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NO.6

2005年 2月 27日        小学校に警備員が配置される時代 

                     


 

 
 鬼の霍乱とでもいうのでしょうか。久々に寝込むような風邪をひいてしまいました。流行のインフルエンザにやられ、先週土曜日~今週の月曜日の間熱が下がらず、起き上がることが出来ませんでした。こうして、キーボードをたたいていても肩がこってしまいます。まだ、完全な復調には程遠く、改めて健康の大切さを痛感させられました。

 さて、先日テレビを見ておりましたら、太田大阪府知事が大阪府下全前小学校に警備員を配置すると、マイクに向かって語っていました。児童の安全を守るために7億円を投入すると胸を張っていました。相次ぐ小学校内での殺傷事件を受けて、切羽詰った決断であったのだろうとは思います。

 当面、1名を常駐させる考えのようです。学校の規模や校舎の構造など条件にもよると思いますが、一人で侵入者を防ぎきれるのかという懸念もあります。特に、刃物などを手にしたような相手に対して、どのように対処していくかは難しい問題です。それでも、この動きは全国に広がって行くのでしょう。

 いったい、いつからこんな風になってしまったのでしょうか。私たちが子供の頃の学校は、いつでも開かれた状態でした。放課後いつまでも校庭で遊んでいても、誰にもしかられたりしませんでしたし、第一、危険を感じることなどはありませんでした。それが、いつのまにか校門は閉ざされ、周辺の住民が気軽に出入りすることも出来なくなりました。

 皮肉な事に、学校が外敵に備え警戒を強めて行く一方で、その精神状態さえ図りかねる部外者が侵入して来て、無差別に幼い児童や有能な教師の命を奪うような事件は後を絶ちませんでした。また、学校に限らずスーパーや量販店など、想像もしないような場所において、弱い子供に対する凄惨な殺傷行為や誘拐・連れ去り事件などが数多く発生しています。

 今回の、寝屋川の事件を起こした少年が、かつてあの酒鬼薔薇聖斗の家を何度も訪ねていたとか、テレビゲームが大きく起因しているとか、断片的な情報を元に様々な憶測などが飛んでいると思います。奈良の少女誘拐事件の犯人もしかりですが、事件を起こした人間は、どこか異常で特殊な人格の持ち主だと思います。

 しかし私は、事件の背景は一様でないことはもちろんですが、犯罪者を生み出すような社会環境の変化や、その社会を構成する我々大人たちの考え方の中で、かつての日本人が持っていた常識のようなものが、少しずつ変わってきているのではないかと思うのです。

 よく、このような事件がおきるとアメリカなどの場合は~のようにセキュリティが……などと評論家の人がワイドショーなどで語っていますが、アメリカナイズされた、目に見える法律などを盾にした合理的な弱肉強食の権利アピール社会に迎合した結果が、自分の身は自分で守らなければならないような方向に日本を向かわせているようにも思います。

 また、私たちが子供の頃は、子供には地域内の大人全体の目が届いている感じがしていました。学校の行きかえりの時なども、血縁などなくても近所のおじさんやおばさんに挨拶をしたものでした。したがって、悪いことをする時でも周囲の大人の目は気にしていたのだと思います。

 しかし最近では、学生服のまま自転車に乗ってタバコをふかしながら帰る中学生を見たりします。多くの場合、周囲の大人が見ていても平気です。さらに、大人に対してはまことしやかに挨拶をしながら、悪いことをする小学生も目にしたことがあります。

 他人の子供を気遣う余裕もない社会で、「人として」とか、「恥を知る」というような概念を教えてくれる人がいない中で、権利や義務に関する小ざかしい知識の習得だけがなされているのだと思います。その結果が、凶悪犯罪の増加や検挙率の低下に根ざした、安全に対する国民の経済的負担の増加にもつながっているのではないでしょうか。つまり、我々は自らで自らの首を絞めようとしているということです。

 その他の多くの社会問題を考えても、同様のことが言えるのではないかと思います。どのような制度や仕組みであっても、執行し動かして行く人間がしっかりしていれば(高度な倫理観や価値規範を携えていれば)、法律やルールの文言が照らしきれない部分に光をあてられるはずだと私は思います。

 遠回りかもしれませんが、最終的には人を育てる「教育」という部分を考え直すことが一番大切であり、効果のあることだと思います。それは、学校とかPTAとかいう立場からではなく、社会全体として考えなければならない問題で、その第一歩が家庭にあるのだと思います。

 かつての「悪がき」が、そのようなことを考えること自体がおかしな世の中だと思いますし、何でもすぐに「不良品」のレッテルを貼って疎外しようとする今の時代では、私のような「不良品」は再生できなかったのではないかとも考えています。


2005年 2月 15日        「ぼくはなぜ走るのだろう」 

                     


 

 冬といえば、マラソン・駅伝などの長距離走が華やかです。中でも、マラソンは日本のお家芸とも言われ、国民の注目度が高いスポーツの一つです。先日の東京マラソンでは、実力者高岡選手が悲願の初優勝を成し遂げましたね。

 個人的には、彼がアテネに出ていればメダルを取っていたのではないかと私は思っています。ところで、マラソンという言葉で私が、最初に思い出す人は君原健二という人です。東京・メキシコ・ミュンヘンと3回のオリンピックに出場され、メキシコオリンピックでは銀メダルを獲得された名ランナーです。

 私が、テレビでオリンピックの映像を見たのは、東京オリンピックのマラソン中継だったと思います。まあ、六歳の頃の記憶ですから当てになりませんが、他の場面も見ているのだと思いますが、世界記録で優勝しながら、競技場に帰ると体操をするほどの余裕があったアベベ選手(エチオピア)の哲学者のような顔は、強烈に印象に残っています。

 またその後、ふらふらになりながら競技場にたどり着き、あとわずかのところでイギリスのヒートリー選手に抜かれ、倒れこむようにゴールした円谷選手の姿は、悲壮感にあふれ感動的なものでした。相前後した二つの光景は、極端に対照的であったことが、私の心の中に強く残っている理由ではないかとも思います。

 この東京オリンピックにおいて、今日でいうところの第一代表が、実は君原選手だったのです。結果は八位入賞ですが、その後一年位は走る気力も無く、競技にも参加しなかったと、君原さんは振り返られています。東京での記録は、「自己記録よりも3分30秒も及ばなかった」ということで、自身を責める日々だったのだと思います。

 しかし、「青春時代にしか出来ないことは青春時代にやっておかなくてはいけない。老いて再び肉体の限界を極める事は出来ない。走る限界は今しか極められない。」という恩師である高橋コーチの熱い言葉に説得され、君原さんは競技生活に戻られたのです。その結果、メキシコオリンピックで銀メダル獲得を果たすわけです。

 小学5年生のときだったと思いますが 「君原疲れました。まるで夢遊病者のようであります。」首を振りながら独特のランニングフォームでゴールする君原さんに対するテレビの実況中継のアナウンスを今も鮮明に覚えています。私は、中学生になってから、「ぼくはなぜ走るのだろう」という本を読みました。その中にも代表選考に際し、「メキシコのように空気が薄くて、気温が高い悪条件のなかでは、君原のような根性のある選手が必要です」と陸連に力説された高橋コーチが、ゴールした君原さんを抱きかかえながら涙がとまらなかったという話が書かれていたと思います。

 その高橋進さんをして、「このおとなしそうな少年の、どこにこれほどの根性があるのだろう」と言わしめた君原選手自身は、穏やかそうな印象で本当に謙虚な人柄を感じます。苦しいときは「あの角まで、あの電信柱まで」と思いながら、もくもくとひたすら走るだけであったと述懐されています。峠を越えたといわれ31才で出場されたミュンヘンでも、「ただ根気良く走っていたら」というような感じで5位に入られています。

 何よりもすごいのは、五十回以上も出場されたマラソンレースにおいて、一度も棄権されていないという点です。成績の良いときも悪いときも、ただひたすら走りゴールを目指す姿勢は変わりませんでした。スポーツの経験がある人なら分かると思いますが、負けが見えている試合において、全力を出し切ろうと頑張るのはとても辛い事です。しかし、君原さんの走る姿勢は、勝敗や順位に左右されることはなく、いつも変わらなかったと思います。

 その君原さんでも、八幡製鉄(現新日鉄)入社時においては、全く期待されていない別枠募集(卒業間近で急遽長距離部員を募集され、その頃、進路が決まっていない陸上選手はまれで、すぐに採用)であったそうです。初マラソンで当時の日本記録を更新した名選手も、エリートコースを歩みその道に入った訳ではないようです。

 中学生の時に同級生に誘われ、断りきれずに駅伝クラブに入ったことをきっかけとして、まじめにこつこつと練習を続けられた結果が、その輝かしい成果につながったのだと思います。現在、多くの若者が考えるように、好きな事が見つかるまでフリーターをやるという考え方ではなく、とにかく一つの事を一生懸命にやってみて、それから合うか合わないを判断しても良いのではないでしょうか。

 若いときには、それをやる時間とエネルギーがあります。また、失敗しても立ち上がれるだけの復元力があるのだと思います。


2005年 2月  7日            北方志向



 
 旧正月にはまだですが、立春を過ぎました(妙な感じ)。それでも外は寒く、先週の寒波がこの冬最後であって欲しいなどと願ってしまいます。1月が行き、逃げる2月となりました。暖冬の長期予報もむなしく、記録的な積雪となった中越地震の被災地の方々には、心からお見舞いを申し上げたいと思います。

 さて、このような時期に雪の話題で恐縮ですが、2月の第1週~第2週の日曜日にかけて、毎年札幌雪祭りが開催されます。大通り会場・ススキノ会場・真駒内会場(今年で最後とか)に、二百万人を超える観光客が訪れます。

 大きな建物~市民の手作りのものまでたくさんの雪像が立ち並ぶ大通り会場。ビールや鮭を閉じ込めたものなど、ユニークで様々な氷の彫刻が並ぶススキノ会場、そして、広い敷地に滑り台になるような大きな雪像が造られる真駒内会場など、それぞれに特色があります。

 特に、大通り会場とススキの会場などでは、昼間の散策も楽しいですが、夜ながめて歩くのが最高だと思います。またこの期間だけ、藻岩山へのぼるロープウエイが午後9時まで運行されています。頂上付近にはかまくらが作られたり、氷の中に色とりどりのキャンドルなどがともされていたりします。ここから見る札幌の夜景は、この時期だけのものですし趣もことさらだと思います。

 私が、初めて北海道を訪れた時も、札幌雪祭りの開幕の夜でした。その光景を初めて見た時の感動は、今も忘れるものではありません。男一人の旅でしたが、やたらと気分が高揚していたた事を覚えています。寒さなどほとんど感じることも無く、何条・何丁目を数えながら、楽しくてただひたすら歩き回りました。

 その時は、次の日に丘珠空港からYS-11に乗ってオホーツク紋別空港まで飛び、流氷の町(その時の私のイメージ)紋別まで行きました。小説通りに元駅前の小山旅館に泊まり、階段のあがりがけの所にかけてある「流氷への旅」という渡辺淳一著の額を確認し、大いに満足したことを覚えています。

 流氷祭りを見物に行き冷え切って帰ってくると、「お部屋温めてお待ちしています」の言葉通り、木製の二重窓の部屋に温風ヒーターが焚かれておりました。風呂上りに熱燗の千歳鶴を飲み過ぎ、少しうたた寝したのが悪かったのだと思います。翌日、遠軽から乗り込んだ(紋別からタクシーで小一時間、まだスパイクタイヤを履いていました)オホーツク4号のなかでは寒気がし、たどり着いた小樽では夜になって熱を出してしまいました。

 小樽には二日間居りましたが、昼間は意地のようなもので歩き回り、夜になると熱が出るので汗をかき、何度も着替える(小樽駅前の長崎屋で下着をたくさん買いました)という風だったと思います。それでも、喫茶「光」でコーヒーを飲みトイレを確認したり、ガード下の一心太助をたずねたり、裕次郎記念館・北一ガラスなど、精一杯歩き回りました。考えて見れば、今よりも体力があったのだと思います。

 以来、何度も北海道を訪れる事となりました。季節も、ほとんど四季にわたり行くことが出来たと思います。そして私の心の中には、多くの素晴らしい光景が今も鮮明に残っています。花の季節の見事さ、大雪の紅葉(一週間位しか見られないと思いますが)、知床の夜のウミネコの声、漆黒の闇を抜けて着く然別湖の宿、函館の夜景、網走のかじか(鮮魚料理が旨い店)……
 
 人が「どこかへ行きたい」と考えるとき、方向は大きく二つに分かれると思いますが、私は明らかに「北志向」です。南の海ののきれいな島で、のんびりとしてみたいなどと考えるときもありますが、いざ時間がとれると、行きたくなるのは北の方向です(中でも北海道)。その中でも、冬になると流氷や雪祭りなどを思い出して、心が騒いだりします(そこで生活しない、無責任な旅行者の感覚に他なりませんが)。

 そういえば、今はもう高校を卒業してしまった子供たちが小学校を終えるときにも、札幌雪祭りを見に連れて行きました。下の娘などは、強行に東京ディズニーランドを主張しましたが、かまわず却下しました。そのうえ、「ディズニーランドに行った友達はいても、雪祭りを見た子はおらんぞ」などと言い聞かせました。不満たらたらでしたが、実際に行くと納得した様子でした(今ではことさらに)。

 余談ですが実はこの時、あの豊浜トンネルの事故がありました。その時私たちは、小樽の西川ぱんじゅう店におりました。できたてのぱんじゅうをを食べながら、テレビを見てその事を知りました。事故があったんだなとは思いましたが、第一報の様子からも、それほど気にかけることも無く、子供たちにうんちくを聞かせながら市内をめぐりました。ガラス製品やオルゴールなどのみやげを買い、件の一心太助で腹いっぱいになって札幌に帰りました。

 そこで初めて、ホテルに家内と私の双方の実家から問い合わせがあり、岡山では大騒ぎになっていた事を知りました。実際には、その季節に観光客が訪れるようなコースではなく、私たちが訪れる可能性もありませんでした。しかし、多くの犠牲者が出た事と、テレビなどで映像は見られるのに出来る事は少なく、人間の持つ知識や技術などの無力さをあらためて感じさせられた出来事でした。

 少し辛い話題にそれてしまいましたが、いずれにしても、私は北志向の人間だと思います。そしてどういうわけか、寒い冬も嫌いではありません。


2005年 1月 25日        負けてからの生き方にこそ味わいがある



 

 寒中お見舞い申し上げます。昨年12月の暖冬と打って変わり、文字通り大寒の寒さが訪れています。、私が住んでいるところでも21日には積雪を見ました。夜更かしと不摂生で鍛えた体ですが、ここのところの寒さで少々風邪気味です。

 さて、前回は将棋の谷川さんについて述べましたが、私がすごいなあと思うのは勝ち続けていた頃よりも、むしろ若手(特に羽生さん)に敗れてからの努力と姿勢です。テレビなどの映像から見る姿からしか分かりませんが、年々その人柄にも味わいがにじみ出てくるように思います。

 勝ち続けているときは、何を言っても許されると思いますし、その人の言葉がそのまま理論となるのが勝負の世界かもしれません。しかし私は、そのような勝ち続けている人の言葉にはあまり興味がもてません。もちろん、ヤンキースの松井選手のように立派な成績を残していても、謙虚さを失わずに精進されている人には頭が下がる思いがしますし、人間としても魅力を感じることは否定しません。

 それでも、どんな世界でもそうですが、だれもが第一線で輝き続ける事が出来るわけではありません。良いときも悪いときもあるでしょう。また、努力しても期待通りの結果を得られない事もあると思います。そんな時、与えられた条件や環境のせいにせず、自分の内面を見つめなおしながらモチベーションを整え、再び地道な努力をする方向に気持ちを修正できる人は少ないのではないでしょうか。

 また考え方を変えて、指導者的な立場の人のことを念頭においてみると、名選手に名監督が少ないという話を良く聞きます。「出来ない人間の気持ちが理解できない」と言う感じがするからではないでしょうか。運動神経でも理解力でも、素質にめぐまれた人はそうでない人に比べ、それほど苦労せずに高い次元に到達する事が出来ると思います。だから、もがき苦しんでも中々上手くならない人間の気持ちは理解しにくいわけです。

 もちろん、現役時代に素晴らしい成績を残しながら、指導者としても輝かしい成果を収める人も中にはいます。しかしそのような人は、必ずと言っていいほど失敗したときや躓いたときの経験を忘れていないと思います。そのときの心の痛みや苦しみを忘れず、他の人の気持ちを理解し思いやることが出来るからこそ、効果的なアドバイスが出来るのではないでしょうか。

 さらに話を変えて、私の好きなボクシングの選手でいうと、マービン・ハグラーは「どうして、そんなに強いのか」と尋ねられこう言っています。「負けた事があるからさ」現在、ハグラーの再来を自負するバーナード・ホプキンスも、敗れた後不遇の時代を耐え、無敵のチャンピオンとなっています。彼は、今年で40才になろうというのに、惚れ惚れするような体形を維持しています。

 ホプキンスにも勝ち、無敗(アクシデントのような反則負けはありますが)で日の当る場所を歩き続けたロイ・ジョーンズが、一度負けたあと輝きを失ったのと対照的です。そういった意味では、私の好みではありませんが、オスカー・デラホーヤと言う選手は素晴らしい選手だと思います。名のある選手と戦い敗れても、再び立ち上がり良い試合をして輝きを取り戻すまさにスーパースターといえる存在なのでしょう。
 
 ともあれ、負けたときや挫折したときにおける心のありようや、考え方については色々あると思いますし、人によってそれを超えて行く術は様々だと思います。また挫折の程度にもよりますが、その時点で志を捨ててしまうことになる場合も考えられます。いずれにしても、その世界で生きて行くならば、やらなければならない事は避けて通れません。

 そのように考える時、私は、勝ち続けている人の言葉よりも、負けた事のある人の言葉を聞きたいと思うのです。もっと言えば、何度も悔しい思いや恥ずかしい思いをして来なければ、誰かのために役に立とうなどと考えられなかったのではないかとも思います。

 少し気持ちが空回りして上手く表現できませんが、静かなる闘志と向上心を忘れたくないと願うばかりです。

 

2005年 1月 15日         「自我作古」j谷川浩司十七世名人



 
 ついこの前までは、1月15日が成人の日でしたね。誰の都合により確実な連休とするための仕組みになったのかは分かりませんが、体育の日同様元々の意味が分からなくなるような気がして、変な気がしているのは私だけなのでしょうか。

 さて先日、NHK杯将棋トーナメントをテレビで見ました。対局は中原永世十段と谷川棋王という組み合わせでした。光速流と称される鋭いよせで一気に攻めきり、谷川浩司棋王が勝ちました。次は、準々決勝で森内俊之名人と対戦するようです。それほど詳しいわけではありませんが、これまでの歩み方などから見て、谷川浩司という棋士は私の最も好きな棋士の一人です。

 私は、囲碁も将棋もルールを知っている程度で、自分が勝負を楽しむほどの力量はありません。しかし、プロの戦いをテレビで見たりすることは好きな方です。もっとも囲碁に関して言えば、この地域では比較的に、それが強いといわれた家系であったことが災いしたように思います。

 私が幼い頃は、よく近所の大人たちが集まって父と碁を打っておりました(祖父の代からそのようであったように聞いております。現在でも、血縁には地域のアマタイトル戦を戦うような人もおりますし、かつては、東京などからプロ棋士が遊びに来たという話も聞いたことがあります)。

 日がな一日大人たちが興じているのが面白そうなので、私も興味を持ちました。そこで、ある時父に教えを請うと、一通り相手をしてはくれましたが、すぐにさじを投げられました。凡庸な私は、側から観戦しているだけで、すでにある程度の棋力に達していたという、父の子供時代とはかけ離れていたようです。

 何事も、「努力しなくても出来る」タイプが好きであった父は大いに失望し、二度と相手をしてくれる事はありませんでした。そのことが、私をさらに囲碁から遠ざけてしまったようにも思います。カヤの木などで出来た本格的な碁盤は、物置のような部屋で今は眠っております。そのようなこともあり、どちらかというと将棋の方が馴染みがあるようにも思います。

 ところで、最近の読売新聞に掲載された谷川さんのインタビュー記事の中に、師匠と二度将棋を指すとプロにはなれない、という話がありました。入門試験で一局指した後、見込みがない者に限り、見切りをつけさせるために、記念に一局師匠と指してもらえるという話があるそうです。プロ棋士は、師匠に教えを受けることは無く、芸は盗むものであるということを強調した例え話であるということでした(私についてさじを投げた父は、そのような高い見識では無かったと思いますが)。

 最近の将棋界における話題としては、昨年、若手でユニークなタイプの渡辺明六段が森内名人を破り竜王位を獲得しました。そんな中、羽生、佐藤、森内など三十台前半の強豪や、久保利明八段など若手の台頭がみられる中で、今年43才になられる谷川さんは、上位10人しか入れないA級順位戦(名人戦挑戦者決定リーグ)にとどまり続けているばかりでなく、好成績を残し名人位への復帰を窺う活躍をつづけています。

 何よりも魅力を感じるのは、常に謙虚で穏やかな姿勢と、対照的に、裏側に秘められている勝負に対する厳しさと激しい闘志です。21才で史上最年少の名人位についた後、羽生さんなど若手の活躍もあってタイトルを失った後も、淡々としたさわやかな態度は変わらず、見えないところで積み重ねられた努力は素人の知る由もないところだと思います。

 また、将棋連盟主催のイベントや地方の将棋祭りへの参加など、将棋の普及のためにも積極的に取り組まれていると思います。さらに、若い棋士からも忌憚無く長所を吸収するための努力をされているようにも思います。通算5期名人位を獲得し「17世名人(名乗るのは引退してからのようです)」としての資格を得た後も、そのひたむきさは変わらないように思います。

 自我作古(われよりいにしえをなす)が最近における座右の銘だそうです。前例にとらわれず、常識・手本になることを自分で作り出す、ということのようですが、「静かなる闘志」を支える向上心を感じます。谷川さんにふさわしい言葉だなあと感じました


 

2005年 1月 5日            年頭に思うこと



 

 新年あけまして、おめでとうございます。大晦日から元日の夜へと、二年間にまたがり訪れた寒波により、積雪の年越しとなりました。雪景色で迎えた正月は、何となく清々しい雰囲気で、新鮮な気持ちになれるような気がします。

 とは言いつつも、「災害の年」であった昨年の結末は、スマトラ沖地震が発生し、津波による未曾有の大災害となってしまいました。史上最悪ともいわれる犠牲者の数は(現時点で14万人超とか)、今後の防災施策のありかたを根本から考えさせられるきっかけとなるでしょう。また、そうならなければいけないのだと思います。

 我が国においても今年は、あの阪神大震災から十年という節目の年を迎えます。整備されたはずの都市においては、桁外れに多い6433人という犠牲者を出した悪夢のような光景が、今も強く印象に残っています。ヘリが飛び、そこに映像は見えているのに、燃え盛る火を消す事も危険にさらされている命を助ける事もできない、そんなもどかしさを感じながらテレビを見ていたのは、私ばかりではないと思います。

 冒頭のスマトラ沖地震では、地震が発生した後にすぐ、津波に対する警報や避難勧告などが出されていれば、本当にたくさんの命が救われたのではないかと思います。元々この地域では、歴史的背景や危機管理体制への取り組みかたなどから、緊急時における情報提供や連絡体制などが、確立されていなかったことが、歴史的な数の犠牲者を出す大きな要因となったのではないかと思います。

 皮肉な事に、ゾウをはじめとした動物たちは襲いかかってくる津波を察知し、いち早く小高い丘などに非難したという話を聞きました。偶然にも逃げるゾウの背中に乗っていたために、観光客の命が助かったという話も耳にしました。

 動物的な本能の退化した人類でも、普段から地震の脅威に晒されている(つもりの)私たちであれば、地震の揺れを感じた後には、危機感を持って高い場所を目指すようにも思いますが、美しい海辺のリゾート地に遊んでいるとき、本当に、そのような危機管理を意識した行動がとれると言い切る事も出来ないように思います。

 考えてみると、地震の揺れによる直接的な被害(建物の倒壊などによる圧死など)よりも、二次的な被害(今回で言えば津波によるもの、阪神大震災では火災による犠牲者など)による犠牲者の数は非常に多いのではないでしょうか。そしてそのような、地震が発生してからある程度の時間を要して起きるこれらの災害に対しては、人間の手による技術や対処により、ある程度の効果が期待できるのではないか、という風に思います。

 緊急時における情報提供や通信・連絡システムの確立、事前に被害状況や避難経路などを周知させるためのハザードマップの作成、耐震・免震に配慮した建築物・構造物の設計及び構築など、さまざまな事が考えられると思います。また、都市計画的な観点を踏まえた、都市や地域全体に関する防災対策、農業の持つ他面的機能の防災への活用など、多様な着眼点が挙げられると思います。

 防災という一つの項目に対しても、「人の命を守り、世の中の役に立つ」ものづくりを通して、私たち技術者には、出来る事ややらなければいけない事が、普段考えている以上にたくさんあるのだと思います。このことは、昨年参加した日韓技術士会議においても感じたことでした。

 具体的に何が出来るのか、確たる自信や抱負があるわけではありませんが、心の中に暖めていたいとは思います。そのうえで、計画・立案などに際しては、血の通った発想が出来るようにしていきたいと思います。また、そのような魂をつないでいくことが出来れば幸いです。

 話は変わりますが、大東文化の馬場周太選手、箱根の復路8区を完走しましたね。序盤入れ込みすぎたのか区間順位は10位ぐらいだったと思いますが、昨年5区での無念のブレーキを克服し、走り終えた表情は、苦しさの中に清々しさを見ることができました。残念ながら、母校をシード校に押し上げることは出来ませんでしたが、仲間のために精一杯頑張ることの素晴らしさと喜びを感じることが出来たのではないかと思います。

 4年連続優勝のランナーとなった、倉敷高校出身の田中選手(駒大)の活躍は、岡山の誇りでもあります。来年は、22秒差に泣いた早稲田の高岡選手の、キャプテンとしての活躍などが期待されるところです。不埒な自分を省みて、少しでも心が錆びないように、来年も注目して見たいと思います。それでは、今年もがんばりましょう。


2004年 12月 25日            一年をふりかえり一言



                    
 
 台風の上陸回数が大きく記録を更新し、新潟中越地震により多大な被害が出るなど、各地で災害に悩まされた一年も終わろうとしています。本当に、何をなしたということもありません。今一度、埋もれかけている向上心を掘り起こし、新しい年を迎えねばと反省している年の瀬です。

 個人的なことですが、地元の町内会で会計を預からせていただいていたいきさつから、会長職の代行を7月から行う事となりました。予想はしていたものの、会合や集まりに出席する機会が増えました。役所と住民との間で、連絡・調整などの必要な案件もあり、私のような若造が奔走しても、中々難しいなあと感じることも多々ありました。

 その事にあわせて、個人的な氏子を持たない作楽神社の運営を支える総代(各町内会長が就任する)の仕事にもあたることとなりました。これまでも、1年に数回行われる草刈作業などには出ていましたが、毎年春に行われる大祭に向けて、やらなければならないことがたくさんあるようです。

 後醍醐天皇と児島高徳のエピソードは、かつては国語の教科書にも載っていたそうですが、現在の作楽神社はかなり寂れた感じとなっています。米子道の開通などにより、観光バスなども通過していくことが多くなり、門前のドライブインも今年いっぱいで閉店しました(ドライブインという存在自体が、減少傾向にはあると思いますが)。

 それにしても、ここに生まれここで育った私が、知っている事やしてきた事はあまりにも少なく心もとないものだったのだと、考えさせられるきっかけにはなりました。微力ながらでも、自分の出来る事をこつこつとやっていければと思っています。

 一方こつこつと言えば、こつこつとやっております技術士受験者を対象とした論文の添削の方では、何名かの筆記試験合格者を出す事が出来ました(一桁ですが、合格率は技術士会などで見る数字よりは良いと思います)。尊敬する石井さんの業績を思うとまだまだ駆け出しですが、あせらず地道に取り組んでいきたいと考えています。

 いろいろな仲間の人達にはお世話になると思いますが、来年にむけても頑張っていきたいと思っています(すでに、現在進行中の人もいます)。また、今回は残念な結果となられた人の中にも、有望な人や合格して欲しい気概を持った人は大勢います。くさらないで来年を目指して欲しいと思います。※添削は何回でも無料です。

 関連した話になりますが、来年は阪神大震災から10周年を迎えます。今年は新潟中越地震があり、度重なる台風の上陸で多くの風水害にも見舞われました。緊縮予算の中でも、防災関連の予算は伸びているようです。建設一般論文では、脆弱な国土における防災に関する問題の出題が予想されるところです。

 建設部門において業務されている人は、自分ならこのように対処するという意識を普段から持ち、個々のエピソードに対して分析していく習慣を身につけたいところです。以前にも述べましたが、「我が国の~」という書き出しを念頭に置いた生活が大切です。また、年度の変わり目の頃における新たな法律や施策の施行や発表には十分注意しましょう。キーワードとして求められる話題となることは必至です。

 天皇陛下も我々庶民も、また若い人も年老いた人も、一日の長さは同じ長さの筈です。それなのに、私も若い時には一年は長いなあと考えていました。しかし今、本当に短く感じるようになりました。受験に失敗して待つ一年は長いようにも思いますが、万全な準備をするためには短く感じる筈です。

 向上心を忘れずに、「世の中の役に立つものづくり」を考えられる人たちに、一人でも多く合格して欲しいと願っています。また、そのような人達のために少しでもお役に立つことを、自身のテーマの一つとしたいと考えています。それでは、良いお年を……


2004年 12月 15日            岡山県技術士会について



 初冬の晴れた日に耕した田に、先日霜が降りました(田圃にとっては良いことらしいです)。ようやく少し冬らしくなってきましたね。四季のあるわが国においては、華やかな春の芽吹きを迎えるために、厳しい冬の寒さが必要なのかもしれません。今年もあとわずかとなりました。

 忘年会シーズン真っ只中における近況は前回お話いたしましたが、先週(11日の土曜日)岡山県技術士会の忘年会がありました。とても和やかで楽しいものだったと思います。私自身の慣れというか馴染み方もあると思いますが、初参加の頃とは隔世の感があると思います。ひとえに、前任の鈴木さん・現任の松沢さんという事務局担当の方々のご苦労の賜物であると思います。

 年会費5000円で運営している任意団体という枠組みの中で、CPDを初めとして多くのサービスを提供していただいていると思います。例会の席上でも、会費に見合ったサービスが提供されているかなどの問いかけもありましたが、見合うどころか、十分おつりがくるサービス内容であると私は思います。

 ただ、現状における課題として、例会などへの参加者が固定化してきており、会員数に比較すると少ないのではないかということがあります。建設部門の人が多く、若い人は業務で忙しいのではないか、という意見もありました。それは事実だと思います。しかし、たいていの例会などは土曜日に開催されますので、まったく都合がつかないということはないと思います。

 単純に、出席率をあげる方法としては、大勢の人数をかかえているコンサル会社の方々が「動員」を図ることがあると思います。ただ、仕事上の上司に引っ張られて出席するというのは、なんとなく釈然としない気もします。もう少し、積極的な動機付けができたら良いのですが、なかなか難しいところです。「引っ張られて」出席したとしてても、「また来たい」と感じられる雰囲気作りができれば良いなと思っています。

 私自身のことで述べれば、この会に出席させていただくようになって、とても勉強になりましたし自身の幅が広がったと思います。参考になるお話を、信頼・尊敬できる方々から聴かせていただいたり、同様な考え方を持っておられる人達との語り合いは、自信を深めることにもつながりました。

 今回の例会では、かつては近寄りがたいほどの存在に感じておりました(仕事上の関係で)Kさんが、「都市計画における土地利用について」講演されました。硬いお話よりも、ゴルフ場のパー設定や県内のコースの良し悪しなどについての話題の方が耳に残っております。後の忘年会では、杯を交えながらこのコラム欄について、「出来・不出来の波があるな」などとダメダシをされたりしました(目を通していただき感謝)。

 また、以前紹介しました、「大陸の花嫁」・「生かされて生き万緑の中に老ゆ」を読むことになるきっかけでもありましたし、私自身大変尊敬している人でもあるIさんの隣に座ることも出来ました。かつての体験は語り継がなければならない、しかし、生きていない父の話を子供にする難しさなどを語っておられました。本の作者である井筒さんの近況や、技術士受験にむけた勉強法など、たくさんのお話を聞かせていただきました。

 ほかにも、いつも多忙で中々会えない環境の池田さんや、勝手に私が考えている青年部同志のK田・I泉両氏、志津見大橋見学でもお世話になったN川さん、活性汚泥法における余剰汚泥抑制剤使用設備でベンチャープラザ岡山に入選されたKさん、人懐こい笑顔が魅力のA賀さん、勉強する姿勢のお手本でもあるS野さんなど、多くの方々と語り合うことができました。

 そのようなひと時、技術士になり岡山県技術士会に入って、この席にいらることの喜びをつくづく感じました。朱に交われば……ではありませんが、自身の視野を広げ精神の向上を図るうえでは、「良い」人たちとの交流が必要だと思います。私にとって、岡山県技術士会における活動は、まさにそのためのものであると思います。

 これから、若い人達への参加を呼びかけるとき、そのような自身の体験と思いを込めて、私はお話していきたいと考えています。 



2004年 12月 2日            酒は楽しく飲むべかりけり 



 霜月も早おわり、師走を迎えました。それでも、私の実感としては10月末位の気候のように感じています。今年は、暖かな冬となるのでしょうか。そのことが、良いことなのか悪いことなのかはよく分かりませんが、今年相次いだ災害の復旧や、仮設住宅暮らしを余儀なくされている人たちに対し、プラスの傾向として作用することを念願いたします。

 開設3年目のご挨拶を述べたきりで、なかなかコラム欄を書くことが出来ませんでした。成り行きで引き受けたものの、11月は町内会行事などが多く、そちらの方の仕事にかまけておりました。ともあれ、光陰矢のごとし、ことあるごとに口にする言葉が、日に日にリアリティをまして感じられる年齢になって行くように思います。

 いつもながらのことですが、、忘年会のシーズンとなっていく中、私の年末ハードスケジュールは始まっていくのでありました。先日の同級生のゴルフ会を皮切りに、すでに12月の週末は埋まっているような状態です。根が好きなのですから、いたしかたありませんが、肝臓を始めとした体調面では、厳しい季節を迎えることとなります。

 そういえば、そのゴルフコンペの前日も先輩から呼び出され(期待通りかも)、いつもの焼肉屋(津山は、肉だけは美味いと思います)で、心なごむ宴となりました。ボジョレー・ヌーボーなど飲んで興がのったため、相性の良いマイクのある店で(おでんやながら、深夜までカラオケ可能)、裕次郎~長渕まで幅広く熱唱いたしました。そのためか、翌日のゴルフは惨憺たる結果となりました(それが無くても、回数も練習も不足ですから結果は知れておりますが)。
 
 日曜日を休肝日としホッと一息入れた火曜日、ひょっこり、岡山市に住んでいる母方の叔父が訪ねてきました。例年のごとく、今年取れた米を取りに来がてら、わけあって我が家で暮らすようになった祖母(叔父と母の母で95才)に会うためです。母の一番下の弟になり、山深い田舎から婿養子として岡山市に出た叔父は、人柄もおだやかで歳も近い(今年60才)ので、子供の頃から私を可愛がってくれました。

 そんなわけで、友人から土産にもらった酒や、取って置きのウイスキーなどを持ち出して、叔父と2人でいつもの酒盛りとなりました。ほどほどにと諭す母を尻目に、途中から弟も加わって夜遅くまで飲み明かすこととなりました。死んだ父の話をはじめとして、田舎の頃の話など、大抵はいつもと同じ内容の話の繰返しですが、それもまた良しで、楽しいひと時を過ごしました。少し調子の出すぎた叔父は、昼近くまで休んでおりましたし、私も二日酔いの頭を抱えることとなりました。

 予定に入れていない日でも、このようなアクシデントがありますから、うかうかしてはいられないともいえます。なるべく、自宅では晩酌などしないようにして、体調維持に努めておりますが、運動不足とあいまって思いやられる中年の体ではあります。

 ともあれ、ことあるごとにお酒の席はやってきます。強くは無いが好きではあるために、私の悩みや苦労もあるわけです。来週末には、岡山県技術士会の忘年会もあります。会いたい人や、杯を合わせたい人の顔が思い浮かびます。そこに集うことが出来る喜びを感じさせてもらえる仲間が大勢います。今では、緊張しながら初参加した頃がなつかしく思い出されます。

 また、まったく飲めないという人の気持ちを考えると、弱くても飲めるということに感謝しなければなりません。よきにつけあしきにつけ、腹を割り本音を語り合う場面ではお酒がつきものです。その意味では、建設現場で働いていたころは、ずいぶん鍛えられましたし、助けられた思い出がたくさんあります。

 とり止めも無いお話になってしまいましたが、忘年会シーズンを迎えた今、近況と雑感を述べてみました。技術士試験では、いよいよ口頭試験が始まりますね。受験される方は、合格して祝杯があげられるよう頑張ってください。



2004年 11月 6日            開設3年目をむかえて



 たびかさなる風水害や地震など、今年はなんと災害の多い年なんでしょうか。まだ、残り二ヶ月もありますが、懸命に復旧に取組んでいこうとされている地域や人々の苦労を思うとき、せめて天候ぐらいは穏やかな年末になることを願わずにはいられません。

 私の住んでいる地域のあちらこちらの山では、まるで、台風の時になぎ倒された我が家の稲のように、植林の杉林が倒れています。またいくつかの神社では、御神木が根っこから倒され横たわっていたりします。直径50cm以上もある大きな倒木を指差しながら、「わしらが子供の頃は、こんなちっちゃかった」と指を丸めて話す宮総代の人たちも苦笑いしていました。

 老宮総代の言葉から推してみても、50年以上は今回の台風のような風が、後醍醐天皇ゆかりというこの神社に襲いかかったことはなかったのだろう……そんなことを思いながら、毎年数回行われる草刈作業に励んでまいりました。考えてみれば、、子供の頃から幾度も足を運んでおりますが、台風によって傷めつけられ、痛々しい姿を晒している作楽神社を見たのは初めてです。

 そうした中でも、あわただしく月日は過ぎて行きます。おかげさまをもちまして、拙HPも開設から満2年が過ぎました。今月からは3年目に入ることとなりました。私自身が、先達の方々から教えて頂いたことや、体験してきたことなどを通して、建設部門に携わる技術者の、意識と地位の向上のために何か役立ちたいと考えたことがHP立ち上げの大きな理由です。

 当初は、あんなこともこんなこともと、いろいろなことを考えておりました。しかし、日常の生活や業務の中で出来ることは限られており、論文の添削をメインとしてやっていくことに方向性を定めることにしました。それは、正解が一つしかない択一問題と違い、自分ひとりでスキルアップしていくことが難しい科目だからです。

 私自身も、有料の通信添削を受けたり、先輩技術士の方々の指導を受けたりしましたが、最初は雲をつかむような状態で、とても苦労をした記憶があります。論文の場合には、100%正解というものはありませんし、読む人により評価は違ったものとなります。それでも、基本的な書き方や約束事をはじめとして、もり込まなければならないことやまとめ方のポイントなど、多くの留意事項があります。

 そのようなことは、実際に自分で何度も書き込んでいかなければ身につくものではありません。また、先輩や経験者に読んでもらって、添削指導を受けることが必要ですし効果的だと私は思います。熱い思いはあっても、そのような点でもどかしい気持ちを抱いている人は、結構たくさん居られると思います。

 そんな私の思いで始めた論文添削ですが、実際には、岡山県技術士会の仲間を始めとした多くの技術士・専門技術者の方々に支えられてやっております。応援して頂いている方々に対して深く感謝致しますとともに、今後におきましてもよろしくお願いしたいと思います。その事を前提として、無料でなるべく早くという、現在の姿勢を続けていきたいと考えています。

 また私は、「技術者たれ」という指針を与えてくれた建設現場の先輩(第1回のコラム欄に掲載)、技術士受験を志すきっかけとなった言葉「あんたも受けたらええんじゃ」を頂いた先輩(というよりは私の中では恩師)や、「自分から人を裏切らず、あとは心のままに進むだけ……」と素直に生きておられる先輩(真の友と呼べる人でもある)など、出会う人にも恵まれて来たのだと思います。

 そのような出会いの中から、私が受けてきた恩恵や熱い思いなどを、これから「建設技術者」を志す若い人たちに少しでも伝えたい。そのことが、このHPを更新していく糧になっているのだと思います。しかし、どのような良い出会いに遭遇したとしても、その意義に気づくことのできる素養をもっていなければ、その出会いを生かすことはできません。そういった意味から考えると、現状に満足せず、より上を目指す気持ちを持ちつづけることが大切だと思います。

 ともすれば怠けたり、増長したりしがちな自分自身を戒めていくためにも、このコラム欄を通して、技術者としてのありかたやものの考え方を模索していきたいと考えています。感動した出来事・エピソードや、これはちょっとという疑問に思うことなどに対し、自分なりの意見をまとめていく作業をしていくなかで、自身のポリシーの醸成が図られることを期待したいと考えています。

 建設部門においては、IT化・電子化がめざましい速さで進んでいく一方で、現場に対応できない技術者や担当者が増えています。また、その傾向は年々顕著になっていくようにも思います。そのものの本質を知らずして、また知ろうとしないで、良いもの(世の中の役に立つもの)ができるはずはありません。実際に自分の目で見て判断し、結果を確かめながら次への糧とする経験を積み重ねることが必要です。

 また、向上心を持ち続け、そのような経験を積み重ねていく中で、技術者としての誇りや信念が培われていくのだと思います。生来の怠け者で、技術者としてもまだまだ未熟な自身への励ましの意味も含めて、コラムを書き続け、HPを更新していきたいと考えています。今後ともよろしくお願い致します。


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