいことをしっかりと表現していることが、韓国の映画が見ている者を感動させる理由ではないでしょうか?考えてみれば、かつては日本でもスポ根ドラマや純愛ドラマが放送されていました。しかし今、そのような作品を見ることはありません。また、それを見る側にも「スタミナ」が無いし、作る側にも真摯な情熱が無いといえるのではないかと思います。

 ドラマは、特異な状況設定やアクシデントの中ばかりでなく、日常の生活の中にもたくさんあるはずです。今、韓国の映画やドラマが人気を得ているのは、そのような点をきちんと描いているからだと思います。しかしそれでも、私がまだ救いがあると考えているのは、それを支持する人がこの国にも大勢いることです。

 初めて、私が韓国を訪れたのは10年ぐらい前でした。以来、カジノの魅力もあって何度も行きましたが、その間に日本も韓国も変わったと思います。しかし、道を尋ねても通りを歩いてみても、日本の方が緊張感があるような気がします(特に都会では)。おおよそ、コンビニの駐車場に座って屯している若者などは、韓国で見かけることはありません。

 悪いことは、すぐに伝わるといいますから、やがて、あちらも日本のようになっていくのかもしれません。アメリカのように何でも訴訟という風に、あっという間に日本もなってしまい、「ザ・ジャッジ」や「行列のできる法律相談所」などが人気を得ています。評論家やエコノミストは、二言目には「アメリカでは~」と模範例のように引用しますが、本当になんでもアメリカ追随で良いのでしょうか?

 少し話がそれたかも分かりませんが、私が言いたいことは、本来、私たち日本人が持っていた感覚というかポリシーのようなものを今一度考えてみたいということです。かつて私が子供であった頃は、法律に触れるからとか、罪になるからということではない価値・規範を教えてくれた大人が世の中を占めていたように思います。しかしこの頃、そのような人がめっきり減ったように思います(子供に媚びる大人は大勢いますが)。

 そのことは、小銭を持った子供の奇をてらえば、CDなどがたくさん売れるという図式を証明しているように思います。音楽でも映画やドラマでもそうですが、目先の「売上」を目指していては、本当に良いものは作れないのではないでしょうか。こみ上げる感情や、どうしても伝えたい思いがベースにあってこそ、聞く人や見る人を感動させる作品が生まれるのだと思います。

 そのような点を考えれば、何故今、韓国の映画やドラマが人気を得ているのかがわかるような気がします。個人的には、「チング」のユ・オソンのような俳優が私は好きです。それにしても、チェ・ジウさんは魅力的ですね。


                                                                   このページの先頭へ