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NO.7

2005年 6月 13日       野火の煙は眺めたくない 

                     


 
 
梅雨に入りましたね。平凡な願いですが「約束」した分だけの雨が降り、「約束」以上の大雨が降ることも無く、「約束」通りに来月半ばの梅雨明けが訪れて欲しいと思います。

 
さて先日、フィリピンのミンダナオ島に、旧日本兵が生存しているのではないか、というニュースが流れました。戦後60年も経っていることもあり、様子を見ておりましたところ、どうやら、信憑性が薄いということで落ち着いたようです。それでも、マリリンという太ったフィリピン女性が、持っていた日の丸の寄せ書きには、言葉にならない悲しみがしみこんでいるように見えました。

 終戦から約30年、ルバング島で小野田さんが発見された時には、その前の横井さんの生還があったにもかかわらず、私は大変驚き、心を動かされました。確か、元上官だった方が現地に赴き、任務を解除するような事をして、ようやく小野田さんが納得し、武装を解かれたように記憶しています。

 その時の小野田さんの様子は、父から聞かされていた「日本の軍人」という姿そのものだったことが、強く私の心をとらえたからかもしれません。やせ細ってはいましたが、その凛々しいまなざしは、軍人としての誇りに満ちていたように思いました。そのとき同時に、教育というものの恐ろしさと、この人の30年を誰が償うのだろう、などと考えたことを覚えています。

 それからでも30年が過ぎた今、生存していれば80代半ばではないかと思われる人達の名前までが報道され、かなり真実みを帯びたニュースとして、フィリピンミンダナオ島の、旧日本兵の生存に関する情報は、日本全国に広がっていきました。

 自費を投じて遺骨の収集活動をされている方々などが、期待する気持ちと、あまりに国家としての支援の無さをテレビで話しておられました。「もう、あといくらも時間がありませんから」と80才を過ぎた年齢のことを気遣いながらの発言が、本当に重く感じられました。

 そのように、真摯に取り組んで来られた方々には、金銭目当ての情報であったのではないかという今回の結末は、残念極まりない結果であったと思います。まったく自分の意思などに関係なく、時代の流れに飲み込まれ、異国の地で生死を共にした人の気持ちを慮るには、現代の我々はあまりにも軽薄すぎるように思われてなりません。

 私は、このニュースを聞いた時に、南の島の林を越えた丘からたちのぼる煙を連想しました。結核を患い隊からも見放され、ジャングルや林をさまよう敗残兵の姿を思い出しました。小野田さんが帰還された時にはまだ読んでいなかった、大岡昇平の「野火」に描かれている光景を思い出したのです。

 小説としては、傑作ですが非常に難しい本だったと思います。それよりも、私は、次から次と描き出されて来る極限状態や、その中における行動の、描写の凄さに圧倒されてしまいました。自分に食いついた蛭を食べるようなことは序の口で、怪我した自身の体の一部を口に入れたり……幸か不幸か、自身の意思で人肉を食べることは免れるのですが、戦争というものの恐ろしさを嫌というほど感じさせられるものでした。まさに、身をもって戦争を体験した人にしか書けない文章だと思いました。

 実際、小野田さん以降も「ビルマの竪琴」のような、現地にとどまって生存されている旧日本兵がいる、というような報道がされる事はしばしばありました。そのような事例も、数多くあったのではないかと思います。現地の人と結婚したり、ゲリラ勢力に身を投じながら、生きながらえて来られた人もいることは間違いないと思います。

 「戦争を償う」とかいいますが、償うことなど出来ないのではないでしょうか。殺人が良い例です。犯人を死刑にしても、殺された人の命は返ってきません。新たに悲しむ肉親や知り合いが増えるだけです。二度と戦争を起こさないために、しなければならない事や、考えなければならないことがあるのだと思います。

 時間に追われ、不埒な煩悩に支配され、何となく生きている私ですが、彷徨いながら、立ち上る野火の煙を眺めたくはありません。



2005年 6月 3日       安全は輸送の最大の使命である 

                     


 
 
先日、兼業農家におけるニ大イベントの一つである田植えを済ませました。それまでの段取りを含めると、中々手間がかかりましたので、とりあえず、やれやれといったところです。

 さて、タイトルの言葉は、かつて私が地方ゼネコンにおりました頃(国鉄~JRに変わる頃だったと思います)、取得した工事指揮者(JRでは工事管理者という名称になったように思います)という営業線近接工事に関する資格(国鉄・JRの仕事をするために必要)の取得に際して受講した講習で、先ず最初に講師の方が黒板に書かれた一言です。

 一言でいえば「安全第一」ということですが、何よりも「安全」が優先するのだ、という考え方を象徴的に表した言葉として、身が引き締まるような思いで、その言葉を復唱したように思います。おそらく、国鉄OBの人だったと思いますが、我々受講生に復唱を求めた講師の方からは、この冒頭の言葉に込める熱い想いが伝わってくるような気がしました。

 そのあと、「にこにこのぼるみなはんの、くにのよさんはさいころできめる」というような建築限界のごろ合わせ的記憶法を聞く頃には、かなり和やかな雰囲気になっていたと思います。ずいぶんと昔の話なので、おぼろげな記憶ですが、今回の尼崎列車事故のニュースに接した時、その時の言葉と講習会場の情景が、すうっと浮かんできました。

 事故原因については、半径300mのカーブとなる現場付近にさしかかったとき、明らかにスピードが出すぎていたということ意外は、核心に触れる情報は無いように思います。主たる原因は、運転士の過失による操作ミスということになるのかもしれません。ただ、その背景には根深いJRの体質というものが垣間見えるように思います。

 報道などにより伝わってくるJR(あえて西と限定しませんが)の体質というか内部の状態は、おおよそ私が描いていたイメージの通りで、沈鬱な気持ちにならざるを得ませんでした。つまり、管理する側と管理される側が明確に立場を異にし、現場を知らない(若しくは知ろうとしない)人が、理論や観念に基づいて「管理」しようとしているイメージです。

 そのような「冷めた」関係のなかで、速度超過の報告が、JRになって以来18年間も上げられなかった事に象徴されるような、管理者と部下の意思疎通の不足した状態が生じたのではないかと思います。いつのまにか、データとして挙げられてきた数字のみを根拠にして、不況による雇用不安や経営の合理化をバックに、厳しい減点主義によって現場をコントロールしようとする体制になってしまっていたのではないでしょうか。

 その体制の中で、伝え聞く「日勤教育」のような仕組みが生まれ、責任が下へ降りて行く(犯罪者のように、ミスした個人を攻撃する事で物事が解決する)組織になっていったのではないかと感じました。起こった事象の背景や奥行きまでを調べることもなく、個人の資質にのみ期待するやりかたとでもいうのでしょうか。

 若い運転士が、どれほど鉄道の構造や仕組みに関する知識があったのか、緩和曲線やカントの意味とそれに対する速度の関係などについて、理解していたのかなどについては今は知る由もありません。また、それらのことに関する教育が、日常においてどれ位行われていたのかなども良く解りません。また、本当の意味で、彼に運転士としての「適性」があったのかという点について、見極めるためのしくみについても同様です。

 先ごろ発表された「安全性向上計画」には、事故再発防止に向けた取り組みや、様々な安全性向上のための仕組み・設備の計画がもりこまれています。しかし、どのようなシステムであっても、実際に動かしているのは人間であるということが、どれ位認識されているのだろうかと心配になります(これはJRに限った事ではありません。道路工事の際に見る、ただ配置すれば良いという感じで、不必要に大勢立っているガードマンをみても、同じような気持ちにさせられます)。

 列車を移動する度に、わざとらしく車掌がお辞儀をするというようなことではなく、本当に、一人一人が使命感と誇りを持ち、安全で快適な旅客・貨物の輸送を目指す、という精神で結ばれた組織作りができるのかという疑念を持つのは私ばかりではないと思います。

 「安全は、輸送の最大の使命である」今こそこの言葉を復唱し、人の命を預かる職業であるという意識を取り戻して欲しいと願うばかりです。


2005年 5月 22日       兼業農家的、農業の多面的機能の考察



 
 晴天が続き、田んぼのコンディションが良い中で、わずかばかりの稲作のために、何日間か農作業にいそしんでおりました。兼業農家の義務感が、農村の多面的機能を支えている事を実感した気分です。

 実際、経済的な収支という視点から考えれば、稲作にはたくさんのかかる費用がかかる(労務費、肥料・農薬代、機械損料・維持費など)反面、収益としての米価は下がる一方です。特に、農機具に関する費用は高くつき、専業としてやっていくにしても、損益分岐点となる収穫量はかなりの量が必要なのではないかと思います。

 先ごろ閣議決定された「食料・農業・農村白書」では、98年~03年までの5年間で農家戸数が約13%、農業従事者は約6%減少したことが指摘されています。あわせて白書では、「意欲と能力の高い担い手(プロ農家)」を軸とした農業構造への転換を目指すべきであるとしています。

 しかし、まわりの景色を見渡してみて思うことは、集約的な農業に適した、広くて耕作しやすい農地がどれほどあるのかということです。中山間地域と呼ばれる山あいの農地が多い我が国において、農業だけで経営が成り立つ農家を育てる事は、とても難しいような気がします。

 1表(60kg)当り約1万5千円の米を500表生産したとして、得られる対価は750万円となります。そのためには、条件の良い田んぼが5ha以上必要となります。これを耕作するための農業機械は、トラクター・コンバイン・田植機、運搬用のトラック(軽自動車としても)など莫大な費用で、1年分の売り上げではとても賄えない金額です。

 もちろん、米の裏作や複合・多角的な農業経営をしていく、と、いうことも考えられると思いますし必要でしょう。それでも、中山間地域において5ha~10haの農地を確保して、農業だけをメインとした経営をやって行くことはかなり厳しいものがあるように思います(実感として)。我々のような兼業農家において、経済的な収支を考えれば、米は購入した方が安くつくと思います。肉体的にも楽ですし、コンバインなどで怪我をする心配もありません。

 たいていは、30a~1ha程度の農地を所有し、共同で農機具などを購入したりしながら、休日を中心に稲作をしているというのが、私の周りの兼業農家の実態です。先祖から受け継いだ土地を荒らす事も出来ず、そのことによって周囲に迷惑をかける(水利や生活環境への影響)ことに配慮して、仕方なく耕作を続けている人は多いと思います。

 しかし、市場原理に基づく経済的な理由だけで、田舎の兼業農家が耕作を放棄したらどうなるでしょう。田んぼの持つ水源涵養能力や、二次的自然(人の手によって整備された自然環境)による良好な生活環境は、たちまちのうちに損なわれてしまうでしょう。また、用排水路の機能低下などを始めとし、防災機能が損なわれる事も容易に想像がつきます。

 古来、我々日本人は自然環境を大切にし、そこに共生する形で生活空間を創設して来たのではないでしょうか。人の手を入れる事によって作り上げてきた里山や、棚田を始めとする二次的な自然空間を維持・整備して行くことによって、自然環境への負荷を最小限に抑え、そこに暮らす人同士の連帯や、意識の向上を図ってきたのではないかと思います。

 私が暮らしている所は、まだ、平坦な地形で区画的にも耕作しやすい土地が多いと思います。しかし、そのことが逆に農地の宅地化を促進し、年々混住化が進んでいます。それにより、生活廃水による農業用水の水質悪化や、農作業による生活環境への影響など、ギクシャクした地域感情を生むような問題もおきています。

 生産する側と消費する側が、混じりあって生活している状態でありながら、お互いを理解しあおうとする気持ちをもつことは、実際には難しいというのが現状のようです。「周りに迷惑がかかるから」という理由で水路を掃除し、ゴミを減らす事に努めて来た人達は、年々年老いてゆき数も減っていっています。また、建売住宅を購入してきた若い夫婦には、何故、休日に溝掃除などをしなくてはいけないのかが理解できないようです。

 私の子供の頃は、生活環境の維持保全のための費用を誰が負担するのか、というような堅苦しい議論の果てではなく、ごく自然な感情として(体の中から沸いてくるような)、水路をきれいにし雑草を刈る手伝いをしたように思います。「市場原理」
だけでは語れない日本人のアイデンティティやポリシーにより、田舎の生活環境は支えられて来たともいえるのではないでしょうか。

 田植えの終わった田んぼに、蛍が舞う夕景はとても美しいものでした。その水路は、今、コンクリートの三面張りになりました。それでも近頃は、小魚が遡上したりしています。私の孫の世代になったら、夜は蛍が飛び交うでしょう(そのように考える人が、増えていくことを期待した上で)。


2005年 5月 8日      市民(人民)の考える事と、上に立つ者の考える事



 
 ゴールデンウイーク、
「こんな時期に」という周囲からの冷たい視線のなか、かねてから決めていた桂林への旅行に行ってきました。やはり、一度は見ておきたいと考えていた通りの、素晴らしい景観に感動し満喫して帰ってきました。

 桂林は治安が良い所で、町を歩いても危険な印象を受ける事はありませんでした。また、心配していた反日デモなどは皆無で、そのような雰囲気(反日的な)さえ感じませんでした。ただ、中国も同じようにゴールデンウイークとなり、家族連れや団体旅行の客が、観光地にはひしめき合っていました。さらに、それぞれの集団(家族連れも含め)は、レジャー気分を謳歌している感じでした。

 その光景は活気に満ちていて、子供の頃はこんな感じだったなあ、と、高度成長期の日本を思い出したりもしました。それにしても、中国の人達はエネルギッシュで、バイタリティーに満ち溢れていて、訪れる度に圧倒されるようなところがあります。

 まったく、市場原理に基づき経済が回っている印象で、この国のどこが社会主義国といえるのだろう、などと考えたりもします。以前にも述べたことがありますが、「老麦客」などとして出稼ぎに行く人々の年収が1万円になるかどうかという中で、高級マンションや豪邸に住み、ベンツなどの高級車を乗り回す人達が、さらに富を得ようとしている社会です。

 本当に、経済だけが資本主義で、思想が社会主義などという状態で、広がって行く貧富の差から生じてくる国民の不満や、不公平感をおさえきれるのだろうか?などと、他人ごとながら心配する気持ちになったりします。そのような時、とにかく「悪者」を作り、それを攻撃する事で人民のストレスを解消する、と、いうようなやり方は、比較的に容易なやり方であるかもしれません。

 そんな意味で、日本を悪役としておくことは、政権を握り国を動かしている人達には、意味があることなのではないかと考えたりもします。少し、押さえる方向で当局が動けば、見る影も無く反日デモが収まる様子を見れば、一連の動きも、その背後にある大きな思惑を感じるのは、私ばかりではないと思います。

 それは、単に中国だけではなく韓国の、支持率の弱まっている盧武鉉政権などでも同様だと思います。歴史的認識や過去についての反省など、議論しなければならない問題はたくさんあると思いますが、まさにそれは議論すべき事であって、一方的に土下座をし続けなければならない事とは違うと思います。

 私は、国粋主義者でも右翼的な人間でもありません。しかし、反省すべき点は反省し、必要な謝罪や保障は行った上で(これも、色々な議論があると思いますが)、きちんと主張すべき点は主張するべきだと思うのです。そのような意味では、我が国の上に立つ人達(立ってきた人達)は、「とりあえず、自分の任期中の無事を考え、とにかく問題は先送りにしておけば良いのだ」を、繰り返してきた人が、多すぎたのではないでしょうか。

 日が暮れて、中国の地方都市を歩いてみれば良く解りますが、私が何人であるのかなどは、まったく意味がありません。必要なサービス(食べる事や飲む事を始めとしたすべての)に対して、必要な対価を支払うという、基本的な経済原則に基づいて人々は生活しています。人民(市民)の考えている事は、まったく我が国の人達と同じだと思うのです。

 彼らは、一生懸命に働き(手段は様々ですが)、人より豊かな生活がしたい、と考えているだけのように思います。ですから、相対して話し合えば、気持ちも通じ合いますし、理解しあえるはずだと思います。にもかかわらず、国家として対峙したときには、どうしてこうもギクシャクしてしまうのでしょうか。

 本当に必要なのは、市民(人民)の目線に立って物事を考えられる指導者やリーダーだと思います。話は変わりますが、BSE問題でも、和牛だけを食べ続けられる財力や権限を持った頭で考えるのではなく、安い牛肉しか食べられない市民の感覚で、そのことを考えて欲しいと思うのです。牛肉に限らず、輸入食品に関して言えばすべて同じような事がいえるでしょう。

 領土問題や今日の政治情勢を背景にして、「強いリーダーシップ」を持った指導者を求める声が高まったりしています。しかし、私はそのような流れや動きが恐ろしくてたまりません。外に敵を作り、内なる不満をぶつけていくやり方こそが、不幸な歴史を繰り返す元凶であると思うからです。

 市民(人民)の考える事がわかる、というよりは、市民と同じような気持ちで物事を考えられる人達が、それぞれの国の舵取りをするようになることを、願わずにはいられない気持ちでいっぱいです。

 

 

2005年 4月 28日           言葉が軽すぎるのでは



 
 
ゴールデンウイークを目前にした25日(月)に、尼崎で甚大な列車事故が発生し、90名を超える(現時点で)犠牲者を出し、多くの方々が負傷されました。事故にあわれた方々や、理不尽な犠牲者となられた方々に、心からお見舞いとおくやみを申し上げます。

 事故の、原因に関する詳細なことについては、現在調査中です。辛く、悲惨な体験を後に生かすために、徹底した原因の究明と、今後における事故防止への取り組みに注目したいと思います。


 さて今回は、私が、このようなHPを運営しながら、強く感じること(最近特に)を述べて見たいと思います。それは、「言葉」というものに対する思いや考え方のの違いについてです。当HPでは、技術士二次試験の合格を目指している人のために、論文の添削などを行っています。そのような場合、当然のように、電子メールによるやり取りが主体となります。

 しかし、この頃私は、電子メールとは一体いかなるものなのだろう、という疑問を抱くようになりました。「電子メール」その言葉の意味を直訳すれば、メール=手紙ということだと思います。それをやり取りする手段というか方法が、電子信号をを用いたインターネット空間であるというだけのことだと、これまで私は解釈していました。なるべく、送られてきたものを「レス」として使わないようにしようとするのも、「手紙」というイメージが強いためだと思います。

 ところが、そのような概念でこれをやり取りしているうちに、先ほどの疑念がどんどん大きくなって行くのを禁じえなくなってきたのです。おおよそ私は、「電子メール」という形態であっても、そこに表現したり表明する言葉に対しては、それなりの意思と責任を持つべきだと思いますし、そう考えて書いているつもりです(意図せぬ誤字・脱字などもありますが)。

 例えば、知己のあいだであれば相手の顔を思い浮かべながら、必要な用件の他に、こちらの心境に添えて、その人を慮る言葉を用いることができるように心がけています。また、志を持ち試験の合格を目指している人には、私自身の体験から得られたものが、技術者としての心の持ち方に、良い影響として伝わることを念願しながら書いているつもりです。

 しかしながら、最近送られてくる「添削希望」のメールの中には、受験の動機や詳しいプロフィールなども示さないままで、論文原稿の添付ファイルが、添付されただけのものが見うけられるようになってきました。またその割合は、だんだん増えて来たようにも思います。到着の確認(連絡)が無い事もしばしばです。

 受験指導などのページにおいては、「出来るだけ詳しいプロフィールなどと一緒にワードの添付ファイルで……」とご案内していると思います。そのように書いておりますが、実際には、まず受験の動機(何をもって技術士にふさわしいと思い、どのような志をもって技術士になりたいのか)を聴き、最終学歴から今日までの経歴について、なるべく詳しく知らなければ、本当に親身になった添削は出来ないと考えています。

 そのようなことは、立場を変えて自分以外の誰かのために、親身になって本当にその人の役に立つアドバイスをしたいと考えれば、容易に想像がつくように思うのですが、意外とそのように考える人が少ないのか、「礼を失した」添削依頼は増えるばかりです。

 私も、未熟で煩悩の多い人間ですから、たまに失礼をかえりみずに、注意を促す旨を送信したりすることがあります。そのような時、ほとんどの人は勘違いや意味の取り違えに気づき、また、自身の非を反省していただけるのですが、そうでないような人もあります(慇懃に丁寧ではあっても、ただ儀礼的で取り繕うような文章で、熱い想いや志が感じられないメールが届いたりします)。

 私は、美辞麗句をならべてへりくだった表現で、労をねぎらって欲しいと考えているわけではありません。儀礼的で、もったいぶった関係を求めているのでもありません。自分自身の体験から、受験に際しての苦労を踏まえ、技術者としての心のありようの大切さと、志を持った人(持てる可能性のある人)のために、少しでも役に立ちたいと考えているだけです。

 実際、机の上に紙を置き、筆記用具を手にして辞書など引きながら文章を書く動作に比べ、キーボードをたたく作業は、早くて簡単な行為です。しかし、それによって生み出される言葉の使われようは、その重さという意味において、まったく違うように思います。特に最近は、そう感じることが多い気がします。

 言葉は言霊であり、いったん口から出れば、取り返しのつかないものでもあります。今日、過激な表現や気をてらった文章がもてはやされる傾向がありますが、私は、なじむ事ができませんし、違和感を覚えることが増えました。

 自分自身への反省もこめて、言葉の大切さを考えてみたつもりですが、思うように気持ちを表現できませんでした。このような文章を書きながら、自分の「伝える力」の弱さを痛感している次第です。

 

2005年 4月 17日           桜の花に想うこと



 
 
遅れて咲いた花の美しさに見とれ、幽玄な夜桜の酒に酔い、その散り行く姿を惜しんでいるうちに、春が過ぎて行こうとしています。

 実際、桜ほど日本人に愛されている花は、他にはないように思います。それでも、その花の咲く期間は、長くても2週間といったところで、本当に短い命です。満開の状態から、春の風にあおられてあっけなく散って行く姿は、あまりに潔すぎて、切なささえ感じさせます。

 そのようなところが、多くの日本人が持っている感性と情緒間に、支持されているのかもわかりませんね。しかし今日、私たちが最も好んで「お花見」にいく対象であるソメイヨシノは、江戸末期頃にオオシマザクラとエドヒガンザクラを交配させて(偶然に自然交配して出来たとも)出来たものだそうです。発祥の地が、駒込染井であった事からその名がつけられたともいわれています。

 また、果実をつけないこの桜は、種子を残す事はほとんどありません。それなのに何故、あれほど狂おしいまでに美しく咲くのでしょうか。逆に、実を結ばない花だからこそ、花としての美しさを求めているようにも思えてきます。私は、そこのところにこの桜が、我々人間の心を捉えて離さない理由があるようにも考えたりします。

 桜の花の下には死体が埋まっている。という行が「桜の木の下で」という渡辺淳一氏の小説に出てきます。もともとは、梶井基次郎の書いた文章からの引用のようですが、爛漫と咲き乱れる夜桜の海を眺めながら、実感に近いイメージを浮かべることも度々あります。余談ですが、「化粧」など渡辺氏の小説に出てくる桜のイメージは、谷崎が細雪などで描いている桜の情景に、大きく影響を受けているような気もします。

 少し大げさな言い方をすれば、私は、一年のうちわずか十日あまりの、桜が創る幻の世界を見るために、ここに住んでいるようなものだと言いたい気持ちです。それほど、鶴山(津山城址)の桜は、私の心をとらえて離さない魅力を持っているといえるでしょう。写真では、実際の素晴らしさは上手く伝わらないと思いますので、トピックスのページなどに紹介するようなことは、しないつもりですが。

 また、この山(鶴山)の良さは、石垣の階層にあわせて立体的に桜が見られるところにあるのだと思います。植えられている数などから言えば、他にもたくさんの桜の名所があるでしょう。しかし、見事に積み上げられた石垣により構成される各段に、バランス良く植えられた桜は、あらゆる角度から楽しむことが出来ます。中でも、私が最も好きな景色は、本丸あとである最上段から見下ろすものです。幻想的な桜の海に、雪洞の灯りが浮かび上がって、何ともいえない眺めです。

 ところで、以前にもお話したと思いますが、今では、約五千本といわれる鶴山の桜も、最初は1人の「あほうの沙汰」を実践された方の労苦によるところが大きいようです。県から払い下げられた当時、イバラや雑草に覆われ「荒城の月」を思わせる状態であった鶴山を、公園とするために選ばれた委員の中に、後に市議会議長となられた方(確か福井さんといわれたような気がします)がその人です。

 周囲の謗りや揶揄などに耳をかさず、ほとんど私費を投じながら浄財を集めつつ、桜の植樹を続けられたという話です。そのおかげで、今日私たちは幽玄な夜桜を楽しむことが出来ますし、単に、観光資源としても相当な経済効果をあげていると思います。今の自分のためでなく、将来の子孫のために何かをしたり、また、しようとしている人が本当に少なくなったと思います。

 現在の私たちは、有名無名に係わらず、子孫のため(次世代の日本人のため)に行動された先人達の、「貯え」を食いつぶしながら生きているように思えてならないのです。そのことに対する危機感が、自分を棚に上げてでも、このHPを続けている理由の一つでもあります。

 四月生まれのせいか、私は、桜に縁があるように思いますし、心を惹かれてしまいます。小学校1年生の時、、初めて写生大会で特選なる賞状を貰ったのも、作楽神社の春の大祭の時だったと思います(以来、絵に関しての賞は無し、根気良く画用紙に向かっていた記憶があるのはこの時だけ)。さらに、入学・卒業やそれに伴う淡いエピソードも、桜の景色と共ににいくつか残しています。

 また私は、鶴山を始めとして、今月下旬の新庄村の凱旋桜まで、あちこちの桜を眺めても歩きます。そのような時いつも、先人へ感謝する気持ちを覚えるのです。この花(特にソメイヨシノ)は、人が人に見せるために育んで来なければ、咲き得ない花だからです。満開の桜の美しさ・素晴らしさを、あとに続く人にも教えたい、そんな先人の想いを感じるからです。


2005年 4月 7日           自分を棚に上げてでも



 

 
ようやく、春らしい陽射しを感じるようになって来ました。遅れていた桜の花も咲き始め、夜桜を眺めに行くための理由を探す日々を過ごすんだなあと、他人事のように考えたりしています。

 ところで、何故私がこのようなHPを立ち上げ、技術士受験を志す人の論文添削などをしているのかについては、トップページにある立ち上げの理由で述べています。また、受験指導のための各ページにも、思う所を述べていますのでお分かりいただけると思います。さらに、回数を重ねているコラム欄を、最初から通してお読みいただければ、単に、試験の合格を支援する目的のHPではないことも理解していただけると思います。

 どちらかというと、このコラム欄を書きたいのでHPを更新しているといった方が良いのかもしれません。それでも、自分を棚に上げた、独りよがりの文章をならべているのではと反省したり、売名行為と思われはしないかなどと、衆目を気にしたりしながら書いていることに違いはありません。

 しかし、「たたけば埃のでるような」そんな自分を棚にあげてでも、私には、これを書き続けたいと思う気持ちが、次第に深まって来たように思います。それは、このHPを立ち上げた3年前よりもさらに、この国の現状と技術者(特に建設部門の)を取り巻く環境について、強く危機感を覚えるようになって来たからです。

 今我が国では、資本主義の原則なのかもしれませんが、弱肉強食の経済至上主義が進み、ルールの巧みな解釈とマネーゲームに長けた「下積み」を知らない人間たちによるドライな競争が、一層過激なものとなりつつあります。勝ち組・負け組みなどという言葉が頻繁に使われ、金儲けに成功した人のポジティブな考え方を綴った本などが、良く売れているようです。

 その一方で、とりあえず親に甘え(親が庇い)我慢や辛抱から逃げる若者が増え続けています。衣食住の心配の無い部屋で、バーチャルなゲームに没頭し、人間同士のコミュニケーションを避ける(出来ない)人も増えています。子供の頃から他人の体温を感じ、目の動きを捉えながら会話したり触れ合ったりする機会を、数多く持たないで育つわけですから無理もないことです。

 そんな中で、私が自身の体験を通して感じてきたこと、虚業でなく実業に携わる素晴らしさ、つまり、世の中の役に立つものを生産していくことにより得られる充実感と、そのことによる精神的な醸成などについて、まずは、建設部門に携わる技術者を対象の始まりとして、語り続けることに意義があるのではないかと思うようになって来たのです。

 そのように過ごしている中で、私が師と仰ぐ大先輩の技術士の方とも、お近づきにさせていただきました。また、私の座右の書とも言える「大河の一滴」(五木寛之著)にも出会うことが出来ました。こちらも、大先輩の他町内の会長(一級建築士でありながら僧籍を持つ人)をされている方から、歎異抄についてのお話のやり取りの中で紹介されたものでした。

 その、大河の一滴の中で五木さんは最近の世の中を、自分を棚に上げてでも、今、何かを言わずにはいられない気持ちにさせられる程、ショッキングな出来事や信じられない出来事がおこり、激しい変化をみせていると述べています。

 もちろん、私が自分を棚に上げて何かを述べることと、大作家である五木寛之氏がそのように謙遜されることでは次元が違う事です。しかし私は、数多くの名著を発表され、輝かしい経歴をもつ有名作家でさえ、「自分を棚に上げる」という謙虚な感覚をもたれており、また、そのように考えなければ「人は何かを発言することはできないのかもしれない」と考えられていることを知り、大きく勇気付けられる気持ちになりました。

 そういえば、愛の作家渡辺淳一氏は「作家は精神の露出症である」と語られていましたし、五木寛之氏も「厚顔無恥は生まれながらの性である、と覚悟するほうが正直なのではないか」と大河の一滴の中で述べられています。考えてみると、学芸会(表現が古いかも)や運動会となると、目立ちたがるタイプの子供であったなあ、と、自分を振りかえって見たりしています。

 ともあれ、未熟な自分を棚に上げてでも何かを伝えなければ、と、思うような世の中には違いないと思います。まさに末法の世というか……


2005年 3月 27日           愚直の一念



 
 
 選抜高校野球が始まりましたね。いよいよ、春の訪れといいたいところですが、ぐずついた日や寒い日が続いています。甲子園のコンディションも今ひとつで、選手には、気の毒な場面もあります。明るい春の日差しのなかで、思い切りプレーをさせてあげたいと願うのは、私ばかりではないと思います。

 さて、前回のコラムの中で、「器用な子は、名人にはなれない」という小川三夫さんの言葉を紹介しました。同じような話で、以前、私が読んだ渡辺淳一氏の著述のなかにあったお話をしてみたいと思います。有名な話ですから、既にご存知の方もたくさんおられるかもしれませんが、簡単に述べてみたいと思います。それは、「愚直の一念」という話で、元東大内科教授の呉建医師にまつわるものです。内容は次のようなお話です。

 内科が中心であった大正時代の初期、多くの優秀な学生が内科に入局しており、その中に若い頃の呉医師の姿もあった。しかし、さほど頭が切れるわけでもなく、卒業成績もあまり良いほうでなかった彼は、目立たない存在であった。ここでは、数年経つと各自が、教授からそれぞれにテーマをもらい、研究に打ち込んで行く仕組みであった。

 しかし、1講座に60名もの医師がいた内科にあって、目立たない存在であった呉医師には、いつまでたっても教授からのお呼びはかからず、研究テーマを与えられることは無かった。自分がどういう存在か良く分かっていた呉医師ではあったが、意を決して絶対的存在である教授のもとへ、テーマを与えてもらえるよう直に頼みに行った。

 教授はしばらく考えた後、「ヘルツ」と一言だけ言い、呉医師は「ありがとうございました」と深々と頭を下げた。「ヘルツ」とはドイツ語で心臓のことである。しかし当時、心臓の研究は難解で迷路と呼ばれていた。どんなに優秀な医師でも、心臓だけは避けていたぐらいで、教授の真意も図りかねるものがあった。さらに、具体的な指示なども一切なかった。

 かといって、絶対的な権力者である教授からもらったテーマを返すわけにもいかない。呉医師は、たった一人でコツコツと心臓の研究を始めた。しかしながら、やはりこれは一筋縄ではいかない分野であった。やればやるほど泥沼にはまり、突き詰めれば突き詰める程わからなくなった。周りの仲間は、次々と論文を発表し学位をとっていき、呉医師は先輩・同期ばかりか後輩にも追い抜かれていった。

 それでも、呉医師はコツコツと研究をつづけた。忠告してくれる人の意見も受け流し、呆れた視線や冷たい揶揄などにも絶えながら、彼は必死で研究し続けたのである。そして10年後、とうとう呉医師は、心臓から自律神経のメカニズムを発見・解明する。「自律神経」の意義を初めて世に認識させるという、輝かしい業績をあげたのである。その後、彼は東大の内科教授になり、数々の賞を受賞し栄光の道をたどる事になる。

 だいたい、このようなお話だったとも思います。呉医師が頼みに訪れたとき、どのような気持ちで教授が「ヘルツ」と言ったか分かりませんが、おそらくは、期待をかけて与えたテーマではなかったのではないでしょうか。「しかたないなあ~」という感じで、「まあ、やってみなさい」という程度の気持ちだったのではないかと思います。それでも、あきらめずに10年以上も研究を続けられた呉医師の粘りに敬服するばかりです。

 私は、「器用な子は名人にはなれない」という小川さんの言葉に接したとき、この呉医師の「愚直の一念」を思い出したのです。もちろん、大正時代に医師となり、花形である内科の医局に入られるような人が、「愚直」な人といえるのかということもありますが、この場合の「愚直」の意味は別のところにあると思います。

 そこには、「ただひたすら、真実を知ろうとして努力し続ける心」というような意味が込められていると思うのです。要点を要領よく把握し、事実を理解するだけでなく、その奥にある「真実」を知ろうとする姿勢こそが、地道な研究に花を咲かせたのではないかと思います。昨年、亡くなられた水上勉さんは、名作「飢餓海峡」の中で、あくまでも白を切ろうとする犯人に対し、長い年月をかけて積み上げた状況証拠と、被害者の清らかな人間性を突きつけ「起こった事実ではなく、真実を知りたいのです」と老刑事に詰め寄らせています。

 すぐには結果が出ないかもしれない、それでも目標を持ち続けて、それに向かって努力していく「静かなる闘志」とでもいうのでしょうか、そのような「愚直の一念」を持つことが出来たらなあ、と、思いつつ日々の雑用に追われ、目先の誘惑に負けている、そんな自分にため息をついているところです。


2005年 3月 17日         マネーゲームより職人の技



 

 
 お彼岸が近づいておりますが、去年と比べて寒い3月ですね。この分では、私が心待ちにしている桜の開花もどうなることやら。まさに、春は名のみといったところです。

 さて、このところ話題の中心になっているのは、フジテレビ対ライブドアのニッポン放送株をめぐる戦いだと思います。他のテレビ局から見れば、面白く格好のネタのようです。ルール的には、ライブドアが有利である。しかし、そのやり方は必ずしもフェアーとはいえず、情緒的にはフジテレビ側の主張も理解できる。と、いうような感じが大方の世論なのでしょうか。

 クラウンジュエルとか焦土作戦とか、耳慣れない言葉が飛び交っていますが、私には難しい事は良く分かりません(法的な仕組みなどを含めて)。それでも気になるのは、どちらが支配するのかと言う話が、かまびすしく語られる割には、どちらの方が、より世の中の役に立つのだろう、という議論を聞いた記憶がないことです。

 経済評論家といわれる人々などは、M&Aなどについて先進国アメリカでは……などと、二言目には欧米式の経済システムにおける優れた点を引き合いに出します。しかし、欧米式の弱肉強食の経済理論だけで良いのでしょうか。また、その欧米式の経済理論の根幹には、「社会貢献するためにお金を稼ぐ」思想があることも忘れてはなりません。

 アメリカ社会では、富を得たものは必ず、社会に貢献するためにその一部を使わなければならない。言い換えると、社会に貢献するために金持ちになろうと努力するのだ、と、いうことを聞いた事があります。また、まず家庭で教えられる事は「良く勉強し、世の中の役にたて」ということだとも聞きました。

 都合の良い部分だけを抜き出して、アメリカでは……とか先進国では……と述べることは簡単です。しかし、法律の条文やそれに対する解釈をめぐった争いばかりが横行し、本来、日本人が持っていた高い倫理観や道徳心などが、どこかに押しやられた結果が、今日の治安の悪化や、犯罪検挙率の低下を招いているのではないでしょうか。

 もちろん、想定してない事例への対応や、不備であった法律などは整備していく必要があります。それでも、それを動かしていくのはいつの時代も人間です。そこのところを考えない議論は、不毛なだけだと私は思います。今日、ニートと呼ばれる働かない若者が増えています。「やりたいことが見つからない」などといい、フリーターを続ける若者も多いと聞きます。

 「やりたいこと」とは何でしょうか?格好良くて給料が高くて楽な仕事なのでしょうか?そんなものは、一生探しても見つからないのではないかと思います。誰かのせいにしたり、逃れるための言い訳を探して、転職を繰り返すフリーター達を取り上げたテレビ番組を見ました。

 そのような若者たちが増える一方で、偏差値の高い学生が、在学中から起業をして行くサクセスストーリー(どこかで聞いたような話ですが)がもてはやされています。アメリカでは、子供の頃から株や相場などの商取引を教え、要領よく稼ぐ事の素晴らしさを教えるそうです。「かしこい」人間が「正当なルールのもとに」富を築いていく。そういうことなのかもしれませんが、何となく私にはなじめないのです。

 結果的に、貧富の差が助長されて行く中で、どんなに金を積まれても、自分が納得しない仕事は決してやらない、そんな、落語に出てくるような職人が生きて行けなくなろうとしているこの国が、本当に良い方向へ進んでいるといえるのでしょうか?手の先に千分の一ミリの感覚を鍛えた旋盤工は、町工場から消えてしまおうとしています。

 その手先の感覚は、目や耳から得られる知識からだけでは醸成されません。何度も同じことを繰り返し、体で覚えた感覚を蓄積して育まれたものに他なりません。そして、何よりもその魂は師匠から弟子へまたは先輩から後輩へと、仕事に取り組む姿を通してつながって行くものだと思います。

 あの、西岡棟梁の弟子で宮大工の名工といわれる小川三夫さんは、「器用な子は、本当の名人にはなれない」と語られています。逆に「手先の器用さは修行の邪魔である」とまで言及し、時間がかかっても本当のことを理解しようとする姿勢が大切であると話しています。

 まさに、田中さんのノーベル賞なども、もそのような地道な研究から生み出された成果であると思います。話はそれますが、私の好きな坂本竜馬を始めとして、大器は晩成の人が多いようにも思います。また、多少論点がぼけたかも分かりませんが、虚業でなく実業(世の中の役に立つものを提供し、それに見合う対価を得る仕事)
を志す若者が増えて行く社会こそ、この国が目指すべき方向ではないか、と、私は考えています。

 そのうち、「昭和生まれの頑固じじい」といわれるようになっても、思うところは語り続けたいものだとも考えています。


2005年 3月 7日        曽我兄弟あだ討ち物語



 
 
 三寒四温といいながら、寒い日ばかりのようにも感じられます。それでも、カレンダーの日付は確実に進んでおり、気がつけば3月を迎えました。今年も、勝山町(もうすぐ真庭市になりますが)のひな祭りを見てきました。これが、中々趣がありまして、年々工夫がされていくようにも思います。

 さて今回は、私の学歴などについて述べてみたいと思います。私は、高卒(工業高校)です。専門学校にも行っておりません。また、折に触れて述べておりますが、その高校時代も勉強などはほとんどしなかったように思います。部活を3年間続けていたのが不思議な位、サボったり悪いことばかり(具体的な記述は避けますが)して過ごしていたように思います。

 時代は、あの伏見工業が初優勝するスクールウォーズの頃と同じ頃でした。当時の我が母校も、ドラマとあまり変わらないような雰囲気だったと思います。ただ、荒れていた学校であっても、人情味のある先生も多く、部活さえしっかりやっておれば大抵のことは大目に見てくれていたのだとは思います。今であれば早めに「不良品」のレッテルを貼られスポイルされてしまうところだったのかもしれません。

 ですから、当時の同級生などがこのHPを見ると、大きく違和感を覚えるかもしれません。また、あの真面目な生活とは無縁だった私が、技術士などになったことが信じられない、というような話も耳にしたことがあります。もっともな話だと思います。

 それでも私は、私にとっての大学・大学院時代とも呼べる地方ゼネコン時代には、我ながら良く勉強したと思います(実戦に根ざした技術を)。振り返ってみますと、それを支えてくれたのは、中学生までの基本的な学力と、読んだ本の厚みではないかと思います(手前味噌でいうほど、大したものではありませんが)。

 その基本となったのは、小学校一年生のクリスマスの時にサンタクロースがくれた一冊の本だったと思います。曽我兄弟のあだ討ち物語という名のその本は、私がサンタクロースにお願いしていたおもちゃとは、かけ離れたプレゼントでした。父にたてつけない私は、大いに母に対して不平を言ったように記憶しております。

 それでも、小学一年生には難しいその本をしぶしぶ読んでおりますと、十郎・五郎の兄弟愛と苦難を乗り越えてあだ討ちを成し遂げていく話に、どんどん引き込まれていくのでした。それからの私は、本が好きになり、小学校の図書室にも良く足を運びました。ファーブルの昆虫記やシートンの動物記、ベーブルースを始めとした伝記、早川書房のSF、タイタニック号が初めてSOSを発信した話……色々なものを読んだと思います。

 さらに、中学になる頃には背伸びしてカミュやカフカなどの難しい本も読んでいたと思います(難しければ良かったのだと思います)。思春期を迎え、それまで「良い子」だった私は、難解な本を読み、反抗するための屁理屈の種を探していたのだと思います。団塊の世代の説くイデオロギー論を真似し、ブルジョアジーだのプロレタリアートなどと語っていたようにも思います。

 父の期待通りの「良い子」からの反動は大きく、中三の頃には、先生を相手に屁理屈をこねたりもしていました。「中学生らしくしなさい」と言われると、中学生らしさを定義づけてくれなどと嘯いていたのです。今から思えば顔が赤くなるようなお話でして、男らしさや女らしさ、まして学生らしさなどは、私の好きな言葉となっています。

 少し、話がわき道にそれてしまいましたが、あの時(小学校一年のクリスマス)父が曽我兄弟の本を買ってくれなかったら、社会に出て自ら勉強しようと考えた時に、開いた本や資料を楽に読みこなせる力はつかなかったのではないかと思います。漢字や語句の意味から調べていたのでは、到底勉強もはかどらず、途中で投げ出していた事でしょう。

 厳しい父に反発し、高校生の頃は家に帰らないような日もありました(良い子であった分だけ、箍が外れた反動が大きかったのだと思いますが)。厳しい躾を恨んだりもしましたが、他界した今では父に感謝しております。そういえば、貧しくても勉強の道具だけは人より良いものを買ってくれたなあ、と、思い出したりもしています。


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